星の距離さえ動かせたなら   作:歌うたい

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本編
『Prologue1』


◆◇◆◇◆◇◆◇

2つある星を、1つの名前で呼ぶという事を、柄じゃないと自覚しながらも、隣に座る小さな影に教えた記憶がある。

星屑1つすら見えない鈍色の雲に覆われた夜空とは反対に、見た目相応に瞳を輝かせながらはしゃぐソイツを見下ろして、溜め息。

例え空が晴れていたとしても、マフラーか厚手のコート辺りが恋しくなってくる秋半ばの肌寒い夜空には、あの星は輝いてはくれない。

春辺りに拝めるだろう一等星、そもそも見れる時季が違うなどという前に、科学によって汚染されたこの空が、都合良くあの星を見せてくれるのか。

 

まして科学の結晶である自分や、隣の存在に対しても平等に姿を明かしてくれるのか。

だとしたら、それはどんなに―――

と、不意に強く腕を引かれた。

見過ごせない感傷の跡をなぞる様な眼差しが、一瞬不服そうな色を宿す。

しかし、一度まばたきを刻んで開いた大きな瞳が、やけに楽しそうに煌めいて、まるでそこに星を見つけたような錯覚を抱いた。

……ああ、どうやらコイツは、懲りもせずにせがんで来るつもりらしい。

 

星の名前と、意味と、特徴と。

其処まで話しておいて、見ることは出来ないと言うのは、コイツに限らず誰しもが同じ願いを持つだろう。

見てみたい、と。

けれど、此処からでは、空が汚されたこの街からでは見れないだろうと言えば、それなら簡単、と彼女は笑った。

――なら、約束! 次の春、みんなでその星を見に行こうよって、ミサカはミサカは大提案!

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「その約束すら、果たせませんでしたとさァ」

 

「ハァ?いきなり空見ながら何言ってんだウサギ。月にでも帰りたくなったかコラ」

 

無駄に煌びやかなネオンが嫌に目に残るのにうんざりとして、視線を上にやったのが間違いだったのかもしれない。

ぼんやりとした意識の底、未だにこびりついた未練の痕を、ハッキリと思い出してしまった事に、溜め息。

薄らと灰掛かった雲の隙間に見えた星々 に、紅い瞳がスッと細くなる。

……どうせなら、今ぐらい星なんて見えなければ良かった。

自分の感傷に合わせて空の形が変わる方が余程恐いというのに、それでも彼――一方通行は傲慢な思いを正そうとはしなかった。

 

「おい、無視すんなコラ!」

 

「……無視してる訳じゃねェ、ウサギ呼ばわりもしっかり聞こえてますゥ」

 

漸くして意識をハッキリと安定させた所で、また溜め息。

意識の隅に追いやられた事に対してか、相手にされてない事に対してか。

或いは両方かで、兎も角いきり立っている目の前の少女に、ジトっと視線を落とす。

人の外見に合わせて、彼以外が聞けばピッタリだと思わず手打ちしそうな徒名は、聞き捨てならない。

ピシッと軽く指で額を小突いてやれば、 なにすんだと余計、火に油。

 

「……ったく、躾が成ってねェンじゃねェか、あのドS。教育、飼育、調教はアイツの仕事だろォがよ、なァ?」

 

「同意求めてんじゃねーよ! そーゆー話を振ってくんな、セクハラじゃねぇか!」

 

ガルルと唸りを上げる少女――板垣天使の反応は見ていて面白味があるのだが、どうにも今回の方向性は我ながらチープだったなと、分かり辛く頭を抱える一方通行。

噛み付くように暴言を振るう相手に対する流し方に、どうしても下品さが混じっていけない。

林檎みたく真っ赤になった天使の顔色に 、彼は少し反省した。

――親不孝通り、確かそんな如何にもな名前の場所。

立ち並ぶ建物1つとっても不穏当な匂いしかしないようなこの場所を歩くには、些か目立ち過ぎる二人組みを、けれどまるで避けるかの様に道が開けていく。

触らぬ悪魔に祟り無し、藪をつついて大蛇に食われるなど、以ての外。

似合わせた白いコートを着て、片や全身真っ白の青少年に、片や可憐な外観とは不相応にゴルフクラブを振り回す少女の二人は、間違いなく周辺の人物達に一歩引かれていたのだが、そんな事は彼らにとって些末な事柄であった。

 

「……ったく、せっかく今日のボウリングは久々にウチの軍配だったってのに、テンション下がっちまった」

 

