私に友達ができないのはどう考えても幻想郷が悪い   作:puripoti

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第2話 INTO DARKNESS~食べられてしまいそうな程、ファンタジックな宵闇~

 月の輝きが静かに照らす夜の路を風見幽香は歩いていた。

 

   *

 

 博麗神社での相談の後、巫女の意見に従って友達たくさん作るべく人間の里に赴いた風見幽香であったが、その成果は実に惨憺(さんたん)たるものだった。

 

 里に足を運んだ幽香を迎えたのは、里の人々による温かい歓迎───などというものではなく、人妖問わずおよそ凡ての住人による丁重なる無視であった。言い方が悪いと感じたのなら敬遠と訂正してもよろしい。誰も彼もが彼女の姿を認めるや顔色を変えあるいは顔を背けもしくは目を合わせようともせず、道行く者達は残らず“そそくさ”と脇道に逸れるかさもなくば『おおこれはいかん道を間違えてしまったこれはすぐさま来た道を戻らねばならぬ』とばかりに踵を返す始末である。

 

 実はこの光景、風見幽香を見かけた際における一般的な衆生(しゅじょう)の反応であったりする。

 いくらなんでも大袈裟だろうなどと思ってはいけない。先にも述べたが風見幽香といえば歩く局地災害の別名である。蛇どころか獅子や虎が潜んでいる藪を、わざわざ進んで突つきたがるようなやつはいない。

 

 普通ならばこの時点で空気を読んで仕切り直すなりを考えるのであろうが、生憎ながらこの女にそのようなものを求めるのはまったくもっての無意味にして無駄かつ無益なことであると同時に無理である。はじめのうちこそ巫女が言っていたとおり、誰ぞが声をかけてくるのを待つ気ではいたが、このままでは埒が明かぬと考えなおした幽香はとりあえず一番近くに居た里人に声をかけることにした。

 

 声をかけられた側にしてみればたまったもんではなかったろう。逃げることさえままならず、眼前の大妖の一挙手一投足に死人もかくやの顔色となって歯を鳴らして震えるその様は、さながら冬眠を終えたばかりの熊に目をつけられた哀れな子鹿のごとしであった。

 

 とはいえこれはこれで、本来あるべき人間と妖怪との関わりの構図ではあるのだが。人は妖怪を恐れ、それを以て妖怪は己をあるいはその寄る辺を保つ。千古の昔から続くそれが、彼ら彼女らの正しい関係である。

 

 しかし今回ばかりは、それをやらかした場所が悪すぎた。

 

「里にて騒ぎを起こすのは、いかなる妖かしもご法度なり───それを忘れるとは夏の暑さに血迷いましたか」

 

 どうやら立ち去った里人からの連絡を受けたらしい、里の寺子屋で教鞭をとる半獣人に詰問された挙句、あわや幻想郷のルールに則った決闘による解決をみるか、というところまでいく羽目になった。

 結局、すったもんだの末に誤解は解け、今回の一件は不問に付されることにこそ相成ったのだが、騒ぎを起こしたのもまた事実なので暫くの間は里には出入り禁止との沙汰を下されるというオチまでついて、幽香は悄然と帰路についたのである。

 

 どうしてこうなったのかしら。

 

 人里を出て家路を辿る、その道中で幽香は首をひねった。本来ならば今頃は、友達がたくさんできてお喋りしたりお茶したりしているはずなのに───それがこのざまである。却って敵を増やすような結果に終わってしまった。詫びのつもりで差し出した大袋一杯の向日葵の種も「そんな危険な代物いらん」と拒絶されるという有様である。

 

 我が身に降りかかった理不尽に、幽香はただただ首をひねるばかりであったが答えはついぞ得られなかった。

 

   *

 

 星の瞬きが儚く灯る昏い路を風見幽香は歩いていた。

 

 こうして“ぼんやり”夜道を歩いていると思い出す、あてどもなく世界をさまよい歩いていたかつての自分を。

 

