【ARIA】 その、いろいろなお話しは……(連作)   作:一陣の風

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三本目のお話しをお送りします。
有る意味、これは番外編です。みな様のお許しをいただければ幸いです。

このお話しを読み終えた後。みな様の脳裏にほんの一瞬でも「セイレーン」の謳声が響けば、これに勝る「誉」はありません。
それではしばらくの間。お付き合い、よろしくお願いします。


 PS
「Oriental Green  - オリエンタル・グリーン -」というアルバムに収録された「海」(作詞/林 柳波 作曲/井上 武士)という曲。  私は大好きです(鹿馬)


第三話

前略、お元気ですか?

 

 

 

  第三話 「 li mare 」

 

 

 

灯里達は緊張のさなかにいた。

ネオ・アドリア海に面した海辺で、灯里達は緊張の面持ちで、その時を待っていた。

なぜならその日。 灯里達は、自分達の練習に特別講師を招いていたからだ。

 

その人は、ここネオ・ヴェネツィアにおいて知らぬ人は誰ひとりとしていない、トップ・プリマの一人。

その名を聞いただけで、誰もが振るえあがり、おびえた顔をみせる。

 

その人の名は-

 

 

「あ~ごめんなさぁい。 遅刻、遅刻ぅ…のべっぇ!」

 

 

アテナは、なんの脈絡もなく顔面ゴケした。

 

 

 

かつて火星と呼ばれていた赤い星が、大規模なテラ・ホーミング化により、水の惑星「アクア」と姿を変えてから150年。

その都市のひとつである、ここネオ・ヴェネツィアに、ゴンドラを使い観光を行う水先案内人-ウンディーネと呼ばれる人達がいた。

女性しかなれず、この街のアイドルとまで呼ばれる彼女達。

 

「ペア(両手袋)」=見習い 「シングル(片手袋)」=半人前 「プリマ(手袋なし)」=一人前

 

と、厳格にクラス分けされたその中においても、特に技量に優れたプリマにのみ与えられた称号・「トップ・プリマ」

または「三大妖精」とも呼ばれる三人のプリマ。

 

【クリムゾン・ローズ 真紅の薔薇】 「姫屋」の、晃・E・フェラーリ。

【スノーホワイト 白き妖精】 「ARIA・カンパニー」の、アリシア・フローレンス。

 

そして-

「オレンジ・ぷらねっと」の、アテナ・グローリィ。

 

この三人は、まさにプリマ中のプリマ。 アイドル中のアイドル。 

「アイドル・マスター」ともいうべき存在だった。

 

 

 

「はひっ。 大丈夫ですか?」

「ぷいにゅにゅにゅにゅっ」

灯里とアリア社長があわてて駆け寄った。

水無 灯里(みずなし・あかり)は「ARIA・カンパニー」のシングル・ウンディーネ。

ピンクのサイドに長く伸ばした髪が特徴的な女の子。 地球=マンホームの出身で、明るく、ただ一緒にいるだけで不思議な心地好さを感じさせる女の子。

 

「あわわ。 怪我はありませんか?」

藍華がヒメ社長と歩み寄りながら訊ねる。

藍華(あいか)・S・グランチェスタは「姫屋」のシングル・ウンディーネ。

長い髪をふたつくくりのお下げにして、元気一杯に走り回る、そんな快活な女の子。でも灯里、曰く「素適な泣き虫さん」な女の子。

 

「でっかい、やると思っていました」

アリスが、まぁ社長を抱きながら、一歩も動くことなく、あきれたように言い放った。

アリス・キャロルは「オレンジ・ぷらねっと」のペア・ウンディーネ。

明るい緑色の長い髪をなびかせ、無表情に言い放つ女の子。 彼女はしかし、若干14歳で将来を嘱望される、天才ウンディーネな女の子なのだ。

 

 

「まぁぁぁ…」

アリスの腕の中で、まぁが小さな鳴声を上げた。

 

ちなみに-

アリア。 ヒメ。 まぁ。 は、それぞれ「ARIA・カンパニー」「姫屋」「オレンジ・ぷらねっと」の社長猫である。

社長猫? 

