咲-Saki- The disaster case file   作:所在彰

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※7月26日 誤字・脱字修正しました。


第一話 『出会い』

 俺の麻雀は、まず読み取ることから始まった。

 

 始めにあったのは麻雀牌。

 父は麻雀を心から愛していた癖に、俺に麻雀を教えてはくれなかった。

 今となってはその理由も納得しているが、当時は文句こそ言わなかかったものの不満には思っていた。

 

 それでも麻雀に興味を引かれたのは、牌に魅入られていたからだ。

 麻雀というゲームは楽しむ以前にルールすら知らなかったが、34種・計136枚の並びを子供ながらに美しいものと認識していた。

 

 父が仕事で家にいない時、目を盗んで牌を並べてよく遊んだ。

 パズル感覚だったのか、単なるおもちゃ扱いだったのか。今になっても言葉にすることはできない。ただ、とにかく楽しかったという記憶しかない。

 

 そこから、ある日テレビをつけてプロ同士の対局を目にし、牌の本来の使い方を知った。

 笑みと共に一枚の牌をツモる動作。闇の中を歩くが如く、牌を切る苦悩。和了りを目指しながらも、時に当たり牌を止める姿勢。

 羨ましいと思いはしなかったが、楽しそうだなとは思った。

 

 ――その日から、誰に教えてもらうこともなく、俺は麻雀を学んでいった。

 

 元より牌に魅せられていたのだ。麻雀に傾倒するのも、時間の問題だったのだろう。

 父に何も聞かなかったのは、子供心に教えてはくれないだろうという思いと、麻雀を愛しながらも教えない姿勢に苦悩を感じ取っていたから。

 

 だから必死になって中継を見続けた。

 やがて麻雀は四面子一雀頭を作るゲームであると学び、鳴きというルールを理解し、捨て牌から相手の手牌を予想できることに気づいていった。

 その一打にどんな意図が込められているのか。その鳴きにどんな意味があって動いたのか。

 

 手牌と捨て牌を再現し、ただ一人で学ぶ日々。

 それが、俺の麻雀の屋台骨にして原初の姿。

 

 人と卓を囲み、実際に麻雀を打つ楽しさを知るのは、まだほんの少し先の話だ。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 六月の半ば。

 気候も湿度と気温が格段に高まり、日本特有の蒸し暑く、過ごし辛い夏へと変遷を迎える真っ只中。

 清澄高校周辺の田には稲の苗が綺麗に並べて植えられ、いかにも初夏らしい風景が広がっていた。 

 

 

『ロン』

 

「だぁぁぁぁ!? やられた!!」

 

「――――惜しかったな」

 

 

 そんな初夏の放課後。

 麻雀部の部室にパソコンから流れる無慈悲な電子音と悲鳴染みた叫び声が響いた。

 

 パソコンの前に座っていたのは新入部員の一人、須賀 京太郎。その後ろで見守っていたのは古参部員の日之輪 嵐。

 

 彼らが行っていたのは国内で最大級の登録人数を誇るネット麻雀サイト。

 基本ルールも競技大会に則しており、世界の麻雀競技人口が数億人を突破した今でも高い人気を誇るサイトの一つ。

 

 

「くっそー、出和了りでもツモ和了りでも逆転トップだったんだけどなぁ」

 

「まあ、不用意であったのは否めん」

 

 

 今しがた終わった対局の内容は、南四局に下家のプレイヤーに京太郎が振り込み、下家は最下位の逆転トップ、京太郎は最悪のラスという結果だった。

 元々の点差に開きは少なく、ツモりツモられを繰り返し、何とか京太郎が二位を守っての最終局(オーラス)

 

 

 南4局0本場 親・下家 ドラ{②}

 

 京太郎手牌

 {一二三五六七②③④68西西}

 

 

 5順目で既に京太郎の手牌は、この形であり、カンチャン待ちであったが即リーといった。

 

 

「最近の麻雀は、何より速さが求められる。ドラ1ならばカンチャン即リーも珍しいことじゃない」

 

「ですよね。でも上がりまで15順目まで縺れ込んじゃいました」

 

「そうだな。そこで対面の捨て牌を注目しろ」

 

 

 対面・捨て牌 5順目

 

 {西③南61}

 

 

「さて、これをお前はどう読む?」 

 

「んー、……早すぎて何とも言えないですけど、{6}の後に{1}切りは変、ですかね?」 

 

「――――悪くない着眼点だ」

 

 

 基本、麻雀は端の幺九牌や手牌において浮いている牌から処理していくもの。

 幺九牌と周辺の牌で構成される役は極端に少なく、役牌が対子か暗刻でない限り、狙っていくのを躊躇する場面も多々ある。

 

 

「対面はかなり早い段階で決め打ちをするタイプだった。チャンタを狙うにしても、字牌は仕方ないのも分かるが{③}の出が早すぎる」

 

「浮いてるにしても先に{6}を切らなきゃ可笑しいってことですか」

 

「その通りだ。そして、3順目に下家が{北}を切った時、僅かながらに止まり、結局は誰も鳴かなかった」

 

 

 それは対面か上家が北の対子か暗刻を抱えている可能性が高かったということである。

 しかし、どちらにとっても旨味は薄い。自風でも場風でもない字牌を早い段階で鳴くのは自殺行為と言っても差支えない。

 

 

「対面に{北}の対子か暗刻があるとしたら、狙いは混一……でも、鳴くほど寄ってなかった?」

 

「ふむ、萬子に寄っていた可能性も否定できないが、それでは{6}から{1}切りの説明がつかないな」

 

