越界の瞳(一) 一人芝居
昭和一六年一一月二七日 〈翔鶴〉艦内
佐倉作郎二飛曹の顔がほのかに赤らんでいた。海水風呂でさっぱりした気分も手伝ってか鼻歌を口ずさんだ。腕に抱えた通い箱のなかにはビール瓶がぎっしり詰まっている。作郎の目に二種類の王冠が映った。つい先ほど酒保に立ち寄ったとき、主計科の下士官が多めに仕入れたなどと理由をつけて勧めてきたものだ。
「おう。ちょいと急ぐんだ。道を開けてくれェ」
作郎は言われるまま壁際に寄った。通い箱から軽い音がする。
「ありがとよ」
顔見知りの艦爆乗りが真っ赤な顔をして足早に歩き去る。アルコール臭が残った。
船が出港してからというもの、搭乗員は毎晩飲めや騒げやと景気が好い。通信封鎖の影響もあってか、作郎はほかの船の事情に疎かった。
東京訛りの騒ぎを聞きつける。翔鶴は東京弁が標準語で、乗組員の多くは関東地方出身だった。作郎は小声でひとりごちる。
「えらい騒ぎになってもうた」
とにかく大変なのだ。行き先は
――そのほうがええ。
作郎は数日前の出来事を思い出した。
二三日。
「勝つんですか。それとも負けるんですか」
仲間が若い分隊士の中尉に聞く。中尉は狐につままれたような表情を浮かべる。
「さあ。こればかりはなあ……」
出港にあたって可燃物を陸揚げした。なぜか大量のビールが残った。全乗組員が毎日浴びるように飲んでもなおあまるそうだ。
大量のビール瓶。みんなが喉を鳴らした。
「とりあえず飲んじまおうか」
作郎は誰の言葉かよく覚えていない。気がついたときには先任の兵曹がビールの栓を開けた。
「佐倉」
「お前か」
作郎は回想を中断した。作郎と同じ甲飛四期の仲間が立っている。姓が同じ「佐」から始まるせいか、彼は運が良いほうのSと呼ばれる。とにかく筆まめな男で毎晩こっそり日記をつけていた。
Sが通い箱をのぞき、二種類のビール瓶を交互につまみ上げた。
「ラベルが違うじゃないか」
息がアルコール臭い。顔色に変化がなかったが、彼も相当飲んでいるらしい。
「スタウト、ピルスナー」
作郎は短く言葉を切った。
スタウトと聞いて、Sの口元がほころぶ。ビール瓶のラベルを見てしきりにうなずいた。
作郎はSの様子に目を丸くする。
「飲んだことあるんか」
「へへ……」
Sは指の背で鼻をこすった。そして身震いする。切羽詰まった表情。作郎は意図を察して道を空けた。
「はよゥ、行ったほうがええぞ。今なら空いとる」
「すまんっ」
Sの姿が消える。作郎は寝室に向かって歩を進めた。大きな笑い声。扉の奥からだ。身を屈めて通い箱を足元に下ろす。
不意に扉が内側から開いた。中からエラ張った赤ら顔の男が身を乗り出して、急に笑い出した。
「誰・か・と・思・え・ば……佐倉ァ。なんだあ? その箱はー」
「兵曹。ビールですよ」
作郎はほっと一息ついて半沢一飛曹に告げた。彼は乙飛五期出身で作郎の大先輩にあたる。彼は予科練卒業間際の事故で機体が炎上し、顔中にやけどの痕が残ってしまった。
「おっ気が利くねえ」
「酒保に寄ったんで」
「で、どんなもんよ。俺ァ知ってるんだぜ」
半沢一飛曹が空になったビール瓶を顔の前に掲げる。
「こいつ以外にもビールを仕入れたって話」
「ハア。酒はよく知らないのですが、ちょっと味が違うそうです」
作郎が通い箱を持ち上げる。搭乗員用の寝室に足を踏み入れた。全員がビールを手にしている。ある者はベッドに腰かけ、ある者は仁王立ちでラッパ飲みだ。奥のベッドには下戸の搭乗員が横になっていた。
――こりゃあえらいことになっとる。
作郎はしみじみと思った。
▽
朝になっていた。
桜はベッドからのっそりと起き上がり、猫耳付きのフードを払った。
「久々に半沢さんが夢に出たわ。しばらく出てこんかったのに」
彼は戦死したと聞く。彼らの姿を目にして悪夢だと感じなくなってからずいぶん時が経過していた。
桜が目をこする。虎猫の着ぐるみパジャマのボタンに手をかけた。
鏡の前に立つ。
――朝食やろか。
下着一枚になる。肋骨をさすり、硬い骨の感触を確かめる。元通りだ。背伸びや深呼吸をしても痛くない。医師から完治したことを告げられ、昨日のうちに寮へ戻った。
カレンダーを見つめた。赤い花丸。来週の水曜日。
――またこの季節か……。
