私に友達ができないのはどう考えても幻想郷が悪い   作:puripoti

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第7話 VISIONNERZ~幻想人~

 幻想郷の南端からやや東寄り、人間の里から見ると、ちょうど妖怪の山とは正反対のところに広大な竹林が存在している。

 

 その名を『迷いの竹林』。

 頭に『迷いの』と付くのは伊達ではなく、迂闊に立ち入ってしまうと人間は元より自然の権化たる妖精さえもときとして迷ってしまうという幻想郷における難所のひとつである。

 

 だだっ広いのもさることながら、とかく目印になるものが少なく(というか皆無。なにせ竹かさもなきゃタケノコしかない)、さらに地面に僅かな傾斜があるせいで竹が斜めに伸びたりするので、それが訪れる者達の方向感覚や平衡感覚に支障を生じさせ、真っ直ぐ歩いているつもりがいつの間にか元来た場所に戻ってしまったりするのだ。成長速度が早い竹のせいで景色だってすぐに様変わりしてしまうので、記憶もアテには出来ない。しかもまずいことに、環境が肌に合うのか妖怪となった獣も好んで棲み付くので、下手に入り込んだが最期(誤字にあらず)、腕に覚えのない者ではたちまちの内にそいつらの餌食。迷うと迷わずと関わらず危険なところである。

 

 そんな迷いの竹林の一隅に、風見幽香はいた。

 

 ───ゆっくりと落ちる葉。鮮やかな色に囲まれた緑の御殿。彼女はそこにいた。 

 

「迷っちゃった」

 

 竹林を訪れてから、実に三日目のことであった。

 

   *

 

「ここって、前にも通った場所だわ」

 

 大きく育った竹の根本に置かれた“それ”を眺め、幽香は呟いた。途方に暮れるというよりも、ただ事実を口に出しただけのような口調だった。

 

 足元に転がるのは獣の屍。正確には幽香を襲おうとして返り討ちにあった、野良犬だか山犬だか狼だかの化生だ。表現が曖昧なのは、叩きのめした後で目印代わりにでもしようと手足を折って放置しておいたら、竹林の獣にでも食い荒らされたかして、生前の面影を残さない見るも無残な姿になっていたからだ。しかも夏の盛りだけあって屍のあちこちでは蟲が湧き、辺りには嫌な臭いが漂っている。まともな神経の通っているものなら、その場で戻してしまいそうなほど凄惨酸鼻(せいさんさんび)な有り様であるが、幽香は眉をひそめさえしない。ただ、立ち籠める臭いだけはどうにかならないものかな、とは思ったが。

 

 どこかに臭わない腐乱死体ってないものかしら。実に勝手なことを考えながら、幽香は再び歩き出す。特にこれといった当て所はない。ただ“ぼけっ”と突っ立っているよりは、漫然と歩いていたほうが出口も見つかりやすかろうという“いいかげん”な発想である。そんなことで脱出できるくらいなら誰も苦労はしないし、ここも迷いのなんちゃらなんぞというご大層な呼ばれ方をされることもなかったろうが。

 

 歩けども歩けども、先も見えねば終わりも見えぬ竹林の、道なき道を幽香は進む。

 

   *

 

 迷える佳人の歩みが止まったのは、中天におわしましたお天道様が西の方角へと大儀そうに御身を移しはじめた頃のことだった。

 

 別に何時まで経っても終わらぬ、竹林での彷徨に疲れ果てたとか絶望を感じたなどという理由から立ち止まったのではない。ただ、“なんとなく”である。この女の行動に、意味や意義や理由や辻褄を求めるのは不毛どころか徒労に終わるだけの結果しかもたらさない。

 

 周囲を見渡した幽香は地面があまり傾いていなく凹凸も少ない場所を見つけ、そこへ胸元のポケットから取り出した厚手の布を広げた。そして2畳ほどの大きさに広がった布の上に同じくポケットから出した白磁のカップとソーサー、シュガーポットと水筒を順に並べていく。

 

 どうやら一休みをするらしい。実はこの女、竹林に足を運んでからこっちひたすら歩き通しだったりする。まあ、かつては世界の“あちらこちら”をロクに休みもしないでうろつき歩いていた女なので、たかが三日三晩飲まず食わずの歩きづめになったところでなんら問題ないのだけれど。

 

 シートの上に行儀よく腰を落ち着けた幽香は、最後に茶筒らしきものと少し大きめの薬缶のようなものを取り出した。

 

 『パーコレータ』という、主に屋外で珈琲(コーヒー)を淹れるための道具であるそれは、ここから少し離れたところにある森、そこの入り口のところで営業している道具屋(半ば道楽でやっているらしい、殿様商売で有名な店だ)にて買い求めた品だ。その道具屋は《外の世界》から幻想郷に流れ着いた物品を取り扱っている店なので、これもおそらく《外の世界》から流れてきたのだろう。

 

 茶筒の中身(もちろん珈琲豆だ)と水筒の水を入れたパーコレータを幽香は右の手で持ち上げた。残った左手は底部に添える。すると数秒ほどでポットの水が沸騰し、中から“ぼこぼこ”という音と香ばしい香りが沸き上がってきた。ちなみにこの珈琲豆は、幽香がまだ出禁をくらう前に里の洋風カフェーにて購入したものであるが、どのようにして仕入れたものかは誰も知らない。もちろん、幻想郷でこんなものを栽培している奴もいない。そして幽香も興味はない。

 

 そのまま待つことしばし。

 頃合いを見計らって幽香は左手を離し、カップに珈琲を注いだ。辺りに広がっていく甘さすら覚えるほど芳しい香りに、幽香は顔をほころばせずにはいられない。

 

   *

 

