思考の放棄なんて恰好の付くものではなかった。
俺はただ、彼女に甘えたかった。
どれくらいの時間そうしていたかは知らない。
やがて俺は朝倉さんを解放するとそのままフローリングの上にへたり込む。
とにかく俺は言われたことを彼女に伝える他なかった。
俺一人では何も得られそうにないからだ。
そのまま立っている朝倉さんに対し、淡々と、つたない説明を始めた。
正直俺がもし俺の説明を聞いたとしても意味が解らないだろう。
自分でわかっていないものを彼女にわかってほしかったのだ。俺は。
「――そう。そうだったの」
「……昨日からそうだよ。言いたいことばかり言ってくる、精神攻撃だ」
真実かどうか、それが判らないのだ。
確かめる方法も分からない。
……ない、無い、否定だ。
変革にはリスクが伴う。そんな事は知っている。
じゃあ、涼宮さんはどうなんだ?
俺にそんな能力があったとして、俺だけ文句を言われなきゃいけないのか?
佐藤からは俺だけお願いされなきゃいけないのか?
崩壊だの破滅だの、揺さぶりをかけやがって。
本当に迷惑だ。
「あいつらを倒して、それで終わり。……それじゃあ、駄目なのかな」
「………」
「だいたいさ、卑怯じゃあないか? オレが知らない事ばかり話すんだ。オレが知らない奴が一方的にオレを語るんだ」
まるで第四の壁の向こうから物語の登場人物に話の流れを無視して接しているかのようだ。
俺は"念能力者"。
もう、それでいいだろ。
「オレは一体、何なんだ」
俺に一から十を、100%を教えてくれ。確信させてくれ。
誰でもいいから教えてくれ。俺は何者で、何故この世界に居るんだ。
これから何をすればいいんだ。
朝倉さんは、まるで俺を赦すように。
「そんな話は忘れちゃいなさい」
「………ふっ。だったらどんなに楽かな。いいや、オレは楽をしたいんだ。さっさと本当の事を知りたいんだ」
「明智君にそれが必要なの?」
「全部投げ出したい。だけど、朝倉さんは長門さんの力になっている。オレはまだ、何もしちゃあいない」
情けないな。
男の仕事の残り二割、おまけ要素で躓くだなんて。
すると朝倉さんは俺の隣に座り込む。
マンションの床に座す。去年の春を思い出してしまう。
「こんな風に座った事、あったよね」
あの時と同じ。
俺が出来る解決法などごく限られている。
ともすれば無力だ。
「ふふっ。でもあの時はあなたの方から私の横に来てくれたわね」
「そもそも最初は背中合わせだったよ」
「私はきっと、あの時死んじゃっても後悔はしなかったと思う」
「……心中相手がオレなのはどうなんだろうね」
「あら、忘れたのかしら?」
「………いいや」
死んでも忘れないさ。
多分、答えなんかないんだろう。
他人の言う事を真に受けるなんて俺らしくない。
そうだ。俺は泣きじゃくる赤子と一緒だ。
朝倉さんに甘える事で、すっきり出来たのだ。
精神年齢約29歳の男性が混じっていると言うのに。
でも弱いのは俺の方だ。明智はきっと、強い人間だ。
「ふっ。そういやあの時、キョンがこんな事を言ってた」
「何かしら?」
「『俺はどうすればいいんだ』とか『教えてくれ』だとか、挙句には『なんで俺なんだ』……だってさ」
呆れちゃうね。
一年経ってから俺が同じ目に遭うなんて。
誰のせいかは知らないけど、考えるのは止めよう。
降りかかる火の粉の元を絶つことなんて出来やしないのだから。
いつも通りでいいんだ。昔からそうしてきた。
俺の正義は気に食わない相手の否定。
掲げる大義なんか一切ない。敢えて言うならそうしたいからそうする。
戦う理由を作るんじゃあない、佐藤。
「もう大丈夫だ。ちょっとした精神スイッチの切り替えがしたかったんだよね」
「……だからって、急にやって来て急に抱き着くかしら…?」
「う」
「ふふっ。冗談よ。驚いちゃったけど、嫌じゃないわ」
そりゃ俺だって朝倉さんにそうされたら嫌ではない。
彼女の方も俺と同じであってくれるのだろうか?
