当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~   作:吉川すずめ

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円環

「こうして警察人生を全うすることができましたのも、家族の支えがあったからこそです。帰宅いたしましたら、まずもって妻に感謝の意を伝えようと思います。また、素晴らしい娘、そしてその夫である息子は私の誇りとするところです。娘には、命の尊さを、息子には命を慈しみありのままを受け入れる包容力を教わりました。どうか皆さまもご家族を大事になさり、この先の警察人生を有意義なものとしていただきたいと思います」

 

 山口は、定年退職の日を迎え、退職の挨拶を行っていた。

 犯罪抑止対策本部から警察署の生活安全課長として異動後、警視に昇任した。

 その後、生活安全総務課の管理官、警察署副署長を歴任し、最後の職場として犯罪抑止対策本部に戻ってきた。

 犯罪抑止対策本部では、犯罪抑止対策官という理事官職に就いた。

 犯罪抑止対策官というのは、副本部長に次ぐポストで、事実上の責任者といえる。

 その前年、早苗は警視に昇任して、4年間の期限付きで警察庁からB国シークレットサービスに出向していた。

 早苗は、犯罪抑止対策本部在籍当時、B国大統領主催の晩餐会に招かれ、その場で日向の嗅覚により爆弾所持の模擬テロ犯人を特定するという実績がある。

 その能力を請われてシークレットサービスから永久出向の打診を受けたが、一旦は断った。

 しかし、日向が大きくなったこと、オレオレ詐欺被害防止への役割が終わったと判断したことから、期限付きでの出向を受けることにした。

 早苗がオレオレ詐欺の被害防止から離れようと決意したのは、警視庁の方針転換が背景にあった。

 およそ7年前、警視庁では、潜在的被害者である高齢者の意識に働きかけて被害の防止を行うことに限界を見出し、物理的に詐欺の電話を遮断することに注力するようになった。

 以前、山口が言っていた迷惑電話防止機能付き電話機の普及、あるいは常時留守番電話に設定することで犯人からの電話を遮断しようというのだ。

 これが普及すれば、オレオレ詐欺だけでなく、電話を利用した特殊詐欺や悪質商法の被害を相当抑止することができる。

 事実、警視庁が迷惑電話防止機能付き電話の普及を促進し始めてから、オレオレ詐欺の被害は急激に減少していった。

 そのようなこともあり、テワタサナイーヌは、その名前の由来である「知らない人にお金を手渡さない」という注意喚起を訴求する必要性がなくなったと感じ、活動名である「テワタサナイーヌ」の看板をおろして山口早苗に戻ることにした。

 そして、犯罪抑止対策本部で警部に昇任した早苗は、そのまま犯抑にとどまることもできるという選択肢を示されたが、犯抑から離れて新しい道を進むことを選択した。

 一旦、警察署の課長代理として1年間勤務した後、嗅覚による爆発物探知の能力と、それまでの実績が評価され、警備第二課の爆発物対策係長として勤務した。

 爆発物対策係長として、都内はもとより全国の警察で爆発物知識の指導と現場での探知を行い、目覚ましい成果を上げた。

 その成果により「爆弾の山口」として確固たる地位を築き上げた。

 大輔も3年前、警部に昇任した。

 大輔は、山口が開発した地理的プロファイリングの手法を受け継いで研究を続け、実用に耐えうる精度にまでチューニングすることに成功した。

 そして、日本で初めての地理的プロファイリング分野における警察庁指定広域技能指導官に指定された。

 今では、日々の業務の合間を縫っては、全国警察を飛び回り地理的プロファイリングの考え方と手法を指導する立場になっている。

「早苗さん、大輔さん、お二人ともしっかりと専門分野を切り開いて活躍しています。安心して後をお任せできます」

 山口は、退職前日、大輔と一時帰国した早苗を前に涙を見せた。

 首都の治安という重い肩の荷をおろせる安堵感と、自分の警察人生での後悔ややり残した想いが交錯して、山口に涙を流させた。

「お二人は、私のような失敗をしないでください」

「ただ、失敗してしまったときは、言い逃れやごまかしをしないで、きちんと処分を受けてください」

「失敗、つまり過失は処分を受ければ、その責任を果たせます。失敗で職を奪われることは、まずありません」

「ところが、失敗をごまかそうとすると過失ではない故意による不正な行為をしなければならなくなります。そうなると犯罪行為になる場合が多く、過失と比べ物にならないくらい重い責任がのしかかります」

