「ケーキ作りぃ?」
幻影旅団団長・クロロ=ルシルフルが団員二名にとある指令を下してから数日後。
びゅんびゅんと車が走り回り、そこかしこに高層ビルが並ぶ大都会の中、狭い歩道をぎゅうぎゅう詰めになって歩く社会人の群れの中心で、はた迷惑にも突っ立ったまま携帯電話に呑気な声を返す男がいた。
身の丈はおよそ一八〇。中性的な顔立ちをしている。黒髪黒目に加えて黒いジャケットに黒いシャツ、黒のジーンズと全身黒尽くめの格好であり、おまけに手に持つケータイすら真っ黒なので、その周りのことを一切考えない自己中心的な態度もあいまって、白昼においてかなりの異色を放っていた。
と、そんな馬鹿な真似をしていれば当然周囲の怒りを買うものである。
「邪魔なんだよお前ぇ!」
必然の事態と言うべきか、何やらかなり焦っているらしい中年の男性が、目の前に立ち塞がる邪魔者を突き飛ばして強引に前へ進もうと、突如として体当たりを敢行した。
「――ぶげぼっ」
……のだが、邪魔者の男は見た目に似合わずかなり足腰が頑健なようで、タックルをかました男性の方が逆に跳ね飛ばされてしまう結果に終わる。踏みつけられた蛙のような声を上げた中年男性は直後に道を急ぐ人々の足場となり、現実にいくつもの足に踏みつけられた。
神経質そうな黒縁の丸眼鏡がバラバラに砕け散り、無数の足から逃れるように丸められた体の奥からか細く無様な悲鳴が漏れる。それでも眉一つ動かさないどころか、己にぶつかり転倒した男を一瞥することすらしないおよそ常識的な良心を持つ者から見ればとても人とは思えないような非情な態度が、黒尽くめの男が自分にとって無価値なものに対しどれだけ無関心なのかを如実に表していた。
足元に転がる男と、それに気づいてさえいないような青年の異常な様子におぞましさを感じたのか、そのおかしな光景にようやく気づいた周囲の人間があからさまに二人から距離をとり、まるで途中にある岩によって分岐した川のように、群衆の中にぽっかりと楕円形の穴が空いた。
「ひ、ひいいっ。ごめ、ごめんなさっ、ごめんなさいいっ」
襤褸切れのようになった中年の男はフラフラになって立ち上がり、息も絶え絶えなままうまく動かなくなってしまったらしい足を引き摺りながら、一刻も早く逃げ去りたいという感情をわかりやすく顔に浮かべて人を掻き分け立ち去っていった。
黒衣の男はそんな周囲の様子に一欠片の意識も割くことなく、
「まぁ近くっぽいし別にいいけどよ……にしても、ケーキかぁ」
『―――!? ――――!』
「あ、あーあーあー。わーったわーった。悪かった。別に不安に思っちゃいねぇって、そんな怒んなよ」
なにか相手の逆鱗に触れる発言をしてしまったらしい男はしまったと一瞬宙に目を泳がせると、すぐにへらりと口の端を歪めておざなりに謝罪した。
そうして、白昼堂々アホ面を晒す青年――ニードは、何かを懐かしむような笑みを浮かべたあと、
「――ま、可愛い弟子からのお誘いだしな。快く乗ってやるとしますかね」
ひどく上から目線で承諾し、直後にブチ切れた電話相手に平謝りするのだった。
それは非情な態度と温情な態度が混在する、ひどく奇妙な光景だった。
◇
飛行機に乗って移動するメンチは、窓の外を流れていく白い雲を見つめていた。
その顔には穏やかな微笑が浮かべられ、ご機嫌そうに鼻歌まで歌う彼女からは喜びのオーラがバンバン放出されている。
「嬉しそうだね、メンチ」
隣の席に座る巨漢――メンチの相棒であり幼馴染であるブハラは、目を細めながらメンチに囁きかけた。
碧色の髪を揺らし、メンチは少し顔を傾けて彼のほうに視線を向ける。
「そんなにいつもと違って見える?」
「うん、すごくね。わざわざ髪型を昔と同じにしてることに気づかなくても、顔を見てれば簡単にわかるぜ」
「……そ。ま、否定はしないけどね」
