一番長い章となりますが、どうぞ最後までお付き合いください。
――では、その女の話をしよう。
淫らに現実を侵す、おぞましい愛の
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少しずつ、意識が戻っていくのが分かる。
覚醒を求めて手を伸ばす。
何もない虚空のように見えて、目覚めは確かにそこにある。
「ちょっとサクラ! 早く手を動かしなさい!」
「分かってるわ、BBこそ自分の役目を全力でこなして!」
「そうは言っても貴女の作業効率の方が遥かに悪いわよ! まったく、本当に私のオリジナルなのかしら?」
「うるさいですよ! サクラもお母様も、黙って手を動かしてください!」
「……逆に効率悪くなっていないかしら」
「あの……私も、お手伝い……」
「お願いだから何もせずにじっとしてて」
すぐ近くで、声がする。
言い合うような――不仲な者たちが集まっているような会話。
それだけならばさほど珍しくもないだろうが、唯一つ、いつもと違う点。
一人、今言い合いの中心にいる存在が追加されている。
その違和感を解き明かしたいという好奇心と、解き明かさねばという使命感。
そして、何より勝る危機感が急速に覚醒へと身を進ませる――
「――――」
「っ、センパイ!?」
「ハクッ!」
目を開けると、三つの顔が飛び込んできた。
「……BB、メルト」
安堵の表情。彼女たちが無事であるという事実に、僕自身も安心する。
意識を失っていたようだ。何があったのか、記憶の整理をしながらも、周りを見る。
「良かった……ハクトさん、気付かなかったら、どうしようかと……」
「体力も回復傾向に向かっています。一先ずは……安心です」
「わ、私も、役に立ちたかったのに……」
涙を浮かべたカズラ。胸を撫で下ろしながらも分析をする桜。どこか不満げなリップ。
三者三様の表情は、夕日に照らされていた。
旧校舎――それも、保健室か。
ベッドに寝ていたらしい。自覚すると、しっかりと手入れされたシーツの心地よい肌触りが鮮明に伝わってくる。
薄暗い部屋だが、その機能は万全に動いている。
しかし、この光景は。
「……? どうしたの、ハク」
「……なんで白衣なんだ?」
そこに黒など一色もなく。
メルト、BB、カズラ。果てはリップまでも白い衣に身を包んでいた。
……リップはあれを一体どうやって着たのだろう。不思議で仕方ない。
「あ、ああ……気分ですよ、気分。センパイの容態を診るときくらい、健康管理AIらしくもなります」
BBは頬を赤く染めながらも、もう必要ないと白衣を脱いで桜に投げ渡す。
――BBは、助かったのか。
安心に息を吐くと、不意に痛みが襲ってきた。
「つ……っ!」
「ハク、まだ痛むの!?」
大丈夫だ、と返す。
体中の鈍痛のようなものは、そこまで気にするものでもない。
鈍いというより、鋭い痛みが意識に突き刺さる。
左腕に大きく走った切り傷。何で負ったものだったかと思い返せば、すぐに答えに行き当たった。
「ノートは……?」
「……」
“あの場”で何が起きたのか、まだ頭が追いついていない。
だが最後の瞬間、確かにノートは……
「……反応は、完全に途絶えています。恐らくは、あのまま……」
ノートは、主を守ったのだろう。
自身の運命に逆らい、否定し、意地でも我を通したのだ。
そして、結果としてBBはここにいる。あの場で消されようとしていたBBは、生き残っている。
「しかし、ノートのおかげで再び事態は拮抗状態に戻りました。後は……」
言い淀むBB。彼女だけが理解しているようで、何の話なのか今一判然としない。
だが、理解が追いついている点を整理すれば、ある程度は見えてくる。
まず始めに、前提として――この月の裏側の事件、黒幕はキアラさんだ。
メルトに話は聞かされていた。散々に注意も受けていた。それでも、彼女の聖人然とした姿に疑いなど持てず、結果としてここまで彼女を生かしておいてしまった。
……否、キアラさんは十五階で、ローズに殺された筈だ。だというのに何故あの場にいたのか。
どうしても、この一点が引っかかる。死を偽装したにしては、あまりにもあの時感じた死は鮮明すぎた。
整理をすべく歩み始めて、すぐに行き止まりに突き当たる。突然の事態に対応するには情報が少ない。今はとにかく、事態を把握し全てを繋げる必要がある。
その情報を求めて、BBを見る。一人考えを募らせるようにぼそぼそと呟き、やがて確信に至ったのか頷いた。
「後、長くて一日。それできっと、“キアラ”は消滅します」
「え……?」
危惧していたことを一発で解決するような言葉。
一日――時間の経過しない月の裏側においては感覚に基づいた二十四時間。
そんな、待てばすぐに訪れるような短い時を待つだけで、キアラさんが消滅する?