 出来たての珈琲に砂糖を二(さじ)入れたものを“ちびちび”とやりながら、幽香は辺りを見渡した。

 

 どちらを向いても竹、なにを見ても竹、どこまでも竹、ときたまタケノコ。色合いといい育ち具合といい、どれもこれも見事なものばかりではあるのだが、こうも同じ景色ではさすがに飽きる。たんぽぽくらい咲いててもバチは当たらないのに。両手で大事そうにカップを持ち、幽香は時間をかけて珈琲をすする。

 

 緑一色の世界に変化が生じたのは、空になったカップに二杯目を注ごうとしたところであった。視界の端を“ちら”と見覚えのある人影が横切ったのだ。いや、“人”影というのには語弊(ごへい)があるか。より正確を期するなら“人のような”影が正しい。

 

 人のような影は、一風変わった風体の少女の形をしていた。

 

 あまり日に当たらないのか、雪うさぎのように真っ白な肌と透き通るような銀色の髪をした少女。服装もずいぶんと奇抜で、きっちりとネクタイをしめたブラウスの上に黒いジャケットを羽織り、そしてボトムはかなり短めのプリーツスカートという組み合わせの、幻想郷ではあまりお目にかからない“はいから”なデザイン。それだけでも大概珍しいが、なにより人目を引くのはその頭部───兎の耳のようなものが生えている。ただし、よくよく目を凝らすと付け根のところに『留め具らしき物』が付いているので、本物の耳なのかどうかまでは判らないが。

 

 自分のことを“ぼーっ”と眺める幽香に気がつく様子もなく、少女は大きな葛籠(つづら)を背負って竹林を歩いている。しかし、以前会った時には“しゃん”と伸びていたその背は猫背気味で、頭部の“耳”もどことなく“しなびた”ように見えるのは何故だろう。

 

 他にやることもなかったので、幽香は声をかけてみることにした。カップを置いて立ち上がり、

 

「ねえ、貴女───」

 

 気配でも感じたのだろうか、幽香の声が届くのにほんの少しばかり先んじて、少女がこちらを向いた。まさかこんな辺鄙なところで声をかけてくるような奴がいるとは思わなかったのだろう(当たり前か)、驚きにやや丸くなった少女の瞳、血よりも赤い紅の色が幽香の瞳の紅に飛び込んでくる。

 

 その途端、幽香の身体が立ち眩みを起こしたかのようにふらついた。

 

 いや、まさしく立ち眩みであった。いまや幽香の世界はトチ狂った画家が絵筆を揮った抽象画のように捻れ、歪み、回り、捲れ、うねくっていた。

 無論、現実に起こった現象ではない。外部からの介入による平衡感覚あるいは視聴覚神経への撹乱だ。

 

 幽香は両の足に力を込め、ふらつく身体をかろうじて支える。そういえば、あの娘の《能力》についてすっかり忘れていた。

 

 《狂気を操る程度の能力》───それが先ほどの少女が保有する能力である。これは生物含めた物事に宿る《波》、その揺幅を操ることで様々な事象に干渉するというものだ。波長を操る程度の能力と言い換えてもいいのかもしれない(むしろそちらが正解。能力は大概が自己申告なので、あえて爪を隠したがる奴もいる)。その能力によって、先の目が合ったその一瞬で幽香の《波》を読み取り、それを起点として体内周波(バイオタイド)にでも干渉したのだろう。

 

 一見すると地味な能力がらも、使い手の技量と発想次第では事程左様にこの通り、かなり凶悪な攻撃手段となる。幽香だからこそなんとか耐えていられるが、他の奴ならものの数秒で廃人一丁できあがりだ。おとなしやかな見た目にそぐわぬ、実にえぐい真似をしてくれる。

 

 余計なことを考えている内に、いよいよ世界が捻れながら“ぐるりぐるり”と回りだす。そろそろ手を打たないと、いかな風見幽香であってもまずかろう。

 襲い来る猛烈な嘔吐感を押し留めつつ、幽香は右手の指を真っ直ぐに揃えて固め───人間が云うところの『手刀』もしくは『貫手(ぬきて)』というやつだ───己が腹へとあてがった。

 

 ───そして思い切りよく自身の腹へと突き立てる。

 

 白鑞のごとき繊手は“ずぶり”と、まるで泥にでも沈み込むかのような容易さで手首のあたりまでめり込み、鮮血をまき散らして背中まで抜けた。

 

   *

 

 現在、幽香の身に起こった異常は、体内波長の操作によってその身を循環する血と氣のバランスを崩されたことに起因する。よって、痛覚という肉体と密接に関わる部分へ刺激(ずいぶんと強烈だが)を与えて血肉への比重を傾けることによって血と氣の優位を再度逆転させてやれば、それを足がかりとして精神を安定に導けるのである。

 

 などとまあ、もっともらしいことを述べたが、要は激痛与えて気付けをやっているだけである。そこにいかにもな小理屈が追加されてはいるが、それだってかなり強引というか屁理屈にも等しい暴論だ。

 しかし妖怪なんぞという連中は精神面に重きをおく生き物なので、こういうもんだと自分で納得できれば(少なくとも自分に関する限り)問題はないのだが。もし駄目であったとしても、それは“それ”。死に際して無駄な苦みが追加されるというだけのことなのだし。

 

 常人ならばショック死はまぬがれえぬほどの激痛がその身を苛もうと、幽香の美貌にはいささかの痛苦の色さえ浮かばない。ほんの僅かに、蛾眉をひそめただけが彼女の反応である。その様は、さながら静謐(せいひつ)伽藍(がらん)に設けられた仏像のようにさえ見えた。

 