「禁錮以上の刑が確定すると、それだけで自動的に失職することになります」

「過ちは許されます。その責任から逃れないでください」

 山口が一言ずつ噛みしめるように語った。

「お父さんの失敗って何?」

 早苗が山口の顔を覗き込んだ。

「もう明日退職なのでお話をしましょう」

 しばらく黙っていた山口が口を開いた。

「私の失敗は、2回あります。どちらも警護に関わることです」

「警護にかかわること?」

 早苗が小首を傾げた。

「テワさん、相変わらずかわいい」

 大輔が喜んだ。

「ふふ。ありがと」

 早苗が微笑んだ。

「そうです。警護に関わることです。一度目が、私が警護課にいたときのことです」

「えー、お父さん、SPだったの?」

 早苗が驚いた。

「はい。27歳で警部補になった私は、28歳で機動隊の小隊長、そして29歳で警護課に異動になりました」

「めちゃくちゃ若いじゃない!」

「テワさんだって同じようなもんじゃん。どっちもスピード違反だよ」

 大輔が口を挟んだ。

「まあ若い方でした。そのまま何事もなく過ごしていれば、おそらく順風満帆なSP人生だったのでしょう。ところが、自分の失敗で警護課を去ることになります」

「なにしたの?」

 早苗が苦笑した。

「居眠りです」

 山口が恥ずかしげに言った。

「えー、例の睡眠学習?」

 テワタサナイーヌが笑った。

「そうですね。睡眠学習をしてしまいました。それも、絶対やってはいけないシーンで」

「絶対やっちゃいけないシーンってなんだろう……」

 早苗が首をひねった。

「毎年8月15日には、武道館で全国戦没者追悼式が行われます。これには天皇皇后両陛下が行幸啓になります。大変重要な行事です。私は、会場内に配置されました。会場内の座席に座って警戒を行うのが任務です。その式典挙行中、私は居眠りをしてしまいました。両陛下の御前にも関わらず……」

「それ、しゃれにならない」

 早苗が青ざめた。

「そうです。しゃれにならないです。私は、その責任を問われて、警護課を去ることになりました」

「それでもまだ32歳でした。まだまだ十分若い警部補です。新しい所属で心機一転頑張ろうと思いました」

「うんうん。そうよね」

 早苗が頷いた。

「ところがです。その異動先でもまた警護で失敗をしました」

「またなの?」

 早苗が呆れたような顔でビールを煽った。

「そうなんです。私はとことん警護に縁がない男のようです。ある年、某国の外務大臣が来日しました。その公式日程に国内最高と言われる指揮者によるクラシックコンサート鑑賞というものがありました。私がいた警察署の管内にその会場となるコンサートホールがあり、私は、また会場内の座席に配置されました。その日、私は朝から高熱が出ていて、ふらふらするくらい具合がよくありませんでした。それを押して出勤していた私は、オーケストラが演奏中に寝てしまいました。寝たというより意識を失っていたのだと思います。そして、いびきをかいてしまったことで主催者から退場させられるという事態になってしまいました」

「あっちゃー」

 早苗は頭を抱えた。

「そのことが主催者から警視庁に公式な抗議として寄せられました。場合によっては、外交問題にまで発展するかもしれないというところでした。私は、体調不良であったことをありのまま話しましたが、それで責任を免れるはずもなく、懲戒処分を上申されました」

「それでどうなったの?」

「幸い懲戒処分とはならず、署長からの厳重注意という形で決着が着きました」

「よかったじゃない」

「そうですね。しかし、懲戒上申されたという事実は残ってしまいます」

「そりゃまあそうよね」

「そんなダブルパンチがあった関係で、警部補になったのは若かったのですが、その後ずっと昇任できず、長いこと警部補を務めることになりました」

「ははーん、それでお父さんは警部補時代の経歴を話さなかったのね」

 早苗がニヤリとした。

「はい。恥ずかしくて言えたもんじゃありませんから」

 山口が頭を掻いた。

「それでも、警視庁は私を警視にまでしてくれました。きちんと責任を果たせば、必要以上に個人を責めたりしないのが警視庁だと思っています。だから私は、失敗したときは言い逃れせずに責任を果たしてくださいと言っているんです」