そう。

ここネオ・ヴェネツィアの水先案内店では、蒼い瞳の猫を「アクアマリン瞳」と呼び、航海の安全を祈る守り神として、共に暮らしているのだ。

 

 

 

 

「はあい。大丈夫ですぅ。よくあることですぅ」

アテナが、ゆっくりと立ち上がりなが言った。

 

「はい。よくあることですね」

アリスが突き放したように言った。

 

「アリスちゃん…」

「ぜんぜん、心配しないのね…」

灯里と藍華は、タメ息をつくばかり……

 

 

 

 

「さあ、今日は私。 アテナ・グローリィが、あなた達の特別講師を務めます。 わーい。ぱちぱちぱち」

 

何事もなかったかのように!

自ら手を叩き、嬉しそうに話を始める、アテナ。

 

「は、はひっ……」

「よ、よろしくお願いします」

とまどうように返事をする灯里と藍華。

 

「…ぱち…ぱち…ぱち…」

ただ無表情に手を叩くアリス。

 

 

そんなアリスの先輩のアテナ・グローリィは【セイレーン 天上の謳声】の通り名を持つ、信じがたいが、トッププリマのひとり。

その唄は、聞くもの全ての心を優しくつかんで離さない。

ウンディーネのカンツォーネ(舟歌)など、聞き飽きているハズのネオ・ヴェネツィアの市民が、彼女の謳声が聞こえてきた途端、

なにもかも放り出して、その唄に聞き入る。

と、まで言われている、至極の謳声だった。

 

けれど-

 

 

「ねえねえ、藍華ちゃん」

「あによぉ、灯里」

灯里が藍華の見元でそっとつぶやいた。

 

「なんだか、アリスちゃん、機嫌悪いね……」

「きっと大好きなアテナさんが、いきなりドジっ子だったモンで怒ってるんでしょ。 ホント、お子ちゃまなんだから……」

「先輩方。 でっかい丸聞こえです」

アリスが憮然と答えた。 

 

ドジっ子。

信じられないほどのドジっ子。

そのあまりな天然ぶりに、それを知るすべての人々を

「今日はいったい何をやらかすのか!?」と-

震え上がらせる、恐るべきドジっ子。

 

毎日、何かしらの騒ぎを起こし、寮での同室者でもあるアリスを、いつもあきれさせている。

でもその実。

「気配りの名人」とも呼ばれ、口に出さずとも、そっと周りを心使う。

そんな優しいアテナのことを、アリスがとても大切に思っていることもまた、周知の事実だった。

 

 

 

 

「はい、まずは一度、みんなで唄ってみましょう。 さん、はい」

アテナに促されるまま、唄いだす灯里達。

 

楽しげに唄うものの、どこか音程がズレる灯里。

元気よく唄うものの、先走り、リズムがズレる藍華。

正確に唄うものの、小さい声しか出ていないアリス。

 

 

カンツォーネはおろか、人前で歌うことさえはばかれる様な、三人の歌だった。

 

 

「ぱちぱちぱち。 はあーい。よく、できました~☆」

自分達でも自覚があるのか、歌い終わって、シュン-としている三人に、アテナはとても楽しそうに手を叩いた。

 

「はへ…よくできたって……」

「あの、私達、ちゃんと分かってますから…その……」

「アテナ先輩。 でっかい遠慮なく言ってください!」

 

「ではここで質問でぇす」

けれど、そんな三人にかまわず、アテナは、にこにこと微笑みながら問いかけた。

 

「みんなにとって、歌を唄うって、どんなことですか?」

 

「はへ?」 

「どんなこと?」

「意味じゃなくってですか?」

「そうよ。 みんな、どんな想いで歌を唄っていますか?」

 

アテナは相変わらず、にこにこと微笑みながら訊ねる。

 

 

「えと……お客様に楽しく聞いていただく?」

「よきウンディーネとして、しっかりと唄う」

「でっかい声で元気よく唄う……」

 

質問の意味にとまどいながらも、三人が三様の答えを返す。

その答えに、アテナは微笑みながら言った。

 

「はぁい。 みんなどれもいい答えですね。 でもー」

 

 

 

 

- Il mare è grande. È grande.

