I.S.F インフィニット・ストラトス×Fate 作:ボイス
現在の本編展開上、「ふざけ」や「ほのぼの」が綴れません。
こういう類のは「幕間」で。
時間軸は、模擬戦の前のどこか。
その日――
気難しい顔をした彼女、篠ノ之箒は、部屋番号数字『1025』とプレートに打たれたドアの前に立っていた。
割り振られた部屋の主というのは、無論のこと、織斑一夏の自室である。
ドアの前に立った箒は伸ばしかけた手を止めると、一度大きく深呼吸をすると身だしなみを整えていた。
「…………」
特に身なりを気にする必要も無い。ここに来るまでに彼女は自室で、これでもかといわんばかりに何十回とも入念にチェックしていた。鏡を用いては事細かに意識するほどに。
それほど注視することもないのだが、やはり彼女もまたひとりの少女である。好きな人の前では、みっともない容姿を見せたくは無いという意識が働いてしまうのは仕方のないことであろう。
一通り確認し終えた彼女は意を決すると、ドアをノックし声をかけていた。
「一夏、わたしだ」
しばらく待ってみるのだが、反応は無し。
「……一夏? 居ないのか?」
再度声をかけながらドアノブに手をかけてみれば、扉はかちゃりと簡単に開いていた。
鍵のかかっていない扉に迷いながらも、箒は部屋の中を覗きこんでいた。
「一夏?」
三度声をかけて部屋に脚を踏み入れ彼女。だが、室内からは返答されることもなく無人だった。人の気配も、やはり無い。
「……居ないのか……せっかく来てやったというのに……アイツはどこへ行っているんだ」
訪問する明確な時間の約束を交わしたわけではないため、一夏に全面的な非があるわけではない。自分に都合のいい解釈を彼女はしている。
目当ての人物の姿がないことに僅かばかりの落胆と不機嫌を募らせ、ムスッとしたまま室内を見渡し彼女。
時間を空けて置けと言ったのに、と零しながら――そんな箒の眼が留まったのは、ベッドには脱ぎ散らかされ、無造作に放られているシャツだった。
そつなく家事全般をこなす一夏である。普段であれば衣類など綺麗にたたみ、きちんとクローゼットなどにしまわれるのが常なのだが、なにかしらの急ぎの用事でもあったのかそのままにされていた。
「まったく……脱いだものぐらいきちんと処理できんのか? アイツは……」
姿の見えぬ彼のだらしなさに呆れつつ、ぶつくさと文句を言いながら箒は何気なくシャツを手に取りたたんでいた。
が――
不意に、自分がしている行為に気がつき手が止まる。
「…………」
これではまるで夫婦のようだ、と彼女は考えてしまっていた。
だらしない亭主を支える女房という構図を頭の中につい思い浮かべてしまう。
胸中とは裏腹に――紅く染まった顔を――くだらない妄想を振り払う。
(何を考えているんだ、わたしは……)
邪念を持つからいけないんだと自分自身にきつく言い聞かせ――いつまでもその手に握り締めていたシャツをベッドへ放ると、自身もまたベッドにとすんと腰掛けていた。
「…………」
しんと静まり返る空間。
だが、心情は意識しないようにすればするほどに、自然と視線は横にたたんで置かれたシャツへと向けられていた。
「…………」
きょろきょろと周囲を窺い――やはり自分以外に誰も居ないことを再確認した箒は手を伸ばし、たたんだシャツを取っていた。
今し方たたんだばかりのソレを広げ、そっと胸元に抱く。
鼻腔をくすぐるほのかな匂い――
「……一夏の匂いだ」
彼女の口から洩れた呟きは小さいものではあるのだが、紡がれた声音にはどこか嬉しさが含まれていた。
広げたシャツにいそいそと袖を通し、彼女は羽織る。
愛しい人の匂いに包まれていることに思わず口元がにやけてしまう。シャツではあるのだが、実際に一夏に抱きしめられているという妄想に浸りながら。
「えへ、えへへ……」
シャツを羽織った恰好のまま、こてんとベッドに仰向けに倒れ、ごろごろと寝転がる。
「うふふ、一夏の匂いだぁ……」
眼を細め笑みを浮かべる今の彼女は、それはそれは、とても有意義かつ至福の時を過ごしていたことであろう。
しかし――
ある意味、刻の流れは残酷といえる。時間とは、唯一リサイクルすることができないものであるからだ。
その上で、時間には良い点と悪い点が存在する。
良い点とは、質の高い時間が挙げられる。その者にとって意義深いと呼べる時間、快適な刺激を与えてくれる時間、愉しめて過ごせる時間であろう。
反面、悪い点に挙げられるものは何かといえば、総合的において極論まとめてしまえば、どんなものにも終焉はやってくるということである。
故に――
そんな箒もまた例外ではない。楽しい一時を満喫するのだが……望みもせずに、終わりは突然やって来るのだから。
「一夏、悪いんだけれど――って、あ」
唐突に耳に捉えた声音と気配を感じ――咄嗟に起き上がった箒の視界に映るのは、こちらを見つめて、ぽかんとした表情を浮かべた士郎が立っていた。
士郎からしてみれば、彼が言葉を失くすのも無理はない。
それもそのハズであろう。用事があって一夏の部屋に赴いてみれば、当の本人は居らず、代わりに一夏の私服と思しきシャツに袖を通し、一夏のベッドに寝転がっている箒の姿は、ある意味、視認してはいけない領域としか言えないからだ。
「――――」
言葉無く、箒の顔は羞恥により見る見るうちに紅くなっていた。まさかこんな姿を見られるとは思っておらず、失態によって涙目になり、肩もまたふるふると小刻みに震えている。
見られてはならないものを眼にされ、見てはいけないものを眼にした双方。気まずい雰囲気が刹那に場を包む。
と――
処理しきれぬ現状、あまりに突発過ぎる事態により、双方の正常な思考が
「あー……」
だが、意外にも永遠と続くかと思われた静寂を打ち破ったのは士郎だった。彼の方が停止していた思考が再起動するのが早かった。
「悪い、篠ノ之……どうやら俺は、訪れる部屋を間違えたみたいだ。本当に悪い。じゃあ、そういうことで俺は失礼する」
爽やかな笑みを浮かべ、しゅたと片手を挙げ、駆け足さながらに踵を返し、そそくさと部屋を出ていこうとする士郎ではあるのだが――
「い……」
「……い?」
思わず耳に聞きとがめた言葉に士郎の脚が不意に立ち止まることとなる。
瞬間――
「い、いやああああああっ!」
のっぴきならない悲鳴に驚き、刹那に振り返った士郎は――そこで更に驚愕することとなる。
眼前まで迫るのは――椅子の脚。悲鳴を上げてベッドから跳ねると、床に降り立った箒が手近に在った椅子の背を掴み殴りつけてきたのだから。
予想外な出来事に意識が追いついていなかった士郎ではあるが――
「っ――とおっ!?」
ちっ――と鼻先を掠める。咄嗟に身を引いていなければ横っ面を容赦なく張り飛ばされていた。
当たれば怪我程度ではすまない。背筋をゾッとさせながら士郎。
避けられたという現実に残念がるわけでも慌てた様子も見せず、ふー、ふー、と大きく息を吐き肩を怒らせ、椅子を掴みなおした箒の双眸は眼光鋭く士郎へと向けられる。
「今すぐ忘れろっ! いいや、今すぐ死ねっ!」
「ちょっと待てっ――極論過ぎるだろっ!?」
「うるさいっ! それにな、衛宮……
「……なにがさ?」
椅子の背を持ち、にじり寄る箒の動きを最大限に警戒しながら、士郎もまた腰を落とし身構えていた。だが、彼の足は本人の意志とは裏腹に――自覚が無いまま僅かに後退している。
