遂に始まったか。
笠置城攻めに失敗したとはいえ、それで打撃を受ける晴元ではない。
筒井家が笠置城を攻めている間に、晴元は準備をしっかりと整えていた。
木沢長政が本隊を率いて笠置城に入城すると、晴元はこれを好機と見て自ら兵を率いて出陣した。
まず晴元は芥川山城に入り、配下の武将たちを集結させる。
久しぶりの居城に戻った晴元は、感傷に浸ることはなかった。彼にとって、長政に追い落とされたことが甚だ不愉快であり、まず敵を如何にして討つのかという点を重視していたからである。
苛立ちと怒り、そして残酷な想像に頭を使っているので、過去に思いを馳せて感傷に浸るようなことにはならなかったのであろう。
芥川山城に続々と入ってくる諸将の顔ぶれを見て、晴元はほくそ笑む。
――――やはり、畿内の王はワシだ。
山城国、摂津国、丹後国の国人を中心とした軍だ。
「昭元」
「はい、父上」
亜麻色の髪の女武将。細川昭元。晴元の娘で、かつて義藤と連携して将軍の入京を実現させた少女である。
「お主、これより殿下の下に一軍を率いて向かえ」
「は……? それは、いったい……」
昭元は暫し呆然とした。
まさか、この時期に将軍を傀儡にしてしまおうなどと考えているのではないかと勘繰ってしまったのである。
だが、晴元の指図は昭元の不安とは異なるものであった。
「将軍殿下がこの戦に介入されようとしておるようだ。故に、殿下の警護をせよ」
「殿下が戦場に出られた際には、これを守護せよと?」
「うむ。殿下が出陣されれば、こちらの正当性は確実。だが、万一があってはならぬ。そして、何より、功を立てるのは将軍家ではなく、我々でなくてはならぬ。その意味、分かっておろう?」
昭元は頭を下げて承服の意を伝える。
結局、将軍家の威光を利用しつつ、将軍家が武力を持つことを望まないという立ち位置を変えるつもりはないのである。
晴元は将軍家は管領家が存在しなければ成り立たないと考えているところがある。だから、将軍家をないがしろにしても苦にしない。
だが、歴史を紐解けば、細川家は足利家の配下として共に手を取り合い戦い続けてきたのである。それこそ、幕府が成立するよりも以前から。細川家はあくまでも将軍家の翼であるべきなのだ。互いに利用し合うのではなく、同じ目標に向かって手を取り合う関係こそが望ましい。
沈鬱な表情もそのままに、昭元はその場を後にする。
彼女は次期管領候補の筆頭。
廊下を歩いているだけで、それ相応の注目を受けてしまう。
また、顔立ちも整っていて、公家かと思える雅やかさを感じるのである。上流階級の姫。まさに、そういう立場に立っている。
「父上から命が下されました。わたしはこれから将軍殿下の下へ向かい、身辺を警護いたします」
自らの配下に命令する。
彼女に与えられた兵は千五百。これから木沢長政と戦うというのに、気前がいい。それほどまでに、晴元は木沢軍との戦いに自信を持っているということか。
□
昭元が一軍を率いて近江に逃れている父上の下を訪れたという。
目的は身辺の警護、という名の軟禁であろう。警護であれば、六角家や京極家を傀儡にした浅井家が上手くやってくれている。
晴元にとっては、管領の戦ということにしたいのだろう。
大体、今までの行動を見ると考えていることが分かる。
昭元は、父上のところで挨拶を終えた後、真っ直ぐにここに来たらしい。
何はともあれ、昭元と久しぶりの再会である。
晴元と異なり、彼女にはそれほど権力欲というものを感じない。それは、生まれ着いてそういう立場にいたからであろう。自らの座を脅かす者が現れたこともない昭元にとって、権力とはすぐそこにあるモノであり、しがみつくようなモノではないのだ。