「うーん、となると…………ああ、七対子か」

 

「そうだな。5順目以降、対面は切り出しが遅くなっていた。七対子と決め、他家の捨て牌を見て重なりそうなところを残していたんだろう」

 

 

 七対子は四面子一雀頭を作る麻雀の中で、七つの対子を作る異質な役。

 ドラの重なりがなければ高い役ではないが、最終的に待ちは単騎となり、捨て牌の迷彩が施しやすく、出あがりも期待できる。

 点数に開きのない場面において、北を鳴いて誰からも分かる混一に向かうよりも、手を作ること自体が難しい七対子を選択したのだろう。 

 

 

「恐らく、5順目の時点で萬子の対子が2つか3つ手にあったが、鳴くよりも手牌を読み辛くしてトップへの直撃を狙ったというところか」

 

「……この{6}切りは、隣の{5}か{7}を対子で抱えていたってことですか」

 

「それだけとは言い切れないが、可能性は高い。当たり牌を二枚を抱えられている可能性がある状態でのカンチャンリーチは自殺行為だった、ということだ」

 

「うーん、リーチで威嚇したつもりが、蓋をしただけだったんスね」

 

「それにネット麻雀は最後に押してくる可能性も高い。失うものは何もないからな」

 

 

 失うものは、精々がレーティングや自身の階級・段位だけ。

 競技大会のように公の場でもなく、団体戦のように仲間からの信頼を失ないもしない。自然、無理をしてくる人間も多くなるだろう。

 

 

「さて、答え合わせをしてみるか」

 

「うっす!」

 

 

 二人の利用しているサイトは対局後、過去の牌譜を確認することができる。最近ではそう珍しい機能ではない。

 

 この一ヵ月、二人の部活動はこうしたネット麻雀での対局と検討会の繰り返しだった。

 嵐がそうした理由は、予想していた以上に優希や和といった一年組の中で力量に開きがあったからだ。

 

 優希は東場における和了率、打点、テンパイ速度、どれを取っても常人とは桁違い――というよりもほぼ異常といって差支えのないレベル。

 和はインターミドル個人戦の優勝者。そもそも初心者の京太郎と実力を比べる時点で間違っている。

 久にしても、まこにしても、麻雀に携わっている時間が違う。言わずもがな、嵐もだ。

 

 部活内に、ただ一人の初心者というのは何かと肩身が狭い。

 その上、何度対局しても負け続け、負け通しではストレスが貯まる。そこから麻雀への興味や関心が薄れていくことを危惧したのだ。

 

 よってまずはネット麻雀で、同じ程度か、その少し上の実力の相手と対局を繰り返すことで、基礎を固め、自力を上げさせていった。

 無論、後ろから見ているだけでなく、あからさまなミスをした場合は即座に指摘し、ミスとは呼べない押し引きの妙は検討会で話し合う。

 

 

「ふむ、ネット麻雀でも勝率が上がってきているな。俺がいない時、部活内での勝率は?」

 

「あー、前は全然でしたけど、今は10回か20回やれば一回トップを取れるくらいですかね」

 

「まだまだだが、初心者にしては上出来だ。ラスを引く回数は?」

 

「それなら優希の方がちょい多いくらいだと。アイツは基本押せ押せだからですかね」

 

「攻めは一流、受けは三流の典型だな。大会までの課題だ」

 

「はあ、俺も取り敢えず出ようとは思ってますけど、どこまでいけるかなぁ」

 

「さてな。それはこれからのお前の努力と当日の運次第だ」

 

 

 二人でプリンターから印刷された今日の牌譜に目を通しつつも、細やかな談笑に花が咲く。

 嵐は京太郎の素直で真っ直ぐな性格を認め、京太郎は嵐の厳しく容赦がないながらも、大らかな性格を尊敬しつつあった。

 会って一ヶ月ほどでも、気さえ合えば人の仲など急速に近づくもの。互いの気質が噛み合った結果、二人は真っ当な先輩後輩としての関係を構築していた。

 

 

「――――ところで誰か、部活に入れそうな友人はいるか?」

 

「え? もしかして、俺なんかやらかしました?」

 

 

 唐突な嵐の問いに、慌てたように京太郎は自分を指さして椅子から立ち上がる。

 自身に何ら疚しい所がなかったとしても、そのような質問をされれば、知らず知らずの内に問題を起こしてしまったと考えても仕方がない。

 

 

「いや、そうじゃない。もしお前に問題があるようなら、教育係の俺が真っ先に指摘するさ」

 

「そうですよね。先輩、容赦ないですし」

 

「…………すまんな。悪気があるわけではないのだが」

 

「あ、いや、こっちも悪いんで。遠回しに言われるよりか、はっきり言ってくれた方がまだ……」

 

 

 京太郎が知った嵐の言動は、容赦がないものの、悪意や誰かを嫌って貶すものではないということ。

 事実、京太郎の一言に落ち込んだように肩を落としている。自覚をしながら、それをなかなか改善できない者の苦悩が感じ取れた。

 

 もっともヘコんだことは一度や二度ではなかったが。

 

 

『残念ながら、お前に麻雀の才能はないな。だが、見込みはゼロではないか』

 

 

 ネット麻雀をしている時に、そんなことを言われた。その際、嵐は久に助走をつけてぶん殴られた。

 恐らく、これが最も彼の落ち込んだ一言だったろう。見込みはゼロではないというのも、取って付けたようでありがたみはまるでない。

 

