指を翳せば、薄明かりの壁に。
髪を弄れば、白のクローゼットに。
足を組めば、アクリル板の床に。
腕を伸ばせば、モダンな木材テーブルに。
月が雲に溶けて、ドレープの癖の残ったカーテンに。
ぼんやりとした薄い照明に差し込んで、日常に残らないシルエット。
当たり前の事で、自然に生まれるだけの影を、どうしてか不思議な眼差しで追い掛ける事にも自覚はない。
詩的に思えて、手持ち無沙汰を装っているだけという締まらなさに霞んだ吐息が、艶色を孕んで部屋に溶ける。
気休めに椅子に預けていた背中を持ち直して、棘を潜めた紅い瞳が、緩やかに電子細工の手紙の文面を見据えた。
「……」
『第四次経過報告』
カーソルに合わせて打ち込まれた文字列と、先を描かない白色の空欄。
ディスプレイが表示する電子メールのタイトルだけを埋めて、そこから先の伽藍洞に果たして何を記すべきなのか、また一つ作業が滞る。
といっても、記すべき事など彼女、マルギッテにとっては既に決まっている事で、問題なのはその記すべき事に対してマルギッテが抱える『違和感』を追記するかどうかで。
数多くの戦場を駆けた猛者には到底結び付かない女性らしい細い指先が、戸惑いを隠せぬままにキーボードにシルエットを作る。
小気味の良いタイプ音、けれど心に渦巻く感情を持て余して作るリズムは酷く纏まりがなくて、仕事の進行を余計に妨げる。
今日の正午を過ぎた辺り、マルギッテの護衛対象であるクリスと、監視対象である一方通行とで行われた決闘。
その一部始終を落ち着きもなく見届けたマルギッテは、どうしようもない違和感に駆られていた。
「確かに、御嬢様には傷の一つも付けていませんでしたが……」
甘やかしにも加減が行き過ぎだと自覚もあるクリスの手前、冷静さを欠いて殺意にも似たプレッシャーで一方通行に訴えていたマルギッテだったが、正直な話、省みれば武術家としてはあるまじき行為だったと思う。
加えて他ならぬクリス自身を侮辱する事に繋がるとすら考えれていなかった事に恥ずべき想いを今になって噛み締めるが、実際に要望が形になって安堵を少なからず抱いては居た。
しかし、代わりにじわじわと滲み出る、怪訝さと違和感はその安堵に比べればとても大きい。
クリスの卓越された剣撃を一つとして受けずに回避に徹するなど如何にマルギッテと言えども難しいが、クリスの行動全てを察知、予測、計算して回避するなど正直、不可能とも思える。
クリスの問いに対して統計だとあっさり述べた一方通行ではあったが、その難解極まりない手段を実際に闘いの中で実行するなど、自分にとっては雲を掴む様な話だ。
理屈より、感性に身を委ねる。
それは自分を含め、大多数の武術家が無意識に行う取捨選択。
向けられた一撃に理屈通しで回避するのと、感性で回避するのとでは実行までのタイムラグが全く違う。
行動の遅れ一つで敗北に繋がる上級者の闘いに、一々彼是と考える余裕なんて、無い。
だからこそマルギッテは、自分では到底不可能な事と結論を付けた。
故に、統計というのは対戦相手のクリスをより混乱させる為の一方通行のハッタリではないのかと、疑いに掛かる心情の方が強い。
「……」
だが、仮に。
もし、一方通行の統計という発言が嘘、ハッタリ等では無かったとしたら。
事前に得たデータを基に計算し、解析し、再構築し、統合の結果として戦闘に完全に反映出来るのだとしたら。
――彼の前で『一度でも全力を見せた事のある人物』では、彼に勝てないのではないか――
「……馬鹿げている」
脳裏に過る結論の一つに、幾ら何でも早計だと、待ったを掛ける声が皮肉気味に唇から滑り落ちた。
人間業ではないと呼べる規格外は、マルギッテの知る中でも少なくとも存在するが、この仮定は『現実味』が無さ過ぎる。
大袈裟に評価するならば、人智を越えていると言っても良い。
ハイスピードの戦闘の中で一から全を計算し尽くせる頭脳など、果たして人間が持ち得る事が果たして可能だろうか。