桜は憂いを秘めたまなざしを向けた。思い出したくないのか、赤丸の存在を頭から追いやった。クローゼットを開けて段ボール箱に手を突っ込む。サラシを取り出して再度鏡の前に立つ。ナノマシン投与のおかげで予想よりも早く退院の運びとなった。医者から骨がくっついたと言われてもなお半信半疑である。
携帯端末から軍歌が流れ、ラバウルの風景を思い浮かべた。
「待って。まだ終わっとらん」
電話の着信だろう。軍歌がサビに入って切れた。今度は別の旋律が流れ、単縦陣で
桜はサラシを巻き終えてから端末を手に取る。LEDが点滅していた。メールの着信。差出人は長姉だった。
「安芸ねえやん」
メールに「退院おめでとう。もうすぐ誕生日、忘れとらん?」と書いてある。桜は改めてカレンダーを見つめて、わざとらしく大声をあげる。
「誕生日やった!」
六月一六日。
四捨五入して約四〇回目の誕生日だ。作郎と同じ日だから新たに覚え直す必要がなかった。最近は年を取る切なさを感じるようになってしまい、素直に喜べなくなっていた。
「一六かあ……」
桜の年齢だ。少しだけ瑞々しい気がしてにんまりとする。
桜は午後から授業に復帰することになっていた。昨日連城に聞いたところ、午前中に学年別トーナメントの説明会を実施するらしい。このイベントは今年から二人一組で実施するよう制度が変わった。第二アリーナが使用不能になり、従来のスケジュールが実施困難になったからだ。試合数が減り、日程が短縮できる。その代わり、一度に整備しなければならない機体数が増える。連城いわく、企業の技術者を増員して対応するそうだ。
制服を身に着けて、腕時計を巻く。桜はその足で食堂に向かった。
▽
同じ日の朝。ラウラ・ボーデヴィッヒはバス亭を目指していた。
拍子木の高く澄んだ音。太鼓を細かく打ち鳴らし、徐々に荒々しさに飲み込まれる。怪談で幽霊が登場する際の効果音だ。ラウラは目を丸くして息をのみ、その場に立ち尽くした。あわててポケットをまさぐる。キーボード付き携帯型端末を取り出す。
――設定を戻してなかった。
ラウラは初歩的なミスに憤りを感じた。覚束ない手つきでマナーモードに切り替える。
――新型は慣れんな。
ドイツで使っていた携帯端末は古い型だった。残念ながら日本の周波数帯域に非対応である。
――どうせクラリッサなのだろう?
住所録には仕事関係の番号しか登録していない。それでも十分用が足りた。
メールの差出人はクラリッサ・ハルフォーフだ。ドイツ連邦軍特殊部隊シュヴァルツェ・ハーゼ所属の大尉。ラウラの部下。今は隊長代理である。
メールの書き出しはこうだ。
〈出会いはありましたか?〉
祖国ドイツは今頃深夜のはずだ。クラリッサが送りつけた文面はやたらとはしゃいでいる。対してラウラが作る文章は事務的で素っ気ない。
クラリッサの指す出会いは十中八九恋愛絡みである。しかし、あえて人脈だと解釈するならば、今回の旅で海軍の知己がたくさんできたと言えるだろう。
ラウラを乗せたドイツ海軍の新型原子力潜水艦U39は、水中用パッケージや長時間型機雷探索システムの試験を実施。約三〇日間で小笠原諸島沖まで航走した。航海中はセラミック船体の特性を生かしてアクラⅡ型の最大運用深度を越えた。だがその途中、高速の小型潜水艦と遭遇。魚雷の装填音に一時は肝を冷やした。日本上陸後、コリンズ級潜水艦が行方不明になったことを知り、ラウラを含めた全乗組員が冷や汗を流した。
クラリッサはU39が対潜水艦戦闘配置についたことを知らない。
ただU39の艦長、ライナー・シュテルンベルク中佐と何かあったのでは、と邪推していたにすぎない。
――何かあったら中佐の経歴に傷がつくだろうに。
中佐は彼女の義理の叔父である。クラリッサは叔父と上司が約一ヶ月にわたり同じの屋根の下で寝泊まりしたことを知っており、妙な妄想をふくらませていたらしい。
――あの船は女が多いのだぞ。クラリッサも知っているはず。
U39はドイツ海軍で初めて女性のソナー士官を採用したことで知られていた。
ラウラは携帯端末をポケットに収めてシャトルバスに乗った。
バスが動き出すまでの数分の間、ラウラは好奇の視線を浴びた。顔と下半身をじろじろ見られている。どうやら左目の眼帯が悪目立ちしている。ラウラにもその気持ちがわかる。だが、同性に下半身をじろじろと見られるのは良い気分ではなかった。
――ズボンがそんなに珍しいことか?
