真っ暗な空間。
騒音も何者もない、俺だけの世界。
俺は、その場所にただ佇んでいた。
何もしない。何もしなくてもよい。
誰かの話し声も、視線も、気にすることはない。俺にとって非情に心地良い場所。
が、俺の平穏は突然破壊される。
「……つ……めく……」
ノイズの掛かったような、変な声が聞こえる。その声は少女のもののようで、俺を呼んでいる風だった。
俯いていた俺は声を聞き、顔を上げて周囲を見回す。
「……ばめ君……」
また、俺を呼ぶ声が聞こえた。
俺の予想が正しいのなら、声の主は俺が知っている人物だ。
周囲をキョロキョロと探すが、俺の目には真っ黒な背景が映るのみ。
「つばめ君」
今度ははっきりと聞こえた。
即座に後ろへ振り向くと、声の主はそこに立っていた。
が、俺の予想は外れていた。
「小早川……?」
そこに立って呼んでいたのは、俺の想像していた人物ではなく、クラスメートの女子。
だが、聞いた声は確かに「アイツ」の声だった。
どうして小早川があの声で、しかも俺の名前を呼んでいたのか。
そんな疑問を気にしないかのように、小早川は真っ黒な空間で、俺を笑顔で見つめ続ける。
「――」
小早川は何かを言おうと口を動かすが、俺にはその声は聞こえなかった。
そして次の瞬間、小早川のいた場所を車が通り過ぎていった。
肉が潰れ、骨が折れる音が俺の耳を劈き、小早川の血が黒い背景を紅く染めた。
「っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、俺は飛び起きる。
周囲は真っ黒の空間ではなく、アパートの部屋だった。
窓からは熱い日差しが降り注ぎ、俺の隣の扇風機が首を振りながら風を送っている。
「……夢、か」
滝のような汗を掻き、俺は現実に戻ってきたことを確認する。
少しは涼しい朝の内にと、俺は夏休みの宿題をやっていた。
が、次第に集中力が途切れていき、何時の間にか寝てしまっていたようだ。
「くそっ、嫌な夢を見た」
俺ともあろうものが、あんな悪趣味な夢を見るなんて。へばり付いた汗の気持ち悪さと合わせて、顔を顰める。
この汗が暑さから来るものだけなのか。それとも、悪夢を見たことで冷や汗も掻いたのか。
「……昼、まだだったな」
時計を見ると、時刻は12時をちょっと過ぎたところ。
気持ち悪い汗をシャワーで流してから、飯を食いに行こう。
落ち着きを取り戻した俺は、やりかけの宿題を閉じて風呂場に向かった。
外着に着替え、街まで自転車を扱ぐ。
途中のコンビニで弁当を買って帰ってもよかったのだが、冷蔵庫の中身が空なのに気付き、買い物ついでに外食で済ませることにした。
外は相変わらずの夏らしい熱気に包まれ、セミが喧しく鳴いている。俺にとっては害虫に等しい煩さだ。
セミだけではない。旅行者を乗せた飛行機も、祭の太鼓も、花火も。煩いものは全て俺の敵だ。
夏休みに入り、かえでと頻繁に会わなくなって少しは静かに過ごせるかと思ったら、夏は騒々しさのオンパレードだ。
「……チッ」
体を蝕む暑さと、セミの煩さに俺のイライラは募る一方だった。
「ありがとうございましたー」
ハンバーガーで簡単に昼食を済ませ、俺はスーパーへと自転車を走らせようとした。
「観察結果、つばめはピクルスを抜いてハンバーガーを食べる」
「ダメだねー、好き嫌いは」
俺の後ろを付いて来るコイツ等さえいなければ、もう少し落ち着いて食事が出来たものを。
店の中で、俺はかえでとさとるに出くわしてしまったのだ。
席も丁度空いているからと強引に引き摺られ、普段の教室と変わらないような状態になった。
「おいおい、そんなに慌てて帰るような用事もないだろう」
「お前等と無駄話をする用件もない」
特に、かえでの無駄に喧しい話は休みの日にまで聞きたくもない。
食事中も、かえでは俺が蹴った花火大会の話を延々としていた。
「いやー、花火もそうだし、みなみやゆたかの浴衣姿も綺麗だったぜ!」
「ゆたか……浴衣……ぷっ」
携帯で撮った画像を見せるかえでだが、さとるは意味不明な箇所で腹を抱えていた。コイツの笑いのツボは本当に何処にあるのか分からない。
そんなことより、何故かかえでは小早川と岩崎を名前で呼んでいた。あの日に仲良くでもなったのか?
