Dies irae -Seltsam Gesetzwidrig- 作:ととごん
人気がなく、淡い蛍光灯の光のみが周囲を照らす夜の公園。
そこに、静寂を舐るような気色の悪い喘ぎ声が響いていた。
その声は一人の男から。ずりずりと、血だまりを這いずりまわる彼の姿はまるで蜘蛛のようだった。
彼の名はロート・シュピーネ 彼は黒円卓の一番槍として、今回の殺人競争遊戯の主演たるツァラトゥストラ――彼らが黒円卓副首領代替との戦闘を繰り広げた。
結果は語るまでもないだろう。ツァラトゥストラの形成位階への成長を許したシュピーネは、そのままあっさりと敗北した。その溢れ出る血の量は、例え一般人でも致命傷と断ずるだろう。
だが、だというのに血に塗れたシュピーネは笑みを浮かべている。現実逃避による狂笑ではない。もっと確たる――狙い通りとでも言わんばかりの笑みだった。
――そう、シュピーネは元よりツァラトゥストラに勝利するつもりがなかったのだ。
彼の目的はツァラトゥストラを形成位階まで引き上げること。とはいえさして難しいことではないとシュピーネは思っていた。何せ対象は『あの』副首領閣下の代替だ。相応の演出を行えばまるで御伽噺の住人のように位階を上げるだろうとシュピーネは予想しており、事実そうなった。もっとも少々アテが外れた面もあったのだが。
どちらかといえば問題はそれからだった。
すなわち、敗北を演じつつもシュピーネ自身が生き残ること。相手の形成が如何様な形をとるかによっては極めて至難となりうるからだ。
こちらも成功。確かに深いダメージを負っているが、シュピーネとて曲がりなりにも超人だ。この程度の傷ならば一日あれば回復する。
これはツァラトゥストラの経験不足に助けられたといえるだろう。融合装着型――腕から生えるギロチンを形成した彼は、己の手ごたえを信じた。死んだだろうと、予測してとどめを怠ったのだ。もし彼が疑り深い性格ならば、もしくは超人を殺しなれていれば、きっと首を刎ねただろう。
だがそうはならなかった。大局的に見れば間違いなくシュピーネの勝利だろう。
しかし不意にシュピーネは表情を引き締めた。抜き差しならぬ事態が訪れたことを知覚したのだ。
つまり――
「もしそれ以上近づくようでしたら、
新たな敵の到来。シュピーネは背後に迫るそれへと警告を発した。
当然彼の言葉はハッタリなどではない。逃げる程度の余力は十分にある。
背後の気配が止まったことを確認したシュピーネは、ゆっくりと振り返った。
五メートルほど後方。困ったように金髪をかきあげる神父風の男がそこにいた。
「……些か、驚きました。まさか気づかれるとは。……しかし気配を消して近づいた非は詫びますが、逃げるとは穏やかではありませんね」
「おや、私はてっきり始末されるのかと思っていたのですがね。それと臆病者が気配に敏いのは自然の摂理ですよ、聖餐杯猊下」
聖餐杯、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。双首領と大隊長三名がシャンバラに存在しない現在において、首領代行を務める男。
そんな男が何故この場にいるのか、などという愚問をシュピーネは抱いていない。先程までの己は明確過ぎるほどに無様な醜態を晒していた。黒円卓にそんな痴れ者のための席はない。
ましてやここはスワスチカの一角。そんな愚か者を殺し、第二を開くこともできる――そんな一石二鳥の手をこの聖餐杯がみすみす逃すとは到底思えない。もっとも、彼がシュピーネを殺そうとする理由はそれだけではないのだが。
そこまで理解していたからこそ、シュピーネは表面上平静を装って聖餐杯と会話することができた。実のところ彼の内心は、聖餐杯が感じたであろうそれを大きく超える驚愕に包まれている。
シュピーネがそれほどまでに驚いている理由は一つ――聖餐杯の尋常ならざる隠形だ。気配を察知できたなどと嘯いたものの、実のところ全く彼の感覚は聖餐杯のそれを捉えていなかった。彼自身も述べたように、黒円卓でも最上位に位置すると自負する己の気配探知にすら聖餐杯はひっかからなかったのだ。もし『結界』を展開していなければ、今頃第二のスワスチカは開いていたことだろう。
「く、くく。そうか、そうでしたね。成る程、私は貴方を見縊っていたようだ。いえ、忘れていたとでも形容すべきでしょうかね。……では、もしかして『アレ』が『彼女』ではないことも気づいていらしたのですか?」
何が可笑しいのか、くつくつと聖餐杯は笑い続ける。
しかしシュピーネは気にしたそぶりも見せずに、淡々と質問にのみ答えた。
「当然でしょう。数時間前に間近で見た人間を見紛うほど、私は耄碌した覚えはありませんよ。聞いていたのかもしれませんが、あれは文字通り『演出』ですよ。ツァラトゥストラを、次の位階へと上げるためのね」
「では元々彼女を殺すつもりもなかったと?」
「勿論です。もし怒りに我を忘れて暴走でもされたらあっという間に彼は死にかねない。私はともかく他の団員はそこまでやわではないでしょう」
実のところ先の一戦、仮にシュピーネが全力であったとしても勝利しえたか怪しい。否、ほぼ間違いなく敗北していただろう。