「元々そンなに高く無かっただろォが、さっきまで暇だ暇だァ喧しかった奴がよォ……うン?」

 

余程気に入らなかったのか、綺麗な形の眉をムスッと潜める天使の様子に、自責だと分かっていながらも溜め息を吐き出そうとして、気付く。

コートのポケット越しとはいえ十分に震える携帯電話を掴んで、そこで確信。

着信の相手先と、その内容。

迷惑メールでも無い限り、きっとそういう事なんだろうと一方通行は更ける夜空を見て、かぶりを振った。

 

「あァ……そォいや、そンな時間か」

 

やけにやるせなく呟いて、ディスプレイに映る名前を見るまでもなく通話ボタンを押す。

ピッ、と短く電子音が間を作って、すると思わず背筋がピンと伸びてしまうような凛とした声色が、彼の耳に届いた。

 

『ん、もしもし……一方通行?』

 

「あァ、ハイハイ。一方通行で合ってンよ」

 

じゃなければ色々と問題だろうと思いながらも、まず相手の確認を律儀にするところは相変わらず『らしさ』が伺える。

どんな問答をしてるんだと怪訝そうに見上げる青い瞳に苦笑しながらも、分かってるからと視線を流すように手をヒラヒラと振る一方通行。

寧ろそのやり取り1つで天使が電話の相手を分かってしまっている事で、彼女にとっても通話先の女性とは面識が深いのだろう。

 

『全く、お前は今が何時か分かっているのか? もうすぐ10時になるぞ、早く帰って来ないか』

 

「ン……まァ、そォだな。だが直ぐには帰れねェよ、ちと寄ってく場所があンだ」

 

其処までいって、ポンと未だに彼の隣で自分を見上げていた小さな頭を軽く撫でれば、途端に天使の頬がつまらなそうに膨らんだ。

それは言わば合図の様な物なのだ、彼と彼女にとっては。

今日は此処でおしまい、という事の。

 

『……そうか、今日は天使も一緒なんだな。ちゃんと送って行ってやるんだぞ』

 

「だからァ、寄っていくって言ってンだろ……」

 

寄る場所があると聞いて直ぐに天使と一緒だと感づいた癖に、わざわざ後押しする律儀さに一方通行も脱帽を禁じ得ない。

ホントに生真面目が服を着て歩いている様な女だとは思うが、これでも彼の知る昔よりは大分砕けてきているのだから驚きだ。

伊達に――鬼小島――と、彼女が勤める仕事先で同僚や、生徒達に恐れられてはいない女傑である。

 

『あ……と、それと、だな一方通行。晩ご飯はもう食べている、よな?』

 

「ン……あァ、いや」

 

唐突に芯の通った声はナリを潜めて、もそもそとどうにも彼女らしくない弱々しさを纏う。

その反応につい歯噛みをするように言葉に詰まってしまうのを煩わしく思いながら、一方通行ははっきりと答える。

 

「まだ、食ってねェよ」

 

ボウリング前に軽くジャンクフードを摘んではいたのだが、なんだか女々しい梅子の言い回しに十中八九、晩飯を用意しているんだと理解した。

線が細いのは身体だけではなく食もまた同じではある一方通行、実際あまり空腹感は無かったのだが、彼なりの空気の読み方ではあった。

 

『そ、そうか……分かった。い、一応、晩ご飯は作ってあるんだが、その、な……』

 

しかし、彼女が喜ぶであろう返答に対しても、どうにも歯切れの悪さが残る。

さめざめ、もそもそ、と普段の自信に満ち溢れたあの鬼小島は何処へやら。

彼女を慕う人間が聞けば思わず耳を疑ってしまいそうな似合わなさであるが、一方通行にしてみればもはや慣れ事だ。

恐る恐るといった似合わぬ様子に、また1つ、確信する。

――また失敗したな、こりゃァ……――

静寂を付け足したようなべったりとした夜空を見上げながら、紅い瞳をそっと伏せる。

目を剥くような鞭捌きとは裏腹に、料理に関しては呆れるくらいに不器用である小島梅子の女性としての弱点を身をもって知っている一方通行からしてみれば、時々とはいえ彼女に食卓を任せる限り下手なモノを出されるのは慣れ事と言っても良い。

ただ、失敗する度に、叱られるのを待つ子供の様な、気丈さの欠片もない小島梅子の姿を見せ付けられるこの瞬間だけは、何故だか慣れてはこなかった。

 