 人知れず開けた静かな、しかして凄惨なる闘争の幕は、やはり誰に知られることもなく静かに降ろされた。

 果たして、《正気》を取り戻すことに成功した幽香は腹にめり込ませた腕を引っこ抜いた。勢いあまったか、噴き出る血と一緒に臓物もはみ出たようだがあまり気にしない。先ほどまでに比べれば、今はさながら清々しい風が吹く高原のど真ん中にでもいるように爽快な気分だ。

 

 ふぅ、と息をつきつき、落ち着いたところで周囲を伺ってみる。とうに少女の姿は消え失せていた。幽香が悶絶しているうちに、脱兎のごとく逃げたのだろう。兎だけに。

 その鮮やかな手並みに、幽香の口元が“ふわり”と緩んだ。

 

「やるじゃない」

 

 口をつくのは掛け値なき賞賛。時間にしてわずかに数十秒、これだけの時間、これだけの手間で、これだけ痛い目に遭わせてくれた奴はさて、どれだけぶりだったか。

 

 ならば私も報いるに、相応の“もの”をお見せしましょう。

 

 とくとご覧あれ。いつしか幽香の腹から滴る紅の流れが、五色七彩の色どりを帯びた小片となっていた。例の血肉から花びらへの変化である。零れ落ちるそれらは風に乗って優雅に舞い踊り、そこかしこに広がって緑と土色の世界に色とりどりの美麗なアクセントを加えていく。

 

 そしてしばらくの後、竹林のいたるところに花びらが行き届いたころ、

 

「みいつけた」

 

 いたずらっぽく幽香はつぶやいた。その視線の先、幽香から見て右斜め前、先ほどの少女を見かけた場所で、純白の花びら───鬼灯(ホオズキ)の花───が“ふわふわり”と漂っている。それ以外に何もない、誰もいないはずの空間に向けて、幽香は語りかけた。

 

「ねえ、そろそろ出てきたら」

 

 あるいは姿を見せたら? 語りかける幽香に応えるものはいない。しかし姿こそ見えずとも、幽香には“解っている”のだ。“そこ”に“いる”ということが。

 

「もう隠れても無駄。この花びらは私の血肉で編まれたもの───すなわち手指の延長。この花びらの在るところすべて、私の掌の上」

 

 花びらを介して伝わる感覚では、確かに“そこ”に少女の存在を感じている。大方、能力を使って可視光線の波長を弄っているのだろう。以前、幽香を崖から落としてくれた妖精達も似たようなことをやっていたので、すぐに勘付いたのだ。普通なら相手が前後不覚となっている間に逃げ出すのだが、下手な身動きどころかその場を一歩も動かず身を潜めるとは大胆なものだ。

 

「中々、悪くない考えだったけれど惜しかったわね。ちなみに、こんなこともできる」

 

 竹林に“ぱちり”と小気味よい音が響く。幽香の鳴らしたフィンガースナップだった。同時に、風もなく辺りを漂う花びら、そのひとつが人一人を飲み込めるくらいの大きさの火球となって爆ぜた。不思議なことに眩い光以外には音も熱も漏れてこないが、跡に残された1メートルほどの、すり鉢状に抉れた地面がその威力を如実に物語っていた。

 

「次は貴女の周りの花びらすべてで同じことをやる。消し炭や肉片からでも再生はできそう?」

「……《弾幕ごっこ》のルールに違反するわよ」

 

 ここにきてはじめて、姿なき少女からの反応があった───幽香の“背後”から。おそらくは音波の伝導にでも手を加えたのだろうが、そんなことで風見幽香は誤魔化せない。

 

「それを貴女が言うの。さっきのだって、私じゃなければ無事じゃすまなかったわ」

「“あんた”だからやったのよ」

 

 なるほど。幽香は小さく笑う。一本取られたような気分だ。

 

「一応、常識はわきまえてらっしゃる」

 

 幻想郷の、という但し書きがつくが。

 

「ねえ、姿を現してはくれないかしら。私は貴女と喧嘩がしたいのじゃない、お話がしたいの」

 

 返答はひたすらな静寂のみ。風にそよぐ竹の葉が静かにざわめく音だけが、幽香と少女を繋ぐ世界の音。

 

「どうしても信用ならぬというのなら───手足の一、二本撃ち抜いてくれて構わない」

 

 いかがかしら。幽香は両腕を胸前で、来たるものを招き入れるかのように広げてみせた。艶然と問いかける幽香の耳に、舌打ちの音が聞こえてきた。

 

「───ずるい女。そういうのを、私が嫌だっていうのを承知して言ってるのね」

 

 ええ、そうよ。幽香は野辺を彩る一輪の花のごとく幽かに笑った。

 

「でも、誓って嘘じゃないわ。貴女にできないのだったら、私が自分でやってもいい」

「…………」

「だから、お話しましょ?」

 

 幽香は左の肩に右手をやった。そして躊躇なく引っ張る。“みちり”と、聞いたものが耳を塞ぎたくなるような音が、皮を、肉を、骨を通して耳に伝わってきたが、幽香は力を緩めない。

 待つほどのこともなく、音が“ぶちぶち”というものに変わった。皮肉が千切れ、純白のブラウスに紅薔薇よりもなお紅い色が鮮やかに広がっていく。

 

「待って」

 

 努めて冷静さを保とうとする声が聞こえてきたのは、肩の骨が露出したときである。

 

「……わかった。今、出て行くわ」

 

 だからその腕とお腹をさっさと治してよ。忌々しそうな表情をこしらえつつも姿を表した少女へ、大輪の向日葵のような笑顔が向けられた。

 

「ところで貴女、珈琲はお好き?」

 

   *

 

 地面に敷かれたシートに並んで座り、二人はカップを手にする。遠目には仲の良い二人組のようにも見えるが、実際のところ片方だけが絵にも描けないほどの美しい笑顔で、もう片方は絵に描いたように綺麗な仏頂面だ。