 

不意にアテナは謳いだす。

 

 

- La luna sorge.  Il sole affonda.

 

目の前に広がるネオ・アドリア海。

その海に向かって、アテナはゆっくりと、けれど力強く、歌を紡いでゆく。

 

 

- Il mare è una grande onda. Onda blu

 

アテナの謳声は、その海に広がって静かに広がってゆく。

 

 

ー Scuota e continui come lontano.

 

その謳声を灯里達は、まるで魂を抜かれたかのように、身じろぎひとつせず、ただじっと聞き入っていた。

 

 

- Una nave è stata a galla sul mare.

 

群れ飛ぶカモメ達が、嬉しそうに鳴声をあげる。

波がきらきらと輝き、揺れていた。

 

 

- Io desidera andare. Un paese diverso……

 

 

アテナは謳い終えると、灯里達の方に向きなおり、ゆっくりと言った。

 

「歌は『希望』です」

「歌は『希望』……?」

意味がでっかい分からん。

と、いった声で、アリスが聞き返す。

 

 

「そう。歌は『希望』です。だから何よりもまず、歌を唄う自分を好きになってください」

 

 

「ほへぇ…歌を唄う自分を……ですか?」

おずおずと灯里が訊ねる。

 

「そうでぇす。なによりもまず、自分が楽しんで歌を唄いましょう。そうすれば-」

「そうすれば?」

 

アテナは満面の微笑みを浮かべた。

 

「そうすれば歌はきっと、あなたの夢をかなえてくれます!」

 

「は、恥ずかしいセリフ禁……」

言いかけて、藍華はなんとか思いとどまった。

 

 

 

 

  前略、お元気ですか?

 

 

灯里達は唄う。

アテナに教えられるまま、請われるまま、歌を唄う。

楽しげに、幸せに、自分のままに歌を唄う。

それはとても素適な時間だった。

ウンディーネ達の謳声が響いてゆく。

 

 

 

-ぼっちゃああああん!!

「きゃあっ」

 

突然、目の前の海になにかが投げ込まれ、水柱が立った。

それはまたたく間に滴を広げ、灯里達に襲いかかる。

 

「は、はひっ」

「いったい何ごと?」

「でっかい、水がかかりました」

「ぷいぷいぃぃぃぃ!」

「まぁぁっ」

「………」

 

灯里達はおろか、社長ズ達にも水が撥ねる。

みんながあわてて、あたりを見やれば-

 

「お前達、歌なんか唄うな!」

手にいっぱいの石を持った男の子が、そう叫びながら石を海に投げ込んでいた。

 

 ぼっちゃぁぁあぁぁあん!!

 

再び水が撥ね、灯里達に水しぶきをかける。

 

「はあぁひいいいい!」

「ちょっと、何すんのよ!」

「なんなんですか! なんなんですか!?」

 

藍華とアリスが男の子に向かって駈け出して行く。

あわててその後を灯里が、社長ズ達と一緒に追いかける。

そして、ひとり残ったアテナは-

 

「あ~ぁ。濡れちゃった……」

濡れた自分の服を見ながら、のんびりと呟いていた。

 

 

 

 

「ちょっと、アンタ何すんのよ!」

最初に追いついた藍華が、男の子の腕をつかみながら叫ぶ。

 

「でっかい、濡れちゃったじゃないですか!」

アリスが男の子に怒りの視線をぶつける。

 

「うるさい! 離せ、ブス! お前達が悪いんだ!!」

けれど男の子は臆することなく言い放つ。

 

「な、なんですってぇぇぇぇ!」

藍華が男の子の両肩を持って、がくがく-と揺さぶる。

アリスは物も言わずに、男の子の頭に、チョップを叩き込み始める。

 