見透かされている気恥かしさから、メンチは少しだけ熱くなった頬を誤魔化すようにぷいと顔を背けた。何となくむず痒さを感じて、頬杖をつく右手の指でかりかりと耳をかく。
現在のメンチの髪型は普段の独特なものではない。いくつもの房に結っていた髪をすべてほどき、肩までそのままに流すそれは、昔のメンチが好んでいた髪型だった。より昔の気分に浸りたいと、なるべく昔のような格好にしたのだ。
全部理解されているのは長年一緒にやってきているからだと割り切れるのだが、頭上から穏やかな視線を向けられると何となく優位を譲ってしまっている気がして、どうしても羞恥が残る。身長ばかりはどうしようもないと自分を納得させようとしても、なぜか更に恥ずかしさが増すのだから不思議である。
「口元、ちょっと気をつけたほうがいいかもよ。緩んでるから」
「うそ。……あ、ホントだ」
手を当ててその事実を確認すると、ますます頬が火照っていく。恥ずかしくもほっとする、その熱に意識を集中させようと、腕の中に顔をうずめた。布の感触が顔をつつむ。ぬくもりが広がっていく。
ぬるま湯に包まれているような気分に浸っていると、不意にまぶたが重くなってきた。
「ごめん、ちょっと寝る」
「うん、おやすみ」
瞬く間に微睡みに沈んでいく意識の淵で、ブハラが毛布をかけてくれたのがわかった。ありがとう、と言おうと顔を上げようとするが、少し顔をずらすことしかできないまま睡魔に負けてしまった。どうやら思っていた以上に疲れが溜まっていたらしい。ちょっとはしゃいだだけで、こんなに……も……
混濁する思考が途切れる寸前、視界の端にブハラの顔が映った。その顔が少しおかしくて、メンチはくすりと微笑んだ。
(……なんだ。あんたの口元も、緩んでるじゃない)
◇
ところ変わって某市の某巨大ホテル内部、VIP御用達のスウィートルーム。
上品で落ち着いた色合いの重厚な扉が乱暴に開け放たれ、優雅なティータイムを過ごしていたマチのもとへニードが駆け込んできた。
音もなく紅茶をすすりながら横目で一瞥してくるマチに、何やら少しはしゃいでいるらしい黒衣の男はぐいっと顔を寄せると、
「おいマチ、すぐに空港に出発するぞ!」
開口一番そうとだけ言い放った。大切な部分が決定的に欠けている発言に、マチは眉根を寄せながらティーカップから口を離す。……「近い近い」と、すぐ目の前にある男の顔にうっすらと頬を染めながら、ではあるが。
「それはいいけど、まず目的を話すべきでしょ。ようやく戻ったと思ったらいきなりどうしたの?」
「ああ、悪い悪い。どうも省略しちまうんだよなぁ」
「昔から直らないよね、その悪癖。直したほうがいいよ。――で? なんか大事な用件なの?」
「おう。これからメンチとブハラを迎えに行くぞ」
「ふーん。どういう経緯?」
「今日の午前に電話にてケーキ作りのお誘いを承諾、もうそろそろこの市に便が到着、ならもう合流しちまおう、いまここ」
「……まあ、大体わかったかな。でも今度から覚えたてのネットスラングは使わないで」
「えー、でも」
「使わないで。ただでさえバカなのに、さらにバカに見える。ってかバカ丸出し」
「ねぇ、もう少しオブラートに包みませんこと? 剥き出しですけど?」
「自分から曝け出してるやつが何言ってんだか」
ふん、と鼻を鳴らし、マチは一息に紅茶を飲み干す。椅子を引いて立ち上がり、カップを流しへ置き、あとで洗いやすいように、いちおう水を溜めておく。
さりげない家庭スキルの発揮に、しかし両名とも気づくことなく、マチが振り返ると同時に自然な動作でニードの右手が差し出される。
「さ、行こうぜ?」
マチはすっと視線を落とし、男の手のひらを見る。肩幅が広いにもかかわらず、なぜか華奢に見える容姿とは裏腹に、無骨で大きな手のひら。昔から変わることなく、常に自分を支え、引っ張り、思いやってきてくれた……愛しい男の、大好きな手だ。