 

 舌が焦げそうなくらい熱い珈琲を一口やった少女は、仏頂面をしかめっ面に変えた。どちらも似たようなものだが。どうやら苦いらしい。パーコレータは便利だが、使い慣れないと余分な苦味や渋みを出してしまうのだ。幽香がまだ使いこなせていない証拠でもある。

 幽香はシュガーポットを差し出した。その腕も腹も、当たり前のように元通りなら、服にだって染みの一つさえ浮かんではいない。

 

「はい、お砂糖」

「ありがと。ミルクはないの?」

「脱脂粉乳でよければ」

「ないよりはマシか、いただくわ」

 

 少女は珈琲に砂糖と粉のミルクを四匙、大盛りで追加した。もしかして甘党なのだろうか。

 珈琲をかき混ぜながら、少女は訊いた。

 

「で、あんたはなんだってこんな所にいるのよ。ここには花なんて咲いてない」

「小さな幸せを見つけに来たの」

「あー?」

「なんでもここには、見かけただけで幸運をもたらしてくれる兎がいるそうじゃない。私も御利益に肖りたいなって」

 

 へえ、なるほど。少女は合点がいったとばかりに頷く。

 

「それ嘘だから」

 

 あら、そうなの。幽香は大した感慨もなく聞き返した。“ふん”と鼻を鳴らして兎の少女は珈琲をすする。

 

「あまり驚かないのね。ある程度は予想がついてたってこと?」

「ええ」

 

 隠すほどのことでもなかったので、幽香は素直に首肯する。実はそんなもの、“てん”から信じちゃいなかったのだ。

 

 そもそも、どんな形であっても《運》なんてもんを自分の良いように操作するなんて出来るわけがないのだ。

 運、というかそれに連なる《運命》とはすなわち無数無限に枝分かれする世界の連なりそのものだ。それを操作するというのは、取りも直さず無量数の《世界》の重みを一身に引き受けることと同義である。

 たった一つの《世界》さえ、たかが長生きしただけの妖怪兎風情が背負うには過ぎた代物だ。ましてやそれが『無限数』、たちまちの内に存在の領域から“のしいか”になってしまうのがオチだろう。言葉の重みを理解しえぬ、思いをいたさぬ阿呆ばかりが永遠だの無限だの悠久だのという、とてつもなければそもそも測りようもない言葉を玩びたがる。

 

「なら、これ以上の説明は蛇足ね」

「そんなことないわよ。せっかくだから聞いておきたいわ」

「物好きだこと」

 

 カップを傾けて喉を潤し、兎の少女は語る。

 

 あれは程度の低い詐欺みたいなもんよ。あなたの探してた自称・幸福兎、あいつの能力ってのはね、ヒトの脳味噌のあまり使われていない領域───陳腐な言い方だけど《ナイトヘッド》ってやつ?───それを刺激したり開放することで視覚神経や反応速度にブーストをかますっていう代物なのよ。

 

 少女は人差し指で自分の頭を“とんとん”と突っついた。

 

 いつもよりも頭が働くから、もしくは目に見えるものが拡がるから、普段なら見逃すような発想や発見が出来るようになる。例えば、視界や注意力が強化されたから失せもの探しもの落しものを見つけられたり、普段なら気付かないような些細な目印を感じ取って迷ったところから脱出できたり。

 

「それがあいつの《人を幸福にする程度の能力》の正体よ。まあ、考える頭がありゃ判りそうなことか。もしその話が本当なら、真っ先に私が幸運に恵まれてるはずなんだし。ほとんど毎日、見たくもない顔を見せられてんだもの」

「たしかに、貴女ってば幸薄そうな顔してるものね」

「ほっといてよ」

 

 遠慮とか言葉を飾るとか気を遣うといったものから、どこまでも遠い物言いに兎の少女はとても厭そうな顔をした。

 

「ついでに言っとくけど、“見ただけで幸運をもたらす”云々だって、実は当の本人が撒いた噂だからね」

「マッチポンプってこと。なんでそんなことを?」

「決まってるでしょ、そんなの」

 

 噂を聞きつけた欲深な連中が、自分を血眼で探したり妖怪や獣に襲われたり逃げ回ったり竹林で迷ったりした挙句、骨折り損に終わる姿を見て楽しむためよ。兎の少女は付き合いきれないとばかりの顔でカップに口をつける。

 

「なんとまあ、ここに立ち寄る連中に忠告でもしておいたがいいのかしら」

「ああ、それはやめてくれないかな」

「どうして」

「迷い込んだ馬鹿を助けたり、出口までの道案内したりとかでお礼貰って小遣い稼ぎしてるのよ、私」

 

 意外にばかにならないんだ、これが。兎の少女は肩をすくめた。ときたま、若白髪したヘンな女にあぶらげ掻っ攫われるのが悩みの種だけどね。

 

「いい性格をしてるのねえ」

「あんたに言われたくない」

 

   *

 

「ところで私からも質問、いいかしら」

 

 どうぞ。兎の少女はいい加減に応えた。ただし、私に答えられるものだけよ。

 

「その葛籠、一体何が入っているのかしら。妙に薬くさいのだけれど」

 

 ああ、それ。幽香が指さした“それ”をつまらさそうに見て、兎の少女は言った。

 

「薬よ」

「薬?」

「そ。中身は色々───飲み薬塗り薬貼り薬粉薬水薬目薬胃薬座薬甘い薬に苦い薬となんでもござれ」

 

 無いものといったら鼻薬くらいなもんね。兎の少女は面白くもなさそうな顔で言った。実際、大して面白くない。この少女、ジョークのセンスは欠落しているらしい。

 

