恋というのは、つくづく御し難いものだと、少女は思う。
好意を寄せる男の前では、普段であれば絶対に思いつかないことを思いつく。いつもなら行動しないであろうことを容易に仕出かそうとする。打算的であることもできず、ただ行き当たりばったりな言動も目立ってしまう。
まるで感情に振り回されるような感覚だ。いや、実際に振り回されているのだろう。でなければ、ここまで己の行いに悩むことなどない。全てが計画通り、思惑通りと感情をコントロールできるのなら、恋煩いなぞでこの身を焦がすこともなかろうに。
しかし、時のその恋故の暴走から得るものもある。
何事にも挑戦とはよく言ったもの。
おかげでこうして、エミヤとの買い物に漕ぎ着けたのだから。
エミヤと二人っきりの買い物。そう、これは買い物だ。デートなどと浮ついたものではない。
だが、エミヤと二人で出かけるということ自体、稀に見る機会であることに変わりはない。今の時期、多忙な彼と共に何処かに行けるという事実は、例えデートでなくとも胸を弾ませるには十分すぎる理由だった。
感情的になり、つい口走った誘い。それは目に見えて、フェイトに恩恵をもたらしていた。
エミヤの為、何より自分の為に掴み取ったこのチャンスを生かし、この殺伐とした長期任務中の中で、少しでも楽しい時間にしようと彼女は決心した。
「しかし、こうして二人で買い物に行くのも久しぶりだな」
「う……うん」
エミヤは海鳴市の商店街を歩きながらそう呟いた。
それにフェイトはギクシャクしながらも頷く。
昔は一緒に買い物をすることに違和感なんて抱かなかった。しかし恋心を自覚した今のフェイトには、ただ彼と並んで買い物に行く行為ですら一種のアトラクションのような感覚を抱いてしまう。心の変化とはここまで影響を与えるのかと、頬を赤らめたフェイトは内心で驚愕するほかない。
「この町は多くの怪奇に見舞われてこそいるが、実に住みやすい場所だ。人は親切で、のどかな日常を送っている。フェイトもすぐ馴染めただろう?」
エミヤの問いにフェイトはこくりと頷く。
日本人ではない自分を、外からきた者を、潔く受け入れてくれたばかりか、親切に接してくれた。少しは拒絶の心構えをしていたフェイトからしたら、その温かさは安心できるものだった。
「町の在り方はそこに住まう人々の在り様に大きく影響する。この穏やかな日常を護れるかどうかはオレ達次第、というのはなかなかに重責だな」
「でも、護り抜く。絶対に」
気づいたらフェイトはそう断言していた。
殆ど無意識による発言。心に決めていた意志が口を介して表明された。
それにエミヤはふっと優しく微笑み、フェイトの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「え、ちょ、シロウ!?」
「ああ、そうだな。フェイト、お前の意気込みは正しい。『絶対に』守らなきゃならない。それがどんなに困難なものであろうと、必ず」
エミヤは真っ直ぐに前を見ていた。その鋼色の瞳からは、純度の高い意思を垣間見た。
いや、これは意志というより、もっと、違う、なにか―――別の――――。
「おや、シロウくんじゃないか!おーい!」
とある八百屋を通りかかると、そこで切り盛りしていた中年の男性が活気の良い声で話かけてきた。それにエミヤは立ち止まり、頭を下げて挨拶をする。どうやらエミヤの知り合いのようだ。
「ご無沙汰しています、おじさん」
「はは、ここ最近顔を見ないから寂しかったんだぜぇオジサンはよぉ?」
「色々と用事が立て込んでいまして……」
「カーッ、相変わらず年不相応なことを言いやがる!」
「性分のようなものですからね。こればかりは、なかなか」
