もはや原形を留めていないディストピアだった地上に、突如発生した歪み。たった1つの歪みではあるが、その大きさが問題だった。人間を超える巨体を持つ巨人。そんな奴らが軽く10体は同時に出入りが可能となりそうな、巨大な歪み。
そこから最初に現れたのは、どこか憤りを感じる表情をしたゼアノス。
狭間の宮殿にて異質な歪みに呑み込まれた彼は、約300年振りにこの地に降り立った。だがそこにはかつての居城はなく、話に聞いて知ってはいたが、初めて見たその光景に声が出せていない。
そしてゼノアスに続いて歪みから出てくる無数の魔族と、この中で唯一の人間。金色の髪と膨大な魔力を持つ女性だ。
ゼアノスがディストピアに来る前にとある地方へ行った際に出会い、本人の強い望みにより連れて来たのだ。
「ゼアノス様、私はどうすれば……?」
「とりあえず、拠点の一つであるヴィーンゴールヴ宮殿に送っておく。ブランシェの報告によれば此処の真上にあるらしいが……」
女性の言葉にそう返して上空を見上げるが、雲があるだけで他の物体は全く見えない。
「間違えて何もない場所に歪みを展開させて、運悪く墜落死させちまうかもしれない可能性もある。ブランシェに運んでもらってくれ。あと、様付けする必要はないぞ?」
「いいえ。彼女は彼女、私は私ですから。……ですが、本当にありがとうございます。私のあんな我が儘を聞いて下さったこと、感謝いたします」
「頑固だな……だが先に言った通り、手伝うだけだ。過剰な介入はしない。俺としては止めるのが正しいんだから、応援は一切しないぞ?」
「はい、理解しております。ですが、そうであっても私は……」
血が出るほどに拳を握りしめたその人間とゼアノスは、一つの契約をしていた。それは古の契約に反してしまう可能性がある契約だ。だがその新しい契約を言いに来たのが彼女だからこそ、ゼアノスは応じた。
「復讐、か。だがそれなら、今は力を付けろ。幸いにも向かう先は天使だらけの宮殿だ。訓練相手には困らないだろう。もう大丈夫だと思ったら、その時にこそ俺を呼べ。助けにはなってやる」
「何から何までありがとうございます。あ……」
畏まって礼をする彼女の頭にゼアノスは手を乗せて、撫でる。
かつて、あの少女にした時と同じように。
それから一分もしない内に、上空から白色が舞い降りた。光の翼にも見える純白な翼を羽ばたかせて降りてきたのは、眷属の片割れ、ブランシェ。
少し前まではゼアノスと共にいた彼女だが、できる限り被害を少なくするために、ゼアノスはゼアノスで用事があったので、一足先にこちらへ戻って来ていたのだ。そして案内のために再び呼び寄せた、というわけである。
人によっては扱いがひどいと思うかもしれないが、彼女の喜びは主の喜びである。他者から見れば不憫に見える事柄を命令されたとしても、その胸の内に積もるのは『主の役に立てる』という嬉しさだけ。そんな彼女にこの程度では、不満などある訳がなかった。
ブランシェに運ばれている彼女の姿を見送り、完全に見えなくなった瞬間。
笑みを浮かべていた表情は歪み、どこか遠くを睨み、唸るように言葉を発した。
「三太陽神とバリハルト……覚えてろよ、貴様らが忘れたとしても、俺はずっと覚えてるからな」
返事が聞こえるはずもなく、期待もしていなかった彼はそのまま『歪みの回廊』を開き、旧知の気配がする方向へ転移していった。
―――――――――――――★
「なに……?」
(嬢ちゃん、今、何と言った?)
