咲-Saki- The disaster case file   作:所在彰

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第七話 『大会』

 俺が麻雀は人と共に楽しむものと知ったのは、忘れもしない小学校に上がったばかりの春先だった。

 

 俺が住んでいたアパートは、学区の境目近くに建っていた。

 もう数メートル西に行けば、別の公立小学校に通っていたであろう位置。

 東京には有名な私立小学校に通うため、幼稚園の時分から受験勉強があるそうだが、俺には無縁の話だった。

 勉強は重要だと分かってはいたが、如何せん金もなく、そういった私立に通えと言う人間もいなかった。一番近い学校に通うのが、自然な流れだろう。

 

 ある放課後。いつものように授業を終え、いつものように学校での日常を過ごし、いつものような家への帰路。

 

 

 ――――そこで、俺は不思議なものを見た。

 

 

 学校からの帰り道に、当時の俺からすれば大きな公園があった。

 アパートの二階からも見え、建物でごった返した東京に空いた空白のような公園ではあったが、日曜なれば遠出する時間も金もない親子連れがポツポツと遊んでいた記憶がある。  

 その公園を通るのが、俺の通学路であり、もっとも近い帰り道。

 

 遊具すら少なかった公園には、小さな丘の上に屋根に机付きのベンチが一つだけあった。恐らく、家族連れの休憩所として設けられた設置物だったのだろう。

 

 そこで、一人ポツンと座っている同年代の少年がいた。

 誰かと遊んでいる中で一人疲れて休んでいるのなら分かる。だが、公園には彼以外の人影はなかった。

 隣の学区の人間が紛れ込んでいても可笑しくない位置の公園。家路への道のりに疲れ、休憩しているなら分かる。だが、彼は一人黙々と机に向かっていた。

 

 勉強をやるにしても、誰かを待っているにしても、奇妙奇天烈な光景。

 それでも、そういうこともあるのか、と不思議に思いながら家路についた。

 

 だが流石の俺も、そんな奇妙な光景を一ヵ月近く目にすれば、疑問は増していく。 

 その疑問を解消すべく、何となしに丘を登り、何となしに少年の後ろから何をしているのか覗き込んでみた。

 

 ――机の上に広がっていたのは、牌と古雑誌、古新聞だった。

 

 薄汚れた雑誌と新聞はゴミ箱から拾ってきたのだろう。コーヒーか何かの飲料水で濡れていた。

 麻雀牌は一つ二つと抜けがあり、これも何処かから拾ってきたのは目に見えた。麻雀が流行しているこの世界、抜けのある牌を捨てるなんて珍しくもない。

 少年は雑誌と新聞に載っていたプロの牌譜を再現していた。

 

 牌譜研究、と呼べるほどのものだったのかは分からない。

 ただ、驚いた。まさか、自分と同じような真似をしている人間がいるとは思わなかった。

 

 麻雀教室に通っているクラスメイトも居たが、そういう者は自分が如何にして麻雀を打っているか、どれだけ勝ったかを語るだけで、俺や少年のように他人の打ち方になど興味を示していなかった。

 当時から随分と世話になっていた大人たちは麻雀教室を開いてはいたが、俺に麻雀を教えない父の方針を知っていたのだろう、誘ってくることはなかった。

 

 自分と同じ視点を持つ者に出会ったことで、俺は何を思ったのか。

 そのまま家に帰り、父の牌とマットを勝手に持ち出して、再び公園の丘へと向かっていた。

 

 

『何だよ、お前。頼むから、放っといてくれよ』

 

 

 少年――アイツの第一声は、そんな拒絶の言葉だった。

 

 明確な個人へ決して向けられることのない、やり場のない憤怒と憎悪で濡れた瞳。

 家が貧しいのか、それとも生まれつきなのか、同年代と比べても小柄で細い身体。

 

 アイツの第一印象は、触れるもの全てを傷つける氷の刃でも突きつけられたかのようだった。

 

 

『それ、いくつか抜けてる牌があるだろ? 一緒にやってもいいなら、これ使おう』

 

 

 全てを拒絶し、神の助けすら拒むような少年も相当だが、怯まずにそんなことを言った俺も相当だ。

 

 そうして俺とアイツの麻雀が始まった。

 俺もアイツが打ち解けるまで相当に時間がかかったが、それでも共に牌譜研究をできたのは互いに思うところがあったから。

 

 同時に俺とアイツの麻雀は、その日を境に激変した。

 今まで一人、たった一つの思考で行っていた作業が、別の視点と思考を得ることで、考えつく可能性が爆発的に増した。

 ルールもより正しいものに、他人の打ち筋はより明確に、より詳細に詳らかになっていく。

 

 更に相手を得ることで、牌並べは牌遊びへと成長した。

 二人で配牌を取り、それぞれが二人分の手牌を進行させる、まだまだ麻雀の形を得ただけの牌遊び。

 当時は三麻や17歩という遊びは、存在すら知らなかった俺たちには、これくらいしかやることはなかったのだ。

 

 

 ――そんな二人だけの遊びもまた、それほど長い期間ではなかった。

 

 

 放課後どころか、ほぼ毎日と言っていいほど公園で牌遊びをしていた俺たちは、周囲の人間からすれば奇怪なものに映ったらしい。

 子供が麻雀をするなら麻雀教室に行けばいい。小学校側が監督や指導者を雇って小さな倶楽部を開いていることもあった。

 まして、麻雀は室内でやるものだ。外――公園の休憩所でやるような文化は中国では珍しくないようだが、日本では珍妙でしかない。

 

 子供の間では噂になり、大人たちはそんな俺たちに近づくなと諌めていた。

 大人たちの杞憂。理解できない人間に近づくことで、自分の子供も似たような存在になることを恐れた。

 