「……」
有り得る筈が無い、そう結論を書き換えて。
けれど、キーボードに走る文字は、抱えた危惧、違和感をハッキリと形に据える。
馬鹿げた仮定だとしても、報告はマルギッテの義務である。
熱を上げた様な、纏まりの付かない微かな溜め息が緩やかに部屋の空気に混じった。
彼女の胸の内に巣食う違和感を、明確に浮き彫りにする銀小夜の光は、いつしか雲を溶かしていた。
――
―――
◇◆◇◆◇◆◇◆
立ち込んだ湯気の濃度にも左右されるけれども、印象的な紅の瞳さえ隠れてしまえば、何処に居るのかも分からなくなる。
兎が雪に紛れる様に、すっぽりと欠き消えてしまうのを面白がって、冬の季節は隠れん坊がさぞ得意なんだねと茶化されたのが、今思えば、初めましてのコト。
細く長く切り分けた後にタレに浸した鯛の身を、薄青の紋様が老舗らしさを魅せる小皿に渦を描く様に盛り付けて、青葉と卵の黄身、大根のツマを飾り付けながら、雪解けに似た感覚で蘇る思い出に眉を寄せる。
何故今更、という言葉を飲み込みつつ、恐らく原因である目下の女性へと出来上がった一品を差し出せば、彼女に酷く似合っているチェシャ猫の笑みで礼を返された。
そういえば、あの時もこの人を食った様な、けれどさしてマイナスに繋がりはしない表情をしていたな、と。
ぼんやりと細めた紅い瞳に何を思い至ったのか、女性のアイスブルーの瞳が、愉悦をより深く描いた。
「あら、ちょっと今更過ぎるんじゃなぁいー?」
「何が」
「この私の美貌にときめくのが、ってコト。それならもっと初対面の時とかにグッとアタックして来るくらいの気概で」
「対馬さン、茶碗蒸しは俺がやっとくンで。 次いでにお浸しと串も」
「え? あ、あぁうん。ありがと」
「なごみさン、おろし取ってくれませン?」
「もう出してるよ」
「どォも」
嫌な流れだと勘繰るまでもなく、性懲りもなくからかい通してくる女性を早々に視界の隅に追いやって、何事も無かったかの様に次の一品へ。
一方通行がアルバイトとして雇われている『食事処 対馬亭』のカウンター席には、開店してまだ一時間も経たない内に、席の半分は埋まってしまっており、奥の座敷は二部屋の内、既に一つが団体入り。
外観は老舗風に近いというのに、現在の客入りは平均的に若い事もあってか、なかなか手を休める暇もない。
故に絡んで来る客を何事もなく流してしまうのも致し方ないのだが、流すどころか完全にアウトオブ眼中へとシフトした白い青年の容赦の無さに、彼の雇い主である対馬レオは複雑そうに目を泳がせた。
黒髪に深いグレーの瞳を据えた端整な顔立ちをした男が場を窺う様は少しばかり笑いを誘う物だが、対して彼の妻兼料理長である対馬なごみの反応は正反対で。
一方通行と同調するかの様にノーリアクションの儘に淡々と作業を続行するのは些か淡白ではないかと思うであろうが、彼女にとってはこのやり取りは寧ろ何度目かと嘆息を付きたいくらいであるのは、夫のレオにも窺えない所である。
そして肝心の流された本人といえば――
「あ、あららーん? 無視かしら? いや、これは無視に見せ掛けた照れ隠し? さっすがツンデレ、可愛いじゃない」
「ちょ、ちょっとエリー駄目だってば。そんなんじゃまた一方通行君に完全無視にされちゃうよ!? 前も結局、それで泣き見たのエリーだったでしょ!?」
「違うわよ、泣いてないわよ。アレは寧ろ酒に酔い過ぎて昔話に華が咲いて、懐かしさからぶわぁっと……」
「うん、確かに酔ってたね。けどそれって何言っても一方通行君に無視されるからって拗ねたエリーが自棄気味に強いのばかり飲んだからだよね!?」
「む、むぅ……随分責め気じゃないの、今日のよっぴー。 何よ、あんまり言うとおっぱい揉むわよ、揉みしだくわよ」
「何でそうなっちゃうかな……というか、エリーはお酒強いけど酔ったら酔ったで大変なんだってば!」
さして平然としていた、という訳でもなく。
