16
仁矢――いや、ベヒモスは演技でも挑発でもなく心の底からむせびあがった高笑いを我慢できなかった。
死んだ。日和 赤奈がたったいま目の前で死んだ。
憎き怨敵と愛してやまなかった幼馴染との間にできた汚らわしいキマイラ。それがようやくこの世からいなくなった。これが笑わずにはいられない。
5年前に黒凪 仁矢を殺害、その記憶を強奪、そして、体の皮を剥いだ。
そして、文字通り人の皮を被った悪魔は担当医として赤奈に近付くことができた。
綿密で気の遠くなるような計画を実行し、それがついに成就する。
だが、まだ計画は終わってない。むしろここからが本番だ。
本当の目的は絶望した天使から発生するマイナスエネルギーが目的だからだ。そのエネルギーを吸収することで失われた力を取り戻す。それがベヒモスの真の願いだ。
しかし、まだ足りない。
圧倒的な絶望が体中に流れ、細胞を活性化させていくが、それでも全盛期の力を取り戻すには充分ではない。
ならば、更に深く奈落へと突き落すだけだ。それだけの切り札をこちらはまだ確保してある。
ベヒモスはニヤッと意味ありげに笑った。
「死なないで……」
心からそう思った。うわずり、絞り出すように呟いた。
段々と心が冷たい何かに侵されていくのを感じた。きっとこれが絶望というやつで、それが心を黒く塗りつぶせば、には自分は自分でなくなってしまうだろう。
しかし、もうどうしようもない。
なんせ、自分が愛してやまなかったたった一人の男が死んでしまったのだから。
「置いていかないでよ……」
他人から見れば失恋した少女が大げさに泣いているだけかもしれない。他にも男はいる。星の数ほどに。そう諭されても無理はない。
だが、彼女はここ数年笑ったことはなかった。泣いたことすらなかった。ただ周囲に曝され、一人で孤独に自分を守ってきた。その過程で不必要な感情を剃り落していた。
そんなユウの感情を取り戻したのは紛れもなく赤奈である。
赤奈の不器用な温かさに触れて笑い、泣いて、そして――――恋をした。
彼でなければありえなかった。世界中どこを探してもいない。唯一無二の存在。
それが自分の手の届かないところに行ってしまった。もうどうしようもない。
「おつかれちゃん。どうや、今の気分? 絶望に浸っちゃってる感じ?」
エコーのかかった声だが、調子のいい関西特有の訛りで誰かは分かった。
「いやー、本当に死んでるな赤奈君。一応、医者やから死亡時刻見とかなな。…………午後11時12分。ご臨終です…………なんちゃって」
げらげらと笑いだすが特に何も思わなかった。
長年相棒として戦ってくれた神器〈天旋弓〉で射殺すことも、遺体の傍に転がっている〈銀鱗〉で切りかかることもできなかった
赤奈の仇のはずなのに不思議と憎いとは思わない。殺意すら湧かない。
ここまで自分が壊れてしまったのだと朧げながら理解した。
もうなにもかもどうでもいい。このまま満足するまで赤奈の傍に居て、彼の後を追おう。それが一番いい。
いつにしようか? 五分後? 一時間後? いや、今がいい。それがいい。
憔悴しきったユウに張り合いの無さを感じたのか、ベヒモスはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
だが、それでも仁矢は目的を完遂させるために精々煽りのたっぷり含んだ物言いで耳元に囁く。
「いやーもうね。まさか、天使ちゃんがここまで弱るとは予想外やわ。僕の予想では激昂した君がボクに切りかかる予定やったんやけど、まさかのめそめそモードとは……恋する乙女恐るべし」
「殺してください……もうどうでもいいんです。早くしてください」
「いやいや、それなら自分でやりーや。僕血で汚れたくなーい」
ユウは少しも身じろぎせず、答えた。
「……多分、彼は自殺なんて、望んでいません。だから、殺してください」
流石にうんざりしてきた。自分から殺されるのと自殺に何の違いがある?