昭元は、正真正銘の良家の娘という感じで、これは光秀や義政と比べても一段上の華を感じる。つまり、公家らしい雰囲気が滲み出ているという意味であるが。藤孝に近い空気はあるか。
昭元と茶菓子を食べながら、畿内の話を聞く。
「それで、君のところの父君は、今木沢長政と睨み合っているところということか」
「はい。わたしが知る限りでは、すでに南河内も木沢殿の追い落としを図っているようです」
「南河内。確か畠山弥九郎とかいうのが守護を務めていたな」
畠山弥九郎は、北河内守護の畠山在氏と共に、木沢長政と遊佐長教が先代の畠山長経を廃して擁立した二人の守護の片割れである。
この辺りの情勢がきな臭いところだが、河内国全体の守護だったのは、畠山長経までだ。長経は、その前に守護であった畠山稙長の弟であり、稙長が木沢長政と遊佐長教に追放されたことで、守護に擁立されている。
つまり、このところの河内国の内訌の原因は、守護代の長政と長教が如何にして河内国の守護を傀儡にするかという策謀の結果なのである。稙長は追放され、代わりに擁立された長経も河内国を二分する計画に反対したことが原因で廃される。そして、邪魔者がいなくなったところで、尾州家の畠山弥九郎を南河内守護、総州家の畠山在氏を北河内守護に置いて、二人の守護代がそれぞれの主を操るという体制を整えたのである。
その南河内が動いたということは、
「長教はこの機に北を獲る気だな」
幕府の敵となった長政はもともと長教の政敵である。これを討つ好機に恵まれたと感じているだろう。
「そこまではどうか分かりませんが、どうやら新たな守護を擁立されるおつもりのようです」
「新たな守護。誰だ?」
「畠山稙長殿です。書状が行き交っていると聞いております」
「はあ? ああ、なるほど」
前前守護をもう一度守護に擁立することで、河内全体の守護にするつもりか。そうすると、畠山弥九郎は用済みになるな。
「ふん、長経のように暗殺されるかもしれんというのに、よく手を取る気になったな」
「稙長殿からすれば復権の好機です」
これで、長教は反木沢を明確にするわけだ。だが、畠山稙長は高国派の武将だ。晴元としてはどう出るか。
まあ、いい。何れ、大きな動きになるだろう。木沢軍が晴元殿の軍と拮抗しているというのなら、南河内が動いたときに、今の睨み合いは大きく動く。そこに、うまく入り込めば一発逆転は可能だ。
「さて、俺たちは何をすべきかな」
そして、俺は昭元を見る。
彼女が連れてきた千五百の兵。遊ばせておくのももったいないように思う。
「君さ、俺が軍を率いて出陣するって言ったら、ついて来る気はある?」
「え、ええ!? あの、義藤様が、ですか」
昭元の任務は将軍の護衛。だが、それはすでに六角家や京極家などが先を争うようにして行っている。
「で、でしたらそのときは、お供させていただきたいと思います」
「うん、よろしく」
これで、労せずして千五百の兵が手に入った。一時的なものとはいえ、大きな数字だ。
「義政、いるか?」
「はい」
義政が障子戸の向こうから返事をする。
「孝高と共に情報の精査を。それと、内藤や赤井にも使いを」
「はい。お任せください」
そして、義政の気配が消える。
「あの、義藤様。何を?」
「戦の準備に決まっているだろう。父上から許可は頂いている。勝ち戦に乗るのさ」
「それは、父上に援軍を送られるということでしょうか?」
「受け取り方は自由。ただ、彼と馬首を揃えはしない。あくまでも、将軍家としての軍事行動だ」
「そう、なのですか」
昭元は、頭が上手く回っていないような表情を浮かべている。
「君も頭数に入れているからな」
「え?」
「さっき、ついてくるって言っただろう。当然、将軍家の一員として戦ってもらうから」