「だから、ディストピアは既に滅んだ。そう言ったのだ」
ブランシェによって金髪の女性がヴィーンゴールヴ宮殿へ運ばれたのと、同時刻。ディストピア跡から遠く離れた地域、レスペレント地方の端のマータ砂漠という砂漠地帯にて流浪の旅をしている『神殺し』ことセリカ・シルフィルは、無表情ながらも驚いていた。それは彼が常に持っている剣に封印されている、相棒でもある魔神ハイシェラも同じだ。
複雑な運命の因果なのか、何故か共に旅をしているエクリア・フェミリンスという女性。何気なくディストピアに行ってみようかと思いついたところ、彼女から告げられた事を聞き、ショックを受けたのだ。
お世辞にも良いとは言えない自身の記憶力だが、セリカは覚えていた。
極限な危機に陥った時に、何故か助けてくれた魔神のことを。そんな彼の住んでいたディストピアに、闇夜の眷属が安全に暮らせる場所を探していた使い魔、ペルルが向かったことを。ペルルと一緒に旅に出た、サティア(アストライア)の守護妖精、パズモ・ネメシスのことを。
いつもは無愛想なのに、一瞬だけとはいえ変化が起きた。偶然にもそれを見たエクリアは、僅かな表情の変化した理由を察して、素直に疑問を口にする。
「そんなことも知らないのか? 十数年前の出来事なのだがな……ディストピアに、知り合いでもいたのか?」
「……ああ」
セリカの短い返答に、エクリアはもう何も言わなかった。気を利かせた訳ではなく、興味がないからだ。彼女は今、たった一つの目的のためにセリカの後を追っている。
不思議なことに全ての使い魔が女性のセリカだが、エクリアはセリカの仲間なんてものではない。
では何故、膨大な魔力を持っているものの、今は『ただの人間』であるエクリアがセリカに続いているのか。それは複雑な過程が原因の、至極単純な理由だった。
「……」
何を思ったか、前を進んでいたセリカが後方を振り返る。視線の先にいるエクリアは砂漠の熱気に意識が薄らいでいるのか、少し遅くなった速度で歩み続け、自分を見ていたセリカに気付いた。そして、
「やっと、殺してくれる気になったか……?」
「いや。その気になったらな」
何度目か分からないその質問に、その答えもまた変わらない。幾度と繰り返されたやり取りに、これまた何度目か分からない溜息を誰かが吐きそうになった、その時。
「見ぃ~つけた」
「「っ!?」」
突如、どこからかそんな声が聞こえた。
永い年月で培われた戦士としての経験による賜物か、セリカは一瞬で周囲の気配を探り、抜け目なく空も見上げる。かつて地の魔神と呼ばれたハイシェラは、セリカと同じように周囲の気配を探り、上ではなく地面の下に意識を集中させた。
しかし、いくら探っても見つけることは叶わない。
「くっ、何者だ!? どこにいる!?」
エクリアはその内心を隠すことなく大いに焦り、怒鳴った。なぜならば、セリカ以外の存在に殺されるわけにはいかないからだ。
かつてブレアード・カッサレによって姫神フェミリンスにかけられた、『殺戮の魔女』の呪い。
その呪いは強力で代々に伝わり、遺伝するかのようにフェミリンス一族の長女全員が、この呪いによって苦しめられてきた。エクリアもその一人だ。
この呪いの恐ろしいところは、呪が発症した張本人が死ねば、本人に子供がいなくても『フェミリンス』であれば次代の長女に呪いが受け継がれてしまう、ということだった。
―――――殺戮の魔女の呪いによる悲劇は、私で終わらせなくては。
そう考えるエクリアにとって、誰かに殺されるというのは、到底許容できるものではない。
唯一の例外が、『神殺し』たるセリカ・シルフィルだ。神を殺して身体を手に入れたという規格外な彼ならば、呪いをも断ち切ってくれるのではないか。
『凶腕』に助けを請うのも選択肢の一つだったのだが、ディストピアが滅亡していることを知った時から、何も望まなかった。そもそもフェミリンスと特別な繋がりを持っていたらしいが、それでも魔族を嫌う自分が魔族に助けを請うなどありえなかっただろう、とも思っている。
そんな想いで、エクリアはセリカに殺されようとしている。必要以上に姿なき声に過敏になるのも、無理がなかった。
「ここだよ、ここ」
真正面から聞こえた声に反応し、二人は揃って武器を構える。
セリカはハイシェラが封印されている魔神剣を。エクリアは連接剣を。
(ぬ? こやつはまさか……)
「ハイシェラ……?」
ハイシェラが何かに気が付き、セリカはどうしたのか聞こうとした。だがそれよりも早く、ソレは姿を現した。
