「――そういえば、朝倉さん。オレからも一つお願いがあるんだ」
五月のある日。
超弩級の閉鎖空間とやらが消滅して、世界に一時の平和が訪れた時の話だ。
不意にそう言った俺に対し、彼女は不思議そうに。
「何かしら」
「それは。……それは、オレがもし、死んだとしても朝倉さんは気にしないでほしい」
「どういうことかしら?」
彼女の一言は呆れて、いや怒っているかのようにも聞こえた。
「何も死にたいって訳じゃない。でも、もしオレだけが朝倉さんの目の前から消えたとしても、オレのことは顧みないでいてほしいんだ。オレが助けた君が生きてくれれば、オレは満足だ」
その時、俺がどんな顔をしていたのかはわからない。
自分を見るための鏡なんて無かったからね。
「わかったわ。要するに私に死ぬな、生きろって言いたいんでしょ?」
「そうともとれるね」
「はぁ……。でも、私もあなたに死なれたら困るわ。せっかくの観察対象だもの」
「それ、笑うとこ?」
「人間の感性はわからないの、任せるわ」
俺は乾いた笑いをした。
そんな、俺の記憶だ。
俺は消失に気づいた段階で、"その"可能性も考えてはいた。
つまり。
「朝倉さんは、オレを必要としなくなったって事か」
俺はこの事実をぶつけられ、泣く事も、壊れたように叫ぶ事も許されたはずだ。
だが、俺はそこまで強い人間じゃなかった。臆病者だ。
仕方がない、仕方がないんだ。認めようじゃないか。
まさに俺はフられたんだ。朝倉涼子に――
『話は終わっていない。君がどう思おうが構わないが、先ずは私の説明を全て聞いてほしいのだが』
ジェイは困ったようにそう言った。
最早俺は抜け殻同然だが、彼の言葉に従う。
『訂正しようか。朝倉涼子が犯人と言うのは少々語弊があった』
「……何?」
『彼女は元凶。いや、正確には君がこの現象を引き起こしたとも言える』
「はっ。オレはそんな覚えがないけど」
『そうか? 君はあの世界で運命を変えたのだよ。朝倉涼子の、死を』
「今更それに、何の文句があるんだ」
『私は事実しか述べない。そもそも君はおかしいと思わないのか? 朝倉涼子は、何故長門有希に消される必要があるのか』
「馬鹿言え、それは独断専行が――」
『やはり、思った通りだ。君は"なってない"な。彼女は異常動作、いや、異常個体として処分されるのだ』
「……同じ事だろ?」
『君の認識の問題なのだよ。彼女は既に壊れている。壊れていた、と言った方が正確だが』
壊れている?
何の話だ。
機能として何か不都合な事など――
『エラーだよ』
「まさか!?」
『既に春先の時点で、彼女はエラーまみれ。まあ、バグスタイルと言うヤツだ。それが君のおかげで彼女は生き延びた。朝倉涼子を保護下に置く事で、情報統合思念体すら黙らせた。よってエラーが更に増えていくのは当然の事だろう?』
エージェントだか諜報員だか知らないが、携帯ゲームなんぞに興じたことがあるのか。
ナビカスタマイザーでどうにかなるとは思えないね。
『エラーが蓄積する末に何があるか、君は知っているだろう』
「……疑似感情か」
『しかしそれは本来TFEI端末に存在しないもの。朝倉涼子が長門有希より人間"らしかった"のは演技だけではない。フローした末の、バグだったのだ』
「それが今回の件と、オレとどう関係する?」
『……ふむ。ところで君は、涼宮ハルヒをある種の超人と考えているそうだな』
何故ジェイがそれを知っているのか。
俺は文化祭のあの時以来、そんな話をした覚えがない。
あの世界の、キョン相手だけだ。
『だが、私に言わせれば彼女は超人にしては不完全だ。君もニーチェを知っているのなら、わかるだろう?』
「超人とは人間の克服した先にあるもの。だが、彼にとっての超人はどのような過酷な運命でも、それを受け入れ肯定する精神の持ち主。……涼宮さんとは正反対だ」
『そうだ』
「だが実際に涼宮さんは人間を超越している。おい、超越者なのは確かだぜ」
『それでも私からすれば、涼宮ハルヒは完璧な超人ではない』
「ああ、それでいいよ。だけど朝倉さんと何の関係が」
『朝倉涼子、彼女は既に精神的に人間のそれではなかった。一切妥協しない考え、実に素晴らしい。ニーチェとは正反対だがね』
俺はそんな彼女の気高さに憧れたんだからな。
妥協の連続の、俺とは違う。
純潔なる殉教者。それが朝倉涼子。
『しかし彼女は人間と言えなかった。何故か? 感情がないからだ。私に言わせれば猿同然、考えることは出来ても、その先が無いのだからな』
ある作者が言うには"勇気"とは"怖さ"の裏にあるらしい。
恐怖がなければ勇気は無いし、それは最早人間ではないのだ。
朝倉さんの精神は、恐怖という感情が無いからこそ成立する。
「悪口を本人の居ない所で言うのはいただけないね」
『落ち着きたまえ。だが、彼女はエラーに次ぐエラーでバグまみれだった。その結果――』
ジェイは再び立ち上がり、まるで誕生日の如く喝采を送る。
ここには居ない、彼女。朝倉涼子へ。
『朝倉涼子はついに、感情を手に入れたのだ! 君のせいで! そして、彼女は進化した! 人間の感情を持ち合わせ、それでも尚、妥協せずに済む絶対的な精神力!!』
そう。
『涼宮ハルヒを能力的超人と定義すれば、朝倉涼子はその反対! 精神的超人だ!! 素晴らしい!!』
それは、かつて俺が考えた内容。
即ち。
「朝倉涼子は長門有希の影ではなく。涼宮ハルヒの影だった……」
『上出来だな』
しかし、進化の壁を飛び越える、だ?