頬をひくつかせながらも絡むのを止めない彼女を見兼ねて、隣の席に腰掛けていた彼女の連れ添いである穏やかな雰囲気の女性に言い含められていた。
互いをそれぞれ愛称で呼ぶ辺りに親密な関係である事は窺えるが、それに留まらず対馬夫妻ともそれなりに親交の深い間柄である二人組。
バイトとして出勤する一方通行を毎度の如くからかおうとアクションを仕掛けるショートカットのブロンド令嬢、霧夜エリカ。
そんな見た目に反して腕白な彼女の保護者的立ち位置として周囲から見られている、流されたアクアブルーの綺麗な長髪が印象的な女性、佐藤良美。
彼女らと対馬夫妻、この場には居ないが、一方通行を対馬亭へと紹介した鮫氷新一と楊 豆花は高校の同期という繋がりがある。
無論、彼女達以外の同期メンバーも良く対馬亭を訪れる為、一方通行とも面識はあるにはあるのだが、仕事に差し障えるレベルで絡んで来るのはエリカだけであるのは、不幸中の幸いか。
やいのやいのと、見た目麗しい二人組が目下にてじゃれつく様な口論を重ねていても、白い青年は気に介した様子もなく手ばかりを動かす。
白く骨張った指先で作る品々はスピードもさるものながら、見映えも味も確かと言っても良い。
そうでなくては、人一倍料理に対して情熱を注ぐなごみが調理台に立たせる事は無いだろう。
無論、バイトとして雇って早々に調理台に立ったという訳ではないし、それまでの過程に積み重なった努力も夫妻はしっかりと見届けていた。
見届けている内に、いつの間にか立場上追い抜かれたのは対馬レオにとって些か恥ずかしい事なのだが。
「対馬さン、茶碗蒸し、上がりましたンで座敷に持って行きます。串、見といて貰って良いっすか」
「お、早いな流石。次いでに酒も持っててくれ」
早速と言わんばかりに出来上がった茶碗蒸しを盆の上に載せながら、引き継ぎを願い出る辺り手慣れたものだと感心が沸き上がる辺り、自分もなかなか年齢を実感出来ている事にレオは苦笑する。
ジョッキビールを二つと、巨峰のサワー、カクテルを二つ。
それぞれを危なげなく盆に載せて配膳へと向かう青年の後ろ髪がひょこひょこと機嫌の良い猫の尻尾に見えるぐらいには、彼の印象も初めの頃から随分変わっていた。
警戒という訳ではないけれども、不安はあった。
見た目が見た目だけに料理が出来るイメージもなかったし、接客に関しても得意にはとてもじゃないが見えなかった。
蓋を開けてみれば随分とイメージにそぐわない結果だったのには、レオばかりでなくなごみも驚いていたものだが。
寧ろ、比較的人付き合いの得意ではないなごみの方が一方通行と打ち解けるのは早かったので、レオとしてはそちらの方が意外だったけれど。
「そういえば、一方通行君だったっけ、対馬亭にサワーとかカクテルとかも置いておいた方が良いって言い出したの」
「……いえ、違います。 言い出したのは旦那ですよ、後押ししたのはアイツですけど」
話に一段落付いたのか、大人しい雰囲気の割に存外発言力の強い良美が一段落付けたのか、なごみと良美がカウンター越しに件の彼を話題に挙げていた。
どうやら良美に言いくるめられたのが正解らしく、拗ね気味に直ぐ傍の座敷へと恨みがましい視線を送るエリカに思わず苦笑を落としつつ、レオは任された串揚げの前へと移動する。
「あ、そういえばそうだったね。でも、やっぱりちょっと意外かな。基本的に傍観なスタンスだもん、一方通行君」
「まぁ、気持ちは分かるかな。言い出しっぺの俺も結構びっくりしたよ、アイツの援護」
小気味の良い油の音に紛れて、耳に優しい声がいつぞやの思い出をそっとなぞっていく。
若い人にも気楽に愉しめる様にと飲み物にも充実さを広げてみてはと提案するレオに、安易に雰囲気を壊すのはどうだろうかと少し渋った反応を見せたなごみ。
他人に素っ気ない素振りを見せがちながらも夫のレオには驚くほど従順だったりする妻の珍しい反応に一歩躓いたレオだったが、一方通行という予想外の所から援護が入ったのには未だに驚きが残っている。
