HELLSINGとのクロスです。
なぜ、記憶は忘却の彼岸に囚われているのか。身体は倦怠の泥に沈んでいるのか。
獄は強固、実体を持たない鍵は一つ。

ピクシスが頑張ったりします。

1 / 1
不快にさせる表現、展開がでてくる 可能性 があります。
いろいろテスト。
あらすじ苦手なんであんなんですんません。
このSSはarcadia様にも投稿しています。


第1話

「おい、あんた。大丈夫かい」

 

 彼は顔に滴る異質に目覚めた。

 まどろみ、逆光にくらむ視界には裕福そうな顔の男。

 

「よかった、目が覚めたみたいだな」 男は彼の肩を叩く。 「しかしあんた、何だってこんなところで。それも一人で」

 

 彼は、見上げる晴天から自らが大地に仰向けであること知った。上体を起そうとし、しかしひどく体がだるい。思うように動かない。

 

「やっぱり行き倒れか? 身体は痛むか? 腹は? 肩を貸してやるよ」

 

 足を引きずり、男が所有する荷馬車に運ばれた。馬車は十台以上で列を作っており、運転手達は好奇の眼差しを向ける。

 その後、移動する馬車の中で介抱された。水や、ふやかしたパンを与えられ、しばらくしてようやく口が利けるようになった。男は顔に水をかけた際に外しておいた丸眼鏡を返してやる。

 

「で、あんた」 何から聞くべきか。男は口どもりながら。 「あー、その。どこに向かっていたんだ?」

「おれは、わからない。何を行こうとしていたのか」

 

「どこへ、行こうとしていたのかだろ。なんだよ、何を行くって。名前は、どこの村の出身だ?」

 

 答えるには十分すぎるほどの時間が経ってからだ。こう答えた。

 

「わからない」

 

 彼は記憶を持っていなかった。

 

 男が語るに、彼は道からややはずれた一本の木の横で寝転がっていたらしい。村から町への買出しや取引などの人間が一休みすることはよくあるが、彼は着の身着のままで。リュック一つとして見当たらないので声をかけたのだ。

 

「本当に何も思い出せないのか?」 男は試すように彼に言った。 「何か持っているものはあるか? 村の名も、どこの区に住んでいたかも思い出せないのか。まさかとは思うが、さすがに壁を知らんわけはないだろう」

 

「壁?」 と彼はうつろな目でオウム返し。

 

 信じられんと呟き、男は矢継ぎ早に尋ねる。どのような労働を行い、これまで生活していたのか。両親は。

 いたって普遍的な質問であったが、そのどれもに満足のいくような回答は得られなかった。かろうじてパンや家などの概念は持ち合わせているようだが、彼にはおよそ過去と呼ぶべきものがなかったのだ。

 

 男は彼を見やる。

 

 年は四十代だろうか。逆立った短髪、頬に大きな傷のあるいかめしい顔つき。無精ひげ。窮屈そうに腰掛けた巨体。しかしそこに威圧感はなかった。ただただ疲れ果てた者の顔をしている。

 外傷などは一切無く。盗賊などの悪漢に襲われたでもなさそうだ。いやひょっとしたら、こいつが盗賊なのかもしれない。記憶喪失を装い、油断したところで金品を強奪。

 と、普通の商売をやっている者は考えるが。男の事情は少し違っていたし、こういう人物を求めていた。

 

「あんた、行く当てもないんだろ。だったらうちで働いてみないか。働かなきゃ食えない。食えなきゃ死ぬだけだ、生きてはいけない」

 

 彼は答えなかった。

 誰だって確信を持って生きているわけではない。ただ友達といるのが楽しいとか、趣味をもっと長く楽しみたいからとか。人人はおうおうにして、そういったものを支えに生きている。

 しかし過去の無い彼は、そもそもの支えがない。だからなぜ生きなければならないかを考えることができないでいた。

 

「悪いが、タダ飯食らいの世話はやけない」

 

 厳しい言葉をかけるも、やはり彼は茫然自失のままだった。男は肩をすくめ、黙って馬車に揺られ、帳簿をつける作業に移った。

 途中の小休憩で、彼は簡素な服装に着替えさせられた。彼には、もともと自分が着ている服がどうなったかという興味すらわかなかった。

 

 馬車の車輪と、馬の蹄が土を蹴る音。彼はゆるりと視線を後方へと向ける。ホロの隙間から、高く澄んだそらと若草に茂った大地が覗く。鳥が声高に鳴いた。

 やがて馬車の一行は停車し、男は懐から取り出したハンカチで口元を隠し、彼にも布を手渡して真似をするように言った。 「巻け、顔半分を隠すように」

 

 彼は言われるがままに、たどたどしく。男はそれを見て満足し、降車を促す。

 外は小高い山の麓だった。

 

 辺りには、いくつもの馬車とその騎手。それに、粗末な服装をした十人ほど。この場の誰もが皆、布で口元を隠している。

 他に目を引くものは丸太と木箱。丸太の幅は太もも程度。皮をむかれており、どれも重厚な色合いをしていた。

 

 粗末な服装をした集団の一人が男に歩み寄り、小声で言う。残りは無言で馬車からいくつかの荷を降ろし、かわりに自分達の用意した丸太といくつかの木箱を積み込む。

 

「こんにちは、旦那さま。いつも助かります。また人助けですか」 口元の布のせいでくぐもっており、聞き取りづらい。

 

「やあ村長。ま、見ず知らずだからといって捨ててはおけん。体つきはよさそうだし、仕事はできるだろう。面倒を見てやってくれ」

 

「ええ、もちろんですとも。わたしも同じように、先代さまに助けられた口です。どうして断れましょうか」 柔和な目じりで答えた。たぶんほがらかに笑っているのだろう。

 

「彼には記憶が無いらしい。ひょっとしたらおかしなことを口走るかもしれん。その際は取引のときにでも教えてくれ」

「おかしなことですか」 と、神妙な面持ちで。 「しかし記憶を……」

 

「仮に記憶が戻ったと彼自身が言ってもそれは、自分が昔はそうだったと思い込み、作り上げられた記憶かもしれんだろう。記憶喪失とやらにはついてはよくわからん。頭を強打した際に稀に起こるらしいが、打症はみあたらん……あるいは、激しい悲哀に直面した場合だとかなんとか、ということは聞いたことがある。噂話だが」

「なるほど。わかりました」

 

 二人が固く握手を交わすと、男は馬車に戻り。彼はまた言われるがままに丸太の積み込みを手伝った。

 病み上がりというわけで比較的軽そうな太枝を任されたが、身体を包み込む倦怠感は辛かった。額に汗を浮かべる。彼はここにきて初めて本格的な疑問を浮かべる。

 

 なぜ、こんなにも気だるいのだろうか。

 やがて積み降ろしが終わり、馬車の一行は別れの言葉も無く去った。

 すると男たちは口元の布をはぎとり、にこやかに彼に歩み寄り握手を求めた。年齢はばらばらだったが皆、明るく、友好的に挨拶をかわす。

 彼は戸惑いながらもそれを歓待を受けた。最後に男と話していた、村長なる人物が言った。役職のわりに若い。

 

「おまえさんもいろいろ辛い思いをしたんだろうが、もう大丈夫だ。心配するな」 言って彼の肩を叩く。 「さあ、帰るぞ! 女どもが待ってる」

 

 男たちは交代で降ろした荷を運び、麓に沿って移動し。森の中へと入っていった。彼もそれに続く。体がだるい。

 

 しばらく森を進むと、少しばかり開けた場所に出た。そこには同じ大きさのテントが七つほど、円周上に並んでいる。

 テントはどれも低い円柱状で、上部は円錐で構成されていた。直径は七、八メートルほど。

 男たちの帰還に気づいた子供が歓声を挙げる。続いて女たちが出迎えた。

 

「あら、あなた。新しい人? 子供じゃないのね」 そのうちの一人、肉付きのよい女性が彼に声をかけた。あなた、ということは、彼女が妻なのだろう。

「そうだ。今日は歓迎会だな」

 

 女と子ども達は、男が運んできた荷を紐解く。単純に袋に入っているものや木箱に入れられたものもある。中身は洋服や、ささやかな装飾品に日用雑貨。目を輝かせている。

 彼は無言でその様子を眺めていた。

 

「ほら新人さん」 村長に声をかけた女が彼の腕を引っ張る。 「今日はあんたが主役なんだから。こっちこっち」

 

 彼はテントが囲む中心に連れられた。どうやらそこは大きな火を焚くための場所のようで、石で丸く囲われた地面は煤けていた。共同の調理場なのだろう。森の中で火を扱うなら当然のことなのかもしれない。

 女たちが忙しなく鍋や肉を捌き。子ども達は腰掛けるための丸太の椅子の準備。男たちは小休止の後、どこかへ消え、しばらくすると水の入った樽を持ってきた。近くに湖か川があるのだろう。