「なるほど。経験者は語るっていうわけね」

「経験しないで済むなら、その方がいいんですが……」

 山口は、自分の失敗を早苗たちに話せたことで、長年に渡り喉の奥に刺さっていた魚の小骨が取れたような安堵感を感じた。

「あ! だからB国大統領主催の晩餐会のとき、迎賓館の警備詰所で居心地悪そうにしてたんだ!」

 早苗がかなり昔の話を思い出して手を叩いた。

「そうなんです。あの頃はまだ知っている人がたくさんいましたから。バツが悪かったです」

 山口が苦笑した。

「そうそう。昔のことで思い出したんだけど、お父さんと私が初めてガスライトに行ったとき、私が何にも言わないのに私が注文したいお酒を当てたよね。あれ、どうして?」

 早苗は、初めて山口とデートしたときのことを思い出した。

「あれですか。あれは私の特別な能力でもなんでもありません。早苗さんが葛飾署にいたとき、同僚の女性警察官から聞いたことがあったんです。『天渡さんは、いつもグラスホッパーで始まって、その次はスクリュードライバーなんですよ』って。それだけです」

 山口がこともなげに説明した。

「なーんだ、そういうことだったのね。私は、お父さんて何か特別な能力でも持っているのかと思ったよ」

 早苗が伸びをした。

「これでもう私の隠した過去はありません」

 山口がさっぱりした顔で紅茶を口に運んだ。

 

 一方、日向(ひなた)は、保育所に入ってからも発達が著しく、7歳までには東大病院に保管されている自分のカルテや検査結果をすべて読みこんで理解できるようになっていた。

 カルテや検査結果から遺伝学に興味を持ち、学術書を読み漁る毎日だった。

 言語能力も秀でていて、英語で書かれた原書を難なく読み進めることができた。

 小学校の授業では、日向の知的好奇心を満たすことができず、教諭が日向の求めるレベルの学習を指導することもできなかった。

 一応、学校には通ったが、日向は図書館で自習する毎日だった。

「お母さん、私、自分の遺伝情報を解析したい。だからB国の大学に行かせて。B国なら飛び級で大学に入れるでしょ」

 7歳のとき、日向は、早苗に懇願した。

「そうね。あなたなら飛び級どころか『ギフテッド』で大学から歓迎されると思うわ。それに、生きてる学術資料だしね。でもね、まだ七、八歳の子供を一人でB国に行かせるわけにはいかないでしょ。向こうでの生活はどうするの?」

「うーん……」

 日向が頭を抱えた。

 ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した才能を持つ子供のことをいう。

 ギフテッド (gifted)は、贈り物を意味する英語の「ギフト (gift)」 が語源であり、天賦の「資質」、または遺伝による生まれつきの「特質」のようなものだ。

 だから、努力によってギフテッドになることはできない。

「先生、日向がB国の大学に進学したいと言い出しました。先生のお考えをお聞かせ願えますか」

 早苗は、東大病院の教授に相談した。

「そうですか! 実にいいことです。日向さんは日本国内の教育制度では対応できない能力の持ち主です。よかったら、私から国際学会を通じでB国の大学に当たってみましょうか」

 教授は、すっかり日向をB国に行かせるつもりになった。

 B国には、山口日向という7歳のギフテッド女児が留学を希望していること、その女児の母親は、山口早苗といいヒトとイヌの遺伝子を併せ持つキメラであること、また、女児自身もキメラであることが伝えられた。

 この情報をB国のシークレットサービスが見逃すはずがない。

 大学からの返事より早く警察庁を通じて早苗にコンタクトがあった。

「日向さんの留学期間中、シークレットサービスとして招聘したい。そうすれば、日向さんの留学中、一緒に生活することができる。居住地と勤務地は、日向さんの留学先大学により考慮する」

