I.S.F インフィニット・ストラトス×Fate   作:ボイス

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「んぁ――」

 眼を覚ました士郎は身体を起こすと、周囲に視線を向けていた。

 かけられた毛布。窓から差し込む夕暮れの陽光。どうやら自分は寝ていたのだろう。ソファに横になってうとうとと眠りについていたようだ。

 未だ頭がぼうっとしたまま、はっきりとしない。士郎は寝ぼけ眼で窓の外を見るともなしに見つめていた。

「起きた?」

 かけられた声に振り返ってみれば、そこには楯無の姿があった。

 そこで瞬前まで行っていたことを思い出す。申し訳なさそうに士郎は口を開いていた。

「……悪い、手伝うって言ってたのに寝てて」

「そんなことないわよ。士郎くんが手伝ってくれたおかげで済んだし。なんだか余程疲れてたみたいだしね」

 そこまで口にすると、唇に指を当てて楯無は微笑んでいた。

 士郎自身はあまり覚えていない。結構な数の会計監査を終えて、少しばかりソファに座り休んだつもりだったのだが……

「それに、可愛い寝顔だったわよ?」

「は?」

 意味がわからず、きょとんとする士郎に――いい写真が撮れたと彼女は得意気に、それでいて満足そうに笑うのだった。動画も撮ったと口にしている。

 無言となる士郎に楯無は携帯電話を開き、その動画を見せていた。

 寝起きの鼻腔を甘いコロンの匂いが優しくくすぐる。楯無が身につけた香りだろう。「あ、寝ぐせ見っけ」と言いながら楯無は士郎の髪に触れていた。

 ぼんやりとしながら、いいようにいじられたまま士郎の視線は携帯電話へ向けられている。

 静かな寝息を立てる自分が映っている。聴こえる声音は楯無と本音のものだろう。よくよく聴けば、虚の声も混ざっていた。キャッキャウフフと拾われる音声の中、士郎の頬をぷにぷにとつつき悪戯しているのは虚だった。普段の彼女とは思えないお茶目な一面。動画の中の士郎は顔を顰め身じろぎはするが起きはしなかった。それを見て三人の声が更に拾われている。

 頬や額、鼻など、やりたい放題。弄りたい放題。三者三様、好き勝手に士郎相手に遊んでいる。

 徐々に……意識が鮮明になり、彼の口蓋が開かれていた。

「な――」

「な?」

 士郎の髪を手櫛で梳いていた楯無が思わず訊き返し――

「なにをしてるんだよ――お前はっ!?」

「あら、ちゃんと反応してくれた。おねーさん、ちょーっと寂しかったから、悲しかったわ。ぐすん」

「ぐすん、じゃないっ! 泣いてもいないくせに! それよりも馬ッ鹿、お前――消せっての! 今すぐに!」

 顔を赤めて声を荒げる士郎に、楯無はにっこり微笑み――

「い・や」

 その一言だけを告げていた。

「馬鹿かお前は! もしくは阿呆か? もう一度言うぞ、更識……今すぐ消せっての!」

「あ。やだ頭きた。嫌よ。絶ー対に消さないわ。こーんなに可愛い寝顔……もとい、素敵な動画を消すなんて勿体無さすぎ」

 咄嗟に――携帯電話を取り上げようと手を疾らせる士郎だが、ひらりと身をかわした楯無はひょいひょいと足取り軽く手の届かないところまで逃げていく。そのまま彼女は胸元に携帯電話をしまい込んでいた。取るならばどうぞ、と両手を広げる相手に士郎は苦笑交じりに「なんでさ」と声を漏らしていた。

 今はだめだ、次の機会に何とか奪わないと、と考えながら――不承不承、士郎は寝入って凝った身体をほぐしながら、今一度、改めて室内を見渡していた。

 生徒会室には三人のみ。寝ていた自分、お茶の準備をする虚、楯無のみ。本音の姿は見当たらなかった。士郎が考えていたことがわかったのだろう。椅子に座り楯無は言う。

「本音ちゃんは保健室に行ったわよ。あの子、暇があるとよく保健室に行くのよねー」

「…………」

 それには応えず士郎は無言。いつものことかと認識すると、ソファから立ち上がり楯無の向かいの席に腰を下ろしていた。

 此処最近、昼休みと放課後に士郎が手伝わされたものは会計監査と本音が溜め込んでいた書記事務の手伝いだった。本音の仕事に関しては、最初はふたりで処理していたが、途中から士郎ひとりが一手に請け負いこなしていたのだが。その合間に本音は何をしていたかといえば、士郎お手製のケーキを食べていたりする。