 

 これで村人が全員だとすれば、二十数人程度の人口だろう

 しばらくして火付け場に木炭がくべられ、マッチで点火した木片が炎を作った。

 

 石の円の両端にはY字の鉄棒が固定されており、枝分かれの部分に鉄棒を掛け、鍋を吊るし。魚や肉、野菜などは串に刺し、炭の周りの地面に挿した。近すぎては焦げるし、灰で汚れる。

 芳ばしい香りが漂いはじめ、よい塩梅のところで村長が声をあげる。森への感謝だとか、彼には何を言っているのかわからなかった。とりわけ、馬車の一行を指揮していた男に関しては。

 

 そして皆、思い思いに食事を楽しんだ。

 ただ、彼だけが口を動かそうとせず、見かねた村長の妻が串に刺した肉を片手にやって来た。横に腰掛ける。

 

「食べなよ。あんた、体調が優れないかもしれないけど、明日から簡単な仕事はやってもらわなきゃならないんだから」 ほら、と串を差し出す。

 

 受け取って彼。肉にかぶりつく。ただそれは、食べたいという欲求からよりも、命じられたからといった機械的な応答のようだった。

 

「おいしい?」

 

 よく言えば歯ごたえがあり、独特の味だった。ようは固くて癖が強い。彼が口にしたことの無い味わいだった。無意識に疑問を口にする。

 

「何の肉だ?」

「熊。今日、わたしの旦那が狩ってきた。珍しいよ」 あごで指した方向には村長がいた。男たちと酒を酌み交わしている。

 

「いいことだ。熊は危険だ、出会わないほうがいい」

「いや珍しいってのは、得物を取ってきたこと。普段はボウズ」

 

「ボウズ?」

「成果なしってこと。あんた本当に何にも知らないんだねえ。名前も覚えてないんだって?」

 

 彼は頷く。

 村長の妻は彼の頬の大きな傷を視界の端で盗み見た。

 

「なにがあったのか知らないけどさ。ラッキーだよあんた。旦那さまに拾ってもらったんだって?」

 

 旦那さま。あの馬車の一行を指揮していた男は商人で。どうやらこの村との取引関係があるようだった。丸太と、中身はわからないが木箱で生活必需品や少しばかりの嗜好品の物々交換。

 通貨は……おそらく人里はなれたこの場所では使い道は無いないのだろう。

 

「ありふれたってわけじゃないけど、木と植物だけで平和に暮らせてくれるんだ優しい人だよ」

 

 炎の向こうの夫を見て、妻はしみじみと言った。 「子供の頃なんであんまり覚えてないけど、苦労してたらしいんだ。それを救ってくれた先代の旦那さまが、この村に預けてくれた。ここにいる連中は皆似たようなもんさ」

 彼はその話を聞き、では自らの幼少期はどのようなものだったのだろうか。自問し、知らず、記憶を取り戻したいという欲求がにじみ出る。

 そして、おもむろに立ち上がった。

 

「どうしたんだい」 妻が尋ねる。

「空腹だった」

 

 彼はまじめだったが、女はからからと笑い。 「いいさ、持ってきて来てやるよ」

 新たな串と、鍋料理を胃に収める。

 鍋はいけた。

 彼はその夜、テントをあてがわれた。もちろん個室ではく、数人で共同利用する。

 

 おれはいったい何者なのだろうか。

 ここにいる人間はたぶん、木こりのような生活で生計を立てている。ではおれは?

 働いていなかったのなら子供の頃に野垂れ死んでいるはずだ。だから少なくとも中年と呼べる外見になるまでは、働いて生きてきたのだ。

 おれは何を生業としてきたのだろう。

 

 翌日、日の出前に彼は起こされた。眠くは無いところを見るに、過去の自分は早起きだった、あるいは規則正しい生活リズムの職業に違いない。この推測に、彼は小さな喜びを覚えた。ほんの少し、過去を取り戻したのだ。

 しかし身体はあいかわらず疲れていた。

 

 村の生活はとにかく歩き回ることが基本だった。

 朝は男たちにつれられ、樽を持って小さな川へ向かった。行水を済ませ、服を着替える。水を満たした瓶を持って村に戻り、用心のため数人の男を残して、今度は山へ向かう。

 険しい山ではないのだが、問題は装備だった。少数で生きる彼らは、役割分担するほどの人員はおらず、なんでも同時に行う。主な目的は特定の木の伐採で、平行して狩りと野草の入手と罠の回収設置。

 

 したがって伐採用の斧、皮をはぐための専用刃物、木材を運ぶための器具。弓と矢、得物と野草を入れる籠。それに罠。

 そして水分補給のための皮の水筒と食事、万一のための包帯などが入った簡単な応急箱。突然の雷雨の際の雨合羽。万一のときのための非常食。

 とにかく村人たちは用意周到で、道具の手入れを欠かすことはなかった。当然だ。ひとり怪我でもしようものなら、その分の負担は皆に分配される。それは下手をすれば村全体の危機にも発展しかねない。

 

 日が顔を出した頃、彼は六人の男たちとともに一列になって山に向かった。

 隊列にも意味はあり。通常は、先頭は目的地への無理の無いルート決定、および道中で真っ先に獲物を発見する確率が高いことから弓矢。

 次に並ぶ二人は伐採の道具、重量があり体力が必要とされた。

 

 獣などと相対した場合に最も安全な隊列の真ん中には、水と応急箱。食料はなくとも生きてはいけるからだ。もちろんリスクの分配の考えから、全員分の水を預かるわけではないが。

 次に籠と朝食を持ち。最後尾の役割と先頭の獲物によって、重量は増える。

 

 最後尾は昼食と、ある用途の為のこぶし大の石をいくつか。ついでに野草などを拾っては前の人間が背負う籠に入れていく。後ろから確認してくれる人がおらず、隊列からはぐれやすい。また、短刀はあるが先頭と違い武器を携帯しているわけではなく。昼食消費までは持ち物もあるので、害獣に襲われた際のリスクは最も高い。

 

 この日は彼が初めての経験ということもあり、隊列と役割も変則的で。彼に預けられた装備は、背負い籠と獲物を獲たときに担ぐ木組みの組み立て式リュックのようなもの。この荷物はもっとも重要度の低いもので。最後から二列目に並ばされた。

 男たちはもくもくと道なき道を歩き続ける。おしゃべりで獲物の鳴き声、息遣いをかき消さないためだ。

 

 彼は、その時になって新緑の香りが鼻腔をくすぐるのに気がついた。食事のおかげだろう。みずみずしい空気に、濃い土。悪くない。

 ときおり先頭は立ち止まり、木に刻まれた印を確認した。迷えば全員が森で一夜を明かさなければならない。そうなれば村に残された者たちの仕事量は増える。責任の重い立場にあった。

 

 途中で朝食休憩を取った。彼が辺りを見回すと、遠くに建造物が見えた。自然豊かな地に、あまりにも不釣合いな。あれが商人の言っていた壁というやつなのだろうか。大きい、何十メートルという高さのようだ。何のために、あの壁はあるのだろう。

 呆然と壁を眺める彼に、男の一人が言った。

 

「おれたちゃ幸せだよ。ウォールローゼより中は地獄だ」

 

 ウォール、ということは壁だ。ローゼが名前なのだろう。しかし、そのウォールローゼより中が地獄とは、どういうことなのだろうか。

 そもそも、あんな高い壁をどうやって、とそこで考えるのをやめた。たぶん、おれが覚えていないだけなのだ、と。

 献立は蒸したジャガイモと昨日の残りを一切れ。このときばかりは、二人の見張りを除いてくつろげる瞬間だ。とはいえ、小声での会話を心がける。

 

「けっこう体力あるな」 と、村長。ジャガイモをかじりながら。 「体調が悪いとかいう話らしいが、もう大丈夫なのか」

 彼はかぶりを振って答える。 「いいや、まるで体が重い。鉛のようだ」

 

「信じられんな、慣れたやつでも大変なんだが」

「気分が悪いわけではないから、問題はない。ただ動きにくい。荷物をもてないわけじゃない。もっと持とうか?」

 

「そりゃ助かるが……まあ病気だとしても、ちょっとした薬草を煎じてやるくらいしか出来んし。無理だと思ったら言ってくれ、遠慮はするなよ。ぶっ倒れたおまえさんを担いで山を歩くのは骨が折れそうだから」

 

 わかったと、彼は肉をかじる。熊の肉だ。

 

「そういえばこの熊は村長、あんたが仕留めたらしいな」

「ま、なんと言うか偶然だな。熊は基本的に狩らないんだ。矢を数本当てたからって死にはしないし。怒りで反撃されたらマズイ。隊列もばらばらになる可能性もあるしな」

 

