IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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GOLEM(二) 水域・下

 時間がとても長く感じる。

 目標動静解析(TMA)によって得られたアンノウン1を示す光点が表示されている。周りに集まった部下たちと眼前のモニターに示された数値へと視線を行き来させながら、ボイルは汗を拭い、顔を強張らせた。自衛のため魚雷を発射したという事実がボイルの両肩に重くのしかかっていた。

 ボイルは泣き出したくなる気持ちを必死にこらえる。心の中の恐怖心がどんどん大きくなる。幼かった頃の弱虫だった自分が急に表に出ようとしていた。

 ――考えろ。わずかな時間でも惜しむな。

 ボイルは自分を叱った。敵は動き続けている。どういうわけか誤射(ミスショット)を続けているが、それとて一時的なものだ。いずれは慣れて冷静さを取り戻す。

 外から聞こえる不協和音が大きくなった。この水域には現在三基の魚雷が走っている。一基はクジラのエコーへと引き寄せられていき、一基は囮魚雷だ。もう一基はアンノウン1めがけてウォータージェットから勢いよく水を噴きだしている。

 

「ソナー室より連絡。一番発射管の魚雷(ユニット)はアクティブモードで航走しています。雷速二〇ノット(時速三七キロメートル)。距離八〇〇〇メートル」

 

 アクティブモードは魚雷自身が音波を発射し、反射してきた音波を受信して追尾する方式だ。つまり魚雷自身で静止した目標さえも判別する。

 ――俺がアンノウン1の艦長なら探信音を発する魚雷を処理することを第一に考える。

 魚雷の磁気信管ならば船体に直撃する必要がない。爆発によって生じた衝撃波と気泡によって相手を傷つける。特に後者は、収縮と膨張を繰り返しながら水面に浮上する。この収縮した泡が再び膨張するとき、バブルパルスと呼ばれる大きな破壊力を持った圧力波が生じる。魚雷が向かってきたときは囮魚雷や音響妨害装置で注意を逸らすか、対魚雷ロケットなどで破壊してやらなければならない。

 

「艦長。目標との距離を少しあけるべきです。こちらの位置を知られている以上、敵が飽和攻撃を仕かけてきたら対処する時間がありません」

「わかった。アンノウン1から距離を取ろう。アンノウン1は艦種が不明であり他にも敵がいる可能性がある。曳航式アレイは展開したままにしておく」

 

 ボイルは副長の意見にしたがって、操舵手に対して指示を出す。

 

「操舵。方位一四五、速力八ノット(時速一五キロメートル)

「機関制御室は命令受領を通知しています」

 

 副長がモニターを見ながら答えた。

 

「方位一四五。アイ」

 

 操舵手が命令を復唱する。船体が右へわずかに傾き、ゆっくりと旋回が始まる。船の角度が戻ったとき、操舵手は旋回が終わったことを告げた。

 

「ソナー室より発令所。方位〇〇二、距離一五〇〇〇で爆発。付近にいたクジラのエコーも消えました」

「われわれの囮魚雷(デコイ)はどうなっている」

 

 副長に確認すると、すぐさま反応が返ってきた。

 

「ユニットの反応が消えています。爆発に巻き込まれたものと推測します」

 

 ボイルはあごを引いて唇を真一文字に引っ張る。

 海面表層を反射して到達した衝撃波が船体に当たる。揺れが静まったかと思えば、今度は海底を反射した衝撃波によって足元が軽く揺れる。

 ――爆発で海洋雑音があふれている。雑音を隠れ蓑にして魚雷を発射してくる可能性は?

 ボイルはすぐさま艦内通話装置のマイクをつかみとる。

 

「兵装。三番発射管に注水せよ」

 

 了解、と艦内通話装置から兵装士官が返事をする。ボイルは敵が矢を放つ光景を思い描いた。

 

「注水完了後、三番発射管はあらゆる点で準備」

「アイ、サー」

 

 兵装士官が低い声音で命令を受領した。間髪おかず電話連絡員が大声を張り上げる。

 

「ソナー室より発令所。ハイドロフォン(水中聴音器)に反応あり!」

 

 電話連絡員は一呼吸おいて、若い明瞭な声を発令所に響かせる。

 

「アンノウン1が魚雷を発射しました! 方位一六〇。距離八五〇〇メートル! スクリュー数、流体雑音(フローノイズ)の特徴からMk48と判定します!」

 

 ――簡単にはやらせてくれないか。

 ボイルはアンノウン1から発せられる殺気のようなものを感じ取って身震いした。敵の艦長は誤射こそ多いものの攻撃精神旺盛だ。手頃なディーゼル艦を血祭りにあげるつもりなのだ。ボイルは憤りを感じながらも副長からの報告を聞く。

 

「艦長。兵装士官より連絡。三番発射管、注水完了」

「よろしい。向かってくる魚雷に対して囮魚雷を発射せよ」

 