ラウラはスカートに思い入れがない。服装に無頓着で、私服の多くはクラリッサが買いそろえたものだ。IS学園の制服としてカーキ色の短パンを仕立てた。上半身はワイシャツを加工し、腕まくりした袖が落ちないようにボタンで固定できるように発注したものだ。
ラウラは頭のなかで自分の身体的特徴を振り返る。左の瞳は金色だ。やむにやまれぬ理由で眼帯を着用している。右の瞳は赤色だ。生来色素が薄く、細身で太りにくい体質。一見男の格好だが、かすかな胸のふくらみと顔つきを見ればすぐに女だとわかるはずだ。
――だというのに。まさか、男だと思われているのでは……。
男に飢えている。ラウラはクラリッサの戯言を思い出して身震いした。
バスが停まった。合宿所は坂道を上って五分の場所にある。
降車すると同時に一夏の姿を探す。射抜くような視線を投げかけ、注意深く周囲を見回す。どこにもいない。
私怨が再燃した。ラウラは知らず拳を握りしめた。一夏を探して殴ろう。殴ってすっきりしよう。
――自重自戒だ、ラウラ・ボーデヴィッヒ。
ラウラは力をこめすぎて硬直した指を一本ずつ開いていく。
恩師が自分の前から去った理由。軍との契約は最初から半年間と定められていた。ISの操縦ノウハウを伝授し、役目を終えて帰国したにすぎない。
ラウラはもう一度周りを見回した。すると脇からぬっと人の群れが現れた。ラウラは一行の気配を感じとれなかったことに驚く。集団の先頭を行く女を凝視する。腰まで垂らした髪を頭の後ろで結っていた。青色のリボンを見て同学年だと推測する。日本人にしておくにはもったいないほど肉感的な体つきだ。ラウラは彼女と千冬と比べ、恩師の勝利を確信する。
歩く速度を早め横顔を流し見て、記憶を探り当てる。
――篠ノ之箒。
「可能なら接触せよ」と情報部から要請があった女だ。
だが、どうしたことだろう。彼女から覇気が感じられない。今にも倒れそうな雰囲気。悪霊に取り憑かれて憔悴しきった表情だった。
「チュートリアルが終わらん……」
――チュートリアルとは何だ。
箒はラウラを追い抜いて引き離した。たくましい顔つきの男たちが後にくっついてぞろぞろと歩く。鍛え上げられた体。詰め襟やスーツを身につけた軍人らしき男たち。情報部筋によると、篠ノ之箒は日本政府の保護対象だ。
――二〇人以上いるな。これだけの大名行列。どうして誰も気にしない? ……もしやこれが当たり前の風景なのか。
あまりに露骨すぎる。護衛ならば目立たない格好と手段を選ぶべきだろう。
集団のなかのひとりがラウラに気づいて足を止める。好好爺然とした風采で「うむ。よろしい」と相好を崩す。階級章から大佐だとわかり、ラウラは思わず敬礼してしまった。
▽
更識簪はぎょっとした。
前を行く少女が突然敬礼をしたのだ。シャトルバスで見かけた、青色のリボンを結んだ男装の少女。背筋をまっすぐ伸ばした姿を凝視する。
「……えっと」
簪は口を閉ざして思い悩んだ。
奇行を目撃してしまった。声をかけるのは野暮かもしれない。
――前向きに考えたら……。
衆人環視のなかで敬礼したかった。覚えたての敬礼を誰かに披露したくてたまらない時期なのだ。
――子供じゃあるまいし。
別の仮定を立てる。演技の練習のつもりで身体が動いたのではないだろうか。簪に往来の真ん中で恥ずかしい思いをしたことがある。台本を使ったイメージトレーニングのつもりが体が勝手に動いてしまった。
簪にとって台本を使った自己暗示は精神面の弱さを補うための手段だ。具体的なモデルは夢のなかの簪自身。二十歳前後だろうか、少しだけ胸部が成長していた。希望を捨てるな、というメッセージだろう。
夢のなかではいつもISに乗り、見知らぬ市街地で戦っている。たいていはIS、装輪車、歩兵の混成部隊だった。至るところから小銃による射撃を加えられ、
妙な話だが、夢のなかの自分をまねするようになってから簪の戦績は飛躍的に伸びた。
「あのっ……」
簪は意を決して顔をあげた。姿が見あたらない。あわてて男の子のような服装を探す。
――いた。
「もう……あんなところまで」
ひとりで歩く箒の後にくっついている。簪は小走りになった。ラウラの前を行く箒の歩行速度は競歩と見間違えるほどだ。簡単には追いつけないだろう。
ラウラの背中を見つめて地面を蹴る。ラウラが談笑している。きれいな横顔だと思った。ふとある事実に気がついて激しい衝撃を受けた。
「……誰と……しゃべって……る、の」
ラウラの隣には誰もいなかった。箒と話しているようには見えない。一人芝居にしては悪質に過ぎる。会話の相手は誰なのだろう。
談笑するラウラは、いかにも誰かと並んで歩いているかのような雰囲気を醸し出していた。