「ならどうして?」

「そいつ小熊だったんだ」 彼の持つ肉を見やる。 「親とはぐれたのかどうかわからんが、そいつ一匹で。はじめて見る人間だったせいか、おれたちを見るなり逃げ出した。そこが運悪く、少しばかり切り立った崖でな。四、五メートルほど落下して、前足を折った。で、今は胃の中」

 

 と、木の上の見張りの一人が鳥の鳴きまねをした。それが獲物の合図なのだろう、先頭の男が素早く弓矢をつがえ、最後尾の男は皆に石を手渡す。

 わざわざ鳥のまねをして知らせたということは、静かにする必要があるからだ。彼は黙ってその様子を観察した。どうやら鳥を見つけたらしい。

 全員が枝の上に狙いを定め、やがて弓矢が放たれた。次いで投石。

 だがどれも当たらなかった。

 

「おしかったな」 と、村長。彼に振り向いて言った。 「ま、石はあれだ、当たれば幸いってやつだ。鹿なんかだと、たまーに頭に当たったりする」

 

 見張り役を交代し、全員が朝食を済ませ、また山を歩く。

 朝食と同じメニューの昼食を済ませるころ、目的の木を発見した。高さは十メートルほど。

 ややはなれた場所に荷物を置き、まずは周囲を観察し、木を倒す方向を決める。

 体力消費の少ない先頭と最後尾の二人が主になって斧を振るった。大きく振りかぶり、打ち込む。木が揺れ、葉がざわめく。

 

 まず倒す方向に切れ込みを入れ。反対側から、最初に入れた切込みよりも高い位置に斧を振る。斧で断ち切るのではなく、木の自重により倒すやり方だ。

 途中から物は試しと彼も作業に加わる。

 

「いいか、斧を打ち込む角度を間違えるなよ。刃が駄目になったら目も当てられない。一番大事なのは自重で倒す方向をコントロールすることだ。でないと下敷きになりかねん」

 

 彼は頷き、慎重になった。斧を壊してはならない。ここでは何もかもが貴重なのだ。ゆっくりと確かめるように。一度目はまったく刃が通らなかったが、徐徐に力加減を覚えた。

 

「かなり筋がいい」 男たちの一人が言った。 「体格にも恵まれてる」

「木こりだったのかもしらん」 誰かがそれに乗っかる。

「だとしたら、どうして木のこり方を知らなかったんだ」

「そいつを覚えてないんじゃないのか。記憶がねえんだろ?」

「皿や桶の使い方は知っているのにか」

 

 予想よりも早く切り込み作業は終わり、後はほんの少し押してやると木は倒れた。枝を払い、皮を剥く。そして半分に切り、約四メートルとなった二本を、何枚かの板で挟み、束ねるように固定する。

 ゆうに二百キロを超える丸太を、男たちは担ぎ上げ、山を下る。

 重労働だった。

 

 一人だけ身長が高い彼は、なるべく負担にならないように姿勢を低く保った。苦痛ではなかった。それより、体を包む怠惰を何とかしたかった。まるで粘質な沼の中で活動しているような。

 帰りの途中で罠に獲物がかかっていないかを確認する。トラバサミにかかった鹿がいた。立派な角のある鹿だった。

 牡鹿で、重量はざっと九十キロはありそうだった。

 

 解体すれば重量は少しは減るのだが日は傾きかけており。解体は村で、ということになった。

 獲物持ち運びは彼の仕事だが、男たちは彼の体調を気にかけた。しかし彼が大丈夫だと言うのでとりあえず任せることに。

 後ろには籠を背負っているので、組み立て式の獲物入れは前方で固定する。

 

「角だけでも置いていこう」 一人の男が彼に言う。

「何かに使わないのか」 手際よく獲物入れを組み立てて、彼。

 

 一度教えたことをよどみなくこなす器量のよさに、男たちは静かに目を見張った。

 

「たいした価値にはならないが、取引の対象になっている。でもまあ本当に些細なもんだ気にするな、置いていこう。おまえさん、今日が初めてなんだろう?」 言って鋸を片手に、要領よく角を落とした。 「まあ、また今度ここを通るときがあれば、拾えばいいさ」

 

 彼にしてみればどちらでもよかった。重量は苦ではないのだから。

 

「せいぜい取引までの間、ガキが喜ぶぐらいさ」

 

 男たちは笑った。自分たちの幼少期も、角の雄雄しさに目を輝かせたものだから。

 

「では、持って帰ろう」

 

 彼がぽつりと、呟いた。男たちは互いに顔を見合わせ、そしてやっぱり笑った。嘲笑ではない。笑顔だ。気持ちの良い、男の笑いだ。

 休み休みとはいえ、村に着くころにはすっかり日が暮れていた。

 さっそく鹿を手ごろな木に吊るし、背から皮を向かれる。ピンクと白の、生生しい肉が現れた。彼もいずれはやることになるので、見学した。

 

 解体している女が彼に言う。 「平気かい?」

「何がだ?」

 

「いや、血とかさ。わたしはガキの頃から見慣れていたけど、壁の中の連中たちの中には、こういうのを怖いと思うやつらがいるだって」

 

 壁。商人の男は、壁を知らないということに呆れていた。家や小屋の意味ではなく、別の意味を持つ固有名詞。しかし、辺鄙な村でも知っている普遍的な概念のようだ。

 パンや家の普遍的概念を持つ自分が、どうして壁という普遍的概念を持ち合わせていないのか。妥当ではない。彼は頭をひねらせる。

 

「ということは、おれは壁の中の連中である可能性は低い。また、猟師や医者、死体を扱う職をやっていたか」

「かもね。でもあなた、かなり体つきがいいらしいじゃない。見た目にもそうだけど、すごい筋肉だって男どもが言ってた。行水の時ね。医者って体つきじゃないと思うわ」

 

 解体が終わり、子ども達が近寄り、肉を運んで行った。干肉にするのか塩漬けにするのかはわからないが、それは子ども達の役割なのだろう。

 

 そのうちの一人が 「あっ」 と声をあげた。それに気づき、もう一人も、同じように声をあげる。

 

「角だ」

「おおきい」

 

 ちらと女を見上げる。

 

「仕事が終わってからね」

 

 子ども達は駆け出し、テントと解体場を行き来した。肉がなくなると、とうとう角を手にする。

 

 その様子を、村長と妻はほほえましそうに眺めた。

 

「いいやつじゃないか、顔はちょっと怖いけど」 妻が言った。

「ああ、しかもかなり体力がある。信じられないかもしれないが、今回の仕事で息一つ切らさなかった」

 

 妻は笑った。まさか、そんなと。

 

「でかい!」 と、頭にくっつけて子ども達が駆け回る。

 そのうち、「みて、みて」 と彼の前にやってきた。

 

 彼はしゃがみこんで目線を合わせる。 「似合ってるよ、強そうだ」

 でも――

 と、続けて口を滑らせる。それは無意識の抽出であり、したがって埋没した過去の彼でもあった。

 

「人に向けてはいけませんよ。危ないですからね」

 

 はーいと元気よく返事をする子ども達。彼は後ろに立っていた女に振り返った。

 女も気がついたようだった。

 

「あなた、今の口調……」

「おれも、意識して言ったわけじゃない。とするとおれは……」

 

 結局、彼は自分の正体を掴むことが出来なかったが、その片鱗には触れた。

 夕食は鹿肉とジャガイモだった。芋は主食らしい。食生活は貧しく、昨日は本当にお祭りのような扱いだった。

 食後、口調の変化にについて村長に相談した結果、子供と接する機会の多い場所。体格を考えなければ、おそらくどこかの孤児院か教育機関、医者に関係していたのではないか。

 それ以上の絞込みは望めないとし、彼は質問を変えた。

 

「そういえば、ウォールローゼより中が地獄と聞いたのだが」

 

 村長は地面に三重の円を書き、その東西南北の四方に小さなでっぱりを書く。

 

「おれたちのような村人を除き、人類は主に壁の外のでっぱりの中、――区という単位なんだが――で、生活している。一番外がマリア、次がローゼ、内側がシーナ」 やや陰鬱ぎみに口を開く 「ローゼとシーナの区にいるやつらは奴隷なんだ。奴隷、わかるよな」

 

 彼は衝撃の事実に内心で揺らいだ。そのようなことが許されるのかと。そのような重大なことすら、忘れてしまったのかと。

 村長は続ける。

 

「奴隷達はシーナより内にいる王族連中のために道具のように働かされてるんだ、しかも劣悪な環境なもんで、もう何十年もはやり病がおさまらないらしい」

「らしい?」

 

「今日伐採した木があるだろ? あれをいぶした煙が病気を和らげるんだ。旦那さまがあの木を求めるってことは、病に苦しむ人がいるってことさ」

「知らなかった、おれは、そんな大事なことを」

 

