IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

7 / 82
中学三年生(四) 迷子

 校長先生の挨拶が終わってIS学園の教育方針についての説明が、担当の職員によって行われる中にあって、顔を青ざめさせて脂汗を流しながら幾分前のめりになってお腹を押さえていた。

 

「ふ、ふううう……」

 

 荒く呼吸しながらかれこれ一〇分ほど耐え忍んでみたが、痛みが引く様子はなくむしろ(ひど)くなっていた。

 思い当たる原因として、昨日ディナーブッフェを周囲の客が引くほど食べたことや、朝食のお弁当を大量に食べたことが考えられる。いずれにしろ休憩時間に至るよりも早く限界を超えることが予想された。

 ――腹が痛い。お腹が痛い。安芸ねえ助けて!

 桜は顔をしかめるばかりで檀上の声が耳に入らなくなっていて、しきりに身じろぎする様子に気付いた安芸は心配そうに声をかける。

 

「サクちゃん。大丈夫?」

 

 安芸も前のめりになって肩を寄せる。そっと手を背中においてさすってみたが桜の様子は一向に良くならなかった。あえぐように唇を開けては閉じていた桜だったが、我慢の限界に達したことで何とか言葉を紡いでみせた。

 

「と、トイレ……うっ」

 

 たまらず席を立つ。一時的に周囲の視線が桜に集中する。いつもなら恥じ入るところだが、今の彼女にそのような余裕はなかった。お腹を押さえつつ前傾姿勢になって、足早に講堂の外を目指した。

 桜が体調を崩したと察して、スーツ姿の男性職員が歩み寄ろうとした。だが、渡り廊下で待機していた更識楯無が代わりに対応すると申し出たため、その男性職員は桜の身を預けて講堂の中へ戻っていった。 

 桜がすがるような目つきで心配そうな顔つきの楯無を見上げた。

 気を紛らわそうと彼女の所作を観察する。外側にはねた水色のショートヘア。IS学園の制服。黄色のリボンを身に着けている。柳のような腰は何らかの訓練により鍛え上げられたものとわかる。武術をたしなんだ者の歩き方で、正中線がぶれず、腰や膝の使い方からして一般人とは異なっていた。

 ――布仏少尉が知り合いや言っとった、あの下士官(せんせい)と同じ身のこなしをしとる。……アイタタ。

 楯無が顔を近づけて「お腹痛い?」と聞いてきた。

 

「お……お手洗いの場所を教えて……」

 

 桜は真っ青な顔で訴えかける。下腹部から猛烈な痛みが走ったので、楯無と知り合いの下士官との類似点を検証する気持ちはどこかに吹っ飛んでしまった。

 

「うん。案内するから。近くだから頑張って」

 

 楯無は桜の限界が近いと見て、手短に応じた。

 桜は歯を食いしばりながら首を縦に振って後についていく。だが、道を覚える気力が残されておらず、うつむきがちになって楯無の足ばかりを見ていた。

 

「ほら、そこにお手洗いがあるから。あと少しだよ」

 

 桜の身を案じた楯無が明るい声を出して、前方にあるお手洗いの看板を指差した。

 ――助かった。もう限界やけど。もうちょっと我慢せんと……。

 桜は力を振り絞って足を踏み出す。今にも死にそうな顔をして息も絶え絶えといった風情でお手洗いに駆け込んだ。その背中に向かって楯無が「帰り道はわかる?」と声を投げかけ、桜はよく聞き取れないまま「はあい!」と大きな声で返事していた。

 しばらくしてすっきりとした表情になって洗面所に立った桜は、鏡に映り混んだ自分の顔を他人事のように眺めながら考え事をしていた。自動水栓なのでずっと手をかざしてもみ洗いを続けている。

 ――慣れへん遠出で食べ過ぎたのが原因や。調子に乗って弁当の芋ばっか食べるんやなかった。そういえば、初めて赤とんぼに乗った時も似たような事やって教官にめっちゃ怒られたなあ。……三八にもなって、まるっきし成長しとらん。

