怪人と少年がいた山の、すぐ近くにその街はあった。
いくつもの赤い煉瓦造りの建造物が立ち並び、同じ赤煉瓦で建てられた大きな城壁に囲まれている。上空から見れば、城壁は正確な五角形に描かれており、各々五方向に大きな城門が建てられている。
街の南側にはとてつもなく広い人工池が存在している。そこは公園や農場関係でのものではなく、この国の兵達が利用している、ある“乗り物”を置くための施設であった。
人口約十二万人。南部の池と中央の王宮以外では赤一色の都市。ここがこの“エルダー王国”の王都“ケルティック”である。
何事も無い平和な時間が再び始まるであろうこの日の昼頃、南東の城壁の門に一人の旅人がやってきた。太陽が昇る前の時刻に、山の中を歩いていたあの少年であった。
門番の兵達はその少年の状態を見て呆然とした。
その少年の目は虚ろで、激しく息を切らしていた。全身汗で濡れており、フラフラと今にも転びそうな危険な足取りで、こちらに向かってきている。とても無事な状態とは思えない。
少年は兵達のすぐ側まで寄ると、通行証とおぼしき札を兵達に差し出した。
「父さ……、いやディロン・アマミヤの紹介でエルダー近衛隊への入隊を申し込みに来た、クシュウ・アマミヤと申します……。通行の許可を頂きたい……」
「あっ、ああ。それはいいんだが……、お前大丈夫なのか?」
息苦しい声で言葉を並べる少年――クシュウの姿に、兵士は心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫です! ただちょっと山の中を走ってきたので少し疲れてるだけで――」
言い終わる前に、クシュウは紙切れのようにフラフラと揺れて、パタリとうつ伏せに倒れた。
「おっ、おい! 大丈夫かお前! おおい!」
クシュウは倒れた自分に驚いた兵士達の声を、おぼろげな意識で聞きながら、クシュウはゆっくりと眠りについた。
「はっはっはっはっはっ! ははははははっ!」
ケルティックの大型病院の一室に高らかな笑い声が上がっていた。
「それで? その変な鳴き声にビビッて、ずっと山の中を走り回って、ぶっ倒れたてのかあ?」
部屋には笑い声の主である色黒の肌の青年と、青年の前のベッドに座っているクシュウがいた。
「本当にすみませんダッチさん。入隊前にこんな醜態晒してしまって……」
相手が目上の人物であるため、本人はあまり好まない丁寧語でクシュウは答え、力なくうな垂れた。
先日クシュウは、空から山に入り込んだと思われる謎の存在から、いち早く離れようと、山林の中を走った。だが向かう先に見当がついていたわけではなく。ただ思いつくままに走ったため、元々不安に駆られていた方向感覚が完全に判らなくなった。
そして夜間ずっと迷路に入り込んだかのように林の中をグルグル回り、朝日が昇り始めた頃になって幸運にも、王都の見える位置に辿りついたのだ。
誰が聞いても、とんだ笑い話である。
「ああ、別に気にするな。確かに可笑しかったが、思いつめるほどでもないさ」
クシュウは目の前にいる、今日から自分の上官になるというこの男の、にこやかな笑顔に首を傾げた。
「怒らないんですか? 『王室の護衛を任されるものがそんな腰抜けでどうするんだ!』とか王道なセリフを言われると思ったんですけど?」
「怒ることでもない。別に今は戦乱中でもないし、異界の魔物もいない。きな臭いものなど何も無いから、気軽な気持ちでいっても充分さ」
ダッチの言葉にクシュウは唖然とした。仮にも国の中核を守護する近衛兵がこんなもので良いのだろうか? 父だったら、一時間近くは怒声を浴びせるものだった。それに“異界の魔物”とはいったい……?
ダッチはそんなクシュウの様子など気にかけず、隣に置いてあるクシュウの荷物をまじまじと見詰めた。そして不思議そうな顔でクシュウのほうに首を向けた。
「しかしお前本当にディロン殿の子息か? 随分ボロイなりじゃないか? しかも共も連れずに、一人で歩いてここまで来たとはな……」
「父さんの言いつけなんです。『軍人たるもの、日常から自分を鍛えるべし』とのことで」
「えらく堅物なんだな。まあいい、とりあえず今日は休んでろ。詳しいことは明日だ。それまでに手続きは済ませてやる」
そう言って、ダッチは手を振って病室を出て行った。
クシュウはベッドに寝転がり、今後のことに思案を寄せた。自分は明日から近衛隊である。そのために今日まで一生懸命、剣と魔法の鍛錬を行ってきたのだ。
だが先程のダッチの言葉に、少々不安が浮かんできた。もしかしたら近衛隊は、今まで自分が想像していた質実剛健とは違うのかもしれない。
まあ考えても仕方ない。全ては明日判ることだ。それよりクシュウはもっと気になることがあった。
(あの変な鳴き声、結局何だったんだろ?)