 まさに棚からぼたもちといった内容のオファーだった。

「ねえ大輔くん」

「なに?」

「またSSからオファーが来たの」

 早苗が大輔にシークレットサービスからのオファーがあったことを報告した。

「忘れられてなかったんだね」

 大輔が感心した。

「そうなのよ。でね、日向の留学期間中という条件と、日向と一緒に住めるっていう条件を提示されたの。悪くないと思わない?」

「それは破格に好条件でしょう」

 大輔が身を乗り出した。

「でもね、そうなると大輔くんと4年間は離れて暮らさなきゃならないよ」

 早苗が寂しそうな顔をした。

「うーん、それはあんまり嬉しくない。でも、日向の将来というか、日向自身の知的好奇心を満たしてあげることを考えると、4年間くらいは我慢してもいいよ」

 大輔が4年間の別居に同意した。

「ありがとう。しばらく寂しくなると思うけど、ちょくちょく帰ってくることもできるだろうから、なんとかなるよね」

 早苗が大輔の手を握った。

「うん」

 大輔が早苗の手を握り返した。

 

 話はトントン拍子に進み、日向はハーバード大学に授業料全額免除学生として招かれることになった。

 日向は、生物学を専攻した。

 自分を検体とした遺伝情報の解析に没頭した。

 早苗は、ヒマワリの血が入り込んでから徐々に犬化が進んで行ったが、日向は年令を重ねるごとに犬としての能力が薄らいでいった。

 早苗のようにマズルが伸びることはない。

 今では、「ちゃい」の合図で爆発物を探し当てた嗅覚も人並みになっている。

 ただ、聴覚はまだ人並み外れた能力を持っているようで、大学の仲間からは「歩く集音器」と揶揄されている。

 早苗は、シークレットサービスのマサチューセッツ州事務所に詰めて大統領の身辺警護に当たった。

 英語が苦手だと言っていた早苗だが、日向に教わりながら短期間で日常会話が可能なレベルまで習得した。

 

「最後に一つだけ皆さまにお伝えしたいことがあります」

 山口が退職の挨拶を続けた。

「皆さまは、ぜひ東京の『安全』を守ってください。私たち警察が提供することができるのは、安全です。よくいわれる『安全・安心』の両方を提供することはできません。なぜかというと、『安全』は、客観的に評価することができる『状態』なのに対して、『安心』は、主観的な『印象』だからです。客観的に安全が確保された状態であっても、ある人が『心配だ』と感じてしまったら、それは安心ではなくなってしまうのです。安心には、どれだけ多くの社会的リソースを注ぎ込んでも、決して満たされることがありません。コストは青天井となります」

「どうか、皆さまは、客観的な安全の提供に努めていただきたいと思います。終わりになりましたが、これからの治安の盤石と皆さまのご健勝を祈念いたしまして、私の退職のご挨拶といたします。本日まで大変お世話になりました」

 山口が深々と頭を下げた。

「じーじ!」

 山口が挨拶をしていた犯抑の部屋にB国にいるはずの日向が飛び込んできた。

 日向は、まだ9歳だというのに身長が170cmを超え、体つきもすっかり大人の女性のようになっていた。

 早苗に似て脚がまっすぐで長い。

 ただ長いだけではなく、引き締まった筋肉質で張りがある。

 B国では、研究の合間にモデルのバイトで自分の小遣いを稼いでいる。

「日向さん! どうしたんですか!?」

 山口が目を丸くして驚いた。

「じーじの定年をお祝いしたくて帰ってきちゃった。大学は大丈夫かって? うん、ちょっとくらい授業サボっても全然ついていけるから大丈夫よ」

 日向が山口に小さなブーケを手渡した。

「日向さん……」

 山口が堪え切れずに涙を流した。

「お父さん、今日までお疲れさまでした」

 日向に続いて早苗と大輔が入ってきた。

「お二人まで」

 山口が泣きながら笑った。

 

「本当に、ありがとうございました」

 山口は、大勢の職員に見送られて警視庁正面玄関を出た。

 早苗と大輔、そして日向が随行した。

 山口は、春の穏やかな日差しを浴びながら、玄関の階段を一段一段踏みしめて、長年務めた警視庁を後にした。

 