「記憶喪失なんだろ、しょうがないさ。でも、ま、おれたちだけ旦那さまに助け出してもらったってのも、なんかズルイよな。だからおれたちは、せめてもの償いに、一生懸命に木をこる。それで許されるわけじゃあないけどな」

 

 だから取引の際は口を布で隠し、商人の男と村長だけが最低限の会話をしていたのだと、彼は思った。

 村長は水で喉を潤し、もう寝るとテントへ戻った。

 彼にはまだ聞きたいことがあったが、それは明日にすることにした。

 

 次の日も、彼の体調は治らなかった。ひょっとするとこれがローゼの中で蔓延している流行病なのかもしれないと相談したが、例の病にかかれば身を動かすことも出来ず、吐血と嘔吐を繰り返すらしい。

 村の仕事に休みは無く、厳しいものだった。例の木は伐採だけではなく、植林もせねばならず。苗木と装備一式を持って男たちは山を行く。植林適した場所を探すのにも一苦労で、周囲の木を掘り除いたりもした。

 

 草むしりなど、すでに植林した木の様子も見ねばならず、男たちは山を歩き回った。

 村は村で忙しい。隊列はローテーションで、村に残った男と女たちは家畜の世話、木の実拾い、洋服やテントの洗濯修繕、保存食の手入れ。食材の消費量の計算。排泄物は川下で穴を掘った場所にするのだが、定期的にそれを埋めるのも女の仕事だった。

 また、大きくは無いが、森を切り開いて作られた畑もある。食用のものもあれば、例の病の薬の材料も作っているようだった。

 

 彼はその様子を見学させてもらった。

 見た目は茎にこぶし大の蕾が生った植物で。早朝に蕾に傷をつけると夕方にはそこから液がにじみ出る。これを採取し、煮込むことで粘土のようになり。そこから乾燥させることで粉末状になる。これを商人の男から支給される小瓶に詰め、割れないように布切れなどのクッション材とともに木箱に入れる。

 

 先日、丸太と共に商人に引き渡していた木箱の中身がこれのようだ。

 村人の友好的な気質。角の一件から、強面ではあるが子供思いの彼の内面もあって、彼は村に馴染んだ。

 斧を振ればあっという間に切り込みを入れ、どんなに重い荷物、装備を苦にしなかった。これでまだ体が重いというのだから、では全快したらどのような超人になるかが、たまに話のネタになった。

 

 彼がこの村に来て数日後、ちょっとした事件が起こった。

 偶然彼と村長が村で待機していた日、水を汲みに行った女の悲鳴が聞こえた、彼女はすぐに村へと逃げ帰ったのだが。後を追うように二匹の熊が現れた。

 彼女が村とは反対方向へ逃げることで被害は最小のものとなるかもしれないが、それを責めることは誰にも出来ない。仕方の無いことだ。

 

 すぐさま中央の火着け場に村人は集まった。有事の際の取り決めである。

 熊はテントを破壊し、中に人がいないことが不満なのか、いななく。

 村長は弓矢を構える。しかし熊は巨体だ。手が震える。震える手で、矢を放った。胴に刺さる。熊たちは意に介さず人の集団を認めると突進してきた。

 

 村人たちは不安の絶頂にあった。ここで逃げて、どうする? どこへ帰る。山から帰ってきた男たちは、このことを知らない。日の落ちた村で、視界の効かないまま熊と遭遇する?

 本能的に彼に視線が集まった。白羽の矢のような陰湿なものではない、単に巨漢で、頼もしそうだったから。ただそれだけの本能に過ぎない。

 

 そしてそれは、未完の一形式――

 

 忘却の彼岸に追いやられた彼の心念にかすかに響く。ほんの少し、体に纏わりつく倦怠が軽減される。

 彼は恐れる村人を見やり、斧を片手に一歩、歩み出た。

 

 

 

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「驚いたよ、熊を二匹も」 と、村長が誇らしげに。山から戻った男たちに聞かせる。

 

 男たちは半信半疑だったが、頭を割られた大熊二匹を見て仰天した。

 子ども達は興奮のあまり、今日の就寝は遅くなりそうだった。

 

「あら、当のご本人さんは?」 と村長の妻。手には熊と野菜のごった煮が入った片手鍋。

「そういえばさっきからみあたらない」

 近くに居た子供が答える。「熊の毛皮を見てたよ」

 

 村長の妻が毛皮置き場へ向かうと、彼が神妙な面持ちで見入っていた。

 

「あの小熊の親かもね」 鍋とスプーンを手渡す。 「食べなよ、一番おいしいところだから」

 受け取り、彼。言うべきかどうか悩んだ末。 「熊を殺す瞬間、その、何かを言いかけた」

 

「何か?」

「わからない。言葉はみつからないが、喉の筋肉は動きかけた」

 

「食べる前の、いただきますとか。朝の挨拶の、おはようとか?」

「それに近い。それに、ほんの少しだけ体が楽になった」

 

「あんた、まだ体調悪いの?」 と妻は呆れ顔。彼の背を叩き。 「しっかり食べなきゃ」

「すまない、何から何まで気をかけてもらって」

 

「ばかだねあんた、助けてもらったのはこっちだよ。それに、あんたはもう村の家族の一員なんだから」

 

 家族。彼は呟き、スープを口にした。旨かった。

 彼が村にやってきて、丁度七日が経過した。

 

 どうやら週に一度、商人との取引があるようだ。村人達は丸太と木箱に小さな焼印を入れる。

 彼が尋ねると、健康を願う刻印らしい。

 彼が木箱や丸太の荷造りをしていると、一人の少年がやってきた。母親に諭されたのだろう、名残惜しそうに鹿の角を彼に手渡した。

 

 男たちは丸太と木箱を持って、いつもの取引場所まで移動する。丸太はしっかりと乾燥処理がされており、以前よりは軽くなっていた。数往復し、あとは口元に布を巻いて商人を待つだけだ。

 やがて遠くに馬車の一団が見える。病気が蔓延するローゼとシーナの区に、症状を和らげる煙を出す薬木と、治癒させる植物の粉薬を届けるための。

 

「そういえば」 と、彼はふと気づき、村長に尋ねた。 「この村には老人がいないようだが」

「旦那さまの配慮でな、年寄りには過酷な仕事というわけで、一番外のマリアの区へ連れて行ってくださる。つつましく暮らせば飢える事は無い程度のお金と共にな。マリアの区は病気も無い。シーナ内部からも遠く、王族貴族の支配力も届かない」

 

 馬車も近づき、おしゃべりもここまでと村長は会話を打ち切った。

 彼も以前のように、黙って馬車の荷の積み下ろしを手伝った。この村に治療法があるとはいえ、下手に口を開き、発病すれば。彼に投薬した一人分、区の中の人間が苦しむのだから。

 村長は角を手に商人に話しかけていた。

 対価はシャツ一枚分程度だった。商人は帳簿に書き込む。村人達に対価が渡されるのは、常に先週分だからだ。

 

 つまり今回受け取る物資は、彼が一週間前に初めて手伝った分となる。

 一通りの作業が済み、男たちは商人の前で横並びに整列した。

 商人、しかし口元を隠しているとはいえ、明らかに一週間前の男ではなかった。かなり若い。別人だったが、どこか目じりは似ている。息子なのだろうか。黒く、大きな犬を従えていた。その隣にはまだ四、五歳ていどの子供が不安げにたたずんでいた。

 

 村長が小声で彼にささやく。 「知らないかもしれんが、何もするなよ」

 

 彼は視線で了承の意を示した。

 息子と思われる人物は犬に合図を送る。犬は子供の全身に鼻をこすりつけ、匂いをかいだ。次の瞬間には押し倒し、胸元に深深と爪をつきたてた。子供が悲鳴を上げ、彼は反射的に拾い上げた石を犬に投げる。

 頭部に命中した犬は彼に標的を変え。飛び掛るも、太い腕に首をへし折られて死んだ。

 

 一連一瞬の出来事だった。

 犬の飼い主の息子は短刀を取り出し、残念そうに言った。 「なんということを」

 村長は小さく溜息をつき。彼に無抵抗をうながす。

 彼はその日、視力を失った。

 

 

 

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 血に濡れた短刀を拭い、息子は馬車に乗り込み。出発。何日もかかけてローゼとシーナの壁を抜け、王族貴族が中心のシーナ内部へ。そこにある商会に丸太と木箱を売り渡し、大量の金貨を得た。

 商会の支配人は改めて丸太と木箱の刻印を――商人の家紋を――確認する。高級品であるこれらの品は、希少性から取引相手が限られる。したがって家紋と家柄が合わない人間が持ち込んでも相手にはされない。

 

