第二十四話 心と裏側
ああ、空ってなんでこんなに青いんだろう、とマチは思った。
ガラス張りの壁から差し込んでくる陽の光が、すでに正午を過ぎていることを如実に示していた。にも関わらずマチがこうしてベッドの脇の丸イスに腰掛け続けているのは、動けないワケがあるからだ。
朱に染まった顔に緩んだ笑みを浮かべて、マチはそっと視線を落とす。
ベッドから伸びている手と繋がっている、自分の両手に。
◇
部屋の隅には観葉植物が並び、つるつるしたこげ茶色の木の床がシックな雰囲気を醸し出している。
壁は床と対照的にザラザラした手触りの純白だ。外に面する壁のみ一面ガラス張りになっていて、そこから景色を見渡せるようになっていた。目下には背の高い木が等間隔に並ぶ通りが見え、遠くには喧騒に包まれている商店街や小さな山の連なりが見える。
パドキア共和国某市のホテル十二階、その一室にマチたちはいた。
「………ん……」
設えられたベッドに横たわる、中性的な顔立ちの青年が身じろぎした。
近くにあるナイトライトは昼なのでオフのまま沈黙しており、現在はコート掛けの代用として使われている。でろん、という風に小綺麗なランプを覆い隠す形でかけられている純黒のコートはいかにも先ほど乾いたばかりですといった感じだが、にじみ出てくる血の匂いは未だごまかしきれておらず、最低でももう一度は洗わなければならないだろうことは明白だ。
戦闘の余韻とでも言うべきものが、室内を満たしていた。
腰を浮かし、少し身を乗り出して、マチは眠るニードの顔をのぞきこんだ。驚くほどすべすべの頬をゆっくりと撫でる。その間も片方の手はしっかりと繋がれたままなところが、彼女のニードに対する気持ちの現れであると言えた。
二人の絆は固く結ばれていて。
手と手は固く繋がっていて。
マチの白く細い手を包み込んで離さない大きな手は、彼女に対するニードの気持ちの現れでもあった。
(………ああ、空ってなんでこんなに青いんだろう……)
ガラス張りの壁からは、当然空も見上げられた。
どこまでも続く広い空は今日も青く澄み渡っている。雲ひとつない晴天だ。どうやら爽やかな風も吹いているらしい。散歩すればきっととても気持ちいいだろう。
ゆっくりと目を瞑った。
息を吸う。
息を吐く。
こんなにも嬉しいのに、こんなにも幸せなのに、こんなにも胸が苦しい。
幼い頃からずっと付き合ってきた疼きだけど、いつまでたっても慣れる気はしない。
とく、とく、とく、と早足に鼓動する心臓を押さえつけるように、胸の前できゅっと片手を握った。顔の熱を感じながら、もう片方の手から伝わってくる彼の体温に意識を馳せる。
その存在すべてが愛おしい。
だけど、だからこそ切ない。
ニードがマチのことを誰よりも大切に思ってくれているのは、これまでずっと一緒に生きてきて十分すぎるほどわかっている。ニードもまた同様だろう。マチがニードを誰よりも大切に思っていることを、彼は知っている。
ただ、その認識の仕方だけが違っていた。
ニードがマチに向ける愛情は家族に向けるそれで、
マチがニードに向ける愛情は異性に向けるそれなのだ。
いい加減気づけよ、とマチは思う。
もう何年一緒にやってきたと思っている。
十年なんてものではない。二十年でもきかないだろう。
物心つく前から、自分たちはずっと一緒だったのだから。
幼い頃に淡い恋心を自覚してから、マチは努力を続けてきた。誰よりも身近にいて、そして誰よりも難攻不落な男を振り向かせるために。
瞼の裏に浮かぶのは、幼き頃に育ったガスと臭気とゴミで埋め尽くされた世界。これまで生き抜いてきた、薄暗くて血なまぐさい世界。
泥を削ぎ落とし、顔を洗って、髪を結って。
笑顔を向けて、手をつないで、抱きついて。
一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怒って、一緒に楽しんで、一緒に悔しがって。一緒に食事をして、一緒に歯を磨いて、一緒に寝て。