「へ、あ?」
先ほどの自分の発言を思い出して、昭元は口元を押さえた。
「まさか、今さら戦うのが嫌とは言わないだろう?」
「い、言いません! お供します! 是非ッ!」
昭元は慌てて頭を下げた。
その様子に小動物的な愛らしさを感じる。
「何、そう気張ることもない。俺たちが動くのは、まだまだ先のことだ」
そう言って、俺は湯気が立ち上る湯飲みを手に取った。
そろそろ雪が舞い落ちる季節だ。
戦場は相当寒いに違いない。
その夜、俺は孝高と話をした。
孝高によれば、木沢長政の勝利は万に一つもないとのことだ。
「今、長政の兵は管領様の兵と山城北部で睨み合っている状況ね。その状況で、河内の南部で挙兵された場合、長政はどう動くのか。まあ、当然陣払いはするでしょう。そして、次にコイツが行くのは、防御力があり、河内と大和を押さえられるここに違いないわ」
孝高が絵図を指差す。
そこは、信貴山城と二上山城であった。
「地形的に有利なのは言うまでもないわよね。ここは、大和と河内の国境だけど、ただの国境ではなく多くの山が連なった地形をしている。大和側から河内に向かうには、山城を経由するか、大和を下って大和川に流れに沿って河内に入るしかない」
大和川は金剛山地の北部を横断するように流れる川だ。大和国から河内国へ流れ、最後は海に注ぐ。そして、金剛山地の北部の部分は、川を挟んで生駒山地と向かい合う。そして、金剛山地北部にある山城が二上山城なのである。
「大和から河内に向かうには、山地を横断するか川に沿うかしかないが、そのどちらも長政が押さえているという状況なわけだな」
「そう。そして、信貴山城と二上山城は共に守りに易く攻めるに難い地形で、大和からでなければ落とせないわ。河内で挙兵しても、城方に手を出すのは難しくなる」
「防御面は完璧。ただし、柳生たちがこちらについていることは、向こうには悟られていない」
「と、思うけどね」
「俺たちが手を出すのは、長政が信貴山城か二上山城に入った直後」
「最もいいのは、その上で、本隊が河内側に行くことね」
そうすれば、すぐに城に戻れなくなる。
「で、若様。頼んでいた策は実行してもらえた?」
「ああ、畠山稙長への御内書だろう。畠山弥九郎討伐の許可。父上に申し上げたところ、すでに遊佐と晴元から内々に申し出があったそうだ。悩んでいたようだから、一押ししてきたよ」
「ありがとう。これで、畠山稙長は遊佐長教と一緒に畠山弥九郎の討伐に掛かるわ」
そうすれば、河内で反長政の軍が蜂起することになる。
長政は後背を突かれ、陣払いをして河内に向かわねばならなくなる。なにせ、河内は木沢家の本領である。落ちれば支援の手がなくなる。
「後は、如何に素早く動けるかね」
「おう。これは将軍家の戦だ。晴元には他所で暴れてもらおう」
河内十七箇所からさらに俺たちが領地を得る好機。危険を冒してでも出陣する必要があるのである。
□
対陣が一月ほど続いたある日のことである。
木沢長政には最低でも一万の兵を集める力がある。
長政は自分の力を過信していたわけでもなく、実際に一万の軍勢を一族と配下の国人だけで構成してみせた。
数の上で僅かに管領家を上回る陣容を整えたのは、まさに畿内の最大勢力である木沢家の面目躍如というところであろう。
だが、彼にとっての想定外は、最低の人数から増えなかったことである。
無理矢理武威で従わせている大和国人衆の士気は当然に低い。それは分かっていたことである。だが、摂津の塩川家や伊丹家、そして三宅家がよりにもよって管領側に就くとは思わなかった。
「おのれ、裏切り者どもがッ!」
ダン、と長政は抜き放った太刀で以て机の角を斬り落とした。