「見た目より、身体が悪いのかしら」

「私が使うのじゃないわ。今の“飼い主”が趣味なのか道楽なのか知らないけど、医者みたいなことをやってるの。私は薬の訪問販売員ってわけ」

「飼い主?」

「ああ、そういえばあんたは知らないのね。私、こっちに逃げてくる前はさる“やんごとない”お方のペットをやってたんだ」

 

 空を指差す兎の少女。見えていないはずなのに、その指は恐ろしいほど正確に彼女の故郷───緑の天蓋と蒼穹の向こうにある月に向けられていた。

 

   *

 

 一般には『兎の妖獣』あるいは『妖怪化した兎』として認識されているこの少女だが、実のところその正体は妖怪でも何でもなかったりする。

 彼女は元々、月に住まうと呼ばれる『玉兎(ぎょくと)』という生き物で、今からほんの少し前(大体3、40年くらい)に故郷を捨てて地上に逃げてきたのだ。

 

「月人か。私はお目にかかったことはないけれど、貴女のところのお姫さまとその従者さんもそうなのよね」

「面識がない割によく知ってるじゃない」

「少し前に起こった異変の大元だって、風のうわさで聞いたの。どんな異変なのかまではさっぱり判らなかったけれど」

 

 むしろ観測できない類の異変、細かいことを気にしない者にはどうでもよい異変というのが正しい。なお幽香は後者である。起こったことが知られなければ、どれほどの天変地異も『なかったこと』で済まされるのは世の常だし、ましてや幻想郷の住人がそんなものにかかずろうとするわけがない。

 

 それにしても。幽香は首をひねる。

 

「ペット、ねえ。貴女なら職種くらい選べそうなものだけれど、なんでそんなのを選んだのかしら」

「私ら玉兎は生まれついての奴隷階級、というか奉仕種族でね。職業選択の自由なんてないのよ」

 

 ついでに付け加えると、月では個々の能力に応じて、適職や天職を導き出してくれる機械というのがあるとかで、それによって各人に相応しい仕事に就かされるのだそうな。ちなみに、単純に能力から弾き出されるのが『適職』で、能力含めた個人の傾向から総合的に算出されるのが『天職』なのだとか。

 

「へえ、便利ねえ。ということは、貴女の元のお仕事もそれで決まったのね」

「まあね、適職がペットで、ついでに斥候兵(せっこうへい)───見回りの兵隊みたいなもんをやってた」

「天職は?」

「内緒。裏データにあったんだけどね……アホらしくて話す気になれない」

 

 ふうん。特に興味もなかったので、幽香は適当に相槌を打った。

 

「そういえば同期の中に天職が“独裁者”だの“宇宙海賊の女船長”って奴らもいたわね。今でも普通に餅ついてるんだろうけど」

 

 ほんとかしら。疑問に思う幽香だったが、確かめるすべはない。

 

「しかし、わざわざ逃げ出した先でも飼われる立場に甘んじるとは、物好きね」

「なによ、少なくとも私は今の関係に満足しているんだから、“ケチ”をつけられる謂れはないわ」

「向こうでは、そう思っていないかもしれないわよ」

「例えば?」

 

 尋ねられた幽香は「んー」とつぶやき、右の人差し指を形のよい唇に当てた。

 

「ありきたりだけれど───仲間とか家族とか」

 

 私はお友達がいいわ。幽香は“ころころ”と無邪気に笑う。

 私は冗談じゃないわ。兎の少女は思い切り顔をしかめる。

 

「もし連中がそんなこと考えてたとするなら私、今すぐにでも縁切って逃げ出すわ」

「どうして?」

「判ってるくせに。一度でも誰かを裏切った奴ってのは危なくなったら何度だって恩義もへったくれもなく裏切るもんよ。そんなのを信用する奴はいないのよ」

 

 いたとしても迷惑だしね、どちらにとっても。えらく投げやりな口調で少女は言う。

 

「私にとって望ましいのは、いつ切っても切られても問題ない、要は後腐れのない互恵関係(ごけいかんけい)。お友達だのお仲間なんて麗しい間柄じゃないわ」

「お友達っていうのは重すぎるものね、逃げる人には」

「やっぱり判ってるんじゃない。私に必要なものはポケットに入るくらいのものだけで十分」

 

 それもわからない阿呆なんかにゃ用なんてないのよ。いっそ潔いほどに少女は言い切った。

 

「自分勝手ってよく言われない?」

「だから、あんたが言わないでよ。たしかに、前の飼い主にもついでにこっち来てからも『ある方』に言われたことだけどさ……」

 

 少女は半分ほどに減ったカップの中身に映る自分の瞳を見つめる。

 

「でもしょうがないじゃない、こういう性分なんだもの。きっと死ぬまで───ううん、死んでも変わらないし変えられないし変えようもないんだわ」

 

 変えるつもりもないんだけど。向こうだってそれ承知で私を飼ってるわけだし、今のところは上手くいってると思うわ。

 

「上手くいかなくなったら?」

「そのときは、私が逃げ出すか捨てられるかのどちらかね」

 

 ふーむ。そこで言葉を切り、幽香は“まじまじ”と少女を見つめた。実験台の経過観察を行う研究者じみた視線。非難も憐憫(れんびん)も、ましてや同情の色さえ浮かんではいない。そんな“人並み”の感情と、ただの一度だって縁のある女ではなかった。

 その瞳を見つめ返した少女はしばしためらった後、

 

「こんな私を、あなたは軽蔑する?」

「まさか」

 

 幽香は首を振る。

 確かに褒められた生き方ではないけれど、少なくとも偽善は少ないでしょう。そんなものが入り込む余地もないくらい、生きることに必死なのだから。

 