ふと、マチは小さな物思いに浸る。
自分たちは簡単に言えば大悪党の鬼畜外道だ。
善人だとは口が裂けても言えない。普通の生活を送ってきた者から見れば壊れていると評して間違いない人間だ。マチたちが自分にとって大切なもの以外に温情を割くことは絶対にないから、それに文句はない。
だが、狭い世界で生きてきたマチたちにとってはこれが普通だ。これこそが生きるということだ。
だから――たとえ有象無象に向けられる情がなかったとしても、あたしたちはこの小さなつながりで、じゅうぶん温かい。
幸せを感じて、噛みしめる権利こそ、あたしたちが一番望んだものなんだから。
そんなことを考えながら、マチは差し出された右手にそっと自分の手を重ねる。
「エスコートしてくれると嬉しいんだけど」
「仰せのままに、お嬢さん」
――そんなことを考えていたから、直後に突然抱きかかえられ、人目の多い廊下や往来をお姫様だっこのまま駆け抜けることになっても、彼女のとびきりの笑顔が途切れることはしばらくなかった。
◇
空港に降り立ったメンチは、うんと大きく伸びをした。背骨が小気味のいい音を立てて整列し、わずかに残っていた眠気が完全に吹き飛ぶ。
その際彼女のオレンジのシャツが持ち上がり、蠱惑的な腹チラが拝めそうだったところをブハラが巨体でガードし、通り過ぎていく男たちの舌打ちを買った。
「メンチ、そういうのはもっと人気のないところでやんなよ」
「? なんでよ? 長時間移動のあとの背伸びってのは、こういう広くて解放的な場所でやんのが気持ちいいんじゃない」
確かに解放的ではある場所だった。青い空は澄み渡り、涼しい風が肌に気持ちいい。空気も不味くない。心地よい陽光が白を基調とした施設を眩しく照らしている。寝転がって昼寝でもしたい気分にさせる場所だ。
「でも問題はそこじゃないよ……」
「だから、ここで背伸びをするのになんか問題があんの?」
「いや、なんでもないさ。気にしないでくれ」
「そう? 変なブハラ」
小首を傾げて眉を八の字にするメンチに、ブハラはそっとため息をつく。
普段の彼女はもっと露出度が高いというかほぼ半裸なので、先ほどの彼の行動は無意味なように思えるかもしれないが、そこは着てるからこそのエロスというものがあるのである。そこんところを理解していただけていない様子のメンチの無防備さは、彼女に対しブハラが抱く隠れた心労の一つだ。
そんな我が子を心配する父親のような心境のブハラの手を、メンチが不意に握った。
「早く行きましょ、ブハラ。手土産とかも買ってかないといけないしね」
「……うん、そうだな」
「ふふっ。ねぇ、覚えてる? 昔は街に出るたびに、はぐれないようにってこうして手をつないでたわよね」
「もちろん、覚えてるさ」
ブハラは自分よりとても低い位置にあるメンチの目を真っ直ぐに見つめながら、穏やかな気持ちで頷いた。師匠たちが自分たちの前から姿を消して以降、自然と忘れていった習慣だった。今思えば、悲しみを少しでも紛らわすための、自分たちなりの防衛本能だったのかもしれない。
それを懐かしみながら思い返すことができるようになったことを、ブハラはとても嬉しく思う。
きっとメンチも同じことを考えているのだろう。間違いない……綺麗で愛らしい、陽だまりのような笑顔だ。
「せっかくだから、このまま行きましょ? ……良い?」
「うん、もちろん構わないよ」
「どんな顔してくれるかしらね、ニードたちは」
そんな会話をしながら、笑顔の二人は歩き出した。とりあえずは荷物の受け取り。それから少し手土産を買って、コーヒーを飲んで、待ち合わせ場所に行こう。昔のように。
――彼らがニードにお姫様抱っこをされたまま登場したマチを見て、揃って大笑いするのはもう少しあとの話である。