 仕事も、徐々にではあるが本来楯無がこなさねばならないものまで士郎が処理していたりする。おかしな話だ。

 ――と。

 虚の淹れたお茶が差し出される。礼を述べて口をつけようとして――虚がトレイで口元を隠し、こちらにちらちらと視線を向けていた。その頬はどこか紅かった。

「なんだ?」

 気になり声をかける士郎だが、虚は口元を覆ったまま。

「……可愛らしい寝顔でしたよ」

「勘弁してくれよ……」

 気恥ずかしさに士郎は紅茶を口に含んでいた。舌に伝わる熱さに意識を無理やり向けさせる。まさか、虚にまで言われるとは思わなかった。

「ねえ、士郎くん」

「ん?」

 カップから口を離し顔を向ける。視線の先では、楯無も同じように紅茶を口につけていた。

「あのね、先にお願いしておきたいことがあって。学園祭で、生徒会主催の演目があるんだけれど、その裏方のお手伝いをお願いできない?」

「学園祭の?」

「ええ」

 士郎たちは二学期から転入したことになってはいるが、今年の一学期のイベントは色々と中止になっていると聴く。詳しい話までは聴いてはいない。予定が多少ずれてはいるが、このまま何事もなければ来月には学園祭が行われるらしいとの話は耳にしていた。確か、その次の月にはキャノンボールファストという競技イベントもあるという。

 それらを思い出しながら士郎はカップを手に持ち訊ねていた。

「演目は?」

「それはまだ秘密。ただ、とーっても楽しいものにするから」

「……なんだそりゃ?」

 正直、眼の前の少女の性格上、生徒会が関わっているとなれば、まともではないような気がしてならなかった。面白おかしく周囲を引っ掻き回すのが彼女の得意分野だ。

 不安を覚えはするが、今更ながら此処まで来ている以上、特に問題はないだろうと適当に腹を括り、士郎は素直に頷いていた。

「わかった。いいよ、俺でよければ手伝うよ」

「ありがと」

「クラスの方の手伝いも頼まれたら掛け持ちするから、そこは許してくれ」

「大丈夫。生徒会だけって束縛はしないから。約束するわ」

「わかった」

 そこまで言い終え、会話がなくなる。

 互いにお茶をすするだけ。虚は直立したまま楯無の後ろに控えている。

 楯無も手持ち無沙汰なのか、扇子を掌で意味もなく弄っている。

 無駄に時間が過ぎる中、沈黙を破るように楯無の口が動いていた。

「……士郎くん」

「なんだ?」

「あのね、前から聴こうと思ってたんだけれど、ピットでのセシリアちゃんと会話してた時のことなんだけれど」

「――――」

 それを聴き、一瞬言葉を失った士郎は楯無へ視線を向けていた。

 相手の雰囲気が変わったことに気づいた楯無も真っ直ぐに見つめる視線を受け入れている。その顔には、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべながら。

「……あの話を聴いてたのか? どこから?」

「割と最初から……うん、ごめんね。悪いとは思ってたんだけれど、聴くともなしに聴いてたの。邪魔しちゃ悪いかなと思って」

 声をかけられなかったと彼女は言う。

「…………」

「その上で、わたしからも訊きたいんだけれど、どうして士郎くんは、絶対防御のことを否定するの?」

 その言葉はある意味衝撃的だった。

 やはり絶対防御という存在が当たり前のように受け入れられている。それはこの世界では当然であるのだろうが、しかしながら士郎にしてみれば違和感を覚えるものでしかない。

「絶対防御がある限り、人が死ぬなんてことはありえないのよ? それは士郎くんもわかるでしょう?」

 楯無の何気なく呟かれた言葉に、士郎の顔は思わず強張っていた。

 眼の前の少女もまた当たり前のように受け入れている。心のどこかでは、楯無は違うと捉えてくれると思っていなかったわけではない。

 士郎の眼は真剣なもの。その双眸で彼は楯無へ問いかけていた。

「……更識、お前は不安にはならないのか?」

「不安て、だからISには絶対防御が備わっているのよ? あくまでもIS装着者が死ぬことはないし。なによりも、実際今までそんな事故も報告も挙がってないんだから。なんにも心配はないのよ」