 花のある場所をひたすらに目指して三千世界のありとあらゆる場所をほっつき歩き、ときには気に入ったところで足を休めそれに飽きたらまた歩く。それが風見幽香の記憶のすべてである。別にそれが楽しいというでもなく、ただそれだけで彼女は満ち足りていられたのだ。それ以外の生き方なぞとんと興味がわかず思いつきさえしなかった。

 

 そんな自分が一体いつから、何を求めて幻想郷に居着いたのかを風見幽香は思い出せない。

 

 かつて威勢を振るった夜の世界の者共が、迷信伝承お伽話と切って捨てられ忘れられ自身と寄る辺のすべてを奪われ否定されても、幽香は変わらず気にもせずただ一人歩き続けた。世界がどれほど移ろい巡り変わろうとも、花はどこにでも咲いている。妖怪が人に否定されようとも、またあるいは自分達がそうしたようにいずれ人が何者かに否定されようとも、草花だけはたとえいつでも、いついつまでも変わり変わらず咲き誇る。だからこそ、いつか消えゆく我が身のことに思い煩うこともなく、幽香はひたすら歩き続けた。

 

 永い時の流れは、いつしか彼女から木花の姫君としての儚さを奪い去り、代わりに磐の姫のごとき強さを与え───

 歩いては時折立ち止まり、再び歩いてはまた休み、美しい花を見て美しい景色を眺め美しい世界を感じ───

 

 そしてふと気がつけば、奇跡や魔法が我が物顔で幅を利かせ石を投げれば神や魔物に“こつん”と当たりついでとばかりに妖怪たちも芋洗いのごとく右往左往する、今や消えゆくばかりであったはずの幻想の輩が掃いて捨てるほど投げ売りできるほどに溢れかえったこの隠れ里で“ぼけーっ”と突っ立っている自分を発見した。

 

 とはいえ、そこがどこであろうとも風見幽香がやることに大した違いなんぞあろうはずもなく、彼女はやはり今もなお花のある場所を求めて歩いている。

 

 変わったところがあったとすれば、求めるものに友達というものが加わっただけである。

 

   *

 

 幽かな光明も届かぬ宵闇の路を風見幽香は歩いていた。

 

 あら、おかしいわね。柳眉をひそめて幽香は立ち止まった。

 

 目を凝らす、何も見えない。文字通り、一寸先も見通せぬ闇である。

 ありえぬ話だ。彼女は妖怪、光も届かぬ真闇の中さえ白昼のごとく見通す目を具えている。それだというのに今や自分の手元さえ見ることが叶わないというのは───

 

 妖怪の仕業かしら。

 十中八九、間違いなかろう。とはいえ普段の風見幽香なら気にも留めずにやり過ごす程度の異常だが、この時ばかりは興味が勝った。早速潰えた友達作りの代わりに、時間を潰す口実が欲しかっただけなのかもしれないが。

 

 幽香は総身の力を抜く。一体誰が何を目的としてこんな真似を仕掛けてきたのかは知らないが、まずは相手の出方を知りたい。いわば誘いである。完全な無防備となっても幽香はあまり気にしない。彼女が知る限り、“風見幽香”を貫く力を持った妖怪で、闇ないし知覚を操作するような能力を持っている奴はいない。

 

 まあ、仮に未だ知られぬ強者の仕業であったとしても、それはそれで構わない。その時は、素直に一撃貰ってやり返せばよし。万一、その一撃が彼女の命を刈り取ったとしても、それもまたそれで構うまい。もしそうなれば、それが風見幽香の終わりであると受け入れるだけである。

 

 “ぼんやり”と幽香は佇む。何も見通せぬ暗闇の最中では、一体どれほどの時間そうしているのかも判らない。だが突如その耳に、

 

「ぷぎゃっ」

 

 という小さな悲鳴が届き、同時に幽香を捉えていた《闇》が消えてなくなった。

 幽香が声のした方へ振り向くと、右後方のやや離れた場所にある木の根本で金色の髪の少女が頭を押さえてうずくまっているのが見えた。

 

 年の頃は十かそこら、ミディアムボブにした金色の髪に大きめのリボン。闇夜に紛れるかのような黒い服が、どこか喪服のようにも見える幼い女の子。おそらくは彼女がさきほどの《闇》の作り手だったのだろう。幽香は肩透かしをくらった気分でその少女へと足を向けた。

