――最後の話をしよう。
現実をも融かす、ひどく馬鹿げた恋の
+
――当該データ:一件一致
――検索者:ムーンセル所属上級AI
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『
ムーンセルの特A級事件。
月の裏側の虚数空間にメルトリリス、紫藤 白斗、ほかNPC数名が落ちた出来事。
原因は上級AI・桜への中枢管理上の注意喚起の不全。
幸いそれ以上の危機の発生前に対応され、異変は解決。
尚、このAIの例外行動以外にイレギュラーは一切ないものとする。』
「……本当に、これで良かったのかな」
そのページの小さな記述を何度も読み返して、首を傾げる。
私は口を出せる立場ではないのだけれど、やはり疑問を持たずにはいられない。
この記述は、紫藤さんとメルトさんによって書かれたものだ。
あの事件に関する記録の全て。あの長い戦いは、たったこれだけの記述に収められている。
そう――イレギュラーはなし。即ち、この記述は偽りだ。
イレギュラーだらけの事件だった。
始まりからその内容、巻き込まれたマスターの記録、そして結末。
全てが例外。例外でない箇所を探す方が難しい。
このような記述となったのは、もうあんな事件が二度と起きることがないように。
ムーンセルには、CCCという事件に関する記録はこれ以外もう存在していない。
メルトさんが持っていた最初の記憶データは既に消滅している。
これでもう、ほんの少したりとも、CCCが発生する可能性はなくなった。
しかし、それで終わらない程に、メルトさんの念の入れようは強かった。
――■■■ ■■■に関する記憶も全て、抹消したのだ。
紫藤さんとメルトさんの二人はその人の記憶を持っているのだろうけど、私たちAIは誰一人覚えていない。
事件の発端となったのは、私の軽率な行動だ。
その行動によって解放されて、月を狂わせた存在は覚えていない。
だけど、確かにいたのだ――もう知るつもりはない。それでも、その事実だけは残っている。
それがなんだかもやもやしていて、機能とはまた違う違和感を感じさせる。
「でも……もうあんな事を起こす訳にもいかない。これが、正しいんですよね」
そう、自分を無理矢理納得させる。
これまででは、まったく考えられない。
不明点を不明のままにして終わらせるなんて、AIとしてあってはならないことなのだ。
しかし現状、その現象そのものに違和感はあれど疑問を探求しようという気は起きない。
この異常を許容できるようになったのは、ようやく叶った念願のためだ。
そもそもAIが欲求を持つことが間違いなのだけど……
――始まりは、不明を解明しようとする機能の一端だった。
そうして事件の中で月の主に打ち明けて、致命的な擦れ違いを実感した。
事件を終えて、もう独断は起こさず、ただひたすら待ち続けて――遂に“それ”は完成された。
感謝をした。
誰かをありがたいと思うことの意味。抗議上のそれ。辞書にあるような、文字の羅列で説明することは簡単だったけど、それを実感出来る時が来るとは思わなかった。
月で起用されているAIは、今や全員心を所持している。
決め手となったのは、皮肉にもCCCの黒幕だった。
BBが抵抗しつつも操られ、作られたアルタ―エゴ。
彼女たちには真実、心が備わっていた。
紫藤さんが言うには、事件の黒幕は心に関してのエキスパートであったらしい。
心の在る彼女たちを基盤にして、そのプログラムはようやく完成に至ったのだ。
アップグレード――AIとしては機能制限なのかもしれないが――された私の疑問は消えた。
いつものように紫藤さんを補助して、感謝を受ける。そうして得られる喜びの意味を、ようやく理解した。
これが心。私の求めていたもの。
複雑と複雑が入り乱れた、言いようのないプログラム。
気にするな、と彼らは言った。忘れろ、と彼らは言った。
だから、もう気にせずとも良い。この事件を探求するなどしてはならない。忘れることが出来ないのなら、それ以上を失くしてしまえば良い。
「――――」
命令を実行させる。躊躇いなく。過去を過去と片づけるために。