 基本的に、子供は親の言うことに逆らわない。だが、それでも逆らう子供もいるものだ。

 

 純粋に麻雀に興味があったのか、単純に俺たちが何をしているのか知りたかったのか。

 兎も角、それぞれが見えない運命の糸を手繰り寄せるように、それぞれが別の日に、別の時間に、だが二人の少年が牌遊びの列に加わった。

 

 一人は優等生。誰からも愛され、誰をも愛し、才能に恵まれ、周囲に恵まれ、正に幸福になることを約束された少年。

 

 一人は悪童。誰よりも笑い、誰よりも怒り、誰よりも悲しみ、誰よりも喜ぶ、ひたすらに感情に対して正直で愚直な少年。

 

 そうして、俺たち四人は麻雀を知った。

 他人と競い合う楽しさと難しさ。麻雀に満ちる苦しみと喜び。意見を重ね、時にぶつかり合う意義と意味。

 

 余りにも小さい、たった四人だけの閉じた世界は、それぞれに大きな宝を与え、それぞれの成長を促したと今でも信じている。

 

 ――そして、閉じた世界(小さな古巣)が砕かれ、俺たちがより高みへと羽ばたいていくのは、まだほんの少し先の話だ。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 長野県長野市。

 周囲を山脈に囲まれながらも、盆地を中心に発展を遂げた市内には様々な市営の建物が存在する。

 インターハイ本選への振るいをかける場――県予選の開かれる会場も、そういった市営の競技場だった。

 グラウンドは陸上競技のみならず球技場としての使用も可能であり、その脇には室内競技――柔道や空手の試合や昇段試験が目的の体育館もある。

 そして、それとはまた別に、文化系の競技――百人一首や合唱・演奏コンクールは勿論のこと、競技麻雀までも対応した試合場が建造されていた。

 

 インターハイ長野県予選が行われ、高校生一万人を超える祭典への登竜門にして決戦場。

 

 会場には県予選参加校の関係者は勿論のこと、マスコミや試合観戦を目的とした多くの市民が集まっていた。

 

 

「うおー、デケー……」

 

「ここに来るのは全中の試合以来ですね」

 

「だじぇ! 京太郎も咲ちゃんも怖気づくなよ! 臆病風に吹かれたら、いつもの実力が発揮できないじぇ」

 

「おっ、言うなぁ、優希。咲は大丈夫か?」

 

「うぅ、私は人ごみ苦手だよ。………………迷子になりそう」

 

 

 会場前の広場には、一年組を始めとした清澄高校麻雀部の面々の姿もあった。

 それぞれの表情には、度合いの違いこそあったものの、一様に緊張の色が見え隠れしていた。

 特に咲など弱音まで吐いている。ただ、これからの試合に対しての緊張ではないあたり、なかなかに太い神経とも言えるだろう。

 

 咲の聞き逃してしまいそうな見当違いの小さな弱音に、京太郎は一人苦笑を刻んでいた。

 

 

「ほらほら、お上りさんじゃあるまいし、さっさと入るわよぉ」

 

 

 パンパンと手を叩いて、会場を見上げていた四人の視線を集め、久はさあ行くわよとばかりに肩で風を切って歩んだが――

 

 

「……ちょっとぉ、どうしたのよ?」

 

 

 四人はジト目で彼女を見据えるだけで、その場を動こうとはしない。

 

 久は自分を責めるような視線にたじろいだが、間に割って入ったのは呆れ顔のまこだった。

 

 

「部長は嵐さんのこと話とらんけぇ、自業自得じゃ」

 

 

 まだ麻雀部の部員は揃っていない。あと一人――古参の部員、日之輪 嵐の姿がなかった。

 

 今日の早朝、6人は清澄高校の最寄駅に指定された時刻に揃っていたものの、大会開始と諸々の手続きに間に合う電車が到着するまでに嵐は駅に現れなかった。

 品行方正かつ真面目な先輩が連絡もなしに約束をすっぽかすなどあり得ないと感じていた一年組であったが、久の“大丈夫よ”の一言で何も言わずについてきたようだったが、流石に事ここに至れば疑問も不満も頂点に達するのも無理からぬことだろう。

 

 一年の先輩に向ける信頼、という点において久もまこも嵐も同程度の信頼は得ている。

 が、そこは普段の行いの差か。何事も真面目に取り組む嵐と、常に遊びや悪戯を織り交ぜる久とでは、扱いに差が生じても仕方がない。

 

 

「それで、先輩はどうしたんスか? まさか病気とかじゃ……」

 

「アイツが病気になるわけないでしょ。誰よりも自分を律して規則正しく生きてるんだもの――――って、噂をすれば、ね」

 

 

 京太郎は純粋に嵐不在の理由を心配しての発言だったが、久はそれこそありえないとばかりに否定した。

 

 そこで全員が耳にしたのは腹の底に響くエキゾーストノート。

 昨今の低燃費やエコが重視された車のそれとは違う、バイク特有の音だった。

 

 広場と歩行者用の道路を挟んだ車道のコーナーから姿を現した黒いバイクはゆるゆるとスピードを落とし、広場の前で停車する。

 周囲を見回し、駐輪場の場所を探しているだろう乗り手は、紺色のジャージの上下にマットブラックのハーフヘルメットを被ってこそいたが、間違いなく嵐その人だった。

 嵐は6人の姿を見つけたのか、片手を上げて視線に応えたが、同じく手を上げて答えたのは久とまこの二人だけだった。

 