その夜、ケルティックの街の、人口の極端に少ない片隅の市街地で、白いマントに身を包んだ五人の奇妙な男女が、薄暗く僅かに不気味さすら感じさせる歩道を臆面なく歩いていた。
彼らは街中を下調べするように見回し、ふうんとつまらなそうな声を上げる。やがて近くに恐らくは無人であろう、古い倉庫の姿を見ると、真っ直ぐそちらの方を歩いていった。
すると突如、片側の小さな歩道から二人の男が、姿を現した。彼らは白マントの者たちの前に立ちふさがり、手にナイフを握り締めて、やや引きつった作り笑顔を見せていた。
「誰だ、お前ら?」
先頭に立っていた女が不機嫌な表情で、ナイフを突き出してきた男に問いかける。
「誰だっていい。金出せこら」
男の一人が僅かに息を切らしながら答え、女のすぐ目の前まで近づき、首元にナイフ突きつけた。かくいう突きつけてきた男自身も緊張している様子で、こういった行いは初めてであることが容易に想像できた。
よく見ると男の顔の右半分に、赤黒い染みのようなものが、薄っすらと浮き出ている。
これは火傷の痕である。重度の火傷を負った後に、魔法で回復させると、このような染みが残るのだ。この男は過去に大火事にでもあったのだろうか?
喉に凶器を向けられているにも関わらず、女は恐怖に震えている様子は全く無かった。氷のように冷たい表情で、自分より背丈の高い男に見下すような目線を向けている
「意外だな。この国は治安が優れていると聞いていたのだが……」
「うるせえ! こっちはもう一日以上何も食ってねえんだよ! さっさと出せ! これでも俺たちゃ元軍人だ! あんまなめんなよ!」
怒りの琴線にでも触れたのか、ただ緊張して融通が利かないだけか、男は唐突に女達に対して喚き立てる。
「そうか。何だか知らんが訳ありのようだな。だが私達も訳ありでな、あまり目立つようなことは出来ないのだ。だからあまり騒ぎになることはしたくない。悪いが引いてくれるか?」
「おいおい何を言って――」
男の言葉は最後まで続かなかった。いきなり“トスッ”という小気味良い音が聞こえると、急激に身体から力が抜け始めたからだ。
一瞬何が起こったのか判らなかった男は、恐る恐る自分の腹部に視線を向ける。そこには凶悪なほど鋭さを感じさせる一本の細身の両刃剣が、自分の腹を深々と突き刺していた。
血を滴らせた剣は、目の前の女のマントの隙間から生えていた。女はマントの中に剣を隠していたのだ。
「て、てめえ――」
男は苦しげに怒りの声を放ったが、事はそれだけでは終わらなかった。
男の身体と一体化していた剣の刀身が、突如白く発光したのだ。そして直後に白い冷気が剣から大量に放たれた。
腹から強力な凍える魔力を注ぎこまれた男は、一瞬にして全身の感覚を失い、次に意識を失った。身体は石像のように硬直し、瞬く間に白く染まっていく。やがて各部から“ビシッ、ビシッ”と小さなヒビが入り始める。
「氷の魔法!? お前! ウェイランドの騎士か!?」
もう一人の男が、目前の現象に驚き、声を上げた。
女はその男の方に振り向き、冷たい笑みを浮かべると、剣を大きく右横に振った。男の腹はガラス細工のように脆く砕け、上半身が地面に落ち、粉々に砕け散る。
「ああそうだ。よく判ったな」
そう言って女は剣を一振り回転させ、男の方に剣を向き直した。
「う、うわああああああああああ!」
半狂乱になって男が逃げ出す。女はマントを翻し、白く光る剣先を、駆ける男の背中の方に真っ直ぐに向けた。翻したマントの裏からは、青い鎧に身を包んだ女の全身が見えた。
「凍風」
女が静かにそう唱えると、切っ先の光が急に強くなり、そこから強力な吹雪が発生した。それは光線のように直線状に放たれ、逃げる男に猛烈な速度で迫っていく。
「ぎゃあああ!」
冷風は男の背に直撃し、強烈な悲鳴が上がった。
だが直ぐに静かになった。男は一瞬のうちに先程の男と同様、白く固まったからだ。
この世界に古くから伝わる人間の特殊能力“魔法”の力によるものである。
女は気持ちよさそうに笑みを浮かべ、剣を鞘に納めた。
「大丈夫か、これ? 変な騒ぎにならないだろうな?」
同じ白マントを着た男の一人が、心配げに声をかけた。
「このくらいどうということはない。それより早々にあの倉庫に隠れるぞ」
「ああ、そうだな。決行のときまで、あそこで暇をもてあそぶか……」
男は深い溜息をつき、目の前にある古倉庫に足を進めた。騒ぎを起こしたくないなら、その目立つ白マントはやめたほうがいいと思うのだが、何かの風習だろうか?
