蜘蛛の男の自由気ままな物語   作:黒豆博士

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第十四話 忠誠

※ゾルディック家その五 ミケ

 

 ゴン=フリークスは恐怖していた。

 夜の闇に、ではない。鬱蒼とした目の前に広がる森林に、でもない。黒で塗りつぶされた空に浮かぶ不気味なほどに青白い月でも、風が吹くごとに聞こえてくる恐怖心を煽る葉の擦れる音でもなく、

 目の前の“何か”に、ゴン=フリークスはただただ恐怖していた。

 フォルムは狼や犬のそれと酷似していた。三角形の耳、突き出た鼻、口から覗く犬歯、長い舌。毛むくじゃらの体。腰から伸びた尻尾。

 これだけならば、ただの犬でしかないだろう。――しかし、問題はその大きさだった。

 四足歩行の生物だというのに全高は三メートルに届き、鼻の先から尻尾の先までの長さはゆうに四メートルを超している。四肢は強靭でしなやかな筋肉に覆われ、その先ではひと振りすればそれだけで人間の一人二人殺してしまえそうな巨大な足がしっかりと地面を踏みしめている。指の先には刃物のような鋭い爪があり、口から覗く犬歯は最早大牙と言って差し支えない。

 紛れもない“怪物”。犬でも狼でもなく、もはやそれは新しい種族の生命体だった。常人ならばそれだけで恐怖し、人によっては恐慌状態に陥るであろう化物。

 だけど、ゴンが恐怖したのはそんなところではない(、、、、、、、、、、)

 確かに怪物ではある。想像の埒外の生物でもあったし、その身から放たれる威圧感(プレッシャー)は半端ではない。この距離からなら、腕を軽くひと振りするだけでゴンを死んだことすら気づかせぬままに殺すことができるだろう。

 ……、だが、それだけだ。

 ゴンが恐怖したのは、怪物と称されるほどの巨躯でもなく、見る者を圧倒する威圧感でもなく、すぐにでも殺されてしまいそうなこの状況でもなく――

 ――何も映し出さないその瞳だった。

 

 

 執事の応対に憤慨し、壁から中に侵入しようとしたゴンを止めたのは掃除夫のゼブロだった。

 

「どうしても試しの門から入りたくないのなら、私もあなたたちについて行きます。まぁほぼ百パーセント殺されるでしょうが、それは残っていようと同じこと。あなた達を死なせてしまったら私も死にます、坊ちゃんに会わせる顔がありませんから」

 

 という言葉が決定的だった。私憤のために他人に迷惑をかけることをゴンは決して是としない。

 ――そして、ゼブロによってもう一度開けられた“試しの門”から庭内へと入り、相対したのが、その“何も宿っていない”瞳だった。

 ドスン、とその巨躯が座った時、ゴンはその動作を冷や汗を流しながら睨むことしかできなかった。動けなかった。反応できなかった。声を出すことも唾を飲むことも瞬きすることすらできなかった。それほどまでに不気味で怖くて空虚な瞳だった。漆黒のそれは巨体故に相当な大きさではあるもののつぶらと言って差し支えないのに、感情が消え失せ内側からは何も映し出さず最早周囲を視認するだけの役割しか果たしていない瞳は驚く程にゴンに恐怖をもたらした。

 あれが完璧に訓練された猟犬ってやつですよ、とゼブロは言った。

 

「君が野山で見てきたどんな野獣とも違う生き物です」

 

 ギチギチと。まるでブリキの体になったかのようにうまく動かない首を無理矢理に動かして、ゴンはもう一度ミケの瞳を見る。真正面から見つめ返す。――脂汗が、全身の水分が汗となったかと錯覚させるほどに、どっと吹き出した。

 

「ミケは今、君たちの姿と匂いを記憶しています。それ以上の感情は持ち合わせていません。機械と同じです。――命令の条件が満たされれば、毎日顔を合わせている私をも躊躇いなく攻撃します」

 

 ゴン君、こいつと戦えるかい、とゼブロは問いかけた。

 

「いやだ、怖い。絶対戦いたくない」

 