 それでも嵐を嫌わなかったのは、その才能がない後輩を、才能がないという理由で切り捨てなかったから。

 部活に顔を出せば、始まりから終わりまで京太郎の打ち筋に目を通し、改善点を指摘する。

 久やまこは、自身の実力向上を目的としているために、質問をしても返ってくる答えがおざなりであることも少なくなかった。

 対し、嵐は自分の時間を削ってまで、京太郎の実力向上に努めていた。事実、今日この日まで、部活において彼が対局している姿を見ていない。

 

 ある時、それを疑問に思い、直接問うてみたことがある。 

 

 

『気にすることじゃない。現状、部内で人の手が必要なのがお前なだけだ。それに安心しろ、家に帰ったら勉強がてら牌譜の研究も一人でやってる。実力が向上することはあれ、衰えることはない』

 

 

 才能の有無に関わらず、必要だからこそ、自身の役割がそういったものだからこそ、俺はお前が強くなれるように、麻雀を楽しめるように努めている。

 

 返ってきたのは、そんな気持ちがはっきりと伝わってくる言葉だった。 

 初めて出会った時、久の人間出木杉君という言葉を、すんなりと受け入れられてしまうほどに。

 

 麻雀の実力は分からないが、人として尊敬できることは間違いない。それが京太郎の嵐に対する認識であった。

 

 

「はあ、それじゃあマネージャーとかですか?」

 

「いや、それもない。雑用も俺とお前でやっているしな。全く、久のやりようにも困りものだ」

 

「はは、仕方ないですよ。先輩は兎も角、俺は一年の上に初心者ですし」

 

「馬鹿を言え、それは大規模な部活に限った話だ。お前の責任ではなく、奴の采配ミスだよ。俺は構わんが、お前についてはキッチリと話し合うとしよう」

 

 

 京太郎のフォローを言葉の一刀をもって断ち切り、久の不手際と溜息をついた。

 小規模な部であるのならば、仲間同士でフォローしあうのは当り前だが、それを一人に押し付けるのは嵐にとって好ましくないようだ。

 部活動に一番使えない者、価値のない者を雑用に回すのは当然のこと。力のない者が力のある者に奉仕するというのは、社会において当然の在り方だ。

 誰であっても否定できない。それが何らかの利益や目的に向けて行動している集団ならば仕方がないと、彼も認めているだろう。

 だが、いくら何でも一人に、ましてや付き合いの短い者に背負わせるには重すぎる。人によっては、部に来ることさえ嫌になるほどの重荷だろう。

 

 京太郎は、それを不満に思うことはあっても不遇を嘆くような人間ではない。

 あくまで思考それ自体は後ろ向きだが、明るさやひた向きさは失わず、自らの感情を処理できる。

 しかし、少なくとも嵐にとって、それとこれとは話が別であるようだ。

 

 

「お前にもインターハイには個人戦と団体戦があることは説明しただろう?」

 

「……ああ、そうか。個人戦は兎も角、団体戦の方は女子の人数が一人足りないっスね」

 

「そういうことだ。俺たち男子は二人しかいないが、女子はあと一人だ。折角だから、団体戦にも出してやりたくてな」

 

 

 久の団体戦にかける思いを知っていながら口にせず、自分の意思として京太郎に問いかける。

 いや、本心から自分の意思なのだろう。彼にとって義と恩は返すもの。人に押し付け、感謝や見返りを求めるものではない。

 

 

「と言われても、そりゃ男友達はいますけど、部活に入って大会まで頼める女友達となるとなぁ」

 

「そうか。…………いや、無理を言った。俺自身、知人はともかく、友人は極端にすく―――」

 

「――あ。一人だけなら……いや、でもアイツ、麻雀とかできんのかな……?」

 

 

 実力自体は別にしても、麻雀部に入ってくれと頼める程に仲が良い女友達がいるのか、京太郎はでもなぁ、うーんと眉間に皺を寄せながら唸る。

 

 話を聞けば、何でも中学時代からの付き合いらしく、引っ込み思案であるものの性格に問題があるわけでもないようだった。

 当人は本が好きな文学少女。麻雀についての話はしたことがなく、ルールを理解しているかも分からないそうだ。

 

 

「折角だ、今度連れてこい」

 

「はあ、でも初心者だと思いますよ。話してる時も麻雀の話題にならないですし」

 

 

 世界は今、野球でもサッカーでもなく、競技麻雀に熱を上げている。

 だが、全ての人間が麻雀を好いているわけもなく、嫌っている人間もいれば、興味関心を一切持たない人間も存在する。

 例え、熱狂しているのが麻雀であれ、野球であれ、サッカーであれ、千差万別を誇る人間のこと、何を重視し、何を楽しむかなど個人の感性に委ねられるだけだの話。

 流行に乗り損ねていると笑われる謂れも、人生の大半を損していると馬鹿する必要もない。

 

 

「初心者でもいいさ。それならそれで、お前も愚痴や文句は俺よりも吐き出し易いだろう?」

 

「でも、それって先輩の負担が増えるってことなんですけど……」

 

「そうとは限らんさ。久は久で、大会に出るのなら己の戦術のみならず、チームとしての戦略も見据えねばならない。俺一人に押し付けることはないだろう。

 それに俺は俺で、全てを納得した上で行動している。俺の負担など、それこそお前の気にすべきことではない」

 

 

 冷たく突き放すような言葉だが、声には暖かみと穏やかさで満ちていた。

 静かだが、一人の人間として、確かな決意と覚悟を感じさせる姿勢。これも京太郎が舌を巻き、見習うべきと判断した尊敬している点だった。

 

 