 

 近づいてくる幽香のことなぞ気にもならぬ様子で、少女は頭を抱えて「うんうん」唸っている。ひょっとしたらだが、傍らの木にでも頭をぶつけたのだろうか。だとしたらさぞや痛いだろうな、そう思い幽香は少女に声をかけた。

 

「ねえ貴女、とても痛そうだけど大丈夫?」

「……とても痛い、あんまり大丈夫じゃない」

 

 少女は涙の滲んだ紅色の瞳で幽香を見上げる。夜目にも眩い金色の髪が、幽香の印象に強く残った。

 

   *

 

 話を聞いてみれば、やはりというかその少女こそが異常の正体であった。

 

 なんでもこの少女、『闇を操る程度の能力』なるものを持っているそうで、先の異常な暗闇も、久しぶりに“とって食べれる人類”を見つけたので、襲ってやろうと思い立ち放ったものだったらしい。この少女、無邪気な子供そのものの外見からは想像もつかないが人喰いの妖怪なのだ。

 

 それほど恐ろしい妖怪が、何故にかくの如き有り様となっているのかといえば、その《闇》というやつ、一度出してしまうとその中では当の本人でさえ方向を見失うほどのものだとかで、それがために少女は獲物を襲うどころか自ら近くの木にぶつかり頭を抱えて呻吟(しんぎん)するという憂き目に陥ったからだそうな。

 

 成程ねえ、幽香はなんとも言えぬ面持ちで呟いた。話だけ聞くと間抜けではあるが、それでも運のよい子だと思ったのだ。

 

 おそらくだがこの宵闇の少女、妖怪としては中途半端に強い部類なのだろう。

 強すぎる者は同じ強者に喧嘩を売らない。そんな真似をすれば、どちらかが死ぬしかないから。弱すぎる者も決して強い者に近づかない。生殺与奪を他人に握られていい気分でいられる奴はいない。両者に共通しているのは、強者を嗅ぎ分ける感覚である。それを持たないのは半端な力しか持たぬ証に他ならない。でなければ、こともあろうに風見幽香に襲いかかろうなどとは露ほどにも思うまい。

 

 もし少女の運の天秤があとほんの少し、良いか悪いかの方向へ(かし)いでいたのなら、その命運は間違いなく尽きていたであろう。相手が幼い少女(といっても見た目以上に歳を食ってるのだろうが)であるから手心を、などという気遣いをこの女に求めるのは、人食い狼に今日から菜食主義に転向しろと要求するようなものである。

 

 自分を感慨深げに見やる幽香から何を感じたものか、宵闇の少女は眉根を寄せて訊ねた。

 

「もしかすると、あなた妖怪なの」

「あら、気が付いてなかったのね」

「うん。人間にしては、変な気配をしてるなとは思った」

 

 ぼやくように言って、宵闇の少女は両腕を大きく広げるという奇妙なポーズで“ふわり”と浮かぶ。揚力を稼ぐというより、聖者は磔にかかり人類は十進法を採用しましたというジェスチャなのだろうか。幽香はどうでもよいことを考えた。

 

 ちょうど幽香の目の高さにまで浮かび上がった宵闇の少女は、幽香の瞳を“じぃっ”と覗きこむ。少女の紅の瞳の中に自分の瞳の紅が映る様は、どこか不可思議なものであった。

 

「判らなかったのも仕方がないわね。私、普段はあまり妖気とかを漏らさないようにしてるから」

「人のふりでもしているの?」

「外れ。無意味に強さを誇示しても周りが煩くなるばかり、それは私の生き方と相反するの。もうひとつは無用な威圧を与えないためね」

 

 今は後者のほうが重要だけどね、そうでもしないと友達もできないし。幽香の説明に、宵闇の少女は分かったような解らないような、微妙な表情を浮かべた。

 

 余談ではあるが、今幽香が口にしたこのスタンス、実は彼女を無意義無用の諍い争い騒動から遠ざけるのに何ひとつの寄与もしていなかったりする。それどころか、むしろ無益不必要な流血ばかりを呼びこむ結果となったほうが多い。何故というのなら、