 一年たちからすれば、意外だったのだろう。

 嵐は留年した二年。年齢的に、バイクや自動車の免許を持っていても可笑しくはない。

 また清澄の校則は基本的に緩い。学校にナンバープレートと免許書のコピーを提出して申請し、安全運転を心がける旨の誓約書にサインをすれば、バイク通学の許可証も貰えることは知っていた。

 

 ただ、嵐が麻雀以外に趣味らしい趣味を持っているとは思わなかった彼らには、線画のみの絵に、ある日突然色付けされたようで驚いてはいた。

 

 バイクは今の世の中、どう考えても趣味の一品である。

 近場へ行くのなら免許の必要ない自転車か、荷物を乗せやすい原付の方がいい。

 遠出をするのなら、各種交通機関や天候、気候に左右されない安全な自動車の方がいい。

 それを理解した上で自動車よりも危険性が高く、自転車・原付よりも燃費の悪い、利点よりも欠点の方が多いバイクを選ぶのは、趣味嗜好の域。

 そういった遊びの領域を麻雀以外に割り裂いているのは、彼らの抱く嵐のイメージには、どうしてもそぐわなかった。

 

 

「おはよう。全員揃っているようだな」

 

「……あ、はい、おはようございます」

 

「うぉー、カッコいいなぁ。なんてバイクなんスか?」

 

「……確か、VTR250だったか。貰い物だから大事に扱ってはいるんだが、バイクには余り興味なくてな」

 

 

 嵐の発言に得心が言ったのか、ああ、そういうといった感じに一年組はそれぞれに頷いた。

 

 彼の話では、近所の農家から譲り受けたものだとか。

 バイト――というよりも近所付き合いの一環として、農作物の収穫の時期によく手伝いをするそうだ。

 農家側としても、真面目で体格も良い青年は、労働力として申し分のない人材であり、彼の周囲の農家からは引く手数多であった。

 嵐としても、お裾分けと称して家計の助けとなる様々な作物を貰っていた。些細であれ、恩のある人間が困っているのなら、手を貸すのは当然のことだった。

 

 そんな中で、あるバイク好きの農家の一人息子から、そのバイクを譲り受けたらしい。

 一人息子は結婚をすることになり、それを機に車も新調するようで、バイクに乗る機会は必然的に減っていく。

 愛着を持っているバイクを捨てるくらいなら、使う機会の多そうな人間に乗っても貰いたい、ということで白羽の矢が立ったのが嵐だった。

 VTR250は名前からも分かる通り、250ccと車検も必要はなく高速にも乗ることができる。その上、燃費も良く、癖も少ないからか、初心者から玄人まで乗れる人気の高い車種である。

 

 嵐も片田舎で生活する上で足があると何かと便利と考えていた。

 折しも自動車の免許を取得中ということもあり、バイトで溜めていた金にも余裕があった故、そのまま二輪免許も一緒に取得したとのこと。 

 

 

「……でも、どうしてバイクで?」

 

「咲ちゃんの言う通りだじぇ。心配したんだじょ」

 

「心配……? いや、久には連絡しておいたが」

 

「…………ヒュ~♪」

 

「成程、そういうことか。…………相も変わらず、享楽的だな。俺はお前の将来が心配だよ、久」

 

「ちょっ! そういう反応が一番堪えるんだけどぉ?!」

 

「知っている。だからこそ言葉を選んだ。…………遅れたのは新聞配達のバイトがあったからだ。終わってそのまま来たんだよ」

 

 

 それも彼の持つバイトの一つらしい。 

 新聞配達は開始も終了も地域によってまちまちであるが、5時半頃までに配り終えているのが大半だ。

 ちょうど駅への集合時間もその頃。どう急いでも間に合わない。

 

 前々日には配達が終わり次第、そのまま会場へと向かうと久に伝えてはいた。

 

 

「アルバイトも結構ですけど、こういう日くらいお休みを頂けば……」

 

「そうは言ってもバイト先も仕事として雇っているんだ。俺一人の都合で世界が廻っているわけではない」

 

「………………」

 

 

 そのような正論を吐かれれば、和としても黙らざるを得ない。

 無論、互いに相手へ気を使ったことを理解した上での会話である。険悪さやギクシャクとした雰囲気とは無縁だった。

 

 

「じゃあ、先に入ってロビーで待ってるから。駐輪場は、この先を左に曲がってすぐよ」

 

「了解した。着替えてから向かう」

 

 

 それだけ言うと、嵐は安全運転のまま駐輪場へと向かっていった。

 消えていく背中を見送り、清澄高校麻雀部も会場入りを果たすべく、久を先頭に歩み始める。

 

 戦いの始まりまで、あと数時間。

 各々の胸に、各々の思いと願いを抱えた雀士たちは頂点を目指すべく、決戦の地へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 ――――のだが。

 

 

「………………どういうことだ」

 

「いや、本当にちょっと目を離した隙に居なくなっちゃって」

 

 

 嵐が駐輪場にバイクを置き、トイレで学生服へと着替え、身嗜みをキチンと整えて仲間たちの待つロビーに向かうまでおよそ20分。

 

 その僅かな間に、咲は迷子になっていた。

 

 5人の待っていた場所は、正面玄関から十数メートル足らず。

 確かに会場には人が多い。しかし、ロビーの広さもあって満員電車のようなスシ詰め状態でもない。見慣れた背中を見失うかもしれないが、はぐれる方が稀だ。

 これで迷子になるというのだから、もはや恐ろしいレベルのポンコツっぷりを炸裂させていた。

 

 

「ああ、そうか。方向音痴の上に不安や思い付きで動くタイプなんだな、宮永は。…………東京の友人を思い出す」

 