そもそも事の発端は、塩川家を管領晴元が攻めたことである。長政は塩川家を支援する伊丹家と三宅家の救援要請に応じて兵を挙げたのであり、断じて幕府と事を構えるつもりなどなかった。
それが、いつの間にやら木沢長政が管領に対して反逆したということになっており、その原因であった塩川家や伊丹家、三宅家はそうそうに晴元側に寝返っていた。
最も期待していた摂津衆は、長政側に参じることがなかったのである。
「物の道理を弁えぬ裏切り者のことなど、今はよいではありませぬか。兵数はそれでも我等が有利」
「その通り。彼奴らの処遇は戦に勝利した後でなんとでもなります」
木沢右近と木沢又八郎が口々に言う。
「お主らの言も尤も。頭に血を昇らせたところで何にもならぬな」
床几に座りなおした長政は、それでも苛立たしげに舌打ちをする。
「敵に動きは?」
「ありませぬ。三日前に矢合戦に及んで以来、水を打ったような静けさよ」
右近が状況を報告する。
先陣に押し立てている柳生家などの大和衆も、長期の対陣で疲労が積み重なっている。
だが、己が天下人になるためには避けては通れぬ道。今、木沢家は天下を取るか、滅びるかのどちらかしかないのである。
長政は天幕を出て、白雪が舞う戦場を眺める。
肌を刺すような冷たい風が吹く。木津川を挟んで反対側に、細川家と三好家の家紋が翻っている。その他、見慣れた摂津衆の家紋も見える。木沢家と大和衆だけで、世界を相手取って戦っているような錯覚にも陥る光景だ。
だが、長政は負けるとは思っていなかった。
数多の合戦を潜り抜けてきた彼には、戦に対する絶対的な自信がある。いくら三好長慶が軍事に秀でていたとしても、寄せ集めの軍では指揮するものも上手くいくまい。この木沢長政を相手に野戦に及んで勝利できるなどということは、天地がひっくり返ってもありえない。
「粋がりおって小娘め。旧恩を忘れるとはな」
撃破した後は、然るべき報いを受けさせてやらねばならない。
長政は天幕に戻ると、どっかと床几に腰を下ろした。
「今の内に褒美を決めておこうか。長慶めを生け捕りにしたならば、右近めにくれてやる。刀さえなければ、ただの女だ。好きなようにするがいい。ああ、晴元の娘もおったな。あれは又八郎、貴様の自由にすればよい。戦利品として、犯すなり好きにするのだ」
「はは、ありがとうございます」
「左京亮様もお人が悪い」
「死なぬだけましであろう。身の程知らずめには、ちょうどよい。我等の膝下で、ただの女として喘いでおれはいいのだ」
長慶も昭元も血統、容貌ともに優れている。
戦の勝者が敗者の財を奪いつくす戦国の世であるから、高貴な身分も没落すれば易々と勝者の勢力に飲み込まれるのが必定だ。
管領の血を木沢に取り込むことができるとしたら、それはまさに天下の主に相応しい血統を得るということに他ならない。
彼らは、高貴な身分の姫を踏みにじり、孕ませる未来絵図を想像し、下卑た笑みを浮かべる。
事実として、その未来がすぐ目の前に迫っているのである。
そのとき、天幕に一人の兵が飛び込んできた。
「御注進! 御注進にございます!」
慌しく、長政の傍らに膝を突き、一通の書状を渡してきた。
注進状である。
長政はそれを受け取ると、書状に目を通し、愕然とした。
「なんだ、これは!?」
「河内高屋城にて、遊佐長教様挙兵! 斎藤山城守様が討ち取られた由! 守護様が庇護をお求めになっておられます!」
「そのようなことは、見れば分かるわ!」
伝令兵に怒鳴った後、長政は舌打ちをして、酒を呷った。
「ふん。長教め、ついに馬脚を現したか」
忌々しそうにしながらも、長政はほくそ笑む。
「今、その者が申したことは事実なので?」
右近が長政に尋ねた。
「そのようだ。長教が高屋城から弥九郎様を追い落とし、紀伊から稙長様を迎えられたらしい」
