《ヒカル》
今が何時なのか、朝なのか昼なのかさえ分からない。
深く重く、長い睡眠から引きずり起こされたような不思議な感覚に、ヒカルは眉を顰めた。
「…………」
椅子、漫画が散乱した学習机、壁に張られた昔好きだったアニメのポスター、小学校に入った頃ぐらいに父親に買って貰った図鑑が並んだ本棚。
見覚えのある光景。記憶の底に、それこそ“彼”と過ごした月日を思い返すくらい昔の景色。
「……って、オレの部屋ぁっ!?」
ヒカルの意識が一気に覚醒する。
慌てて飛び起きたヒカルは、部屋の隅々まで見回し、そしてベッドの上で胡坐を掻いて、己の手足が縮んでいることに気付く。長年碁石を指してきたことによって出来たタコのない、子供らしいぷにぷにとした弾力のある掌。顔を触れば手に吸い付いてくるようなもっちりとした感触。部屋の片隅に置かれた鏡に映った自分は、紛れもなく“彼”と出会った頃の自分の姿だった。
洋服箪笥を開けると昔懐かしい黄色のパーカーと黒のハーフパンツというお決まりのものが出てきた。
ヒカルは今の自分は小学生と暗示をかけるようにして服を着込み、1階に降りた。
様子のおかしいヒカルの姿を見て、体調の心配をしてくる若い姿の母親の顔を見ながら朝ごはんを食べ、ヒカルは近所に住む祖父の家を訪れていた。自分が出かけるのに気付いた家の隣に住む幼馴染と一緒に。
【藤崎あかり】
自分と同い年の幼馴染。
“彼”と出会ったあの日も一緒にいた女の子。
何よりヒカル自身が好きだった女性。
“彼”と出会わない人生を送っていれば、何らかの進展があったとヒカル自身は思っている。前の世界においては、恋人のような関係になるわけでもなく、ただただ幼馴染というだけで終わってしまったが故に、『私たち結婚します』という結婚式への招待状が届いた時は大事なタイトルの対局をすっぽかすという大惨事を招いてしまった。
近況報告の葉書きが来るたびにへこんで、対局を休むということが……。
「(落ち着け、俺。今のあかりは完全にフリーな状態だ。前の世界では囲碁一辺倒で、あかりのことを二の次にしていたから、あんなことになったんだ。今のうちからポイントを稼いでいればきっと……)」
ヒカルは自分の後ろについてくるあかりの顔を覗き見ては、前の世界でのような失敗はしないと心に刻み込む。
「さっきから私の顔を見て、どうしたの?ヒカル」
「えっ!?いや、あの、その、今日のあかりは何か可愛いなぁって……どうした?」
ヒカルの突然の褒め言葉を聞いたあかりはその場に立ち止まり、空を見上げた。何かを探すような仕草をする彼女の姿を見たヒカルは首を傾げて尋ねた。
「空に何かあるのか?」
「ヒカルが私のことを褒めるなんてありえない。雹でも降ってくるんじゃないかなって」
それがあの頃のあかりから自分への評価だと分かっていても、ヒカルは凹まずにはいれなかった。
祖父の家に上がりこんだヒカルは、歓迎してくれた祖母に蔵に入っていいかを尋ねて了承を得た。
あかりを連れて蔵に行くための階段に向かおうとしたが、居間で新聞と睨めっこをしていた祖父を見つけて足を止めた。祖父は自分の前に置いた碁盤を見ながら、下唇を噛み締めて長考している。昔は何をしているのか分からず、触らぬ神に祟りなしと云わんばかりに無視していたけど、棋士としての血が騒ぎ、あかりを蔵に先に行かせて自分は祖父の右隣に座り、盤上を見やる。
祖父はヒカルが隣に座ったことにも気付かないくらいに集中しているようだった。それにならって盤上の流れを見て、ヒカルは自然と次の一手を口に出していた。
「8の10、ツケ」
「…………」
パチッ。
祖父はヒカルが口に出した場所に碁石を打ち、盤上を眺め、己の右隣に座る孫の顔を見て、もう一度盤上を見た。指先で打った場所を確認し、盤上の変化を理解した祖父はヒカルの顔をじぃっと見つめ。
「ヒカル、囲碁がわかるのか?」
「ちょっとだけね」
ヒカルが右手の親指を立てながらサムズアップするのを見て、祖父である平八の顔が見る見る内に笑顔になっていく。
「そうかそうか。ついにヒカルも囲碁の良さが分かるようになったか!それにしても、先ほどの一手は中々、いや最善の一手だろう。じいちゃんも思いつかなかったぞ」
「ははは。流れ的にはあそこしかないかなーと思ってさ」
