夜が更けて、明日には満月になるであろう大きな月が空に麗しく輝き、山を大分降りた街近くの森を照らしているとき、一人の少年・クシュウが森の中の一本の木の根元に、ぐったりと背中を預けていた。
少し経ってその場所にアンナがやって来た。両手には、近くの川原で汲んできた水の入った大ぶりの椀を持っている。
クシュウがそれに気がつき、アンナに向けて頭を持ち上げると、アンナが「はい」と言って水を差し出した。
「ありがとうございます。すいません、あなたにこんなことをさせてしまって……」
「いえ、いいんです。私にはこんなことしかできませんから……」
あの後クシュウは、アンナを抱えたままひたすらに森の中を全速力で走った。
どこに向かうかなど一切考えず、あの怪人のいる洞穴から少しでも離れるために、無茶苦茶に走りまくった。数日前にケルティック付近の森で行ったことと、全く同じことをしてしまったわけだ。
結果、疲労の蓄積で、以前と同様見事にぶっ倒れることとなった。
アンナを手に持ったまま俯けに倒れ、その後何とかクシュウの身体から這い出たアンナが、クシュウの身体を引っ張って手ごろな木に座らせ、そして現在に至る。
「あの姿の見えない人みたいなの……。私達が王宮で見た、あの怪物だったんでしょうか?」
アンナがクシュウのすぐ隣に座り、力なく話しかける。クシュウは「ううん」と唸り、気難しそうな声で答える。
「まず間違いないでしょうね。あの魔法に似た光の弾は、以前奴が放っていたものと全く同じでした。姿をあんな風に消すなんて一体どういう魔法なのでしょう……。それに私が洞穴で見たあの石像、あれもやはり例の異界の魔物なのでしょうか……」
クシュウが多くの疑問を、問いかけるように口にしていく。
「判りません……。あんな蜥蜴とも虫ともつかない姿のものは、私も初めて見ました。でもあの遺跡にあったということは、そうなんじゃないかと……」
その言葉に、クシュウはアンナとは別の理由で魔物に関して困惑していた。
(父さんが言っていたことが本当なら、俺の先祖が戦ったのも、あんな変な生き物だったのか? 竜には全然見えなかったけど?)
「はあ、そうなんですか。なんというか……変な生き物なんですね。異界の住人というのは……」
それだけ言って、クシュウは頭を木にへばりつかせ、ゆっくり目を瞑った。これにアンナはすっ飛ぶにように驚いた。
「えっ! クシュウさん!?」
「大丈夫ですよ。少し疲れたのでもう寝ますね」
アンナはほっと息を吐いて、胸をなでおろした。
上を見ると僅かに欠けた綺麗な月が、木の枝の合間から見えてくる。もしかしたら、あの遺跡でクシュウが言っていた流れ星が現れるのではないかと思いながら、じっと空を眺める。
しばらくの間そうやって空をボーーと眺めていたが、やがて思考は別の方向に変わっていった。アンナは未だ解決していない問題、この先の自分の行き先を考えて、深く溜息をついた。
ケルティックから今の時点までは、クシュウが自分を守ってくれた。何度も酷い目にはあったが、幼い頃に物語で見たカッコいい騎士に助けに来てもらえる囚われのお姫様みたいな気分になれて、少しだけ、本当に僅かだけれども嬉しかった。
だがウェイランドに占領され、エルダー王国政府が完全に解体されれば、自分はもう王女ではない。そうしたら自分がクシュウに守ってもらう理由は無くなる。
クシュウはそれでもずっと自分を守ってくれるだろうか? やはり途中から自分一人で道を進まなければいけないのだろうか?
ウェイランドは王族の生き残りである自分を見逃してくれないだろう。そうなると当然クシュウもずっと危機に晒され続けることになってしまう。ならばやっぱり……。
そこまで考えた時、アンナはあるとんでもないことを思い出した。
(ウェイランドって! そういえばあの遺跡で!)
その記憶の驚愕の事実に、思わず声を上げてしまいそうなるが、隣で眠り始めているクシュウの為に何とかこらえる。
(そういえば私達会ったんだったわ! ウェイランドの王に、あの遺跡の中で! 何で! どうしてあんなところに! ていうかあの人もう死んじゃってるんだけど!)
