「……ハッ!?」
『織斑一夏』はそこで目を覚ました。
「がっ、はあっ!はぁ、はぁっ、はぁっ、はぁ……っっ!」
荒い呼吸を繰り返し、なんとか朦朧とする意識を保つ。
「あ、あれ?」
そこで『一夏』は気づいた。ここはIS学園の教室。『一夏』が通う学校の、いつもの平和な風景だった。
どうやら昼休みの最中に眠ってしまったらしい。
「何だったんだよ今のは……」
額にはびっしょりと汗が浮かび、いつも着ている制服のシャツも汗を吸ったせいで肌に張り付き気持ち悪いが、今はそんなことは気にならない。自分の体のどこを探しても刺されたはずの傷跡が見当たらないのだ。
「全部夢、だったのか?」
夢にしてはあまりにリアリティがあった気がする。鈴が死んでしまった絶望感や山田先生に刺された痛みを思い出すと今も冷や汗が止まらない。だが冷静に考えてみれば、あんな酷い、世界の終りのような出来事があるはずがない。
「そう、だよな。あんなことが本当に起こるわけがない、よな」
『一夏』はもう一度自分の体をさすり、傷一つないことを確認すると、ようやく安堵の息を漏らした。
「ちょっと『一夏』大丈夫?あんた酷い汗かいてるわよ」
ツインテールの髪に小柄な体格の幼馴染の少女。鈴が心配そうに『一夏』を覗き込んでいる。
「り、鈴!お前生きてたのか!傷は大丈夫なのか!?血は、流れてないか!手当とかしなくて大丈夫なのか!?」
「は、はあっ!?勝手に殺さないでよ!ばっかじゃないの!って、ちょっとちょっと!なんでいきなり私の身体まさぐって……ってどこ触ってんのよあんた!そ、そういうのは二人っきりのときに誰もいない場所で……」
「『一夏!』ななっ、何をしているのだこの軟弱者っ!」
「ちょっ!待て箒!これは違うんだ!」
「何が違うと言うのだ!成敗してやる!」
「落ち着け箒!刀を振りかざすな!あれ?何でシャルまで机持ちあげてるんだ?って待てセシリア!ラウラ!ISを展開するのはやめろ!普通に死ぬって!」
せっかく夢から覚めたというのに、またも命の危機にさらされる『一夏』。
「ずいぶんと騒がしいなお前ら」
冷たい声が騒がしい教室の雰囲気を断ち切った。
「教室でセクハラとはいい度胸だな『織斑』」
「あ、あははは。『織斑』くんも男の子ですからねー」
いつのまにか後ろに立っていた姉の織斑千冬が『一夏』の頭をアイアンクローで締め上げる。その隣でどこか困った様子で明るく笑う山田先生はいつもの調子で、そこには『一夏』を刺した時の悲痛と絶望を宿した表情はかけらもない。
「ちょ、いたたたた!痛いって千冬ねぇ!」
「織斑先生と呼べ。それと教室ないでISの無断使用は校則違反だ。お前らは後で罰則だ。それと授業が始まるぞ。お前も自分の教室に戻れ」
「はっ、はい!」
鈴は顔を赤く染めたまま慌てた様子で走り去っていった。
「それで、一夏。教室の中で堂々と女子の体を弄ったうえに胸を鷲掴みとは。よっぽどの理由があるんだろうな」
どうやら全部見られていたらしい。『一夏』の背に冷や汗が伝う。
「いっ、いや別に!ちょっと寝ぼけてただけで……」
「ほう。一体どんな夢を見ていたんだ?」
有無を言わさぬ口調で誤魔化しは許されそうにない。
「えーっと。世界の全てが俺の敵になる夢、かな……」
「……なに?」
あまりに意外だったのだろう。呆れた顔で一夏を見ている。
『一夏』自身も、何を馬鹿な事を言ってるんだと恥ずかしくなる。だが、あの夢に見た光景が『一夏』の脳裏から離れない。世界の全てが敵になる恐怖が、『一夏』の手を震わせた。
また締め上げられるか、と咄嗟に身構えるが、『一夏』の頭には予想した痛みはこず、代わりに掌が乱暴に乗せられた
「私の家族はお前だけだ。それだけは忘れるな」
それが精一杯の答えだと言うように千冬は乱暴に『一夏』の頭を撫でると、教壇に真耶と並んで歩いていくと、何事もなく今日も授業が進んで行く。
「一夏の奴は何かあったのか」