……いや、疑うなんて馬鹿馬鹿しい。俺は朝倉さんを信頼している。
ならそれでいいじゃあないか。
SOS団を信頼しよう。
「長門さんは?」
「私が出来る事には限界がある。悔やみたくはないけど、悔しいわね」
「学校には来れそうかな」
「残念だけど任務が完了するまでは難しい。私が言うのはどうかと思うけど学校どころじゃないのよ」
やれやれだ、情報統合思念体。
喜緑さんは信用するがお前には実績なんてないんだぜ。
ああ、一つだけあったか。
俺と朝倉さんを出会わせてくれたという大きい実績が。
ーーだけどな。
「いつも月曜って訳じゃあないんだ」
「そう、いつ終わるかがわからないのが問題なの」
「これが定期考査なら赤点続出だよ。解答用紙に解答欄が無いんだから」
俺に出来るのは名前を書く事だけだ。
前の世界ではそうしてきた。
俺はここに居ると、証明したかったんだ。
何か話を書く事でそれがしたかったんだ。
だけど何故かそれを止めた。
その問題も、いつかわかるのだろうか?
だが、今日ではない。
今日はもう寝る時間なのだから。
「長門さんのお見舞いには基本的に私とあなたが行くことになってるわ。その分部活は早く切り上げるみたいね」
「基本的にって事は、やっぱり涼宮さんも心配なんだね」
「定期的にみんなで行くそうよ」
俺があの症状で「学校に行けません」だなんて母さんに言ったら却下される。
涼宮さんも雪山の事をどこか覚えているんだ。
なあ佐藤。これの何が都合のいい集まりなんだ?
キョンの言う通りだ。お前の勝手な線引きでしかない。
白線を引いたのは涼宮ハルヒなのだ。
俺でも、お前でもない。
長門さんは都合のいい受け皿なんかじゃあない。
絶対に。
「朝倉さん」
俺は立ち上がり。
「ありがとう。愛している」
「どういたしまして」
何だかんだ言っても、俺はこの先も迷うだろう。
苦しみ続けるだろうさ。
勘違いしないでほしいのは、歴史上の皇帝と呼ばれる方々もそうだったのだ。
そして涼宮さんだって年相応の心がある少女でしかない。
俺ばかりどうこう言われるのがちゃんちゃら可笑しいのだ。
全く――。
「――どうもこうもないさ」
"異次元マンション"で自分の部屋の"出口"に戻る。
いつも通りに夢の内容なんか覚えてはいないが、安眠出来たよ。
翌日、火曜日だ。
精神の仕組みとはよくできているもので、俺はどうにか言われた事を言われた事と思うぐらいには持ち直していた。
これで朝から朝倉さんと一緒なら多分誰が何をしようと俺は『無敵』になっていただろう。
キョンは度々朝比奈さんを天使だの何だの言っているが、俺の天使、いや女神が朝倉さんなのは確かだ。
去年の俺は想像もしてなかっただろうよ。今となっては凄い爽やかな気分だ。
もし俺が全ての記憶を失ってもう一回最初からやり直すとしても、こうなることを願う。
……そうさ、まるで小説の二週目以降のように、ね。
藤原は俺の冷静さについてどうこう言っていたが、やはり未来の俺と知り合いなのだろうか?