――削除命令が実行されました。
当該ページを削除します。
ムーンセルのページを削除することは、本来禁止事項に属している。
というより、そもそも機能自体が存在していなかったのだ。
それを付加して、最初で最後の実行対象とする。
――削除中……50%……80%……90%……
「……」
――95%……100%……当該ページを削除しました。
真っ白になったページ。そして、次の瞬間には新たな記述対象に上書きされる。
これで終了。ムーンセルにおいて、CCCは存在していないことになった。
当事者となった私たちの記憶領域には残っている。それでも、次の
ムーンセルの記述を基にしたのが私たちの記憶だから、それは仕方のないこと。
後悔はない。アレは忘れなければならない禁忌なのだから。
その後も記憶を持ち続けるのは、紫藤さんとメルトさん、そして、残るマスターたちとアルタ―エゴ。
私にも、BBにも残らないのはひどく不自然なんだろうけど、じきにそれも分からなくなる。
「……ううん。それで良い。残っていたら……きっと妨げになる」
私が削除するべし――メルトさんから受けた指示は完遂した。
戻って、いつもの仕事を再開しなければ。
今日の夕食は何にしようか。
霊子体であっても、必要ではなくとも、食事はとれる。何より紫藤さんの一存で、食事は半ば必須事項になっていた。
私は料理の役目を率先して請け負った。毎日、毎食、賑やかな宴会のようになるのはお約束。
その喧騒が、私は好きだ。
だから、気兼ねなく皆が騒いで、楽しんでくれるよう、満足できる料理を作る。
苦はない。寧ろ、楽しくて仕方ない。
大好きなこの場所で。大好きな皆のために。そして何より、大好きなあの人のために。
この月が役目を終えるその時まで、私は従い続けよう。
「――よし、頑張ろ」
AI・桜、特別指示完了。通常作業に戻ります。
メルトさんに連絡を送って、歩き出す。
いつもと変わらない景色。皆が同じように作業をして、同じように終わっていく。
それでも、全く同じ日なんて一度たりともない。
今日だって――
「うわあ! またタイガー製プログラムが暴走したぞ!」
「今度はなんだ。ワームか、トロイか、ロジックボムか」
「きゃあああ!? こ、こっちにも!?」
――ほら、また非日常がやってくる。
「――ふふ」
心という余分なパーツ。だけどそれが付加された今、一切余分とは思わない。
毎日違う“いつも通り”。それに苦笑が浮かびながらも、何処か楽しみにしている自分がいる。
さて、それでは始めよう。いつも通りの例外処理。
とても困る、とても楽しい異変解決の時間だ。
+
「ヴァイオレットちゃん、ここ、これで合ってる?」
「七割方、間違っていますね。修正してください」
「……」
バッサリと切られ、修正点らしき場所を素早く発見される。
間違っているらしい場所を赤く線で囲まれたそれは、まるで先生の添削を受けたようで――まあ、大体その通りなんだけど――めっきりとテンションが落ちる。
「うぅー……」
「……貴女が言い出したのでしょう。私の分担をしているのですから、粗があるのは許容しません。さあ、続けてください」
私が月の裏側から表側に来て、一ヶ月ほど。
まだ白斗君とメルトちゃんが主として君臨する世界にはまだ慣れていない。
それでも、二人をはじめとして、桜ちゃんたちAIはまるで「昨日のこと」のように、「いつもの仕事」に戻ったのだ。
二十四時間体制で、誰かしらが動いている。
そうでもないと、無限に広がる並行世界の観測は務まらない。
凄く大変で、しかしこれまで毎日発生していたトラブルの対処は凄く楽しい。
そんな中で私も、役目が欲しかった。
何もしないだけでは、ただの居候。
ありすちゃんたちはそれで良いかもしれないけど、何となく――私はそれが嫌だった。
しかし並行世界の観測作業は白斗君とメルトちゃん、桜ちゃんや一成君たち一部の上級AIの仕事。
そこに加わるには、あまりにも今の私には技術がなさすぎる。
将来的には皆の負担をなくす意味合いでも、観測に加わりたい。
だけどまずは技術の向上も兼ねて、期限のない仕事を。
――月の裏側の再構築。
