不動産会社にて賃貸契約を結び、引っ越しやその他諸々の準備を済ませ、麗奈が博愛荘の正式な住人となったのは、あの再会の日から数えて十日後の事だった。
(祖父ちゃん、祖母ちゃん。久しぶりにこのアパートに住人が増えました。しかも、テレビとかに出てる有名なモデルさんです。どうしてここを選んでくれたのかはわかりませんが、快適に過ごしてもらえるよう、これから一生懸命頑張って行こうと思います……)
日曜日の朝九時。恭介は仏壇に手を合わせ祖父母へそう報告した。普段であれば休日は昼過ぎまで寝ているはずの恭介が珍しく早起きしたのには理由があった。
(まさか、あの神宮寺麗奈さんと買い物に出かける日が来るとはなぁ……)
この日は麗奈にとって博愛荘に来て初めての休日であった。そこで日用品やら何やらを纏めて買いに街に出る予定らしいのだが、何と麗奈はその買い物に恭介を誘って来たのだ。
二日前にその誘いを受けた恭介は一も二も無く頷いた。どうせアパートの掃除を済ませたらゴロゴロするだけのつもりだったし、何より、こんな年上の超絶美女の誘いを断れる思春期男子がいるだろうか。いやいない。
(……いやいや、勘違いするなよ。俺はただの荷物持ちに過ぎない。麗奈さんだってそう思ってるはずだ。浮かれず、クールにいこうクールに)
などと心の中で漏らしつつ、先程から洗面鏡台の前で何度も髪が跳ねていないか、鼻毛が出ていないかをチェックする恭介。
(服が安物なのは仕方無いとして、せめてこういった部分だけでも綺麗にしとかないと。幻滅されたくないし)
この時点ですでに浮かれまくっていた。
時計を見る恭介。約束の時間である九時三十分までもう五分を切っていた。
「誘ってもらった身だし、こっちから尋ねた方がいいのかな」
そう決めて、恭介は麗奈の部屋へ向かうべく玄関を出るのだった。
一方、麗奈もまた約束の時間を前に入念な身だしなみのチェックを行っていた。
「変……ではありませんわよね」
いつもであれば、外出時の装いなど即断即決で選べるはずの麗奈だったのだが、今日はクローゼットに仕舞っていた衣服を全て引っ張り出し、何度も組み合わせを試し、一時間以上の時間を費やした結果、胸元にフリルをあしらった純白のノースリーブに、真っ赤なデニムパンツというシンプルなものに落ち着いた。
それでも気になるのか、鏡の前で自分の姿を何度も確認する麗奈。……その度にポーズをとってしまうのはモデルという職業故か。
「せっかく恭介君がわたくしのワガママに付き合ってくださるのですから、せめて一緒にいて恥ずかしいと思われない様にしないといけませんわ」
モデルという職業は、自らの容姿に絶対の自信が無ければやっていけない仕事である。麗奈も自分は美しいと自負している。しかし、この時ばかりはその自信もすっかりなりを潜めてしまっていた。
その相手が実は全く同じ事を考えている事を、もちろん麗奈は知る由も無い。
(……あれ、ちょっと待ってください。考えてみればわたくし、プライベートで男性と出かけるのって初めてなんじゃ……)
表の世界でこの容姿に惹かれて集まるのは下心を隠そうともしない男達ばかり。そういう仕事をしているのだから仕方ない部分はあるが、だからといってそんな連中とプライベートで親密になりたいとは欠片も思わない。故に、仕事の関係で断れない限り、男と食事はもちろん、行動を共にした事すら無い。
神宮寺麗奈二十三歳、何気に彼氏いない歴=年齢である。
(……いえ、落ち着きなさいわたくし。恭介君はただ入居したばかりのわたくしを気遣い付き合ってくれるだけに過ぎないのですわ。変に意識などせず、普段通りのわたくしでいればいいのですわ)
ふんす! と気合いを入れる麗奈。腕時計に目を遣り、約束の時間五分前となった事を確認する。
「お誘いしたのですから、こちらからお迎えに行った方がよろしいかしら」
そう決めて、麗奈は恭介の部屋へ向かうべく玄関を出るのだった。
「「あ……」」
奇しくも全く同じタイミングで扉を開けた恭介と麗奈。まさかの事態にしばし硬直する両者であった。
「お、おはようございます麗奈さん。今からお邪魔しようと思ってた所です」
「お、おはようございます恭介君。わたくしもあなたを訪ねようと思っていた所ですわ」
「そ、そうですか。奇遇ですね」
「そ、そうですわね。奇遇ですわ」
そこで何故か会話が止まる。無言の空気の中、恭介は何とか会話のタネを見つけようと模索し、辿りついたのが麗奈の格好だった。
「え、ええっと……麗奈さんって普段そんな服を着てるんですね」
「え? あ、え、ええ。イメージと違いましたかしら?」
「そんな事無いですよ! 滅茶苦茶綺麗ですって! 流石モデルさんですね。俺、見惚れちゃいましたよ!」
ふと麗奈の表情が陰った様に見えた恭介は慌てて否定した。
『褒める時は素直に褒める。中途半端や下手な躊躇いは失礼』
生前祖父に言われた言葉を思い出し、全力で麗奈を褒めちぎる恭介。
恭介としては祖父の言葉に従って思った事をそのまま伝えただけなのだが、その余計な付け足しをしないドストレートな褒め言葉の威力は思った以上に強力だった。
(き、綺麗……! 恭介君がわたくしの事を綺麗って……!)
何百、何千と言われ続けて来た言葉である。しかし、それら全てを合わせたとしても、今のこの瞬間の何とも言えない嬉しさには遠く及ばなかった。
「……う、うふふ。ありがとうございます。さ、そろそろ出かけましょうか」
「あ、はい!」
年上の、もしくはモデルの、はたまた『女帝令嬢』としてのプライドか、別に動じてませんよとばかりに歩きだす麗奈。……その頬が僅かに赤らんでいる事に、後ろを追いかける恭介が気付くはずもなかった。
二人が向かったのはアパートの裏。そこには住人専用の駐車場が設けられている。部屋の番号がそのまま割り当てられた駐車場の番号となっており、現在一番の駐車場に白のスポーツカーが駐められている。言うまでも無く麗奈の愛車である。
「どうぞ、お乗りになって」
「うおぉ……」
蝶の羽の様に開いたドアに驚きの声を漏らす恭介。その様子に麗奈はクスリと笑った。
「バタフライドアと呼ばれるタイプのドアですわ。ご覧になるのは初めて?」
「は、はい。というか、こんな高級そうな車に乗るのも初めてというか……。本当に乗っていいんですか?」
「もちろんですわ。さあ、遠慮せずどうぞ」
「お、お邪魔します」
恐る恐るといった感じで助手席へ乗り込む恭介。麗奈も運転席に座った所でドアがゆっくりと閉じた。
「シートベルトは締めたかしら?」
「ええっと……はい、OKです」
「それじゃ、出発致しますわ」
二人を乗せたスポーツカーが静かに動き始める。こうして、恭介と麗奈の買い物デート(本人達は否定する)がスタートしたのだった。
誤解の無い様に言わせて頂きますが、二人は(まだ)付き合っていません。