「…………」

 違う、そうじゃない――

 思わず士郎は叫びかけるが、何とか理性が動き言葉を呑み込んでいた。代わりに掌に爪が食い込むほど拳を握り締めていた。

 あまりにも価値観の違いに彼は言葉がなかった。

 そうまでしてISを信頼できるのかが士郎には理解できない。何事もなく受け入れているその姿は呆れさえも覚えるほどに。

「士郎くんて、おかしなことを気にするのね。ちょっと神経質になりすぎよ? ま、わたしは嫌いじゃないけれど。ISに触れてる時間が少ないから不安になる気持ちはわからないでもないわ」

 気楽に笑う彼女の声に対し、士郎は無言のまま。セシリアの時と同じように、楯無からも違和感を感じる。この世界の人間とはズレがある。

 別の世界から来た自分がおかしいと感じるように、この世界の人間にとっては、それが当たり前であり常識となる。

 自身の正義感を振りかざしたとしても、さすがにこれはどうすることも出来ない。士郎は諦めに近い息を吐くことしか出来なかった。

 だが逆に、士郎にとって見ればISの異常さを改めて実感するだけでしかないのだが。

 さすがに士郎の顔色が悪くなっていることに楯無は気がついていた。思わず椅子から立ち上がりかける。

「大丈夫? 顔色がよくないけれど……」

「いや、気にしないでくれ。ちょっと色々考えてたことがあってな」

 左手で制しながら、士郎は空いたもう片方の手で額を添えていた。

 絶対防御とは、操縦者が死なないように全てのISに備わっている能力である。容と言えど、名目上では自分の専用機となったIS『アーチャー』にも無論備わっている。

 だが、ISの絶対防御も完璧ではない。シールドエネルギーを突破する攻撃力であれば、本体にダメージを貫通させることができる。

 そこが大きく矛盾する。人命に危険が及ぶことになぜ誰もおかしいと思わないのだろうか、と。片やその危険性を持つことに関して、なぜ気付かずに過信しているのだろうか。

「…………」

 例えその事を論じたとしても、また関係がおかしくなるのは眼に見えている。歯痒いものを感じながらも、士郎はなにも口にはしなかった。

 そんな彼を見て――楯無は唐突に口を開いていた。

「ねぇ士郎くん、おねーさんとISで勝負しない?」

「……は?」

「おねーさんは強いわよ?」

 楯無の提案に、士郎は眉を寄せるだけだった。

 意図が理解できない。

(いきなり何を言っているんだ、コイツは……)

 話が読めない士郎にとって、突然告げてくる彼女の誘いに乗る意味など特にない。

 だが、楯無にしてみれば、どこか悲しそうな顔をした士郎など見たくはなかったため。ついでに言えば、実際に士郎の実力を自分の眼で確かめたいもの。見定めてみたかった。

「悩んでいても、何も解決しないものよ。そーいう時は、身体を動かすことに限るものなの」

「おい……」

 言うや否や、行動は迅速に。楯無は士郎の腕を掴み無理やり立たせていた。

「お、おい――は、離せっての!」

 一瞬、煩わしそうに腕を振りほどこうとしたが、それは叶わなかった。ついで、楯無の両手が士郎の頬にそっと触れていた。

 恥ずかしさに顔を背けようとする士郎だが、楯無は逃がさない。

 両の掌に瞬時に熱が伝わるのがわかる。照れちゃって可愛いわね、と胸中で呟きながら――しかし表情は真面目なもの。そのまま彼女はじっと相手の眼を見つめ、語りかけるように言葉を紡ぐ。