まさか俺が歴史の教科書だとか、未来人のデータベース上に残されるような人間とは思えない。
時間とは断続された平面でパラパラ漫画で地続きではないと言っていたのは未来人の朝比奈さんだ。
しかしジェイは、佐藤の発言は違った。
――『もともと時間とは、不可逆ではないのだ』
つまりそれは朝比奈さんの発言を否定している。可逆性があるならば地続きになる。
ならば藤原はどうなんだ? 彼は何を知っているのだろうか。
俺は知らなくても構わないけどね。朝倉さんを含む、SOS団のみんなが居れば。
それで。
「調子はどうかな、大将」
「……俺もお前も平社員だろ」
のんびり通学路の斜面を歩く親友に声をかける。
とくに思いつめた様子は見受けられなかった。
「キョン」
「何だ」
「昨日オレが帰りにさ……"E.T."に遭遇したって言ったら信じるか?」
その正体があの喜緑江美里さんとは口が裂けても言えない。
キョンはまるで谷口でも見たかのような顔で。
「……すると、明智はあれか、自転車で空中浮遊をしに行ったのか、UFO目がけて」
「家に電話しなきゃいけないからね」
「俺はあのシーンがトラウマなんだ。あまりあの映画も好きじゃない」
「実はオレも」
じゃあ何でそんな事言うんだよ、と言いたげであった。
ここで本当に谷口でも登場すればそれとバレないように周防に対する接し方について苦言を呈したかった。
しかしながら現在は谷口がやってくるような時間帯ではない。
キョンにしては珍しく早起きで早い登校時間ではなかろうか。
「はっ。お前だってそうだろ。昨日はよく寝れたのか?」
「おかげさまでね」
誰のおかげかは言わない。
他人に言いふらす事ではないのだから。
俺と彼女、二人だけの秘密でいいのさ。
「だけど、むしろこれからじゃあないか」
「……ああ。長門と天蓋領域だかの交信がいつ終わるのかもわからん。周防もアテにならなかった」
「間違いなく橘や藤原の狙いは、キョン、お前だ」
「そして佐藤の狙いはお前だってか。お互い面倒だな」
面倒で済めば安いもんさ。
全員葬り去ればどれだけ楽な事か。
本当に困ったらそうしても可笑しくない。
可笑しいのは、間違いなく俺の方なのだから。
「あまり周防ちゃんを責めてやるなよ」
「……何だ、どうした? 明智があいつの肩を持つなんて珍しいな」
「お前なんかついこの前初遭遇したばかりじゃあないか」
「だが今まで俺は彼女の悪口しか聞いた覚えがなかったんだが」
浮気でも何でもないからな。
俺が周防を殺してやるなんて、間違っても出来ない。
朝倉さんが死んだら俺がどうなるかわからないように、谷口だってどうなるかわからない。
小学校よりもっと前に教わる事だろ? 『自分がやられて嫌な事は他人にするな』だ。
とくにこの場合は最悪だ。
「あいつもオレと似ているのさ」
「雰囲気の暗さがか」
「お前が部室のパソコンに保存している隠しフォルダ"MIKURU"のパスワード変更をお勧めしておこう。さあて、次回は何分で解除できるかな?」
「…なっ、お前……!」
俺を誰だと思っている。
この程度の事、宇宙人でなくても楽勝だ。
だからセキュリティの意識が低いんだ、日本は。
「パスワードクラッキング対策の授業を受けるか? 今ならタダで教えてあげよう」
「……どうやって解除した」
簡単だよ。
「ディクショナリーアタックとブルートフォースアタックだ」
「日本語で頼む」
「おいおい、IT用語なんて読んで字の如しだよ。辞書と総当たりさ」
「……はあ?」
これでも彼は理解が出来なかったらしい。
HTMLぐらいは弄れるくれに、セキュリティの知識は無いのか。
「つまり、辞書にあるような意味がある単語を用いた攻撃と手当たり次第にパスワードを入力する総当たり。この二つの複合技さ」
「するとお前は虱潰しにパスワードを打ち込んだってのか」
「それで開くって事は脆弱性に他ならないね」
10分もかからなかったし。
「……と、とにかく誰か他にフォルダを知ってる奴は居ないよな?」
「どうだろうね。朝倉さんと長門さんの二人は知ってそうじゃあないかな」
古泉は知らない。
あいつがその方面でも凄かったら俺は勝てる要素が何一つない。
もしかしなくても理数の力だけでいえばあっちの方が頭いいだろうし、運動できて、イケメンだろ?