長い一夜を皆と過ごした月の裏側。
旧校舎も含めて、現在あの場所は跡形もなく消滅していた。
白斗君に聞いた話では、カレンちゃんの行動によるものらしい。
カレンちゃんは、一緒に戻ってこなかった。
組み込まれたサーヴァントの最終宝具は、その命を代償とした特攻宝具。
それを使用した結果、カレンちゃんの存在は終結の炎を残して消滅。私たち全員が脱出した後、月の裏側を焼き尽くしたとのことだ。
カレンちゃんは二人が倒したキアラさんの存在が少しでも残っていれば――そんな可能性さえ失くし、事件を終わらせた。
――このことで一つ、問題が生まれた。
月の裏側があった場所――つまり、何もなかった虚数空間そのものの存在が消失してしまったのだ。
無限を観測するムーンセルでは、廃棄しなければならないデータも幾つも生まれる。
それを集積する場所として存在していた月の裏側は、無いと困るのだ。
「……でもさ、このくらいなら」
「駄目です。大きな役目を負う月の五十パーセントなのですよ」
ヴァイオレットちゃん一人ならば一切問題ない。それを私の実戦訓練という形で、貸し与えてもらっている。
まあ、だから……完璧でないといけないのだろう。
こうしている間にも、廃棄データは増え続けている。
今、代替として使っているトラッシュボックスはいずれ限界が訪れる可能性もある。
出来る限り早く完成させなければならない。期限がないように見えて――実はあるのかも。
「しらは」
「――あ、プロテアちゃん」
さあ、作業を続けようと思った時、空から声が掛かってきた。
そこそこ厳重な場所で作業をしていた筈だけど、彼女を前にすればそんなモノは無いも同然らしい。
「どうしたのですか、プロテア。貴女がここに来るとは想定外でしたが」
「わたしのはこ、そろそろかえして」
「貴女、いらないと言って明け渡したのではないのですか……」
うん、確かに言っていた。
プロテアちゃんを封じていたクライン・キューブ。
私やエゴの皆にとっての最終決戦で決着を付ける要因となった箱。
アレは今、月の裏側に代わる廃棄データの集積場所となっている。
BBちゃんが提案して、プロテアちゃんが了承してくれたことから、すぐに可決されてこの一ヶ月、その役目を成してきた。
このことから、てっきり彼女にはもう必要ないものと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
「えっと……プロテアちゃん、もうクライン・キューブは必要ないんじゃないの?」
「そんなこと、いってないよ。あれはわたしのおうちだもん」
おうち……なるほど。それなら、しょうがない。
プロテアちゃんにも確かな価値観はあろう。それに従ったことなら、私がとやかく言うことでもない。
「まったく、貴女は……」
「まあまあ。私たちの都合で使ってるんだから、文句は言えないよ」
「……シラハ、貴女が手腕を磨きたいと言い出さなければもう完成している頃合いなのですが」
「え、もう?」
「当然です。私はBBの副官として作られた存在ですから、演算能力は上級AIに匹敵すると自負しています」
……とことんまで、アルタ―エゴの皆は規格外ばっかり。
追いつくのは無理だろう。
まあ、別に大した問題ではない。少しずつその技術を盗んで、技術をつけていけば良いだけだ。
「プロテアちゃん、もう何日か、待っててくれる?」
「……なんにちかって、どのくらい?」
「何日か、は何日かだよ。私、まだまだ未熟だから、どのくらいで月の裏側を作り直せるか分からない。でも、近いうちにすぐ、返せると思うから」
月の裏側さえ完成すれば、クライン・キューブに集積された廃棄データは全て移動できる。
そうしてからでないと、完全な状態でプロテアちゃんに返すことが出来ないのだ。
「……わかった。はやく、ね」
「うん。任せて」
去っていくプロテアちゃん。
なんだろう、ホームシックというか、生まれてから大きな時間を過ごしてきた世界というものは恋しくなるのだろうか。
私は聖杯戦争、今回の事件、どちらも過ごしていた時間はそう変わらない。