「どういうこと?」
「所詮、あの“キアラ”は虚像に過ぎません。彼女はあれで、全てを懸けています。文字通り命を削り、私を利用していたのです」
BBは悔しそうに拳を握りこむ。
自身の目的をまんまと利用した存在。
キアラさんに向けて怨嗟のように呟くBBの表情は悔しさに満ちている。
「メルトリリスの記憶データであった“キアラ”は元より同じ事を繰り返さなければならない存在。それだけならば正規のデータですが、記録と異なる動きをした時点で不正なデータとなります」
メルトの封じた記憶がきっかけとなって、この事件は起きた。
ならば、BBを狂わせたのはメルトの記憶のキアラさんであると結びつけるのが妥当だ。
メルトの記憶における月の裏側の事件。それと同じルートを歩んでいたのが、キアラさんが正規のデータたらんとしていたがためだとすれば、理屈が通る。
その目的が達成されるまで――それが確定的になるまで、生き続けなければならない。
よって、それまでの時間稼ぎとして、BBを操った。
メルトが力を行使できない月の裏側という舞台を存分に活かし、サクラ迷宮という防壁を作って。
「……BBは、それにいつ気付いたんだ?」
「最初からです。私は確かに、白融を突破しようとした。その手段として、“キアラ”の記憶を利用しようという愚考をしてしまったのです」
「記憶を、利用――」
「はい。即ち――」
BBが続けようとしたとき、空間にノイズが走った。
これは、BBが旧校舎にハッキングを仕掛けたときと同じもの。迷宮から旧校舎への干渉だ。
『――聞こえていますか、ハクトさん』
「っ……キアラさん」
耳朶から染み込み、脳髄までも融かしてしまうような甘い声。
全域に聞こえているらしい声に、メルトだけでなくBBや桜、全員が警戒態勢を取る。
『良かった。あんな怪我だったものですから、心配しました。貴方が死んでしまったら私も困りますもの』
通信越しであろうとも、それが心からの言葉であることが伝わってくる。
だが、安心感などの感情は少しも沸いてこない。
その言葉の裏にあるものを隠そうともしない、最早自身の考えを全て明かしてしまおうという思惑すら感じられる。
「……どの口が言うのよ。全部貴女が仕組んだ事じゃない。今更埋め合わせでもしようっての?」
対して、メルトも殺意を隠さない。
相対していれば、何の躊躇いもなく飛び掛っていただろう。
この月の裏側でのメルトのどんな感情よりも、それは強く鋭いものだった。
『ふ、ふふ……まさか。私が情状酌量の余地すらないということなど、最初から分かっていますわ』
しかし、キアラさんは少しも恐れた様子はない。
まるで自らの勝利を確信しているような、そんな余裕がある。
『なので、勝ち目のある内に要求をしようかと』
「……要求?」
『はい。それが叶えば、この月に在る全てに手を出しません。NPCも、旧校舎の迷えるマスターも、お二人の思うがままにすると良いでしょう』
一つ、彼女の求めることさえすれば、事件そのものから手を引く。
彼女にとって、その要求はそれほどまでに大きいことなのだ。
『……詮索、考慮の程はご自由に。よりし易くなるよう、望みを述べておくと致しましょう』
そんな大きな望みを、小さな事のように、キアラさんは告げる。
『――貴方の管理する平行世界。そのうち一つを私にくださいな』
「――――な――っ」
要求はあまりにも斜め上で、思考が停止しかねないものだった。
「っ……馬鹿じゃないの? そんな事……」
『あら、何か躊躇う要素がありまして? 無限に連なる世界のたった一つ、そのくらい庭の小石程度のものでしょう?』
この事件を終わらせたくば、世界を一つ寄越せ。
単純明快。ながら、絶対に容認し得ない要求。
『別に、貴方の知る誰かの関わる世界でなくとも構いません。そんな個人の存在に、然程興味はありませんから。貴方の知らない者しかいない、それこそどうでもいい世界で良いのです』
ほんの少しの検索作業を介せば、それこそ世界のカタチなど無限に見つかる。
西欧財閥がレジスタンスの妨害を受けず、完璧な統治を成功させた世界。
逆にレジスタンスが勝利を収め、西欧財閥の管理体制を打ち崩した世界。
そもそも西欧財閥が存在せず、自由のままに進歩を続けていく世界。
西欧財閥とレジスタンスが共に力を弱めた先で、一人の少女が発端となって開拓を説く世界。
その活動が成功し、宇宙へと歩みを進める世界。活動が失敗し、別の道へと歩んでいく世界。