ミッシングリンクもいいとこだ。
いや、それよりも。
「おい! どうして朝倉さんは感情を手に入れた、だなんて言えるんだ? 何の根拠がある。そしてオレのせいってのもよくわからない」
『だから、回答は一つずつなのだよ。興奮するのはわかるがね。先ず、根拠については私が口にするのは野暮だ。自分で考えた方がいい。彼女のためにもなるし、君のためにもなるぞ?』
「……」
『そして君についてだが、その兆候はあっただろう?』
驚いた。
多分ジェイは、あの、十六日の、歯切れが悪かった朝倉さんについて言っている。
こいつは一体、どこまで何を知っている。
『まあ、彼女についてはここまででいいだろう。これは前提条件だったのだから』
「結論としては、超人と化した朝倉さんがついにオレを排除した。そういう事だろ?」
『いいや。それなら解りやすいし、ここまで回り道をする必要がない。事態は複雑でね。それでいて一部しか君に伝えられない。残念だ』
ジェイは涙をすするような演技をしながらしゃがむ。
まるでこいつはピエロだった。それも、出来損ないの。
俺は鏡の裏の世界を知ったような気分だ。
『つまり、朝倉涼子が超人に進化したからこそこの事件は起こった。だから彼女は犯人なのだよ』
「だが、その口ぶり。まるで実行犯が別に居るみたいだな?」
『そうだ。聞きたいかね?』
馬鹿野郎、あたりまえだ。
『今回の事件。全ての原因が君と朝倉涼子にあるとしたら、事件を引き起こしたのは別の二人組だ。実行犯と、計画犯』
「朝倉さんの存在を消そうって事か」
だとしたら、俺は現在進行形で彼女を守れていない。
ふっ。無様だ。生きる資格すらない。
しかしジェイはそれを否定する。
『"その逆"だ。まあ、そこら辺は君に関係ないことだ。知らない方がいい』
「何だよ? いいから、その二人組が実質の犯人なんだろ? さっさと説明してくれ」
『ふむ。……先ず計画者についてだが、私にもその正体は不明だ。だが、君をこの世界へ送り飛ばせるような人物は限られているし、かつ、それをする理由がありそうな人物は一人ぐらいだ』
「誰だ」
『"カイザー・ソゼ"と呼ばれている人物だ』
「おい、そいつも超人って言いたいのか?」
『さあな。正体が不明と言っただろう? とにかく謎なのだよ。だが、ソゼが介入した場合、必ずそこには変化がある。これは、三年前から確かな話なのだよ』
「三年前?」
『ソゼらしき人物が現れたと言われているのが、その時期なのだ』
「何をしたんだ?」
『ある日、それなりな規模の閉鎖空間が発生した。しかし急進派のTFEI端末の一つが超能力者を妨害しようとした』
「世界の終わりのためにか」
『多分な。その現場にソゼが介入した』
「ん? だが世界が崩壊してない以上、そいつは超能力者を助けたんだろ。いい奴じゃないか」
『ならば、良かったんだがな。結果から言えば、その端末と超能力者の一人が世界から文字通り"消えた"。それで事件は解決した』
「機関の構成員がか!?」
『その辺は君が知らなくてもいいだろう。ソゼが特殊な方法で世界から人間を消せる。今はその情報だけが大事なのだ』
「どうしてその男の名前がわかるんだ。謎じゃないのか」
『奴が登場した現場には、必ず白のハンカチが落ちている。黒色で"KEYSER SOZE"と刺繍されたものがな』
ジェイが口にする情報はどれもあてにならない。
雲を掴むような話だ。しかしそのソゼと言う人物が黒幕ならば。
「そいつが! 朝倉さんをどうこうしたってのか!?」
『いや、落ち着け。朝倉涼子は"君によって"完成された。喜べ。……彼女の話はもういいだろう? おそらくソゼが接触したのは実行犯の方だ。そっちは正体が割れている』
「さっさと言え」
『君にとって名前を知る必要はない。急進派のTFEI端末の一つだ。彼女とソゼが結託して君をここへ送ったのだ。正確には、彼女がソゼの協力を得た。これが我々の見解だ』
「何のために?」