 

 かつて、彼女に刃を向けた人は思ったものである───弱そうな妖怪だ、手柄とするには丁度よかろう。

 かつて、彼女に牙を剥いた妖も思ったものである───弱そうな妖怪だ、血肉とするには丁度よかろう。

 

 それらの者達がいかなる末路を辿ったかについては、わざわざ書き記すほどの理由も価値もないので省かせてもらう。そんな事実もいざしらず、幽香は肩をすくめたものである。

 

「能ある鷹は爪隠す、これもか弱い妖怪ならではの生活の知恵というものね」

「そうなのかー」

「そうなのよー」

 

   *

 

 それにしても、と幽香は思った。

 

「間違えたとはいえ人間を襲おうとするなんて、あなた、そんなにお腹が空いているの?」

「ううん」

 

 地面に降り立ち、少女は小さく頭を振った。闇夜を振り払うように、金色の煌めきが揺れる。

 

「でも最近は、取って食べれる人類が見つからないから困ってるんだ」

 

 ああ、成程。幽香は頷いた。

 

 妖怪とは人間を襲って初めて存在意義が有るものである。しかして幻想郷においては妖怪が滅多矢鱈に人を襲うことが禁じられている。ただでさえ少ない人間達を後先も考えもなしに襲い尽くせば、その後を追うように妖怪も滅ぶのだから。しかしそれでは妖怪達は存在する意義を喪失してしまう。人を襲わぬ妖怪は妖怪ではない。

 

 実に悩ましきこの矛盾。それを解決するために必要となってくるのが、今少女が口にした『取って食べれる人類』である。彼らもしくは彼女らは、妖怪たちの“存在意義を保つための栄養”を満たすために《招かれる者たち》のことだ。彼らに限っては、妖怪達は一切の遠慮無く襲うことが許されている。一応、念の為に断っておくが『取って食べれる』云々は誇張でも何でもなく、まんまその通りの意味であるからして襲われた後は胃袋に直行である。妖怪にはキャッチアンドリリースなどという、腹の足しにもなりゃしない考えをする奴はいない。

 

 なお幽香は詳しく知らないが彼ら彼女らの内訳とは、幻想郷の《外の世界》における存在意義を自ら失った者達であるとか。それこそ、外の人々から不要無用の存在として忘れ去られ、ついにはこの小さな世界だけでしか存在を許されぬに至った自分達のような。

 

 自分を保つために己の合わせ鏡の如き存在を喰う、ひどい自虐があったものね。口にこそ出さぬものの幽香は常日頃からそう考えていた。

 

 話を戻そう。そうやって招かれる『取って食べれる人類』だが、妖怪達の口を満たすのには、彼らの数は決して多いとはいえない。どうしても食いっぱぐれる者は出てくる。少女もその内の一匹であるわけだ。まあ、喰わなきゃ腹が減るだけで別に死んだりするわけではないだけれど。

 

 ふーむ。幽香は軽く握った手を顎に当て、何かを考えるような仕草をした。視線の先には少女の金色の髪。

 

 そしてしばしの黙考の後、おもむろに口を開いた。

 

「ねえ、ちょっといいかしら」

「?」

「あなたさえよければだけど、食べてみない───私を?」

 

 普通なら正気を疑うような発言だが、それをおかしいと思うような神経の持ち主はここにはいない。思いもかけぬ提案に、少女は“ぱあっ”と花咲くような笑顔を浮かべた。

 

「え、いいの?」

「ええ。その代わりといってはなんだけど、私のお願いをひとつ聞いてほしいの」

「お願い?」

「そう、お願い。決して無茶なことは頼まないつもりだし、それでも駄目なら断ってくれてもいいわ」

 

 どうかしら、と促す幽香。少女は少しの間「むー」と考え込んでいたが、

 

「わかった」

 

 頷く少女に軽く微笑みかけ、幽香は握手を求めるように右の手を差し出した。

 

「交渉成立ね。それじゃあ───どうぞ、召し上がれ」

 