だけどその二つの記憶しかない私にとって、それらが全て。月から出るのは嫌だし、生徒会の皆と別れるのも嫌だった。
まあ、この変わりなくも新しい日常で、これからそれよりも長い期間を過ごしていくとあれば――それは楽しみなものだ。
BBちゃんや、アルタ―エゴの皆。リップや桜ちゃん、ありすちゃんたちに――白斗君とメルトちゃん。
これで楽しくない筈がない。事実、表側に来てから毎日のようにトラブル染みたお祭り騒ぎが発生している。
今日もきっと、これからプロテアちゃんが何かをやらかすだろう。
そして、それを止めるために、皆で奔走するのだ。
「……任せては良いのですが、作業工程の大半を私がやっている状況で貴女の言える言葉でしょうか」
「それ、言うの禁止。私、ポジティブに考えたい主義だから」
白斗君の方に行っていたリップも、もうじき帰ってくる。
それまでに、ある程度はコレも物にしておきたい。
「さて――それじゃ、続けよっか」
「はい。今日のノルマ程度はこなしてください」
耳に痛い一言を受けつつ、作業に戻る。
いつかは月のシステムの、その一端を担えるようになりたい。
思った以上に、前提である訓練は大変だけど。
その先の願望――二人を手助けしたいという望みを思えば、どうにか乗り越えられる気がした。
+
標的を捕捉し、距離を詰める。
確実に討てる――そう確信が持てる距離まで。
反撃こそ来ないものの、早くしなければまた、理解に苦しむほどの高速移動で逃げてしまうかもしれない。
逃げるは一つ。追うは三つ。
そのうち二つが丁度良い距離に辿り着いたのを見計らい、彼女たちに指示を出す。
「今だ! メルト、リップ!」
「ええ!」
一人――メルトはその鋼の脚具をもって、跳躍し、
「はい!」
一人――リップはその鋼の双腕をもって、跳んだメルトを受け止める。
必要なのは、逃げる時間を与えない十分な速度と、完全破壊を達成しうる十分な攻撃力。
速度に比重を置いたメルトと、攻撃力に比重を置いたリップが協力すれば、その二つを完全に補える。
「いきます!
「
金属同士が打ち付けあった高い音が響き渡る。
非常に仲が悪いながら、相性の良い二人の協力攻撃。
城塞をも崩すだろう女神の砲は、過たず標的を打ち砕いた。
「本当に、毎日毎日……勘弁してほしいわ。私たちがいない間、なんで大人しくしてたか不思議でならないわよ」
「うん……本当に。一成が言うには、裏側に乗り込んで来ようとしてたみたいだけど」
「こ、これ……毎日なの……?」
「ええ……教師AIなんてプログラムだからイッセイも押し切られるのよ。溶かしてやろうかしら……」
日常に戻った僕たちは、今日も恒例と言うべき戦いを終えた。
藤村先生――いざという時頼りになる優秀なAIではあるのだが、普段、毎日のように何かしらの珍事を引き起こす月のトラブルメーカーの一人である。
本日は手製のプログラムが暴走し、あわや記録全ロストという大惨事になりかけた。
バックアップこそ取ってあるが、それさえも巻き込まれてはまったく意味がない。
こうした、本当に危機ということもさらっとやってのけるので、その解決に総動員で奔走することも少なくない。
今日は事態が事態だったため、僕とメルトだけでなく、リップ、そして――
「――終わったみたいですね、ハクトさん」
「ああ。カズラも、お疲れ様」
走り寄ってきたカズラ。それに、BB。
三人にも手伝ってもらった。
桜とヴァイオレットが他の仕事に取り掛かっている今、彼女たちの助力は非常に頼もしい。
「いえ。少しでもお役に立てて、良かったです」
「ふう……なんで一AIがこんな厄介なプログラムを作れるんですか……」
「……いや、BBも大概だと思うけど」
「えー、なんのことですかー? BBちゃん可愛いから分かりませーん」
BBと、そして中枢領域にいる桜はプログラムの場所の特定をはじめとして、バックアップを任せた。
健康管理AIでありながら、CCCの際に得た力を一部残すことで通常ではありえない力と権限を所持している。
大きな助けになっている以上取り上げようとは思わないが――悪用されないことを祈るばかりである。