 商人の男が盗難や強奪を心配しなかったのはそのためだ。貴重な品ほど、闇市場に流そうにも足が付きやすい。貴族相手の商売を邪魔したとなれば、制裁は過激なものとなる。

 

 商会の支配人が言う。 「このあいだの十字のペンダントもよかったですが。こりゃまた良質な木ですな。王族貴族がたが喜びます」

 

 息子が答える。 「あの十字はたまたまだ。おれもこの木のデスクを持ってるが、すばらしいよ。磨けば赤茶けた光沢と木の紋様がなんともいえん。しかし、貴族どもに人気があるのはこっちの方だろう」

 

 木箱を開け、小瓶を支配人に放ってやる。 「やりすぎると自分を失うらしいが……そういえば、鹿の角は何に使う? 意外に高く引き取ってくれたようだが」

 

「一時の快楽に逃げるのもよいでしょう。王宮や貴族間の派閥、人間関係が黒いのは世の常です。しかしそういった人間がいるからこそ、われわれのような嗜好品を扱う者は生きていける。

 角は粉にして煎じれば長寿の薬になります。噂ですけどね、あとはナイフの柄など」

 

「ふうん。上に行けば足の引っ張り合い。下に行けば搾取されるだけ。ばかばかしい」

「まったくです。しかし、よく儲けが出ますな。この木は相当に珍しい、労働者はさぞ大変でしょう。ま、見合う対価が支払われているからこそ、続けられるのでしょうが」

 

 息子は黙って袋から金貨を一掴みし、テーブルに置いた。 「なにを飲むんだ」

 

「オークションで上等なウィスキーが出品されるそうなので」

「いい肴を持ってくる」

 

 息子はそれだけ言うと商館を出た。商会と商人の一族は長い付き合いで、息子を含めて三代にも渡る。多少の無礼は些細なものだ。だからこそ市場に出回れば投獄されかねない薬品を扱えた。

 自宅に戻り、父親に今日のことを報告する。短刀を清め、しかしあの男は妙だった、まさか苦悶の声一つあげないとは。人間か? 小さく身震いする。

 

 次いで召使に、村人へ渡すための対価の買出しを命じる。ちょうど鹿の角の金額分を手渡し、そうだったと二倍の枚数を加える。その追加分で犬を買ってきてくれと。

 

 

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 目に血のにじんだ包帯が巻かれた彼は、村に戻ると詳しい説明を受けた。

 あの犬は病気を嗅ぎわける鼻を持っており、血とともに病気を流すのだそうだ。病気を持たなければ犬は反応しない。

 だからたまに息子が犬をつれてチェックしに来るのだそうだ。村まではやってこない、男が感染していなければ村の女も問題なく。逆に感染していた場合は、そうすることで女のみが薬を使えばよいので、薬を節約できる。

 もっとも、これまで犬が反応したのは商人が連れてくる子供だけだったが。

 

「そうだったのか」 と無感動に彼。

 

 村長は沈んだ面持ちで答える。 「おれがもっと詳しく説明してやればよかった。おまえさん、言われたことは真面目だったから。すまない」

 

「いや、おれが言うことを聞かなかったのが悪い」

 

 どちらも謝罪を譲らず、埒が明かないと妻が口を挟む。

 

「でもあんだ、子供みたいだね」

「子供?」

 

「旦那さまが連れて来たばかりの子供も、犬の行動に否定的なんだ」 妻はちらと村長を見やる。

 

 村長は恥ずかしそうに、昔の話じゃねえかと言った。

 

 その笑いを耳に彼は暗闇に息子を映し出した。子供に犬をけしかけ、自分の両目を短刀で切りつけた際、その目は嗜虐に揺らめき、狂喜していたように感じたのだが。

 

「そうだ、紙とペンを貸してくれないか」 彼はふと思い出し、唐突に。

「無駄遣いしなければいいが、何に使うんだ」

 

 目を切られる瞬間、息子は、これは罪に対する罰だと言った。そのとき彼は胸元へと手をやり、何かを握り締めようとした。それはおそらく、自然に考えればペンダントのトップ。

 その形を写生しようと思ったのだ。目は見えないが、書いたものを誰かに形にしてもらえばいい。

 

 親指で裏面を支え、残りの四指で握りこもうとしたのだから。宝石類のように小さくは無く、少なくと手が触れる部分は棒のように細い。単純に棒状のトップでないなら、上部がある。その形状はなんだろうか。

 下部は細長く、それでいてトップとしておかしくないデザイン。紙に書き写す前に、彼は何度も地面に土を盛り、形を考えた。

 

 その様子を、助けられた子供がじっと見つめていた。

 

 

 ちょうど一週間後、シガンシナ区は超大型巨人により破られ。ほどなくしてマリアも鎧の巨人によって役割を失った。

 駐屯兵団はローゼより外に点在する村村に駆け、ローゼの区への避難を促した。

 この行動は比較的迅速に行われた。なぜなら、村の場所は通常、役場に届けられており。地図に明記されているからである。

 

 なので、彼の居る村に避難勧告は届かない。もちろん、壁が破壊された際の轟音などは耳にコダマした。だが、安易に村を離れるわけにはいかなかった。彼らは、自分達が難病に対する薬を精製していると信じて疑わないのだから。

 そのはずだったのだ。二人の駐屯兵が、ようやく担当した村村への勧告を済ませ、ローゼへと向かう途中のこと。兵は道なき道に荷馬車の軌跡を見た。それは広い森を麓にする山の方向へと伸びている。

 

 地図を広げ、方位と壁から何度も確認するが村は無いはずである。頭を振ってローゼへと馬を歩ませ。そのうち一人がうなり、方向転換し、軌跡を辿った。ひょっとしたら、もしかしたら。

 危機は時として自己保身よりも良心を優先させる。それは人間が持つ特権でもあり、その人間性の証明でもあった。残る一人も後を追う。携帯食料はまだある。問題は水だが、森には湖があるはずだ。小さな川も。

 やがて小さな人影がちらほらと見え出す。よかった、判断は間違っていなかった。二人は胸をなでおろした。しかしそそくさと口元を隠しだす村人に眉をひそめ。

 

 訳を聞いて、二人は不覚にも視界が滲んだ。

 病気。たしかに野垂れ死にそうな子供の目には、世界はそう映ったかもしれない。やがて周囲の大人に感化され、環境が思考を変えてしまうのだろう。

 外界との連絡手段は無い。普通の村であれば馬は必須。それすら知らずに生きてきた。

 

 哀れ。

 

 思うところはただそれだけだった。だからこそ説得を諦めたりはしなかった。

 たとえそれが、あなたたちは騙されているという事実を突きつける事になったとしても。それが彼ら村人の尊厳を蹂躙することになったとしても。

 

 最初は誰も信じてなどいなかった。しかし、二人があまりにも真摯だったので半信半疑に従った。食料と水、それにもし病にかかっても、薬は今日の取引のための分はあるのだからと。いつでも煙を焚けるように、木片を一人ずつ持ち。

 

 彼らにして見れば健康を願う刻印の入った、商家の家紋が焼印された木箱と共に。

 

 そうして、無知は罪であるという残酷な根本原理に直面した。

 

 

 

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 人間の精神が許容できる事実量には限りがあり、無限ではない。一定量を受ければ怒りであり、慟哭、憤怒。それすらを超えて臨界すれば絶望の条件を満たす。

 その先へ至れば、精神から事実量が溢れれば、精神の器は役割を失ったも同然であり。したがって魂はそれを無用の長物とする。精神なき人間が生まれる。その内面には精神が無いので、虚無だ。

 人間の肉体は精神に付随する。だから、虚無を内包してしまば肉体もまた虚無へと引きずられる。

 

 村長はだから、避難民のあつまる仮設住宅区の一室で首を吊った。

 

 それは一人にとどまらなかった。生きることを選択できたのは比較的若年層であり、まだ病人のためと人生を捧げ始めて間もない村人はかろうじて自己保存に成功した。

 しかし、苦はそれからだった。

 

 人類がマリアを放棄し、ローゼにまで後退した。領地縮小による食糧生産率の低下は飢餓の危険をはらみ、水面下では富裕層の食料の買占めが発生し。とりわけ避難民はよそ者でもあることも加わり、飢えの状況を加速させた。

 飢えぬためには金が要り、金のためには働かなければならず。しかし膨れ上がった労働可能人口に雇用の供給は見合うはずも無い。

 

 翌年。政策として口減らしの領地奪還作戦を決行された。多くの避難民が中心となり、作戦失敗により死んだ。

 他にも変化はあった。主に地価が大きく変動した。以前は区間や村との取引の際に利便のあった門側は巨人のリスクがあるとされ、壁側に近いほど好立地となり。四方にある区でも、南部から巨人が侵攻したことから北部の人気が高まった。