「逃げ出したのを、後悔している?」

「まさか」

 

 少女は首を振る。

 悔いるくらいなら、最初から何もしなければいいのよ。いっそのこと、産まれた瞬間にでも首を吊るなりすればいい。

 

「なら、それでいいじゃない」

「そう、今更よ」

「それに、多分だけれど貴女の選択というのはかなり賢い部類に入るものだと思うし」

「あん?」

 

 お茶請けを用意していないのは片手落ちだったわ。口寂しさを覚えつつ、幽香はカップを傾けた。

 

   *

 

 現在、この世界に存在する『月』と呼ばれるものには二つがある。一つは現実に存在するただの月、もう一つは幻想に属するファンタジーとしての《月》である。

 前者が今現在、《外の世界》の人間が見ている月で、後者が古来から人々が思いを馳せてきた月と言い換えてもいい。

 

 しかしてその実、《外の世界》の人々が見上げているそれ(現実の月)こそが虚構の《月》であり、本物の《月》とは、本来ならファンタジーの側に位置するはずの幻想郷の住人が見ているものであったりするのだ。

 

「逆じゃないの? だってここは───」

 

 言いさして、兎の少女は口をつぐんだ。

 どうやら、気が付いたようね。幽香は優しく微笑んだ。聡い娘は嫌いではない。

 

「嘘か本当か知らないけれど、聞いた話じゃ《外の世界》の人間達はとうとう月にまで足を伸ばすことが出来たそうじゃない」

「……まあね。それがきっかけで、私は地上に逃げ出したんだけどさ」

 

 かつて《外の世界》の人々は、月にまで足を伸ばして旗を打ち立てて、“これ”は自分達のものであると言い切ったことがあるらしい。今からざっと3・40年ばかり前、人間以外の連中にとっては瞬きひとつかふたつくらいの時間である。

 

 ───蓋を開けてみれば、大失敗もいいところの結果に終わったのだが。

 

 月の民との科学力の差は歴然というより雲泥の違いもいいところで、月面に基地を造ると豪語していた連中は基地どころか建造物さえ造ることも出来ずに逃げ帰る羽目になったのだとか。その後も何度か、しつこく人間達は月に出向いてはみたのだそうだが、その都度痛い目を見ては追い返され続けているそうな。

 

 しかしその事実は一般には伏せられた。面子の問題だったのか、あるいはあまりに突飛な内容に公表するのを躊躇(ためら)われたのかは知らないが、とまれかくあれ《外の世界》の人々にとっての月面到着は大成功であると謳われて今に至るのである。

 

 そして問題はここからはじまる。

 

 結果はともかく、彼らは今の今までの人類という種が見上げる対象としてだけの《月》を否定してのけたのである。そして人間達はこれら一連の事象から一つのミームを、自分達も知らぬうちに産み落とし、それはやはり誰に知られることもなく瞬く間に《世界》を覆い尽くした。

 

 あるいは書き換えた。

 

 曰く───やはり月には《ファンタジー》なぞありえなかった。

 

 《外の世界》の人間達にとっての月とは荒涼たる死の世界であり、水も空気もありゃしないし宇宙人だっていやしない不毛の地である。もちろん兎が餅をついていたりもしない。

 幻想郷の住人にとっての《月》とは月の民が住み、地上よりも遥かに進んだ分明による壮麗なる都が建てられた天上人の住まう場所である。もちろん兎は餅をついている(餅以外もついているらしいけど)。

 

 この際、事実はどうでもよろしい。必要なのはより強く、多大な情報を保有する側が優先されるということである。

 

「なら、地上の人間達より月の民にこそ軍配が上がるんじゃないの? だって月と地上の人間達とでは、その差に歴然とした違いがあるのでしょう?」

「文明、あるいは技術、目に見える力に関しては」

 

 幽香に言わせれば、文明とはあくまでも“種全体が保有(共有でもよろしい)する”ポテンシャルエネルギーのごく一部を、目に見える形にしただけのものであって、それだけが種の優劣を決める基準にはなりえない。それがどれほど優れていようが、扱う者達の程度が低ければその意義も諸共に落ち込んでしまうのは至極当然である。道具をうまく扱うだけの畜生は、決して種として優れているわけではないのだ。

 

 “人間は大して成長していない、むしろ退化しているくらいである”とは、現在における兎の少女の飼い主の独白であるが、もしそれを風見幽香が聞いたのならば、彼女は嗤うことさえできずに呆れ返ったことだろう。

 

 ───数えることさえ馬鹿らしくなるだけの時間を、ただひたすら“どぶ”に捨て続けてきた“まがい”の死人に言えたことかしら?

 

   *

 

 あまり知られていないことではあるが、実は月の民という連中、元を正せばそのルーツはこの地上に住まう、要するに地上の人間とだいたい同じような連中だったりする(まあ、湧いて出た時期はやたらと早かったみたいだが)。

 それがなんだって、いまや地上から遠く離れた月なんぞに居着いているのかといえば、それは偏に地上に蔓延(はびこ)る“(けが)れ”から逃れるためである。

 

 “穢れ”とはありとあらゆる《生命》が、生き死にの際に撒き散らす汚染物質のようなものだと思えばいい。これが溜まりに溜まり、その重みに耐え切れなくなった時が“寿命が尽きる”ということである。

 では何故こんな、文字通りの死に至る病のごときものが地上に蔓延するようになったのかといえば、それは生命の営みが織り成す生存競争が主な原因だ。

 

 かつて《世界》は何者も棲まず、それが故に静かで穢れてもいなかった。それが変化しだしたのは、いつしか世界に《生命》が産声を上げだした頃のことである(最初の生命に発声器官なぞがあったかどうかは知らないが)。