「正にその通りなんスよね。ほんと、その場で動かなきゃ、まだ見つけ易いんですけど」

 

 

 迷子になった時の鉄則は、不用意にその場を動かないことである。

 曖昧な記憶に頼って動いたり、何となくで動くと余計に見知らぬ場所に出てしまう。渡り鳥のように正確な方角を知る機能は、人間に付与されていないのだから当然だ。

 最善はその場を動かず、周囲の道に詳しい誰かを呼ぶこと。次善は誰かに道を尋ね、極力分かり易い目印を示して貰いながら、元の道へ戻ることか。

 

 似たような友人を持っていたからか、嵐と京太郎は同じタイミングで小さい溜め息をついた。

 そして同じ気苦労を知る者同士、また一歩、心の距離が近づいた。二人にとっては、決して嬉しい歩み寄りではなかったが。

 

 

「手続きなんかは私が居れば出来るけど、どうしましょうか?」

 

「取り敢えず、俺と須賀で探しに行こう。まこと片岡はここに居てくれ。原村も捕まっているようだし、宮永と入れ違うかもしれんからな」

 

「了解だじぇ」

 

「すまんな、二人とも」

 

「気にしないで下さいよ。俺らは今日試合があるわけじゃないんですから」

 

 

 予選はまず団体戦を二日間。そこから数日を挟み、個人戦が二日間の日程で執り行われる。

 初日は一回戦と二回戦を先鋒から大将が半荘5回を競い、決勝に参加する四校にまで絞りこむ。

 二日目の決勝は一日かけて、それぞれが半荘二回を争い、トップに立った高校が本選への切符を手にする。

 

 決勝の方は敵の実力が上がり厳しいが、初日は半荘一回という短い中で実力を発揮せねばならない厳しさがある。

 どちらも一筋縄ではいかない戦いだ。特に初日は総合的な実力が勝っていようとも、“その場限りの運”に対して後塵を拝する可能性も十二分に存在している。

 

 京太郎も部内で拾った勝ちの殆どを“その場限りの運”が味方してくれたこそのものと自覚しているからか、これから試合に向かう彼女たちに、普段以上の気遣いを己自身に誓っていた。

 行ってきますとだけ残し、既に歩き出していた嵐の後を追う。

 

 視線を何となしに和へと向けたが、マスコミに囲まれ取材を受けている彼女の表情は明らかに辟易していた。

 

 

「はー、人気ですね、和の奴」

 

「マスコミからも注目の的になるのは当然だ。全中王者の実力は、インターハイで通用するのか。誰もが抱く疑問だろう」

 

「いやいや、それだけじゃないでしょう。ほら、見た目もいいし」

 

「…………アイドル雀士、という奴も居るからな。容姿に優れていれば、自然と人の目も集めるか」

 

 

 嵐には全くもって理解できない言い分ではあったが、否定はしない。

 己のように相手の一打一打に意義と意図を見出せる人間もいれば、そういった真似のできない人間、必要を感じない人間もいる。

 ましてマスコミ関係者の本分は、大衆に情報を発信し、より多くの注目を集め、収益を上げることにある。 

 そういった意味で、原村 和はマスコミにとって都合の良い人間であろう。人は商品自体の良し悪しよりも、商品価値や器自体に惹かれてしまうものだ。

 

 

「しかし、誰も彼も度胆を抜かれるだろうな」

 

「ですね。全中時代と今の和は比較にならないし。新生和――つーか、真“のどっち”のお披露目か」

 

「…………お互い、負けていられないな」

 

「勝てる気はしないし、劣っている自覚はありますけど、気後れするつもりはありませんよ?」

 

「ならいい。自覚があるのはいいことだ」

 

 

 合宿を経て、和の実力は大きく飛躍した。

 いや、正確にはネット麻雀において伝説とまで呼ばれたプレイヤー“のどっち”が、顔を露わにしたと言うべきか。

 全中時代において僅かしか見せなかった片鱗は、久の策により完全なものとなった。

 

 さながら蛹を経て蝶が羽ばたくように。殻を破り、雛鳥が卵から孵るように。

 

 ――あるいは画面の中にしか存在しなかった天使(アバター)が、肉の器と共に現実へと抜け出してきたかのように。

 

 二人の心に心配や杞憂はない。

 結果がどうなるかは分からないが、それでも彼女たちの実力が評価されることを確信している。

 

 

「…………ところで、やはり二階や三階も探して回った方がいいのか、これは」

 

「残念ながら、咲の迷子はそういうレベルっす……!」

 

「そうか。……だろうとは思っていたが、宮永や俺の友人は思考からして理解できんな」

 

 

 目下の心配は、影も形も掴めぬ咲を、広い会場から見つけ出すことだった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 会場を京太郎と手分けして探し始めて早30分。

 少なくとも一般人の立ち入りが許された場所は全て見て回り、周囲の人間に聞いて回ったものの、咲の手掛かりは一向に掴めていなかった。

 最早、異次元にでも迷い込んだのではないか、と疑いたくなるような迷いっぷりである。

 

 

(入れ違いにでもなっていなければ、あとは――)

 

 

 残された一室を前に、嵐は足を止めた。

 誰に対しても物怖じせず、自らの感じたことを率直に伝え、行動に一片の躊躇も一切の容赦のない男が足を止めたのである。

 それは恐れからではない。真っ当な倫理観によるものであった。

 

 男子に入ることの許されない女子のみの領域。

 ストレス社会と呼ばれる昨今の世の中において、束の間の休息と強烈なまでの解放感、多幸感の約束された聖域。

 そして、社会の荒波に揉まれる前に、身嗜みを整えたい乙女心を汲んだ神域。

 

 ――即ち、女子トイレである……!