冷酷なまま、箒は告げる。
「人間、頭に強い衝撃を受けでもすれば、記憶の一部など嫌でも欠落するものだ」
「いくらなんでも限度があるだろう!?」
「うるさいっ! 大人しくそこに直れっ!」
「なんでさっ!」
一足のもとに踏み込み振り払われた椅子の脚による二度目の殴打を――だが、士郎は寸でのところ巧みに屈み避けていた。
「避けるな衛宮っ!」
「ま、待て――落ち着けっての篠ノ之ッ! 俺は、何も見ていない! お前が一夏の服の匂いを嗅いで、嬉しそうな顔をしてベッドにごろごろと寝転がったあげく、ペロペロと枕を舐め回して至福に浸る姿なんて、本当に俺は、一切合財何も見ていないぞ! だから安心してくれ!」
「何が安心しろだっ! そこまでベラベラと――概ね眼にしているだろうがキサマっ! それに、最後のはなんだっ!? わたしは舐め回しなどしていないっ! 勝手な脚色をするなっ!」
「あ? ああ、そうか。これから舐め回すところだったか? 悪いな、邪魔して」
「死ね」
「うおわっ!?」
力任せに振り下ろされた椅子を受けてなるものかと、士郎は必死に床に身を投げかわしていた。
「大人しく殴られろと言ったハズだっ!」
「無茶言うなっての!」
振りかぶられた椅子という名の四撃目を――だが、やはり士郎は身を捻りやり過ごしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「落ち着いたか?」
「あ、ああ……」
ベッドに腰掛ける箒は、手渡された緑茶を受け取ると一口啜り気分を落ち着かせていた。
士郎もまた椅子を引いては向かい合うように座っていた。
寮の部屋といえども、言い換えれば『勝手知ったる他人の家』である。湯呑みと茶葉を無断で拝借し、士郎はお茶を淹れて今に至る。
程よい熱さに舌が刺激されることによって、頭は冴え、逆に冷静さを取り戻していく。
平静な気持ちになればなるほど、彼女は先の暴挙をしきりに反省していた。幾ら恥ずかしさのあまりとはいえ、椅子で殴りつけるというのは度を超している。
しばらくの間、箒を相手に奮闘していた士郎ではあるが、得物として振り回すには椅子などそもそも分が悪すぎる。
両手で抱え持ち、動き回る士郎を執拗に狙いはするのだが、竹刀や木刀とは違い、普段慣れぬ物を長時間振り回し続ければ自ずと体力は消耗していく。
動きが鈍くなった隙を見計らい、士郎は叩きつけられる椅子を掴み、箒から奪い取ることに成功するのだが――
「すまない……考え無しで軽率だった」
「まあ、わかってくれれば俺も別に気にしてないよ」
「その、本当にすまない。取り乱した」
「ああ」
至極申し訳なさそうな面持ちで呟く箒に士郎は軽く頷いていた。
「勝手なことを言っているのは重々承知しているが……さっきのことは、他言無用で頼む」
「わかってるって」
「特に、一夏には……ああいや、皆には絶対に……」
「しつこい」
内密を求める相手に若干呆れながらも、誰にも口外しないと約束を交わした士郎は苦笑を浮かべていた。
「……お前は、一夏に何か用があったのか?」
「用って程のものじゃあないんだけどさ、山田先生が補習云々のことで一夏を捜してたんだよ。で、会ったら伝えてほしいって言われてさ。先生も格別急いでるってワケでもなくて、なら伝えるだけ伝えておこうと思ってここにに来たんだよ」
入れ違いだったみたいだけどなと締める士郎に箒はようやく納得する。
「そうか」
そこでふたりの会話は止まり、若干の間が続く。
沈黙の中、しばらく湯呑みに口をつけていた箒ではあったが――
「な、なぁ、衛宮……」
「ん?」
「その……話ついでに、ちょっと訊きたいことがあるんだが……お、お前は、一夏とは普段どんな話をしているんだ? その、わ、わたしの話とか……」
士郎が普段眼にしている質実剛健な姿とは程遠く、しどろもどろになりながらもそう問いかけてくる彼女。
「…………」
相手が何を言いたいのかを雰囲気でなんとなく察した士郎ではあるが、無言にならざるを得なかった。
一夏に対するアプローチとして、どちらかと言えば箒は他の連中と比べて一歩も二歩も出遅れている印象がある。
行動派の鈴やラウラとはその差は更に開きもし、いささか打算的な考えを持つシャルロットもそれなりに前へ進んでいる。空回りすることが多いがセシリアとて積極性がある。
そんな四人と比べてしまうと劣勢であるのは否めない。
彼女が持ち得る幼馴染というポジションを遺憾なく発揮しているのかといえば、答えはやはり否。同じ幼馴染という立場に当たる鈴と比べてしまうと行動範囲も負けている。
敢えて表現するならば、鈴が積極的であるのに対し、箒はどちらかと言えば消極的であるといえる。
自分からアプローチするという行為にも疎い。それは武士たる信念により破廉恥であるからと固く捉えてるせいでもあるのだが。
そういった根幹的部分を変えていけば、箒とて己の立場を存分に好転させることも可能となる。
言うかどうか迷いはしたが……黙っていてもしょうがないかと割り切った士郎は申し訳なさそうに口を開いていた。
「期待に応えられなくて悪いんだけれど……一夏の口から女の子の話とかはトンと出ないな」
「そ、そうなのか?」
返答を受け、一気にしゅんと落ち込み彼女。もしかしたら、一夏の口から自分のことが話題にでも出るのかなと淡い期待がなかったワケではないために。
そんな箒の心中を察した士郎は、若干気の毒そうな表情を浮かべていた。
「ちなみにだが、お前たちはいつもどんな会話をしているんだ?」
「あー、そうだな……」
それでもいくらか持ち直した箒の問いかけに対して、何を話したっけと首を掻きながら、士郎の視線はぼんやりと宙を彷徨っていた。
「最近は……どういう料理作ったか、とかかなぁ……」
「……は?」
箒の間の抜けた声音に対して、士郎は申し訳なさそうな表情を浮かべると頭を掻いていた。
「昼何食ったとか夜何食ったとか……どんな調味料使ってるかとか……」
「……な、なぁ……その、わたしがこう言うのもなんだとは思うのだが……お前たちは、本当に健全な男児か?」
自身も少女でありながらも、訊ねる内容に抵抗が無いハズもなく、だが、年頃の高校生ともなれば異性に興味は持つものではないのだろうかと感じるのも事実である。
箒が言いたいことを理解しながらも、士郎は苦笑を浮かべることしか出来なかった。
「……そこをツッコまれるのは痛いところだけれど、一夏の料理の話ってのはさ、意外と参考になるところはあるんだけれどな」
洋食や中華も作れる士郎ではあるが、やはり一番意識しているのは得意とする和食であろう。
それぞれの料理の姿勢には些細な違いがある。どういった調理方法、使用する調味料、食材の割合など。
例えば、味噌汁にしてみても作り方など人それぞれであろう。こだわりのだしや、味噌によってもさっぱりとした赤味噌やコクのある白味噌のどちらか一方、またはその二種をこだわりの配合によって混ぜ合わせるという使い方が生じる。
事実、箒が作る味噌汁とてこだわりがある。もっとも、彼女にしてみれば、どちらかと言えば一夏が好む味わいに寄せていたりするのだが。
そういった個々による調理方法など必ずしも絶対に同じとなるワケでもない。
料理の話はさておきと士郎は頭の中で事態の状況を整理していた。