 まず海に満ちた生命が戦いを始めた。個として、あるいは種として少しでも多く生き残るために。そして勝者となった生命は地上に進出し、やはりというかそこでも生き残りを賭した壮絶な戦いを繰り広げた。その過程で数多くの生命が死に、あるいは死に絶え、世界のいたるところで屍の山が積み重ねられ、流された血は河のごとき有様となり───結果、地上に“穢れ”が撒き散らされることになったのである。

 

 本来ならば、生き物はいつまでも生きることができるのだが、撒き散らされた“穢れ”が生き物に寿命を与えてしまった。その量、大まかには何十億年分。途方もないとはこのことだ。

 生命の歴史は闘争の積み重ね、一秒ごとに幾千幾万の血を啜り上げる世界であったから地上はますます穢れる一方で、現在だと地上の生き物は百年以上は生きられないという始末だ。こんなどうしようもない世界では、かつての月の民が地上を棄てたのもけだし当然といえよう。

 

 しかし、そこに手酷い“しっぺ返し”が潜んでいたと誰がどれほど気付いているのだろうか。

 

 先にも述べたが、“穢れ”とは生命が他の生命、その存在を食い散らかしたことによって己が身に刻み込まれた罪の証である。

 しかし逆に考えるならそれこそは、現在、地上に生きるすべての者共が激烈無比なる生存競争の果てに掴んでのけた勝利の証であるとは云えまいか。そして月の民こそはその血みどろの闘争から、真っ先に逃げ出した敗北者と捉えることができまいか。

 

 風見幽香は嘆息する。

 

「人間達は───もっと言ってしまうと人間含めたすべての生命は───貴方達がいうところの《穢れ》に満ち充ちた世界でずっと戦い続けてきたのよ。それこそ死に物狂いで、ね」

 

 その間、この世界を不浄汚濁に満ちた穢土の地と決めつけて、生きていくことさえままならずに逃げ出した貴女達は何をしていたのかしら。幽香の舌鋒は鋭くはないが、耳にする者の心を鈍器で打つような響きがあった。

 

 風見幽香は人間という生き物を特別だと考えたことなど、ただの一度もありはしない。しかして、人間という種が積み上げてきた“営み”までを軽んじたこともまた一度もなかった。確かに《個》としての“人間”はあまりにも脆弱で、月の民とは比べることさえ愚かしいだろう。しかして《種》としての『人類』が、進化の過程で血肉に刻みつけてきた《記録》に、はてさて、月に住まう者達が勝ちうるものだろうか。

 

「人間達が全体で共有するミーム、その力はもはや当の人間達でさえ御しきれるものではなくなっている」

 

 いわんや、貴方達では抗うことも出来ないでしょうね。

 

「でも、あんたの説明には根本的な問題、というか矛盾がある」

「?」

「百歩譲って、地上の人間達には月の連中が敵わないとしても、それがどうして《外の世界》に確固として存在している《月》の否定に繋がるのかってことよ」

 

 幽香が語るように《外の世界》で月やその住人が存在を否定されたとするのなら、そいつらは片っ端から《こっち》に流れているはず。いわゆる、《幻想入り》と呼ばれる現象である。あるべき現世からありえぬ幽世への追放刑、もしくは役に立たなくなったファンタジーの廃棄。幻想の郷といえば聞こえはいいが、その実はただのガラクタの埋立地であるわけだ。

 

「私の飼い主が言うには月からは《こちら側》───幻想郷の存在を確認できないんだって。ということは、いまだに月は《あちら側》にあるとみるべきでしょ」

「なにか勘違いがあるみたいだけれど、幻想郷を維持している《結界》は、物理的な距離や壁として世界を“断絶”しているのではないのよ」

「あー?」

 

 幻想郷を形成する上で欠かせぬものの一つに、《博麗大結界》というものがある。

 

 通常の、世界を『俗世』『聖域』でカテゴライズして切り離すだけの《結界》と違い、これは現世と幽世を物理的にではなく『論理的側面から』隔離するという代物だ。世界を《常識》の支配する場所と《非常識》が幅を利かせる場所とで別ち、妖怪の維持にとって不利な情報を遮断する論理の迷宮、それが《博麗大結界》である。

 

「そもそも、並の結界ごときで囲ったくらいじゃ《外の世界》による《常識》の侵食は防げないでしょう」

 

 それ以前に、もし物理的に断絶していたとするのなら、その時点で幻想郷は巨大な密閉空間となって内部の住人は片っ端から全滅である。

 

 妖怪達の存在が危うくなったのは、人間が妖怪の存在を信じなくなったという以上に、『この世に妖怪なぞ存在しない』というミームが世界を覆い尽くしたというのが大きい。

 ミームの力は絶大だ。それこそ、現在どころか過去未来の一切合切にさえ干渉し、白を黒、有るを無いと置き換える。そして一度目をつけられたが最後、もうなにがどうあろうと“そういうものである”と括られてしまうのだ。例を挙げると少し前に復活した古代の豪族の親玉がそれだ。本人の実態は一切考慮されず、後世の(要するに現在の)人々にとって都合のよい部分だけが抜き出されて現世に留まり、都合の悪い実像は《幻想》の彼岸に放逐された。

 

「その意味で言うのなら、今まで幻想郷において私達が見上げてきた『月』とは、人々が思いを馳せてきた《幻想》の側に属していた《月》であったというわけね」

「……ますます解らない。それなら今、《外の世界》に存在している月っていうのは何だってのよ」

「ここまできたら、もう解っているんじゃないの?」

 

 幽香は投げやり気味に言った。

 

 ───目の前に見えるのは真実ではない あなたの脳が作り出す幻よ。

 

