咲-Saki- 千里山編〝To the same heights.〟 作:天野斎
オリジナルのキャラクターが登場します。
これから、度々登場してくるキャラクターなので、原作の登場人物たちとの絡みの中でも、遜色ないように個性を表現していきたいと思います。
人気のない校舎の中、今時珍しい木造の廊下を右往左往しながら歩き続けること、十五分あまり。ようやく目的の場所にたどり着いた。いまだに出る吐息は白いままだが、これだけ歩けば自然と体も温まってくるらしい。息を吐いてから視点を頭上に向ける。
――「職員室」。ドアの淵に針金によって吊り下げられた古めかしい木板には、確かにそう書かれている。学生である限り誰もが踏み込み難く、あまりお呼ばれしたくはない場所ではなかろうか。
全く持って気が進まない。が、別に何か後ろめたいことがある訳ではないのだ。ここまで来て何もせず帰るという選択肢もない。
(まあ、さっさと済ませよう……)
一つのため息とともに、優れない心情は心の隅に追いやり、気持ちを切り替える。
重たい木製の引き戸に手を掛け、礼というよりは、例に倣った決まり文句とともに入室する。
「失礼します」
一歩部屋の中に立ち入ると、少し鼻につくストーブの匂いと、暖かな空気が瞬時に全身を包み込む。窓際に設置された錆びかけの古めかしいストーブが、轟々と音を立てている。
ふとしてその温かさに浸っていたくなるが、そう思うのも束の間、思いの外室内の気温は高く、空気も淀んでいるようだ。一時そう思ってしまうと初めに感じられた温もりも、この空間の居心地の悪さに拍車をかけてしまうだけだ。やはり、さっさと用を済ませて退室してしまいたい。
目先をストーブから部屋全体へと移すと、十人にも満たない教師たちが、各自割り当てられたデスクで職務に励んでいるようだった。冬休み期間中だと聞いていたが、職務熱心なことである。
その光景を眺めていると、不意にその内半数近くの教師が訝しげにこちらを眺めていることに気がつく。どこかおかしな所があるのかと自分の服装を見下ろしてみるが、何てことはない。見慣れない他校の制服を着ている自分が珍しいのだ。
ならば、と思い自分から事の次第を示唆する。
「東城高校からの転入手続きに来ました。五十鈴先生はいらっしゃいますか」
直接的に用件を伝えると、窓際最奥、半ば書類の山に埋もれながらデスクワークに耽っていた教師の一人が手を挙げて合図してくる。
「ああ、藤見君ね。わたしが五十鈴よ。こっちに来てくれるかしら」
挙げた手をそのままにこまねいてくる。どうやら彼女が今朝電話で呼び出した張本人、五十鈴女史らしい。
歳はおよそ二十代半ばといったところか。黒髪のロングを後ろで束ねポニーテールにしている。細身のグレーのスーツをきっちり着こなしている姿は、どこぞの社長秘書のように様になっていたが、丸みを帯びたいたずらっぽい目が、彼女を柔らかく、愛嬌のある性質に変えていた。
他の教師たちの机の合間を縫うように、窓際の五十鈴女史の元へたどり着く。
「おはよう――」
高くはないが不思議とよく通る声をしている。電話で話しときより快活な印象を受ける。
「急な連絡で来てもらって申し訳ないわね。寒い中ご苦労様。電話でも話したけど改めて、私が五十鈴遠子よ。クラス担任は文系二年一組。麻雀部の顧問をしているわ」
開口一番に挨拶も兼ねた自己紹介を一息に捲し立てられる。が、持ち前の声質のおかげか彼女のしゃべった内容が自然と耳に残っている。彼女が教えている授業の生徒は、多少なりとも成績が良くなりそうだ。
しかし、五十鈴女史の言葉の中に一際興味を引く一節があった。
――千里山高校麻雀部。一昨年までは女子高であった千里山だが、その女子麻雀部の名声は全国区にまで轟いている。
(この人が、あの千里山麻雀部の顧問……)
今こうして話している限りでは、まだ若手の一女教師にしか見えない。だが、全国屈指の千里山の指導の一部を任されているとあれば、その実力と指導力は折り紙つきだろう。
「東城高校から来ました、藤見弥彦です。よろしくお願いします」
