キャノンボールファストに皆が闘志を燃やしている中、一夏だけは特に何かを思うことなく、執事らしく皆に仕えながら過ごしていた。
そんなある日、突如としてとある連絡が入った。
それは一夏が仕えている家、日本有数の旧家『大鳥家』からの一夏への呼び出しである。
主に呼ばれたのだから行くのは当然であり、一夏は連絡を受けた翌日に学校を休む旨を伝え大鳥家へと向かった。
東京を離れ鎌倉まで移動し、そこからタクシーを乗り継いで数時間。
都心から離れ、山奥の大きな西洋屋敷に着いた。
ここが一誠が仕える大鳥家、その本館である。
一夏は屋敷の前でタクシーから降りると、ぐるりと広い屋敷の周りを回り込み、使用人用の出入り口から屋敷へと入った。
仕える者が表の入り口から堂々と入るわけにはいかない。それはこの業界に於いて、当然の常識である。
屋敷に入ると、他にも働いている使用人と顔を合わせ軽く挨拶を交わしていく。
本当ならもう少しゆっくりと話をしたいところだが、主に呼ばれているので其方が優先。それが皆分かっているからこそ、笑顔で一夏を送ってくれた。
そして一夏は屋敷のある一室に向かって行く。
此度の呼び出しをした張本人。一夏の主たる『大鳥 香奈枝』の私室へと。
扉の前に立つと最初にノックを4回する。これは国際標準のマナーであり、2回はトイレを、3回は親しい人にたいして行うノックの回数である。ちなみに4回は目上の人間や礼節を重んじる場合に行う回数だ。
一夏はノックをし終えると共に、扉の向こうに向かって声をかけた。
「織斑 一夏、只今参りました」
いつもと変わらない丁寧な言葉。だが、そこには確かな忠義が込められている。
「はい、どうぞお入り下さいませ」
扉の奥から聞こえてきた返答は老婆の声であった。
その声を聞き、一夏はやっと扉を開けた。
「失礼します」
そう言い一礼して部屋に入る。
部屋の中は西洋屋敷にふさわしい洋室であり、美しくも大人しめの装飾が施されていた。その部屋の中央にあるソファに座る人物がいた。
その人物は一夏に顔を向けると、ニッコリと人を安心させるような笑みを浮かべた。
「おぉ、これはお久しゅうございます、織斑さん」
「はい、お久しぶりでございます、侍従長」
一夏が丁寧に挨拶を返したのは、彼にとって執事としての全てを教えた師の如き存在であり、この大鳥家の使用人の全て束ねる侍従長、『永倉 さよ』である。
この屋敷において、唯一主と常に側に居ることを許されている存在でもあるという、凄い人物なのである。ある意味に於いても……。
一夏はソファには座らず、その場で静かに立ったまま、さよに大切なことを聞く。
「侍従長、お嬢様はいずこにおいででしょうか。此度の呼び出しはお嬢様が自らお声をかけたとのこと。その用件についてお聞きしたいのですが?」
一夏の質問に対し、さよは笑顔のまま自分の後ろに置かれているベットに視線を向ける。
そこには豪華なベットが置かれており、その上で何かが布団にくるまっていた。
大きな布団の膨らみは中でもぞもぞと動き、中からしくしくと泣き声が聞こえてくる。
その膨らみを見た一夏は表情を変えずににさよに話しかけた。
「お嬢様はいかがなさったのでしょうか? また花枝お嬢様に負けたのですか」
一夏が言っている花枝というのは香奈枝の妹であり、この大鳥家の時期当主である。普通に考えれば香奈枝が当主なのだが、特殊な事情により当主は花枝の方が受け継ぐことになっているのだ。といっても、一夏が仕えているのは主に香奈枝なのでそこまで関わることは多くない。
二人は少し歳の離れた姉妹であるのだが、どうにも仲が悪い。別にいがみ合ったりしているわけではないのだが、二人とも妙に頑固なところがあるので度々ぶつかり合うのである。香奈枝は暴力が得意という令嬢にあるまじき人間であるが、逆に花枝は極端に口が悪く陰険という有様で、口喧嘩となれば香奈枝に勝利は存在しない。
そして年上が一々暴力を振るうのも大人げないということから、下手に暴力を封じられた香奈枝は花枝にドヤ顔をされて屈辱的な敗北を味わうハメにあっている。