男女間における恋愛事情に自身が口出しできる権利も無ければ、事態を把握し相応にアドバイスが出来るような器量を持ち合わせてはいない。
恋愛感情においてはどちらかといえば疎い士郎である。だが、そんな彼が――もっと正確に言えば、そんな彼でも織斑一夏に恋心を抱いている少女たちが居ることに気付くには然程時間はかからなかった。
振り向いてもらいたくて、いろいろと努力している彼女たち。ああまで露骨に接している姿を常に眼にしていれば、傍から見れば誰もが嫌でも理解させられるというものだろう。唯一、例外中の例外としては当の織斑一夏本人だけである。相も変わらず、彼は彼女たちの態度に一切気付いていないという唐変木っぷりを発揮しているのだが。
これによって好意を寄せている彼女たちの気苦労は絶えることが無い。篠ノ之箒もそのうちのひとりであることを知っている士郎は続ける。
「でもさ、逆に考えてみろっての。話題に出ないってことは、つまりは、一夏は格別誰かを特に意識してるってワケじゃないってことだろ?」
「…………」
「となれば、篠ノ之にだって十分チャンスはあるってことじゃないかな?」
「――ッ!」
その指摘に――箒の視線が士郎へと向けられる。彼女の双眸にはうっすらと期待という名の炎が灯りかけていた。
「そ、そうか?」
「おう。篠ノ之がオルコットたちに勝っているのは幼馴染ってところと、料理が出来るところだろ? それと、大和撫子といった――」
「ど、どうすればいいと思う? 衛宮、男のお前から見てはどう思う?」
話の途中だというのに、一気に食いついてくる相手の雰囲気に気圧されながらも、士郎は手で制しながら言葉を紡ぐ。
「どうって言われても……うーん、そうだなぁ……なら、例えば、私服を変えてみるとか」
「私服?」
なんとなく呟いた言葉に箒は耳聡く反応していた。
「ああ、俺個人のイメージなんだけれどさ、普段の篠ノ之は和服の印象が強いって感じるんだ。そこを逆に洋服に変えてみるとかさ」
「ふむ」
「例えば、何気ない部屋着を変えてみても印象って変わるだろ? そういった、ちょっとしたさり気ないところを変えてみるとか。普段とは違う篠ノ之を一夏に見せてみるとかさ」
「普段と違うわたし、か」
インパクトに変化があれば相手の印象も変わるだろうという士郎の指摘に箒は頷いていた。
服装を変えてみるのは悪くないかもしれないと彼女は考える。これが髪形を変えてみたらどうかと言われていたとしたら、間違いなく首を横に振っていた。
この髪型を維持しているのには意味がある。それは、昔に一夏に褒められたという理由からだった。そのため箒はポニーテール以外の髪型に変える気は持ち合わせてはいない。
俯き何かを考え、ぶつぶつと口にしていた箒は、再度視線を士郎へと向けていた。
「衛宮……その、おま、お前は、その、セイバーと、そ、相思相愛なのだろう!?」
「……そ、相思相愛って言われると……」
「……違うのか?」
「いや、違くは、ない……」
歯切れが悪いながらも問いただす箒に思わず士郎は頬を掻いていた。相思相愛などと面と向かって告げられては気恥ずかしい。
「そ、その、こ、こ、こ、告白したのだろう!? お、お前からか!? それとも、セ、セイバーからかっ!? お、お前は、セイバーのどこに魅力を感じたわけなんだっ!?」
「……み、魅力? セイバーの魅力って言ったら、そりゃあ……」
そこまで言って――ふと士郎は考え込んでいた。
改めてどこに魅力を感じたかという質問に関していえば、士郎が特別意識する二点から。
一点とは、当然であるが可愛らしさや美しいという、セイバー本来の女の子らしさであろう。
では残るもう一点な何かと問われれば、それは、彼女の尊い魂の在り方ではなかろうか。
「多くの人が笑っていました。それは間違いではないと思います」
セイバーが告げた言葉は、忘れることなど断じてできることは無い。
ブリテンの王となった彼女は、ただただ純粋だった。国を救い、民に笑ってもらいたいという想いのみ。たったそれだけのために、何の迷いも見せずにセイバーは自分自身を犠牲にしていた。
国に裏切られようとも、誰も理解してくれる人がいなくても、彼女の決意は変わらない。
一寸の迷いもなく貫かれた彼女の誓い、願いは、それはとても誇り高く、尊いものであったことであろう。
理想の為に全てを捨てて駆け抜けた姿は、どこまでも気高く、美しい。
そんな彼女を――否、そんな彼女だからこそ、士郎は心から護りたいと切に願い感じている。その信念に揺らぎなど一切存在しない。
「え、ええとだな……だ、男性から見て、女性のどんなところに魅力を感じるものなのか教えてほしいんだ」
「……篠ノ之、その質問に対して、俺の答えは何の役にも立たないと思うぞ?」
そもそも、人によって好みは違う。
士郎が女性に対して魅力を感じる部分はさまざまであろう。セイバーは当然であれば、ライダー、遠坂凛や間桐桜、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンに至る。ずぼらな藤村大河にすら感じる魅力はあったりする。
特に、水着姿のイリヤスフィールには数居る女性陣の中でも一番ドキドキした覚えがある。
セイバーにあってライダーにない魅力。ライダーにあってセイバーにない魅力。
それらを踏まえた上で、世の男性と全てが通じた答えだとは思っていない。故の弁であるのだが。
「む、むぅ……そうなのか? なら、別のことを教えてほしいのだが……デ、デートというものは当然したことがあるのだろう?」
「……ま、まぁ、な」
プールやショッピングに行ったりしたとの返答に箒は表情を輝かせていた。
「やはりそうか! デートというのは、楽しいものなのだろう?」
意識する異性と一緒の時間を過ごしたい――
雑誌に書かれていた恋人と行くデートスポットなど、一夏とならばとつい妄想してしまう。
「こ、こう言っては笑われるかもしれないのだが、お前とセイバーのことは羨ましく思う。普通に接して、お互い想うことや言いたいことを口にできるのだろう? それを踏まえた上で、デートというものには憧れがある」
本心から漏れた言葉に、さり気なく士郎は聴き返していた。
「求める過程は違うかもしれないけれどさ……なら、篠ノ之から誘ってみるってのはどうかな?」
過程は違うが、結果は同じだとわかっていながらも、妥協案として進言してはいるが――
「…………」
士郎の提案に対して、だが、箒はどこか居心地悪そうに視線を逸らしていた。
「お前の言いたいことはわからなくはないのだがな……その……できることならば、わたしは、一夏から誘ってもらいたいと思うんだ……」
「…………」
彼女の言い分はわからなくもない。士郎とてセイバーとデートするという場合であれば、自分から誘いたいものだ。
箒の心情をよりよく深く把握したわけではないが、好きな人から誘われるというシチュエーションに憧れているのだろうと理解する。
彼女とて歳相応の少女である。恋焦がれることはなんらおかしなものはない。
「…………」
自然と顎に指を触れさせた士郎は黙考する。箒が望むような展開に事が運ぶかどうかと問われれば、何の迷いもなく『否』としか応えられない。
まず大前提となる、その状況に持っていくこと自体が壊滅的に想像がつかなかった。
それでも――
脚を組み直し、士郎はひとり考える。
そもそも、一夏は箒のことをどう思っているのだろうか?