 《月》がいまだに人の手から遠い場所にある内ならば、まだ人の心の片隅に《月》への憧憬や幻想が残っていられるけれど、人間の進歩によってはいずれそれとて消え失せる。その時、あらためて人間達の生み出したミームと、月の民の実像(積み上げてきた歴史を含んだ存在意義)とがぶつかり合う時がくる。

 

「現実と幻想の間で、辛うじて保たれているバランスが傾いた時、それが《月》が完全に否定される時というわけね。果たして、彼らは上手いこと幻想の側に取り込まれることが出来そうかしら?」

 

 滑稽ね。世界を捨てたと思った貴方達こそが、その実、世界からも人間達からも見捨てられていたのよ。語る幽香の瞳には、しかしほんの僅かな笑みさえ浮かんではいなかった。

 最早、《外の世界》の人間達は月の民のことなど相手にもしないどころか、存在を認識することさえできないだろう。なにせ、そんなものは“元からいない”のだから。

 

「あんた達、妖怪みたいにね」

「まったくもって、その通り」

 

 少女の皮肉の返礼を、幽香は怒りもせずに首肯する。月のファンタジーも地上の幻想も、人間達にとってはもう過去の遺物どころか飽きたオモチャ以下のガラクタでしかない。

 

「でも“ここ”でなら、存在する理由さえない“まぼろし”でも、生きていくことができる。結果として貴女は、正しい選択をしたとも言えるのよ」

「まさか、それで慰めてるつもり?」

「それこそまさか。言ってみただけよ」

「あんたならそう言うと思ったわ」

 

 兎の少女は心底から厭そうな顔をした。

 

 所詮、幻想はそれを抱く者達にとっての都合のよい道具以上にはなれっこないのだわ。幽香は今更ながらの慨嘆を抱いた。見れば少女も似たような表情でコーヒーカップを玩びながら、虚空に目を彷徨わせている。

 どちらともなく顔を見合わせる二つの異なる口から同じ声音が聞こえてきた。

 

 怖いわー人間怖いわー。

 

「Glory with the Moon. Mercy on the Earth───今となっちゃ虚しい空威張りね」

「なあに、それ?」

「私達が、玉兎が最初に憶えさせられる言葉、『月ノ民ニ栄光アレ、地上ノ民ニ慈悲アレ』ってさ」

 

 より正確には刷り込みだけど。兎の少女は自嘲気味に語る。

 なんでも彼女達の故郷では、脳みそに直接、記録や知識を焼き付ける学習機械というものがあるのだとかで、教育などはそれで賄われるのだそうな。つくづく便利なものだと幽香は思った。

 

「その機械でなら、私でも友達たくさん作る方法とか学べるのかしら」

「あるわけないでしょう、そんなもん。それにあったとしても、植え付けられるのは『知識』だけで、それをどう使うかは本人次第でしかないのよ」

「んー……じゃあ、貴女のところの薬剤師さんに頼んで、友達のできるお薬でも作ってもらおうかしら」

「どんなのよ、それ」

「飲んだ人がなんでかよく判らないけど私とお友達になりたくなるの」

「……私が言うのもなんだけど、そういう風に作るもんじゃないでしょ、友達ってもんは」

「常習性とか禁断症状があるお薬ならいけるんじゃないかしら」

「さては馬鹿でしょう、あんた」

 

   *

 

「……なんだか、ずいぶんと長話になったわね。誰かとこんなにお喋りしたのって、久しぶりだわ」

 

 下手すりゃ生まれてはじめてのことかもね。“ぽつり”と、独り言のように言って少女は残った珈琲を飲み干した。

 

「私、そろそろ行かないと。珈琲、ごちそうさま」

「あら、もう行っちゃうのね。名残惜しいわ」

「一応、これで食べてるわけだからね、いつまでも油売ってられる身分じゃないのよ」

「薬売りだけに」

「上手いこと言ったつもり?」

 

 少女は呆れ顔でカップを返して立ち上がり、葛籠を背負う。幽香もシートとカップを仕舞って立ち上がる。

 別れしなに、兎の少女が言った。

 

「私はこれから『里』の方に行くんだけど、あなたはどうするの。迷ってるんだったら“ついで”に出口まで道案内してあげるわよ?」

 

 もちろん“ロハ”って訳にはいかないのだけど、珈琲のお礼として少しならまけてあげる。少女の提案に幽香は“しずしず”と首を振った。

 

「今回は遠慮しておくわ。もう少しここを回ってみたいの」

「あっそ。まあ好きにすればいいんじゃない」

 

 兎の少女は素っ気ない。あえてそうしているのでもなんでもなく、目の前の女がどうなろうと腹の底から知ったことではないのだ。

 そんな態度に気を悪くもせず、幽香は奇妙なことをしだした。手を合わせて目を瞑り、「なむなむ」とまるで拝むようにして頭を垂れたのである───スカートからすらりと伸びた、少女の足に向けて。

 

「……なにをしてるのよ」

 

 兎の少女の訝しげな問いに、幽香は片目だけを開けて応えた。

 

「お祈り。兎の足って縁起物なんでしょう?」

「私の足に祈っても御利益なんて期待できないと思うけど」

(いわし)の頭も信心から───貴女の足は、鰯の頭よりはありがたみがありそうだし」

 

 はあ、そんなもんなの。釈然としない顔の兎の少女。未開の地に住まう原住民による、得体の知れない儀式か奇祭を目の当たりにしたような気分だった。

 

   *

 

 このお祈りが功を奏したのか、はたまた少女の足に本当に御利益があったのかは定かではないが、風見幽香はそれから一週間後に竹林を出ることがかなったのである。




 登場人物

風見幽香

備考───ちいさなしあわせみつけたい

兎の少女

備考───エロ同人で高確率で酷い目に遭う程度の能力を持つブルセラバニー

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