 早苗は、4年間の出向を終えて帰国した。

 日向は、4年間で大学を卒業し、そのままハーバード大学の大学院に進んで自身を検体とする遺伝学の研究を進めた。

 早苗が帰国した後は、山口夫妻がB国に渡り、日向の面倒を見ることになった。

 日向は、ほとんど身の回りのことを自分でできるようになっていたので、山口夫妻の仕事はなかった。

 毎日が観光旅行のような生活だった。

 日向は、ハーバード大学から博士号を授かり帰国した。

 しかし、そのとき日向はまだ16歳だった。

 普通であれば高校に進学して青春を謳歌している年齢だ。

 日向は、帰国したとき一人の男性を連れてきた。

 日向と共にハーバード大学で博士号とB国の医師免許を取得した恋人だった。

「はじめまして。私はマイケル・マッカーシーといいます」

 男性が流暢な日本語で早苗と大輔に挨拶をした。

「マイクって呼んであげて」

 日向がマイクの腕に絡みついた。

 山口夫妻とは、現地で何度も会い、交流を重ねてきた。

「あ、はじめまして。日向の父です」

「はじめまして。日向の母です」

 大輔と早苗が挨拶をした。

「お父さん、お母さん、私、この人と結婚したい」

 日向が目を輝かせて大輔と早苗に言った。

「あら、そうなの。おめでとう」

 早苗は、当たり前のように受け入れ、祝福した。

 大輔は、戸惑いを隠せない表情をして無言のままだった。

「でもね、私まだ16歳でしょ。普通の女子高生の生活もしてみたいのよ。だから、これから高校に入る。でね、マイクには、日本の医師免許を取ってもらって、こっちで医者をやってもらおうと思うの」

 日向が人生設計を語った。

「これから高校に入るの? 面白いこと考えたわね」

 早苗が笑った。

「うん。女子高生がやりたいから」

 日向が屈託ない笑顔を見せた。

 その表情は、まだ16歳のあどけなさを残している。

「それで、結婚したら彼氏の名前になるんでしょ?」

 早苗が訊いた。

「ぼくがヤマグチになります」

 マイクが早苗に言った。

「えっ!? あなたもそっち系の人なの?」

 早苗が呆気にとられた。

「そっちけいってなに?」

 マイクが日向に訊いた。

「あ、パパもグランパも結婚してお母さん側の名前になったのよ。だから、あなたもそっちを選んだ人なのね、っていう意味」

 日向が説明した。

「なるほど。そうです。ぼくもそっちけいです」

 マイクが屈託なく笑った。

「そうなのね。でも、いいのそれで?」

 早苗が確認した。

「はい。そういうものですから」

 マイクがきっぱりと答えた。

「日向、あなたが仕込んだのね」

 早苗は腹を抱えた。

「ぼくがこちらの医師免許をとって、ヒナがハイスクールを卒業したら結婚したいです」

 マイクが大輔と早苗に頭を下げた。

 来日前に日本式の挨拶の仕方を日向から教えてもらっていたようだ。

「私はオッケーよ。大輔くんは?」

 早苗が大輔に振った。

「ふたりの人生です。ふたりで決めたようにしてください。おめでとう」

 大輔が笑顔で祝福した。

 

 日向の高校生活が始まった。

 日向にとって高校レベルの勉強は、小学生のうちにすべてマスターしてしまっているので、改めて授業を受けるまでもない。

 しかし、日向は、決してそのような態度を取らず、他の生徒と同じように授業を受け、クラブ活動にも参加し、放課後を友達と楽しんだ。

 ひとつだけ違うところは、英語の授業を受け持っていたというところだ。

 英語もほぼネイティブスピーカーで国語も完璧という日向は、生徒たちにとっても貴重な教材だった。

 日向の指導の甲斐あって、その高校の英語は都内でも群を抜いた高いレベルの成績を収めた。

 言うまでもなく日向は、高校を首席で卒業した。

 日向は、高校在学中に警視庁警察官の採用試験に合格した。

 年齢の縛りでⅢ類での合格ではあったが、その成績は警視庁始まって以来といわれる完璧なものだった。

 それ以外にも、高校卒業と同時に東京大学の准教授として招かれた。

 警察官が他の機関の役員になったり、兼業しようとするときは警視総監の承認が必要となる。

 日向は、人事課に兼業の申請を出し、それが認められた。

 こうして、交番で勤務する傍ら東大で教鞭を取る巡査が誕生した。

 同僚からは「教授」と呼ばれたが、日向は、特別扱いされることを嫌がり、謙虚な態度を貫いた。

 