『ヒントは既に言った。そして私は事実しか言わない。自分で考えたまえ』
それきりジェイは黙り込んだ。
俺がいくら考えようと答えは出るはずがない。
ならば建設的な話をしよう。
「――オレがあの世界へ戻る方法について、教えてくれ」
ジェイはようやくか、と言った感じで。
『いいだろう。だが、方法はまだ言えない』
「どうしてだ」
『君は、彼女……朝倉涼子への結論、そして、あの世界で生きる意味を見出していないからだ』
何故こいつがそんな事を、とも思えなかった。
俺はただ、胸の虚無感の正体がようやくわかりかけてきたと言うのに。
『詳しい理論は省くが、簡単に言えば君に覚悟が無い。それでは意味がないのだ。それは朝倉涼子にあって、君にないものだ』
図星もいいところだ。
まさか、見ず知らずの骸骨野郎にそう言われるとは。
するとジェイは立ち上がり。
『今日はここまでだ。リミットは明日、十二月二十日の午後十八時。君が元の世界に戻りたくて、覚悟があるなら再びここへ来い』
そう言うとさっさと玄関へ行ってしまう。
慌てて俺はジェイの後を追って、マンションの廊下へ出たが、既に奴の姿は無かった。
エレベーターも使っていない。
……文字通り、フッ、消えた。
マンションを後にしながら、俺は考える。
当然、"ジェイ"と名乗る人物についてだ。
奴は歩く姿すらまともに俺に観察させなかった。
つまり歩幅から奴を推測さえ出来ない。
厚手のバラクラバとコートにより襟元さえ露出させない。
はっきり言うと、性別も男か怪しい。
そして、これもなんとなくだが、ジェイは全て真実を語っているかさえ怪しかった。
だが、奴にとって俺との接触が意味のある事だけは確からしい。
そして、まだジェイは俺について語っていない。
明日、俺がもし"答え"を手にすることが出来ればそれも語られるのだろう。
おそらく、俺の知らない部分の俺を知っているのだ。
「わからないな……」
「明智、何がわからないだって?」
「わっ」
いつの間にか谷口が俺の後ろに居た。
どうしたんだ、急に。
「へっ、わからねえのはこっちの方だぜ。阪中んとこへ行ったのかよ? 風邪で弱ってる今が稼ぎ時だぜ」
「いいや……」
「情けねえな。俺なんかようやく春が来たんだぜ。へへっ!」
そう言えば光陽園学院の女子生徒と知り合っていたな。
まあ、曰く付きかも知れないのだが。
きっと、その出会いはいいことなんだろう。
「そっくりお返しするさ。……その人の事、大事にしなよ」
谷口は何でお前に言われなきゃいけないんだ? といった表情だ。
「おいおい、お前はどうなんだよ。阪中はもういいのか? もしかして……」
「よせ。告白なんかしてないよ。まだ」
きっと、これは俺自身に言い聞かせたのだ。
朝倉さんを、あの世界へ置いてきた、俺に。
明智はきっと、結論を出している。
「じゃあしけたツラすんなよ。さっきキョンとも話したが、お前らしくない。阪中が見たらびっくりすんぜ」
「そうかな」
「おう。今日は涼宮んとこに行かなかったみたいだしよ。まあ、クリスマス時期に情緒不安定になるのもわかるが、落ち着いてりゃいいのさ。きっとお前なら阪中とうまくやれるぜ」
あの谷口さえ認める男なのか。
この世界の明智は。
……。
「なあ、谷口」
「あん?」
「カイザー・ソゼ、って名前知ってるか?」
「何だそりゃ。どこの王族だ。俺はお前と違って勉強が苦手なんだよ。知ってるだろ?」
「知らないならいい」
こいつがソゼなんじゃないかとも思えたが、まあ、それは無いだろう。
俺がそうじゃないように。谷口は谷口だ。
「とにかく元気出せよ。じゃあな」
谷口は笑顔で俺と違う道へ分岐していった。
その足取りは、俺と違って軽いものだ。
「リミットは明日。午後十八時か……」
とにかく、考えをまとめたい。
情報をまとめて考察するのもありだ。
そして、そろそろ夕方なのだ。今日はもう帰ろう。
俺の"敵"は、見たこともない二人組らしい。
本当に?
この時の俺はそれを疑っていなかった。