 

 

「…………」

 

 

 嵐は見上げた赤いスカートの女性を模した女子トイレのプレートを見上げ、ふぅと嘆息した。

 

 周囲を見回すが人っ子一人いないありさま。

 彼の名誉のために注釈しておくが、決して中に入る機会を窺っているのではなく、これから入る人間がいないかを探しているだけだ。

 そもそも嵐は欲望に忠実な変質者でもなければ、考えなしの愚か者でもない。女子トイレに立ち入るくらいなら、入口の前で相手に対して呼びかける人間である。

 

 その女子トイレの中には、人の気配があった。

 普段ならば気にも留めないし、わざわざ気配など探りもしないが、如何せん迷子探しの最中である。中の人物が咲の可能性がある以上、そのままスルーとはいかない。

 

 そこで通りがかった女子に事情を説明してみて来て貰おうとしているのが現状だった。

 しかし、待てど暮らせど誰一人通りがからない。

 それも当然だ。ここは大会参加校の関係者のみが立ち入りの許された場所。一回戦開始一時間前ともなれば、何処の高校もミーティングを行っている。人が増えるのは試合開始前の小休止を思い立つ、もう少し後だろう。

 

 そうこうしている間に、中に入っていた人物は自らの用を終えて女子トイレから姿を現した。

 

 

「あら……?」

 

 

 中から出てきた人物が嵐を目に留めての第一声は、警戒心の感じられない穏やか響きが含まれていた。

 普通ならば、女子トイレの前で悩むような素振りを見せる男など、警戒心を抱いても不思議ではないが、どうやら生来の気質がおっとりとした少女のようだ。

 

 出てきたのは、可憐でありながら芯の強さを持っていそうな少女。

 黄金の麦、その穂先を連想させる肩まで伸びた髪。年齢以上の母性を感じさせる表情と身体つき。そして、何故か閉じられた右の目蓋。

 

 

(…………彼女は、風越の)

 

「あの、どうかなさいましたか?」

 

 

 この少女こそ、久たちが全国へ向かうために越えねばならぬ壁の一つ。

 風越女子のエースにして、80名以上の部員を率いるキャプテン。一年の頃より全国出場を果たし続ける猛者。

 

 ――――風越女子、福路 美穂子。

 

 前年度、7年連続インターハイ出場を逃してはいるものの、今大会も極めて高い成績を残すであろうと注目される者の一人。

 

 風越はシード権を獲得しており、1回戦は免除。実質的な始動は午後の2回戦からとなる。

 人の居る筈のない場所にいたのは、そういった理由もあるのだろう。

 

 

「――――不躾で申し訳ないのだが」

 

「はい、何でしょう。私に出来ることなら、お手伝いしますが」

 

「そうか、助かる」

 

 

 そのような相手であっても嵐は物怖じせず、しかし礼節を損ねずに接する。

 

 美穂子もまた、普通に考えれば不審人物でしかない嵐に対して、朗らかな笑みを浮かべて応えた。

 困っている人間には無償で手を差し伸べる生粋のお人好し。周囲の人間はさぞやヤキモキとした思いに苛まれていることだろう。

 態度や考えに違いはあったものの、その一点に関して嵐と美穂子は似通っていた。

 

 嵐は自らの目的と咲の特徴を伝えたが、返ってきたのは芳しくない結果だった。

 

 

「ごめんなさい。中には私以外には誰もいませんでしたし、特徴と一致する娘も記憶に……」

 

「そうか。…………手を煩わせた。礼しか言えない身だが、感謝する」

 

「あの、よろしければ、ご一緒にお探ししましょうか?」

 

「いや、それには及ば―――――」

 

 

 美穂子は純粋な善意から手助けを申し出たが、嵐もまた純粋な善意によって拒絶しようとした。

 

 このまま行けば、手伝います、いや構わないという将棋の千日手を思わせるやり取りが発生したのだろうが――

 

 

「あーーーーーーーーーーッッ!!!」

 

 

 ――二人の会話を遮る大音量が廊下に響き渡った。

 

 二人が視線を向ければ、廊下の突き当たり。別の通路と繋がったT字路の前に指をさしている者と他何名かの少女たちが居た。

 皆一様に白いセーラーと桜色のスカートを身に着けており、誰の目からも見ても風越女子の一員であることは明らかだ。

 

 

「華菜……?」

 

「もしかしたら、君を探していたのではないか?」

 

「いえ、控室を出る時には一言断りましたけど……」

 

 

 華菜と呼ばれた少女が大声を張り上げる心当たりがあるはずもなく、嵐と美穂子は困惑して顔を見合わせ、首を傾げた。

 

 

「ウチのキャプテンに何してるしぃぃぃぃぃッッ!!」

 

「か、華菜ちゃん?!」

 

「い、池田先輩! やめてください!」

 

 

 妙に波長の合うらしい二人の様子が気に喰わなかったのか、友人たちの静止を振りきり、池田(いけだ) 華菜(かな)は地面を蹴った。

 スタンディングスタートにしては素晴らしい初速を見せ、二人と距離を詰める間にも加速していく見事な疾走である。

 

 

「え? ……えっ?」

 

「何というスタートダッシュ。実に見事だな」

 

 

 突然の行動に、美穂子は困惑。

 嵐は嵐で、あまりにも見当違いな賞賛の言葉を送っていた。

 

 

「キャプテンから離れるし、このナンパヤロォォォォっっ!!!」

 

「……成程、そういうことか」

 

 

 華菜の目には、嵐がそのような人間に映っていたらしい。

 オロオロとしている美穂子の動揺に反し、嵐は唐突な行動の全てに得心がいったのか、落ち着いた様子で静かに頷いた。

 