「ヒカルにはプロになる素質があるかもしれんな!!」
上機嫌になった祖父は、祖母の名前を連呼しながら台所の方へ向かった。
祖母の呆れた感じの声と、何故この気持ちを分かってくれないのかというジレンマを感じさせるような祖父の声の応酬に耳を傾けながら、ヒカルが盤上を眺めていたその時、それは起こった。
『ガタガタガタンッ』
上の階で何かが崩れ落ちる音と何かが落下するような音が家の中に響き渡る。
なんじゃ、なんじゃと台所から顔を出した祖父母、天井を見上げて固まるヒカル。足りないのは……蔵へ先に行かせたあかりの姿のみ。
「っっ!?あかりっ!!」
碁盤を蹴飛ばして立ち上がったヒカルは大急ぎで蔵に向かう。ドタドタと音を立てて階段を駆け上がり、蔵の床で仰向けのまま倒れた状態のあかりを見つけると、すぐさま駆け寄り心臓の音と呼吸を確かめる。
「じーちゃん、あかりが気を失ってる!頭を打ったのかもしれないから、早く救急車を呼んでっ!!」
祖父から連絡を受け駆けつけた救急車によってあかりが運ばれるまで、ヒカルは彼女の側から離れることはなかった。
その後、あかりは念のために入院することになり、ヒカルはあかりの両親に母親と一緒になって頭を下げた。軽い脳震盪だけで済んだから、大丈夫だと彼女の両親は慰めたが、ヒカルの心中は穏やかではいられない。自分が碁に集中し、あかりを二の次にしてしまったから、こうなってしまったのだ。自分を責め立てていた。
病院から家に帰ったヒカルだったが、“彼”ことが気になり、祖父母にあかりの状態を伝えてくると家を出た。
祖父母に簡単にあかりの状態を説明したヒカルは、その足で蔵に向かった。
蔵の片隅に置かれた碁盤は、血の跡も埃も被っていない綺麗な姿だった……。
翌日、あかりが目を覚ましたという話を聞き、大急ぎで彼女の下に向かったヒカルの前にあかりの母親が立ちふさがった。
あかりが入院する原因となった自分を彼女に会わせる訳にはいかないということか、と絶望に打ちひしがれその場に崩れ落ちたヒカルを見て、ぎょっとするあかりの母親。
「ヒ、ヒカルくん!?ち、違うの、ちょっと小母さんの話を聞いて。……え?当然のことですよね…って何が?ちょっと待って違うの違うから、そんな死んだ魚のような目はやめてぇええええ~~~」
要約すると
1.『あかりの意識が戻った』
2.『あかりが意味不明なことを言っている』
3.『両親や病院の先生に否定されたあかりが誰にも会いたくないと拒絶している』
とのこと。
「ちなみにあかりは何を言ったんですか?」
「えっとね、『私の隣に烏帽子を被った女の人のような男の人が立っている』だったかな……ヒカルくん、大丈夫?」
あかりの母親の言葉に、先ほどとは別の意味でヒカルは崩れ落ちた。
内心ではあかりの無事が分かって良かったとほっとした反面、“彼”が取り憑いてしまったことによって被る受難を彼女に背負わせることになったことへの後ろめたささがある。あの時、自分も一緒に行けば状況はまた違ったのかもしれないが、すでに後の祭りだ。
優しい彼女のことだから、囲碁をやりたいと願う“彼”に頼まれれば断れないことは目に見えている。かといって、そのまま放っておくと、あかりがあかりでなくなってしまう可能性もある。
「大丈夫ですよ、小母さん。俺がちゃんと受け止めますから」
「え……。ヒカルくん、なんだか大人ぽくなった?」
「じゃ、お邪魔します」
ヒカルはそう告げて、あかりのいる病室の中に入っていった。
《あかり》
目を開けると見慣れない天井が見えた。
どうして自分はこんなところで寝ているんだろうと頭の方へ手をやると包帯が巻かれていた。
慣れない包帯の感触に首を傾げつつ、部屋の中を見渡すと置かれているテレビを珍しそうに触る烏帽子を被った綺麗な顔立ちをした人がいることに気付く。私は身体を起こして、その人の行動をじっと見つめる。
テレビ、リモコン、カレンダー、水槽。
何のことは無いものに目を輝かせ、嬉々として動き回るその人物を見て、可愛らしい人だなと思った私は自然と笑みを溢していた。私が起きたことに気付いたその人は身なりをきちんと整えつつ、振り向き様にこんなことを問うてきた。
――私の声が聞こえますか?