 副長が兵装士官に対して命令を中継する。彼が艦内通話装置のマイクを置く前に追加の指示を与えた。

 

「二番、三番発射管は囮魚雷を再装填せよ」

 

 すぐさま副長が兵装士官に伝え、命令を受領したことを通知する。囮魚雷が正常に航走しているとの報告を受けた後、音響妨害装置を使ったものの効果がなかった。ボイルは生唾を飲み込んでから当直海曹を呼ぶ。

 

「当直海曹。艦内通話装置で艦内に急激機動を通達」

「急激機動を通達します」

 

 続けて操舵手に旋回の指示を出す。

 

「操舵、面舵にて方位三〇〇に向かって旋回」

「面舵、方位三〇〇。アイ」

 

 操舵手が命令を復唱する。慣れた手つきで船体を右に傾け、旋回を始める。立っていた者はコンソールや手近な場所で体を支えている。副長が真剣な顔つきで魚雷の状況を注視していた。

 

「一五〇……一六〇……」

 

 操舵手が眼前の目盛りを一〇度ずつ読み上げていく。旋回が終わったことを告げるように水平に戻ったところで、操舵手が報告する。

 

「方位三〇〇です」

「操舵。よろしい」

 

 ソナー室から経過報告が届く。

 

「一番発射管のユニットが雷速四〇ノット(時速七四キロメートル)に増速! アンノウン1までの距離二〇〇〇メートル」

 

 ボイルたちが放ったMk48高性能魚雷(Mk48 ADCAP)は海中を疾駆していた。搭載燃料をすべて食らい尽くすように獲物めがけて最後の加速を実行する。

 

「ソナー室より発令所。対魚雷ロケットの音を感知しました」

 

 ソナー長の報告を電話連絡員が中継する。受話器の向こうで、ソナー長が一秒間隔で立て続けに発射された対魚雷ロケットの射出音を聞いていた。

 

「方位一六一で爆発音!」

 

 衝撃波が届いて小刻みに船体が揺れる。対魚雷ロケットが一番発射管のユニットに向かって連続して飛び込んだことより、衝撃波の山が生じ、波が到達するたびに何度も船体が揺れた。海中に様々な音があふれかえり、一時的にソナーの能力が低下する。ソナー長がすぐさまフィルタを調節して一音も聞き漏らすまいとしていた。

 ボイルは一番発射管のユニットが爆発したものと予測し、副長に魚雷の状況を確かめる。

 

「爆発したのはどちらの魚雷だ」

 

 すぐさま副長の声が飛んだ。

 

「一番発射管のユニットです!」

 

 今度はソナー室からの連絡が届く。

 

「ソナー室より発令所。水が跳ねる音がしました……水中に魚雷あり! 方位一六一、Mk48!」

「接近中の魚雷はどうなっている!」

 

 ボイルの問いに対してすぐさまソナー長が返答する。その内容を電話連絡員が中継した。

 

「本艦との距離が離れています。現在、方位一八〇。距離一一〇〇〇メートル。三番発射管の囮魚雷を追尾して航走中です」

 

 よし、とボイルは答える。

 

「副長。海溝に潜って魚雷をやり過ごす。この水域の特徴はわかっているな」

「もちろんです。艦長」

 

 ボイルが向かっている水域は大陸棚の切れ目であり、海底峡谷が存在する。一番深いところでは深度一五〇〇メートルに及ぶ。スターリング港やロットネスト島から比較的近く、操艦訓練のために何度も潜った場所だ。

 

「われわれの庭だ。簡単にやられてたまるか……囮魚雷を発射して敵魚雷の針路を攪乱(かくらん)する」

 

 迫り来る魚雷への対処とアンノウン1から身を隠すためだ。もし囮魚雷だと発覚して空振りに終わったとしても、狭い峡谷を航走しなければならない。乱暴な操艦を行えば山肌に激突しかねないのだ。相手が原子力潜水艦の可能性があるため、正面から殴り合っては勝ち目がない。勝機を見いだすため、慣れた水域に誘い込んでむつもりでいた。

 

「兵装士官。二番発射管、囮魚雷発射」

「了解。二番発射管、発射手順を開始します。……囮魚雷発射」

 

 副長が兵装士官の報告を中継した。

 

「二番発射管の魚雷(ユニット)は電気的に発射されました。ユニットは正常に航走しています」

 

 敵の魚雷は今もなお、ボイルたちの後を追って猛然と迫っている。海中を錯綜する魚雷群から身を隠すべく、墓場のごとき深海の峡谷へ向かう。

 ボイルは気を抜けば歯の根が合わなくなると思い、ずっと奥歯を力を入れて噛んだ。初めての殺し合いに胸が高鳴るどころか恐怖心ばかりが増す。しかも密閉された空間において指揮官の恐怖心は瞬く間に伝染する。ゆえに彼は落ち着きを払っているように見せかけた。休む間もなく指示を飛ばし続ける。