何もかも共にしてきた。共に生きてきた。自分たちの間には、そこらの夫婦なんかとは比べ物にならないほど深く固い絆がある。切っても切れないつながりがある。一遍の曇りもない信頼がある。
だからこそ、彼はマチの気持ちに気づかない。振り向いてくれない。
きっとそれは―――
(―――あたし自身に、覚悟が足りないから……なんだろうな……)
自分はどうしようもない臆病者だ、とマチは思う。
たくさんの仲間たちに応援してもらって、背中を押してもらって、奥手ながらに自分でも努力して、それでも一歩を踏み出せない。
それは怖がっているからだ。恐怖しているからだ。ニードとの間にある絆が、つながりが、信頼が、切れてしまうかもしれないと。
自分本位な行動で、彼を傷つけたりはしないかと。
身勝手に愛を押し付けて、彼に嫌われたりはしないかと。
いつも後一歩のところまで進んでおいて、我ながら馬鹿なことだと思う。これではニードはいつまで経っても自分のことを欠片も意識しないままだ。老いて死んでゆくまで自分を女として見てくれないままだ。
(だから早く気づけよ………この鈍感野郎)
ニードは鈍感だ。
それはそうだろう。彼にとってマチは“家族”なのだから。家族、たとえば妹や母親に、自分が異性として見られていると思う男がこの世にいないのと同じだ。
でも。
それでも。
この気持ちに気づいて、受け入れてほしい。抱きしめて、耳元で愛を囁いてほしい。女として見てほしい。蕩けきって、ふにゃふにゃになってしまうぐらい、どうしようもなく幸せだと感じさせて欲しいのだ。
とすん、と枕元に顎を載せて、
目を伏せ、自由な方の腕を枕にして、愛しい男の寝顔を眺めながら、
手をつないだまま、はちきれんばかりの愛情を込めて、マチはそっと呟いた。
「ニードのばーか…………だいすき」
久方ぶりにゾルディック家を訪れたあと、
彼に限って、『無傷』と『ノーダメージ』はイコールではない。表面上は絶対王者のごとき余裕と風格を取り繕っているものの、彼の内側は芯までボロボロだ。単純な話、『無傷』で在り続けることこそが、最も彼を痛めつけているのである。
ニードにとって『無傷』とは最強の『証』だ。
何者にも手の届かない高みに君臨し続けている、という何よりの証明だ。
そしてそれこそが、それを守り続けることこそが、彼の存在意義でもある。
マチは少し勘違いしている。
確かに彼にとってマチは何よりも大切な存在だ。命を捧げてでも護り通したいと願う存在だ。
ニードの行動の根幹は常にマチがなしている。
言動も、行動も、意思も、思想も、風体も、頭のてっぺんから爪の先まで余すところなく細胞のひとつひとつに至るまで――――――すべての根元にはマチがいる。
マチは理解しきれていない。
ニードにとって、マチという存在がどれほど重いものなのか。
マチは気づいていない。
『ニード』という人間が存在する理由そのものが、自分であるということに。
家族よりも重く、しかしその思いに恋愛感情は介在していない。指で少し押せば壊れてしまうような、そんな危うい線の上にニードが立っているということに、マチはまだ気づいていない。他の誰も、そしてニード自身でさえも、気づいていない。
■■■Is love one? …Did you notice love?■■■
「なぁ……なんでそんなそっぽ向くの? なんで目ぇ合わしてくんないの? なんなの? 反抗期なの?」
「ち、ちがうんだってば……これはほら、あの……その……」
「いや、それじゃわからねぇよ、さすがに」
ジト目になるニードの顔を真正面から見れず、マチはそっぽを向いたまま人差し指と人差し指を突き合わせた。
もじもじしながらちらちらと隣を歩く男の顔をうかがうその姿はどこから見ても恋する乙女そのものであり、道行く人々がなんかすっげぇ微笑ましそうな目をしているのだが、気恥かしさでいっぱいいっぱいである今の彼女はそんなことにも気づかない。
(む、ムリ! 絶対無理!! 恥ずかしすぎて顔見れない!! 何してんだろあたし、なんであんなことを……ッ!?)