 赤とんぼは九三式中間練習機のことで、旧日本軍の練習機は目立つようにオレンジ色に塗装していたことからこのような愛称がつけられている。

 佐倉作郎が予科練の時分、十代の育ち盛りということもあってよく食べた。食べ方が悪かったのか訓練中に体調悪化で基地に舞い戻ったり、突然エンジンの不調に遭ったりと散々な経験ばかりだった。

 桜は澄ました顔になって手を拭きながら、楯無にお礼を言おうと思ってお手洗いを後にした。

 

「お姉さんがおらんなっとる」

 

 桜は呆気にとられてしまった。桜は楯無の姿を探して周囲を見回し「あっ……」と手を打って、楯無が別れ際に言った言葉を察した。

 ――あのお姉さん。私が道を覚えとると勘違いして……?

 腹が痛くて周囲に気を配る余裕はなかったため、道を覚えているはずもなかった。窓の外に見えるのが講堂と思しき建物だからそこに向かって歩いていけばよいと考えたが、さりとてIS学園は広大だった。初めての空母で道に迷ったことがあるものの、桜自身は方向音痴ではないと思っていた。とっさに制服のポケットをまさぐってみたら、頼みの携帯端末は電源を切ってリュックサックの中に入れたことを思い出して項垂(うなだ)れた。

 

「やってもうた……」

 

 桜はその場で頭を抱えてうずくまってしまった。己のミスに恥じ入るばかりである。大して歩いていないので、講堂に向かえば誰かと会えるはずだからその人に道を聞こう、と考えた。うまくいけばそのまま戻れるかも知れない。桜は必死に考えを巡らせた。

 

「とりあえず進むか」

 

 桜は歩きながら昔の事を思い出していた。見知らぬ土地で迷子になったのは初めてではなかった。迎撃任務に就いていた頃だから、確か乗機はA6M3、つまり零式艦上戦闘機三二型である。爆撃機迎撃のため空に上がったら突然エンジンが黒煙を噴いて停止した。そのときは思わず「またか……」とぼやいてしまったが、再始動を試みると爆発する恐れがあった。仕方なくグライダーの真似をして不時着できる場所を探した。幸い計器が生きていたので降下速度に気をつけ、風を読んで畑の上に不時着したが、主脚をはじめとして機体を半壊させてしまった。打撲だけですんだのは幸運だった。

 危機レベルの面ではいささか比較対象を誤っている気がした。桜はとりとめのないことを考えていると自覚し、考えを整理すると「とりあえず諦めるな」ということに落ち着いた。

 ――おかしい。これはおかしい。いつになったら講堂に着くんや。

 桜は先ほどからずっと同じような場所を歩いている気がしていた。関係者以外立ち入り禁止の張り紙があったので、引き返しては曲がってを繰り返したら完全に迷ってしまった。たかだか全校生徒数四〇〇名弱の高校なのに、どうしてこんなにも校舎が広いのだろうか。桜はIS学園の規格外の敷地の広さを呪った。

 ――困った。この学校は全寮制やから、部活動で学校に来とる生徒がいてもおかしくないはずなんやけどなあ。

 現実は楯無と別れてから誰一人として出会すことがなかった。まるで神様の悪戯で桜を避けるように命令されているとした思えなかった。

 

「お腹すいたなあ。安芸ねえ、今頃私のことを探しとるんやろか」

 

 安芸は案外ふわふわしているので気にしていないのかもしれなかった。学校説明会に行って迷子になったとか、同級生に知られたら笑いものになってしまう。しかも路銀は安芸が預かっていて、手持ちのお金は一〇〇〇円札一枚だった。モノレールに乗って安芸の携帯端末に電話するだけで精一杯である。

 ――いっそのこと、迷子の放送をしてもらうか。

 初めて空母に乗って迷子になった時は、機関科の下士官に請うて甲板への経路を教えてもらったこともあった。恥を忍んでいてはだめなときもある。そう思って、桜は気を強く持って職員の姿を探す。

 しかしその勇み足は三〇分も続かなかった。

 

「ふええ……」

 

 桜に生まれ変わって年を経るほどに、感情の揺れに流されやすくなっていると自覚していた。

 ――作郎やった頃の私はこれほど涙もろくはなかった。最後の夜などは涙一つ出なかった。それがどうや。女の体に生まれ変わったら心まで弱くなってしまった。

 