 一部の資産家が土地に投資し、一財産を作り上げることもあったらしい。

 したがって貧困層はトロスト区、門周辺に集まることになった。

 

「じゃあ、お仕事に行ってくるから」 壁の薄い集合住宅の一室で、村長の妻が明るく言った。

 

 いってらっしゃい、と。彼と、最後に商人の息子が連れてきた子と、鹿の角を気に入っていた子が言う。

 彼は蒸し暑い室内にそよぐ夜風を頬に受け、幾度目もの思案を繰り返す。他の村人達はどうしているだろうか。ひょっとすると生き残りはこの四人なのだろうか。

 部屋の隅、ベッドの下に隠してある例の箱があるはずの方向へと顔を向ける。包帯の下の視線を。

 

 区に病はなかった。ではあの箱の中身。二人の駐屯兵はわからないと言った。だが木材の価値は凄まじいらしい。だとするとそれと等価か、少なくとも高価な品物。

 うさんくさい不老長寿の霊薬、真に難病に効く薬、あるいは麻薬の類。しかも末端の人間が知らないような高級品。

 

 ふつふつと彼の内に憎悪の念がたぎる。しかし、どうも体がそれに対応していない。精神も、実行をとまどわせる。何かが足りないような。

 やがて彼はそれについて考えるのをやめた。市場に出回らない品を扱うような商家に、たかが村人が対抗できるはずが無い。司法組織とて、王政であれば期待できない。

 子供たち二人は内職に忙しい。政策の一環で、中流層が貧民層のために不要となった衣類を寄付するのだが。その際の服のほつれや穴の裁縫を貧民層に委託している。バカバカしくなるほどの低賃金で。

 

 彼はそっと包帯に触れた。おれも何かしなければならない。

 子供たちが寝静まった夜遅くに妻は帰宅した。香水と、情事の臭いをまとわせて。

 彼は、寝たふりをしていた。

 

 翌日。彼は思いつき、眼鏡を質にチョークを買い、残りを生活費に充てる。人の良い主人で、盲目の彼が眼鏡を売るのではなく質に流したことを気にかけ、返済はいつでもいいと言った。

 彼は子供たちを連れて区を練り歩いた。薪割りの仕事を探すためだ。火は人間の生活に必要なものであり、日中でもパンや金属細工家、鍛冶屋は薪をくべる。

 とはいえ盲目が幼子二人を連れて薪を割るなど一笑に付すような話で、その日は無駄足に終わった。

 

 しかし何日かして鍛冶屋の弟子が面白半分に、やってみろと。

 彼は子供に手を引かれ、了承を得て薪を立てる丸太の中心に、軽くチョークで線を引いた。子供は前もって言われたとおり、薪が線の中心を通るように置き「いいよ」と声をかけた。

 

 彼が軽軽と薪割り斧を振り上げた。その場の誰もが信じてはいなかった。子供たちでさえ、無理をしているのではないかと心配だった。

 乾いた音を立て、直径三〇センチの薪が二つに割れた。彼は落ちた半分を、音を頼りに拾い上げ、置き直し、斧を振り下ろす。あっというまに薪は八つに分けられた。

 彼が子供のほうに顔を向けると、思い出したように新たな薪を置く。

 

 次次に薪を解体する彼に、思い出したように弟子が。懐疑的に言う。 「あんた本当に目が見えてねえのかい?」

 

 彼は黙って包帯を取った。弟子は視線をそらし、小さく謝罪した。

 

「なかなか面白えやつじゃねえか」 いつの間にか弟子の後ろに、太い腕を組んだ親方。 「悪くねえ、おいあんた。うちで働きてえんだって」

 

 彼は頷き。それで雇用は決定した。一時は大道芸人のような事も考えたが、目立つことをして例の商人に存在を悟られたくなかった。すでに居場所は調べられており、盲人の発言力をあなどって手を出していないだけかもしれないが。

 親方としても、そろそろ人手が欲しいところではあった。偶然ではない。

 

 民衆の巨人に対する恐怖心も大きく。一般家庭の刀剣類の需要は高まっており、鍛冶職は特需に恵まれていたのだ。一般市民が巨人に敵うはずもないが、いつの時代でも剣は武の象徴であり。畏怖に対する精神的な支えなのだ。

 また、雇用の理由に親方の職人気質に好まれたところもあるが、彼の体力は常軌を逸していた。言われれば一日中でも斧を振るう。

 

 それがまた親方に気に入られ、自分の仕事道具の世話は自分でしろと、その斧は彼のものなり。手伝いに来た二人の子供にも、お菓子代としてお小遣いが与えられた。

 胸に傷のある子供は、時折仕事の合間にじっと剣を見つめ。一方は、誰にも知られないよう、裁縫の内職をもくもくとこなしていた。

 

 こうして妻はやがて、飲み屋の酒娘に転職した。

 領土奪還作戦にも、彼は盲人ということで兵役を免れ。生活にゆとりは無いものの、生きてはいけた。

 

 四人はそう思っていた。ただ、木箱の存在だけが、村長の影はいつまでも色濃く残っていた。

 

 

 

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 約五年が経過した。その日、珍しく二人子供たちは用事があると出かけて行った。

 彼は相変わらず重い体を引きずり、粘土をいじっていた。ペンダントのトップが気がかりなのだ。そういえば鍵なのかもしれないと、こねてみる。

 

「まだ、自分の過去を思い出せないの」 妻が水を彼に持ってきて、隣に座った。

「おれは自分が何者なのかを知りたい」

 

「気を悪くしたらゴメンだけど、どうしてそこまで拘るの?」

「わかる気がする。なぜこうも体が重いのか、記憶が無くなってしまったのか……村の仇討ちを、実行しないのか」

 

 妻は黄昏て言った。 「無理だよ、すんごい商家なんでしょ」

 

 彼は黙ってコップを手に取り、水を口にする。

 

「いっつも思うんだけどさ、音でわかるって、どんな感じなの。やっぱ五感の一つが失われると他のが研ぎ澄まされるのかな」

「いや、この程度なら目が見えたときでもできた。でないと視界の効かない夜ではやつらに……やつら?」

 

 彼はまたしても記憶の片鱗に触れる。 それに気づき、妻は良心の呵責に苦しみながらも口を開く。

 

「ねえ、前に進むことはできないのかな」

 

 それは過去を捨てろと言うことだった。続ける彼女の声は震える。

 

「わたしは。もう、そうする」

 

 五年という歳月が長いのか短いのか、彼女にはわからなかった。許されるかどうかさえわからなかった。

 苦悶に歪み、排泄物を滴らせる夫が脳裏に浮かぶ。許してくれるだろうか。情熱だけで、わたしは悪か。

 女の少ない言葉にも、彼は意味するところを理解した。

 

「わ、わたしこれでも結構、酒場で声をかけられたり、するんだから」

 

 女は気づけば涙を流していた。それがなぜかは自分でもわからない。この言葉に何の意味がある。まるで子供が粋がっているようで、情けない。

 彼が口を開く。過去を捨てる。それもまたいいだろうと、曖昧な決断を言葉にしようと。

 

 唐突に凄まじい雷鳴が響いた。日中である。反射的に彼は女に覆いかぶさり、送れてやって来た衝撃と飛来する落石が止むまで耐えた。

 しばらくして女は急いで、薪割り斧片手の彼を連れて集合住宅街を出る。姿は無かったが、どうやら超大型巨人が再び出現したそうだ。が、出たところで二人の足は止まった。子供はどうする。

 女は遠めに、初めて巨人を見た。生理的嫌悪感を抱く。それはたぶん、人間に酷似しているからだろう。人間を食べる巨人に、同属食いという本能的なタブーがそうさせる。

 彼はその姿を見ずとも、鼓膜を揺るがす足音が感じられた。

 

「おれはここで子供を待つ、先に行け」

「無茶言わないでよ!」

 

「ひょっとすると戻ってくるかもしれない」

「そんなことわたしだってわかってる」

 

「だが、もう内側の壁に逃げているかもしれない」

「そうしたらあの子たちの世話する人がいない、だからわかってるての!」 女は叫んだ。 「だからって、はいそうですかって逃げられるわけ無いじゃない」

 

 埒が明かず、結局は向かいの住居に勝手に入り、しばらく待つことにした。

 女は思った。子供がこないならいい。逃げている可能性がある。いまさら来ても、巨人から逃げられないかもしれない。でも、皆で死ぬならそれもまたいいのかもしれない。

 包丁を握り締めた。

 

 どれほどの時間が経過したかはわからない、女と彼を呼ぶ声がした。二人は顔を見合わせ、住居を飛び出す。女は道を走る二人を見て駆け出す、彼もそれに続いた。女は二人を腕に抱え、涙をながした。

 

「どこに行ってたの!」

 

 泣きながら言う女に、子供が答える。

 