考えれば考えるほどきりがなくなる。唯一彼が本格的に意識する女性というのは、姉である織斑千冬ぐいらいであろうか。
「…………」
協力するにしても、これはこれで些か面倒な話である。
仮になんらかのかたちで士郎が映画のチケットや、どこかのレストランの招待券を入手し一夏に渡したとしても、素直に箒を誘うとも思えない。
鈴やセシリア、シャルロット、ラウラたちの耳にそれらの話が入りでもしたら、厄介な事態に展開する。いや、例外なくそうなる。
加えて、一夏の性格上、彼女たちの誰かに一緒に行こうと頼まれでもすれば、特に躊躇するでもなく了承するであろう。そうなってしまっては無意味に終わる。
例えば――
「今暇か? よかったら一緒に行くか?」
そんな台詞を告げては意識することもなく、出会った誰かを適当に誘うかもしれない。
一夏ならばやりかねない。いいや、間違いなく、そうするだろう。
加えて、ちゃんと篠ノ之を誘えよと言葉添えしたとしても結末は見えてしまっていた。
「? どうして箒を誘うんだ?」
などといった返しを受けるとしか考えられない。
そのように想像しただけで――自ずと、士郎は両手で顔を覆っていた。別の意味で目頭が熱くなるのは気のせいだと思いたいほどに。
「衛宮? ど、どうかしたか?」
「……いや、なんでもない」
心配する箒に声をかけ、士郎は顎を指先でなぞると、その表情には更に険しさが増していた。
「…………」
無言のままさらに彼は黙考する。
大事なことは、如何にして織斑一夏が篠ノ之箒をデートに誘うか、という流れであろう。
終始張り付いて、ふたりの接触を補助しつつ、御膳立てするにしても、途方もない労力がかかる。
むしろ男友達の方が気が楽だとして、士郎を誘ってくるかもしれない。
考えれば考えるほど、策を練れば練るほど――随時生じてくる問題を如何にして修復するかに頭を痛める。
結果――
「……篠ノ之、決して悪いようにはしないから、少し時間をもらえるか?」
「? あ、ああ」
ひとり思案に耽る相手に箒は素直に頷くことしかできなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ということで、ふたりに協力してもらうことにした」
言って、士郎が連れてきたのはセイバーとキャスターである。
場所も一夏の部屋から保健室へと移動していた。
事情が事情なだけに、箒の立場を汲み取りセシリアたちを呼ぶわけにも行かず、加えて千冬や真耶を連れて来るわけにも行かず。となれば、必然的に連れて来るのは無難なこのふたりとなるわけなのだが。
連れて来られたセイバーは状況が読めずに眼をぱちくりとさせ、対するキャスターは露骨に迷惑そうな顔をしている。
「俺だけだと篠ノ之にイイ助言は出来ないからさ、女性からの意見としてふたりを――」
だが――
「ちょっと、坊や」
襟首を掴まれた士郎は、ぐいとキャスターに引き寄せられていた。
仰け反るような恰好になる相手に構わず、彼女はそのまま小声でぼそぼそと囁く。
「どうしてこのわたしが、こんな小娘の相手をしなくちゃならないのよ」
「……だからそのことに関しては、さっきちゃんと説明しただろ? 大人の女性の意見として、アンタから何かしらのアドバイスを篠ノ之にしてやってくれっての」
「ア、アドバイスっていったって……」
些か返答に困りながらキャスター。彼女は彼女で恋愛に関しては、すべからく良い思い出が無い。
ギリシア神話に登場するコルキス王女メディアの恋愛話はどれも悲劇であるからだ。メディアの意志など無視され、いい様に利用された挙句に捨てられる生涯なのだから。
士郎もそのことは理解した上での進言である。
「大人の女性からの意見で頼むって」
「……簡単に言ってくれるわね。そもそも、シャルロットさんならいざ知らず、なんでこんな小娘に……」
箒に背を向けたふたりは、ああだこうだと言葉をかわす。
と――
申し訳なさそうな表情を浮かべ、箒は口を挟んでいた。
「あ、あの、葛木先生……突然のことでご迷惑でしたか?」
「そんなことないわよ。悩んでいる生徒さんの心をケアするのが、わたしの仕事ですもの」
箒の声にキャスターは軽く手を振り応えていた。その口元にはにこりと微笑みさえ湛えながら。瞬前までぶつくさと文句を洩らしていたというのに、なんという変わり身の早さであろうか。
相手の返答に、箒もまた安堵の表情に変わっていた。
「ありがとうございます。その、正直に申し上げまして……葛木先生からご指導いただけるなどとは、これほど頼もしいことはありません」
「……というと?」
「はい。先生は既婚者であるとうかがっています。わたしの個人的なものではありますが、ぜひとも、先生の
『…………』
無言となるのは士郎とキャスターである。
しかも、両者とも無言となるのは別の意味で。前者は呆れ、後者は気まずさからによる。そんなふたりを差し置いて、代表して質問するのはセイバーだった。
「逸話、とはどのようなものなのでしょうか?」
「家事全般が得意と聴いてな。
「…………」
「いやはや、確かにその通りだと思う。わたしも味噌汁はそれなりに作れはするのだが、こう言っては失礼ですが、外国の方だというのに調理に徹底しているのは感服致しました。よほど和食を学ばれたのだとい思います」
「……おい」
キャスターだけに聴こえる声音で士郎。
「なんで、どこかで聴いたことがある内容が篠ノ之の口から語られてるんだよ」
士郎が指摘するのは味噌汁のことに関してである。
端的に言って、キャスターは料理などからっきしである。味噌汁などは実のところ、居候先の柳洞寺の跡取り息子である柳洞一成から、葛木宗一郎に飲ませるものを姑のようにいびられたほどである。
赤出汁で、腹も取っていない煮干出汁で作った味噌汁は野卑な味だと叱責を受けている。ちぐはぐな代物であり、ミッソスープとも揶揄された。
ちなみに、一成曰く、宗一郎に飲ませる味噌汁は昆布出汁の白味噌と決まっているらしい。
「なにをここぞとばかりに見栄を張ってるんだよアンタ……鰹出汁の合わせ味噌なんて作ったことないだろ?」
「う、うるさいわね。ちょっとぐらいイイ恰好したってバチは当たらないじゃないのよ。いいじゃないのよ、それぐらい」
半眼に近い士郎からの白い視線をキャスターは見ない振りをしてやり過ごしていた。だが、頬を伝う一筋の汗を彼は見逃してはいない。
そんなふたりのやり取りを聴いていないセイバーは不思議そうな顔をするだけだった。
箒の説明は続く。
「衛宮に料理を教えたのも先生だと聴いた。だから衛宮はあんなに料理の腕が立つのだな。教えてくれる人が人なだけに頷ける。上達するのも早いので、教えがいがあるとも聴いたぞ」
「おい……随分と上から目線だな。
「…………」
再度ぼそりと囁かれる士郎の声音。彼がキャスターに料理を教わったことなど一度もない。逆に、士郎が教えているのだから。
詰問されるが、当のキャスターは顔ごと背けているのだが。
「なに自分のポジションをちゃっかり構築してんだアンタは」
「し、しかたないじゃないのよ……シャルロットさんの手前、つい言っちゃったんだからっ……」
「『つい』じゃないだろ……なに考えてんだよ……」
間桐桜から『理想の奥様』として尊敬されているのを知っているだけに、どうしてこちらの世界に来てまで同じようなことになっているのかが理解に苦しむ。
「いちいちうるさい坊やね……わ、わたしにだって事情があるのよっ」
ぼそぼそと小声で言い合うふたりに代わり、セイバーは小首を傾げながら疑問を口にしていた。
「そうなのですか? わたしはキャスターが料理を得意とするという話は聴いたことがないのですが。それにホウキ、シロウが料理を教わったという点はおかしな話だ。そもそも――もがが、もがもが」
言葉を詰まらせセイバー。咄嗟に彼女の口を塞ぐのはキャスターである。
士郎もまたセイバーの肩を掴み振り向かせていた。
「待ってくれセイバー、頼むから今は何も言わないでくれ」