「稙長様ですと? 今さら?」
「復権のために仇敵にまで尻尾を振るとは、情けない話よ」
稙長をかつて追い落としたのは、長政と長教である。いくら、再び守護に返り咲くためとはいえ、長教と手を組むとは思わなかった。
「ならば、今再びこの手で追い落とすまで。管領よりも先に高屋城を攻め取ってくれる」
それから伝令兵に向かって、
「返書を
と言った。
返書を出した後、長政はすぐに陣を引き払った。高屋城が攻略されたのは間違いないが、混乱を収めなければならない以上は、すぐに軍を動かすことはできないだろう。
長政は信貴山城と二上山城に兵を配置して、長教の軍勢が大和国に流入しないように目を光らせなければならない。
これは時間との勝負である。
もしも、敵軍が大和川沿いに大和国内に入ってしまえば、長政は山城国の管領軍と挟撃を受けることになるからである。
木津川沿いに下り、大和国の信貴山城へ向かった。
□
木沢長政の動きは、内応する柳生家からの情報で筒抜けになっている。また、河内国内の情勢は河内国内にいる藤孝からの早馬で知ることができた。
また、義政が集めた情報からも、長政が二上山城、柳生家、簀川家が信貴山城に入ったことも分かった。
晴元は深追いせず、河内国の遊佐長教と連携をするために芥川山城に戻り、次の戦に向けて準備中。そして、三好長慶率いる分隊が、高屋城への救援に送り出された。
「木沢長政は、高屋城を最初の標的にしたみたいね。追い出された守護を担いで河内統一戦でもやらかすつもりかな?」
孝高が集まった情報からそんなことを言う。
「今の木沢殿は、河内から攻略していかなければ後背を突かれる位置にいらっしゃいますから」
光秀が義政から書状を受け取りながら孝高に答えた。
内政面を支える優れた文官である。まあ、光秀は武官でもあるのだが。
俺たちがいるのは、大和国と山城国の国境である。近江国から、軍を率いてここまでやってきた。俺が集めた軍のほか、内藤家や赤井家が参加してくれたので、四千にまで膨れたのである。
近江国から東海道を進み、山城国内へ入り、そのまま南下して今に至る。
「日が出ると同時に信貴山城へ進軍する。そのときまで、英気を養っておくように」
「はッ」
「内藤殿。赤井殿。召集に応えてくれたこと、感謝する」
「滅相もありません。若様のおかげで、内藤家が存続しているも同然。その恩をお返しできるのであれば、いくらでも兵をお出ししましょう」
「内藤殿が参じておきながら赤井家が参じないわけにも行きませぬ。なんなりとお申し付けください」
内藤国貞、赤井直正。ともに丹波の有力国人である。国貞はかつて三好政長に攻められた折に俺が裏で手を回しており、その際に赤井家に波多野家攻撃の許可を出している。そういった繋がりが、今回の戦に生きてきたのだ。
戦は明日。
小競り合い程度しかしたことのない俺が、本格的に戦を行うのはこれが始めてである。おそらく、初陣には遅いほうではないだろうか。
「気が急くのも仕方がない」
極力落ち着くように気を払って、俺は冷たい夜気に身を浸した。
そして、朝が来る。
馬が白い息を吐く。
シン、と針のような冷たい空気が肌を刺し、身体は緊張に打ち震えた。
「義藤様」
光秀が心配してくれたのか馬首を並べて声をかけてくる。
「問題ない。問題ないとも」
この策の根幹は、柳生家にある。
ならば、柳生家が動かなければ、俺たちはすごすごと国に帰るか、力押しで信貴山城に攻めかかるしかない。
馬を進めていると、物見の兵と思われる騎兵が出てきた。
こちらの動きに気付いたようである。
「御免! こちらは木沢左京亮様の所領でござる。何ゆえに兵を進めておられるか?」