「『若い奴でも飲み易い酒があった方が、卒業した後に他の奴誘って飲みに来れるじゃねェっすか』ってさ」
「似てませんね、先輩」
「フフ、確かに」
「手厳しいな、我ながら似てないと思うけど」
少しばかり寄せてみたのは失敗だったと、背中越しに苦笑混じりで対応されながらも、串揚げの焼き色を確認する手は止めない。
そして出来るならば妻のなごみに二人きりの時以外でも名前で呼んでくれればと思う辺り、贅沢な悩みと言えるか。
結果的に見れば、一方通行をアルバイトとして雇ったのは正解だったとレオは自信を持って断言出来る。
スタッフとしても優秀で、意見もしっかりとくれる上に、一方通行の存在が客寄せになっている為に売上も繁盛してると言って良い。
一方通行繋がりで訪れる彼の保護者や同職の教師達も勿論、物々しい雰囲気ながらも意外と行儀の良い板垣家族も月に二度は暖簾を潜る常連である。
それだけでも充分なのだが、彼目当てで訪れる女性客が増えた事も大きい。
例えば、現在の座敷を埋めている女子大生達は専ら一方通行目当てであるし、わざわざ予約してまで足を運んで貰ったといえば、良美は納得したように笑みを深め、エリカはからかうネタが増えたとばかりににやけていたのはご愛敬。
「ねぇ、なごみん」
「なごみん言わないで下さい、何ですか先輩」
ふと、きゃいきゃいと黄色い声に溢れてる座敷へと視線を向けていたエリカが、怪訝そうな声色で対面で煮物の盛り付けをしているなごみを呼ぶ。
高校時代より聞き慣れたあだ名ながらも未だに嫌なのだという事を隠そうともしないクリアレッドの瞳が不服そうに吊り上がる。
けれど、対馬亭のこの場では珍しくシラフなのに真面目なトーンのエリカの様子に、吊り上がった瞳は緩やかに元の位置へと戻った。
「……アイツ、なんかあったの?」
「……? いえ、別に今日も普段通りだと思いますが」
「エリー? どうかしたの?」
どうにも女子大生に捕まってしまっているのか、なかなかに調理場に戻れないでいる一方通行なのだが、それでもカウンターと座敷との距離はそう離れていない。
だからこそなのか、彼に聞こえない様にと少しばかり声を潜めて尋ねるエリカと、その内容にレオのみならず皆が首を傾げる。
一方通行に、何かあったのか。
そう問われようにも、少なくともレオの目には普段の一方通行とさして変わった様子は伺えないし、学校が終わるとそのままに対馬亭に来た彼だったが、やはりおかしな様子は無かった。
何か引っ掛かった口振りのまま、鯛のユッケをちまちまと口へ運ぶエリカではあったが、怪訝そうな表情は拭えない儘。
ただの杞憂なのだろうかと、狐色に揚がった串の油を落としながら、レオはこきりと首を捻る。
自分がふと思うのならば、ただの杞憂なのだろうで済ませる事も多々あるのだけれど、エリカの場合となれば話は変わってくる。
誰もが知る九鬼財閥に良い意味でも悪い意味でも一目置かれている霧夜カンパニー、その社長の位置に登り詰めた女傑という肩書きを持つ彼女の直感は、只の杞憂で済ませられない。
豊穣とも呼べる豊かな色彩を宿したシャンパンゴールドの前髪を指先で弄る彼女の思案顔に、一堂は目を細めた。
「なーんか、疲れてるっぽいんだけど。 いや、疲れてるってか、縛られてる? うーん」
クルリクルリと細い指先を絡ませては、スルリと抜けて。
手持ち無沙汰に毛を繕う金色のチェシャ猫は、どうにも感性と直感に見合った言葉を探すけれど、今一つ
しっくり来ない。
靄掛かった月を眺めても、スッキリしないとでも言わんばかりに、一つ一つ眉間に皺を寄せていく。
どうしたのだろうか、と気難しい表情を浮かべるエリカに不安を掻き立てられたのか、レオの手も思わず止まる。
対してなごみは手を止めることは無いのだけれど、少しばかり作業のスピードに遅れが生じていた。
何だかんだで一方通行の事を気にかけているなごみの珍しい様子に、不謹慎ながらも愛らしさを覚えるレオの視界の隅で、件の当人は若干疲れた様子で戻って来ていた。