それは一夏がこの屋敷で働いていた時からずっとあったことなので、またそうなのかと思いさよに聞いたのだ。
だが、そうではないらしく、さよはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、そうではありません。実は湊斗様の事で少々………」
そこからさよは、香奈枝にワザと聞こえるような声量で何故こうなったかについて話し始めた。
「実はこの間、お嬢様は湊斗様を誘って温水プールに誘ったのですよ。勿論、湊斗様の気を惹くべく、かなり露出の激しいビキニを着て」
それを聞いて一夏は頷く。
ここで出て来る湊斗というのは、香奈枝が惚れている男性のことだ。
年齢は二十代後半で顔は悪くなく、誠実で実直な性格は好感が持てるだろう。
だが、それらの良い所を全て台無しにするかの如く………暗いのだ。
暗い性格というのはよくあるが、そのような生優しいものではない。その場にいるだけで昼が闇夜に変わるのではないかと思わせるほどに暗い雰囲気の持ち主なのである。
一夏自身も何度かあった事はあるが、嫌いな人間ではない。寧ろ好意を抱くほど良く出来た人なのだが、何故そんな人間に主が惚れているのかは良く分かっていない。
尚も続くさよの説明に一誠は耳を傾ける。
「そこでまぁ、いつもの如く他三名と争いになったわけですが、そこは抜け駆けして湊斗様を連れ去ったのです」
この湊斗という男は普通に考えれば寄ってくる人間など皆無に思えるのだが、何故か妙にモテるのだ。
そのため、湊斗がお嬢様と何かしら関わると当然と言って良いくらいに騒ぎに発展する。
「そこまではよかったのですが、その後が問題に」
「問題……ですか?」
「えぇ、そうです。そこでお嬢様は湊斗様を魅惑しようと頑張りになったのですが、その時に足を滑らせてしまい、湊斗様と共に倒れてしまった……いえ、ここは寧ろ押し倒されてしまったと言うべきでしょう。恋する乙女が押し倒される! そんな現実ではまず有り得ない夢のような状況にお嬢様は…………」
そこで一端切るさよに一夏は笑顔のままその後の言葉を待つ。
顔には出していないが、その雰囲気は獲物を狙う狩人のようになっていた。
それを察してなのか、さよもニッコリと笑う。
「逃げ出してしまわれたのです! なんともまぁ、情けないことで」
それを聞いて一夏は納得したらしく頷く。
「つまりこういうことでしょうか? せっかく気合いを込めて望んだデートでライバルを出し抜き湊斗様に色仕掛けをしていたところで足を滑らせ転倒。そこで湊斗様に押し倒されるような恰好になったら、それまで被っていたお色気路線の猫が剥がれてしまい、年齢のわりに妙な純情趣味丸出しの素が出てしまって恥ずかしさから逃げ差してしまったと」
「はい、その通りでございます」
「ぐっ! がっ! ん~……」
さよが一夏の答えを聞いて頷くと、二人は同時にそのことでしくしくと泣いている主の方へと向いた。
「「まったくもって、ヘタレでございますね」」
「ぐはっ!?」」
それまでの一夏とさよのやり取りを聞き、そしてトドメの如く言われた言葉にダメージを思いっきり受ける布団の中身。
中身は布団をはねのけると、一夏とさよを細目で睨みつつ泣き始めた。
「貴方達、それでも本当にわたくしの従僕なの! 普通は主を慰めるものでしょうに!」
ベットの上にいたのは長く美しい髪をした長身の女性であった。
女性にしては長身だが、その分服の上からでも分かるくらいスタイルが良い。
今は泣き顔だが、いつのは穏やかな顔を浮かべている美しい女性こそ、一夏の仕える主である大鳥 香奈枝である。
一夏とさよの二人はそんな主を見て、二人で同時に同じ笑みを浮かべて返事を返した。
「「別にただ、私達は事実を述べただけでございます」」
「むっき~~~~~~~~~~~!」
香奈枝の悔しそうな叫びが屋敷内に轟いたのは言うまでも無く、それを聞いた使用人達は皆暖かい笑みを浮かべていた。