一夏の顔色は尋常じゃない様子だった。本当にただ悪い夢を見ただけならいいが、何か千冬の胸には疑問が残った。
「普段つれない態度ばかり取っているから自分は愛されてないんじゃないかって不安になっちゃうんじゃないですか?」
「……」
「心当たりでもあるんですか?」
「いや。そんなことはない。確かに『一夏』に厳しくしているのは事実だが、それはあいつに強く育って欲しいからであって『一夏』だってそれはわかってくれているはずだ」
「まあそれは『織斑』くんだって理解していると思いますけど、それでも甘えたくなるときだってあるんじゃないですか?」
「……そうか」
「それに『織斑』くんは男性唯一のIS操縦者ですからね。今では国際IS委員会を中心に世界中が『織斑』くんに注目しています。いざというとき、立場上千冬先生がどっちの味方をするか不安もあるんだと思いますよ」
「あいつは私のたった一人の家族だ。世界中があいつの敵に回ったとしても私は『一夏』の味方でいたい」
「ちょ、問題発言ですよそれ」
「聞かなかったことにしてくれ」
「あはは。了解です」
普段は聞くことができない千冬の貴重な本音を聞くことができたことを真耶は嬉しく思った。だけど……。
「そのセリフは私にじゃなくて『織斑』くんに言ってあげてください」
「……言えるかそんなこと」
「うふふ。いつも完璧な織斑先生ですけど『織斑』くんのことになると可愛いところ見せるんですね」
「……ふん」
「聞いたわよ。教室でいきなり女の子押し倒して襲おうとしたんですってね」
「誤解だ!」
「そうなの?学園中もうその話題でもちきりよ」
放課後の生徒会室。そこにいるのはIS学園の生徒会長の更識楯無。どうやら昼休みの出来事があることないこと広まっているらしい。おかげで今日も授業が終わるなり女子から追い回されるはめになった。
「なんでそんな噂が広がっているんだ……」
「女の子しかいない学園だもの。噂が広まるのは早いわよ。それに貴重なIS男性操縦者の遺伝子を宿した子を手に入れたら国からかなりの優遇措置を得られるんじゃないかしら?」
「そういえば学園に入ったばかりの頃は女子が血眼になって迫ってきたっけ。最近じゃあようやくそれも落ち着いてきたと思ってたのにな」
「なんでも日本政府は『一夏』くん限定で一夫多妻制度を本気で検討してるって話よ」
政略結婚に一夫多妻。まさか現代の日本でそんなことが実現しかかっているとは。
「……勘弁してくれ。結婚を何だと思ってるんだよ」
「この学園に通う生徒は各国の代表候補や有力者の娘とかも多いから。必死になるのは仕方のないことよ」
フランスのデュノア社がシャルを使って『一夏』のデータをとろうとしたりなど、そういったことが他にもあるのだろう。
「お疲れ様。今日の仕事はこれで終わりよ」
そんなことを喋っている間に本日の仕事は終了した。今日は簡単な書類整理だけだったので終わるのは早い。
「お疲れ。じゃあ俺この後簪と約束あるから先にあがるぞ」
「……はい?」
帰ろうとする『一夏』の肩をがしっと掴んだ。
「楯無?」
「……誰と約束したっていったのかしら?」
「えっ、だから簪と、って痛ぇ!肩痛いって!」
簪の名前を言った途端『一夏』の肩を掴む力が強まった。グリグリだったのがギシギシに変わったような気がする。
「まさか、昼間に引き続き簪ちゃんにも手を出そうだなんて!そんなこと許さないわよ!」
「落ち着け!そんなことするか」
「信用できないわ!実際今日の昼休みに女の子の身体弄ったのは知ってるんだから!」
それを言われてしまうと『一夏』も反論しづらい。思わず目をそむけてしまう。それがいけなかった。
「まさか、本当にやる気だったのね!『いい身体してるじゃねぇかー、ぐへへへ』とか言って簪ちゃんを襲って言葉にも出来ないようなことするつもりだったのね!なんて羨ましいの!この鬼畜野郎!」
「……おい」