「わたしはね士郎くん、あなたが何を考えて悩んでいるのかはわからない。わたしはあなたじゃないから。でもね、話を聴くことはできるわよ?」

「…………」

「それとも、こんなわたしは信用できない? 何を考えているかわからない女には」

「……そういうわけじゃないけれど」

 士郎はこちらを見ようとはせずに視線を泳がせたまま。流石に悪戯が過ぎるかと判断した楯無は、ちろと舌を出していた。

「ま、それはそれとして、うじうじと悩む士郎くんに、仕方なく、おねーさんが協力してあげましょう。一暴れでもすれば悩みなんて吹っ飛ぶものよ」

 ぱっと両手を離すと、そのまま士郎の腕を掴んでいた。

「その前に、ご飯食べましょ。その後アリーナね。ハーイ、決まりー」

「おい、だから勝手に決めるなっての」

 一方的に話を進め、腕を組んでくる楯無に士郎は困惑するしかない。相手の自由奔放なペースに呑まれている。

 助けを求めるように士郎の視線は周囲を彷徨い……虚へ向けられる。

 士郎の心情を察したのか、虚の口が開かれ――

「可愛らしい寝顔でしたよ」

「いや、それはもういいから」

 赤面のまま――諦めたように、士郎は気恥ずかしさを誤魔化すように溜め息をついていた。

 

 

 書類整理を終え、一息ついた千冬は隣の真耶へ声をかけていた。

「山田先生、あなたから見て最近の衛宮をどう思う?」

「……どう、とは?」

 突然振られた話の意味を理解しかねた真耶は顔を向けて、思わず訊き返していた。

 千冬はノートPCディスプレイに表示されているここ最近の衛宮士郎のデータを見入っていた。打鉄やラファール・リヴァイヴと比べて、専用機として与えられたIS『アーチャー』での戦績はめまぐるしいものがある。基本スペックは第二世代型のラファール・リヴァイヴを士郎用にカスタマイズした程度でのもの。にもかかわらず、こうまで勝率に著しく変化が現れるとは、正直千冬自身は思っていなかった。

 機動性を最大限界まで高めた機体を駆り、倉持技研に無理を通させ造らせたという、近接武装の双剣『干将・莫耶』と中距離遠距離用の黒弓『フェイルノート』の二種を手にする士郎はある意味異様だった。

 明らかに場慣れした双剣の腕、一撃必殺を狙うとも呼べる見事な弓の腕前。特に射に関しては千冬は言葉がないほどに。

 先日の鈴との模擬戦を思い出しながら、千冬の表情は自然と険しいものになっていた。

「最近の衛宮のIS技術に関してだ」

「……確かに、衛宮君のISに関する技術力は向上していると思います。専用機を手に入れてからの彼はそれまでの戦い方と大きく違いますけれど……でも、織斑先生、それはひとえに成長しているからではないでしょうか? 極端に言えば、なにか問題がありますか?」

 真耶が指摘するのは士郎の性格を踏まえてのもの。士郎の能力に眼を見張るものがあるが、だからと言って必要以上に力を誇示して暴れているわけでもない。素直で気が利くいい子な彼、という認識が真耶の持つ衛宮士郎に対するイメージだ。

 だが、僅かに千冬は頭を振っていた。

「いやな、このまま野放しにしていて果たしていいものなのかと思ってな」

 それを聴き、真耶の表情に陰りが浮かぶ。まさか、と前置きし彼女は眉を寄せていた。

「織斑先生、衛宮くんを拘束するというワケではありませんよね?」

「……どうかな。最近考えることがある。衛宮の技術力は危険視するものがあると思えてならない。尤も、衛宮だけに留まらないがな。セイバーとランサーのふたりは脅威だ」

 胸中では、葛木が尤も警戒するべき相手ではあるがなと呟きながら。

「…………」

 じっと見入る真耶の視線に苦笑を浮かべながら、千冬は「すまんな」と一言漏らす。

「拘束と言っても、変に勘繰るな。わたしの言葉が足らなかったな。ちゃんとしたところで保護された方がいいのかと思ってな」

 そう言いはするのだが、千冬自身でも保護できる場所が思いつくわけでもない。

 少なからず、ここにいるよりまだマシな方なのでは、と考えてのことだった。

「……織斑先生、織斑先生は衛宮くんの味方ですか?」

「真耶?」

 いつになく真剣な表情、真面目な声音で呟く相手に千冬は思わず名前を口にしていた。

「織斑先生、私は、衛宮くんの味方です。彼が元の世界に帰れる手伝いができるのならば、わたしは協力を惜しみません。だから、敢えて言わせていただきます」

 じっと千冬の眼を見据え、だが真耶の双眸には確かな意志が宿っている。

 普段のおどおどした態度は消え、自身の思いを告げていた。

「織斑先生が衛宮くんに危害を加えるのなら、わたしは黙っていることはできません。彼が悪い子にはどうしても思えません」

「…………」

 千冬は無言。だが、そうだなと小さく呟いていた。

「わたしとて、衛宮の味方でいたいと思う。だがな、真耶……万が一ということも考えて置け。悪い奴でないのはわかってはいるつもりだが、衛宮たちに関しては完全な信用も信頼も出来ていない。それは向こうも同じことだろう」