「……良いから、ちゃンと残しとけ。勝手に捨てンなよ」

 

半分ぞんざいに話を切り捨て、返事も聞かないで通話を一方的に終了させた一方通行。

淡白に思える行動にも見えるのに、妙に最後の声色だけは優しく聞こえるのだから、その仄白い横顔を見上げる天使としては、ちょっと複雑な気持ちに陥るのである。

自然を装って、彼の細々とした指先を手持ち無沙汰気味に爪で弾く程度には。

 

「んだよ、マザコンヤロー……ウチはまだまだ物足りねぇぞー」

 

「誰がマザコンだコラ。オマエが物足りなくても俺には充分事足りてンだよ」

 

「面白くねぇ……」

 

分かってるからとでも言いたげに、けれどやんわりと曲げない姿勢を示す限りこの男をこれ以上付き合わせるには、骨が折れるどころか苦労しかないことくらい、とうの昔に天使は学習出来ている。

だからこそ、だからこそ面白くない。

一方通行の優先順位の最上位に居座っているのは、決して自分ではない事が嫌でも分かってしまうから。

 

「チッ……ま、梅ちゃん困らせっと後が恐いのはウチも一緒だからな」

 

物分かりのいい言葉とは裏腹に拗ねた表情を隠さないのは、せめてもの反骨心だったり、不機嫌そうな自分を見て一方通行が少しでも困ってしまえば良いだったりと、まるで兄に甘える妹のようで。

クツリと苦笑気味に白い口元が上がって、シーソーみたく直ぐに下がる。

ポンと叩くように撫でられた頭をしかめっ面で抑えながら、振り向きもせずに先に進む後ろ姿を少し眺めて。

 

「……やっぱ、面白くねぇ」

 

聞こえないフリをする背中が、いつも以上に憎たらしく思えた。

 

―――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

―――

 

「アンタも律儀だねぇ、ホント。そういうのさ、微妙に似合わないよね」

 

「うるせェ、似合う似合わないで行動するなンざ面倒なだけだろォが」

 

いや全く、と突っついた割にはあっさりと同意を敷く女に、からかわれてやるつもりはないと手を払う。

純粋な環境的な問題か、それともここらに住まう者達が望んで作っているのか、どちらにせよ色濃い暗さの潜む場所に、板垣天使含む板垣一家の居住はある。

人が住み着く密度こそまちまちにある癖に、ひどくがらんどうとしたように思えるここら一体は、彼にとっては『鼻につく』場所とも言えたのだが。

一見すれば普通の一戸建てにも見えなくもない外観の家、その玄関柱にくたびれた様子で背を預ける女の姿は、それだけで妙に色を放つものだ。

 

「今日もわざわざ天使に付き合って貰ってさ、私としちゃ助かってはいるけどねぇ」

 

張りのあるプロポーションをより全面に押し出す生地の薄い服装を見て、そういった職種を連想してしまう男がどれだけ居るのだろうか。

いや、異性だけではなく同性からでさえも、その職種であれば納得だと印象付けてしまうほどに、女――板垣亜巳の雰囲気は普通とは言い難い。

服装も加えて、端麗な容姿にねっとりとした言葉のイントネーションは、ある意味職業病のようなモノだと一方通行は考える。

女手一つ、両親から捨てられた家族を守ろうと身に付けた彼女の処世術とも云える姿勢を、否定的に思える筈がないのだ、一方通行にとっては。

けれど、時たまからかうように『雌』を見せる彼女を、素直に面倒とも感じていた。

 

「ガキに振り回されンのは今更過ぎンだよ。それに、オマエこそ律儀じゃねェか。妹のお迎えの礼をわざわざなァ」

 

「まぁ、世話になったままの状態で済ますか済まさないかの話じゃないか。私の場合は済まさないってだけの、ね」

 

クツクツと、愉しげに口元に手を添える指先にキレイに塗られたマニキュアを、意味もなく眺める。

かしこまった姿勢でも、そうでなくても御礼を言われる事に一方通行は未だに慣れないでいる。

慣れていないというよりは、つい違和感を感じてしまうといった方が正しい。

それが下らない矜持をいつまでも捨てきれない自分の女々しさだと自覚しつつ、一方通行はつまらなさ気に紅い瞳を細めた。

 

「あぁー、あーくん来てたんだねぇ……やっほ、なんだか久しぶりだねぇ」

 