そう。自分達はあの遺跡の洞窟で、現状の自分達の最大の仇敵とも言えるウェイランドの女王と遭遇していたのだ。
あの怪物の存在感が大きすぎて、今の今まで彼女の存在をすっかり忘れていた。クシュウに至っては最初に王と聞かされた時から、関心は皆無だったが。
それだけではない。その女王はあの洞穴の中で、あの怪物に殺されているのだ。顔を合わせて一分も経たないうちに。
一国を攻め入り、陥落させた王が、これから占領当地を始める矢先に死ぬ。こういう場合、敵国の侵攻はどこに向かうのだろう?
そこまで考えた所で、アンナは全身の力が抜けて、パタリと後ろの木に背中と頭を預けた。
(色々ありすぎて疲れちゃった……。もう寝よう)
アンナは隣で眠っているクシュウの肩に頭を乗せて、スヤスヤと寝息を立て始めた。
しばらく時間が経った。まだ夜は明けておらず、月と星の光に照らされた静寂の森の中、今までスピーと寝息を立てていたクシュウが唐突に目を開けた。
(これは……殺気!?)
クシュウは身体を極力動かさず、眼球を動かして辺りの様子を窺う。
隣にはアンナが自分に肩を寄せて静かに眠っている。女の子にこんなふうにしてもらえるのは中々体験できることではないが、今はそういうことに神経を割いてはいられない。
クシュウは腰にかけた剣にそっと手を触れる。
正にその時だった。クシュウの胸にいつぞやの赤い点光がいきなり照射された。
「はあ!」
クシュウは隣で眠っている少女を勢いよく突き飛ばし、一気に右側に倒れこむ。
少女が「ふぎゃあ!」と間抜けな悲鳴を上げたのとほぼ同時に、あの青い光弾が森の奥から飛び、いままで寄りかかっていた大木に丸い穴を開けた。
「またお前か! ここまで追ってきやがったのか!」
クシュウはまっすぐに光弾が放たれた方角を、飢えた狼のように睨みつけた。
そこには一見何も無いように見えて、実は何かがいた。森の中の風景の一部が微かに歪んでいて、しかもそれは人型をしていて動いていた。あの時の姿を消せる怪人だ。
その人型はクシュウの前に一歩踏み込むと、頭の辺りから再び赤い点光をクシュウに向けて放った。
「ぬあああ!」
クシュウは素早く体勢を整え、迫り来る光弾を回避する。そして光弾とすれ違いざま、剣に思いっきり魔力を込めて抜刀し、居合い斬りの剣撃で最大出力の風刃を放った。
迫りくる風の飛剣を、怪人は大きく跳躍して避ける。避けられた刃は後方にある細い木々を、竹のように何本も切り倒した。
クシュウは次に怪人に向けて“突き”を放った。剣が真っ直ぐ前方に突き出たと同時に、風の矢が生まれ、一直線に標的目掛けて飛んだ。
怪人は即座に身体をくねらせ、紙一重で風の矢を避ける。そして再び飛び上がり、真上にある樹木の太い枝を右手で掴んだ。
「なっ!? こいつ!」
驚いたことに怪人は枝にぶら下がった状態から、鉄棒のようにぐるりと回転し、枝の上に乗りかかった。そして更に跳躍し、隣の木に飛び乗って光弾を放ってきた。
怪人の身体能力の高さは判っていたが、まさかここまで俊敏な動きが出来るとは……。
突然の行動に動揺しながらも、クシュウは何とかこの攻撃を回避する。怪人は枝から枝へと、猿のように身軽に飛び乗っていき、次々と攻撃してきた。
クシュウは何とかそれらを避けることができたが、相手の素早い動きに狙いをつけられず、全く反撃できない。周りの森がガサガサと音を立てて動いていおり、敵のある程度の位置は掴めるが、それでも魔法を撃つための隙は一切見つけられなかった。
その途中、クシュウはあることに気がついた。
(こいつの狙いは……もしかして俺一人か!?)
前と違って自分は今アンナを手元に置いていない。そもそも最初の攻撃も明確に自分だけを狙ったものだった。以前王宮で喰らわせた一撃の仕返しであろうか?