 日向は、約束通りB国から連れてきたマイクと結婚することになった。

 結婚式は、早苗と大輔が式を挙げたのと同じ教会だ。

 日向は、山口が丹精込めて縫い上げたウエディングドレスに身を包んでいる。

 早苗のドレスとよく似たAラインのロングトレーンで、上半身にぴったりとフィットしている。

 

 日向の身長は、180cm近くある。

 細身だが筋肉が発達してメリハリのある健康的な身体をしている。

 金色に近い薄茶色の髪に左右で色の違う瞳をもつ日向は、どこに行っても人目を惹き付ける。

 モデルとしてのオファーを度々受けるが、警察官の仕事を辞めるつもりがないので、すべて断っている。

「ねえ、お母さん」

 式の前日、日向は早苗に声をかけた。

「ん、なーに?」

 早苗が答えた。

「私が小さいとき、お母さんの首輪を欲しがったの覚えてる?」

 日向が幼少期の記憶を披露した。

「えっ、あなた、あんな小さいときのこと覚えてるの? もちろん私は覚えてるけど」

 早苗は驚きを隠さなかった、

「当たり前じゃない。私は天才なの。忘れないの」

「そうよね。あなた天才だもんね」

 早苗が苦笑した。

「あのさ、私ももうすぐ大人になるじゃん。そろそろ、その…… 首輪を…… かけさせてもらっても、いい?」

 日向が珍しくモジモジしながら言った。

「これ?」

 早苗が自分の首を指差した。

 早苗の首には、年季の入った、しかし、手入れの行き届いた赤い革製の首輪がかけられていた。

 早苗は、しばらく考え込んでいた。

「これは、私が大輔くんの犬になると誓った証。命を委ねる覚悟そのもの。あなたに同じ覚悟がある? ファッションとして欲しいなら、この首輪はあげられない」

 早苗は、真剣な眼差しで日向を見た。

 日向は、早苗の真剣な表情と首輪の意味の重さに一瞬たじろいだ。

「あなたは、私より犬らしさが少ない、よりヒトに近い命になったわ。首輪をかけるというのは、犬として生きる覚悟を周りに言いふらして歩くことになるの。無理しなくていいのよ。ヒトらしく生きる道もあるわ」

 早苗が日向に首輪をかける意味を改めて言って聞かせた。

「ふふっ」

 日向が笑った。

「どうしたの?」

 早苗が不思議そうな顔をした。

「お母さん。私の中にもヒマワリがいるの。そのヒマワリが首輪を欲しがるのよ」

 そう言うと日向は、着ていたTシャツを脱ぎ捨てて、上半身裸になった。

 日向がくるりと向きを変えて早苗に背中を見せた。

「えっ……」

 早苗が絶句した。

 日向の背中には、早苗の背中と同じ位置に、早苗の傷痕とそっくりのケロイド状の痣が盛り上がっていた。

「私は、背中にケガをしたことなんかないよ。でも、いつの間にかこの痣ができていたの。これは、私の中にヒマワリが生きてる証拠。いえ、私がヒマワリなの」

「あなたが…… ヒマワリ? どういうこと?」

 早苗が唖然とした。

「私は、自分を検体にして遺伝情報を解析してきたでしょ。私、そしてお母さんが何者なのかを知るために」

「私にはヒトとイヌの遺伝子がある。それぞれの遺伝子がどんな働きをしているか調べたら、面白いことがわかったの」

「私の中のヒトの遺伝子は、身体を作りあげていることがわかったわ。それで、イヌの遺伝子が何をしているかというと、意識と身体機能をつかさどっていることがわかったの。イヌの遺伝子は、ヒマワリ由来で間違いないこともわかったから、私の意識はヒマワリの意識そのもの。そういう風にお母さんお腹の中で作られたの」