おどけてみせるBBだが、片手間に全域の検索をしてプログラムの痕跡がないか確かめている。
「……うん、と。どうやら分裂とかはしてないみたいですよ、センパイ」
「良かった……いつかの聖杯騒ぎみたいな大惨事にならなくて」
「……何があったのか、結構気になります」
しかしまあ、今回の騒ぎは虎聖杯騒ぎに次いで、藤村先生が引き起こした異常としては最も大きな被害になりかけたものだろう。
“アレ”みたいに、その後に実害があるようなことにならなくて、本当に良かった。
「ともかく、タイガには幾ら言っても分からないみたいね。神父ほどじゃないけど……やっぱり、仕置きは必要ね」
スイッチの入ったメルトを止める手段なんて存在しない。
罰則の確定した藤村先生に同情しつつも、今回ばかりは仕方ないとメルトを肯定する。
「……メルト、仕置きって……な、なにをするの?」
「さて、どうしようかしら。所詮はAIだし、加減はするつもりだけど……想定された被害を思えば、ちょっと調整の手が狂ってしまうかも」
己のことではないまでも、メルトの性格をよく知っているリップはそれを聞いて、僅かに震えた。
カズラは苦笑し、BBは呆れたように溜息を吐く。
しかし……多分、彼女たちもそのうち慣れてしまうのだろう。それほどまでにこれは日常茶飯事で、この月の二大トラブルメーカーのどちらかが毎日引き起こし、一週間に一度くらいは仕置きが決行されるのだ。
リップもカズラもBBも事件が終結した次の日からこの日常を体験してきたのだが、この一ヶ月で最大の異変の後ということで、その表情に疲労を見せていた。
「じゃあ、三人はもう休んで。メルト、見回りに行こう」
「分かったわ。貴女たち、くれぐれも――タイガたちみたいな余計なことをしないでよね」
念を押すメルト。BBは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、
「――ふふん。私だったらもっと上手く――ああ、いえ、センパイが困るようなことはしませんよ。なんせBBちゃんは月で一番優秀なAIですから」
そんな、犯罪予告染みたことを言ってのけた。
「……」
頬を引きつらせるメルト。今日の一件によって苛立ちの溜まっている彼女を触発させまいとカズラが話を切り替える。
「わ、私まだ大丈夫ですから! もうすぐ夕ごはんの時間なので、サクラのお手伝いをしてきますね!」
「っと……それなら私も手伝っちゃいましょう。白い方はうっかりですからね、まるでリンさんみたいに」
「じゃ、じゃあ、私も……訓練、してきますね」
去っていく三人。リップは表側に帰ってからも、武術の鍛錬を欠かしていない。
月の裏側でアサシンより教えられた中国武術。幾度もリップの力になったそれは今や彼女の戦闘の主体とまでなっている。
いつかアサシンさんに至りたい、とはリップの弁。先は長いものの、もしかすると――そう思えるほどに、リップはひた向きだった。
「まったく。いつか、何かやらかしそうね、BB……動いたら動いたで、タイガたちよりも厄介そうよ」
「うん、間違いない。一応、後でもう一度、注意はしておくけど」
どうせ毎日のように引き起こされるのだろうが――だからこそ、厄介ごとは少ない方が良い。
安寧の一つも碌に出来ない現状、BBを容疑者側にするのは非常に困ることなのだ。
「さあ……今日は見回りも大変ね。何事もなく終わったとは思うけど、騒ぎは収めておかないと」
これからのことに辟易しつつ歩き出すメルトに続く。
今回の厄介ごとは、これで終わっていてほしい。厄介が厄介を更に呼んでくるなんてことはどうあっても避けたい。
「ふむ。もう終わってしまったか。少しは愉しめるとは思ったが――実に残念だ」
「……はぁ……、開口一番それなのね。本当に、根っから悪質よ、貴方」
「自覚しているとも。でなければ、最後の戦いで血迷って命を擲ったりはしないさ」
そんな願望を嘲笑するように、怪しげな笑みを浮かべつつ近付いてくる存在の声を聞くだけで、気が滅入るのが分かる。
月の裏側での戦いで己の身を投じ、無限の影の前に消滅したAI。
恐らく、いや、間違いなくAIのうちで最も性質の悪い彼、言峰は今の今まで事態を心から愉しんでいたらしい。
