「いっつつ……まったく、どうしたんだキルのやつは……?」
「あ、ゼノじいちゃん! 大丈夫?」
「ああ。にしてもミル、これは一体どういうことじゃ? キルに何があった? 走り去るとき、えらく憔悴しとるようだったが」
「いや、それが俺にもよくわかんなくてさ。ただニードの話を聞かせてくれ、って頼んだだけなんだけど……」
「なに、ニード!? 今ニードと言ったか!? 待て、キルは奴のことを知っとるのか!? アイツには尻尾の先すら掴ませてなかったはずだが……」
「あ、そうだったそうだった!! そうだったよじいちゃん、言うの忘れてた!! それがさそれがさ、キルってば家出したあとハンター試験受けたらしいじゃん? あいつ、そこでニードと会ったんだって!! ほら、今ここにキルを追いかけてきたっていう友達のやつら来てるけどさ、そいつらがニードの知り合いだって言ってるらしいんだよ。多分、間違いない情報だと思う!」
「ほぉ、あいつがか! ここしばらくはとんと来なくなっちまっとったが、そろそろまた来る頃かのぅ……」
「来たらいいよね!! ……あー、にしても聞きたかったなぁ、ハンター試験の話!」
「はっはっは、それはあやつ本人が来た時に直接聞くことにしとったらいいじゃろが。にしても、確かに楽しみじゃのう……」
◇
数分の全力疾走の後、無事(と言っていいのかどうかは判断しかねるが)父の部屋へとたどり着いたキルアは、深く深呼吸をし、煩わしく鼓動する心臓を落ち着けてから、静かに戸を叩いた。
先ほど愚兄に与えられた衝撃は未だに抜けきっておらず、恐怖も心にこびりついたままだったが、いちおう流れ続けていた涙は既に拭ってあった。涙のあとも綺麗に消え去っており、表面を取り繕うことに長けているキルアを持ってすれば、彼の姿が号泣した直後のものだと気づける人間はほとんどいないだろう。
「入れ」
扉を開けた先で――厳格なる父は、静かにこちらを見つめていた。
痛いほどの静寂に満ちたその部屋の中で、キルア=ゾルディックは緊張した面持ちで対面に座す男を見つめていた。
そこにいるだけで他者を威圧する、圧倒的な存在感を放つ男であった。
波打つ金の長髪に鍛え上げられた頑強なる肉体、岩のように彫りが深い顔に狼のような鋭い双眸。奇怪な標本や生物が鎮座する部屋の最奥、切り取ったように白いクッションの塊に腰掛けている男の姿は、まさに命を奪い合う世界に生きている者のそれだった。
シルバ=ゾルディック。
悪名高き暗殺一家・ゾルディック家の現当主であり、キルア達兄弟の実の父である。
厳然とした支配者、崇敬すべき人格者、偉大なる父――キルアにとって、シルバ=ゾルディックとはそういう男であった。
「キル」
腹の底まで響くような、重く低く威厳のある声に、俯き気味だった顔をゆっくりと上げる。
こちらを射抜くような父の視線と、弱々しい自分の視線とが交錯する。
たったそれだけで、緊張から頬に冷や汗が一筋流れた。
「友達が出来たって?」
「……、うん」
単刀直入にも程がある問いに、言葉少なに答える。
普通の家族としてはあるべき姿ではないかもしれないが、これがキルアと父との常の会話の形であった。
「どんな連中だ?」
「どんな、って……一緒にいると楽しいよ」
「……そうか……試験はどうだった?」
「ん……簡単だった」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
部屋が静寂に包まれる。
気まずいような、穏やかな気持ちになるような、不思議な静けさだった。
「キル……こっちに来い」
唐突に、父が切り出した。
「え……?」
「お前の話を聞きたい」
咄嗟に反応できないキルアに構わず、シルバはズバズバと端的に告げてくる。命令ではないが、人を自然と従わせてしまうような、不思議な力を持つ父の口調。
「試験でどんなことをして、誰と出会い、何を思ったのか……どんなことでもいい、教えてくれ」
「――……うん」
ヒュウウウ、と。屋敷の最奥にある父の部屋、そこへ繋がる石造りの大廊下に、静かに風が吹き込んできた。
「――でさ、そしたゴンがなんて言ったと思う? 『足は切られたくないし、まいったとも言いたくない』だって! わがままだろ―――?」
「はははは、面白いコだな。……キル」
「?」
「友達に会いたいか?」
「――……、」
「遠慮することはない。正直に言え。……思えば……お前と親子として話をしたことなどなかったな。俺が親に暗殺者として育てられたように、お前にもそれを強要してしまった。俺とお前は違う……お前が出て行くまで、そんな簡単なことに気づかなかった」
「…………」
「お前は俺の子だ。だがお前はお前だ。――好きに生きろ」
「――――」
「疲れたらいつでも戻ってくればいい。……な?」
「――――」
「もう一度聞く。仲間に会いたいか?」
「――うん!!」
「わかった。お前はもう自由だ。だが、ひとつだけ誓え」
言って、シルバは親指の腹を噛みきった。
ブチッ、と激しく生々しい音を立てて、深く皮が食い破られる。
紅い血が垂れた。
「絶対に仲間を裏切るな。……いいな」
無言で、キルアも親指の腹を食い破る。
「誓うよ。裏切らない――絶対に!」
血に濡れた親指の腹と腹をぶつけ合い、キルアは父に向かってそう誓った。
◇
「――と、じゃあ俺いくね」
「いや、待て。キル、まだ話が……いや、話してもらうことが残っている」
クッションの山から立ち上がり、リュックを手に取りかけたキルアの背に向かって、シルバは意外にもそう言った。