 本当に素直な子だ―――慈しむように目を細めながら、ゼブロは言った。

 

ミケ(きかい)が認めるのはね、主と同等以上の実力を持つもの―――いや、自分の主(しようしゃ)になる資格がある者だけなんですよ」

 

 ――さっき言っていたけれど、ミケは怖いでしょう? という、唐突な問い。

 

「……、」

 

 ゴン=フリークスは無言で肯定した。当たり前だ、怖くないわけがない。怖い。あの虚ろで空っぽな瞳が怖い。温度を持たない瞳が怖い。何も映し出さない、一方通行で取り込むだけの瞳が怖い。黒で塗りつぶされた、機械のようなあの瞳が怖い。

 

「…………ミ、ケ」

 

 絞り出すような、震える声。巨躯の番犬は身じろぎすらしない。それは静かに耳を傾けているわけではなく、ただ告げられる言葉を正しく認識しようとしているだけだ。

 すぅ、と深く息を吸う。ゴンは空を見上げた。絵の具で塗りつぶされたような真っ黒な空だ。いつもなら見えるはずの星の光は、今は全く見えない。月の光だけが、空から地を照らす唯一の明かりだ。

 まるで今の俺みたいだ、とゴンは思った。全身を真っ黒な恐怖に支配されながらも、唯一通じる手段を持っている。

 もう一度、深く息を吸い、ゴンは言った。

 

「あの、さ。もうすぐ、ここにニードが」

 

 ズァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!! と。言葉と同時、一瞬にして世界が土煙で埋め尽くされ、木々を薙ぎ倒し地を抉るほどの暴風が吹き荒れた。

 地面からゴンを引き離さんと吹き荒れる暴風に、両足で地を踏みしめ片手で土を掴んでゴンは必死に抵抗する。飛んでくる砂のひと粒ひと粒が、あまりの速度によってまるで礫のような威力で総身を打ちつけてくる。目に入っては堪らないため、固く両目を瞑り風に押されながらも使っていないもう片方の腕を動かして顔をかばい、ひたすらに風が吹き止むのを待つ。背後に立っていたクラピカとレオリオの二人は勿論、すぐ近くにいたゼブロの様子すら確認する余裕はない。正直、咄嗟に反応してこうして踏ん張れているだけでも既に奇跡だ。

 数秒か、十数秒か、数十秒か。どれだけの時間が経ったかは分からなかったが、下手な嵐よりよほどひどい威力だった風が止んだ。

 パラパラと顔や髪から落ちてくる砂塵に気をつけながら、うっすらと両目を開ける。

 ――辺り一面惨状だった。

 最初に聞こえてきた音の通りに周囲一帯の木々は残らず薙ぎ倒され、地面は暴風の発生源を中心として放射状に大きく抉れている。暴風の発生源、つまりミケのいたところを始め、まだ所々で土煙がもうもうと上がっている。

 背後に二つ、すぐ近くに一つの気配を感じ、ゴンは振り返った。

 

「クラピカ、レオリオ、ゼブロさん! 大丈夫だった!?」

「………ぉ、おーう。だ、大丈夫だぞー……」「………ぁ、ああ、私も平気だ、が……」「ええ、大丈夫ですよ」

 

 レオリオとクラピカの頬がピクピク引きつっているのを見て、ゴンが訝しげに首を捻りかけたところで、一人だけ平常運転だったゼブロがちょいちょいとゴンの背後を指差してくる。

 

 振り返ると、ミケが腹を仰向けにして寝転がっていた。

 

「「「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、」」」

 ご丁寧に足まで綺麗に揃えた犬にとっての忠誠を示すための動作を空虚な瞳のままやられてもシュールなだけだった。

 仲間二人と同じく頬を引き攣らせながら、ゴンは先ほどの言葉の続きを言う。

 

「――――ニードが来るはずだったんだけど、来れなくなったって」

 

 ミケが残像ができるほどの速度でもって姿勢を戻した。

 そのままスタスタと歩いていて去っていくミケの背中を口をポカンと開けたまま見つめ続ける三人を見て、ゼブロが朗らかに笑った。

 