「そうそう! 俺達親睦を深めて、名前で呼び合うようになったんだぜ!」
人が気になったところをタイミングよく話すな。気色悪い。
こんな風に、俺がハンバーガーを齧っている間もかえでは小早川や先輩達と楽しんだ話を続けていた。
「オイ、待てって!」
かえでを無視して自転車に乗る。
食事を邪魔されたんだ、これ以上話を聞いてやる義務もない。
「小早川ゆたか」
ふと、さとるが呟いた言葉に、ペダルを踏んだ俺の足が止まる。
「その反応、ゆたかと何かあったのか?」
油断していた。さとるが他人の考えを読めることを忘れていた。
小早川の名前を出される度に、昼間の夢が俺の頭を過ぎる。だからか、無意識の内に反応していたらしい。
「何だ、喧嘩か?」
「……違う」
かえでの問いに首を振る。
喧嘩どころか、休みに入ってから小早川には会っていない。それなのに、何故アイツが夢に出てきたんだ……。
「とにかく、俺はもう行くぞ」
「あ、ああ」
俺の異変を感じ取ったのか、珍しく大人しく引くかえで。
「……悪い、またな」
少しばかり罪悪感を感じたのか、俺は去り際にそう言って自転車を走らせた。
「……信用ないなぁ、俺達も」
「つばめの信用を得るのは、簡単じゃない」
スーパーに着いても、イライラが収まらない。
蒸し暑いのも、セミがうるさいのも、かえで達に会ってしまったのも、全てあの夢の所為にすることにした。
大体、何であの夢に出て来たのが小早川なんだ?
初めに聞こえた声は確かに「俺が知っている別の人間」のものだった。なのに、最後に姿を現したのは笑顔の小早川。
自分で見た夢なのに、訳が分からなくなる。
「……ん?」
考え事をしていたからか、すっかり目当てである卵売り場を通り過ぎてしまっていた。
俺は一旦考えを捨て、残ったパックに手を伸ばす。
しかし、別方向から伸びた他人の手とぶつかりそうになった。同じパックを取ろうとしたらしい。こんな偶然があるんだな。
「すみませ……あっ!」
相手は慌てて、こちらに謝ってくる。
が、聞き覚えのある声に俺の表情は固まった。
その声は今、一番俺が聞きたくなかった人物のものだったからだ。
「奇遇だね、湖畔君」
「ああ……そだな」
顔を赤くしながらも微笑む小早川に、俺は今日という日を呪った。こんな偶然あってたまるか。
「湖畔君も、よくあのスーパー使うの?」
「まーな」
何の因果か、俺は少なくとも今日一日会いたくなかった人物と何故か帰り道を共にしていた。
まさか、小早川もあのスーパーを利用していたなんてな。
「そっか。安いもんね」
「近いし、この辺よく知らんからな」
これがかえで相手だったら、邪険にして即帰ることが出来ただろう。
だが、小早川はそうもいかない。かえでと違って煩くもないし、性格も悪い女ではない。
おまけに体が弱く、俺が去った後に体を崩されたら溜まったものではない。
「え、そうなの?」
「俺、アパートで1人暮らしだから」
話の流れが、何時の間にか俺の身の上話になっている。
ここまでくれば、もうどうにでもなれと思えてしまう。
「実家も埼玉?」
「いや、東京」
「帰らないの?」
「帰る気が起きない」
小早川の質問を淡々と返していく。普段なら、ここまで質問されれば黙れと返すんだが、今はそんな気すらない。
こんなことになるなら、帰省しておけばよかったと少しは思った。
「……じゃあ、私が案内しようか?」
少し間を置いてから、小早川が今度は提案をする。
この辺の案内か……。確かに、スーパーまでの道は1つしか知らないし、他にどんな店があるかも分からない。
「別にいい」
俺は小早川に一瞥もくれてやることなく、申し出を断った。
いくら小早川がいい奴だとしても、付きまとわれるのは今日だけで十分だ。
「そ、そう? ゴメンね、迷惑だった?」
小早川は残念そうな声で、逆に謝る。
俺の数少ない良心が罪悪感に駆られるが、それでも小早川の顔を見ようとしなかった。見れば、あの悪夢を思い出してしまう。
「……私といるの、嫌だった?」
声のトーンが低いまま、小早川はポツリと呟く。
「何でそう思う?」
「だって、さっきから湖畔君、私のこと見ようとしてないから……」
……今日はつくづく、行動が裏目に出る日だ。