「約300年振りになるのか? 久しぶりだな、セリカ」
空間が歪む。そこから出てきたのは、黒衣を着た強大な存在だった。
「何者だ……いや、貴様は何だ!?」
ニヤニヤしてはいるが、長い紫色の髪と顔の形から、美人ではあるとエクリアは思った。
だがそれ以上に、そいつの身体から溢れ出ている魔力に怯えた。
神を想像してしまうほどに莫大な魔力量に怯えたのではない。それは目の前にいるセリカも同じだったから。慣れはしないが、恐怖はもう覚えない。
なら、一体何に怯えたのか。それは今まで相対した者の中での誰よりも、最も禍々しい質の魔力だったからだ。
「お前は……ゼアノス、か?」
(あやつ、最後に見た時と比べれば、随分と魔力の質が変化している。セリカ、一応は気を付けておくだの)
「……」
だがそれも、ハイシェラもしくはセリカの声を聞いたからか、恐ろしいものではなくなっていく。
「あー、すまない。少しムカついた出来事があって、機嫌が悪くなってたみたいだ……という訳でご両人、その物騒なもんは仕舞ってくれない?」
「……わかった」
相も変わらず表情だけはニヤニヤしており、雰囲気だけがサッパリと変わった。セリカはあっさりと構えを解くが、エクリアからすれば何を考えているか分からない相手だ。自分では敵わないと分かってはいるが、警戒は怠らずに武器を手に持ち、魔力を張り巡らせる。
それに対してセリカにゼアノスと呼ばれたその存在は、そこでようやく表情を変えて、エクリアと目を合わせた。
「俺を警戒するのは勝手だが、俺はお前が嬉しがるだろう事柄を教えに来ただけだ。悪いことも含めて、だけど」
「突然現れた正体不明者からの言葉を素直に聞け、と?」
「なら自己紹介でもさせてもらおうか。ディストピアの魔神が一柱、ゼアノスだ。よろしく」
そこでもう一度、エクリアは驚きで目を見開いた。
「ディストピアだと? だがあそこは十数年前に……」
「ああ、国自体は滅んだと言っても過言ではない損害を受けたよ。ただし大多数の住民が、あちこちに逃げて生き延びてるって訳だ」
ふふんと得意げに笑って見せるゼアノスだが、それなりの付き合いがあったハイシェラはその態度が仮面であることを、何となく察した。飄々としているが、自分のいた国が壊されて黙っていられる性格ではないことを知っていたからだ。
(嬢ちゃん、今のこやつ相手には言葉は選んだ方がよいぞ。気楽な言動じゃが、恐らく内心はその正反対……激動に駆られておる。ディストピアの話題は避けた方が無難だの)
何よりも、ハイシェラはゼアノスのあの表情を知っていた。
魔神としては比較的安全だが、その分、怒らせた敵対者には無慈悲なまでに撃滅させていた、当時の顔と雰囲気。それらが現状で似ているのだ。
(……ああ、分かった)
そしてエクリアはハイシェラのそんな忠告を、素直に受け止めた。一時期は『姫将軍』と呼ばれ、王族として行動していた事もあった。腹の化かし合いが得意と言うほどでもないが、少なからず経験があったので、察するのは容易だった。
「無事だったのだな、ゼアノス」
そこで狙ったのか偶然か、セリカが話題を変えて話しかける。狭間の宮殿の出来事において最後の最後で気絶してしまったためか、人一倍気にしていたらしい。
「あの後いろいろあったけど、何とかな。ペルルとパズモの無事も確認した。それと、あの時は他に手がなかったとはいえ、強引過ぎた。すまなかった」
「気にしていない」
「そっか。なら俺も、もう気にしないことにする」
狭間の宮殿にてセリカを最後に気絶させたことについて謝るが、そう言い合って互いに笑う。片や唇を大きく弧を描き、片や注視しないと分からないほどに小さく笑った。
どっちがどのような笑い方をしたのかは、言うに及ばず。
「それで、『見つけた』と言っていたが……俺を探していたのか?」
「一応は無事を伝えるために探してたけど、さっきも言ったように本命はお前じゃなくてそっち。フェミリンスの方」
「さっきも言ったが、魔神が私にだと?」
指を差されたエクリアは動揺し、再度警戒する。魔神が自分に用があるなど、フェミリンスとブレアードの因縁関係しか思いつかないからだ。
「そう、お前に。悪い報告と良い報告。二つあるけど、どっちから聞きたい? どちらも凶腕から伝えるようにって言われてるんで、聞かないってのは無しで」
そう言ってゼアノスは、指を二本立てた。