思い出したら余計に顔が熱くなった。
火であぶられたかのように主張してくる熱をできる限り無視する。もしかしなくても自分の顔はいま真っ赤だろう。絶対そうだ。耳まで熱い。頭が茹だるかとすら思う。爽やかな風がすごく気持ち良かった。
ニードが目覚めてから数十分、二人は散歩に出かけていた。
(まさかあのあとすぐ起きるなんて…………き、聞かれてないよね?)
聞かれてたら軽く死ねる。
あんな言葉、自分のキャラではないことぐらいわかっている。もとよりあんなことを言うつもりはなかったのだ。あれはその、なんだ、自然と口をついて出たというか、何というか、我知らず零してしまっただけなのである。自分の意志で言ったのではないのだ。ついぽろっと本心を漏らしてしまったとかそういうことでは断じてない。
―――本当に?
(…………うぅ、いや、本心なんだけどさ……本心なんだけど……)
そういうのって大切にしまっておくものなんじゃないだろうか。
思わず呟いてしまった大胆発言についてぐちぐちと恥ずかしがる。自分自身すら誤魔化しきれない自分の弱さにに涙が出た。なんであたし、自分で自分に白状してるんだろう。
自分の心の声にすら屈してしまうほど今の彼女は脆かった。それはもう弱々しかった。しかして、それはつまり周囲への警戒も緩んでいるというわけで、
「おいマチ」
「ひあうっっ!?」
びくーん!
とマチの肩が勢いよく跳ねる。心臓が早鐘を鳴らし、もともと熱かった顔がさらに熱くなる。ぼふんっ! と爆発したみたいに湯気が出た。完全にオーバヒートである。
両手を胸の前できゅっと握りながら、恐る恐るといった感じで左肩に載せられた手を見やる。その動きを見ればわかるとおり、状況の変化についていけていなかった。
「本当にどうしたんだおまえ、さっきからなんか変だぞ……って、うおおおおっ!? おまっ、なんだその顔!? 真っ赤じゃねぇか!? どうしたんだよ!?」
「ふぁ……っ、い、いいいいや、べ、別になんでもな……」
「なんでもなくねーよ! お前が熱出すとか嘘だろ、特別強力なウイルスでももらってきたのか!? 一大事だっての!」
本気で心配してくれているニードに思わず胸が高鳴った。
きゅっと心臓が締め付けられ、幸せな気持ちが心を満たす。我ながら現金なものだと思った。我知らず頬が緩みかけ―――突如として額に当てられた手に、口元が驚きを表す。
ぼしゅうぅ……といっそう湯気が立ち上り、リンゴみたいに耳まで顔が赤くなる。
「あづぁっ!? おま、これホントどうし―――」
「だ、大丈夫だから! ほんと、なんでもないからっ!」
「いや、でも」
「いいから気にすんなッッ!!」
叫ぶと同時、額と額がくっついた。
ひあ………ッ!? とマチの動きが停止する。かちーん、と凍りつく彼女の手首を掴み頭を押さえ、暴れられないようにするその手際の良さは長年培われてきたものだ。
超絶級の至近距離から、ニードは囁いた。
「………んなことはできねぇよ」
「あ、………ぅ」
「……ん、大丈夫そうだな。赤さに反して熱はそんなにないみたいだし」
あまりに驚きすぎて顔の熱が一気に引きました。
とは言えず、もはやマチはされるがままである。す、と離れるニードに名残惜しそうな顔を見せたあと、恥ずかしげに俯いた。普段の怜悧な表情はなりをひそめ、そこにいるのはただの恋する乙女だった。
常とは違う彼女の様子にニードが訝しげに首をひねる。この姿を真正面から見た上でマチの気持ちに欠片も気づかないあたり、もうドン引きするレベルで鈍感なのだった。
一応もう一度言っておくが、ここは天下の往来である。そのど真ん中でこんなことを平気でしでかせるところ、二人の認識の違いがうかがい知れた。
なんとなく無言が続く。マチは嬉しいやら恥ずかしいやらで黙ったままであり、ニードはなぜ彼女が黙ったままなのかわからず不思議そうな顔をして頭を掻いていた。
ただしそれは気まずいものではなく、むしろ不思議と心地の良い沈黙だ。そしてそのまま、どちらともなく手をつないでしばらく歩く。
幻影旅団団長・クロロ=ルシルフルから仕事を命じられるのは、その数時間後のことである。