「痛ぇ! 離せよ。ブスども! お前達が悪いんだ。 こんなトコで唄ってる、お前達が悪いんだぞ!」

「まだ言うかぁ!」-がくがくがく。

「チョップ、チョップ、チョップっ」-げしっげしっげしっ。

 

「ま、待ってよ、藍華ちゃん。アリスちゃん!」

ようやく追いついた灯里が、止めにはいる。

 

「止めるな、灯里。 コイツは言ってはならんことを言った!」

「その通りです、灯里先輩。 でっかい許しがたいです!」

「だからって、ふたりとも、喧嘩はダメだよぉ……」

 

 

 

「ごめんなさい」

 

突然、涼やかな風のような声が響き渡った。

あわてて声の方を見やれば-

 

そこには、とても綺麗な女の子が立っていた。

歳の頃は灯里達より、少し上か…

細身の体。 透き通るような色白の肌。 濡れているような黒い髪。 はっきりとした目鼻立ち。

 

「綺麗……」「ぷいにゅん」「まぁぁぁ」

灯里が思わず呟き、社長ズ達も同意する。

 

「ごめんなさい。アルドを…弟を許してやってください」

「お姉ちゃん!」

男の子は藍華の手を振り切ると、あわてて姉の方へ駆け寄った。

 

「お姉ちゃん。ちゃんと病室にいなきゃ、ダメだよっ」

「そう思うのなら、この人達にちゃんと謝りなさい」

「だって、だって…こいつら……」

 

「アルド。 謝りなさい」

「……………」

「アルド!」

「あのぉ……」

ゆっくりと近づいてきたアテナが訊ねる。

 

「この子はどうして、石なんか投げてきたのかしら。 何か理由があるの?」

「あなたは!? …いえ、ごめんなさい」

 

「お姉ちゃんが謝ることなんかないよ! こいつらが悪いんじゃん!」

「アルドっ」

けれど男の子は、憎悪のこもった目でアテナ達を見、言い放つ。

 

「こんなトコで、お姉ちゃんの気持ちも知らず、のん気に歌なんて唄ってる、こいつ等が悪いんだ!!」

そう言うと、アルドは姉の制止も振り切って駆け出してゆく。

 

そんな弟の後ろ姿を、姉は、さびしげに見送っていた。

 

 

 

「本当に、ごめんなさい」

姉がもう一度、アテナ達に頭を下げた。

アテナ達と姉は、近くの公園の椅子に座りながら、姉の話を聞いていた。

 

「あ~もういいですから、そんなに謝らないでください」

アテナが言う。

 

「はい。私達ももう大丈夫ですから」

「もうすっかり乾いちゃったしね」

灯里と藍華が笑いながら言う。

 

「ぷいにゅん」「まっ」

アリアと、まぁも声を上げる。

 

「でもどうして弟さんは、あんなことしたんですか? 理由、でっかい知りたいです」

アリスが訊ねる。

 

「ごめんなさい。 ずべて私のせいなんです」

姉はそう言うと、悲しそうに瞳を伏せた。

 

 

彼女は近くに有る白い建物を指差す。

 

「私はあの病院に入院しているんです」

「入院? どこか悪いんですか?」

「はい。実は喉の病気で……」

「そんな。そんなに綺麗な声なのに……」

 

「ありがとう、ウンディーネさん」

「あ。私は灯里です。 こっちは藍華ちゃんに、アリスちゃんです。よろしくお願いします」

「私は、アイラです。よろしく」

 

「そしてこちらは……」

「アテナさんですね」 

灯里が紹介する前に、アイラはその名を眩しそうに口にした。

 

「お名前は以前から知っています。有名です。私の憧れなんです」

「えへ。 ありがとう」

アテナは恥ずかしそうに、頭を掻いた。

 

 

「私、今度、手術を受けるんです」

アイラは、ぽつりと語りだした。

 

「お医者さんが仰るには、手術しても成功の確率は50:50。 成功しても声が出なくなる場合もあると。

 でも手術をしなければ、100パーセント声を失い、最悪の場合には、命そのものも危ないと……」

 