「じゃあ、今度声かけてみます。タイミングが良ければ、先輩とも顔合わせられるかもしれませんし」

 

「引っ込み思案なんだろう。俺は身体もデカいし、強面らしいからな。会わない方がいいんじゃないか?」

 

 

 うーん、と考え込む京太郎。

 確かに京太郎の知る幼馴染は人付き合いが苦手、というよりも下手くそだった。

 気弱、口下手、引っ込み思案。最低限の感情や意見を述べるが、あくまでも必要な分だけ。

 孤立こそしていなかったが、親しい人間を作らないその態度を、一人の友人として心配してもいた。

 中学時代は少なくともクラスにおいては、彼女を極力気にかけ、少しでも周囲に心を開くよう努力したのは、忘れようもない記憶だった。

 

 そんな友人が、この先輩と上手くやれるのか。

 当然の疑問であったが京太郎は答えを出すことができず、話を逸らすことにした。

 

 

「あー、ぱっと見、細身ですけど身長ありますもんね。どれくらいあるんですか?」

 

「この間の身体測定では、身長187、体重は80ジャストだったな」

 

「――デカッ?! はあ!? そんなに、いや体重も結構あるって完全に運動部の身体ですよ! しかもかなり鍛えてる連中の!」

 

「いや、これでも衰えた方だ。一年の終わりか二年の始まりの時は、体重は90以上あったよ。一時期、学生服の前が閉まらなかった」

 

「すっげぇ?! なに!? 先輩、ジョナサン・ジョースターか何か目指してたんすか?!」

 

「じょな……? 誰だ、それは。有名なスポーツ選手か?」

 

「波紋戦士です……!」

 

 

 想像以上の体格の良さに驚き、京太郎の頭から幼馴染の存在は一時的に吹き飛んだ。

 

 この時、二人は気づいていなかった。

 麻雀部と幼馴染の出会いは、一つの変遷をもたらし、嵐にとって深い意味を持っていることに――――

 

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 旧校舎の階段を一段飛ばしで上る。

 高校生の平均身長と体重を大きく超えた体格を持つ嵐にとって、その行為は急いでのものではなく日常だった。

 陸上競技――――殊更、短距離走において、その長い脚から約束された広い歩幅は、小柄故に足の回転数の多さで勝負をする陸上選手からすれば、垂涎ものの代物だろう。

 

 今日は部活に参加するつもりはなかったのだが、久とはタイミングが合わず、その旨を伝えることができなかった。

 せめて誰かに伝言か、メモだけでも置いておこう、と部室へと赴いていた。

 

 部長である久と一年の付き合いとなるまこは彼の事情を知り、残りの一年組も事情は知らないながらも納得をしている。

 わざわざ一声かけるまでもなかったが、義理堅い性格の嵐はそれを良しとはしなかった。

 

 呼吸を乱すことなく最上階の部室前にまで至り、部屋の内側に五人分の気配を感じ取った。

 過去の一件から、嵐は人の――というよりも生き物の気配に敏感だったが、常人離れしている感は否めない。

 ともあれ、五人分の気配というのに首を傾げる。少なくとも今日は曜日から言って、まこは実家の手伝いのために部活には参加していないはずなのだ。ならば、部員数から言って気配の数は四人でなければおかしい。

 

 それでも疑問を打消し、扉に手をかけた。

 麻雀部がまだ久、まこ、嵐の三人だった頃、ゲストと称して学校の教師や生徒を呼ぶことは多々あった。

 部活動のほとんどが三麻か、プロの牌譜研究だけでは実戦感が衰えるという理由で、久がたびたび外部から面子を連れてきていたのだ。

 もっとも、その中には彼女の眼鏡に叶う者は一人もおらず、一度限りのゲストにしかならなかったが。

 

 

「――――あ、先輩、お疲れ様です」

 

「おー、日之輪先輩が珍しく重役出勤だじぇ」

 

「お疲れ様です。……今日は、アルバイトの日じゃなかったんですか?」

 

「いや、今日は誰にも伝えられなかったからな。時間もあるし、直接伝えに来たのだが、……タイミングが悪かったな。邪魔してすまない」

 

「日之輪先輩はホント律儀だじぇ。お前も見習うんだぞ、犬!」

 

「そういうお前もな」

 

 

 対局を中断させたことを謝罪し、見慣れ始めた京太郎と優希のやり取りに表情に大きな変わないながらも、頬を僅かに緩ませる。

 

 そして、闖入者である己に目を向けていた見慣れないゲストを見た。

 栗色の髪に同色の大きな瞳。見る者によっては優希よりもあどけなさを感じさせる顔立ち。椅子から立ち上がれば身長は和と同程度と言ったところか。

 何処にでもいる普通の女子高生。だが、嵐にとってはそうでなかったのか、誰にも悟られぬように息を飲んだ。

 

 

「……ど、どうも」

 

「………………、ああ」

 

「え、っと、一年の宮永 咲です」

 

「そうか。二年の日之輪 嵐だ。須賀も言っていただろうが、こんな顔だが危険はないぞ」

 

「…………へ?」

 

「……先輩、聞いてもいないのに、俺の言ったこと言い当てないで下さいよ。咲、驚いちゃってるじゃないですか」

 

「あからさまにそんな顔をしていたから、確認ついでに言ったまでなんだがな」

 

 

 若干、顔を引きつらせた咲と京太郎を前にしても冷静な態度を崩さず、淡々と告げる。

 

 

「折角だ。まだ余裕もあるし、この半荘だけは見させてもらうとしよう」

 

 