「凶腕からフェミリンスにということは、あの伝承は本当だったということか……なら、できることなら聞きたくないが、悪い方から頼む」
「はいよ。えっと、これはメンフィル王国で流れてる噂なんだけど、セリーヌ・テシュオスが死んだらしい」
「――――――は?」
どことなく後悔したようなエクリアに、全然気にしない様子のゼアノスは、それこそ天気の話をするかのように気軽な口調で、とんでもないことを口にした。
「ま、待て。一体どういうことだ!?」
「詳しくは俺も知らん。ただ、メンフィルでは今一番の話題になっている」
「そん、な……」
エクリアはそう呟いて、両手と両膝を地面に着く形で倒れてしまった。
彼女は三人姉妹の長女だった。だが殺戮の魔女の呪いに負け、少し前に末の妹を殺してしまったばかり。そして今伝えられたのは、次女の死。絶望してしまうのも当然で、精神が不安定になって立ち直れなくなりそうになった。
次の、この言葉を聞くまでは。
「んで、次にお前が……たぶん嬉しくなるような内容だ。イリーナ・マーシルンは生きている」
「――――――っ!?」
ピクリと身体を震わせ、下を向いていた顔が徐々に上がる。
「例の呪いのせいで殺しかけてしまったらしいが、まだ生きていた。そしてお前が去った後にメンフィル王が凶腕に助けを求めた。あの王様もフェミリンスの血統だったらしく、古の契約によって助けた、ということらしい。ま、命一つ救ったんだし、しばらくの間はもう助けるつもりはないって本人も言ってたけど……セリカが近くにいるんだったら、凶腕に助けてもらわなくてもある意味安全かね?」
「そうか、凶腕が……そうか……」
まるで死んだような目だった瞳に、生気が宿る。
――――まあだからこそ、セリーヌ死亡の噂が余計に蔓延しちまったんだけどな。
そう言おうか一瞬迷ったゼアノスだが、事実にしてもそんな変なことを喋れば間違いなくセリカ(に付属してるハイシェラ)に咎められ、面倒なことになるのは間違いない。
結局、心の中で思うだけにした。
「……」
「エクリア……?」
そうか、と何かを納得してから何も言わなくなったエクリアは、いきなり倒れた。
セリカが思わず抱き上げてみれば、気絶しているのがわかる。
「この猛暑は人間にはキツいだろ。その肉体的疲労と、今の精神的な疲れが原因だな」
エクリアが倒れた原因の一つであるゼアノスは無情にも淡々と述べ、どうする? とセリカに視線で問う。正直なところ、色々と思うことがあるのでフェミリンス一族には死んで欲しくない。というのが彼の本音ではある。
(なら、嬢ちゃんが休めるように涼しげな場所へ送ってもらったらどうだの)
「そうだな……ゼアノス、涼しい場所に送ってもらえないか?」
「今、ハイシェラが助けただろ? あいつもあれで結構気が回るよな~」
ケラケラと笑いながら手を振り、セリカの隣に『歪みの回廊』を展開する。
その際に『それは褒めてるつもりか?』など剣に封印されている魔神が何かを言っていたが、言われた本人は『ハイシェラの声は聞こえない設定』なので、無視した。
「あ、ちょい待て」
セリカが礼を言ってからエクリアを抱いて回廊に入ろうとした時、ゼアノスが待ったをかける。
「ひとつ忠告。そのフェミリンスの娘を連れてくなら聞いとけ……『深淩の楔魔』には気をつけろ」
「深淩の楔魔?」
「そう。かつてブレアード・カッサレという魔術師に召喚され、姫神フェミリンスに戦争を挑んだ10の魔神の総称だ。この前、フェミリンスの力を継いだその娘が敗れた。それによって、封印されていた魔神が復活した。そいつらの一部はフェミリンスを憎悪している可能性が高い」
「そいつらの強さは?」
「三柱ほど面倒なのがいるが……お前以下なのは確信を持って言える」
「なら今までと大して変わらない。少々、敵が増えるだけだ」
セリカはそう言い切り、一応は魔神であるゼアノスの展開した回廊に、迷いなく入っていく。
それを見て愉快になったのか、ゼアノスはクツクツと笑い、呟いた。
「個人的な事情で、今回ばかりは敵対するかもしれないな……その時はよろしく頼むよ、セリカ」
>三姉妹
長女を除き、原作から家出したようです。
>深淩の楔魔、面倒な三柱
ザハーニウ、カフラマリア、パイモンのこと。
特にソロモンの魔神であり、参謀としても活躍するパイモンが一番厄介だと思う。
ゼアノスの性格が少しおかしいと思う方がいるかもしれませんが、それは国を壊されてイライラしているからです。決して作者が書き方を忘れたわけではありません。