だが、キャスターの手をどけた彼女は不服そうに反論していた。
「シロウ、誤った情報を与えるのはよくない。キャスターに料理を教えているのは紛れもなく貴方だ」
「いいから、ここはひとまずキャスターを立てて話を合わせてくれっての。今の篠ノ之は、キャスターを崇拝するぐらいに尊敬の念を抱いてるんだから」
「ですが、だからと言って偽るというのはどうかと思う。わたしは騎士だ。騎士の誇りにかけて、虚偽を口にすることなどはできない。それが例えどんなことであれ、包み隠さず真実を告げるべきだ」
「いやまぁ、それはそうなんだけれどもさ……」
言葉を濁しながらも士郎の視線は泳ぐだけ。状況が状況なだけに、ここはひとつ空気を読んでくれと訴えてはみるのだが。
キャスターも同様なのかといえば、そうではない。敢えて視線を逸らした恰好ではあるが、表情はむしろ真顔に近く――
「そういえば、本音さんからとっても美味しいていうクッキーの詰め合わせを貰っていたのを忘れていたわ。さて、何処に置いたかしら」
「ホウキ、彼女は素晴らしい。愛する人のために弛まぬ努力を続けている。その姿は称賛に値するものだ。シロウの料理の腕が上達するのも、そんな彼女に師事して学んだおかげだと言えるでしょう」
何気なく、本当に何気なく独りごちるキャスターの呟きに、セイバーは瞬時に反応していた。
掌を返すとはこのことか。『とっても美味しい』と『クッキー』という強調された言葉に釣られたセイバーはあっさりと話に合わせていた。食べ物で懐柔するなど、まさしく餌付けであろう。
(どれだけ食べ物が中心に回ってるんだよ)
空気を読んでくれた事は良しとするが、結果がクッキーであることに士郎は呆れ嘆息するしかない。
だが――
そんな三人のやり取りを見て、箒もまた不思議そうに眼をぱちくりとさせるだけだった。
「前々から気になっていたのだが……お前たちは、葛木先生とは知り合いなのか?」
なんとなくではあるが、どこか違和感的なものを覚えていた箒の問いかけはもっともであろう。とはいえ、キャスターが臨時の養護教諭としてIS学園に留まると決めた時点で千冬と真耶を除いた全ての生徒、教員たちは暗示をかけられている以上よりよく深く追求してくることはないのだが。
「知っているも何も、彼女とは第五次聖杯戦争で――」
しかし、その先を発することは出来なかった。今度は士郎がセイバーの口を手で覆っていたからだ。
「い、いやぁ――じ、実はさ! キャスターとは、前の学校でも一緒だったんだよ! いろいろと世話になってさ! そしたら今度は此処に赴任だろ? 世の中は広いようで狭いってのはこのことだと思うんだよ! ぐ、偶然てのはあるもんだよなぁ……は、ははは……」
「前の学校とは?」
「ほ、穂群原学園てトコでさ」
「ほむらはら? 聴いたことがないが……それと、お前もセイバーもだが、さっきから先生のことを『キャスター』と呼んでいるが、それはなんなんだ?」
「――――」
的確な箒の指摘に士郎は刹那の間を置いてしまっていた。
とはいえ、失言したと理解しながらも彼は瞬時に切り返す。平然を装い、何食わぬ顔をしたまま咄嗟に言葉を並べていた。
「きゅ、旧姓っ! そう、旧姓なんだよ! 旧姓はキャスターていうんだよ! 俺もセイバーも、キャスター先生て呼んでたからさっ! そっちの方が呼び慣れてたモンで、ついつい口にしちゃうんだよ!」
「…………」
口からの出まかせにも程がある。
些か苦しいかと自分自身を勘繰る士郎ではあったが――
「なるほど。納得した」
意外にも、箒は妄言を簡単に信じていた。
「だが、いくら前の学校での知らぬ仲だとはいえ、目上の方を呼び捨てるのはどうかと思うぞ? 『親しき仲にも礼儀あり』というだろう?」
「あ、ああ。つい、友達感覚で接しちゃうのは俺の悪いクセだな。反省するよ」
「ん。ところで先生……
すんなりと話の方向性が変わったことに士郎の胸中の安堵感が如何ほどかなど知る由もない。
宗一郎の話になった途端にキャスターもまたまんざらでもない表情を浮かべていた。
ちなみにセイバーはキャスターが用意したクッキーをもふもふと食べているため大人しい。偽り無く美味なのだろう。眼を輝かせては、またひとつ、またひとつと無心にクッキーを手にとっていた。
「そうね……宗一郎さまとの出逢いは、まさに運命的だったわ……あの人は、とある事情で行き倒れだったわたしに手を差し伸べてくださったの」
「…………」
「何も仰らずに助けてくれて、介抱していただいて……」
淡々と語るキャスターと、真摯に話を聴き入る箒。ひとり士郎は内心複雑であろう。
(そりゃまぁ、サーヴァントだからな。マスター不在で魔力供給が無ければ消えるしかないからな)
「寡黙で実直……無表情で余計な事は一切口にせず……でも、その真面目過ぎるところが何よりの魅力であるの」
「…………」
キャスターが口にする宗一郎に関しては士郎もまた同意できる部分がある。
実際、融通が効かず無愛想で近寄りがたい雰囲気を醸し出す教師であるが、生徒からの評判は決して悪くはない。逆に、上級生になればなるほど彼の持ち味を理解した上で親しむ生徒も多かったりする。
(テスト問題に誤字があっただけで、そのテスト自体を中止したぐらいだからな……)
つい顎先に指を触れさせた士郎はひとり胸中で呟いていた。
「精神は気高く、身体も相応に強靭なの。宗一郎さまは心身ともに優れていらっしゃるのよ」
うっとりとした表情でキャスター。若干惚気が入りはじめたのは気のせいではなかろうか。
「そう! 丘の上の教会で、宗一郎さまとの結婚式! 白いウエディングドレス! 投げるブーケ! 群がる女ども! それを見下ろす、わ・た・し! そしてそしてー! 格安な式場代ー!」
妄想を入り交えて高らかに叫び彼女。表情は至極生き生きとし、幸せそうで何よりである。
と――
思うところがあったのか、セイバーは顔を上げていた。
「確かに。素手でありながらも彼の繰る武術は正直に言って侮れない。まさに手練と呼ぶのに相応しい」
「……そ、それほどまでか? わたしから見てもセイバーは剣術にかなり長けているように思えるのだが、その人はそれ以上なのか?」
ぼりぼりとリスのように口にクッキーを含んだまま喋るセイバーに――横では士郎が食べながら喋るのはやめろと注意するのだが――対して、箒はその告げられた内容に驚いていた。
「そうですね。初見であれば、わたしは確実に敗北していました。驚異的な戦闘能力に圧倒されるでしょう」
真面目に語るのだが、頬張るクッキー姿で台無しである。
「古武術の類かなにかなのか」
しかしながら、素晴らしいとひとり感心する箒と対照に、士郎は視線を逸らしたまま。
(……暗殺拳だからなぁ……サーヴァントのセイバーでさえ、初見に限り倒すことができるっていう特殊な動きするし……)
そんな士郎の内心など知るハズもなく――
「宗一郎さまは、なんでもそつなくこなされるの」
完全に自分の世界にトリップした彼女は、それこそ今にもくるくると踊り出しそうな雰囲気だった。
一方で、熱心に語られる宗一郎の話を聴き入りながらも、箒はどこかそわそわとして落ち着きが無かった。話の内容が飽きたというわけではない。逆に大人の恋愛ということで、より一層深く込み入った話を訊きたがるのは完全な興味本位からであろう。
そのため――
「せ、先生は、その――と、当然大人の女性ですから――キ、キキ、キ、キ、キスはされているのでしょうか?」
「――――」
キス――
接吻、口づけ、kiss、チュウ、口吸いなど言い方はさまざまである。
ぽかんとした表情を浮かべるのは士郎。セイバーもまたクッキーを口にくわえたまま唖然としている。
一瞬理解が遅れたキャスターではあるが、刹那に思考回路は正常に戻ると、何食わぬ顔をして訊き返していた。
――が。
「……一応確認しておきたいのだけれども、アナタは愛情表現のひとつであり、主に唇と唇を押し当てて触れ合うことを言っているのかしら?