 いただきます。目の前に差し出された、白魚のような繊手に少女は笑顔で齧り付いたが、すぐに顔をしかめて口を離した。目尻には涙が浮かんでいる。

 

「……硬い」

 

 あらまあ、失敗したわね。幽香は左の拳で自分の頭を“こつん”と叩いた。いまだ幼い少女では、長きに渡って積み重ねてきた“風見幽香”を噛み破ることはかなわないのだ。それを失念していたとは、自分の迂闊さに思わず笑ってしまいそうだった。

 

 ちょっと待っててね、上目遣いで怨ずる少女に断りを入れ、幽香は目を閉じ意識を集中した。『外』へ向かい外界に抗う自身の積み重ねを『内』へと向けて相殺し、己の有り様に手を加える。瞼の裏に思い描くのは昔の自分───時の流れを遡り、長く培った磐の姫から儚く散りゆく木花の姫へと自らを巻き戻す。

 

 目を開けた時、そこにいたのは風見幽香であって風見幽香ではなかった。

 

 幽香は少しの間、感覚を確かめるように右手を握ったり開いたりした後、改めて少女へと差し出した。

 

「今度は大丈夫なはずよ」

 

 先程のこともあり、少女はやや警戒したような面持ちでいたが、やがて意を決したようにその手を取り、再度齧り付いた。

 小さな口から響く“ぶちり”という音によって、少女は幽香の言ったことが本当だったのを知った。さっきは岩でも齧ったかのごとくびくともしなかった彼女の手が、今は雲でも口にしているかのように容易く食い千切れていく。

 

 瞬く間に手指を噛み砕いた少女はその傷口を見て、言った。

 

「血、出ないんだ」

「ええ。せっかくの可愛いお洋服ですもの、汚したら悪いでしょう?」

 

 そっか。何か納得したような気分で、少女は独り言のように言う。

 

「親切な妖怪ね、あなたって」

「まあ」

 

 幽香は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。それほど少女の一言は思いもよらぬものだった。色々な時代にありとあらゆる場所で様々な人々と多くの人外から沢山の言葉を投げかけられてきたが、まさかに自分のことを親切などと言ってのけたのは、この少女が初めてではなかろうか。

 

 我知らず幽香の口元が柔らかな弧を描く。ほんの少しだけ、この少女が好きになった。

 

 少女が食餌を再開する。闇の中、ぶちりぶちりと悲惨な音が響く。

 音に聞こえし大妖怪と云えども痛覚は常人のそれと大差ない。手を噛まれれば痛い、食い千切られればなお痛い。しかし幽香は平然としたものである。それどころか微笑みさえ浮かべて、少女が己の肉を咀嚼するのを興味深げに見つめている。

 

「私が聞くのもおかしな話だけれど、美味しい?」

「まずい」

「正直だこと」

 

 植物由来の妖怪の血肉だけに、肉食妖怪の口には合わないのかしら。どうでもよさげにつぶやく幽香の左の袖を少女が引っ張った。既に右腕は肘から先がなくなっている。

 

「ねえ、ちょっといいかな」

「なにかしら?」

「食べにくいから、しゃがんで」

「あら、気が付かなくてご免なさいね」

 

 軽く謝ってから幽香は膝を折り、少女と目線が合うくらいの高さにしゃがんであげる。よくよく考えてみればこの少女は空を飛べるのだから、こうまでしてやる必要なぞないのかもしれないのだろうが。

 

「ありがと」

 

 謝辞を述べ、少女は小さな口をいっぱいに開いて幽香の肩にかぶりついた。

 

 ───あら、やっぱり服も一緒に食べるのね。消化に悪そうだからお腹を壊さないといいのだけれど。

 

 幽香はまるっきり他人事のような気分で少女の腹具合を心配した。

 

   *

 

 風見幽香という存在が、少女の桜貝のような口の中に髪の一筋さえ余さず消えたのは、それから四半刻(およそ30分)ほど後のことだった。

 

   *

 

「ごちそうさまでした」

 

 誰もが恐れる花の妖を文字通り“片っ端から”食べ終えた少女は誰にともなく言った。食した量はどう考えてもこの小さな少女のやはり小さな胃の腑に納まりきるものではないが、そんな些細な事にかかずるような輩はここでは三日と正気を保てない。