「ん?」
最後尾を歩いている白マントの一人が、側にある廃屋と思われる家の屋上に、奇妙なものを見つけた。
一見すると、そこには何もないように見える。
だがよく見ると、その屋根上の空間の一部が奇妙に歪んでいることが認められた。それは透明なガラス瓶から、向こうの風景を眺めているようであった。
だがそれはガラス瓶でないのは明らかだった。その歪みは人のような形をしていた。そして生き物のように、微妙に動いている。
「何だ! お前は!」
危機感を感じた白マントの男は、即座にマントを脱ぎ、剣を抜き放つ。
すると、その人型の歪みから、“ドギュン”という音と共に、青く光る何かが飛び出した。
一瞬だった。それは目にも止まらぬ速さで、男の身体を通り抜けた。すると頑丈な鎧に覆われた男の胸と、その後ろにある地面に、綺麗な丸い穴が出来上がっていた。
「……?」
男は何が起こったのか、何一つ理解できぬまま絶命し、倒れ付した。
「なんだ、あれは!」
前方を歩いていた残りの白マント達は、後方の事態に気付き、同時に屋上の透明人間を見て驚愕した。
「何だっていい! 撃て!」
リーダー格であったらしい女が、慌てて剣を抜き、透明人間の方向に切っ先を向けた。突然の事態に、先程ゴロツキを葬ったときの余裕ぶりは微塵も無くなっていた。
他の白マント達も剣を抜き放ち、一斉に屋上の透明人間に向けて、ゴロツキに放たれたのと同じ氷の魔法を放つ。
その時だった。吹雪が命中する直前に、透明人間は屋上から飛び上がった。
信じられない跳躍力で、道の向こうの家の屋根に着地し、吹雪を回避する。着地した衝撃にその家の屋根が大きな軋み音を立て、先程まで透明人間がいた屋根には吹雪が衝突し、大量の白い冷気と突風が弾けるように発生した。
「逃がすか!」
白マントたちは構わず、標的に向けて魔法を放った。
透明人間は家々の屋根を駆け抜け、攻撃から逃げる。見たところかなり大柄な体格であったようだが、それにしてはとてつもない走力である。さっきの跳躍といい、小柄な猿でもこれほどのことはできないだろう。
白マントたちは無我夢中で魔法を放ったが、それは過ちだった。
いくつもの直線状の吹雪が家の屋根に命中した影響で、大量の冷気が発生し、白マントたちの頭上は、雲のような真っ白な気体で覆われて、何も見えなくなってしまった。
「に、逃げたのか?」
頭上を見上げる白マント達の表情は、悔しげながらも、どこかホッとしているように見える。
だがそれはつかの間のことであった。
“ドスッ”という鈍い音が聞こえた直後に、一人の白マントの身体が宙に浮き上がった。
「なあ!?」
凝視すると、その白マントの胸、心臓の辺りを透明な二本の刃が突き抜けて、血を垂れ流していた。白マントの背後には彼を右腕で持ち上げるようにして、さっきの透明人間が立っていた。
彼は背後から、透明人間に心臓を貫かれ、悲鳴を上げる暇もなく殺されたのだ。
「うっ、うわあああああああああ!」
残りの三人は我を失って、魔法を放つ。透明人間は右手の刃で持ち上げた白マントを、盾にして魔法を受け止め、三人に向かってに突進してきた。
透明人間が彼らの至近距離まで近づいたのは、白マントの死体が凍り付けになり粉々に砕けると同時だった。
透明人間は死体を貫いていた右手の鉤爪を大きく振り、二人の白マントを一挙に切り裂いた。大量の血しぶきが上り、二人はあっけなく倒れた。
「馬鹿な!? 何なんだっ、お前は!? エルダーの兵なのか!?」
もはや一人だけになってしまったリーダー格の女は、透明人間に向かって強く叫んだ。
それに答えたのかどうかは判らないが、透明人間の様子が変わった。
不完全に透明な身体から、青い電流が不規則に発せられ、間もなく見えなかった姿が、徐々に映し出されてきた。
そこに現れた姿。透明人間の正体は、昨日の夜に、奇妙な物体に乗って、天空から山中に降り立った、あの怪人だった。
「化け物めええ!」
女の剣の刃の光が一段と強く光った。そしてその剣を怪人に向けて、女はがむしゃらになって突進した。魔力を纏った剣で、直接敵を攻撃するつもりのようだ。
迫ってくる魔法を纏った剣先に向けて、怪人は右腕の鉤爪を大きく払う。
するとどうだろう。相当な業物であるのであろう女の剣は、そこらの棒切れのようにあっけなく砕け散った。
「あっ、ああああああ……」
剣からは光が消え、女は今までの人生で一度も味わったこともない恐怖に硬直する。
怪人はそんな女に容赦なく、鉤爪を突き出した。
静かな夜の街を、外の市街地にも届くほどの壮大な悲鳴が上がった。