「眼鏡と、これを取りに行ってた」 と子供は女の腕を抜け、彼に続ける。 「しゃがんで」

 

 言われたとおりに、すると、何かが首にかけられた。ネックレスだ、重力に引っ張られるトップがある。

 同時に彼は背後を振り返る。巨人、と思われる存在。背後で息を呑む声、間違いないのだろう。日陰になっていないことから、身長は五メートルほど。

 

 逃げなければならない。女は思ったが、声に出来なかった。したとして、果たして子供二人と盲人で逃げ切れるのだろうか。実行できなければ意味が無い。

 彼はゆらりと薪割り斧を片手に立ちふさがった。

 その姿に、女と子供たちは幻視した。あの時のように、大熊や猛犬を倒したときのように、ひょっとしたらと。

 

 巨人が駆ける。時速四、五十キロの速さ。距離はわずか民家二軒分。

 女は目を瞑る。全てを彼一人に背負わせてしまっている事に謝罪し、こういった。

 

「ごめん。祈ることしか、出来ない」

 

 祈り。それは彼が最も必要とし、どうしても思い出せなかった一つの形式。

 彼の信じるものが希薄になってしまった心念。しかしそれが無意識に彼を巨人に立ち向かわせ、したがって彼を信じた女がその存在を現出させた。

 

 ようやくこの地で、信仰は完成された。

 

 そういうことか、彼は巨人へと跳躍する。

 おれは生まれた瞬間から神と共にあった、庇護下にあった。しかし、この地が、未来の地球か並行世界かわからないが、おれの仕える神は一般認識されていなかった。概念として存在していなかった。

 だからおれの信ずる神無きこの地では、神と共にあったおれの存在もまた無きものとなってしまった。

 

 彼の過去は熱烈に神と結びついていた。それ故の記憶の、神と共にあった期間の喪失。

 彼の行動原理は強烈に神と結びついていた。それ故に体の不具合。それは神の名の下にのみ許容された強力無比な実行力なのだから。

 

 肉塊が地に伏す異音に、女は恐る恐る目を開いた。

 首を切断された巨人と、斧と包帯を片手にたたずむ男。

 彼は胸にぶら下がるトップを見やる。それはまごう事なき十字――ではなかった。が、彼はそれで満たされた。

 それは鹿の角で作られた、柄を上にした鍔のある小さな西洋剣だった。

 

「違った?」 子供が、蒸気を発しながら消滅している巨人を見やりながら、恐る恐る彼に近づいて言う。

 

 もう一人も後を追い、眼鏡を手渡した。

 

「違っちゃいないさ。ありがとう。この十字でも、おれには十分すぎるくらいだ」 微笑んで、彼は眼鏡をかける。かわりに包帯を渡す。

 

 二人には逆光で見えなかったが、女は彼の顔を見て息を呑む。 「あんた、その目……」

 

 彼は舌を噛むなよと斧の柄を口に咥え、三人を両手に担ぎ上げると凄まじい脚力で駆け出した。

 前方に十五メートル級の巨人。化物め、斧の柄が軋む。

 巨人は新たな獲物に目を輝かせ、愚直に飛び掛る。まるで肉を前にした駄犬だ。彼は民家の壁を蹴り、三角とび。巨人の頭を踏み越え、そのまま屋根の上を走る。

 

 横目に飛び回る集団が見える。あれが立体起動装置。いつの時代も、人間はその対抗策を練り上げるようだ。やつが見れば大いに面白がることだろう。胸糞が悪い、あの吸血鬼の王が見れば。

 やがて人だかりが見えてくる。ローゼの門前だ。彼は三人を降ろす。なんらかのトラブルがあり、通行が滞っていたようだが解決したらしい。さら近づいていくと、建物の影になっていた、地に伏した巨人の近くに佇む少女――ミカサ・アッカーマン――が見えた。両手に刃を持っている。

 寸でのところで巨人を殺したのだろう。一瞬、目が合うが、少女は踵を返して戦場へと飛んだ。

 

 女が彼の腕を引っ張る。 「早く、壁の中へ」 しかし彼は微動だにしなかった。振り返る。

 

「おれは、それもいいと思った」 無感動に、彼は呟くように。 「過去を捨てて、前に行く。それもいい、と、思っていた」

「あんた――」

 

「アンデルセン」 女の言葉を遮り、彼。 「アレクサンド・アンデルセン。おれはおれを取り戻した。何をすべきかも」

「すべきことって……」

 

「不幸なことに、この地に――この世界におれの仕える神は不在のようだ。存在そのものが、最初から。だからおれが、この身に内包する神の奇跡を体現せねばならない。使命だと思う、あいつに敗れたおれへの罰かもしれない、試練だとしたら甘受する」

 

 そう言って門へと近づく。女はアンデルセンが門の内に入ってくれるものと信じてついていく。

 通行の滞りの原因は、商人が自分の財産を山ほど乗せた馬車を優先させようとしたが、荷の横幅が大きく、つっかえていた。それ故に一般市民が門を通過できず、人溜まりを作っていた。

 横幅はそれほど狭いわけではない、背の高い門だった。つまり商人が強欲なだけだった。

 

 今では門を通っていないのはアンデルセンたちと、それならばと馬車から荷を降ろして運ぼうとしている商人とその部下だけだ。門の中から、遠巻きに市民が見ている。早く閉じて欲しいのだ。

 アンデルセンはおもむろに商人の首を掴みあげる。突然の出来事に時は止まる。部下は唖然とした、がその巨体には見覚えがあった。当然、とりわけ商人の記憶には。

 

「お、まえは」 苦悶にあえぎ、体をばたつかせる。首を掴んでいる手を払いのけようとするが、凄まじい握力に適わなかった。

 

「獣でさえ家族を殺されれば仇討ちに来た。敬意を払うに値する。おまえはどうかな、おまえの息子はおれを殺しに来ると思うか? だとしたら好都合なのだが」

 

 商人は言いたいことが沢山あった。が、窒息死した。顔中から体液を流して。

 

「おれは薄汚く逃げまわると思う。だが地の果てまでも追い詰めて殺す。必ず」

 

 部下が荷を落としたのをきっかけに、時間が動く。悲鳴をあげて壁へと向かった。門を下ろす準備をしていた駐屯兵団も我に返り、避難するように叫んだ。

 女がアンデルセンの腕を引く。だが逆に抱えられ、門の中へと放られる。駐屯兵は新たな巨人の接近を目視した。 「あんたも早く!」 叫ぶが男は踵を返した。

 

 アンデルセン! 女が叫び、手を伸ばす。同時に門は下りた。

 

 

 

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 撤退命令が出され、トロスト区は巨人に占領された。その様をピクシス指令はウォールローゼから見下ろす。時折巨人がかがんでいるのはたぶん、家の下敷きになった人間を見つけたのだろう。

 スキットルのウィスキーを一口やる。エレン・イェーガーを主軸とした作戦決行まであと少し。というところで、彼は瞬いた。部下は何事かと区を見やる、何も見えない、巨人以外は。

 

「イアン・ディートリッヒ」 ピクシスは背後に控える部下に言った。 「少し空ける、すぐ戻る、作戦前には。きみはそこで待機」

 

「は?」 思わずイアンは生返事。しかしそれ以上の言葉を発することはなかった。司令の獰猛な笑みが壮絶だったので。

 

「久々に滾るわい、まるで獣よ」

 

 ピクシス司令はあろうことかトロスト区へと単機、身を翻らせた。

 

 許容降下最大限度までひきつけ、手近な高所へとアンカーを打ち込み、必要最低限のガスをふかす。

 重力加速を遠心力へと転じさせ、振り子のように慣性移動。ウインチを起動、次のアンカーを射出。最高速度到達と同時に巻き取る。完璧な速度維持。

 緻密かつ淀みない、物理学が許す限りの最適効率流動。

 

 視線で追っていたイアンは舌を巻いた。見失いかねない。

 

 ピクシスは目当てであった三体の十五メートル級に迫る。瞬時に状況把捉。壁を蹴り、身を反転させ、背を向けて前進滑空。進行方向とは逆にアンカー射出、柄を刀身ボックスへ、すれ違いざまに感覚で抜刀。一体の巨人を殺し、既にウインチは起動している。二体目の巨人へと急制動。凄まじい加速度に脳への血液供給が滞る。

 ブラックアウト寸前。視界が暗く蝕まれた中、またもや二体目の項を切り取る。その巨人の肩を蹴り、今度は天地を逆さまに姿勢を反転させ、アンカーを打つ。

 

 超鋭角の稲妻型機動。密集した巨人を短時間で狩るためにピクシスが考案した絶技だった。

 

 三体目の巨人の項を削がれたのと、眼球に包丁が投擲されたのは同時だった。

 ピクシスは目的の人物を見つけ、にんまりと笑う。獣が木箱を片手に斧を咥えている。

 