最後に一瞬本音が漏れてた気がする。
「だから大丈夫だって。何もしないから」
「ありえないもん。そんなこと信じられないもん。絶対あんたがよからぬことをしでかすに違いないんだもん!」
楯無が壊れ始めた。
「お姉ちゃん……騒がしい」
言葉使いが幼児化した楯無にどうしたものかと頭を抱えていると、たった今話していた簪がやってきた。
「簪ちゃん!お姉ちゃんに会いに来てくれたのね!」
「違う……『織斑』くんを迎えに来たら……声が聞こえてきたから……」
どうやら声が廊下にまで響いていたらしい。
「悪い。待たせたか?」
「ううん……誘ったのは、私の方だから……」
まるでデートに待ち合わせした恋人同士のような会話。簪のほほは微かに朱く染まっていてその表情は完全に恋する乙女のそれだった。
「ダメー!そんなこと絶対許さないんだからー!」
そんな光景を見せられて嫉妬に燃えるお姉ちゃんが耐えられるはずもなかった。
「あんた簪のことになるとホント性格変わるよな」
「何よ。まるで私が簪ちゃん依存症みたいじゃない」
「……違うのか?」
「違うわけないじゃない。やだもー♪」
そんな姉を見て簪が若干引いている。
「それより簪ちゃん。『一夏』くんと二人っきりで何をするつもりだったの」
何事もなかったかのように話を続ける楯無。そういえば『一夏』も要件は知らなかった。
「あの……今度ペアで参加するトーナメント戦が、あるでしょ?」
「そういえばそんなものがあったっけ」
「それで……もしよかったら……一緒に出て欲しいなって」
「そ、そういうことなら私が簪ちゃんと組むわ。それでばっちり問題なし!」
「いや、あんたは学年違うでしょ」
冷静な突っ込みにがっくしうなだれる楯無。
「それで……どう、かな……」
簪の言葉に、そういうことなら問題なく引き受けようとした『一夏』だったが……。
「待ちなさい!『一夏』は私と組むの。幼馴染だし、昼間私にしたことの責任をとってもらうわよ。それに甲龍は中近距離をこなせるから白式と相性いいのよ」
「な、何を勝手なことを!それならわたくしセシリア・オルコットも立候補しますわ。ブルー・ティアーズなら白式の苦手距離もしっかりサポートできますわよ」
「ま、待て!幼馴染だというなら私が先だ。それに白式は紅椿といてこそ真価を発揮する。相性というなら私が一番だろう」
「お前は私のヨメなのだから私と組むべきだ」
「ちょっと皆ずるいよ!ボクも立候補するよ」
怒涛のごとく生徒会室に突入してきたいつものメンバー。いきなりのカオスな状況に『一夏』は置いてきぼりにされる。
「それなら全員で戦って勝った人が『一夏』くんを好きにできるってことでどうかしら」
「「「「「それだ!」」」」」
楯無のその一言で空気が変わった。
「あれ?俺に決定権はないの?」
そんな声が虚しく響く。
思わずため息をつく『一夏』。
「まあまあ。どうしても決めたい人がいるなら『一夏』くんが勝てばいいだけよ」
「えっ、俺も参加するのか?」
「当たり前じゃない。アリーナは生徒会長権限でなんとかするわ。もちろん私も参加させてもらうわよ」
「ほら、行くぞ『一夏』」
箒が『一夏』の手を握りしめ走り出す。
「……しょうがない。いっちょやってやろうじゃないか」
アリーナへと到達した『一夏』たちは、ISを展開すると、一斉に夕暮れに染まる大空へと飛び立った。
楽しいなあ、と『織斑一夏』は思った。
毎日が楽しくて楽しくて仕方がない。きっとこれからもいろんなトラブルに巻き込まれることもあるし、手を握りしめて戦うこともあるだろう。
だけど、こんな毎日があるからやっていける。帰る場所があるから前に進んで行ける。
たとえ今日が終わっても。
明日も。
明後日も。
きっとこんなにも楽しい毎日が続いていくんだろうなあと、
そして。
夕暮れの学園の片隅で膝を抱えながら『一夏』たちを見上げる人物には、最後まで誰も気付くことはなかった。