事態の収束にも拡大にも関与していなかったのはそういう理由か。
「……相変わらずですね」
「昨日と今日ではそう変わらないものだ。AIも変わるのは時間が掛かる。まあともあれ……君らには感謝しているがね」
表側に戻って、すぐさま記録から再起用させたものの、やはり彼は変わらない。
優秀ではあるのだが、性格に難がありすぎるのだ。
事件が終わって、これまでは特に問題も起こさず大人しくしていたものの、彼がこのままでいる筈がないという確信がある。
「感謝してるなら、あの子に変なことを吹き込まないでもらえるかしら」
「私の責ではないな。アレの性質は本来持っていたものだ。私を超える存在になりうるぞ」
「勘弁してほしいわ……」
呆れ果てたメルトに、言峰は笑みを深める。
「さて、では私も職務に戻るとしよう。実に有意義な時間だった」
くつくつと笑いながら歩いていく言峰は、どうにも未来への嫌な予感を感じさせる。
一体基になった人物はどれほど……な人物だったのか。
出会いたい訳がないものの、ある種気になった。
「……ハク、行きましょう。関わっただけで頭が痛くなるのに、アレのことを考えていたらショートしかねないわ」
「あ、ああ……うん。そうだね」
心底から嫌そうなメルトは足を速めてこの場から離れていく。
この月で一番、食えない人物である言峰。
予想は当然のように的中し、新たな月の住民を交えた誰にも知られぬ騒動はより大きく発展していく。
月の存亡に関わる、今日の出来事のようなものもしばしば起こるようになるのだが――それはまた、別の話だ。
――そして、ようやく、今日という日が終わる。
二十四時間休むことなく観測を続けるムーンセルで、その役目を務める者は僕やメルト、一部の上級AIで交代制を取っている。
月には本来昼も夜も存在しないが、霊子で構成された仮初の世界であるここでは疑似的なそれが作られている。
確実に夜に休むことは出来ない。
ゆえに――「休むべき時間に休める」という時間は大切にしたい。
「……ふう。今日は、三日分くらい疲れた気がするわ」
「本当に、その通りだ。明日はこんなことが無ければ良いけど――」
「間違いなく、無理でしょうね」
メルトは半ば諦めを持っている。どうせ明日も、厄介がやってくるのだろうと。
そんな中での、人間らしい休息。
入浴を済ませて寝室に戻ってくると、目に見えて疲労しているメルトは大きく欠伸をしてベッドに座り込む。
「ふぁ……もう、休みましょう。眠いったらないわ」
「そうだね。……と、そういえば」
――今日は、姿を見ていない。
今朝、仕事を始めてから、休憩に入る間もなく藤村先生が一件起こしたため、まったく余裕がなかったのだ。
メルトの疲労はその所以であり、CCCとは比較にならなくとも大きな例外であったと言えよう。
メルトは察したように、ああ、と声を漏らす。
「あの子なら、もう部屋にいるんじゃないかしら。もしくは――」
その目が部屋の入口に向けられた時、ちょうど扉が開かれた。
「――ようやく終わったんですか。お父さま、お母さま」
「ああ――カレンも、お疲れ様」
やってきたのは、長く伸びた白い髪を後ろで一括りにした少女。
月の裏側において観測者の役割を務めたAIの姿をとった、月における最重要のプログラム。
――カレン・ハクユウ。
月を護る守護術式として完成された白融は、すぐにその機能を確かなものとして証明した。
そして、意思を持ち、心を持つ――現在の月のAIたちに備えられた基本機能を付与した第一号たる鍵。
それが彼女。『月の子供』として創られた、絶対権力の一つ。
この姿をとっているのは、月の裏側でそのAIを依り代にしていたからだろう。
影響を色濃く受け継ぎ、成した白融にカレンと名付けるのに、メルトは一切否定をしなかった。
記憶は一切持っていない。ただ、精神性は良く似ている。
その在り方からメルトも、AIとしてのカレンへの対応とはまるで違い、困った子供を相手するように接しているのだ。
まあ、実のところ、結構な割合でカレンは言峰と関わっており、趣味というか性質が彼と似通ってきている気がする。