大声で、その騎兵は言い放った。おそらくは他にも騎兵がいるのだろう。他の者はすばやく本城に伝令を出しているに違いない。
ならば、ここで彼を射殺すことに意味はない。それに、すでに信貴山城は目と鼻の先。
俺の意を汲んで、光秀が応答した。
「信貴山城を守るのは、南河内守護畠山弥九郎殿であると聞く。彼に伝えよ。逆賊木沢長政に合力するならば、将軍家が武威を以て城を開かせると」
すると、騎兵がおもむろに弓に矢を番えた。
「義ちゃん」
徒歩の小次郎が馬の前に進み出る。
「待て、あれは矢文だ」
矢の先に、書状が付いている。
騎兵は弦の高い音を響かせて矢文を放った。矢は放物線を描いて光秀の馬の前に落ちた。
矢文を光秀が拾い上げたのを確認して、騎兵は馬首を返して去っていく。
「義藤様、これを」
「おう」
光秀から矢文を受け取り、広げる。
「へえ」
それは、柳生家からの密書であった。
城の見取り図と、自分たちの配置を示している。
「なかなか大したことをするな、彼は」
まだ見ぬ家厳の政治能力に感嘆する。うまく、信貴山城に潜りこんでいることに加えて、城門を守る位置に入っている。
信貴山城は、これで落ちたも同然である。
□
畠山弥九郎はとにかく運がない男であった。
名門畠山家に生まれたものの、家は内訌状態。当主の権威は地に落ち、家臣たちが自由気侭に権力闘争に明け暮れる日々。
南河内の守護になった後も、結局は遊佐長教の専横に従うことだけしかできなかった挙句、用済みとばかりに城を追放されてしまったのである。
そして、信貴山城に匿われている今、刻一刻と命の危機が迫っている。
河内側では、高屋城を目指していた長政の軍が晴元の軍と睨みあいになっている。そして、山麓には将軍家の旗が棚引いている。
「城を開けば命は救われます。しかし、そうでなければどうなるか」
柳生家厳が目の前で何を言っているのか分からない。
「何を言っておる、柳生。そちは城を守るのが仕事であろう?」
「如何にも。そして、長政様よりあなた様のお命をお助けするようにと命を受けております」
「ならば、なぜ城を開けなどと申すのじゃ!」
弥九郎は癇癪を起こしたように怒鳴った。
「城を開け、などとは申しておりません。ただ、それが将軍家からの要求でございますので、お伝えしたまで」
あくまでも、家厳は冷静な表情でそう言った。
すでに、家厳は将軍家と繋がっている。だが、ただ単に寝返ったという話になるのはよろしくない。できれば、主君のためにという大義名分も欲しかった。彼が、進んで城を開いてくれれば、家厳は裏切りの汚名を被る必要もなく家を保てるのである。
「ならば、開く必要はなかろう」
だが、弥九郎は聞く耳を持たなかった。
「なぜ、将軍家がそのようなことを言ってくる? この信貴山城を力で攻め取れぬからであろう? 今の将軍家など、その程度じゃ。従う必要はあるまい」
「守護様、お言葉が過ぎまする」
「たわけ、事実じゃ」
彼が言っていることは、事実ではあるが現実ではない。
何せ、今目の前に将軍家が独自に組織した四千の軍がいるのである。そして、河内側には管領家が五千近い軍勢を送り込んできている。木沢長政は一万の兵を高屋城攻めに繰り出しており、信貴山にいるのは二千と少し。二上山城にも三千の兵が控えているが、情勢が不利なのは明らかである。額面の上での数は木沢軍が多いかもしれない。だが、畠山稙長が河内に引き連れてきた紀伊の傭兵は一万近くいるのだ。遊佐長教の政治手腕の結果であるが、この時点で、数は向こうが上になる。
「長政殿は畿内でも最強の武将。余をこうして匿ってくれておるのは、何れ河内の守護として高屋城に戻すためと言っておった。お主もその助けをするのじゃ。この戦が終わった暁には、余は河内の守護、そして木沢殿は天下を手中に収められることじゃろう」
