黄色い背嚢を背負って外に出る。頬を打つ風は温く、心地よさとは無縁だ。
桜は道の脇に立ち、背嚢から地図を取り出す。
昼食を摂る予定の店は宿舎であるホテルの中にある。
徒歩一〇分ほどの距離にあり、一本道の先の高台にあった。枝葉がガードレールを包み込むように生い茂り、その下を通る水路から陽射しが細やかに跳ね返っている。
視線できらめきを追いかけていく。そして、地図を読み返し、遠くを見やる。雑談を交わす生徒たちの背中の向こうに海岸の広がりがあった。
「あっ」
陽射しのなかに空色の影が舞った。震える空を凝視すると、なめらかな流線型の機影が五条の軌跡を描きながら突き進んでくる。
航空自衛隊の
遠く、
海へと目を落としたとき、桜の瞳に岩場らしきものが映った。
左手首を返す。かろうじて行って帰ってくるだけの時間ならある。好奇心が抑えきれず、桜は道を引き返していった。
途中、木陰に座ったラウラが角張った大きなカバンをまさぐっている。声を掛けようとしたが、横でしきりに話しかけている少女が
それからすぐに海岸と集会所への分岐路にたどり着く。一度足を止め、地図へと目を落とす。紙の縁が汗でしわになっていた。
「…………サクサク?」
背後の声に驚いて、あわてて地図をたたむ。キョロキョロと左右を見回し、背を丸め、ゆっくりと後ろを振り返った。
「…………本音?」
ほっと胸をなで下ろす。誰何した人物が教師たちであったなら……と冷や汗をかいた。
深く息を吸いこみ、桜は言葉を継ぐ。
「本音はどっちになったん? ラン? バイク?」
「足で走るほうだよ~~」
本音は視線を保持したまま堤防の影に入る。制服を袖を追って手首を露わにした。やはり蒸れて暑いのだろう。
桜も影のなかに移動し、地図を背嚢にしまった。
顔を上げて本音に思いつきを告げた。
「せやったら、一緒に走らん?」
本音が何度も目を瞬かせた。困ったように頬をかいている。
桜は一歩踏み出し、顔を近づけてささやく。
「あかんの?」
「……いい」
本音は少しうつむき加減になってから答えた。
――やった!
桜はうれしさのあまり、本音の露わになった手を握りしめる。本音の汗ばんだ頬が幾ばくか赤らんでいて、照れているように思えた。
「……でも、サクサク。中学のときは陸上やってたんだよね」
「せや。これでも一応、県大会までは行っとる」
「だったらペース合わないかも……」
本音の言葉を謙遜として捉えた。彼女と一緒に寝起きするようになってから感じていたことだが、布仏本音という少女は、実は運動能力がとても高い。IS学園に入学し、学年別トーナメントでは俊敏かつ、よく訓練された動きを披露したのだ。
「先生が余力を持っておけ、と言っとった。初めてのコースや。無理なペースでは走れん。それに……」
桜は嬉しげに口の端をつりあげた。唇の隙間から白い歯がのぞく。
「本音と一緒がええ。私の一番やわ」
本音はゆっくり、それでいて控えめにうなずいた。
「……サクサク。その……」
本音が消え入りそうな声を漏らす。彼女の視線は桜の肩越しへと向けられている。気になって目で追うと、数人の姿があった。
更識簪。ナタリア・ピウスツキ。マリア・サイトー。ラウラ・ボーデヴィッヒら。
簪は目の端を細かく痙攣させ、湧き起こる感情を必死に抑え込んでいる。ナタリアとマリアはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
ラウラだけが無表情のまま、胸の高さに手を上げた。携帯端末をにぎりしめていて、側面にあるボタンを押す。
『ザザッ――――……本音と一緒がええ……――――ザザッ』
もう一度ボタンを押す。同じ言葉が流れた。
「うわわわっ!!?」と本音。
「何で録ってるんっ!!!」
ラウラはポケットがたくさんついた、黒い薄手のジャケットを身に着けている。胸ポケットに携帯端末を差しこみ、リアカメラを稼働させたまま1ミリも表情を変えることなく近づいてきた。
「記録係だから撮影するのは当たり前だ」
「ほとんど隠し撮りやん……」
「日本の四字熟語にこういうことばがある。常在戦場、いつも戦場にいる気持ちで事にあたることこそ大切である、と」