「落ち着けっての」
思わず身を乗り出し――キャスターの肩を掴んだ士郎は、ぐいと引き寄せていた。
「予想以上に今頭の中パニクってるだろアンタ。そもそも、話の流れで魚なワケがないだろーが」
「……ちょっと」
気安く触らないでちょうだいと肩を払う彼女は一睨みする。
「あくまでも確認よ。もしかしたら捌き方を訊いているかもしれないじゃないの」
「馬鹿か? 冷静になれっての」
「本当に失礼なことを言う坊やね。わたしはいつでも冷静よ。よく言うじゃない。素数を数えれば落ち着くって。
「それは平方根だ。完全に内心取り乱してるじゃないかっ!」
「それで、箒さん? どちらの方をお訊ねかしら?」
うるさい士郎を無視すると、キャスターはにこりと微笑を浮かべ、確認を踏まえるためにもそう問いかけていた。出来れば後者の魚類であってほしいと無理な望みを願っていたりするのだが。
そんな淡い願望など、ガラスのように砕け散るのはわかりきっていることだった。
「く、唇と唇を重ねる前者ですが」
「――――」
箒が告げる言葉に、今度こそ完璧なまでにキャスターの内心は見事なまでに当惑する。
それでも外面は平静を装うが、内面は慌てふためき混乱しているのが実情である。
故に――
ここでキャスターの悪い癖が出る。彼女は、どもりながらも、また見栄を張っていた。
「も、もも、もちろんよっ! わ、わたしと、そ、そそ、宗一郎さまは、ふ、夫婦ですものっ! キスのひとつやふたつ、と、当然じゃないのっ! おはようからおやすみまで、暮らしを見つめるぐらいにキスなんて当たり前よっ! ま、毎日がラブラブですもの! チューなんて日常茶飯事よ! チューなんて、チュー」
「…………」
士郎は無言。またコイツは虚勢を張ったなと呆れの視線を向けるだけだった。
だが、捉える箒は違っていた。表情を輝かせると更に質問していた。
「やはりそうですか! その上でお聴きしたいのですが……キ、キスとはどのようなものでしょうか」
「……ど、どのようなものっては、どういう意味で?」
「経験豊富であらせられると思います。ぜひ、ご教授いただければ」
「け、経験豊富って……」
ここで補足をしておくならば、キャスターは宗一郎とキスをしたことが無いわけではない。
キスをしたことがあるのはあるが、ここでいう事実と相違となるのは数であろう。それこそ極々僅かに数える程度であり、とてもではないが『頻繁に』などこなしてなどいないからだ。無論、おはようからおやすみまでも虚言である。
その結果、どんなものかと訊ねられたとしても、明確に応えられるハズがない。
眼を泳がせてキャスター。つい士郎へと向けるが、当の彼は既に顔を背けている。
(使えない坊やね!)
胸中でそのように罵倒される士郎はたまったものではない。
「あの、ファーストキスの味は、レモンの味がするとよく聴きますが……やはりそうなのでしょうか?」
「レモン……?」
この箒の問いかけに関しては、キャスターは眉を寄せるだけだった。
そもそも、キスに関して言及するならば物質的な味などない。あくまでも、気分を比喩にしたものでしかないのだから。それこそ青春時代の甘酸っぱい初恋であれば、例えるのが『レモン』であったとしてもおかしくはない。
今一度キャスターは考えていた。それはまさしく自問自答するかのごとく。しかしながら、どんなに思い出したところでもレモンの味などしなかったのではと結論付ける。加えて付け足すならば、キャスターにとってのファーストキスの相手は宗一郎ではなく、イアソンであるため正直思い出したくもないというのが現状であろう。
イアソンのことなど頭の中から綺麗さっぱり追い出すと、宗一郎に置き換え考察するのみ。
いい歳をした女性の身でありながら、少女のようにドキドキとしたのは確かであり、なによりも唇を触れ合わせた時は安心感を覚えていた。
「……生憎とレモンなんては感じなかったわね。でも、なんて言うのかしら……表現し辛いのだけれど……ときめくというか、ドキドキする方が強かったのと、一体感というか心が落ち着くのは確かよ」
「ドキドキするのに、落ち着くんですか?」
「言ったでしょう。表現しづらいって。こればかりは箒さんも経験してみないことにはわからないわね。それに、感じ方は人それぞれだし……それこそ貴方にとってはレモンの味に感じるかもしれないわよ?」
どこか意味深に説明するキャスターの言葉に箒はひとりなるほどと顎に指を触れさせ――
「…………」
ふと、別のクッキーに手を伸ばそうとしていたセイバーは、じいっとこちらを見入る箒の視線に気付いていた。
「ホウキ、なにか?」
「ああ、いや……セイバーも衛宮とは恋人同士ということはだ、その、つまり、なんだ……」
言いにくそうに彼女。
「ふ、ふたりも、日常的にキスをしているのか?」
「――――」
「ど、どうなんだっ?」
箒にしてみれば、キャスターひとりの応えだけではなく、同世代――彼女にから見ては同じ年齢だという認識である――のセイバーからも同じように意見を訊ねてみたいがために。
だが、唐突に話を振られたセイバーにとってみれば、純粋に困惑するだけでしかない。士郎は既にまともな返答が出来ずに硬直したままなのだが。
「待ってくださいホウキ。一度アナタは落ち着くべきだ」
「わ、わたしは落ち着いているぞ! これ以上無いぐらいにな!」
「とてもそうは見えません」
「ふ、普通の恋人同士ならばそれぐらいは当たり前なのだろう?」
「こちらの話を聴きなさい。それに、どこが普通なのかがいまいちよくわかりませんが」
普段の箒とは違い、予想外なほどにぐいぐいと来る相手にセイバーは手で制しながら。
箒は箒とて、よりよく問い質したいがために言葉を重ねてくる。
「と、とにかく、実際のところはどうなんだ?」
「……実際に、とは?」
「だ、だから……衛宮とはキスしているのかと訊いているんだ! ま、まさか、恋人同士なのにキスをしたことが無い、とは言わないだろう?」
「し、したことが無いわけではありませんが……」
相手のいまいちな反応に……だが、箒は少しばかり眉を寄せていた。
「嫌なのか?」
「い、嫌というわけではありませんっ! 相手がシロウならば、わたしは嬉しい……って、何を言わせるんですかっ!」
上気した頬、熱を持った身体を落ち着かせるように、セイバーはいいですかと言葉を選ぶ。
「そもそもです。ホウキ、く、口付けというものはですね……その……か、軽はずみに行って良いものではないと、わたしは思うのです」
「…………」
「よく考えてみてほしい。いいですか? 口付けというものは、お互いの気持ちを確かめ合うための神聖な行為だ。それをむやみやたらに、みだりに行うなどわたしには考えられないし、どうかと思います。そ、それに、こういった行為はですね……心安らぎ、落ち着ける静かな場所で、ふたりきりの時にこそ本来の意味を――」
そこまで言って――
セイバーの意識は現実に戻されていた。
己の世界に飛び立ち酔いしれていたハズのキャスターも耳聡く話に混ざっている。その後ろには大変気まずそうに紅い顔を手で覆っている士郎がいる。
その時点で、セイバーは自身がどれほど恥ずかしいことを口にしたのかを理解していた。身体は更に熱を帯び火照り、耳まで真っ赤になり、まるで湯気を発するかのごとく。
「なになに? そこのところ、もっとよりよく深く詳しくぜひ」
「い、言うワケがないでしょう!」
ニタリとした意地の悪そうな笑みを顔に貼り付けるキャスターにセイバーは動揺を隠すべく一喝していた。
「わ、わたしのことなど、どうでもいいでしょう!? だ、大体キャスター、アナタがはっきりとしないのがいけないのではないですかっ!? そういうアナタこそ、ソウイチロウとは、本当のところどうなのですかっ!?」
「あら、宗一郎さまはスゴイわよ? 激しいんだから」
「――――」
「宗一郎さまのキスは、それこそ身も心も蕩けるような情熱的ですもの。お子ちゃまな彼とは違うわよ?」
その一言はさすがにカチンと来たのか、セイバーは反論していた。