「その年でワーカーホリックになるのは早すぎるぜ?」
敬語で話すエミヤに、豪快に喋る八百屋の男。
この海鳴市でエミヤは少なからず住人と交友関係を築いていたのだ。そんなことすら、フェイトは知らなかった。知る機会がなかった。
「実はこの子にも同じことを言われまして……」
「あァん?……おおう!? なんだ、その別嬪ちゃんは!? まさか坊主のコレか!?」
男は小指を立てて満面の笑みを浮かべた。
この瞬間、フェイトの心臓の鼓動が急速に加速した。心臓に悪いどころの話ではない、いきなりとんでもない爆弾を投下されたのだ。これにはフェイトも硬直した。
“でも―――もしかしたら、シロウも”
ほんの少しだけ、フェイトは女としての意地を抱いた。
もしかしたらシロウも同じ心境ではないのかと。
あまりにも傲慢すぎる考えと思いながらも、期待してしまったのだ。
彼だって、自分に気があるのではないかと。
「違います。妹のようなものですよ」
しかし現実とは非情なものだ。エミヤはただ苦笑してその男の問いを否定した。
「ほら、フェイトも挨拶を」
「………フェイト・T・ハラオウンです」
少し頬を膨らませながら、顔を伏せて挨拶するというフェイトらしくない対応。
これが自分なりの不器用な精一杯の訴えだったのかもしれない。
分かっていた、分かっていたんだ。所詮、エミヤにとってフェイトという少女は一人の弟子であり、教え子であり、部下である。それだけの関係であり、それ以上のものを抱いていないのだと。
「フェイトちゃんか……ハッ、坊主も罪な男だ」
その仕草、反応を見た八百屋の男は同情するようにフェイトを見た。
「なぁ坊主……………いや、良そう、深くは言うまいよ」
何か言葉を発そうとした男はその口を一度閉じて言霊を飲み込んだ。
無粋なことは言わぬが華だと、その男は理解しているが故に。
「つまりオメェはその娘に注意喚起を受けて、気分転換がてらにお散歩ってところか?」
「概ねそんなところです。夕飯の買い物も兼ねて」
「なら丁度いい! これ持ってきな、俺からのサービスだからよ!」
ずずいと手渡されたのは新鮮な野菜が詰まった袋だった。どれを見ても粗悪なものではなく、色艶も良い、美味しそうな商品だ。
「いえ、しかしこれは――――」
「申し訳ねぇなんて言うなよ? サービスって言っただろうが。その食材使ってそこの小さな嬢ちゃんにいっぱい食わせてやりな。おらぁ子供が好きだからよ」
ここまで言われたら受け取らねぇ方が失礼に当たるぜ? と笑って言ってのける八百屋の男。これにエミヤも一瞬考え込み、そしてふっと笑って肩を落とした。
「分かりました。ではその御厚意、ありがたく」
「応! そう思うんなら、またうちに寄ってくれよ? うめぇもんはきちんと揃えてっからさ………あー、それとアレだ。またその子も同伴なら特別に値引きしてやらんでもないぞ?」
「え――――!?」
八百屋の男の言葉に
「これは内密にな。他の主婦方に知られると面倒だから」
「なら、なぜそのようなサービスを?」
「言ったろ、おらぁ子供好きだって。餓鬼んちょ限りのサービスさ。またうちに来て、お前達が仲良く買い物してくれたら見ている方も楽しいってもんよ」
「奇特な人ですね」
「おうさ。子供には優しく、大人には誠意をもって狡猾に。それがうちのモットーよ」
ガハハハと豪快に笑う男。なんにしても値引きしてくれるならそれに越したことはない。
エミヤはまた礼をして、その場を後にした。
「おっとそこの嬢ちゃん、ちょい耳を貸しな」
それについていこうとするフェイトに男は呼び留め、彼は屈んでフェイトの耳に口を近づけた。
「あの小僧はなかなかに厄介だぞ。粘らずアタックしていきな」
「………!!」