「安芸ねえっ……」

 

 桜は孤独が怖くて泣きべそをかいていた。お腹もすいていた。計られたかのように誰にも会えない。

 ――感情が、桜としての未成熟な心に引っ張られとる。私は……。

 

 

 学校説明会が開催されるため、IS学園教員の山田真耶は日曜にもかかわらず休日出勤していた。彼女は午後の部から手伝うことになっていたため、午前中は課題の添削で時間を潰していた。そして一足早く昼食を取るべく食堂までの道すがら、見慣れないブレザーの制服に身を包む桜の姿を見かけて足を止めた。

 

「声をかけた方がいいよね……」

 

 真耶は桜の様子が尋常ではないと感じていた。気になって見つめていたら、突然しゃくり上げたかと思えばわんわん泣き出したものだから驚いてしまった。周りを見渡しても他の職員の姿はなく、職員室まで戻るには少し遠い。他の職員の大半が講堂にいて、部活動や説明会に参加する生徒が登校しているが、やはり真耶のいる場所からは遠い。明らかに迷子なので、真耶が保護者に送り届けるのが上策と言えた。

 一歩を踏み出す前に左腕をひっくり返して時計を見つめる。真耶は「あっ……」と短く声を上げた。学校説明会のプログラムでは午後の部として訓練施設を案内するため、一度食堂で昼食をとってもらうことになっていたことを思い出す。

 「安芸ねえ」と何度も口にしていることから彼女は姉と一緒に来たのだろう。敷地の広いIS学園の校内で迷ったのであればとても心細いはずだ。

 ――よしっ。

 真耶は少女に声をかける決心をした。

 午後の部の前に説明会参加者が食堂へ引率されるはずだから、そのときに彼女の保護者と引き合わせてやろうと考えた。また、真耶と同じように警備担当の職員も昼食を取りに来るはずだから、彼らに任せてもよいだろう。

 真耶は眼鏡の位置を直して柔和な顔つきになって桜に近付いた。

 

「説明会の参加者ですよね。もしかして道に迷ったのですか?」

 

 真耶の声に振り返った桜の顔は涙に濡れていた。真耶は表情にこそ出さなかったが、「綺麗な子」という印象を抱く。IS学園には美人が多いとされて顔立ちが整った子に見慣れていたとはいえ、ちょっとびっくりするくらい華やかな顔立ちをしていた。

 桜は真耶のことをようやく現れた救世主のように感じ、涙と鼻水をぬぐった。

 

「……えぐっ。お、お姉さんはここの……ひくっ……先生?」

「そうですよ。だから、とりあえず落ち着いてくださいね」

 

 真耶は状況を把握するべく笑顔のまま質問する。

 

「どうしてここに?」

「えぐっ……お腹を壊して……トイレに行ったら……道が分からなくなってもうた……」

 

 その答えに真耶は「あり得ない話ではない」と感じた。IS学園の敷地は広大で、真耶が通学していた小中学校と比べても明らかに広かった。

 新入生がアリーナで遭難する話が時々職員室で話されるが、平時は職員が監視していることや、多くの場合アリーナ整備に携わる人員が詰めているため、そのまま夜を過ごしたという話は聞いたことがなかった。

 しかし目の前にいる少女は初めてIS学園を訪れ、しかも真耶が来るまでひとりぼっちでいたから、とても心細かったに違いない。

 真耶はおもむろに手を取り、桜を顧みて微笑んだ。

 

「先生ね。今から食堂に行くから一緒に来る?」

「え……食堂?」

「そう。説明会の参加者が食堂で昼食を取るように説明されるはずですから、多分待っていればお姉さんが見つかると思うよ」

「う……うん。行く。食堂に行きます」

 

 ぱあっ、と桜の顔が明るく輝く。

 

「じゃあ行こうか」

「お、お願いします」

 

 桜は息を整えながら小さくうなずいていた。

 

 

「サクラサクラ……素敵な名前ですね。私、やまだまやっていうんですけど、なんだか雰囲気が似ていますね」

 