疲れた様子といっても、エリカの言う疲れた様子とこれは別で、酒も入ってハイテンションな女子大生に振り回されたが故の疲労ではあるが。
「追加オーダー、だし巻き玉子と揚げ出し豆腐、一つずつで」
「お、おう」
「……後、俺は別にそこまで疲れてねェ」
「ありゃ、聞こえてたかぁ……」
捕まっていてというか、文字通り掴まれていたらしく、空になった皿やグラスを積んだ盆を片手に不自然に伸びたカッターシャツの裾を面倒そうに収める青年の、なんと不満な顔か。
苛立ちをぶつける様にジトリとした眼差しで見詰める白猫と、舌を出して煙に撒こうとするチェシャ猫。
月の見える丘にでも行って対峙してくれれば、童話の一つにでも成りそうなキャストとも言える。
綺麗所を集めた配役に、思わず興味を抱いてしまいそうな所が厄介ではあるが。
「今日、学校で何かあった?」
「――いや、何も変わンねェけど」
「そ、ならいいわ」
付かず離れず、不必要に近付かず遠退けば距離を詰めて。
姉弟の様にも、母子の様にも、赤の他人の様にも見える不思議な距離感を感じるは、きっと二人が似た者同士なのだからだろう、と。
散々気になる素振りを見せておいて、あっさりと引いてみせるエリカに、一方通行は腑に落ちないと言わんばかりに眉を潜めるのだが、それこそエリカの思う壺。
既に彼女の頭の中では、困惑する一方通行の顔を肴に一杯やるという、聞こえは非常に悪趣味なプランへとシフトしていた。
「んじゃ、お酒追加ね! よっぴーはどうする、グラスもぼちぼち空じゃない?」
「えっ? って、あ、もうエリー……はぁぁ、それじゃ、さっきと同じ奴で」
凝り固まった空気を作ったのがエリカならば、霧散させるのもまた彼女のきまぐれ。
コロリと表情を変えながら酒の追加を促すエリカの唐突さに戸惑いながらも、往年の付き合いもあって彼女の心情もある程度、理解のある良美は流石という所か。
レオとなごみとしては、変に浮いたまま着地場所も分からないままで今一つ腑に落ちないのだが、ずれたタイミングを戻すのもなかなか手間取るので、素直に流す事にしたらしい。
ただ一つ、心残りがあるとしたら。
淡々と調理場へと戻って来た一方通行の、少し伏せ目がちな瞳に映る、色褪せた感情が微かにちらついて。
そこに宿る物が只の青臭い悩みや単なる日常的な疲れで収まってくれる事を願うしか出来ない自分に、きっと誰にも関わらせようとしない青年に、レオはどうしようも無く首を振った。
――
―――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
闇の葵も深く咲き、目にも残らず形も残らず、ただ通り過ぎる夜風は冬の名残を未だに促す程に冷たくて。
吐息に何処かの誰かの様な白さこそ見えないけれど、自覚もあるくらいに露出の高い服装をしている板垣亜巳には充分堪えたらしく、反射的に身を縮ませる。
面倒臭がらずにダッフルコートでも羽織ってくれば違ったのだろうがと、今更になって後悔を滲ませる翡翠の瞳が、ゆったりと隣に視線を結ぶ。
春にもなってまだこんなに寒いと感じるのは、きっと冬景色の白一色で染まった隣の男が原因だと言いた気に。
「ンだよ、そンな格好してンのが悪ィだろ。 それに、俺を呼び止めたのオマエじゃねェか」
「まぁそうだけどさ、隣で暖かそうな格好されちゃ、ついついそういう眼で見ちまうのも分かるだろう?」
視線に恨みがましさでも漂っていたのか、夜空に混じった白色の貌が目敏くムスッと固くなるのに、ついつい苦笑が滲む。
職場に寄る前に香水の一つでも購入しようと遠回りしたのが、バイト終わりの一方通行と偶然会う事に結び付いたのは、まぁ置いて。
次いでに調子でも尋ねる流れで駅の噴水に腰を下ろした時点で、薄着という格好の問題に気付いた。
結果的に自業自得な話ではあるけれど、内面を抑える事があまり得意ではない上に、余計に得意ではなくさせる男が隣に居るのだから、無理もない。