「その装備では十五メートル級を相手にできんだろう。この巨人どものうろつく地獄で、よく生きている」

「地獄?」 斧を握り、闖入者に相対する。眼鏡は日を反射し、その奥の瞳は伺えない。 「だとしたらずいぶんとぬるい。ぬるすぎる。何のようだ」

 

「おもしろい、この惨状でもか。よほどの過去があるようだ。わしは獣を見たのよ、恐れを知らん。この辺で見なかったかね」

「獣は人間に尻尾を振らん」

 

「言葉も解さんだろうしな、人間でよかった」

「何が言いたい」

 

「別に。その箱はそんなに大事なものかね。命に代えても? 中身は?」

「知ってどうする」

 

「酒なら、さぞ上等だろう。手伝えば少しは分けてもらえると思っての」

「薬だ、製法と価値からして麻薬だろう。やるのか?」

 

「禁じられておる、極刑は避けられん。おぬしが流しておるのなら、見過ごせん」 柄を握り締める。やりあえば、ただでは済まない。

 

「巨人はどれだけ嬲ろうが、四肢を落とそうが、心臓をえぐろうが、頭を割ろうが死にはしなかった。首を落とさねばならなかった。面倒なゴミ屑どもだ。そのぶん人は楽でいい」 刃こぼれした斧を向ける。

 

 二人は同時に瞬動した。相対的に距離が縮まる。リーチは薪割り斧の方が長い。ギリギリまで引きつけ、ピクシスはアンカーを射出。

 常人では対応できない超至近距離、アンデルセンは身をよじるのみで躱す。

 アンカーが正面の建物の壁に刺さり、ウインチを起動。脱力に身をまかせ、身体を仰向けに地面すれすれを機動。

 同時にアンデルセンが斧を振りかぶる、ピクシスの半身があった空間を薙いだ。

 

 そのまま両者は前進し、互いの背後に迫っていた巨人を殺す。

 

「首を撥ねずともよい。項をえぐれ」 楽しそうにピクシス。巨人のまたを抜け、後頭部にアンカーを打ち込み、機動処理。

 

 言われてアンデルセンはまず、先ほど振りかぶっていた一撃を放って足を切断し、倒れた巨人に斧を振り下ろす。

 どちらが言い出したわけではなかったが、二人は同時にウォールマリアへと駆けた。

 

 一方の経験により培われた卓越機動で巨人を錯乱させ、もう一方が重い一撃で項を抉る。というより吹き飛ばす。

 

 ピクシスは面白半分にアンデルセンへアンカーを打ってみた。すると器用に腕で絡め取られ、巨人のいる方向へと振り回された。なんたる膂力。愉快。剣を振るう。

 

 アンデルセンは屋根に横たわる兵の亡骸に、腰のベルトに刺した包丁を投げる。刀身ボックスの固定が割かれ、立体機動装置は破砕された。それを蹴り飛ばして空中に舞った刀身を五指の間に挟んだ。

 彼の腕が霞む。水平に隙間なく並び飛翔する四枚の剣先は断頭台の刃のようで、当たり前のように巨人の首を落とした。貫通し、建築物に深深と刺さる。

 

 二つの影が市街を縫うように躍動する。ローゼに到着し、立体起動装置を持つピクシスは交互にアンカーを打ち出すことで登り。アンデルセンはというと斧を遠投、突き立てられた柄を足場にさらに跳躍。先の機動装置から失敬していたアンカーを投擲、壁上部に突き刺さり。ワイヤーを手繰り、よじ登る。

 

「ピクシス司令」 イアンは口を開く、が、それ以上の言葉が見つからない。

「久久に疲れた、腰が痛いわい。茶番の盤遊戯よりはましだが」 ピクシスは額の汗を拭い、登ってきたアンデルセンに手を貸してやる。 「その箱の家紋は知っておる、当主はなかなかのやり手らしい。財を持っておる、司法の目を眩ませるほどの美しい金貨を山ほど」

 

「やつが持つことを許されるのは懺悔だけだ。死人に金は使えん、使おうとするならまた殺す」

「殺したのか?」

 

「神罰を下した。それだけのことだ」

「神? おぬしは例のあれか、ウォール教とかいう何とかか」

 

「せいぜいが百年にも満たねえような粕と一緒にするな」 わずかに怒気を孕む。

 

 イアンが身構えるも、ピクシスは笑って言った。

 

「ではおぬしは何者かね」

 

 それをアンデルセンは考えていた。

 この世界に信ずる神は存在しない。だからこそ、おれが教義を広める役目となったのだろう。神の奇跡なきこの地で。

 やることは決まっている。解りきっている。何も変わらない。おれの信ずる神は化物を許容しない。おれが化物を許容しないことで、内に信ずる神の意思をこの世界に体現させるだけだ。

 

「我が神は化物の存在を許可しておられぬ。したがって化物は存在ただそれだけで罪深く。神の代理人であるおれの役割は化物に対し、神罰を代行することのみ」 

 

「気が合うな、わしも巨人どもを根絶やしにしようと思っておったところよ。ドット・ピクシスだ。今度話を聞かせんくれんか」

「話だと?」

 

「教えを請おうとしておる者がおるのに、敬謙な教徒が説法を説かんのか」 酒はやるかねとスキットルを放る。 「若い頃を思い出させてくれた礼じゃ、年をとるとなかなか思いだせんでの」

 

「アレクサンド・アンデルセン」 スキットルを握り、木箱を抱えてローゼの中へと飛び降りた。

 

 イアンが慌てて下を覗く。粉塵をたて、壁を滑り降りていた。何事もなく着地している。 「何者です?」 人間でないのなら、と省略して言った。

 

「聞いとらんかったか、神罰の代行者と言っておったじゃないか。しかしあの場で飲むと思っとたのにスキットルごと持っていくとは、ちと惜しいような……」

「いや戦場でアルコールを嗜むのは司令くらいなものです。司令はあの男を仲間に引き込むおつもりですか。教徒の軍属は危険なのでは」

 

「あれが従うとすれば己が神にのみじゃろう。神のために動き、神のために戦う。ま、必要があれば作戦をそれとなく知らせる。過信はせんが、猫の手も借りたいときに神の救いの手が差し伸べられた。しかも握手も出来る」

「なるほど、あえて教義に興味がある振りをしたのですね。あの男も、司令ほどの地位のある人物なら布教に役立つと」

 

「いいや、ありゃ単なるわしの好奇心じゃよ。それに、信仰なき者の布教は真の信仰を生むまい。やつはそれを嫌っておる。ウォール教のように権力者に擦り寄ろうともせん」

 

 ピクシスは心底楽しそうに喉を鳴らして笑った。

 アンデルセンはというと、年のせいか。おれも丸くなったものだと一時の感慨にふける。

 

 その後、ピクシスは巨人に対する恐怖に浮き足立つ兵に大演説をぶち。響き渡る大声でトロスト区奪還作戦を宣言した。

 当然その声量はアンデルセンの耳にも入った。ついでに、おそらく息子の放った刺客を返り討ちにし、居場所を吐かせ、商人の一族はそれで絶えた。憲兵が見逃すはずもなかったが、彼がトロスト区へと壁を越えると追ってはこなかった。

 ミカサ・アッカーマンはその時、立体機動を用いない、生ける殲滅装置と邂逅するのだが、それはまた別のお話。

 トロスト区奪還後、ある鍛冶屋はたった一人の男の為に金槌を振った。銃剣、バイヨネットと男は言うそれを、生涯にわたり作り続けた。

 

 記しきれないほどの戦いの後。やがて貧困層を中心に新たな宗教が発生し、それが強力な化物否定を内包していることから多くの信者が生まれた。貧者の多くはシガンシナ区が巨人に占領された煽りを受けた者たちだからである。

 やがて巨人と王族との因果関係が白日のものとなると新教、調査兵団、駐屯兵団、貧困から平民層対。旧教であるウォール教、憲兵団、貴族、王族、富裕層の構図が生まれた。

 歴史的観点からすれば新教の教皇対旧教の国王が主軸となり、多くの利権が絡むのだが。新興宗教側を統率するのは人類のために身を捧げた軍人であり。単なる指導者にとどまった。

 一人、教皇に祭り上げられかけた男がいたが。彼は鹿の角細工の十字を指し、一振りの剣にすぎないことを伝え、姿を消した。

 

 

 

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 柔らかな木漏れ日の中。打ち捨てられたテントの残骸が虚しく残る。

 中央の火着け場には変色した木箱と、高級木材の断片。男がマッチを放り、やがてそれらは炎に包まれた。薬の異臭が鼻につく、木片の煙が目にしみる。

 男は呟いた。

 

 ――AMEN――

 



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