 その言葉に、一瞬ではあるが真耶は眼を伏せていた。

「……そうでしょうか? 衛宮くんは、逆にこんなわたしたちを……うぬぼれかもしれませんけれど、信用も信頼もしてくれているんじゃないでしょうか? わたしは信じます。此方を信じてもらうためにも、わたしは衛宮くんを信じます。そうでもしないと、何も変わりません。お互いがわかり合うのって、そんなに難しいことですか? 対話をすれば、わだかまりなんてなくなると思います」

「…………」

 真耶が口にした言葉は綺麗過ぎる理想論でしかない。しかし、否定できる反面、否定できない反面もある。

 彼女の言い分に一理なくはないのだから。

 千冬とは違い、他者へ猜疑心を持たずに接する真耶は甘く、それでいて眩しいものがある。

「『疑心、暗鬼を生ず』か……」

「はい。疑ってかかってしまうと、なんでもないことでも疑わしく思ってしまいます。此方から信じてあげないと、彼も不安になります」

「強いなお前は……時折、お前が羨ましく思うよ」

 言って、千冬はカップを手に取るとコーヒーの準備をしていた。

 

 

「――と言うわけで、第三アリーナの使用申請に来ましたー」

 職員室に現れるなり、開口一番、一方的に気楽な声音でそう告げる楯無に千冬と真耶は言葉を失っていた。

 千冬はコーヒーを口につけようとして、真耶はチョコレート菓子を口に入れようとして。休憩中の教師ふたりは呆れた視線を向けるだけ。

 だが楯無は一向に気にせぬまま。その後ろに立つ士郎は居心地悪そうに表情に困惑の色を浮かべていた。

「なにが『と言うわけ』だ。こんな時間に、お前は何を言っているんだ?」

 しばし無言だった千冬は疲れたように呟きマグカップを机上へと置いていた。千冬が言うように、時刻は午後の8時を回っている。

 だが――やはり楯無は気にしていない。

「こんな時間だからこそです。アリーナ使用の許可を頂きに来ました」

「却下だ。馬鹿者」

 面倒くさい、帰れ、明日にしろ、とまるで野良犬でも払うかのように千冬は手で追い返す。

 と――

 普段であれば、あれこれと言葉を並べて問答してくるはずの楯無が、あろうことか「わかりました」と応えただけであっさりと引き下がっていた。

 これに対して千冬は眉を寄せていた。あまりにも相手が素直過ぎる。故に、危機感を覚えるのは必然か。

「待て更識……お前、何を企んでいる?」

「あらら、企むだなんて人聴きの悪いこと仰らないでください、織斑先生……断られたら大人しく引き下がるだけじゃないですか。それじゃ失礼しますね」

 言って、笑みを浮かべて楯無は士郎を連れて踵を返す。

 だが、本心を言えば、楯無はハナから許可など貰う気はない。断られるなど百も承知。形だけでも伝えに来ただけでしかない。

 ならばどうするつもりか――

 答えは至極簡単である。彼女が有する生徒会長特権を強制行使し、思う存分好き勝手に振舞うだけ。もはや規律も規定もあったものではない。まさに、己が望むままに如何様にも突き進むのみ。

 相手の性格上、容易に後の行動が手に取るようにわかったのだろう。額に手を当てた千冬は嘆息するしかない。

「……待て。私と山田先生が立ち会う。それで納得しろ。勝手なことはするな」

 それを聴き――

「見事な交渉だったでしょ?」

「なんでさ。お前の性格見越して、呆れてるだけだぞ」

 楯無は士郎に満面の笑みを浮かべVサインを見せている。しかし、士郎はすぐさま顔を逸らすと、千冬と真耶に対してすみませんと頭を下げていた。


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