それは悪夢か。
なにもない真っ暗な世界。
それは恐怖か。
自分が無に帰って行く。そんな感覚。
それは希望か。
暗闇の中に一つだけ、光が見えたのは。
俺にできたのはただ一つ。
光に向かって手を伸ばすことだけだった。
なんだかひどい悪夢を見た気がする。
身体も重い。
全身が熱くてたまらない。
サウナのような、外側から熱を加えられているのとはまた違う、身体の内側から熱が出ているといったほうが近いか。
まるで、生きたまま炉心になったような気分だ。
どれくらい眠っていたのだろうか。
身体の中にある自分が、急速に浮上していく。
意識が浮き上がっていく感覚をここまで鮮明に感じたのは初めてかもしれない。
「---------------まッ」
声が聞こえる。
よく聞き取れない。
「------ど------るさま」
少しずつ、声が聞き取れるようになってきた。
俺の意識が覚醒しつつあるようだ。
誰の声か分からない、が、俺のことを呼んでいる。なぜか、それは理解できた。
俺は呼ばれるままに瞼をこじ開けた。
「あ、ああ!」
最初に目に入ったのは、変わった女性だった。
光を吸い込むかのような黒くて、長い髪。整った顔立ち。一見して美人と分かる容貌だ。しかし、それをしてなお、目に付くのはその服装。
洋服の広まった現代では、もう普段目にすることのなくなった、和装だったのだ。
「あ、うぶう」
ど、どちらさま!?と、言ったつもりだったのだが、俺の喉は思ったように震えることなく、声は、ただの音となってしまった。
どういうことだろうか。
自問している間に、その女性は、感極まったかのように目尻に涙を溜め、次の瞬間には周囲に憚ることなく泣き出してしまった。
「菊童丸様が、お目覚めに・・・っ・・・こんな奇跡がっ」
俺の身体にすがり付いて、彼女は、そんなことを言っている。
さらに、どたどた、と慌しく、廊下を歩く足音が聞こえ、この部屋の障子を乱暴に開け放つ音が続く。
入ってきたのは、長身の男と、若い女性。どちらも、やはり着物を着込んでいる。男の方は、時代劇でしか見ないような、本当に位の高そうないい生地を使っているのが、俺でもわかる。
「菊童丸様が、お目覚めになりました!」
「なんと!それは真かっ!!」
「ああ、菊童丸・・・本当によかった・・・」
この人たちは何を言ってるのだろう。
ずっと寝かされていた俺は、そろそろ、この訳の分からない状況から抜け出そうと、彼らに状況説明を求めるべく、息を吸い、言葉を紡ぐ。
「ああうう、だっ!?」
想定外だった。
言葉が出ない、という奇怪な現象は、初めての経験だった。
しかも、たったこれだけの音で、喉が疲れてしまっている。
う、と身体を動かそうとしても、布団が重く、持ち上がらないので、身体を起こすこともできない。
「おお、はは、話したぞ。さすがはわが子。将軍家の跡取りだ!いや、たかだか病の一つや二つ、簡単に乗り越えて当然か!?」
「菊童丸、本当によく頑張りましたね」
マジでか。
どうやら、彼らが菊童丸と呼んでいるのは、どうやら俺のようだ。
そこそこ、頭も冷えてきて、これまでのことを整理してみると、やはり、これは、転生、もしくは憑依というやつを経験してしまっているということなのだろうか。
しかも、ここに来る前の記憶がぐちゃぐちゃになっている。何故、死んだのか、とか、自分の名前とかが思い出せないのだ。
舌先までは出ているんだけれども、出てこない。なんとも歯がゆい思いに駆られてしまう。
ただ、死んだ、という事実だけが、胸を突く。
「っ・・・」
思い出そうとすると、頭が痛くなる。
心理的な枷でも嵌められているのか、『思い出したくない』と感じてしまう。それだけ、痛ましい死に方だったのだろうか。
「菊童丸。よく頑張りましたね。今はゆっくり休みなさい」
母親らしき女性に頭を撫でられ、一気に眠気が襲ってくる。
なんだってんだ、クソ。
俺は、誰にでもなく悪態をつきながらも、まどろみの中に落ちていった。
その日、俺は、菊童丸として、生まれ変わったのだった。
それから五年。
それだけの時間があれば、自分のことを理解するのには十分だった。
まず、ここはまさかの戦国時代。せめて江戸だったなら、命の危険は少なくて済んだのに、とちょっと神様を恨んだりもした。
戦国時代は、下克上の時代。日本史上最大の内乱の時代なので、いつ敵勢力に攻められるかと冷や冷やしてしまうのも無理もない話。
しかし、そこは、父上の役職のおかげで、何とかなりそうなのだ。
なんと、我が父は室町幕府十二代将軍足利義晴なのだ!