 

「そんな……」

「だから私は、手術するほうを選びました」

絶句する灯里達に、アイラが顔を上げ、はっきりと言い切った。

 

「私、将来、女優になりたいんです」

「女優に……」

「はい。それも歌でみんなを感動させられる。 そんな女優になりたいんです。 だから……」

「だから、手術を受けると?」

「はい」

 

「素適んグです!」

灯里が瞳を輝かせる。

 

「きっとアイラさんの歌声は、みんなを感動させ、喜ばせる、アテナさんに勝るとも劣らない、そんな素適な歌を奏でられますよ」

「はい、恥かしいセリフ禁止ぃ!」

「ええ~ぇ」

「両先輩とも、でっかいお約束です…」

 

「ふふふ。ありがとう灯里さん」

アイラは灯里達と出会って、初めて笑った。

 

 

「それで…あの子はアイラさんのために石を投げたと…」

「大好きなお姉さんのために…」

「アイラさんの前で歌を唄ってる私達が、無神経に思えたんですね、きっと」

 

「ごめんなさい」

 

「だからもういいですって。 …お姉ちゃん思いの、いい子ですね」

「ありがとうございます。 そう言っていただけて……」

 

 

「手術はいつなんですか?」

アテナが訊ねた。

 

「……一週間後です」

アイラがつぶやくように言う。

アテナは、そんなアイラの指先が、かすかに震えていることに気づいていた。

 

「アイラさん……」

「はい?」

「歌は希望です」

「え? 希望……ですか?」

「ええ」

 

きょとんとするアイラに、アテナはそれが当然の真実のように言い切った。

 

 

「歌はすべての夢をかなえる、素適な希望なんです。 だから唄うことを諦めないで」

 

 

「希望……」

「アイラさん」

 

アテナはアイラに『希望』を紡ぐ。

「手術が終わったら、私と一緒に謳ってくださいね」

 

「……アテナさん」

アテナは笑顔でうなずいた。

 

「はい。ありがとうございます。必ず、一緒に謳わせてください」

その『希望』を受けて、アイラは泣きながら笑った。

 

 

 

    ****

 

- Il mare è grande. È grande.

 

あれから数日。

 

病室の窓から、目の前に広がるネオ・アドリア海を見ながら、アイラはその歌をくちずさんでいた。

あの日、あの後。

アテナに教えてもらった歌。

遥か遠きマンホームに伝わる歌。

 

寄せては返す波のように。

満ちて干いてゆく潮のように。

 

大らかでゆったりとした、優しい歌。

 

 

- Io desidera andare. Un paese diverso……

いつか私も、いろんな国を旅してみたい。

楽しく唄いながら、いろんな場所を巡ってみたい。

 

 

「お姉ちゃん!」

「アルド?」

「お姉ちゃんダメだよ、唄っちゃっ。 もっと喉が悪くなっちゃうよ!」

ベッドの上のアイラの腕に、アルドが抱きついて来る。

 

「うふふ。ありがとう、アルド」

そんなアルドの頭を優しくなでながら、アイラは小さく笑う。

 

「これくらいなら大丈夫だって、お医者さまも言ってたし。 それに…」

 

 

 それに今、唄っていなければ、もう二度と唄えないかもしれない。

 

 

「ううん、なんでもないよ」

そんな思いを、アイラはあわてて振りはらう。

 

「…お姉ちゃん。 いよいよ、明日だね」

アルドが苦しげに言う。

手術の日が来たのだ。

 

「うん。大丈夫よ、アルド。お姉ちゃんは大丈夫」

 

私はちゃんと笑えてる?

私はちゃんと弟の前で笑えている?

 

アイラは自問する。

 

大好きな弟の前で、笑えている?

アルドを安心させられている?

 

大丈夫。

 

気合を入れるのよ、アイラ。

あなたは将来、女優になるんでしょ?

弟の前で、コレくらいの演技ができなくてどうするの?

大好きな弟の前で、コレくらいの演技ができなくてどうするの?