かといって一方通行が自分のPコートを亜巳に差し出すフェミニズムを見せた所で、変に勘繰って結局は我慢するか、逆手に取ってからかうのだろうけど。
仏頂面で鼻を鳴らす男は、案の正、気にした様子もなく猫みたいに背筋を伸ばす。
噴水の水が溜まりに溶け込む音と、時間の影響で少ない雑踏と、舌足らずな欠伸の音。
眠いのかいと微笑混じりに尋ねれば、半開きの紅い瞳が駅のデジタルパネルを促す。
記された深夜手前の時刻は、学生の身である一方通行にとってはそれなりの時間帯である事は分かるのだけれど、亜巳は肩を竦めて流す事にした。
「……出勤、ぼちぼちじゃねェのか」
「まぁ、多少の遅刻ぐらいは多目に見て貰うさ。時間に不規則なのは職業柄、てさ。 それとも、同伴でもしてくれる訳かい?」
「冗談じゃねェ」
確かに冗談だけどさ、と言い切ってしまえば。
呆れたように眼を細めて、おざなりに返そうとする辺り青年は少し拗ねているのだと分かる。
無論、それは亜巳が本気で言っていないという事に関してではなく、意味もないからかいに対してだろうけど。
例え本気で言った所で結果は同じの癖に、そこら辺は御互い面倒な男と女という事で。
喉を鳴らす様にカラカラと笑えば、不思議と面倒さは成りを潜める。
灰色の雲が所どころに闇に浮かんで、黒を暈した、そんな空。
躊躇いを掻き分けて探る素振りを不器用に残しつつ、少し震えた声色で、一方通行は言葉を紡いだ。
「……仕事、まだ変えるつもりはねェか」
「――あぁ、そうだね。食い扶持が三人ってのは兎も角、収入が多いに越した事はないだろ?」
「フン、言うと思ったぜ。 まァ、確かにそォなンだろォがな」
煙草があれば、こういう時にでも吸うのだろうと。
組み換えた膝の上に手を組んで、ぼんやりとそう思う。
感情を込めてないかの様な口振りの癖に、熱を持った吐息に微かな憂いが混ざっている事が、苛立ちと愛着を沸き立てる。
同情であれば、苛立ちだけで済んだのに。
無情であれば、愛着だけで済んだのに。
無意識ながらも心に爪を立てるのは、いつまでも変わらないらしい、この男は。
「楽には、なれないさ。そう簡単にはね」
「苦しいと認めてからのスタートなンざ、ゴールが遠退くだけだろォよ」
「アンタが言うかい、それを」
「カカッ、違ェねェな」
彼が自分に向ける言葉は、きっと自分にだけ向けていない言葉なのだろう。
感傷的にそっぽを向く時は、いつだって瞳に触れられたくない傷跡を浮かばせている。
見透かしたような言葉も眼差しも、透明過ぎるという事に、一方通行はそろそろ気付くべきだ、と。
「アンタこそ、良い加減に『普通』になったらどうなんだい?」
――例えば、恋とか愛とか、そういう色を抜きにして、女を抱けるくらいには。
言葉にしてしまえば呆気なく、音にしてしまえばなんて軽い。
白い貌に似合った寒々しい不満顔に、冗談だとは言ってやらない。
覗き込んだ紅い瞳が灯した驚きは一瞬で、あっという間に呆れに戻って、疲れたように溜め息を残した。
「――楽にはなれねェよ、お互い」
「――そうだろうね」
スクッと立ち上がり、捨て台詞の様に残す辺り、多少なりとも自覚はあるのだろう。
彼が不要とする弱い感傷こそ、根が深く、そして必要なモノであることを。
振り返る事もしないまま、御座なりに手を振る一方通行の背中を、細まった翡翠の瞳がただ見つめる。
別れ際、去っていく一方通行の背中はいつも何故だか小さく見えるのだ。
「――」
楽にはなれない、簡単には。
けれど、きっと近道はある。
例えば、遠退く背中にしがみつけば、少しでも楽にはなるのだろう、お互いに。
けれど、それが出来ないからこそ、許してはくれないからこそ、簡単にはいかないのだろう。
ゴールは其所だけではないけれど、目に見えるゴールは何時だって遠い。
雪は溶けたのに、春の夜風は未だに冷たい。
皮肉気に笑いながら、亜巳は一等星が宿る夜空を見上げた。
『雪解け道を歩く』――end