 そんな二人の困惑や動揺を余所に、華菜は再び地を蹴り、今度は宙に舞う。スタートダッシュに続き、見事な跳躍であった。

 蹴りが必殺技の某正義の味方を彷彿とさせる美しい放物線を描きながらも、標的から軸のブレない飛び蹴り。

 

 

「華菜ちゃんキィィィィィック!!!」

 

(避け――――ると彼女が怪我をしそうだな。素直に受けるか)

 

 

 余りの驚愕に言葉も出ない美穂子を余所に、嵐は冷静に彼我の体重差を計算し、更に避けた場合に相手が怪我をする可能性も考慮した上で、腰を低く重心を落とした。

 迫りくる体重が丸ごと乗った靴底を見ても大した感慨も感情も見せず、不動の大勢を崩さない。 

 

 砲丸の勢いの飛び蹴りを、右の前腕だけで受け止めた。

 

 

「にゃ!? にゃにゃにゃ?!?!」

 

「――――む」

 

 

 彼女からすれば、キャプテン――美穂子がナンパされていることも予想外ならば、自分の飛び蹴りを片腕で受け止められるのも予想外だったのか、猫が慌てふためくような声を上げる。

 

 物体は重力に引かれ地面に落ちる。

 見事な跳躍を見せた彼女でも例外ではなく、運動エネルギーを喪失すれば重力の縛りから逃れられない。

 蹴りの方にばかり意識を引かれて着地を意識していなかったのか、そのままリノリウムの床へと腰を打ちつける――ことはなかった。

 

 嵐は空いていた左腕で咄嗟に相手の胸倉を掴みあげ、地面への接触を阻止してみせた。

 

 

「…………ひぃっ」

 

 

 相手の気遣っての行動であっても、傍目から見れば酷いものだった。

 小柄な少女の胸倉を掴み、今まさに殴りかかろうとしているやたら目付きの鋭い大柄な鬼畜男の図、完成の瞬間である。

 

 華菜にしても同様の考えなのか、先程の威勢は何処へやら、情けない声を上げて両腕で顔を庇う。

 

 しかし、嵐は気にした様子はなく、そのまま立ち上がれる高さまで彼女を持ち上げると、ぱっと手を放した。

 

 

「にゃ…………にゃ?」

 

「華菜、何をしてるのっ!」

 

「これで、ようやく弁明の機会を貰えるようだな」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

『すみませんでしたっ!』

 

「いや、互いに怪我もなかった。いい加減、頭を上げてくれ」

 

 

 その後、美穂子を口説いているナンパ男という誤解を解いた嵐は、今度は自らの前に下げられた五つの頭に辟易していた。

 

 シチュエーションを考えれば、そう誤解されても仕方のない場面であった。

 まして、僅かな間に見た美穂子への慕いようを目にすれば、華菜の行動も納得がいく。

 怪我もなく、誤解が解け、その上誤解していた張本人も嘘偽りなく反省していた。嵐にしても、何一つ言うことなどない。

 

 

「あの、本当に、お怪我は……?」

 

「ない。いらん世話だ、気に掛ける必要はない。御覧の通り、体格は人よりも恵まれている」

 

 

 ようやく上がった五人の(おもて)は、申し訳なさ一色に染まっていた。

 勝手な誤解をした挙句、一歩間違えれば怪我を負わせていた罪悪感。そして、実態は別にせよ、冷たさを感じる嵐の物言いにも問題があったのだろう。

 当然と言えば当然の反応であったが、嵐は余りの人の良さに苦笑いを浮かべそうになる。

 

 ここで他校の生徒に怪我を負わせたとあれば、よくても悪評が広がり、最悪の場合は出場停止処分を喰らいかねない。

 大事な試合が台無しになりかねない瀬戸際で、純粋に相手を気遣っているのだから、人が良いと言わず何というのか。

 

 美穂子の影響なのか、全員が心配しているのは、あくまで嵐の身体と機嫌だけ。他の感情は彼の目をしても見受けられなかった。

 

 嵐に蹴りを浴びせた池田 華菜も。

 眼鏡をかけた少女、吉留(よしどめ) 未春(みはる)も。

 線も細ければ目も細い、文堂(ぶんどう) 星夏(せいか)も。

 縦にも横にも幅広な、深堀(ふかぼり) 純代(すみよ)も。

 そして言わずもがな、福路 美穂子も。誰一人として例外はない。

 

 これ以上、気に病ませるのも酷かと口を開こうとした時――――

 

 

「こらー! 嵐ー! いつまで油売ってるのー!」

 

 

 背後から声がかかった声に振り返る。

 見れば、さきほど華菜が立っていた辺りで久が腰に手を当て、いかにも怒っていますといったポーズで咎めるような視線を向けていた。

 

 

「宮永さんなら須賀くんが見つけてきたから、戻ってミーティング始めるわよー!」

 

「――タイミングがいいのか悪いのか。まあ、いいか。……此方も探し人は見つかったようだ。不要な誤解を招いて悪かったな」

 

「い、いえ、此方こそ華菜ちゃんがご迷惑をお掛けして」

 

「…………うぅ、本当にごめんなさい」

 

「いや――――」

 

 

 もう一度頭を下げた華菜に、最後に言葉をかけようとして嵐を飲み込んだ。

 急に彼女の行動に腹を立てたのではなく、かけるべき言葉を探していたのでもない。

 

 どういうわけか。驚きで固まった美穂子の表情を目に留まっただけ。

 頑なに閉じられていた右の目蓋まで見開き、左右でそれぞれ色の違う瞳を曝しながら。

 今まで閉じられていたことには何かしらの意味がある。だが、それを忘却してしまうほどの衝撃を与えたものは何だったのか。

 