……ちくしょう。
「固定式パスワード認証の心得を言うから覚えておくんだ」
「頼む」
「長期間一つのパスワードを運用しない、桁数を長くする、文字種を多彩に使う、単体で意味あるものにしない、連想可能なものにしない、ユーザIDやユーザ名と無関係にする。だ」
「……お、多いな」
これはあくまで脆弱性に対する運用のあり方でしかない。
対策はこれとは別にある。
「また、パスワードクラック対策としての心得」
「まだあるのか」
「推測されない、絶対に人に教えない、メモを取らない、こまめな変更、過去に使ったものは二度と使わない、他のサービスとパスワードを同一にしない、ショルダーハックをされるな。以上!」
キョンは最早理解を諦めていた。
確かに俺も一度に言われたら混乱するかもしれないな。
だがキョンは最後の言葉には反応してくれた。
「ショルダーハックって何だ」
「肩越しに見るのさ。相手のパスワード入力を」
案外注意しないものだろう?
特に同じ会社の人間同士、なんてのは。
ATMについている鏡というのはその対策のためにあるのだ。
しかもあの鏡、実は中にカメラが入っている。
ばっちり監視されているという訳さ。当然と言えば当然だね。
「推測可能な文字としては、規則性のある数字だとか、生年月日だとか、名前だとか、passwordという単語そのものだったり。後、意外にもファイルの作成日だとかもあるね」
「因みに、お前はあの中身を見たのか……?」
「直ぐにクローズしたさ」
かく言う俺もあるのだ。
"ASAKURA"フォルダなるものが。
絶対にその存在は知られてはならない。
それを知った者だけは始末する必要がある。
キョンはやれやれと言いたげに。
「とにかく朝から焦らせるな」
「いい気味だね」
俺が昨日までに受けた精神ダメージに比べればマシさ。
お前が悪いと言われ続けたに等しいのだ。
俺は悪くない。
とか思っていると突然キョンは真剣な表情になり。
「……中河の事なんだがな」
「ふっ。どうしたよ」
「あいつも佐々木と似たようなもんらしい。状況をよくわかっていないが、美人に言い寄られたら話ぐらいは聞きたくなったんだとよ」
……それはどうなんだろうか。
間違いなく詐欺とか悪徳商法に引っかかるタイプではないか。
確かに彼は人を疑うような人種には見えない、古き良き熱血派ではあったが。
「去年あった長門の件もあいつの能力とやらの影響らしい。情報統合思念体を見たそうだ。それで神々しいだとか何とか言い出したわけだ」
「ああ。それは俺も長門さんから聞いたよ」
「結局、あいつは白黒つけたいんだろうな。長門への恋心が嘘だったかどうか」
「……義理堅いお方じゃあないか」
中河氏と呼ぶのは間違っていないな。
それも、選択。
「橘が言っていたが間違いなく普段のあいつは忙しい。平日はまず無理だ」
「最低でも今日を入れて四日、か?」
彼を通じれば情報統合思念体に文句が言える。
しかしそれには周防の協力も必要だ。
中河氏には今も能力にプロテクトがかけられている可能性がある。
天蓋領域か、中河氏か。
「どちらにせよ、やっぱり周防ちゃんに頼るしかないのかな」
「佐藤は、あの藤原について何か言っていたな」
「それは出任せかもよ?」
「すがるしかないだろ」
わかってますとも。
やっぱりお前が主人公で、お前が大将。
俺は消耗品。ポーンかも知れないし、運が良ければナイトだ。
ビショップでもルークでもなかった。
「今日は何事もないといいんだがな。そして出来れば長門の臨時任務も終わってほしい」
「同感だね」
お互いに校門をくぐりながらそう言う。
だが、俺もキョンも期待はしていなかった。