ここまであからさまに避けられれば、小早川も不安になる。こんな単純なことにも気付かないなんて。
「お前は何もしてない。個人的な事情……いや、我侭だな。悪かった」
素直に否を認めて謝る俺に、小早川は目を点にする。
俺が謝るなんて、滅多にない光景だからな。驚くのも分かる。
「……私、ずっと湖畔君に迷惑かけてたんじゃないかって思ってた」
俺がやっと小早川の方を見ると、顔を俯き落ち込んでいる様子だった。
「授業のノートもいつも写させて貰ってるし、勉強会でも頼りっぱなしだったから」
確かに、俺がコイツの面倒を見る機会は多い。けど、俺以上に岩崎という保護者もいるし、迷惑度ならかえでの方が圧倒的だ。
「それに……湖畔君、自分のこととかあまり話してくれないし、いつも不機嫌そうで」
「怖い、か」
俺の言葉に小さく頷く小早川。
意外だった。いや、よくよく考えて見れば、それが普通の反応だった。
俺は誰かに近寄って欲しくなかったから、嫌われるような態度を取っている。なのに、小早川やかえで達は気にせず俺の周囲にいる。
最初は何故かと不思議に思っていたが、何時の間にかそれが普通になっていた。
孤独と静寂を望んでいた俺が、他人に囲まれている環境を当然のように感じていたのだ。
「……甘え、だったのかもな」
望んでいなかった結果に、俺は言葉を漏らす。
俺がいくら噛み付いても、アイツ等は離れない。そんな甘えが、何処かに出来ていた。
「湖畔君?」
「俺は、お前を迷惑だと思っていない」
俺は小早川に向き合って話す。
もう離すことの出来ないものならば、付き合い方を改める必要がある。
「やっぱ、この辺のことを教えてくれるか……ゆたか」
前言を撤回し、俺はゆたかに頼み込む。
この時ばかりはかえでに習うことにした。名前を呼べば、より親しくなれるらしいからな。
「う、うん! 勿論だよ、つばめ君!」
小早川は目を見開き、満面の笑顔で大きく頷いた。
昼間に見た夢は一体何だったのか、俺には分からない。
ただの悪夢なら気にすることはないのだが、鮮明に残る嫌な光景は俺の心に小さな影を残した。
☆★☆
「……出番はいらないな」
帰っていくつばめ達を物陰から見つめながら、俺は肩を竦めて呟く。
スーパーに買出しに行ったところ、つばめとゆたかの姿を見かけたので、後を付けて来たのだ。
特につばめの様子が、明らかにゆたかを避けているのが気になってな。
「ま、アイツなりの成長ってところか」
仲介役として出て行く必要もなくなり、不安要素が消えたので、お邪魔虫にしかならない俺はさっさと退散することにした。
その時、ポケットの中の携帯がブルブルと震える。
「もしもし?」
〔あ、はやと君? よかった、繋がって~〕
電話の向こうの声はつかさのものだった。
繋がる度に安心されるのもどうかと思うが。まぁ電話に出ないこっちが悪いんだけど。
「何か用か?」
〔あ、うん! 去年みちる君の別荘に行ったよね?〕
あぁ、確か海でコイツに泳ぎを教えてやったり、洞窟探検したな。
「覚えてるぞ」
〔今年もまた行かないって話が出てるんだけど、はやと君も行くよね?〕
なるほど。避暑地としても最高だったしな、あそこ。
勿論、行かない理由なんてあるはずもなく。
「約束したろ。クロールと平泳ぎ、みっちり叩き込んでやるって」
〔あはは……お願いします〕
受話器の向こう側で苦笑しているのが用意に想像でき、思わず笑みが零れる。
その後、詳しい日程等を全員で話し合うと聞いて、電話を切った。
「夏の思い出、か」
今年はどんな出来事が起こるのか。もしかしたら、俺にとってのチャンスが来るかもしれない。
期待に胸を膨らませ、俺は家路に付いたのだった。
どうも、雲色の銀です。
第11話、ご覧頂きありがとうございました。
今回はつばめの夏休みでした。
そして、名前呼びイベントの延長戦でもあります。
これでつばめももう少しは丸くなってくれる……はずです(笑)。
あの悪夢については、実はつばめの根幹に関わってきます。
夢の中とはいえゆたかを車で轢いてしまい、ファンの皆様すみませんでした!
次回は、別荘リターンズです!1年陣は暫く出番がありませんのであしからず。