言いながら頭を下げる。我ながらひねりのない挨拶だと思う。わずかな自己嫌悪を抱きつつ頭を上げると、五十鈴女史が先ほどまでの快活な印象とは違う、冷静な目で興味深そうにこちらを見ていた。若干口元が笑っているように見えたのは気のせいだろうか。
しかし、その異様に冷たい雰囲気も一瞬、すぐさま元の調子を取り戻して続ける。
「よろしくね。今日呼び立てたのは、この間来たときに提出してもらった書類に記入漏れがあったみたいなの。だからその訂正。まあ小さいミスだから急ぎでもなかったんだけど、わたし明日からちょっと忙しくなるから」
彼女の視線が、デスクの一角に山積みにされた書類に泳がされる。
――「冬期合宿計画」。
確かに、長期休みはどんな部活動においても貴重な練習時間に違いない。全国区の活躍を見せる強豪校ならなおさらであろう。顧問ともなれば合宿所の手配など、実質的な指導以外の事務的な雑事も多いのかもしれない。大変そうだ。
安いねぎらいの言葉を返すと、五十鈴女史は口の端を引き攣らせるように苦笑を浮かべ、その世辞を受け取った。
その後、訂正箇所の説明を受け、作業に取り掛かりはしたものの、ほんの十分程度でそれは済んでしまった。校内をさまよっていた時間を考えれば、若干の手持ち無沙汰ではある。まあ、それは明らかに自分の落ち度であるため早々に思い直す。考えてみれば、この居心地の悪い空間から早急に立ち去れるのであれば、それは願ったり叶ったりである。
物憂げな心象を払拭して、五十鈴女史に件の書類を再度提出。帰宅の旨を伝えると、
「うん、問題ないわね。ご苦労様」
了承も得られたようで何よりだ。それじゃあ――と、軽い会釈とともに踵を返そうとしたところで、彼女は徐に切り出してきた。
「――ところで、藤見君。あなた、前の学校では麻雀を打っていたのね」
先ほど見せた、冷静さに好奇心を宿した目で見つめられる。
(……は?)
あまりに唐突な話の転換に一瞬頭が真っ白になる。いや、質問の意味は分かる。麻雀を打っていたのか。答えはイエスだ。麻雀がメジャーに普及した昨今、それは珍しくもなんともない。しかし、質問の意図が見えない。
そもそも、先ほど提出した書類、そこに記載された「所属部活動活動記録」なる資料に、おれは帰宅部としか記載していない。何故彼女がそんなことを知っているのだろうか。
自分が答えに窮していると感じたのか、五十鈴女史は足りない言葉を補うように再度問い掛けてくる。
「あらあら、少しいきなり過ぎたかしら。ごめんなさい。実は、あなたが元の高校で麻雀部に所属して、夏の地区大会に出場していたという話を人伝に聞いていたの。だから、少し気になってね。どうかしら?」
なるほど。人伝に聞いた――、という言葉に少なくない引っ掛かりを感じるが、おおむね彼女の言った通りだ。だが、うちの麻雀部は弱小校もいいところ、部員も男子四人しかいなくて、本来であれば団体戦出場も叶わなかったはずだ。
一つだけ決定的に異なるのは、自分が正式な部員ではなかったということか。麻雀部に所属していた幼馴染の泣き寝入りにあい、悪の権化と名高い顧問に遠回しな脅しをかけられたことによる、自慢しようのない不適な動機ではあったが。
しかし、その年は部員たちの奮起もあり、初の地区大会決勝進出というドラマもあった。家族以外で麻雀を打ったのは子供のころ以来だったが、おれも最後まで楽しくやれたと思う。
と、五十鈴女史の言葉にある種の懐かしさを覚えているうちに、変な間ができてしまった。
「えっと、正確にはおれは部員ではなかったんですけど、確かに去年の大会には団体戦で出場しました。よく御存じで」
すると、彼女はいたずらっぽく口の端を吊り上げて、
「これでも顔は広いのよ。大会の牌譜も見せてもらったけど、中々面白かったわ」
確かに千里山の顧問ともなれば、多岐に渡る広いつながりを持っていることも想像に難しくはない。しかし、地方大会、それも団体戦四位の高校個々人の牌譜までチェックしているというのはどういうことだ。さすがは全国屈指の強豪校、の一言で片づけてしまえることだろうか。
話の先行きが見えず、要領を得ない。正直、早々に話しを切り上げて帰りたいのだが。
「でも、とても半年であれほど打てるようになるとは思えないのよね。それ以前から麻雀の経験はあったのかしら」
(半年?……)