 もちろん上から読んでも、下から読んでも同じ読みというニュアンスである。桜は「やまだまや」と何度か繰り返しつぶやくことで回文になっていることに気が付いた。

 真耶に連れられて食堂に到着した桜は、財布から千円を取り出した手を制止するように、真耶がにっこり笑った。

 

「私が(おご)りますよ」

「……ええんか。でも、なんか悪い気がするなあ」

 

 真耶が「遠慮しなくていい」と告げたので、桜は少し考え込む素振りを見せてから好意に預かることにした。

 改めて券売機に向かう。休日の特別営業のため選択できるメニューが少なかった。定食のご飯を大盛りにすべく、タッチパネルの隅々までくまなく探していたら、真耶が口を挟んだ。

 

「ご飯なら口頭で量を調整できますよ。量は無料で五段階まで選べるんですよ」

「へえ……」

 

 定食メニューの定番である焼き魚定食を選んだ桜は、真耶の動作を真似るようにしてトレーに定食の皿や小鉢を乗せる。ご飯コーナーは箸やドリンクサーバーが置かれた空間の手前に配置されていた。

 

「ライスメガ盛りで!」

 

 ご飯は小盛り・中盛り・大盛り・特盛り・メガ盛り(富士盛り)の五段階があり、桜は迷うことなくメガ盛りを選んだ。ちなみにメガ盛りはカロリー摂取に敏感になりがちな生徒が決して選ぶことはない、ジョークメニューとして知られている。

 真耶はひときわ大きなどんぶり茶碗(ちゃわん)に、山のように盛られたご飯を見てあっけにとられてしまった。

 

「そんなに……食べるの?」

「うちじゃこれくらい普通や」

 

 桜が真顔で言う。それを聞いた真耶はぽかんとしていた。しかし食事を楽しみにしている桜を見ていたら自然と破顔していた。

 休日かつ、十二時を回っていないこともあって閑散としている。二人はテーブル席を陣取り、お互いに向かい合うような配置で席に着いていた。

 申し合わせたかのように手を合わせて「いただきます」と言ってから箸を取った。

 

「佐倉さんってどこの中学なのかな」

 

 桜はおかずを飲み込んでから中学名を告げた。一昨日(おととい)伊藤に言われたことを思い浮かべながら、言葉を選んだ。

 

「うちの学校は一学年に二クラスしかなくて、私の家なんかすっごい山奥にあるんです」

「ふうん。ここに来るのに結構時間かかったでしょ」

「新幹線に初めて乗ってな。もう速いのってなんの! 在来線と私鉄しか乗ったことなかったからびっくりしたわ」

「……佐倉さんはどうしてIS学園を志望したのか教えてくれるかなあ」

 

 真耶は教員という仕事柄、IS学園を志望する理由を聞いてみたくなった。元代表候補生という経歴から、真耶にも生徒選考の権利が与えられていて、強く推薦すれば一人程度ならば合格させることが可能だが、他の先生方を納得させる理由でなければならなかった。

 桜は静かに深く息を吐いて、芯の通った強い瞳を浮かべる。

 

「空を飛ぶため。敵のおらへん空を自由に飛びたいんや……じゃなくて、飛びたいです」

 

 その変化に真耶は「おや?」と思った。一四、五歳という年相応の少女の顔が消えて、大人の顔つきをして見せたことに感心していた。

 ――きらきらした顔。

 夢に向かって理想を純粋に追い求める姿がそこにあるように思えた。

 だが真耶は知らない。桜の知る空が、命を()した地獄そのものだったとは思いもよらず、桜が口にした「敵」という言葉の意図に気付くことはなかった。

 桜がすぐに相好を崩してご飯を口にする。炊きたてということもあってメガ盛りのご飯を止まることなく口にかき込んでいく。真耶は豪快な食べっぷりにあっけにとられていた。

 

「うまい。うまい」

 

 桜はどんぶり茶碗を置いて焼き魚に箸をつけ、みそ汁をすすって再び米を口にする。

 

「佐倉さん……?」

 

 真耶は桜の異変に気付く。彼女はしきりに「うまい」とつぶやきながら、涙していた。寂しいからではなくもっと別の理由だった。

 

「塩味やったっけ。しょっぱいけどうまいな、この白米」

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。