その要因は二つ。単純に形成の相性が悪かったこと。そしてシュピーネが純粋な戦闘員ではないことだ。
だからこそ、たかだか形成の成り立て程度でシュピーネを御することができた。だが今の彼ではベイやカインはもちろん、レオンハルトにすら敗北しかねない。いかに彼が副首領代替といえどもそこまで都合よく覚醒を繰り返すことはできないだろう。
ならば無論、活動位階であったツァラトゥストラでは話にならない。だからこそシュピーネが相手を買って出たのだから。エイヴィヒカイトのなんたるかを、実践で教えるために。万に一つも、ここでツァラトゥストラを死なせないために。
聖餐杯がそれをよしとしたのは、彼にもそういう思惑があったのだろう。シュピーネ『如き』に負けるならばそれまで。勝ったならば後始末をするつもりだったというわけだ。
シュピーネとしてはもう少し道化を演じていたかったのだが、流石にそのまま始末されるわけにもいかなかった。そろそろ潮時だったということだろう。唯一『彼』を知る聖餐杯相手をここまで騙せただけでも上等と考えるべきか。
それに聖餐杯ならばまだ平気だろうとシュピーネは考えていた。何故ならば、聖餐杯は手を組む相手としての条件が成立している。
もちろんその条件とは先程ツァラトゥストラに語ったように、聖餐杯が正反対の人種だから――などという戯言ではない。正反対の人種をどうして信用できるのか。正反対ということは、悉く価値観がずれているのだから。
そうではない。重要なのは『手段』が一致していること。例え如何様に価値観がズレていたとしても、目的がかけ離れていたとしても、辿る道筋が同じならば協力することは決して不可能ではない。
その点において聖餐杯は最も己に近いところを歩んでいると、シュピーネは考えていた。あるいは、あちらもそう考えているだろう。
「つまりいずれはそういう手段もとりうる……ということでしょうか?」
「そればかりはツァラトゥストラ次第、ということですかね」
極力とりたい手段ではないですけどね、とシュピーネは内心のみで付け加えた。
そうなってしまえば彼の望む絵図が得られる可能性は著しく下がる。
「ふむ……ところで、これから貴方はどうなされるつもりで?」
「しばらくは様子見するつもりですよ。できることならば次はレオンハルトをぶつけたいところですが」
もし今のツァラトゥストラに勝算がある相手を考えるならば、間違いなくレオンハルト一択だろう。
聖遺物の使い手同士の闘いで重要なのは『魂の総量』なのだが、それがシュピーネに続いて少ないのが彼女だからだ。とはいえ母体(ゾーネンキント)や繰り手(バビロン)といった例外はあるが。
ともあれその総量によって攻撃力や防御力、敏捷性など全てのステータスに上昇補正がかかる。しかしどうやら高々数十程度の魂しか吸っていないはずのツァラトゥストラの聖遺物は、五百以上の魂を吸っているシュピーネをやすやすと切り裂いた。流石は副首領の代替というべきか。その聖遺物も『特別』らしい。
何にせよこれ以上ツァラトゥストラを強くするためには、シュピーネは敵役として不足している。
「そうですねえ。私もそうしたいところなのですが、ベイが黙っていないでしょう」
「仮にそうなったとしても形としては悪くないのですがね。しかしこちらの望む結果はともかく、ベイ自身望んだ結果を得られはしないでしょう」
「ああ、それは確かに。ベイはそういう星の下に生まれていますからね」
望んだ相手を取り逃がすと、かの副首領はベイの人生をそう評した。そしてその実、それ以降のベイの人生はそういう形を成し続けている。
望んだ相手との闘いがどこまでもいつまでも成り立たず、ようやく闘えたと思えば何かしらのケチがつく。
ゆえにベイがツァラトゥストラと狂演を望むというならば、きっとそれが果たされることはないだろう。
「まあともかく、私はしばらく姿を隠します。他の団員たちにはうまく言っておいて頂けると助かるのですが」
「ふむ。まあいいでしょう。今日ここで私と貴方は会わなかった。そういうことでよろしいですか?」
「ええ、構いません。ですから――私も貴方から『頼み事』を忘れてしまった、ということにでもしておきましょう」
おそらく、これこそ聖餐杯が己を始末しようとした最大の理由だとシュピーネは睨んでいた。
聖餐杯は表情を変えない。だがほんの一瞬だけ、彼は言葉に詰まった。
「……ええ、そうしていただけるとありがたいですね」
「では、私はこれで。ジークハイル」
「ええ、また。ジークハイル」
これにて今宵の幕は落ちる。シュピーネは公園を去り、第二のスワスチカが開くこともなく。
この事実がどれほど珍しいことか、知る者は誰もいない。
だが、万に一つ。いいや、億に一つ。那由多の果てにも上演を繰り返す歌劇ディエス・イレにおいて、これはそれほどまでに珍しい展開なのだ。よって今後紡がれる演目もまた、極めて珍しいものとなる。
これより主演はロート・シュピーネ。
此度のシャンバラの動乱において最も脚光を浴びるのは――あるいは、彼かもしれない。
Der L∴D∴O in shamballa ―― 9/13
Swastika ―― 1/8
【Prologue Wendepunkt ―― END ――】