俺とシアちゃんだけで暮らしていた、小さな家の前に立つ。
国を息子に任せた後、隠居した小さな我が家だ。
フィーにしばらく隠れているように言い、気を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
そして扉を叩いて、その言葉を口にする。
「ただいま、シアちゃん」
家の中からこちらに走ってくる足音が聞こえる。
シアちゃんもきっと寂しかったに違いない。
離れていたのはせいぜい3日。
それでも、今までずっと一緒にいたのだから長い時間と言えるだろう。
今回は事故が重なったために帰りが遅れたが、いつもの喧嘩なら1日で仲直りしていたのだ。
素直に謝ろう。
フィーの事も正直に話して、親子3人で静かに暮らそう。
そんな淡い期待を胸に抱く俺の前で勢い良く扉が開く。
真っ先に見えたのは、小さな足の裏だった。
「ただいま、シアちゃん」
どうやら扉が開いた瞬間に蹴りをくらって意識を失ったらしい。
地面に倒れた俺の上に馬乗りになっているシアちゃんに、もう一度声を掛ける。
「何が『ただいま』じゃ! あれから何日経ったと思っておる!」
胸倉をつかみ、往復ビンタを浴びせて来る。
俺が悪いのは確かだ。
無抵抗のまま、それを受け入れる。
「何故、抵抗せぬのじゃ? おぬしが悪いと自覚しておるのか?」
俺に喧嘩の原因があるのは事実だ。
だが、一つ言わせてもらう。
「俺が悪いのは認める。でも、腕の動きを封じておいて、『何故、抵抗しない?』って言われても困るんだけど」
俗に言う『気を付け』の姿勢で横たわる俺の腹の辺りに馬乗りされているのだ。
つまり、腕ごと押さえ付けられているので動かそうにも動けない。
シアちゃんもやっとそれに気付いたのか、ビンタを放つ手が止まる。
その瞬間、横から飛び込んできた小さな影がシアちゃんを突き飛ばす。
「なっ?!」
それほど強い力では無かったが、驚いた声を上げて、シアちゃんが俺の体からズレ落ちる。
「おとーさんをいじめないで!」
俺を庇うように両手を広げ、そう叫ぶフィーの姿に感動を覚える。
それと同時に、地獄の門がゆっくりと開く音が頭の中に響いていたのだった。
「お父さん? ……なるほど、そういうことか」
あれ? 予想してたリアクションと違う。
てっきり、メラゾーマかイオナズンが飛んでくると思っていた。
彼女は深く考え込むように何度もうなずいている。
「あの、アリシアさん?」
なんとなく丁寧な言葉になりながら、シアちゃんに尋ねる。
シアちゃんは、幼い少女のような顔を真っ赤に染めると俯きがちに言葉を紡ぐ。
「……おぬしが、そ、そういうプ、プレイが好きなら、そ、その、パ、『パパ』と呼んでやってもよいぞ?」
その瞬間、全身に鳥肌がたつ。
何かとんでもない勘違いをしているようだ。
プレイってなんだよ?!
俺は、そんな変態的な趣味を持っていると思われているのか?!
しかも、フィーの存在は完全無視かよ?!