 どのような心境の変化なのか、学生鞄を置き、京太郎と咲の手牌を確認できる位置に陣取った。

 三人は嵐の様子を気に留めることはなかったが、咲は後ろで見られることに慣れていないのか、僅かに落ち着きがない。

 

 そして、中座されていた対局は、再開された。

 

 

 

 

 南三局0本場 親・咲 ドラ{⑧}

 

 

 8順目 咲・手牌

 

 {二三四五六七③④⑤⑤668} {9}(ツモ)

 

 

(さて、{⑤}切りで{89}のペンチャンを残すか。{8}・{9}の切りのどちらかで{⑤}を一枚浮かせ、両隣のくっつきを待つか)

 

 

 待ちの良さを考えれば、{8}・{9}切りの{⑤}一枚浮かせが正着。

 だが、六順目の時点で{8}・{9}は共に三枚切れ。{7}が山生きである可能性は高い。

 事実として残り三人の手牌には一枚の{7}しかなく、計算上、三枚が山と王牌にある。

 

 

 南家 京太郎・手牌

 

 {三五六七⑧⑧222発発南南}

 

 

 西家 和・手牌

 

 {二二三四五⑤⑤⑥⑥⑦⑧34}

 

 

 北家 優希・手牌

 

 {五六七八八②③③357白白}

 

 

 {5}も場に一枚も出ておらず、優希の手牌に一枚のみ。{6}が裏ドラになっても可笑しくはない。

 また優希の手牌は白を鳴き、{4}が埋まれば、{7}が飛び出すだろう。

 全体を見渡せば、{7}ペンチャン待ちも、それほど悪いとは言い切れない。

 

 

({⑤}で原村は鳴くだろうが、片岡は{白}を鳴くか重ね、更に{4}が埋まった時、{7}を止められるかどうか)

 

 

 トップ目の和としては、タンヤオドラ1の手で充分。

 {⑤}を鳴き、{34}の両面待ちでテンパイできるのなら、鳴かない理由はない。

 だが、その形でテンパイした場合、残りの和了り牌は{2}一枚と{5}が三枚。ツモる確率だけを見れば、咲も和も然したる差はない。

 出和了りに関しても、優希から咲へ、京太郎が七対子へと移行した場合に和への放銃もあるだけ。

 

 

(勝負は殆ど五分。さて、どうする――――?)

 

 

 暫しの逡巡の後、咲が切り出したの{⑤}、つまり{7}のペンチャン待ちを選択した。

 彼女が素人にせよ、玄人にせよ、可笑しい選択ではない。

 

 素人ならば、単にテンパイしたから、その待ちを選択したと説明できる。

 玄人ならば、{7}が山生きと呼んで、あるいは裏ドラを期待しての先制リーチという考えからの選択と読むことができる。

 

 ――――だが、咲の選択は、その全てから外れたものだった。

 

 

 「ポン」 

 

 

 {⑤}を和が鳴く。

 咲はペンチャンの待ちを選択し、和をテンパイのために鳴いただけ。何ら可笑しいことはない――――

 

 

 ――――咲がリーチ宣言さえしていたのなら。

 

 

「……………………」

 

 

 {⑤}を鳴かれ、一発を消されることを警戒して、という可能性もあったが、咲はこの局において最後までリーチ宣言をしなかった。

 和が上がるまでの5順の間、嵐の予想していたように優希は最終的に{4}を自力で埋め、{7}を切り出したにも関わらず。

 

 タイミングを逃したか、弱気の虫が暴れたのか。他にもいくつかの可能性を立てたが――

 

 

(裏ドラはやはり{6}。いや、違うな。宮永は{⑤}切りの際、原村の捨て牌に視線を飛ばした。あの光、素人のそれじゃない。手牌はかなり読めると見るが、ともすれば………………ああ、そういうことか?)

 

 山を崩す際、見えた牌は{5}。予測通り、裏ドラは{6}だった

 だが結局、嵐はその全てが間違いだと断じ、一つの新たな結論(こたえ)へと辿り着いた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 最終的にオーラスは咲が234の三色を捨てた平和のみ1000点を和了り、半荘は終了した。

 トップは和、二位が優希、三位は咲、四位が京太郎だった。

 スコアだけを見るのならば、京太郎の一人沈み、咲は±0と、ぱっとしない成績である。

 

 

「………………」

 

「あー、最後に振り込んじまった。先輩、どうでした……?」

 

「……ん? ああ、そうだな。大会を見越しているのなら、最後の振り込みはないな」

 

 

 スコア票を眺めていた嵐は、京太郎の声にようやく反応を示した。

 

 大会における個人戦は、勝ち抜き戦ではなく、スコアのトータルを競うもの。

 一戦目に-20であったとしても、二戦目で+30を取れば、負債は帳消しとなり、スコアの総合は+10と扱われる。

 最終的にスコアが最も高かった者が頂点であり、一戦でどれだけ稼ぐかも重要であるが、同時に一戦でどれだけ失点を防ぐかも重要なのだ。

 

 その点、京太郎は最後のリーチ宣言は不用意としか言えない。

 確かに一発、裏ドラも乗れば逆転トップの大まくりではあったが、切り出す牌は他家の当たり牌である可能性が高かった。

 

 

「相手のテンパイを読めるかも、今後の課題か」

 

「京太郎もまだまだだ。しっかり精進するんだじぇ」

 

「そういうお前もだ、片岡。南場に入っていたからか、ある意味須賀よりも悪い点は多々あった。下がいるからと、自分の粗から目を逸らすのは感心しないな」

 