 

大丈夫。 大丈夫だから……

 

 

 

- Il mare è una grande onda. Onda blu……

遠くかすかに、その歌が聞こえてくる。

 

「この歌は……」

アルドが耳をすます。

 

 

- Scuota e continui come lontano.

「あのウンディーネだな。またきやがった!」

「待って、アルド!」

けれどアルドは、止める暇もなく、病室の外へ飛び出して行く。

点滴につながれたアイラには、それを止めるすべがなかった。

 

 

- Il mare è grande. È grande……

アイラには分かっていた。

 

それはアテナの優しさなのだと。

 

あの日から必ず、夕方。 一日が終わる刻。

世界がオレンジ色に染まる、そんな黄昏時。

 

この歌を謳いながら、アテナは必ずゴンドラを漕ぎ寄せてくれるのだ。

 

 

- Una nave è stata a galla sul mare.

だからアイラも歌を紡ぐ。

 

アテナに合わせるように。

アテナに感謝するように。

 

そっと小さく、歌を紡ぐ。

 

それがなによりの、お礼だと信じて。

それがなによりの『希望』だと信じて。

 

- Io desidera andare. Un paese diverso ……

 

小さな謳声が、白い部屋に響き渡る。

 

 

 

-こんちくしょう!

アルドは怒っていた。

 

-こんちくしょう! こんちくしょう!

小石を集めながら、アルドは怒っていた。

 

-絶対に、あのウンディーネをやっつけてやるんだ!

大好きな姉を困らせるヤツ。 大切な姉を悲しませるヤツ。

そんなヤツは許さない。

 

-あいつ等は知らないんだ。

少し大きめな石も拾う。

 

-なんで、お姉ちゃんが海の見える隅の部屋にいるのか、あいつ達は知らないんだ。

 

 

< それは病気が長引くってことなんだぜぇ。 >

クラスメートの声が甦る。

 

< 知ってるか? 病気が長引く患者には、そうやって少しでも景色の良い部屋に入ってもらうんだぜ。 >

なぜかそいつは、鼻高々だった。

 

< 俺の死んだ親戚の伯母ちゃんもなぁ。 最後の一ヶ月は、そんな窓際のベットだったんだぜ。

  だからもしかして、アルドの姉ちゃんも…… >

 

女の子達の悲鳴が上がる。

気が付けばアルドは、そのクラスメートの上に馬乗りになり、めちゃめちゃに殴っていた。

先生が来て引き剥がされるまで、泣きながら殴っていた。

 

-許さない。 許さない。

 

絶対に許さない。 僕が、僕が-

両手一杯に小石を抱え込みながら走り出そうとするアルドの襟首を、不意に誰かが引っ張った。

 

「ぐぇぇぇっ!」

情けない声を上げて振り向くアルドの瞳に、妖しげな笑みを浮かべた三人のウンディーネの姿が写り込む。

 

「でっかい見つけました」

「ほらほら。逃げるの禁止」

「ゆっくり、お話ししましょう?」

「ぷいにゅにゅにゅ…」

 

最後に白いまん丸の何かが、笑いかけた。

アルドは思わず悲鳴を上げていた。

 

 

 

 

夜が明ける。

暗いネオ・アドリア海が白みだし、ゆっくりと陽が登ってくる。

ふたつの月や、夜空一面に瞬いてた星々がその役目を終え、ゆっくりと薄れ、消えていく。

かわりに、まばゆいばかりの太陽が、今日の一日の始まりを告げるために、その姿を現していく。

人々が眠りから覚め、一日の活動を始める。

 

だが-

 

アイラは一睡もできなかった。

 

恐い。

恐い。恐い。

 

恐い。恐い。恐い。恐い。

恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。

恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。恐い。

 

いかに気丈に振舞おうとも

いかに明るく振舞おうとも

 

 やっぱり、恐い。

 

自分は声を失うかもしれない。

自分は命を失うかもしれない。

 

恐怖がアイラを捕らえ、離さなかった。

弟もあの後、なにか考え込む表情で病室に帰ってきた。

訊ねても、心ここにあらずと、いった表情で家に帰っていった。

 