「おねえちゃんも、おとーさんのこどもなの?」
無視された形になっていたフィーが、無邪気に質問する。
「おぬしは、こやつの愛人か何かか?」
全く人の話を聞こうとしないシアちゃんが、悪意たっぷりに詰問する。
どう考えても噛み合っていない。
「「ん?」」
ふたり揃って首をかしげる様子はそっくりで、とても可愛らしいものではあったが。
「おかーさーん!」
フィーが満面の笑みで、シアちゃんに抱きつく。
反対にシアちゃんはうろたえている。
「あるじ、この娘はなんじゃ?」
フィーに説明した途端、シアちゃんに飛び付いてしまったので、まだ説明していない。
母親に甘えるように、胸に抱きついて離れようとしない少女の様子に戸惑っているようだ。
「俺とシアちゃんの子供だよ」
詳しい事は後だ。
今は端的にそれだけを伝える。
「は? な、何を言って……」
余計な事を話そうとする口を、唇で塞ぐ。
少し抵抗する素振りを見せるが、やがてそれも消えてゆっくりとこちらに身を委ねてくる。
「ふわぁ……」
フィーが驚いたように声を上げる。
夫婦仲の良い所を見せるのも、情操教育には良いだろう。
そう思いながら、唇を離す。
「さあ、家に入ろうか、フィー」
呆気に取られていた少女を促し、扉を開く。
「で、でも、おかーさんが……」
シアちゃんは、呆けた様子で地面にへたり込んでいる。
久しぶりで刺激が強かったらしい。
そばに寄り、耳もとで囁く。
「ほら、娘が心配してるよ」
その声に目が覚めたのか、正気に戻ったシアちゃんが声を上げようとする。
人差し指を口に当て、それを制すると、やがて落ち着きを取り戻す。
「……後で説明せよ。そ、それと、さっきのキ、キスの続きもじゃ、忘れるでないぞ」
「はいはい、可愛い奥さんの頼みなら、何でもお聞きしますよ」
腰が抜けてしまった様子の妻を両手で抱き上げる。
「こ、こら、下ろさぬか!」
手足を激しく動かし抵抗するシアちゃんをなだめながら、フィーと共に我が家へと足を踏み入れた。
久しぶりの我が家は3日前と何一つ変わることなく、いつもの佇まいを見せていた。
いや、正確には家族が一人増えるのだから、これから変わって行くのだろう。
「腹が減っておるだろう? 今、昼食を持って来るから待っておれ」
いつもの調子を取り戻したシアちゃんが、台所に入っていく。
あれ? ひょっとして、もう作ってある?
だとしたら、ヤバイ!
急いで、台所に駆けつける俺の鼻に、独特の刺激のある匂いが漂ってくる。
やっぱりだ。
やっぱり、あの『地獄スープ』だ。
「あるじ、そのような所で何をしておる。手伝わぬのならどかぬか」
絶望に打ちひしがれる俺を鞭打つように、シアちゃんの冷たい言葉が投げ掛けられる。
「フィー、おかーさんのおてつだいする!」
フィーが台所に駆け込んでいく。
戸惑うようなシアちゃんの声が聞こえてくる。
「うむ、ではこのパンをあちらのテーブルに持って行け。ゆっくりと落とさぬようにな」
「うん!」
かごに盛ったパンを両手で抱えたフィーが台所の戸口から姿を見せる。
「おとーさん、じゃま。あっちで待ってて」
娘にまで邪険に扱われた俺は、仕方なく席に着く。
やがて、昼食がテーブルに揃い、皆が席に着く。
「いただきます!」
フィーが元気良く挨拶をし、俺達も釣られて挨拶をする。
「いただきます」
スープをすくい、口に含む。
途端に脳天まで強烈な辛さが突き抜ける。
何十年という夫婦生活の中で知ったのだが、いつぞやの風邪の時のスープは香辛料の入れすぎではなかったのだ。
シアちゃんは味覚が極端だった。
極端に甘いものを好み、パンケーキがひたひたになるくらい蜂蜜を大量にかける。
そして、極端に辛いものを好み、時として死人が出るんじゃないかと疑うほど大量の香辛料を鍋に入れる。
このスープも元は、ただの野菜スープなのだ。
何時間も野菜を煮込み、適度な味を付ければ、最高のスープが出来上がる。
ただ、シアちゃんの考える適度がおかしいだけ。
それが俺命名『阿鼻叫喚地獄スープ』の正体なのだ。
「おかーさん、このスープおいしいね」
フィーが上げた信じられない賞賛の言葉に、心の底から驚く。
「うむ、そうじゃろう。わらわの作った料理なのじゃ、美味いに決まっておる」
シアちゃんは、フィーの言葉に感銘を受けたかのように、満面の笑みでうなずく。