不意に、ガラガラと玄関の戸が開いた音と共に、寝ぼけ目蓋の癖に妙に嬉しそうな面持ちが、顔を覗かせる。

まったりとした、宙に浮いてはなかなか降りてこない綿毛のような間延びした声を聞いて、やけに諦観気味な一方通行の溜め息が零れた。

 

「辰子ォ……その呼び名はどォにかならねェかお前。ンで久しぶりっつっても先週買い物に付き合ってやったばっかだろォ、その頭ン中のお花畑はそれすら入らねェのかよ」

 

若干覚束ない足取りのまま寄り付いて、躊躇など微塵もなくべったりと彼に抱き付いた少女に、面倒なのに捕まったと聞かせるように一方通行は呟いた。

板垣辰子。

板垣天使に次いで手の掛かる板垣家の次女であり、異性同性両面から見ても魅力的だと太鼓判を押される容姿とプロポーションを持つ辰子は、長い付き合いになる一方通行を唯一あーくんと呼ぶ人物でもある。

無論、彼からすればあーくん呼びなど堪ったものでは無いし、こうした過度なスキンシップを取る事も許した覚えはない。

けれど、馬耳東風と言わんばかりに何度も繰り返す辰子に、若干諦めているのが現状だ。

 

「やれやれ、素直に喜んだってバチは当たらないってのに。顔に出ないタイプは得だよ、全く」

 

「少しでも喜ンでるよォに思えるンなら、今すぐ良い医者紹介してやろォか? 辰子もこれ以上ベタベタすンじゃねェ、暑苦しい!」

 

亜巳の勝手なムッツリ認定についこめかみに青筋を浮かべてしまう辺り、亜巳のからかいに対しても流せるほどの度量には至っていないらしい。

ほわほわと目を開かぬまま、けれど不満そうに口を尖らせる辰子を何とか引き剥がして、一段落。

辰子が絡むとなかなかどうして落ち着きのない空気になってしまうのだから、知らず知らず肩が落ちてしまう。

長い白か髪に隠されて窺えやしないのだが、きっとげんなりしているだろう表情が直ぐに思い浮かんで、また一つ、亜巳の口角が上がった。

 

「あ、今日はちょっと晩ご飯多めに作っちゃったから、あーくんも一緒に食べよーよぉ」

 

「いや、生憎帰ったら飯があンだよ。悪いが、今回はパスだァ」

 

そういえば、と思い返しながらの辰子の提案に、若干申し訳なさ気に頭を掻く一方通行。

線の細い外見からも想像がつく通り、男性にしては、彼は食がかなり細い方である。

此処で板垣家に上がって食卓を囲めば、しっかり残してあるだろう梅子作の晩飯を残してしまうのはほぼ間違いなくて。

決して辰子の料理が不味い訳ではないし、寧ろ自然に家庭的な優しい味を出せる彼女の料理は一方通行にとっても素直に美味しいと評価出来るほどなのであるから、余裕があれば食べたいくらいである。

 

「んふ、いぃよぉー別に。無理してまで食べて欲しいって思わないもん」

 

「これでも昔に比べりゃァ食う方にはなったンだがなァ……」

 

拗ねたようにも聞こえる台詞とは裏腹に頬を緩ませたままの辰子は、なんだか遠い眼差しの一方通行の腕を取ってニギニギと弄り出す。

線の細さは変わらずだが、出逢った当初に比べれば彼の背丈は随分と変わったように思う。

初対面の時では、仏頂面こそ変わってないけれど身長は辰子より低かったのだが、丁度一年前近くで追いつかれ、今ではすっかりと追い抜かれてしまった。

以前、どうやら彼には障害持ちだった経験があったらしく、なかなかハードなリハビリによって克服出来たのだとか。

だから今では標準高めの身長も相俟って細見に見えてしまう一方通行ではあるが、意外としっかり肉が付いているのだ。

 

「へぇー、やっぱりなんだかぁんだ言って、素直じゃないなーあっくんは」

 

「ンだそりゃァ、俺は自分に正直に生きてンぞ」

 