「クシュウさん!」
その呼び声にクシュウはハッ!と気がついた。先程突き飛ばしたアンナが、真っ直ぐここに駆け寄ってきているのだ。
「駄目だ、アンナ! 来るんじゃない!」
敵の攻撃をかわしながら必死に放たれた敬語無しの言葉に、アンナは驚いてビタリ!と足を止めた。
「俺に近づくな! 今すぐここから離れろ! こいつの相手は俺がする!」
言い終わると同時に、クシュウはその場から森の奥へ脱兎の如く駆け出した。怪人もそれを追って木の上を飛び移りながら追う。
残されたアンナはポカンと口を開けて、その場に立ち尽くしていた。
クシュウはとにかく森の中を駆け回った。後方からは木々が激しく揺れ、そこから光弾が次々と発射され、クシュウが走っていた地面にボコボコと穴を開ける。
(これじゃあキリがない! 何とか開けた場所に行ければ!)
だが深い森の中にそのような場所は中々見つかるものじゃない。確かこの近くに街があったのを思い出したが、さすがにそこに向かうのは不味いだろう。
敵に対して撹乱は出来るかも知れないが、大勢の人を巻き添えにしてしまうかもしれない。
そんな絶望的な状況の中、意外すぎる救援者が現れた。
敵が追ってくる後ろの木のあたりから、突然ドカッ!という何か大きなもの同士がぶつかるような大きな音が聞こえた。
クシュウが「え?」と思った瞬間、隣の樹木に何とあの透明怪人がボールのように飛んできて、木の幹に派手な音を立てて激突したのだ。
「ええ!?」
クシュウは思わず足を止めて、音がした方向に振り返る。
「グエエエエエエ!」
振り返った方向の木の上、生い茂る枝の合間、そこには何と一羽のダックが翼を大きく広げてホバリングしていたのが見えた。
暗くてはっきりとは識別できなかったが、クシュウは何となく判った。目の前にいるのは自分達と一緒に王都を脱出し、遺跡の前で行方不明になっていた、あの若いジャイアントダックだ!
クシュウは即座に剣に魔力を込めて、隣にいる怪人目掛けて風の矢を思い切り撃ち放った。
ガス!と金属が何かにぶつかるような音を立てて、怪人は後方に勢いよく飛んだ。怪人の体は奥にあった草むらの中に飛び込み、その姿が完全に隠れてしまう。
「ダアアアアアア!」
逃がすものか!と言わんばかりに、クシュウはそこに向かって猪のように突進した。
剣の一振りで突風を舞い起こし、草むらを吹き飛ばす。そして姿を現した透明怪人に渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
森の中にガキイイイイン!とけたたましい金属音が響き渡った。
(くそ!)
剣撃は怪人を仕留められなかった。透明で明確には見えなかったが、怪人は手に武器と思われるものを持って、クシュウの剣をすんでのところで受け止めたのだ。
「ぐは!」
瞬間、怪人は自分を見下ろすクシュウの腹部を蹴飛ばした。常人を遥かに上回る筋力で放たれた蹴りは、クシュウの身体を弾き飛ばし、高く宙に舞い上がらせる。
地面を二度三度バウンドし、仰向けに着地したクシュウは、痛む腹を我慢し立ち上がろうとする。
眼前にはあの怪人が既にこちらを向いて立ち上がっていた。そしてバチバチと全身から電流を放っている。するとさっきの痛手で魔法(?)の効果が切れたのか、透明な姿が徐々に実体化し、その姿が露になっていった。
そこにいたのは右手に斧を構え、全身を銀の鎧で覆った怪人。間違いなくクシュウが以前王宮で見た、あの謎の暗殺者である。
左肩に装着された銃身がキュイインと音を立てて、こちらに銃口を向ける。ハッとしたクシュウは素早く横に動き、放たれた光弾を回避する。
だがその時、何とあの怪人がすぐ目前に迫っていた。光弾を避けるために動いたほんの一瞬のうちに、怪人は一気にクシュウとの間合いを詰めたのだ。
怪人は右手に持った斧を、重くクシュウに向けて振り下ろした。クシュウは剣を構えて、その斧の一撃を受け止める。
その瞬間、手が千切れんばかりの衝撃がクシュウの身体を襲った。怪人の力は凄まじく、風の魔力で威力を増大させているにも関わらず、クシュウの剣は力負けして、今にもへし折れそうになる。
「があ!?」
先程蹴り飛ばされ、強烈な痛みがまだ残る腹に、再び凄まじい衝撃が走った。あまりの痛みに意識が飛びそうになる。
怪人が体格差のリーチを利用して、剣を交えた状態のまま、クシュウの腹に再度蹴りを打ち込んだのだ。
クシュウの身体は真っ直ぐ前方に飛び、またもや地面を何度かバウンドしてからゴロゴロと転がっていった。
「がっ! うがあああ! こんちくしょうが!」
二度の蹴撃で受けた、気を失いそうな痛みと嘔吐感を、思い切り精神力を振り絞って耐え抜き、クシュウはヨロヨロと起き上がった。
一方の怪人はクシュウの様子をしばらく眺めると、止めの一撃と言わんばかりにクシュウに銃口を向けた。
「だありゃあ!」
まさに光弾が放たれようとする瞬間、クシュウは魔力を最大限に高めた剣を敵に向かって振った。
いや違う。投げつけた!