 彼女の視線が向けられていた先には――――

 

 

「――――――清澄高校の日之輪だ」

 

「……………………え?」

 

「いや、礼を失していた。名乗るのを忘れていたからな。それにそちらは長野の有名人だ。此方だけ名前を知っているのは不公平だろう」

 

「あ、あぁ、えっと……」

 

「キャプテン……?」

 

「そちらの、池田だったか。ないとは思うが、身体に異常があるようなら連絡してくれ。治療費は工面しよう」

 

「い、いや、こっちが先に勘違いして手を出したし、そこまでして貰わなくても……」

 

「理由はどうあれ、怪我をしたのなら俺の責任でもある。さっきのは事故のようなもの、互いに責任を背負うのが筋だ」

 

「……はあ」

 

「用向きがあれば会場で声をかけてくれ。捕まらないようなら学校に電話を。…………それから、目蓋が開いているが構わないのか?」

 

「え? ……あっ」

 

「――――色々と無駄な手間をかけさせたが、感謝する。では、縁があれば、また」

 

 

 言うべきことは全て伝え、小さく頭を下げてから身体を翻す。

 嵐が最後に見たのは、恥じ入るように右目を手で覆い隠した美穂子と訳が分からないといった表情の四人だった。

 

 

「ちょっと、今の娘たち、風越女子でしょ? アンタ、何やらかしたのよ?」

 

「開口一番がそれか。宮永を見たか聞いただけだ。…………まあ、その後に蹴られたが」

 

「はあ? なんでそれで蹴られるわけ?」

 

「勘違いだ。…………ああ、いや、もしかしたら片岡が勘違いしていた最近は女子に話しかけただけでナンパに準ずる行為というのも、あながち間違いではないのか?」

 

「いや、ないわよ。ないない、それはない」

 

 

 何時ぞや、優希にからかい半分で和をナンパしていると言われたことを思い出し、そんな言葉を口にしたが、即座に否定された。

 むぅ、しかしと唸るも、久の呆れた視線を感じ、思考を中断する。

 

 

「…………ところで、お前は彼女と知り合いなのか?」

 

「何よ、藪から棒に。知り合いなわけないでしょ、風越は行きたいと思ってたけど行けなかったんだから」

 

「……そうか。ならば俺の勘違いだろう。忘れてくれ」

 

「――――あ、でも、何処かで見たことがある気もするわね」

 

 

 今度は久が首を傾げる番だった。

 

 福路 美穂子と竹井 久は、必ず何処かで顔を合わせている。少なくとも嵐の受けた印象はそうだった。

 明らかに美穂子の視線は久に向けられており、その衝撃がどれほどのものだったかは推し量るまでもない。

 戒めか、信念か。何らかの訳あって閉じていた目蓋が、意図せずに開かれた。余人でしかない嵐に分かる訳もない事柄だった。

 

 嵐は敢えて己が何処の誰なのかを伝えていた。

 所詮、彼女たちとの出会いは偶然によって生まれた一度限りの産物。互いのことを深く知る必要などない、感謝だけ伝えれば構わない間柄。

 

 それでも、彼女たち――正確には美穂子に対してのみではあるが――には、報いねばならないだけの手は煩わせたと感じていた。

 

 美穂子が何らかの思いを久に抱いているのは間違いない。

 だが、美穂子にとって印象的な出来事だったとしても、久にとっても同じとは限らない。

 物事は一面的な視点では全体像を把握できない。多面的な視点をもって、初めて全体が把握できる。

 これはその視点の差。美穂子を過去の出来事を引き摺り過ぎだと責めることはできないし、久にも薄情者と罵ることもできない。

 

 だからこそ、それとなく道を作っておいた。作った道を渡るかは、美穂子の意思次第。

 もし、どうしても久に言いたいことがあるのなら道を活用するだろう。そうでなければ、何も置きはしない。

 どちらに転ぶにせよ、誰一人も損をせず、生まれるのは利益だけ。

 

 

(少なくとも、彼女の表情に悪意はなかった。あるのは驚愕と――――喜びか。少なくとも此方が害されることはない。しかし……)

 

 

「何よ、その目は」

 

「いや、随分と人の顔を覚えない女だと思ってな」

 

「失礼ね。これでも記憶力はいい方なんだから」

 

「それもそうか。学生議会長ともなれば、それくらいのことはできなくては務めるまい。もっともそれ以前の記憶は曖昧になっているようだが」

 

「あのねぇ、アンタやまこみたいにズバ抜けた記憶力を持ってる方が可笑しいんだからね。そこのところ、理解してほしいものだわ」

 

 

 ぷりぷりと可愛らしく怒った久は、一人足早に先を行く。

 そういうものか、と思いつつも、嵐は首の振りを抑えることはできなかった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「…………ぶはぁ、緊張したぁ」

 

「許してくれたからよかったけど……、華菜ちゃんは短絡的すぎるよ」

 

「気持ちは分からないでもないですけど、相手が複数人だったらどうするつもりだったんですか」

 

「…………兎に角、暴力はいけない」

 

「うぅ、反省してます。キャプテンも…………キャプテン?」

 

 

 友人からの批判を素直に受け止め、もう一度皆に謝ろうとした華菜であったが、美穂子の様子に言葉を止めた。

 何処かほんわかとした彼女であるが、呆けているのは珍しい。何時もは声をかければ即座に反応が返ってくるし、声をかけずとも相手の意図を察して自分から話しかけることもあるほどだ。

 