得意げに、弥九郎は言う。
他の重臣たちに目配せをしても、多くは木沢長政派の武将である。もはや、諦めるしかない。
「長政様の勝利の暁には柳生荘の安堵をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「そのようなこと、わけもあるまい。しかと働いてくれ」
「は、この命に代えましても」
そう言ってから、家厳は軍議の間を出た。
事ここに至っては彼に降伏させることは難しい。あの場に集まった諸将は木沢長政の息がかかった者ばかりであり、大局的に事態を把握できず、自分が河内国を追われたことを根に持って復権することしか考えていない。
そうではないものもいるが、長政が畿内最大級の武将という色眼鏡で見てしまっており、幕府に敵対したという事実からの逃避で思考を停止させている。
柳生家の陣所に戻った家厳は、厳しい顔をさらに厳しくする。
息子を含め、家臣を見回して呟く。
「行くぞ」
柳生寝返り。
その報が軍議の場に達するときには、すでに城門が破られていた。
騒ぎは伝播し、大和衆を中心に寝返りが続発。木沢家と畠山家の兵だけが、城を守っているという状態であった。
混乱に混乱が巻き込まれ、多くの場所で乱闘が始まった。
「な、なぜじゃ。なぜじゃ柳生!」
「なぜも何も、あんたに俺たちの未来を預けるのは無理だなって話になったんだよ」
柳生宗厳は血に濡れた刀を肩に担いで哀れみを込めた視線で言った。
周りには事切れた重臣たち。柳生の兵たちが暴れまわる中で、悠々と将軍家が場内に入り込んでくる。
「さて、どうする。自害するっていうのなら、介錯くらいはしてやるよ。元守護様」
「いやじゃ。なぜ、なぜ、こんなぁ!」
宗厳は、短刀を投げ渡したのだが、弥九郎は床を転がるように逃れるだけで自害の意思はない。
武士としてみっともない姿を曝していることに憤りを感じた宗厳はガリガリと頭を掻いてから苛立たしげに床を斬りつけた。
「あー、てめえ、それでも名門か? いい加減恥ずかしいから死んでくれるかな!?」
自害する機会まで与えてやったというのに、生にしがみ付いている。
武士に有るまじき醜態である。
「ひ、ま、待て。そうだ。領地はどうするのじゃ? そちの領地を安堵するという話は?」
「んなもんは、将軍家がなんとかしてくれるっての。少なくともあんたの保証よりは信じられるぜ」
そして、宗厳は刀を振り上げた。
そのとき、目の前で弥九郎の首が飛んだ。
血が吹き出して、身体が踊るようにもがいた後、真っ赤な海に倒れた。
「な……!」
転がった首をいつの間にか現れていた少女が拾い上げる。
「ふいー、大将首討ち取ったり」
長すぎる太刀をぶらりと下げて、弥九郎の髪を鷲掴みにするのは、小次郎と名乗った少女である。
「あ、あんたは!?」
「ども、宗厳さん。お久しぶりです」
頭から血を被った小次郎は、白い着物を赤くしている。
ここに来るまでに何人を斬ったのだろうか。両手の指では数えられないだろう。
「なんであんたがここにいるんだ?」
「そりゃ、あたしの雇い主がこの城を欲しいというんで」
「雇い主?」
以前、剣を交えたときは、牢人であったはず。いや、その際に伊賀守護家に肩入れした。ならばその縁を頼って主家を見つけたのだろう。
「てことは味方か」
「うい。今はそうなってますね」
宗厳はほっと胸を撫で下ろした。正直、小次郎の剣とまともにぶつかれば、十回のうち七回から八回は確実に負ける。敵でないことはありがたい。
「では、あたしはこれで。大将首も獲ったし、この城はもう落ちましたので」
そう言って、彼女は音もなく部屋を出て行った。