まぁ、いい。どっちみちやるのだ。今は沈み込んでいるが、これを返せば多少の感情の起伏を覗えるはずだ。
ただし、下の方にしか堕ちないが。
ベヒモスは手の平にテニスボールほど紅いい球体を浮かばせる。ドロッとした血を彷彿させる不思議な球がふわふわと浮遊している。
「君は忘れているやろうけどさ、赤奈君を殺したら記憶を返すって言う契約あったやろ。悪魔は契約にはうるさいねん。契約通り君の前世の記憶返したるわ」
返事も待たず、ベヒモスは己の呪印術で奪った記憶の塊をユウに返した。
絶望に心を染め上げられようとしていたユウに前世の記憶が奔流する。
「あっ……ああ」
まるで電気ショックで無理矢理起こされたような感覚だ。
頭がビリビリと痺れを発し、大量の情報が舞い込んでくる。
記憶が靄を抱えたまま蘇る。あれだけ待ち望んでいたのに何も感じない。テレビを流し見するように記憶の映像を眺める。
優しく頼りがいのある父。父は世界でも5本指に入る会社を継ぐ予定で、今は重役として会社を経営している。
そして、そんな夫を愛してやまない妻である母はいまだに父と円滑な関係を築いている。趣味は紅茶でよく一緒に飲んだものだ。
しかし、そんな二人よりも記憶の大部分を占めているのが顔の思い出せない兄だった。いつも自分は塞ぎがちだった兄を引っ張り、冒険へと出かけていた。
ある時は内緒で屋敷を抜け出し、裏山に生息する野兎を追いかけまわした。
またある時は、秘密で兄を連れだし商店街にあるクレープを一緒に食べもした。
そして、極めつけは兄が入院することになり、離れ離れになるのを嫌がった自分が駄々をこね、一緒に病院に寝泊まりした時だ。
昼間に聞いた幽霊の噂を確かめたくなって――決して怖かったとかそう言うのではない――寝ている兄を無理やり叩き起こし、半ば廃棄された旧棟へと突撃した。
その後は前世の中で一番怖い思いをしたが、兄が一番かっこよかった日でもあった。事後はこっぴどく怒られてしまったが……。
記憶の波に呑まれながら、ふと思った。
どこかでこれを見たことがある。
いや、違う。そうではない。見たことがあるのではなく聞いたことがあるのだ。
いったい誰に?
しばらく、考え込むが思い出せなかった。
大量の情報を一気に受け取り、まだ混乱しているのだ、と推測する。
ユウは気付いていないだろうが、記憶を取り戻し、心に刺激を与えられたことが原因で考える力を取り戻しつつある。
だが、顔の忘れた兄も含め思い出せないまま最後のページにたどり着いた。
流れる映像は自分の死ぬ少し前だった。
部屋に入ると兄が涙を流しながら鏡に叫んでいた。
「やっぱり!」「僕は違うんだ!」「なんでだよ!」と普段の彼からは想像できない穏やかではない言葉を吐いていた。
部屋に入って来た自分と目を合わせると更に深くしわを寄せ、部屋を――屋敷を飛び出した。
わけもわからないまま後を追いかけた。
そして、問題の十字路に差し掛かった
発見した野と同時に兄の体がライトの光を浴び、自分は――――――
映像がブラックアウトしたのと同時に全てを思い出した。
「…………お兄ちゃん、大好き」
死に際に発した言葉が再生された。
すべてを理解した時、それを押し潰さんばかりの否定がユウを襲った。
嘘だ。こんなの。何かの間違いだ。だってこれはこの記憶は――――――
「思い出したようやな。天使ちゃん。いや、本名で読んだ方がいいな? なぁ、日和 結希ちゃん?」
「ち、ちがっ……………わ、たしは」
「みとめーや。好きになってはいけない人を好きなり、最愛の赤奈君を殺した。この事実をありのまま受け入れろ」
憎悪の言葉よりも愛の囁きでも絶対に敵わない事実に心をかすめ取られた。
そうだ。自分は決して好きになってはいけない赤奈《おにいちゃん》を愛してしまい、最愛である兄《あかな》を追い込み殺してしまった。
なぜ運命はこんなにも残酷なんだろう。
それがユウの――日和 結希の最後の言葉だった。
絶望などよりも重く深く得体の知れない何かがあっという間に結希の心を蝕み、空っぽにした。
「ようやく、ようやくだ。力が……真の力が戻る!」
そして、計画を見事成熟させたベヒモスは純度の高い負のエネルギーを大量に食らいながら喜びに震えていた。
人間の皮膚にひびが入っていき一機の崩れ出す。そこから彼の本当の姿が現れた。
一回転した角のついたヤギのような顔。悪魔の証として異様なくらい光るクリムゾンレッドの瞳。肌の色が黒く染まっていき、蛇のような斑の尻尾が生える。2メートルは優に超えた筋肉質の悪魔は夜空に向かって声高く勝利の咆哮をあげた。
なぜか早く投稿することができました。
というのもこの話やりたい話だったのですらすらと書くことができたんですよね。
さて、ユウの前世も判明し――おそらくみなさんはわかっていたはず――仁矢の計画も完遂しました。
これからどうなるかは決まっているのでもしかしたらまた早く投稿できるかも……
では、感想などお待ちしております。