「青春は長いようで短い。何事も挑戦せにゃ始まりもしない。いいか、機会はできるだけ作れってことだ。応援してっからな、お嬢ちゃん」
そんなとんでもない
値引きの話もフェイトの反応を見て、全てを理解した上でのフォローだったのだ。
フェイトは顔を真っ赤にして、ただただ頷くしかなかった。
人は、見かけによらない。否、客をじっくり観察し商売を行う生業の主だからこそ、なのかもしれない。
◆ ◆ ◆
フェイトは意外だと感じたのは、エミヤの征く先々で多くの住民が彼に話しかけていることだ。聞けば誰も彼もがエミヤに些細なことでも助けられた、お節介を受けた人達だった。
「シロウがこんなに海鳴市の人達と関わりを持ってたなんて知らなかった……」
「まぁ君達が学校で勉学に励んている合間、合間にな。街に溶け込む為にも小さな積み重ねはしておくものだ。ただの打算的な関わりだよ」
きっとその言い分は、彼なりの言い訳なのだろうとフェイトは思った。
エミヤの人助けに打算的なものはあり得ない。利益を求めない助けこそがエミヤの特徴の一つであり、アースラの一員ならば知っていて当然の前提。
彼は自分をつまらないリアリストと評するが、周囲からすればお人好しのそれだった。
「しかし、なんだ。厄介な任務に追われ、暫く立ち寄っていなかったが……覚えてくれているものだな。すっかり忘れられていたものかと思っていたが」
「褐色肌に白髪。おまけに人助けがクセな特徴的な人間をそう簡単に忘れるわけないよ」
「む……いや、人助けがクセというわけでは」
「ふふっ。自覚なくしちゃう辺りがシロウらしい。本当に」
打算的であろうとしても、結局はお節介からの人助け。これをお人好しと言わずしてなんと言うのだろう。
「シロウは自分を過小評価する癖があるよね。それは治した方がいいと思うよ」
「クロノのようなことを……段々と似てきているぞ」
「義兄妹ですから」
「やれやれ。喜ばしいと思うべきか否か」
親友と鋭い指摘と真面目な性格が着々と受け継がれていくフェイトにエミヤは苦笑した。
「まぁなんにしても、クロノ達と上手くいっていることは良いことだ」
「シロウほどじゃないよ……シロウにとっても、ハラオウン家は新しい家族なんでしょ?」
「………ああ、そんなところだろうな」
その言葉を口にしたエミヤの瞳は、何処か遠くを見つめている気がした。
フェイトは、エミヤシロウという人間を何も知らないのかもしれない。
彼がどんな過去を歩んできたのかも、何一つ理解していないのだから。
だから、なのかもしれない。
フェイトは少し、彼に踏み込んでみようと思ったのは。
「シロウはさ。ハラオウン家の家族になる前は、どんな生活をしていたの?」
「そんなことを―――」
「聞いてなんになる、でしょ? ただの好奇心だよ。子供相応のね」
フェイトはしてやったりな顔をしてエミヤの顔を覗き込んだ。
その仕草は、少女と言うにはあまりにも女の香りを纏っていた。
「また、機会があれば話すことになるかもしれんな」
「………そうやってもったいぶる」
「はっはっは」
エミヤは笑って誤魔化すばかりだ。これでは「まだ相手にされていないな」と分かってしまう。
ああ、きっとそうなのだろう。私は彼にとってまだ、クロノ・ハラオウンと同じような立場に見てくれてもいなければ、幼い部下、妹のような存在でしか見られていない。
「………」
踏み込む努力はしても、彼は応えてくれない。そこに薄い壁が立っているような気さえした。
拒絶ではないが、距離を取られている。それこそ差し障りの無い絶妙な感覚。
もしかしたら慣れているのかもしれない。自分のような子供、女との取るべき距離感に。
「戻るか、フェイト。ご飯の支度は早めにした方が良い」
帰路を歩き始める彼の背中は、大きく、広い。