呆れたように細まる紅い瞳が、何故だかとてもくすぐったい。

些細なところで今一つ本音を浮き彫りにする事を恥ずかしがって、照れ隠しのように素直じゃなくなる彼のそういう所を、辰子はとても気にいっていた。

多分、その評価は自分だけじゃなくて、辰子の妹である天使も、目の前で、それこそ家族に向けるような優しい顔をしている姉の亜巳だってそうなのだろう。

ほんわかとした、暖かな時間の中で、辰子は思う。

でも、そんな彼の気に入らないと思っている所もある。

例えば、手持ち無沙汰気味に空を見つめる、遠い、遠い眼差しだったりとか。

どういうリハビリをしたのかとか、なんで障害を負ったのかをデリカシーもなしに問い掛ける天使を、やんわりと拒絶する顔だったりとか。

 

――まるで、過去を詮索されるコトを恐れているような寂しがり屋の顔が、胸に引っ掛かっていた。

 

 

――

―――

――――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

――――

―――

――

 

 

他人との距離に必要以上に敏感になってしまう癖は、歯痒さと共に心の奥の奥深くに随分ねっとりとこびり付いてしまったまま、剥がれてくれやしない。

手持ち無沙汰に星屑の光が届く夜空を見上げながら、一方通行はつまらなさ気に鼻を鳴らした。

 

「……」

 

パカリと携帯電話を開いて、ディスプレイの表示時刻を確認して、溜め息。

なんだかんだで思ったより時間を使ってしまっていたのに気付かなかったのは、あの空間に少なからずも心地よさを得てしまっているからか。

気持ち足早に家路を辿る最中で、あまりに自然な動作で首元に触れる。

 

「……――馬鹿か、オレはァ」

 

当たり前の肌の感触を確かめて、馬鹿馬鹿しくなって、『泣きそう』にもなって、歯軋り。

置き去りにした感傷を今更手で探るだなんて、しかもそれを無意識な癖のような動作で行ってしまっているだなんて、女々しい自分がみっともない。

喉までせり上がってきた不快感を払拭するように、更に足を早める。

想定より遅くなってしまっても、厳しいようで優しく、不器用ながらにも慈しんでくれる、自称姉代わりの存在は自分の帰りを待ってくれているだろうから。

いつかの、確かに自分のことを家族だと思ってくれていた者達のように。

 

「……どォせ、失敗作なンだろォがな」

 

電話口で聞いたあの気丈さの欠けた弱々しい声を聞いて、抱いた確信は経験上、嘘にはならない。

十中八九、小島梅子は料理に失敗してしまっているが、それでも自分は食べると言ったし、食べたいとも思っている。

春先の新学期、新入生、と目白押しのイベントが多々ある学校で教職員を務めている梅子が、疲れている身体にも関わらず作ってくれたのだ、寧ろそれは当然と言えよう。

そして、それを当然だと自覚出来る上で甘んじれるほどには、僅かながらも角が取れてきてはいるのだと自覚する。

 

「――クカカッ」

 

多少なりの悦の乗った独特な笑い声が、緩やかに冬の終わり頃をかける風に浚われて、溶けた。

自分達の住むアパートを薄らにも見つけて、紅い瞳がゆっくりと細くなって。

少し自嘲的なニュアンスを含めた柔らかなまばたきは、甘えることを善とするか悪とするかを見定める捨て猫の姿のようにも見える。

いつまで経っても幸福に慣れることが出来ない大きいようで小さな背中は、一度立ち止まって、もう一度空を見上げた。

決して綺麗には映らないけれど、それでも確かに届いている光を見詰めて。

 

――あの星を探すことは、いつまでも出来ない

 

 

――

―――

――――

◆◇◆◇

―――

――

 

――約束は、叶わなかった。

 

頼んでもないのにお節介をやいて、遂には杖が不要になるまで支えてくれた、自分にはない強さを持った女との思い出も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

甘える事を知りたがらない自分を無理矢理にも愛そうと、常に気遣ってくれた二人の母親への恩返しも。

 

――約束は、叶わなかった。

 

罪と罰の象徴として、それでも雑言苦言混じりに結局傍から離れないでいてくれた心幼き隣人の確執も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

大事だと、大切だと思うことを許してくれた。

どうしようもない自分を、それでも求めてくれた。

大切な、大切な家族である少女との簡単なコトだった筈の、約束も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

叶えることが出来たなら、傍に居ることが許され続けたのなら。

でも、『そうはならなかった』

だからこの話は、ここで終わり。

星瞬く夜空も、踏みしめる大地も『違う』この場所で、別の物語が幕を開けた。

それからの話の、始まり。

 

 

 

――

―――

――――

―――――

 

 

『星の距離さえ、動かせたのなら』

 

 

Prologue 1 ―― end.


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