再び彼女からこぼれた言葉に引っ掛かりを覚える。
昨年の夏の地区大会の半年前、今からおよそ一年前は、おれが麻雀部の練習に参加し始めたころに重なる。
(なんでそんなことまで知ってるんだ……)
おれが練習に参加し出したのも初めはただの気まぐれだったはずだ。調べてどうこうなるようなものじゃない。自分の記憶ですらあいまいなのに。それこそ、いつも部室にいた麻雀部の奴らくらいしか……、
――あ。
いやな汗がつっと背を撫でた。
――ひとり、いた。それを知っている、いつも文句を言いながらも麻雀部員の指導に余念なく努めていた、もとい、志熱き部員たちを喜々として、麻雀でただひたすらにボコボコにしていた人物。
彼女のお知り合いだというのなら、いろいろ合点がいく。いってしまう。残念なことに。
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
「子どもの頃に町の麻雀クラブに通ってましたけど、一年も続けてませんし。それからはたまに家族の中で打っていた程度です」
当たり障りのない事実を伝えただけなのだが、どこか示唆する点があっただろうか。少しの間目を伏せて思案していたかと思うと、
「その子どもの頃に入ってた、麻雀クラブだっけ。ぶしつけだとは思うけど、やめてしまった理由を訊いても構わないかしら」
本当にぶしつけだ。あのころ通っていた麻雀クラブをやめてしまった理由。確かにそんなものもあったような気がする。だが教師とはいえ、初対面の人にそれを話す義理もなければ、今さらその必要性も感じない。
さて――、
「これといった理由は特に。住んでいた家からは子供の足でも距離があったので、自然と離れていったのかもしれません」
誤魔化すことにした。
「……そう」
いまいち納得していないようではあったが、こちらの心境を多少なりとも察しているのか、それ以上は追及してこなかった。
「変なこと訊いてごめんなさいね。それじゃあ、今日のところはこれでおしまいかしら。お疲れ様。もう帰っても構わないわ」
終始、こちらの要領を得ないまま、彼女のペースで話しは終わりのようだ。今日のところは――、という一節が気に留まるが、まあ、転入に関する話として受け取っておこう。帰っていいと言うなら喜んで。
――失礼します。と、挨拶を残してから今度こそ踵を返して出入口へと歩を進める。その道すがら、初めは興味津々といった体でこちらを眺めていた他の教師たちも、今では各々の仕事に没頭しているようだった。
最後に出口の前で振り返ると、こちらを見ていた五十鈴女史と目がった。お疲れ様、というように手を振ってくる。彼女の表情はこの短い間に元の快活な笑顔に戻っていた。
「失礼しました」
来たときと同じ、例に倣った挨拶を返してから木製の引き戸に手を掛ける。
その瞬間、それは力を込める前に、立てつけの悪さを感じさせる重い音を響かせながら、ひとりでに開いた。
その先にいたのは、ここ千里山高校の制服に身を包んだ女子生徒。女子にしてはいくらか高めの身長と、気の強さを内包した瞳、腰まで伸ばされた艶やかな黒髪が印象的に映えていた。
いきなり戸が開くとは思わず呆けてしまっていたが、いつまでも出入口に突っ立っていては邪魔になってしまうか。一歩下がって女子生徒に入室を促す。彼女の方も、戸を開けた先に他校の制服を着た男子生徒がいたことに多少なりとも面くらっていた様子だったが、こちらの意図を察して軽い会釈とともに入室してくる。
「失礼します。五十鈴先生、愛宕監督が呼んでますんで一緒に来てください」
はーい、と先ほどからすでに聴き慣れた声が背中に届く。監督、ということはこの女子生徒は麻雀部の部員だろうか。
麻雀部――。先ほどの歓迎すべくもない問答が思い起こされる。再び五十鈴女史に絡まれるのはさすがに願い下げだ。すでに挨拶も済んでいる。
そう思い立ち女子生徒の横を通り抜け、おれはようやく職員室を後にする。
後ろ手に重たい木製の戸を閉めると、廊下のひんやりとした空気と人気のない校舎の静けさが戻ってくる。
今はそれが少しだけ心地良い。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。