でも、届かない。
憧れているばかりでは届かない、その背中にしがみつけば想いも届くか? 否、優しく振りほどかれるだけだろう。
「―――うん」
今は、積み重ねていくしかないと、フェイトは感じざるを得なかった。
今よりもっと成長して、信頼を、信用を、少しずつ。
まだ私は彼にとっては子供で、部下で、それ以上でもそれ以下でもない相手なのだから。
だからこそ、その殻を打ち破る努力をしよう。そして、満を期した時に、この想いを打ち明けよう。
今日は、そう決意できるだけの機会を得られただけでも儲けものだった。
自分の心に向き合い、整理し、方針を決めることができた。
明日から、フェイト・T・ハラオウンはこの制御が難しい恋心の手綱をうまく操り、動かして魅せる。ゆっくりと。確実に――――。
■ ■ ■ ■
「我が友ながら、なかなかに罪深い男だよ。君は」
「ひどい言いがかりがあったものだ。どうしてそんな評価が出るのやら」
皆が寝静まった中で、ハラオウン家のリビングでは二人の男が密かに話し合っていた。
一人はクロノ・ハラオウン。現存するストレージデバイスの中で最も高価、かつ高性能と謳われるデュランダルの点検をしながら溜息を吐いている。
もう一人は、エミヤシロウ。投影の精度を日々全盛期に近づく為に今夜も低ランクの宝具を投影しては破棄、投影しては破棄の繰り返しをしている。
「とぼけようたってそうはいかない。何年のつき合いだと思っている……僕の目を誤魔化せると思うなよ」
クロノはビシっとエミヤに指を指して、言ったのだ。
「
クロノの言にエミヤの手が止まる。
投影しかけていた武器も魔力の蒼い霧となって霧散した。
「あの子はまだ幼い。親愛を恋だの愛だのと勘違いする年頃だ。もう少し年を取ればその勘違いにも気づく。むやみやたらと幼い精神に触るものではないと判断したまでだ」
確かにエミヤはフェイトが自分に対して何やら特殊な感情を抱いているというのには気づいていた。しかし、フェイトのそれはあくまで若さゆえの一時的なものだと踏んでもいた。少女と言っても差し支えない年齢の子供が持つ恋愛観ほど不安定なものはない。
「『恋』に憧れ、『恋』に興味を持ち、『恋』に焦がれる。あの年ならば何も不思議なものじゃない。時間が経てば自然とその思いは消え、もっと相応しい人間に移るだろう」
「そういう考えが罪深いというんだ。フェイトを甘く見過ぎているぞ」
「構わんさ。女性の扱いには慣れている」
コイツいつか背中刺されるな……と思わざるを得ない。
手慣れているとかそういう次元ではない。
「その姿になる前、『生前』のお前はさぞ女を泣かせてきたんだろうな」
「黙秘する」
「このドンファンめ。お前が女性関係のトラブルで女難だのなんだのと嘆く時はあるが、その原因の多くはエミヤ自身にあると確信したよ」
クロノは苦虫を噛み潰したような顔をして、デュランダルを
「いいかエミヤ。その特殊な出自と在り方ゆえに、どれだけ人との関わりを深く持たないよう努力しているかは知らないが………フェイトを泣かせるようなことはするなよ」
そう言い残してクロノは出ていった。残されたエミヤは好き勝手言ってくれると愚痴りながらも投影を再開した。
フェイトを悲しませないということは重々承知している。だからこそ、穏便に済ませようとしているのだ。荒波を立てず、傷も負わせず、自然の赴くままに。
そう思って作られた投影品を見たエミヤは、溜息を吐くこともできず、むしろ自分の歪さを体現するかのような出来栄えに自嘲した。
「人の好意か………」
エミヤが投影したその一振りの剣は、どこまでも脆く、どこまでも弱弱しく。岩に叩きつければ砕けるであろう酷い出来だったのだから。