感動的な場面(といっても本人たちは自覚していないが)を少し壊してしまうような常の父らしからぬ言動に、キルアは首をひねる。
一瞬、嫌な予感が頭の中を過ぎった気がしたが、即座に脳内から叩き出した。愚兄は仕方ないにしても、さすがにこの父はないと思う。というか、ここまでで不審な点は見つからなかった。いつも通りの、絶対なる父だったはずだ。
だから、今かけられた言葉の真意が、キルアは本当に掴めなかった。
「? なに?」
「俺はハンター試験でのことをなんでもいいから話してくれ、といったはずだ。確かにゴン君やレオリオ君、クラピカ君たちの話は聞いた。いい経験だったろうと思う。しかし、お前にはまだ話していないことが――話していない奴がいるはずだ」
「え……」
その瞬間――キルアは自分の肌が粟立つのを明確に感じた。
何故だろうか、その先を聞いてはいけない気がする。それを聞いたら、何というか、もう戻れなくなる気がする。なんなのだろうか、この感情は? 聞いてはいけない? 戻れなくなる? どういうことだ。親父にはその心配はないはずだ。ここまでの親父の姿は注意深く見ただろう? いつも通りだったはずだ。大丈夫、親父があいつの影響を受けているはずがない。親父があいつの語った事実を認めるはずがない。親父があいつの話を求めるはずが――――――
ぐるぐるぐるぐると渦巻いていく思考とは裏腹に、キルアの体はまるで金縛りにでもあったかのように指先すらも動いてくれない。喉は異常なまでに乾き、目の奥がじんわりと痛み、体中が尋常ではない緊張に包まれていく。何か声を発さなければ、何か行動を起こさなければ―――
「―――ぁ……」
必死の思いでキルアが発した掠れる声は、しかし父の声によって綺麗にかき消された。
「キル、お前はまだニードの話をしていないだろう? ぜひ聞かせてほしい」
キルアが最後に見たのは、穏やかな笑顔を浮かべ、その力強い眼差しの奥に少しばかりの好奇心を宿した、いつもとは違う父の姿。
その次の瞬間、キルアの意識は途絶え―――真っ暗になった目の前が回復した頃には、彼は父に見送られて退室していた。
記憶の中の空白の時間に何があったのか、キルアはよく覚えていない。
◇
風が吹き込む大廊下の中途で、キルアは俯きながら立ち尽くしていた。
薄暗い石造りの道の真ん中に立ち尽くすその姿は、さながらリストラされ人生に絶望したサラリーマンのようであり、暗がりに潜む幽鬼のようであった。
「…………んで」
掠れた声で、小さく呟く。
小さすぎる呟きは音が反響しやすいその廊下の中ですら響かないほどに小さく、身を縮こまらせて俯きながら肩を震わせている彼の絶望がどれだけのものなのかを物語っていた。
リュックサックを肩がけにした彼は小刻みに震えながら、
「……なんでだよ……なんでなんだよ……」
そして顔を上げ、突如として彼は走り出した。
風を切り、心臓を嫌な速さで鼓動させながら、キルアは全力疾走する。
その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
涙と鼻水を垂れ流しながら――つまるところ号泣しながら、キルアは叫んだ。
「なんで親父まで毒されてんだちくしょおおおおおおおおおおおお!! おかしいのはブタ君だけで十分だっつぅのおおおおおおおおおおおおおクソったれええええええええええええ馬鹿じゃないの馬鹿じゃねぇの馬鹿じゃねぇんですかねええええええええええああああああああああああますますあいつの話が真実味を帯びてきたあああああああああうそだうそですだれかうそだと言ってくれええええええええええええええええカルトはそんな子じゃねえっつぅのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「――キル!! 無駄よ三人は帰ったわぶげらっ」
「やだああああああああ俺行くよおおおおおおおおもうせめてこんな家出て行ってやるううううううううどけよおおおおおおおおおおおうわあああああああああああああん!!」
ドドドドドドドドドドド!! とキルアは廊下の途中にある扉を開けて入ってきた母・キキョウ=ゾルディックを問答無用で弾き飛ばして爆走する。
立ち上るはずのない土煙を盛大に巻き起こしながら駆けていくキルアの姿を、横倒しになって血を吐きながら見つめるキキョウはこう思う。
(ああ、キル……なんて非道い行いができるようになったの……!!)
恍惚とした表情で、ピクピクと痙攣しながら彼女は思う。彼女はダメージによって力なくガクリと崩れ落ちながら、
(なんてナチュラルな冷たい対応……何気ない感じでの適度な無視……ああ、まるでニードさんのようだわ……!!)
結局、心中ですら最後まで爆弾しか残さなかった。
◇
真っ暗な意識の中で、キルアはぼんやりと薄目を開けた。
(あれ? 俺はたしか……)
なにかとてつもなく嫌なことがあって、号泣しながら爆走していたのではなかったか。いつの間に走り終えたのだろうか。いや、今も走っている最中なのだろうか? それにしては風を切る音が聞こえないし、それ以前に何も見えないが……
そこまでぼーっとしながら考えたところで、キルアの意識は再び呆気なく途切れた。
ただ―――意識がどこか深いところに吸い込まれる直前に、闇よりも真っ黒な何かと、うまく視認できない筒のような形の、空間の歪みとでもいうべきものを、キルアは目にした気がした。
目が覚めて数十分後――キルアは