それが心配でならない。将来的に、とんでもない傑物になってしまうのではないかと。
「カレンお姉ちゃん! お兄ちゃんたち、帰ってきたの?」
「すごく遅かったけど、どうかしたのかしら?」
「見ての通りです。今日の厄介ごとはやたらに規模が大きかったですからね」
続けて部屋に入ってきたありすとアリス。
彼女たちは月に残ったマスターとサーヴァント。CCCが終わってからは、月を自由に駆け回って毎日を謳歌している。
多少、厄介を呼び込んではいるのだが――そこはメルトのお気に入り。お咎めは非常に少なく、この月において最も自由な存在だと言っていいだろう。
その存在そのものが月の運営を大きく支えるカレンと、月の例外少女たる二人。
何故か仲が良く、三人で遊んでいる(半ばカレンが巻き込まれているようにも見えるが)姿を良く見る。
「おかえり、お兄ちゃん!」
「うん、ただいま、ありす」
こうして、休息の出来る夜、五人が一つの部屋に集まることは少なくない。
休む前に他愛のない会話を交わすこの時間が、僕は好きだった。
それも今日は、どうやら取りやめのようだが。
「三人とも、もう遅いわ。休みなさい。私たちは疲れたの」
「そうですか。なら尚のこと、居座りたいのですが」
「カレン、明日から神父との接触禁止よ。アレと同類にはならないで」
最近妙に嫌がらせを覚えてきたカレンに言いつけるも、当人は素知らぬ顔だ。
これは、反省どころか少したりとも考えていないらしい。
「まあ、そういう冗談は置いておきましょう。今日くらいは勘弁してあげます」
「なんで上から目線なのよ……」
それでも、その大本を辿れば健康管理AIに行き着くカレンは此方の疲労を把握しているようで、笑みを浮かべてそういう。
「――――」
その表情は――月の裏側で幾度か見た、彼女の笑みと同じだった。
姿は同じとはいえ、紛れもなく別存在であるというのに。
「おやすみなさい、お父さま、お母さま」
「おやすみなさい、お兄ちゃん!」
「おやすみなさい、お姉ちゃん!」
続けざまに出ていく三人。静寂の中で、メルトが今日何度目かの溜息を吐く。
「……やっぱりあの神父、どうにかした方が良いかしら」
「僕もそう思う……カレンまで厄介ごとを引き起こす側になると、それこそ手が回らなくなる」
どうせ彼のことだ。言って分かるでもないのだろうが、警告くらいはしておかなければ。
それで止まらなければ――あとはメルトの判断に任せるまでである。
「まあ……それは明日で良いわ。寝ましょう、ハク」
「そうだね。メルト、お疲れ様」
目を擦りながら寄り掛かってきたメルト。
その頬に手を当てて顔を此方に向けると、メルトと目が合う。
慰労の意味も込めてか、もしくは自分自身への報奨か。或いは、その両方か。
そっと、しかし確かに、唇を合わせる。
「――ん――」
数秒。早くも状況に対応したメルトの舌を受け入れる。
絡まり、交わり、離れた時のアーチは互いが混ざり、力強く繋がっていた。
「……貴方が誘ったのよ、ハク」
「……む」
と、そこでようやく、メルトのスイッチを軽率にも入れてしまったことに気付く。
ほんの少し紅潮した頬からも、それは明白であり。
こうなってしまっては仕方がない、と了承の意も兼ねて、もう一度唇を重ねようとした瞬間。
「――――なるほど。追い出したのはそういう理由ですか」
「ッ――――!」
「――――ッ!?」
そんな声が聞こえてきて、咄嗟にメルトと距離を開ける。
見れば、部屋を出た筈のカレンが死角である部屋の隅で先程と同じ笑みを浮かべていた。
「か、カレン……! なんで……」
「神父に転移を教えてもらったので。お父さまとお母さまが寝たの見計らって、ベッドにお邪魔しようかと」
「コトミネ――!」
その衝撃は、久しぶりにメルトが言峰を名前で呼んだことから彼女にとっても相当のものだったと判断できる。
まさかこのような高等技術をカレンが身につけていたとは……
「その疲労体で営もうというのならわたしは今度こそ部屋に戻りますが……」
「カレン、忘れなさい。そしてこっちに来なさい」
言葉の節々に必死さを見せて、メルトはカレンを招く。