-きっと、今日の私のことで気落ちしているに違いない。

 

 

 

「アイラさん。手術のお時間ですよ」

看護士が声をかけてくる。

 

  

  ドクンッ

 

心臓がはねあがる。

早鐘のように鼓動を刻む。

汗が滴り落ちる。

頭が熱い。

けれど指先は逆に、氷のように冷たく痺れていた。

 

 

結局、アテナさんにも会えなかった。

あの後。今日に至るまで。

謳姫が訪れてくる事はなかった。

本当は少し期待していたのだけれど……

 

あの人は、このネオ・ヴェネツィアを代表するトップ・プリマのひとり。

仕事的にも個人的にも、きっと忙しいはず。

そんな人が、たった一度会っただけの、しかも、その弟に石を投げつけられた、そんな女の子に、再び会いに来てくれるとは思えない。

 

毎夕、唄いながら通りかかったのも、たんなる偶然だったのかも……

 

 

「麻酔薬入れます。ちょっと眠くなりますよ。 ……はい。じゃあ、手術室に移動しましょう」

 

お医者様が言う。

どうしてそんなに笑顔なの?

見れば、周りの看護士さん達も、みんな一様に笑顔をうかべている。

 

なにがそんなに嬉しいの?

声をなくすかもしれない女の子が

命をなくすかもしれない女の子が

 

そんなに楽しいの?

 

 

白濁化してゆく意識の中で、アイラの心は混乱する。

涙がにじむ。

嗚咽が漏れる。

希望がはがれてゆく。

 

その時-

 

 

- Il mare è grande. È grande……

 

不意にあの謳声が聞こえてきた。

 

 

- La luna sorge.  Il sole affonda.

 

 アイラは見た。

 

その声に誘われるように。

セイレーンに心奪われた船乗り達のように。

 

 アイラは見た。

 

 

- Il mare è una grande onda. Onda blu.

 

謳姫が-

天上の謳声<セイレーン>と呼ばれるアテナ・グローリィが。

 

 

- Scuota e continui come lontano……

 

病室のすぐ外。

目の前の廊下にひとり静かにたたずみ、その歌を謳っている姿を。

 

 

- Una nave è stata a galla sul mare.

 

まるで、そこに居るのが当然であるかのように。

まるで、そこで謳っているのが当たり前であるかのように。

 

ー Io desidera andare. Un paese diverso.

謳いながらこちらを見ていた。

そんなアテナの前を。

そんなセイレーンの前を。

自分を乗せたベッドがゆっくりと通り過ぎていく。

驚きのあまり言葉もでないアイラに、謳姫は優しく微笑んでくれた。

 

 

 そして、アイラは見た。

 

 

- Il mare è grande. È grande.

 

通路といわず、階段といわず。

二階といわず、三階といわず。 ホールと言わず。

病院内の、そのすべてを埋め尽くし唄う、たくさんのウンディーネ達の姿を。

 

- La luna sorge.  Il sole affonda.

 

灯里がいる。

藍華がいる。

アリスもいる。

 

あの人は、クリムゾン・ローズ?

あの人は、スノー・ホワイト?

 

幾人ものウンディーネ達が、励ますように、勇気付けるように、微笑みながらアイラを見つめ、歌を唄っていた。

 

 

- Il mare è una grande onda. Onda blu.

 

ウンディーネ達の大合唱が、病院中に響き渡る。

その中をアイラを乗せたベッドが、まるで祝福されるかのように、ゆっくりと進んでゆく。

  

看護士も。 医師も。 他の患者達も。

その様子を、誰もが優しく見守っていた。

 

 

- Scuota e continui come lontano.

