雪。雪。雪。
アーカムシティの夜空に降り頻る、白い雪。
そして、その白を照らす時計塔の灯火。
地表から約300メートル、時計塔の上に老人は立っていた。
目を閉じ、黙して佇む老人。
彼の胸中に在るのは、果たして如何なる思いか。
「随分と老いたな。■■■■」
老人の前に、金色が現れた。
夜闇を裂く金色は、しかし光に非ず。
それは如何なる闇黒よりも尚・尚深い、金色の闇だった。
闇の中見開かれた金色の双眸が、老人を見遣る。
「―――来たか」
老人は、ゆっくりと目を開けた。
堅固な意思の宿る黒い瞳で、金色の双眸を見つめる。
昏く深い、金色の深淵を覗き込む。
「悪くは無かった。今回も中々、刺激的な遊戯ではあった……が。余はもう飽いた。其故、そろそろ次の遊戯に移らせてもらう」
亀裂の様な笑みを浮かべ、語り掛ける金色。
対する老人は身構え、その場で右腕を横に振るう。
短く炎が奔り、次の瞬間、老人の右手には刃が握られていた。
刀身に火の秘文字が刻まれた剣―――バルザイの偃月刀。
「貴公と云う演目の最後に、華を咲かせよう。闘争と絶望に彩られた貴公の生に、弔いの華を。そして再び始まる闘争と絶望に、祝福の華を」
「絶望? それはお前の方だろう、獣よ」
亀裂の様な笑みが凍りつく。
虚無の金色の奥にあるのは―――憎悪。
剥き出しにされたソレが、老人へと向けられる。
「冬の夜空というのは美しいものだ。プロキオン、ベテルギウス、そしてシリウス。遍く星々は澱みない輝きを放っている。だが……御老体にはこの寒さ、厳しかろう? 年寄りを嬲って喜ぶ趣味は持ち合わせていない、早速始めるとしよう」
相対する両者、其処に一陣の風が吹く。
それと同時に、両者は時計塔より降下した。
時計塔を壁沿いに墜ちながら、互いを見据える。
―――時計塔の針が、“12”を、指した。
鳴り響く鐘は、開戦の合図。
「往くぞ!」
金の髪を強風に靡かせ、墜ちる金色の獣は虚空を蹴る。
目標は当然、共に地表に向かって墜ちている老人だ。
右手に己が得物―――金の十字架を喚び出し握る。
老人へと接近した金色の獣は、十字架を振るう。
夜闇に軌跡を描きながら迫る十字架。
老人は左手に印を結び、迫る十字架に向けて突き出した。
「第四の結印は“旧き印”! 脅威と敵意を祓い、我を護るもの也!」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
突如、老人の周囲を魔導書の頁が吹き荒れた。
その前方、五芒星形の印が障壁となって輝きを発する。
障壁は十字架を迎え撃ち、甲高い音とともにソレを弾いた。
役目を終えた頁は老人の左手―――展開された一冊の魔導書へと吸い込まれてゆく。
「ほう! その本は―――“ネクロノミコン新釈”か! 中々に考えたようだな!」
感嘆の声を上げる金色の獣。
老人は魔導書を戻し、金色の獣へと斬り掛かった。
「牙アアアァァァァッ!」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
咆哮を上げ振るわれる、神速の刃。
しかし―――
「だが、■■■■よ」
刃は、金色の獣を擦り抜けた。
「――――――!?」
「その本は、信頼に足るモノとは言い難い」
凍える様な声と共に、金色の獣は寸分違わぬ11の姿へと分かれた。
刃を振るったことで、一瞬の隙を見せた老人。
そこに11人が、容赦の無い攻撃を加えた。
全身に叩き込まれる拳に蹴り。
骨を砕き、圧し折り、粉砕する鈍い音が響く。
老人の体は砲弾のような勢いで吹き飛ばされ、時計塔の壁へと叩きつけられた。
「ガアァァァッ!? グフゥァッ!」
血反吐を撒き散らす老人。
11人の金色の獣はそれを見ながら、再び1つの姿に戻った。
「余と戦うにはその魔導書、少々力不足だ―――が」
空に佇む金色の獣は、ただ老人を見遣る。
「真逆、これで終わり……などという事はあるまい?」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
金色の獣の問い掛けに、老人は応えられない。
冬の冷気が、ボロボロの老人の体を苛む。
「これで決着してしまってはつまらぬ。もっと余を愉しませよ」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
老人は応えられない。
「ではチャンスをくれてやろう。今から鐘の音が鳴り止むまでの間、余は一切抵抗せず、貴公の攻撃を受け続けよう。その間に貴公の全力を以って、命の火をも燃やし尽くして、余を討ち果たし、運命から勝利を奪い取ってみせよ」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
老人は応えられない。
「どうした、これでも気力が湧かぬか? ふむ……では、これならどうだ?」
金色の獣は、亀裂の様な笑みを浮かべ、言った。
「―――余を失望させてみよ。そのときは貴公の大切な“孫娘”―――■■と云ったか。犯して犯して犯し尽くし、ヰ・ハ=ントレイの魚共にくれてやろう」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