「うぐぐ……日之輪先輩は容赦がなさすぎるぅ」

 

「事実だ。あと、揃いも揃って牌の扱いが荒いぞ」

 

「……それは、実力とは関係ないと思いますけど」

 

「ないことはないだろう。一流には一流の品格と礼節が求められる。強ければ卓の上での行為が許されるなど、それこそ非人間的、(ケダモノ)の思考だ。まあ、人も獣の一種ではあるが」

 

 

 もし絶対的な強者がいたとしても、挑発的な発言、あからさまな威嚇が許されるわけではない。

 誰からも認められてなどいないが、実力の違いから指摘できず、ただ黙認されているだけ。強ければ物事を押し通せる、弱肉強食――獣の理屈だ。

 だが、人は勝負の最中はいざ知らず、前と後には礼を知る生き物。相手が誰であれ、礼節を忘れるべきではない。

 

 人も獣の一種であるがな、という言葉も本心であったが、人と獣の違いはハッキリさせておくべきと言っているも同然。

 至極正論、非の打ちどころのない意見だった。改めろ、と糾しはしないが、改めるべき、とは諭している。

 

 

「……それくらいか。原村にも目立ったミスはあったが、何処が悪かったかは自分で考えろ」

 

「あの、私に関しては、ちょっと厳しくないですか……?」

 

「ん? お前の麻雀は基本的に一人でやるものだろう? 競うことはあっても、他家を気にかけることはない。デジタルとはそういうものだ」

 

「そんなことは、ないと思っているんですが……」

 

「その割に久と口論になっていたじゃないか。別段、それを咎めるつもりはない。相容れぬ意見というものは、当然あるものだからな。だが、そういう道を選んだ以上、自分で責任を取るがいい」

 

「……日之輪先輩、きっついじぇぇぇ……」

 

「……い、いや、ほら、先輩は和の意見を尊重しているだけだから! そ、そうですよね!?」

 

「…………そのつもりだったのだが。すまない、口が過ぎたようだ。それこそ、お前は俺の意見など求めていまい」

 

 

 京太郎のフォローに、またいらぬ真似をしたと反省しながらも、自身のフォローで止めを刺していた。

 その発言に、京太郎も引き攣った笑みのままヒューと息を吸い込み、優希はポカンという顔で見つめ、和は和でしょんぼりと肩を落とした。

 

 デジタルとは常に最大の期待値を求める打ち筋だ。

 ツキや流れ、勢いといった抽象的な要因を反映させず、数字と確率が全てと断じる。そこに他人の存在を差し挟む余地はない。あくまで必要なのは他人がどの牌を抱えているか、という点のみだ。

 

 そういった意味で、嵐はミスも己で見つけ、改善してこそ和のためになるという意味での発言だった。

 決して責めてなどいない。むしろ認めてさえいるが、発言が率直すぎて責めているようにしか思えなかった。

 

 

「…………それから宮永だが、もうちょっとこう、巧いやりようがあると思うのだが」

 

「あー、それはしょうがないじぇ。咲ちゃん、もろ初心者だったし」

 

「…………あ、あはは」

 

「そういう意味で言ったのではないのだがな」

 

「……え?」

 

 

 咲だけにしか聞こえない声で、そんなことをボソリと呟いた。

 その呟きに、咲は凍りついたかのような表情で嵐を見た。

 

 何かを恐れているような、ただひたすら怯えているだけの人の表情(かお)

 それを前にしても嵐は表情一つ変えず、かといって言葉をかけるわけでもなく、いつも通りの鋭いながらも穏やかな視線で応じた。

 

 僅かな間だけ絡まった視線を嵐は自ら解き、そういうこともあるか、と今度は誰にも聞こえない声で呟き、頷いた。

 

 

「そろそろ時間だ。……では、お前たちはこのまま続けてくれ。四人とも、無理のない範囲で頑張るといい」

 

「あ、はい。先輩も言動に気を使ってアルバイト頑張ってください」

 

「それに関しては心配ない。俺は仕事中、殆んど口を開かんからな。……原村も、本当に悪かったな」

 

「いえ、そんなことは…………。須賀君、流石に失礼じゃ。落ち込んでますよ」

 

「和、先輩はそれくらいはっきり言わないとダメっぽい。あの人、超真面目。遠回しに言うと額面通りに受け取られる。あと、メンタル回復すんのも超速い」

 

「じぇぇぇ、部長や染谷先輩が言ってた通り、あんまり気にしない方がいいかもなー」

 

(気を使わせてしまったか。見たままを言っているだけのつもりなのだが……)

 

 

 ひそひそと極力、嵐に聞こえないつもりで喋っていたつもりなのだろうが、当の本人にはまる聞こえだった。

 壁を隔てた人間の気配を感じ取れるのだ。常人よりも五感が優れているのは火を見るよりも明らかだろう。

 

 失礼な発言をする後輩に対しても、むしろ気を使わせたと反省する。

 その後、パソコンデスクにあったメモ帳に何事かを書き込んでから学生鞄を片手に部室を後にしようとするが、その足が止まる。

 

 

「そうだ。忘れていたが一雨振りそうだ。もし傘を忘れているのなら昇降口の傘立てに入っているから使うといい」

 

「え? でも先輩の傘が」

 

「いや、俺のとは別だから心配するな。学校に捨てられていた壊れた傘を修繕しただけだ。一度だけなら問題なく使えるだろうよ。処理はお前達に任せる」

 

(((こんなに気が利くのに、なんで普段の言動がああなんだろう……)))

 

 