「もし強さを求めるのなら、自分の実力でミケにあれをやらせられるぐらいになってください。君たちにはそれだけの才能がある」

「「「いや無理ですどう考えても」」」

 

 即答だった。

 

 

※ゾルディック家その六 使用人の家

 

 

 馬鹿げてる、と一蹴することはできなかった。

 ミケを見送ったあとゼブロに連れてこられた“使用人の家”は、家中のあらゆるものがとてつもない重量を持つという馬鹿みたいだがその実めちゃ効率的に体を鍛えられるトレーニングハウスだった。玄関の扉片方二〇〇キロに始まり、スリッパも片方二〇キロ、湯呑ですらも二〇キロ。椅子まで六〇キロの重量を持っているのだから不便極まりない代わりに生活するだけで鍛錬になるのは当たり前だった。

 馬鹿みたいだが、馬鹿げてるわけじゃない家だった。

 そしてゴンたち三人は、滞在期限である一ヶ月の間で、“試しの門”が開けられるようになるまでその家にて特訓することと相成った。

 

 ――ミケの怖さはわかったでしょう? ならこの家で“試しの門を”開けられるようになるまで特訓しませんか?

 ゼブロの問いに対する答えは三人揃ってイエスだった。そもそも自分が勝利している姿を想像することすらできない驚異を相手に侵入を試みようとすること自体が間違っている。というか、あの底が知れなくてもしかしたらヒソカ以上の化物かもしれない黒衣の男でようやく認めてもらえるレベルならば自分たちがどう背伸びしても届かないだろうというのは容易に理解できた。唯一の頼みだったコミュニケーションも取れないんじゃもうそれは無理ゲーである。この成り行きは当然と言えた。

 そして。そんな成り行きであるにもかかわらず、ゴン達の士気は存外高かった。

 理由は二つある。一つはこの家での鍛錬でなら、自力で扉を開けてキルアに会いに行けるかもしれないという希望を抱けたこと。そしてもう一つは、昔話してもらったことがあるとゼブロから語られたニードの強さの秘密の一片である。

 ゼブロ曰く、彼の実力は才能ではなく努力によるものらしい。

 当初は信じられなかった三人だったが、ここで生活するうちにそんな思いは消えていった。聞くところによれば、才能というただ一点で言うのならばニードよりもゴンたち三人の方が遥かに勝っているらしい。あの黒衣の男より強くなれるかもしれない、と言われれば、奮起するも当然のことだった。

 ……まぁ、そんなのは理由の一端なわけで。

 

「四〇キロの斧で薪割り百本。ちなみにニードさんは七歳の頃には三〇〇キロのものでできてたそうですよ」

「わかった、わかったよゼブロさん!! 俺頑張るから! 休まないからっ! だからそういうのを傍で言い続けないでくださいッ!!」

「四〇キロの重りをつけて腹筋背筋スクワット腕立て伏せ各一〇〇回ずつ三セット。ちなみにニードさんはここに来たとき八歳のときには一〇〇〇回ずつ十セットでももう余裕だった、と言ってましたよ」

「わーったよジイさん!! ちょっと休んだ俺が悪かったから! 俺医者志望だけどこっから休まねーで体鍛えっから! だから頭の近く立ってブツブツ言い続けるのはやめてくれッ!!」

「さぁ、一日の始まりに“試しの門”に挑戦しましょう。ちなみにニードさん曰く『俺なら六歳の頃にゃできた。努力が足りねーな努力が』らしいですよ」

「あのすいませんなんか惨めになるのでちょっとやめていただけませんかっ!? というか何で一字一句覚えてるんですか!? いやそうじゃなくて私たちは何か気に触ることをしましたかッ!?」

「いやぁ、皆さんの才能につい嫉妬しちゃいましてねぇ。まったく、成長が早い早い」

「「「まさかの狭量ッ!?」」」

「失敬、今日から特訓メニューの回数と重しの重量をそれぞれ倍にしましょうか」

「「「理不尽ッ!!」」」

 

 信じる信じないではなく、ただ信じなければ到底やっていけなかっただけなのだが。


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