「その声、ヒカルのおじいちゃんの家の蔵で聞こえた」
――よかった。聞こえていたんですね。
「誰なの、あなた?」
――私は……
私は昨日、学校のテストの点数がひどくてお小遣いがカットされたヒカルの後を付いていった、ヒカルのおじいちゃんの家の蔵で不思議な体験をした。なんと蔵にあった古い碁盤に取り憑いていた幽霊さんの声を聞いてしまったの。
その時は動転しバランスを崩して転んだ拍子に頭をぶつけて入院ってことになってしまったんだけど。
どうやら、この幽霊さんは私にしか見えないらしい。
おかげで病院の先生やお父さんやお母さんから変な目で見られてしまった。これ以上の視線に耐えられなくて誰にも会いたくないと大きな声で叫んで布団を頭まですっぽりと被ってしまったのは30分前。ちょっと冷静になって考えると、私の方が異常なんだってことはすぐに分かった。
布団から顔を出さない私を心配してか、幽霊さんは声を掛けてくる。
――私の所為で申し訳ありません。私はただ……
「……囲碁がしたいんでしょ。でも、私、ルールもなにも知らないよ」
――私が教えますよ。
と、いやにイイ笑顔を浮かべる幽霊さんの顔が思い浮かぶ。
「でも……『カチャ』」
その時、扉が開く音がした。たぶん誰かが入ってきたんだと思って、私はすぐに口を閉じる。
――誰だれ?お医者さん、それともお母さん?
――いえ、黄色い衣服を着た少年ですよ。今、貴女の枕元まで歩いて来て…しゃがみ込んで……これは土下座ですか?これほど見事なものは見た事がありません。
私が布団を跳ね飛ばすと幽霊さんが言ったように、ヒカルが床で私に向かって土下座をしていた。
「ヒカル、どうして…」
「だって、あかりが入院することになったのは俺の所為だろ。だから、ごめん!!」
「い、いいよ。蔵で転んだのは私の不注意だったんだもん」
「でも、小母さんはあかりが何か見えるようになったって」
「あ、ああ。うん、ヒカルの後ろに立っているよ」
「烏帽子を被った男女の幽霊?」
「うん」
――私はれっきとした男なんですけどー
「男なんだって」
「へー。名前は?」
「……。ヒカルは変だと思わないの?私が言っている事がでたらめだって思わないの?」
「んーと。まず、俺自身が幽霊とか妖怪とかいると思っているのがひとつ。あと、あかりが嘘は言わないって、俺は知っているから、お前がいるって言うのならいるんだろ、ここにさ」
親指を後ろに向けて笑うヒカルの言葉に私は救われた気がした。
誰にも相談できないまま、幽霊さんと付き合っていかないといけないのかと思っていたから。
「ぐすっ……。ありがと、ヒカル」
「な、泣くなよ。あかり、ほら」
そう言ってヒカルは私に向かってハンカチを差し出した。
使えってことなのだろうか。ヒカルは照れているのか、顔を背けてしまって表情は窺えないけど、幽霊さんはそんな私たちを見て微笑んでいる。
ヒカルが側にいてくれるのなら、私は幽霊さんとも何とかやっていける。そんな気がした。
おまけ
背を向けていたヒカルが窓の外を凝視している。
どうしたんだろうと見てみると、窓に何かコツコツと当たっている。
あれって、まさか……。
「げっ、本当に雹が降ってきたし」
「冗談のつもりだったんだけどねー」
――いやいや仲睦まじい男女ですね。