携帯端末を弄りながら、ラウラは何でもないような口ぶりで告げる。先ほど撮った映像を臨海学校特設ネットワークにアップロードする。落ちついた仕草で撮影アプリを閉じ、携帯端末をポケットに差し込んだ。
「……さ、こっちに……」
桜が目を伏せたすきに、簪が本音の手を引いて身体を離させていた。
「ほらほら、メシば食べに行こー」
ナタリアが大声をあげる。桜は時計に目を落とし、岩場まで行く時間が少ないことに気づいた。しばらく堤防を見つめ、再び急かされて昼食に向かうことにした。
▼
配膳を見て、桜はぽかんと口を開けた。胸に手を置き、深く息を吸う。
天井側の棚に古びたブラウン管テレビが乗っていた。テレビの隣にこれまた古いトランジスタラジオが掛かっている。どこかで聞いたような懐メロが流れていた。
「えっ……こんなん?」
再び視線を下げても現実に変化はない。皿に盛られた大豆食品や乳製品のほかに、魚介類はないかと探しても見当たらなかった。
早めの昼ご飯であり、スタートまでにゆっくりと血糖値を上げればよい。
しかし、人生における大きな楽しみを奪われたような気持ちになる。同時に、先ほど、本音と交わした約束を思い出す。次姉の奈津子が口酸っぱく注意する姿が目に浮かんだ。
理性と食欲を天秤にかける。
目を瞑っていると、思考を遮るかのように、舌っ足らずな英語が流れてきた。
『ジェシイ・ジョーンズのお天気こーなー!!
今日はワイキキスタジオからの中継でお送りしますっ!
みなさーん、朝から暑いですね! 窓の外を見てください。ハワイらしい抜けるような青空が広がってます!
手許の温度計は、なななんと
小笠原諸島の天気情報ではなく、ハワイやその周辺地域の天気予報だった。
予報の合間にスポンサーの宣伝や番組予告が流れる。パーソナリティは予報よりも宣伝を口にする時間のほうが長かった。
『では、ちょっとここで宣伝! え? 宣伝ばっかだって? 今日はいつもより少なめですよー!
さァて、ディレクターの目がつり上がったところで、続きいきましょー!
私ことジェシイ・ジョーンズ主演の映画【
アクションたっぷりの
もう、みんな前情報で知ってると思うけど、私のアクションシーンは、なんと! ぜぜぜーんぶ!
ライバル役はミス・ハリウッドこと
不意の刺激で天秤が安定する。理性側に傾いたところで携帯端末の振動だと気づく。片手で操作して内容を確かめ、差出人のドメイン名末尾には「ghi.co.us」と記されていた。
『新しい
パーソナリティが短縮URLを口にする。
――え?
スクロールさせていた指が止まる。二つの目をパチリと瞬かせ、パーソナリティが口にした文字列とメールに記されたURLを照合する。上から下から確かめても結果は一緒だ。
『みんなー! アクセスしてねー!!』
メールには続きがあった。
写真が添付されていて、姉妹と思しき、よく似たふたりの女性が写っている。ビキニアーマーによってより強調された、腰のくびれ。巨乳で金髪。
うっかりリンクを押してしまいそうだ。
「……………………えっちなやつだー」
「佐倉さんがえっちな写真みてるー」
「……ちゃ、ちゃうッ……」
クラスメイトの声にぎょっとした。携帯端末を置いてあわてて手を振ると、隣の席にいた一条朱音が前のめりになってのぞきこんできた。爽やかなシトラスの香り。前髪の奥の瞳は、半ば細まっている。
「ナターシャ・ファイルスだねー」と朱音。「年下のほうはジェシイ・ジョーンズだねー。女優さんはスタイルいいなー」
あまりにタイミングが良すぎる。なりふり構わずラジオの番宣を狙ったとしか思えなかった。
カメラ班の生徒たちが桜の後ろを通り過ぎていく。やはりというか、ラウラの装備が一際目立っている。黒いジャケットにはウェアラブルカメラが増設され、照明が差し込むたびにレンズが煌めいた。
「食べよっかー。えっちな写真はしまってねー」
「せやからぁ誤解――」
朱音が自席に座り直した。
前を向き、合掌。同じテーブルについていた生徒も仕草をまねる。
「いただきまーす!」
桜は汁椀をすすり、出汁の利き具合に舌鼓を打った。
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