 その美穂子が、清澄高校の日之輪と部活仲間と思しき少女が消えていった方向を何も言わずに眺めていた。

 

 

「どうかしたんですか……?」

 

「…………あ、あぁ、いえ、何でもないわ。それよりも華菜、すぐに暴力に訴えては駄目よ。まずはキチンと事情を聞いて、話し合いなさい」

 

「はい、仰る通りです……」

 

「でも良かったわ。あの人――えっと、日之輪さんが大らかな人で」

 

「あ、アレで大らかですか。私には冷たい感じの人に見えましたけど」

 

 

 少なくとも美穂子以外の四人には、日之輪は冷酷な鉄面皮にしか映らなかったのだろう。

 全くといっていいほど変化しない表情は、湧きあがる怒りを抑えている裏返しであり、あくまで倫理に沿った行動を見せているようにしか思えなかったようだ。

 人物評は、理性的な人物であるが、大らかさには程遠い男といった所か。

 

 しかし、美穂子の目は、日之輪と言う人間像を極めて正確な形で見抜いていた。

 あの言動も、行動も全て本心によるものであり、鋼鉄の無表情は、あくまでも相手に必要以上の気遣いを避けるため。

 無表情の裏に隠された優しさは、十分すぎるほど伝わっていた。

 

 

「…………それに、清澄だったわね」

 

「聞いたことない高校ですね。初出場校なのかな?」

 

「ウチと同じブロックにはいなかったと思いますけど……」

 

「…………確か、Dブロックにそんな読み方の高校があった気が……」

 

「すーみん、よくそんなとこまで見てるなぁ。色々迷惑かけたけど、それとこれとは話は別! 決勝まで上がってきたら全力で叩き潰すし!」

 

 

 美穂子の言葉に、それぞれが思い思いの言葉を口にする。

 しかし、決して表には出さなかったが共通する疑問を胸に抱いていた。

 

 ――何故、無名の高校にそこまで拘るのか。

 

 少なくとも彼女達の知る福路 美穂子という人間は、油断や慢心とは無縁の人間である。

 相手が強豪であろうとも無名であろうとも、抱く警戒は一律。敬意を以て全力を尽くす。自分の努力や性能に自信を持っているが、決して過信へと繋がらない性格だ。

 

 

「吉留さん。その、……」

 

「――清澄高校の試合映像を調べますか?」

 

「無名校ですから牌譜なんかはネットに転がっていないでしょうね。一回戦の試合を撮っておかないと」

 

「……あと、キャプテンは機械オンチだから牌譜にも起こさないと」

 

「にゃー! 龍門渕の対策も立てなきゃだし、やること山盛り! 先に控室戻ってますね! キャプテンも寄り道しないで戻ってきてくださいよー!」

 

「え、皆、そんな無理に―――――あぁ、行っちゃったわ……」

 

 

 だが、その全てを飲み込んで、四人は足早に控室へと戻っていった。

 彼女達にとって、疑問などどうでもよかった。問題なのは、キャプテンである美穂子が理由はどうあれ、清澄という高校に何らかの思いを抱いていること。

 

 福路 美穂子は周囲への献身を怠らない少女である。

 皆が麻雀を楽しんでくれることが嬉しい。そんな理由で多くの雑用を自ら引き受け、自分の時間を削って周囲を支えてきた。

 部員たちは、誰もが美穂子を尊敬し、誰に対しても誇れる部長と信じている。

 

 それでも苦々しく思っていることはあった。

 美穂子の献身に、応えられているのか。彼女の後に続く者として相応しい振る舞いと実力を身に着けられているのか。

 献身には苦痛が伴うもの。だが、献身を受ける側もまた苦しい思いを抱えることは決して珍しくはない。

 

 そんな美穂子が僅かなりとはいえ我が儘を、自分の願いを示してくれた。

 それに応えずして何がチームメイトか、何が後輩か。四人の胸中にあったのは、概ねそんな熱い思いだった。

 

 

(………………無理をさせた、かしら)

 

 

 後輩達の思いに気付いていたらしい美穂子は、目頭が熱くなるのを感じた。

 どれだけ我慢しても、溢れる思いを止めることはできない。彼女は悲しみで涙を流しはしないが、喜びによってよく涙を流す性質だった。

 

 誰にも見られることなく、嗚咽を漏らすこともなく、静かに涙を流した美穂子は俯いていた顔を上げる。

 

 その瞳に灯るのは、決意と闘志の炎。

 彼女もまた、負けられぬ思いを抱いた一流である。

 

 

(あの人は、上埜さん。見間違えるはずがないわ)

 

 

 彼女の脳裏に浮かんでいるのは、苦々しくも楽しかった思い出。

 三年前のインターミドルにおいて、彼女は苦戦を強いられた。今まで対局してきた相手とは、全く違う打ち筋に翻弄された。

 

 名前は上埜 久。

 美穂子の知るところではないが、ある事情から名字の変わった竹井 久の以前の名前である。

 

 

(もし、……もし、彼女が以前の――いいえ、それ以上の実力を身に着けていたとしたら、そして彼女が認めるほどのチームメイトだとしたら……)

 

 

 間違いなく、決勝で立ち塞がる壁となる。風越の栄光を阻む存在となる。

 

 確証などないままに、確信できることもあるものだ。そして、それは決して間違ってはいなかった。

 

 

(それでも、負けません。…………そして、)

 

 

 闘志とはまた別の淡い思いを胸に秘め、福路 美穂子は決意を新たに大会へと挑もうとしていた。

 




間が空きましたが、第七話でした。
そして風越に清澄警戒フラグが。主人公のせいで部長とキャプテンの出会いが早まった結果ですねー。

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております!

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