 不味いと口にした割に、少女の表情はとても満足そうなものであった。目にしたものすべて、つられて顔がほころんでしまいそうだ。ひょっとしたら、腹が膨れれば文句はないというだけなのかもしれないが。

 

 “けぷっ”と、可愛らしくおくびを漏らす少女へ好もしそうな目を送り、幽香も返した。

 

「おそまつさまでした。ちゃんと挨拶ができるのは良い事ね、美味しそうに食事ができるのも」

 

「?」宵闇の少女は狐につままれたような顔で小首を傾げ、目の前の、食われる前と寸分たがわぬ姿で佇む幽香を見上げた。

 

「あなた、食べられちゃったのになんでそこにいるの?」

 

 尤もな疑問である。それ以前の問題ともいえるが。

 

「さっきのあなたは偽物? それともまぼろし?」

「さっきの私は紛れもない本物よ」

「じゃあ、あなたが偽物? それともまぼろし?」

「こちらも本物よ、偽りなしの」

 

 禅問答のごときやりとりに、少女は眉根を寄せた。

 

「よくわからない」

「言葉にするとややこしくなるのよ。うまく説明しきれる自信もないし、気にしないのが一番ね」

「そうなのかー」

「そうなのよー」

 

   *

 

「お腹も膨れたところで、今度は私があなたに、お願いを聞いてもらう番ね」

「わかってる、何をすればいいの?」

 

 首を傾げる宵闇の少女に、幽香はどこか悪戯っぽく微笑んだ。

 

「と言っても、そんなに大したことではないの───あなたの髪、触らせてくれないかしら?」

「そんなことでいいの?」

「ええ、目にした時から気になっていたの。だってそんなに綺麗な髪なんですもの」

「ふうん。まあ、いいけど───好きにすれば」

 

 少女はやや釈然としない風であったが、すぐに思い直したかして幽香の傍に近寄った。

 

「ありがとう。じゃあ、失礼するわね」

 

 幽香は短く断りを入れ、少女の髪の中に手を潜らせた。宵闇の中にあってなお、誘蛾燈のごとく妖しく輝く少女の髪に幽香の繊手が埋もれゆくその様は、さながら永い時を閲した白蛇が黄金の海に身を投げたかのようであった。

 

 頭頂からこめかみのあたりへと伝い、うなじへと指を滑らせる。その動きに合わせ、少女がわずかに身を捩った。

 

「あら、もしかしたら痛くしちゃったかしら。だとしたら、ごめんなさいね」

「痛くはないけど、ちょっとこそばゆいよ」

 

 堪えられぬとばかりに少女は“くつくつ”と笑った。口からこぼれる笑いとともに、少女の体が揺れる。

 

「出来れば動かないでほしいのだけれど」

「無理、くすぐったい」

 

 それからしばらくの間、闇夜の中に笑い声が響いた。

 

   *

 

「……髪、ボサボサだ」

 

 幽香によって心ゆくまで弄り回された後に、ようやっと開放された宵闇の少女は髪を手櫛で整えながら口を尖らせた。

 

「あらあら、ご免なさいね。あまりにも手触りが良かったものだから、つい」

「いいよ気にしないから。それより、もし次に遭うことがあったらその時はもう少し美味しくなってくれてると嬉しいね」

「善処してみるわ」

 

 そんなやりとりの後、二人はそれぞれの帰路に着くべく別れた。

 

 じゃあね。小さく手を振り、宵闇の少女は夜空へと消えていく。

 気を付けてお帰りなさい。それを見送り、風見幽香も歩き出す。

 

 しかし数歩ばかりを進んだところで、幽香は立ち止まった。

 

 

「あ」

 

 

 幽香はなにか大切なものを落としたかのような顔をしていた。ことここに至って、自分がとんでもない間違いを犯したのを悟ったのだ。

 

「お友達になってちょうだいってお願いにすればよかった」

 

 後の祭りである。




 登場人物とか

風見幽香

備考───植物性少女

宵闇の妖怪

備考───肉食性少女

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