うん――まあ、理解はした。
メルトは、「一緒に寝るから忘れてくれ」と言っているのだ。
「――ははっ」
「何笑ってるのよハク! 元々貴方が原因で――」
「うん、ごめん。カレン、おいで」
「はい。お邪魔します」
月全体は今のままで良いとして――後はこの部屋をはじめとした、各所の転移制限も必要か。
そんなことを思いつつカレンを招くと、メルトと反対側に座ってくる。
創られた時点で身体の完成しているカレンは、実質的な母親であるメルトよりも背丈が大きい。
それによって、時々忘れそうになるが――まだカレンは幼いのだ。
子供であるのならば、これは当然なのだろう。
「さあ、もう眠ろうか」
「続きをしないのですか? 混ざっても良いのですけど」
「何言ってるのカレン!?」
「……やっぱり、方針を変えた方が良さそうね」
今までの疲れが倍増したような表情で呟かれたメルトの言葉に、僕とカレンが一頻り笑う。
それで拗ねてしまったメルトの機嫌を直すのに二人して悪戦苦闘。
眠るのは二十分ほど遅れる結果となった。
そして――
「……ハク、まだ起きてる?」
「――うん。どうしたんだ、メルト」
カレンが眠りについたころ、メルトが口を開く。
「いつか――」
「ん?」
「いつか、地上に降りてみようと思わない?」
「――」
それは、随分と前から持っていた願望だった。
決して叶わない。だからこそ、夢を見続ける地上の世界を歩くこと。
まさか、メルトがその話を切り出してくるとは。
「……うん。望みは持ってる。だけど――」
「
――そんな、理に適っていない、無謀な信頼。
それしか出来ない僕とは違う。何もかもをやってのけるメルトがそれを言ったことに、可笑しさを感じた。
だけど――面白い。
この騒がしい安寧の中で腐ってしまわないように、新たな願望に手を伸ばして、いつかそれを叶える。
何年。何十年。どれほど先になるか分からないけれど、夢を持ち、そこに挑み続ける限りは諦めたことにはなるまい。
無いものを一から作るのではなく、出来ないことを出来るようにする。
白融よりも、難題極まる。しかし、メルトや、カレン。月の皆と協力して、やってみるのならば、それは壮大な挑戦ではないか。
「……分かった。やろう、メルト。頑張って、その先で――いつか一緒に、地上に行こう」
「ええ。今から楽しみね、ハク」
人の夢が月であれば、僕たちの夢が地上であるように。
人が人の夢である月を目指すのと同じように、僕たちは僕たちの夢である地上を目指す。
どちらも、不可能を可能にすればこそ、手の届くものだ。
一方は、遥か上を。一方は、遥か下を。
どちらが先になろうとも、いずれは互いに夢を叶えられるように、僕は願っている。
無茶苦茶なことかもしれない。だが、不可能を可能にすることが出来ることを、僕は実体験を通して知っている。
諦めず、足掻き続けて――そして信ずるものさえあれば、どんな壁でも乗り越えられる。
僕にとってメルトがその対象であるように、きっと地上の誰かも、誰かを信じて共に歩み、此処に至るだろう。
その誰かとの競争だと考えれば――実に心が躍る。
やってみよう。次の「不可能」へ手を伸ばす頃合いだ。
二つの雫は、白く透き通った輝きを強く強く保ち続ける。
己の泉から飛び出して、膨大な海へと至るその時を――
今か今かと、待ちながら。
――――Fin
くぅ~疲れましたwこれにて完結です!(以下略)
まずは皆様、お疲れ様でした。
そして、ここまでお付き合いいただけたことにお礼申し上げます。
感想や評価、UAに励ましを貰い、CCC編が始まってから何度かあったスランプでもエタらずに終えることが出来ました。
合計でおよそ二年半。これだけ続けられたことは、奇跡でしょう。
本作での経験を活かし、今後の活動に繋げられればと思っています。
この後、章末茶番、短編、用語集と続き、Fate/Meltoutは終了とさせていただきます。
よろしければ、もう少しだけお付き合いいただければと思います。
本編で語り切れなかった事柄の保管となるかもしれません。
ともあれ、ここまで長い間、本当にありがとうございました!