 

聞きなれた声に振り返れば、ウンディーネ達に交じって、弟が唄っていた。

大きな声を上げ、一生懸命に唄っていた。

 

「アルド……」

「お姉ちゃん!」

 

不意にアルドが叫んだ。

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!! お姉ちゃん!!!」

 

涙で顔をぐしょぐしょにしながらが、アルドは叫ぶ。

 

 

 

「はひっ。特訓したかいがあったね」

灯里が微笑む。

「私の教え方の賜物よ」

藍華が威張る。

「いえ、アルド君自身の努力と、アテナ先輩の人徳のでっかい賜物です」

アリスがあきれたように呟く。

「ぷいぷいにゅん」

アリア社長が笑った。

 

そう。

今日、この日のために。

今日という日のために。

アテナは晃やアリシア。

他のウンディーネ達に。

  

一緒に謳ってもらえるように。

一緒に送り出してもらえるように。

一緒に【 希望 】を紡いでもらえるように。 頼み込んだのだ。

 

もちろんー

全てのウンディーネが快く同意したのは言うまでもない。

 

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」

アルドは、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、何度も何度も姉を呼び続ける。

 

 

- Una nave è stata a galla sul mare.

 

そんなアルドの頭を、アテナがゆっくりと優しく、けれど力強く、なでてくれていた。

 

 

- Io desidera andare. Un paese diverso……

 

 

薄れゆく意識の中で、アイラはしっかりとその歌を刻み込んだ。

 

 

- Il mare è grande. È grande.

 

【 謳 】が溢れる。

【 希望 】が満ち溢れる。

 

 

 

- La luna sorge.  Il sole affonda……

 

 

ウンディーネ達の謳声は、途切れることなく、いつまでも響き渡っていた。

 

 

 

  ****         

 

 

「Il mare è grande. È grande. La luna sorge. Il sole affonda……」

「綺麗な歌ですね」

 

「マンホームに伝わる曲でね。 私の一番のお気に入りなの」

生クリーム乗せココアを飲みながら、彼女は答えた。

 

「お気に入りですかぁ」

「と言うより、私の一番、大切な曲ね。うふふ」

「大切な曲。 なるほど。 じゃあ、今日はその辺のところを教えていただけますか?」

「ええ。いいわよ」

雑誌記者のインタビューに答えながら、彼女は、にっこりと微笑んだ。

 

 

 

    前略、お元気ですか?

 

 

 

「今日は、ありがとうございました。 やはり、あなたが最高の歌姫ですね」

そう言って、記者はインタビューを終えた。

 

その時-

かすかな謳声が響いてきた。

 

 

- Il mare è una grande onda. Onda blu.

  Scuota e continui come lontano……

 

 

ゆっくりと、一艘のゴンドラが近づいてくる。

それはあの時-手術室へと向かう、あのベッドの上で聞いたときと同じ謳声で………

 

「いいえ……」

彼女は微笑みながら、ゆっくりと記者に答えた。

 

 

「あの人こそ、本当の謳姫です」

 

 

- Una nave è stata a galla sul mare. 

  Io desidera andare. Un paese diverso……

 

 

 その謳声に合わせるように-

 

 

【 銀幕の歌姫 】

-との呼び名も高い、アイラ・M・カラスは、いつまでも楽しげに、誇らしげに、その歌をくちずさんでいた。

 

 

 

  前略、お元気ですか?    

 

 

  

          私は今日も元気です。

 

 

 

  

 

            

 

 

 

 

        「 li mare( 海 )」 La'fine

 

 

 




 ある時、こんな夢を見た。

樹々に囲まれた深い森の中に、ぽつんとある小さな泉。
その泉の傍らの岩に、ふたりのアテナさんがひとつのスコアを手に、楽しげに歌を謳っている。
その様子を私はただ黙って、体育座りで聞いている。
ふと気が付くと私の周りには、獣や鳥。爬虫類や虫にいたるまで、たくさんの動物が集まり、静かにその歌を聞いていた。
ふと気付くと、泉を取り囲む樹々までもが、たくさんの色鮮やかな花を咲かせていた。

 そんな泉のほとりでー

ふたりのアテナさんは、楽しげに、嬉しげに。
いつまでも、いつまでも。謳い続けていた……

 河井英里さんと、川上とも子さんのご冥福を、今年もまた深く深くお祈りします。

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