老人は―――
「死んでから後悔するなよ……小僧ォォォォォ――――――!!」
時計塔の壁を蹴り、金色の獣へと翔けた。
魔導書を展開し、拘束の術式を発動。
無数の紙片が宙を舞い、金色の獣へと殺到。
その身体を拘束し、自由を奪う。
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
「そうだ、それで良い! 余を愉しませよ! 興じさせよ! この無限の倦怠を……癒してみせよ、■■■■!」
振るわれる偃月刀、飛び散る血潮。
金色の獣は、ただ愉しげに笑うだけ。
「はははははは! あはははははははははは!」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
斬る毎に速度を増す剣閃。
偃月刀は次第に赤熱し、荒ぶる焔を纏っていく。
「オオオォォォォォ!」
斬撃は金色の獣を切り刻み、劫火でその身を灼く。
しかし、金色の獣は、ただ笑うだけ。
「ハハハハハハ! アハハハハハハハハハハ!」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
老人は偃月刀を突き刺し、距離を取った。
次いで腕を交差させ、新たな偃月刀を喚び出す。
総ての指の間に挟まれた、その数8本。
老人は腕を振るい、その全てを金色の獣目掛けて放った。
「逝けッ!」
8本全てが命中し、金色の獣の全身を貫く。
貫く。
貫く。
貫く。
貫く。
貫く。
貫く。
貫く。
それを確認し、素早く印を結ぶ。
「爆ぜろォォォッッッ!」
ゴーン―――と、時計塔の鐘が鳴っている。
予め偃月刀に内包されていた術式が発動し、爆発。
爆発。
爆発。
爆発。
爆発。
爆発。
爆発。
爆発。
冬の夜空に、大きな花火が上がる。
老人は爆風で吹き飛びながらも、煙の向こうから目を離さない。
煙の向こう、つまり―――
「あははははは! あははははははははははは!」
金色の獣は、ただ、笑うだけ。
そして、最後の鐘の音が―――
「マスターテリオォォォォォォォンッッッ!!」
「ハハハハハハ!」
止んだ。
「ガッ……はァ……!」
老人の心臓を貫いた、金色の獣の一撃。
老人の血を浴びた金色の獣は、しかしそれだけだった。
自由を封じていたはずの魔導書の頁は存在せず、斬撃による傷も存在せず、劫火による灼け痕も存在しない。
何もかも、一切が通用しない、圧倒的と云う言葉すら生温い絶対的な力の差。
「ではさらばだ。またいずれ、御逢いしよう。再び輪廻の果てにて御逢いしよう。■■■■―――否、■■■■■よ」
「――――――――――――っ!?」
ハっと目が醒めた。
寝起きで怠い体を起こし、周囲を見遣る。
そして
「夢……か」
安堵の溜息を吐いた。
私が寝ていたのは、ベッド代わりのソファー。
そしてここは、私の事務所兼自宅だ。
近くには
何のことはない、いつもの光景……だが。
(……嫌な夢)
金色の獣―――マスターテリオンと見知らぬ老人との戦いの夢。
マスターテリオンのあの笑みも当然そうなのだが、心臓を手刀で貫かれた老人の最後の光景は、お世辞にも夢見の良いモノではなく、結果として私は最悪の目覚めを迎えることとなった。
「うわっ、凄い汗……」
そんな夢を見ていた所為か、全身凄い寝汗をかいていた。
寝巻代わりの白シャツはグッショリと濡れており、かなりの不快感を齎している。
(こりゃ、シャワー浴びた方が良さそうね……)
汗に濡れたままでは風邪を引くかもしれないと、バスルームに向かうべく立ち上がる。
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
(……そういえば、なんであんな夢を見たのかしら?)
マスターテリオンについては……誠に遺憾ながら、知らない相手と云う訳じゃない。
けれど、あの老人については全く覚えがなかった。
“ネクロノミコン新釈”と云う魔導書を携え、マスターテリオンと戦っていた人物。
魔術に関係する老人の知り合いというと―――アーミティッジのお爺さんやミスカトニックの陰秘学科の教授陣ぐらいなものだ。けれど、その中の誰にも当て嵌まらない。
ならばどうして私の夢に……。
(……って、まあ、夢についてそんなに考えてもしょうがないわね)
別に海底都市やら邪神やらの夢ってワケでもないし……と、泥沼に嵌りそうになったところで思考を中断した。
さっさとシャワーを浴びてしまおう。
私はバスルームへと入った。
※ネクロノミコン新釈
一応ネクロノミコンだけあって決して弱いわけじゃない。けど、マスターテリオンを相手にするには少々どころかかなり力不足。
実際の方はネクロノミコンのガイドブック的なものだけど、テリオンさんの言う通り信頼に足る内容とは言い難い代物。
※ヰ・ハ=ントレイ
インスマウス沖に見える“悪魔の岩礁”の沖合深くにある海底都市で、深きものどもの拠点として知られる。その魚共にくれてやろう、とは、つまりそういう事。