ぶっちゃけて言うと、誰だかわからない。
室町幕府で知っている人と言えば、尊氏、義満、義持、義教、義政、義昭、といった教科書レベルの人と、壮絶な死を遂げた十三代将軍義輝くらいのもの。ここまで数え上げて歴代将軍のおよそ半分が上がった自分にも驚いたが、問題は、父が十二代将軍であり、俺の立場は次期将軍であるということだろう。
十三代将軍は、なにせ、あの足利義輝なのだから。
「菊童丸様ー!」
つまり、この菊童丸というのは、義輝の幼名なのではなかろうか、ということ。
はあ、とため息をつく。
この歳で、まさか将来の不安に駆られることになろうとは、世も末である。
実際、末世には五百年くらい前から入ってしまっているから、当然と言えば当然なのか。
「菊童丸様。やはりここでしたか」
「弥四郎、なんでここに?」
「はあ・・・菊童丸様が勝手に出歩かれるからです。せめて一言いただかないと、わたしが怒られてしまうんですからね」
その女の子は、腰に手を当てて、ダメだぞ!と最後に付け加えた。
四つ年上の彼女は、よく笑う、とても明るい人だった。
三淵弥四郎。
それが彼女の名前だった。
驚くべきは、女性であることだろう。
確かに戦国時代には、女性が戦場に出ることはあった。決して多くはないけれども、甲斐姫しかり立花誾千代しかり、強い女性の名は後世にまで語り継がれているところだ。
しかし、これはどうしたことだろうか。
彼女だけでなく、有名どころの武将が、女性になっているのだ。
百歩譲って謙信女性説が真実であったとしても、だ。この京にまで名前の聞こえる名門武家の当主が、女性ということが、非常に多い。
このことを知ったときに、俺は、単なるタイムスリップの類ではないということを悟った。
「ゴメン。次からはちゃんと言う」
「菊童丸様の次はいつになるんでしょうかねえ。前回も前々回も、そのまた前もそう言っていたじゃないですか」
「むう・・・」
そう言われると、口をつぐまざるを得ない。
だって事実だから。
しかし、抜けだすといっても、敷地から出るわけではなく、屋敷の中を適当に歩き回っているだけなのだが、かつて死にかけた経験から、過保護になりすぎているところがある。
それが嫌で、たまの息抜きとして出てきているのだが、その僅かなひと時も、彼女からすればダメらしい。
「わかった。とりあえず、今は部屋に戻ることにする。戻って昼寝でもする」
「お昼寝ですか?しかし・・・」
「そうしたら弥四郎も一緒に休めるでしょ」
「マジですかっ!?」
うお!?びっくりした。
急に身を乗り出してきた弥四郎にこちらは身を引いて対処。
「一緒に・・・はあ、はあ、はっ、いえ、失礼しました。それでは、お部屋のほうに戻りましょうか」
咳払いをした弥四郎は、そのまま俺の腕を結構な力で握りしめると、先導するように歩き始めた。
この女、見た目からは想像もできないほどに、筋力が強い。それこそ、十に満たない歳で、大の男が持つような大槍を軽々と振り回せるほどに。
何が言いたいかというと、腕がすごい痛い、ということだ。
そんな俺たちの状況は、傍目から見ると、仲のよい姉と弟に見えることだろう。
俺が、顔を引きつらせていなければ、だが。
弥四郎のボーイッシュな短髪の上に、内面を自己主張するかのごとく、生えた触角がうごめいている。
ものすごく、選択を誤った気がした。
「弥四郎、ちょっといいかな?」
「はい、なんでしょうか」
「あのさ、腕が痛いから、もうちょっと力を抜いて」
「あ、申し訳ありませんでした!」
無意識だったんだろうけど、かなり圧迫されていたから、弥四郎が手を離したとたんに血流が変わったのが分かった。
弥四郎に引っ張られていた腕を数回回すようにする。
四という年齢差は、歳が低いほどに、大きな差になっていく。大人ならばまだしも、モラトリアム期間の子どもにとっては、非常に巨大な差である。四年もあれば、小学生は高校生になれるし、中学生は大学生になれる。今の俺の年齢で言えば、保育園児と小学校中、高学年くらいの差である。仮に弥四郎が人並みはずれた力をもっていなかったとしても、俺を振り回す程度のことは容易にできるはずなのだ。今回の件、一歩間違えば、骨が逝っていたかもしてない。
血の気を戻して、弥四郎をねめつける。
「弥四郎、力が強い」
「う、申し訳ありません。つい、感情が先走りました」
なんか、危ないな、それ。
しゅん、とした弥四郎は、ちらちらと俺を見てくる。
まるで、怒られた後の仔犬のようだった。
心なしか、触角も下を向いているように見える。
「弥四郎は、人よりも力が強いんだから、気をつけてね」
「はい」