まさか武器を直接飛ばしてくるとは思わなかったのだろう。怪人の反応は一瞬遅れ、矢のように飛んでくる剣の刃先をまともに受けた。
怪人の身体にではない。
今まさにクシュウに照準を合わせていた、左肩にある魔法の銃に、である。
剣の切っ先は、銃口の真ん中に嵌まり込むように命中した。
発射直前だった銃は暴発を起こしたがごとく、怪人のすぐ横で「ボム!」という音を立て、青い炎を吹いて爆発した。
「グォオオオオオオオオオッ!」
爆発の余波を至近距離で受けた怪人は、痛みで狂ったように踊り、近くの木に激突し、右手に装備していた斧を落とした。
「はああああああああ!」
その隙にクシュウは全ての気力を開放して、怪人に豪快な体当たりを喰らわせた。
クシュウは右手から、肉を刺すあまりよろしくない感触を受けた。
クシュウの手にはあの洞穴で見つけた、魔物の尾先で作られたと思われるあの短剣が握られ、それが怪人の腹に突き刺さっていた。
武器を自ら捨てたクシュウは、この短剣で一か八かの勝負に出たのだ。
短剣の硬度と鋭さは信じられないほど高かった。この世界で業物と称される数々の武器も、この粗末な造りの短剣には敵わないかもしれない。
それは魔力強化等を一切行っていないにも関わらず、銃弾を受けても物ともしない怪人の強靭な肉体に深々と突き刺さったのだ。
力を込めると短剣は怪人の腹に更に喰い込む。怪人は緑色に光る血液を大量に噴き出し「グホ! グホ!」と声にならない悲鳴を上げた。
仕留めたか?とクシュウが思った矢先、怪人の右手が素早く動いた。クシュウは怪人から激烈な張り手を受けて、今日三度目に宙を舞った。
「げはあ!」「グオオオオ!」
近くの木に叩きつけられたクシュウと、動いた勢いで倒れこんだ怪人の、二人の苦悶の声が同時に鳴った。
クシュウの身体が地面に落ちて仰向けに倒れ、怪人は短剣が突き刺さった腹を必死に押さえながら立ち上がる。
意識が薄れていく中、クシュウは怪人が異色の血を垂れ流しながら、森の奥へと逃げていく姿を目にした。
(……やった? 勝ったのか?)
近くからダックの悲痛な鳴き声が聞こえてきた。ああ、そういえばこいつに助けられたんだったな……。とクシュウは声が聞こえるほうに首を曲げようとしたが、身体が思うように動かない。
感覚が麻痺してきたのか、先程のような痛みは、あまり感じられなかった。
(アンナは……? うまく逃げられたかな?)
そこまで考えたのを最後に、クシュウの意識は途切れ、ゆっくりと目を閉じていった。
薄暗い夜の森の中、そこには怪人が落とした銀色の斧・闇夜の中に実に目立つ光る血痕・そして全く動かなくなったクシュウの傍で、必死に鳴く若いダックの姿があった。