「簡単に言っちゃうと、私は、ヒマワリの生まれ変わりってことね」

「身体機能としての犬っぽさは薄らいでも、意識の部分はほとんど犬なのよ。もちろん、ヒトとしての思考や言語も持っているけど」

「だから、私もマイクの犬として生きたい。そう思ったの。自然でしょ?」

 日向が早苗に微笑んだ。

「Ph.D.に言われちゃ私なんかが反論できるはずないわね」

 早苗が苦笑した。

「わかった。この首輪は、ヒマワリの代替わりの印としてあなたに譲る。大事にしてよね」

 早苗が首から首輪を外して日向に手渡した。

「あー、なんか首がスースーして落ち着かないわ!」

 早苗が首をさすった。

「お母さん。ありがとう」

 日向が首輪を抱き締めた。

 

 ベールアップされた日向の首に、マイクが司祭から受け取った赤い革製の首輪をしっかりと締めた。

 日向は、うっとりと目を閉じている。

「20年前を思い出すね」

「そうね。私もあんな顔をしてたんでしょうね。なんか恥ずかしい」

 式に参列している大輔と早苗が顔を見合わせながら囁いた。

 

 式の最後に日向が参列者に向かって挨拶を申し出て司祭に許された。

「私は、自分を産み、育ててくれた両親を、そして、母の命を救ってくれた祖父を尊敬しています。私は、母の命を救った祖父のような人になりたい。救われた命を都民のために捧げようとしている母のようになりたいのです。」

「私は、母が『テワタサナイーヌ』の名でオレオレ詐欺の根絶に尽力したことを知っています。母が自らの尊厳と引き換えに都民の安全を守ろうとしたことを知り、体が震えるような感動を覚えました」

「いま、警視庁は、『オレオレ詐欺に気をつけないオレオレ詐欺対策』として、迷惑電話防止機能付き電話機などの普及を促進しています。その結果、オレオレ詐欺を始めとする電話を使った詐欺が大幅に減少しています」

「母が名乗った『テワタサナイーヌ』のコンセプトである『知らない人にお金を手渡さない』という注意喚起は、もう必要ないかもしれません。いいえ、『テワタサナイーヌ』という名前は、決して現金を手渡さないという注意喚起だけが目的ではありません。母は、もっと広く『人を信じる人が傷つかない社会』を目指したのだと思います」

「私は、母の決意と願いを受け継いで生まれた身。私には、母の意志を絶やしてはならないという使命があります」

 

「今日から私が『テワタサナイーヌ』です」

 

(完)

 

 

 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。




 後に日向はマイクとの子を身籠り、元気な犬耳の女の子を産んだ。
 女の子は「(あおい)」と名付けられた。
 「日向」と「葵」で「向日葵(ひまわり)」。
 早苗を助けようとして命を落としたヒマワリの記憶をいつまでも絶やさないために。



◇◇◇◇◇

 お読みくださってありがとうございます。

 人間が社会の中で生きるために必要なスキル「他人を信じること」。
 このスキルを逆手に取った犯罪の詐欺を根絶したい。
 でも、ただ「詐欺に気をつけましょう」と大声で喧伝したところで、それは被害者の落ち度を際立たせるだけで、根本的な被害防止になりません。
 「これをすれば詐欺の被害に遭わない」という特効薬はないのかもしれません。
 でも、少しでも被害に遭う可能性を減らすことならできるはずです。
 そのための考え方や方法を筆者なりに考えてみました。

 作中に登場するチワワの名前「ヒマワリ」は、大阪府西淀川区女児虐待死事件で亡くなった被害者が今際の際に発したとされる言葉「ひまわりを探しているの」に由来します。
 この事件を題材にした歌があります。
 「冬に咲くひまわり」という題名で木下綾香さんが作詞・作曲して、ご自分で歌っていらっしゃいます。
 YouTubeに動画があります。
 ご視聴いただければ幸いです。
 https://youtu.be/Cp3-aiqXGUo (公式)
 https://youtu.be/_GsoCSa3iNM


 テワタサナイーヌは、直接の使命を終えても、そのマインドは消えません。

 テワタサナイーヌは、過去を振り返りません。
 前を向いて歩き続けます。

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