「訂正しなさいキャスター。今のは聴き捨てなりません。シロウは相手を労わってくれる優しさがある」
「あら、宗一郎さまも荒々しい中に優しさがあるわよ」
「シロウは―――」
「宗一郎さまは――」
セイバーとキャスター、双方の言い合いは続く。話の内容は、次第に夜の営みがどうだという部分にまで及ぶほどに。
当然のことながら同席している箒は気まずそうに俯いていた。聴くともなしに耳に入ってくる言葉に顔は熟れたトマトのように赤らめたまま。
それは士郎も同様だった。べらべらとそんなことまで話されては、聴かされている身としては気恥ずかしさに頬を紅潮させるだけでしかない。
居心地悪そうにいるふたりを意識することもなく――二騎のサーヴァントは激しい舌戦を繰り広げていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日の放課後――
セイバーとキャスターを呼んだにもかかわらず話が脱線して終わった昨日の反省を踏まえ、士郎は士郎なりにあれやこれやと思考した結果幾つかの案をまとめていた。
内容を告げようと箒の姿を捜していた彼ではあるが――だがその矢先、声をかけてきたのは捜していた箒本人からだった。
「…………」
箒の顔に――思わず士郎は面食らっていた。
昨日――正確に言えば、今日の放課後になるまでであるが――いろいろと悩んでいたとは思えぬほどに、その表情には迷いが一切消えて晴れ晴れとしていた。
「すまない衛宮……いろいろと考えてはみたのだが、やはり、どうにもわたしは、わたしのありのままを見せるのが性にあっていると思うんだ」
「…………」
「昨日、お前たちの話を聴いてわかったんだ。人によって、恋愛というのは様々な形があるというのを改めて知ったよ。頭では分かってるつもりだったのだが……今でも、お前とセイバー、葛木先生のようにわたしもなれたらと思う。だが、やはり、わたしはわたしだと思うんだ。お前たちのようにはなれないかもしれないが、わたしらしいやり方で、一夏にこの気持ちを伝えようと思う」
「……そうか」
「お前があれこれと考えてくれたことには感謝している。その上で、身勝手だったことは本当に申し訳ない。いろいろと迷惑をかけた」
言って深々と頭を下げる箒に対し、士郎はよしてくれと声を漏らす。
「いや、そんなことはないよ。俺もお節介過ぎたかなとは思うし……なによりも、篠ノ之がそう決めたんならそれがイイことなんだと思う。逆に、昨日は迷惑をかけた。良かれと思ったんだけれど、結局何の役にも立たなかったし」
「そんなことはない。いろいろと為になったのは事実だ。重ねてすまない」
今一度頭を下げる箒に、士郎は苦笑を浮かべると軽く手で制す。
「言ったろ。篠ノ之がそう決めたんなら、それがイイんだって。俺も余計なことを言った。気にしないでくれ。それに、俺に出来ることであれば協力するよ」
士郎のその申し出に――しかし、箒は小さく頭を振っていた。
「その気持ちだけで十分だ。わたしも、言われたように、自分でなんとかしてみようと思う」
「?」
相手の発言についてどこか違和感を覚えながらも士郎は返答していた。
「おう。頑張ってくれ――て言い方もおかしいかな。少なくとも、俺は応援してるからさ」
「ああ、ではこれから早速一夏を捕まえようと思うのでな。ここで失礼する」
「ん」
超が付くほど鈍感な一夏を振り向かせるには至難な業だぞと心中で呟きながら、駆ける彼女の背を見送り彼。
胸に去来するのは安堵。だが、それと同じように、どこかわだかまりが残るのも事実だった。
二種の感情が入り混じり、顔に浮かぶのはどっちつかずの微妙な表情。
「ありのまま、か……うん。確かに、そっちの方が篠ノ之らしい」
表には出さずにはいたが、打って変わったかのような箒の心情の移行に士郎は内心戸惑ってはいたのだが。
故に――
「あらあら、坊やには愛しのセイバーがいるというのに、他の女にうつつを抜かすのはどうかと思うわよ?」
「――っ」
唐突に背後からかけられた声音に驚き、士郎は慌てて振り返っていた。
振り返った先に立つのは、こちらの反応を愉しんでいる白衣姿のキャスターである。その顔にはにんまりとした笑みを張り付かせて。
「おいっ――どっから湧いて出た、アンタ」
「ちょっと……このわたしを、ボウフラか何かのように言わないでちょうだいな。潰されたいの? そもそも、感謝してもらいたいものね。あの娘の悩みを、それなりに解消してやったっていうのに。言葉を選べないのかしら、坊やは?」
ジト眼で睨むキャスターに呆れながらも、士郎は物騒なことを口にしないでくれと洩らしていた。
それと同時に確信を得た言葉も耳に留めることとなる。
「その言い方からすると……アンタ、あの後、篠ノ之に何か余計なことを吹き込んだのか?」
いらぬ小言を吹き込んで行動しているというのならば、さすがに黙ってはいられない。そう反論しようとするのだが、キャスターは心底呆れたように、これ見よがしに深い溜め息を吐いていた。
露骨過ぎる態度に士郎は思わず動揺していた。
「な、なんだよ」
「吹き込んだとは人聞きが悪いわね。わたしは、ほんの少しだけ背中を押してあげただけよ。結果、行動に動いたのは紛れもなく彼女の意志よ」
キャスターの返答に対し、いまいち納得できかねない士郎は怪訝のまま問い返していた。
「……ちなみに訊くけれど、よからぬ暗示の類はかけてないよな?」
「なにもしてないわよ」
ムッとした表情になるキャスターに、再度士郎は問い詰める。
「……本当に?」
「……この場で消し炭にされたいのかしら?」
「滅相もございません、麗しい奥さま。なので、その変な光を出してバチバチ鳴ってる腕を下ろしてください」
キャスターの右腕に帯電しかける魔力を指摘し士郎。
彼女もまた本気ではなかったのか素直に腕を下ろしていた。
「あの後それなりに相談にのったのよ。それこそきちんと真面目にね」
そしたらあれよあれよと話し出したわよと彼女は告げる。
「どういう心境の変化だよ」
「…………」
士郎の指摘に対し、鼻持ちならないキャスターは口を『へ』の字に歪めたまま視線を逸らしていた。
「……仕方ないじゃないの……桜さんのように、わたしを『理想の奥さま』みたいな眼で見てるんですもの」
「そりゃアンタが変な見栄張るからだろうが」
「……本当にうるさい坊やだこと」
自業自得じゃないかと洩らす相手を一睨みして彼女。
「それに……こちらを変に尊敬している以上は無碍に出来ないでしょう? ほっぽっておくのも後味が悪かっただけではあるんだけれど……その上で、取り繕った姿を見せたとしても、所詮は紛い物でしかないって話をしただけよ」
「待ってくれ。それってどういう意味だ?」
自分に至らない部分があるのは認めるが、相談に乗ったのは本心であり、紛い物といわれるのは釈然としない。
しかし、キャスターの表情は冷ややかだった。
「セイバーも言ってたわよね? 嘘で固めた姿と、真実のままの姿では、果たしてどちらが正確かしら?」
「…………」
そんなのは答えるまでもない。断然後者である。
だが――
必要な嘘も、中には存在するのではなかろうかと士郎はつい考えてしまっていた。
そんな考えが表情に出ていたのだろう。キャスターはひとつ苦笑を浮かべる。
「そうね。坊やの考えていることも、間違ってはいないわ。でもね」
「でも?」
「それを決めるのは、わたしでも坊やでもないの。本人のみなのよ。篠ノ之箒は、真実の姿を見せることを選んだ。それが、彼女の望んだ答えなのよ」
「それは、まあ、わかってるつもりだけど」
どこか釈然としない答えに士郎はやはり腑に落ちない。いや、頭ではわかっているつもりではあるのだが、納得することに躊躇しているといったところであろう。
割り切るべきところが些か割り切れないのがいかにも士郎らしい。
「大体、坊や如きが他人の色恋沙汰に口出しできると思って?」
「いや……さすがにソレを言われると、ぐうの音もでないけどさ……その、困ってる姿を見るとつい、な」
「…………」
坊やの悪い癖ねとキャスターは溜め息をつく。