 三人が全く同じ思いを抱いているのに気付いているのかいないのか、それだけ言うと嵐は部室を後にする。

 

 彼からすれば、別段、不思議なことではない。

 いつも見たままを伝えても、相手が不快になり、怒るばかりで自分の気持ちが伝わったことなど殆どない。だから言動も、より率直で鋭利となっていく。

 

 自分が多くを語られずとも本質を受け取れるから、相手の言動を受け入れ、認めることができるからこそ、他人が自身の言動で不快になることに気づけても、言動の何処に問題があったのか気づかない。

 更には少ないながらも久やまこといった理解者もいるため、いずれは自分の言葉も相手に届くと信じている。

 正の悪循環ともいうべきか。誰の悪意がなくとも物事が悪い方向に進んでいく。それこそ、よくある話だった。

 

 

(……予想していた以上の大物だ。釣り上げられるかは、久次第といったところか)

 

 

 旧校舎の階段を下りながら、そんなことを考える。

 宮永 咲は文字通りの大物。それこそ県予選突破どころか、全国優勝を狙えるほどの逸材であると嵐は判断していた。

 彼女の打ち回しにせよ、生まれ持った強運にせよ、そこいら学生雀士とは比べ物にならない才気と努力が読み取れた。

 

 ただ同時に、麻雀がそれほど好きではないことも伝わってきた。

 どのような理由があったかまでは断定できないが、少なくとも麻雀を始めた経緯に何か関係があると嵐は踏んだ。

 

 部室に残してきたメモには“ゲストに要注目”とだけ書いた。

 久の夢も理解できたが、その夢に共感するか、拒絶するかは咲次第と、強制するつもりは毛頭ない。

 麻雀が嫌い、という気持ちは欠片ほど理解もできなかったものの、咲自身が自らの意思で麻雀を打たなければ意味がないと心から信じている。

 

 ただ、咲と打っていた三人は、嵐の評価を聞けば首を傾げたに違いない。

 何故、そこまでの評価を彼女に下すのか、と。

 

 

(しかし、意図した±0、か。…………何の意味があるのか全くもって理解できんが、実に大したものだ)

 

 

 そう、それが嵐の見抜いた彼女の意図。

 恐ろしい話である。たった2、3局でそこに秘められた意図に気づく日之輪 嵐も、狙って±0というスコアを叩き出す宮永 咲も。

 

 麻雀は運の絡むゲーム。その日の好調、不調で容易く結果は変化する。

 そんな中で、毎回±0という全く同じ結果を叩き出せるとするならば――――脅威驚愕を通り越し、もはや悍ましいレベルだ。

 

 

(だが、やはりお前のやり様で傷つく人間もいる、と伝えた方が良かったか。原村辺りが気づけば、さぞや悔しがるだろう)

 

 

 温和な性格な和であるが、麻雀の腕前同様、プライドに関しても一級品。 

 咲の±0には理由の如何に関わらず、勝つ気もなく、かといって負けるのも嫌、という我が儘同然に受け取ってしまっても可笑しくない。

 

 単に実力を隠すだけならば、僅かな+、僅かな-に納めればいい。 

 だが、咲の打ち筋はあくまで±0。ただただ異常さだけが浮き彫りになる。

 もう少し巧いやりようがあると思うが、という発言も咲と打っていた三人の心境を慮ってではなく、あくまで咲自身の将来やこれからの立場を考えてのものだった。

 

 

(何にせよ、相当の苦悩と努力が感じ取れる。…………それに、宮永、か)

 

 

 脳裏を掠める記憶。

 小学校の頃から付き合いのあった三人の幼馴染、中学の時に初めてできた女の友人。

 あの時は、ただ楽しかったという記憶しかない。明確な目的意識をもって麻雀を打っていたが、それ以上の喜びと楽しさがあった。

 

 それが崩れ去ったのは何時の頃だったのか。

 無邪気な悪意、幼稚で歪んだ正義感、残酷に追い詰められた一人の幼馴染、助けてくれない大人達、中学最後の夏に見た――――

 

 

(止めるか、終わったことだ。……ともあれ、アイツにも手紙を送っているんだから返事くらい寄越してくれてもいいと思うのだが…………もしや、そこまで嫌われてい、たの、か)

 

 

 階段を下り、旧校舎の昇降口まで辿り着いた嵐は、そこまで考え、膝から力を抜けていく前に大勢を立て直す。

 

 誰かに嫌われるのは仕方ない。誰にでも好悪の基準はあり、それを妨げる権利を誰もが持ちえぬのなら、誰を好くのも嫌うのも個人の自由。

 嵐も認めていることだ。が、それはそれとして仲が良いと信じていた友人に嫌われているのかも、と考えれば、誰でも落ち込むものだろう。 

 

 

(まあいい。ちょうどいい時期だ、また手紙でも送ってみるか。……こんなことなら、中学時代に携帯でも買っておくべきだったな)

 

 

 溜息と共に靴を履き、旧校舎を後にする。

 外は太陽が鈍色の雲で覆われ、だいぶ気温が下がっていた。反面、湿度は上がって不快指数は急上昇。

 雨が降り出す直前の、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。もう一時間もすれば、夕立ちが来るだろう。

 

 この二年ですっかり慣れたが、かつて住んでいた東京と今住んでいる長野では、匂いにすら違いがある。

 どちらがいいのか、など判断はつかなかったが、郷愁の念が生じていたことだけは間違いなかった。

 

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 後日、嵐は久に誘われ、昼休みに部室で昼食をとっていた。久も嵐も弁当を開き、向かい合せて食事に舌鼓を打っている。