「じゃあ、行こ」
俺は、弥四郎の手を引いて部屋に向かう。俺が先を歩き弥四郎、は、後ろをついてくる形になっている。
先ほどとは、逆の位置関係だ。
弥四郎の手は、大槍を振り回せるほどに大きくはなく、鍛錬に明け暮れた末の硬さもなかった。歳相応のやわらかく、暖かい手の平だったことに安堵した。
逆に、この身体のどこから、恐ろしいまでの力を生み出しているのか、不思議に思った。
それほど歩かないうちに、俺の部屋が見えてくる。
応仁の乱で荒れてしまったこの御所も、父義晴が戦乱にあわせて改修していた。比較的、防御能力を強化した造り。城とまではいかないまでも、小規模な戦いであれば、篭城が可能なのだ。
その御所の奥にある俺の部屋までは、そう時間がかからなかった。
「あ!姉上!」
部屋の前に、小さな女の子がいた。その女の子は、弥四郎を見て、そう言ったのだ。
「あの子は?」
「はい、わたしの妹の萬吉です。三年前に
萬吉は、姉に尋ねられると、そこからトトト、と走り寄ってきた。
年のころは俺と同じか、少し上、といったところか。
幼いながらも、確かな知性を感じさせる双眸がこちらを見つめている。
「菊童丸様。お初にお目にかかります。萬吉とおよびください。明日から、菊童丸様に近侍せよ、と命を受けました。よろしくお願いいたします」
舌足らずな感じで一気にそういった。
顔を見ると、少しほっとしているようにも見えるから、恐らくは練習何なりをして、この本番に臨んだのだろう。俺の部屋の前で待っている間にも、ずっと緊張していたのかもしれない。
そして、萬吉の言に驚いたのは、他でもない弥四郎だった。
「ま、萬吉。あのね、菊童丸様の相手役は、わたしがさせていただいているんだけど」
「姉上は、明日から父上のお手伝いだそうです。もう元服も近いから、政務も覚えるようにとのこと」
「は、え・・・え?」
戦国時代の女性の成人年齢は、それ以前よりもずっと早くなっている。それはこの世界でも変わらないらしい。俺のいた世界との違いと言えば、武士として生きる女性の場合、男性同様元服と称しているということだ。
弥四郎も、もうじき元服するのだろう。そうなれば、刀槍を抱えて戦場を走り回ってもおかしくはないし、なにかしらの仕事が与えられても不思議ではない。
「姉上は、三淵家の跡取りですから、家のことも勉強しないといけないと言ってました」
止めとばかりに、萬吉が手渡した手紙には、姉妹の実父三淵晴員からのものだった。
それを何度も、喰らいつくように読み、内容に変わりがないと理解したとき、弥四郎は、声もなく崩れ落ちた。
父親からの帰宅命令がそんなにショックだったのか、瞳はうつろだ。
「弥四郎、大丈夫?」
「大丈夫です、菊童丸様。・・・とても、残念な報告です。わたしは、明日で実家に帰らせていただくことになりました」
まるで、家を出る妻のような言い方だった。
「最後のお願いです」
俺の肩を弥四郎が掴んだ。
顔が近い、眼も少し血走っていないか?
「お、お願い?何?」
「はい。ぜひ、今晩だけでも、菊童丸様を抱きしめさせていただきたく」
うわー、今日も絶好調だった。
地の底から響いてくるような声で、とんでもないことを口走った。
ギリ、と肩を掴む力が増している。
「あのぅ、姉上」
「なにっ!今大事なとこなんだから静かにしなさい!」
大事ってなんだ、と俺はつっこみたかった。
おずおずと話しかけてきた萬吉のほうには眼もくれず、威圧だけでさらに妹を萎縮させていた。とても、九つとは思えない迫力だ。
しかし、萬吉も負けてはいない。
自分の伝えることを最後まで伝えなければならないと、口を開いた。
「明日からお仕事なので、今日にはもう帰らないといけません」
時が止まったような錯覚を覚えたのは、おそらく俺だけではないだろう。
決死の思いで発した言葉は、過たず弥四郎の心に突き刺さった。
「もうお迎えも来てます」
「弥四郎、本当にお迎えが来てるよ」
魂が抜けていた。
「菊童丸様・・・」
しかし、いろいろと暴走することが多かったとはいえ、これまで弥四郎に助けられていたことも多いわけで、実際楽しかったし、送り出すために言葉を一つ二つかけてやらないとしまらない。
将来的に、俺に仕えてくれるかもしれない彼女を無碍にすることは絶対にできないのだ。
「弥四郎、あのね。これまで、ありがとう。楽しかったよ。お仕事頑張って、また大きくなったら会おうね」
「菊童丸様ぁ!!」
「ぐふっ!?」
感極まったのだろう。弥四郎は、全力で抱擁をしかけてきた。全身を締め上げられて、肺から空気が溢れ、妙な声が漏れ出る。
危うく、俺にもお迎えが来るところだった。