「俺のしたことは無駄だったって事かな?」
「半分そうで、半分そうじゃないわね」
「……?」
「話を聴いてた中で、あの子、純粋に喜んでいたわよ。衛宮に相談したことで幾分楽にはなったって。結果としては無意味かもしれないけれど、過程としては十分意味があるわよ。話を聴いてもらえたことで、胸の奥に痞えていたものが外れたんだから」
「……そういうモンかな」
「そういうものよ。そもそも、あの娘はあの娘で坊やに相談したのは妥当と言えるわね。これがランサーだとしたら、あの狗は余計なことを吹き込むわよ」
「確かに。問題が悪化しそうなのが眼に浮かぶよ」
そう洩らすキャスターの言には士郎もまた納得していた。本能のままに動けと、よからぬ事を推し進める姿が容易に想像がつく。
だが、彼女の言及は続いていた。
「ついでに言えば、坊やが相談に乗るのもお勧めしないわよ」
「なんでさ?」
「よく考えてみなさい。あの子の相談に乗るということは、あの子との仲を取り繕うということよ。他の娘はどう思うかしら?」
「……どうって」
「例えば、シャルロットさんや本音さんから同じような相談を持ちかけられたらどうするの? ふたりの仲も取り繕うように振舞うつもり?」
「…………」
その指摘に士郎は言葉もない。
ほら見なさいといわんばかりの表情で、キャスターは呆れていた。
「ひとりだけに協力するというのが問題になってくるのよ。八方美人にでもなるつもり? 坊やは中立であるべきなの。今回の件を機会に、篠ノ之箒も何かあればまた協力してもらえばいいという甘えが出ないとも限らない。そういうことにならないためにも、坊やが肩入れするのは得策じゃなということよ。おわかり?」
「……ああ、言いたいことはわかったよ」
「人には向き不向きがあるの。十全な人間なんてこの世にはいないのよ。全てを丸く治めようというのは、まさに夢物語よ」
「…………」
「保健医――正式に言えば養護教諭ていうのはね、坊や……精神心理的な相談援助、すなわち心理カウンセリングも受け持つものなのよ」
心理カウンセラーの学問的基盤は、臨床心理学が中心的に用いられることを――知識程度の括りではあるが――士郎は知っている。
実生活の問題や悩みに関し、主体的に相対して導くことが目的である。
心身の健康指導、精神衛生。特に精神的な疲労やストレス、悩み等を軽減、緩和、時にはサポートといった生徒のメンタルヘルスが仕事となる。
「受身に回っていても、何も好転はしないものよ。攻める時に攻めないと、変わるものも変わらないわ」
未だ無言のままとなると士郎に一瞥をくれてキャスター。
「坊や、わたしたちから見たらね……人間の一生なんて儚いものなのよ。それに昔から言うじゃないの。『命短し、恋せよ乙女』てね。その上で、勉学に励み、傍ら実生活に悩む生徒の心をケアするのも、わたしの仕事のひとつとなるわけよ」
「…………」
呆気にとられる士郎の顔は、さぞ滑稽なことであろう。
見事なまでの間抜け面に――キャスターは露骨に眉をしかめていた。
「何よ、その顔」
「いや、正直驚いた。アンタ、昨日はなんだかんだと話を脱線してたクセに、ちゃんと相談にのってるんだな。単に趣味だけで養護教諭をやってるワケじゃないんだな。見直したよ」
「なによ、まるで考えなしに動いているみたいな言い方ね」
「…………」
違うのかよ、と思わず喉まで出かけ叫びそうになる言葉をなんとか士郎は飲み込んでいた。
余計なことを言って、眼の前の魔女の機嫌を損ねるのは、経験上、決してよろしくは無い。
「いや、悪い……そうじゃなくてだな、こう言っちゃなんだけれど……アンタの悲劇っていうか、アンタの逸話はこれでも知ってるつもりだ。でも……その、アンタは幸せになる権利があるんだなって今更ながらに思っただけだよ」
「なによソレ?」
話の脈絡がない返答に、キャスターは美貌を歪めるだけ。
士郎は苦笑し、続けていた。
「重ねて悪い。冗談抜きでさ……アンタ、教師になったらいいんじゃないのか? 人を指導するってのは案外お似合いかもしれないし。それこそ葛木先生と一緒に同じ職場で働くってのも、よくよく考えてみれば悪くないと思うんだけれど?」
夫婦で教師ってのも面白いと思うけどな、とつい笑う士郎ではあるのだが――
対するキャスターの表情は真顔だった。それもそのはずに、彼女は耳に捉えた言葉を聴き逃してはいなかった。
一拍の間を置いてから思考が正常に働く彼女は声を荒げる。
「同じ、職場……?」
「んぁ?」
そこで士郎は自身の発言に気付かされる。
「同じ職場? わたしが? 宗一郎さまと? 宗一郎さまと? 宗一郎さまと?」
胸倉を掴み締め上げられるほどの相手に気圧された彼は頷くだけ。
「お、おう」
「本当に、本当にそう思うの坊やっ!? 適当なことヌかしてたらこの場で打ち殺すわよっ!?」
「滅相もございません。ある意味で、公私ともに一緒に居られると思いますが……」
「公私ともに……」
その言葉に――
尖る耳をぴこぴこと動かすキャスターの口元には、満更でもない笑みが浮かんでいた。
「教師……そうよっ! そうだわっ! どうしてそんなことに気がつかなかったのかしら……教師の身であれば、いつでも宗一郎さまの御傍にお仕え出来るじゃないの! 私生活でも職場でも、いつだってあの人の支えになれるわっ!」
「盛り上がってるところ悪いんだけれどさ、いつでもっていうのには語弊があるぞ。教職があるんだから四六時中ってワケには――」
掴んでいたキャスターの指先から解放された士郎のさり気ない指摘に――だがしかし、相手は聴いてなどいなかった。
「普段はお馬鹿でダメダメな坊やでも、本当に、本当に、本っっ当に、たまには役に立つじゃないの」
「……辛辣な御言葉を頂き、恐悦至極でございます。出来ればこちらの話を聴いてくれてるとありがたいんだけれどさ」
「そうと決まればこんなところで油を売ってる場合じゃないわ。わたしの幸せのために、戻る手段を講じないと!」
「あれ? 俺のために元の世界に戻る方法を模索してくれてるんじゃなかったっけ?」
いつの間にかオマケ扱いされていることに嘆息する士郎になど眼もくれず、キャスターは鼻息荒く廊下を駆けて行った。
「まるで一陣の風だな、ありゃ」
現金なヤツだなと彼は今一度吐息を漏らしていた。
「……でもまあ、キャスターのおかげで篠ノ之に迷いが無くなったってことは、確かにイイことなのかもしれないな」
性格に問題ありの魔女でも役には立つじゃないかと呆れながらも、結果オーライとして士郎は自然と口角をゆがめていた。
と――
「あ、居た居た。ねぇ衛宮、ちょっと相談したいことがあるんだけれど、今時間いい?」
「…………」
背後からかけられた声音に――
無言、無表情のまま振り返った士郎は微動だにせず。
しばし静寂の場を包むが、凰鈴音は眼をぱちくりと瞬かせると問いかけていた。
「なにその顔。鳩が機関銃喰らったような表情してるわよ」
「それを言うなら『豆鉄砲を食った』だろ? 機関銃なんて直撃したら原形留めずにミンチで即死だっての」
「似たようなモンでしょ。アンタって、案外細かいこと気にするタイプよね。将来絶対ハゲるわよ?」
「…………」
鳩が豆鉄砲を食ったよう――
意味としては、突然の出来事に驚き、目を丸くしているさまをいう。
(機関銃なんざ、驚く前に蜂の巣にされて大惨事だろうに……)
銃という大まかな部分の括りだけで同一視している相手に士郎は言葉も無い。
「まぁいいさ。で、相談てなんだ?」
「ん? ああそうそう。一夏のことなんだけれど、アンタに折り入って頼みたいことが――て、どうしたの?」
告げられた内容に、思わず士郎は顔を押さえてその場にうずくまっていた。
そんな彼に鈴は怪訝そうな視線を向けている。
(キャスターが言ってたのは、
胸中で自問自答しながらも、幾分か持ち直した士郎は顔を押さえる指の隙間から眼を覗かせ鈴へと向けていた。
「いや、なんでもないよ。それで? 一夏がどうしたって?」
「だから、アンタにちょっと相談したいことがあんのよ。実は――」
今しばらく――
彼は、