 

 久の弁当はメインを鶏と豆腐のハンバーグ、脇に卵焼きとアスパラガスの肉巻き、彩りにはプチトマトとブロッコリーが添えられ、ご飯には桜でんぶが振り掛けられていた。

 対し、嵐の弁当はおかずは同じであったが、栄養のバランスよりも腹の膨れるように調整され、白米に梅干しの乗せられたシンプルなもの。

 

 おかずの内容が全く同じ、ということは作った人間が同じであることを示唆している。

 事実として、二つとも嵐の作ったものだった。

 

 かつて、学食ばかり食べていた久を見かね、嵐が苦言を呈したが、返ってきたのは“時間がないの”、“そこまで言うならアンタが作ってくれるの?”というつれない返事だった。

 

 ――――だったのだが、彼女の発言を真に受け、次の日には弁当を作ってきた上に、これで文句はあるまいという表情で渡した嵐。

 クラスメイトの前でそのような真似をしたものだから、あらぬ誤解を招いた。

 いらぬ憶測と冷やかしに辟易した久は弁当の礼も拒絶も忘れ、ズルズルとほぼ二年近い時を、こうして手作り弁当を食べ続けているのだった。 

 

 

「アンタの言ってた通り、大した大物だったわよ、宮永さん」

 

「ああ、そうか」

 

 

 あの半荘の後も咲は二回連続で±0のスコアで終了させたらしく、珍しく久の顔には興奮の色が露わとなっていた。

 しかし、嵐は平時の様子そのままで、殊更驚くに値しない事実のようだ。

 

 

「……反応薄いわね。嵐が須賀君に連れてくるように頼んだんでしょう?」

 

「入部させることを前提にしてはいたが、無理に入れるつもりはなかったさ。それにあの様子、麻雀の才は認めるが、好きでもないことを無理にさせるつもりもない」

 

「あー、和の話じゃ、家族麻雀でお年玉を巻き上げられないようにしてたら、ああなってたとかなんとか」

 

 

 何でも咲はお年玉を賭けて家族麻雀をしていたのだとか。

 親や家族からすれば、他愛のない遊びか、あるいは彼女の将来を思っての徴収を目的としていたのだろう。

 身内の賭け事とはいえ、負ければお年玉を失い、勝ったら勝ったで不興を買う。

 その中で身に着けたのが、あの±0にする、あるいはなってしまう打ち筋というわけだ。

 

 

「成程、子供からすれば一大事だ。勝っても負けても文句を言われ、不満が貯まるのなら勝ちもせず負けもせずに収めねば。麻雀を嫌う理由も納得だ」

 

「……でもねぇ。どうしたらウチに入ってくれるか」

 

「それを考えるのがお前の仕事だろう。俺は無理強いはしない。それが宮永の選択だというのなら、俺から言うべきことは何もない」

 

「あら冷たい。嫌だわぁ、こんなのが一番付き合いの長い部員なんて」

 

「好きに言え。俺はお前の味方だが、考え方まで変えるつもりはない。それに――――存外、こちらが何もしなくても入るかもな」

 

「…………どういう意味?」

 

 

 その問いかけに嵐は、いや、忘れてくれと頭を振って答え、弁当を処理していく。

 

 その様子に久は首を傾げたが、それ以上の追及をしなかった。

 嵐が何かを言いよどむのは、何か理由があってのこと。あるいは余人には分からぬ何かを見抜いた上で、口にすべきではないと判断している証拠。そうなった彼は頑として口を割らない。追及するだけ時間の無駄だ。

 

 加えて言うのなら、彼の憶測はよく当たる。

 確証がない故に忘れろとは言うが、持ち前の洞察力故か、的を射ている場合が大半で、外れていることの方が珍しい。 

 

 

(それでも何かした方がいいわよねー。コイツにお小言を貰うのはゴメンだし)

 

 

 思いついたのは、咲が家族でやっていた麻雀と自分たちがしている麻雀は別のものだと知ってもらうこと。

 そのためには、もう一度、和と咲をぶつけるのが、もっとも手っ取り早いと考えていた。

 

 少なくとも久の所感では、咲も和も、互いを意識していた。

 それがどのようなものであれ、そこを巧くつけば、咲を麻雀部に引き入れ、和の実力まで向上を望めるだろう。

 

 

(ちょーっと打算的だけど、私も私の夢のためにできることをしておきましょう)

 

 

 僅かな自己嫌悪に陥りながらも、少なくとも自らの夢に対して恥じることはない。

 ならば、他人の利益を侵害しない限り、自らの夢に邁進すると今一度心に誓う。

 

 それが二年間、文句の一つも言わずに寄り添い続けてくれた嵐への。それが一年間、潰えようとしていた夢に希望を持たせてくれたまこへの最大の報酬だと信じていた。

 

 

「………………さて、どう転ぶか」

 

 

 誰の耳に届くことなく、嵐の呟きは虚空へ消えた。

 

 この数日後、宮永 咲は麻雀部に入部することになる。決意の炎を宿した瞳と自らの意思をもって、敷居を跨いだ。

 胸の内に何を秘めていたのか。それを知っているのは咲と――――優れすぎた洞察眼を持つ嵐だけだった。 

 




速くもなくなる書き溜め。
そして牌画像表示ツールに四苦八苦する自分。

闘牌描写に関して、ツールを使用しすぎて読み難くないといいのですが。
あと麻雀の描写は以後もこんなものか、もっと簡略化されていくと思います。

では、ご意見、ご感想、お待ちしております

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