何れかの、ほんの些細な行動が世界全体の破滅を導いた世界。
そして――彼ら彼女らのいない、まったく別の選択肢を歩む世界。
枝分かれは際限なく、可能性が百パーセントでないならばそこが新たな分岐点となる。
それら全てのうちから一つ。意識の外にあるような世界を明け渡せ、それがキアラさんの要求なのか。
「……」
『ああ……見えずとも分かります。その葛藤、実に甘美。ならば熟すまで待つも良し。暫し考えて貴方にとっての最適解を出しなさい』
彼女は不正なデータ。その存在はまもなくムーンセルに察知され、消滅するだろう。
そうなれば、自動的に月の裏側全体にチェックが入るだろうし、中枢に戻ることも出来る。
このまま時間が過ぎ去れば勝利。だが、そう上手く行く筈がない。
『十八時間を限度としましょう。それを過ぎたなら、強硬手段として旧校舎に手を出させていただくので、そのつもりで』
――強硬手段、一見、あまりにも無謀な行動に思える。
サーヴァントの多くいる旧校舎に攻撃を仕掛けるなど、愚の骨頂だろう。
キアラさんのサーヴァントであるアンデルセンは決して戦闘能力に秀でた英霊ではない。
彼女たちに勝ち目があるとは、どうにも思えない。
『では、望んだ答えが得られるよう祈っております。その校舎での最後の宴、どうぞ満ち足りるまで酩酊してくださいまし』
通信が切れ、ノイズが晴れていく。
その要求を呑むが否かは僕たち次第。呑むならば良し、呑まないならば力ずく。
それが適う程に、キアラさんは己に絶対的な自信を持っているのか。
強力なサーヴァントの軍を相手にして尚、勝利が可能であると。
「……」
心が僅か、揺らいだ。
危険を伴わず、事態が解決に向くのならば、それで良いのではないかと。
論外だ。少しでもそんな考えが脳裏をよぎったことを恥じる。
僕たちはあくまでも、月の管理者に過ぎない。
平行世界の一つたりとも、手を出す訳にはいかないのだ。
「ハク」
メルトが何を言おうとしているのか、話さずとも分かる。
思うところはただ一つ。キアラさんの好き勝手にさせる訳にはいかない。
「ああ。行こう」
「ちょ、ちょっと待ってください、センパイ!」
ベッドから下りようとしたところを、BBに止められる。
「まさか……このまま何の策もなく行くワケじゃないですよね?」
「……」
「どんなにお馬鹿なセンパイでも、あれほどの力の差が分からないワケじゃないですよね?」
念を押すように投げかけられた問いに、返す答えは見つからない。
しかし、その強硬手段とやらが実行される前に、なんとしてでもキアラさんを止めなければならない。
「万物を無力化する私の
声を荒げるBB。その必死さが、キアラさんとのまだ見えない戦力差を途轍もなく大きなものだと確信させる。
だけど逆に、ここで止まっていて何になるのか。
先になろうと後になろうと、結局は抵抗するために彼女と相対しなければならないのだ。
たかが十八時間。その時間を待ったところで特に何かが変わる訳でもない。
「だけど――」
『そうね。確かに、BBに勝てないってのなら、BBを利用していた黒幕に勝てないのは道理よ』
ノイズを介したものではない、自然な通信が聞こえてくる。
「……凛?」
『ハクト君、起きたのなら、早く生徒会室に来なさい。ちゃんと皆連れて、ね』
手短にそれだけ言って、通信は切れた。
凛の声色はまったく今まで通りだが、一つだけ明確に感じ取れたものがある。
凛は、僕以上に勝利を確信している。
その根拠が何処から来るものなのかは分からない。だが、それがもし、生徒会の総意なのだとしたら。
「……ハクトさん。まだ、皆さんの力を借りた方が勝率は上がります。一度、冷静になってください」
……確かに、急きすぎていたか。
これまで力を借りてきた皆の意思を、最後の最後で無為にして突っ走ろうなどと考えてしまうとは。
「ごめん、皆。一度生徒会室に行こう」
今度こそ立ち上がる。体に疲労は残っていれど、歩くことに支障はない。
結局最後まで、僕は頼ることしかできない。
だけど皆がそれを良しとしてくれるのならば。
この考えは甘えだろう。恥じるべき行いだろう。
だが、歩んできた道を今更否定はしない。それが紫藤 白斗の在り方ならば、全力で自分を通すまでだ。
出白衣。
まあそれはどうでも良いんですが、キアラの目的が判明しました。
世界を欲する目的は、まあ原作通りですね。
次回は多分、衝撃の展開です。多分。