「フィー、不味いなら不味いって言っておかないと、こればっかり作るようになるぞ」
あまりにも動揺した俺は、フィーがお世辞で言っているのだと期待した。
だが、返ってきた言葉はあまりにも無慈悲で残酷なものだった。
「フィーは、毎日でもいいよ」
「嘘だ! そんなことがあるはずがない!」
「あるじ、そんなにわらわの料理が気に入らぬのか?」
心の中で止めるつもりが、つい口に出してしまっていた。
「フィー、良いと言うまで、そちらの部屋に行っておれ」
「う、うん」
フィーもその場の雰囲気を感じ取ったのか、反論もせずにパンとスープ皿を持って隣の部屋に行く。
「さて、あるじ」
シアちゃんが、テーブルの上のスープ皿とスプーンとを手に取る。
これから起こるであろう惨劇に身をすくめる俺に向けて、シアちゃんがスープをすくったスプーンを近付けて来る。
「あーん。ほれ、さっさと口を開けぬか」
予想外の展開に動揺した俺は思わず口を開いてしまう。
それが惨劇の始まりだった。
「では、たっぷりと味わうがよい」
右手に持ったスプーンを引っ込めると、左手に持ったスープ皿から直接、俺の口に大量に流し込む。
想像もしていなかった量に吹き出しそうになるが、執念で飲み込む。
ここで吹き出せばどうなるかなんて、子供でもわかる。
全身に汗が吹き出し、頭と胃がキリキリと痛む。
口の中には既に感覚が無い。
『阿鼻叫喚無間地獄スープ』が全身を侵している。
やっと飲み終わり、解放されると信じていた。
「なんじゃ、もう終わりか。そんなに食べたいのなら、わらわの分も分けてやろう」
『極悪非道阿鼻叫喚無間地獄スープ』がさらに口の中へと注がれる。
満面の笑みを浮かべた妻の顔を最後に俺の意識は暗転した。
目が覚めると、ベッドに寝かされていた。
額には水に濡らしたタオル。
起き上がると、居間へと足を運ぶ。
「シアちゃん」
長椅子に座るシアちゃんに声を掛ける。
こちらからは顔が見えないので、怒っているかどうかは判別できない。
シアちゃんは振り向くと、唇の前に人差し指を立てる。
音を立てないようにゆっくりと近付いてみると、フィーがシアちゃんの膝を枕にして眠っている。
窓から外を眺めると、すっかり暗くなって月が空の頂点で輝いている。
よく見ると、部屋の中に淡い光の玉が浮いている。
シアちゃんが呪文で出したもののようだ。
ずいぶんと長い間、意識を失っていたらしい。
「あるじ、この娘の事情を話せ」
小さな声で、こちらへ説明するように促す。
アイアンアントの巣の事は胸に秘め、かいつまんでフィーと出会った経緯を説明する。
竜王の城で判明した事、そして、アルスの孫娘である事を。
「アルスの孫じゃと?!」
「しーしーしー、起きちゃうよ」
フィーが小さく寝返りをうつ。
どうやら目を覚ましたわけじゃなさそうだ。
「確かなのか?」
「ああ、ロトの剣を抜いた。間違いは無いと思う」
シアちゃんは窓から月を眺める。
アルスという名はシアちゃんにとって特別な物だ。
共に魔王と戦った仲間として、幼い頃から親しんだ兄として、恋焦がれた一人の男として。
「おぬしがどこぞで蒔いた種が発芽したのではあるまいな?」
こちらを向いたシアちゃんはどこか意地の悪い笑みを浮かべながら、そんな事を言う。
だから、俺はその問いに真面目に答えることにする。
「俺は、シアちゃんとローラ以外の女性を愛した事は無いよ」
「ふん。妻の目の前で他の女に声を掛ける男の言う事か」
少し頬を染めているところをみると、照れてはいるようだ。
「昼間のキスの続き……」
シアちゃんのあごに手を掛け、少し上を向かせる。
ゆっくりと顔を近付けると、そっと目を閉じる。
その小さな唇に触れようか否かの所で、フィーが目を覚ます。
「……おかーさん、どうしたの?」
キスに気を取られて、フィーの頭がずり落ちてしまったらしい。
咄嗟に離れて、何事も無かったかのように振舞う。
「……そろそろベッドで眠った方が良い。ここでは身体が冷えてしまうのでな」
少し残念そうなシアちゃんが、フィーを軽々と抱きかかえて寝室に運ぶ。
ああ見えて、彼女はかなり力が強い。
意識を失った俺を、ベッドに運んだのも彼女だろう。
「おとーさんとおかーさんといっしょにねるの」
小さな娘の小さな願いにそっとうなずく。
昼間の続きはどうやら出来そうに無かった。