 

「操舵。右へ舵をきれ(面舵一杯)。方位三三〇。深度一五〇、速力八ノット(時速一四キロメートル)。潜舵下げ一〇。潜航する」

「面舵一杯。方位三三〇。潜舵下げ一〇。アイ、サー」

「艦長。機関制御室は命令を受領通知しています」

 

 操舵手、そして機関制御室の命令を中継した副長の声が発令所に響く。

 ――優秀な潜水艦乗りたちを殺してなるものか。必ず生還してやる。

 

「三一〇……三二〇……」

 

 船体が右に傾き、位置エネルギーと運動エネルギーを交換する。その間、ボイルは眼前のモニターに表示された深度計を見やった。

 深度一五〇メートルは、コリンズ級が公試で潜航したときの深さだ。オーストラリア海軍が公にしているだけあって雑誌によく掲載されている値でもある。現在航走中の峡谷は海底の隆起が激しい。海底の地形を把握せずに動けば険しい断崖を削る羽目に陥る。また、でこぼこが数十メートルに及ぶ場所がいくつも存在した。深く潜りすぎてしまうと速力を犠牲にしなければならなかった。

 

「艦長。方位三三〇。深度八〇メートル」

「よし。潜航を続けてくれ」

 

 艦首を前のめりに倒し、徐々に深海へと潜っていく。操舵手が一〇メートルずつ深度を報告していた。

 

「深度一〇〇……一一〇……一二〇……」

 

 そのとき電話連絡員がソナー長の報告を中継した。

 

「ソナー室より発令所。本艦に接近中の魚雷がアクティブモードに移行しました」

 

 つまり魚雷自身が探信音を発してコリンズ級の姿を探し始めたのだ。アンノウン1の魚雷は深度五〇メートルを泳ぐ囮魚雷ではなく、海底を目指すコリンズ級に狙いをつけていた。

 ソナー長が発令所のスピーカーに魚雷から発する探信音を流した。

 ホテルの受付に置いてある銀鈴(ベル)と似た澄んだ音が聞こえてくる。陸上ならずっと耳を澄ませたくなるような音だ。だが、ボイルにとってはまるで死神の鎌を喉元に突きつけられたような気分になり、全身が総毛立つ。

 

「深度一三〇……一四〇……」

「敵魚雷、雷速三〇ノット(時速五五キロメートル)に増速!」

 

 アンノウン1が放った魚雷は大陸棚に表面に沿うようにしてコリンズ級を追尾する。潜水艦の動きを感知するや、大きく弧を描きながら後を追った。

 

「アンノウン1の空洞現象(キャビテーション)とおぼしき音あり!」

 

 スクリュー・プロペラを高速で回転させたとき、プロペラ表面に気泡が発生する。空洞現象(キャビテーション)はこの気泡が崩壊したときに生じた雑音のことを指す。

 

「副長。アンノウン1は確実にこちらをとらえたな」

「Mk48のソナーを目の代わりにしたか、爆発の反響からこちらの位置を更新したものと推測します」

 

 ボイルは副長の答えに同意してうなずき返す。

 次にソナー長に対して、アンノウン1の艦種を推測できるかどうか聴いた。

 

「ヴァージニア級の推進装置(ポンプジェット・プロパルサー)と音が似ています。ただし、流体雑音(フローノイズ)が非常に小さく、その出力も小さすぎる。ヴァージニア級……原子力潜水艦を動かすにはあまりに非力すぎる。ここから推測になりますが、敵の船体は非常に小さなものです」

 

 ヴァージニア級原子力潜水艦の流体雑音(フローノイズ)については環太平洋演習やインド洋、太平洋で遭遇したときのデータを寄せ集めることでほぼ特定できていた。

 

「小さいとは? 具体的な大きさがわかるのか」

 

 ボイルの問いに対してソナー長は意見を述べた。おそらく魚雷と同程度の大きさではないか。

 

「すると特殊部隊の小型潜水艇みたいなものか。もしくは旧日本海軍の特殊潜航艇。いずれにせよ厄介だな。ADCAPを直接当てるには目標が小さすぎる。バブルパルスの有効範囲に巻き込んでやるしかない」

「はい。艦長」

 

 ――核魚雷があれば楽に仕留められそうだが、現実味がないだろう。

 操舵手が深度一五〇まで潜航したことを知らせた。当直士官が前後の釣り合い(トリム)を調整することで水平を保つ。

 追い上げる魚雷から放たれた探信音が船体に響く。銀鈴の甲高く澄んだ音が発令所のスピーカーから流れてきた。

 

「操舵。峡谷を左右に蛇行せよ」

 

 ボイルの指示を聞いた操舵手が復唱する。すぐにボイルたちの体が左右に揺さぶられた。座席のベルトがなければどこかにつかまって体を支えなければならなかったほどだ。

 ――チキンレースだ。しかも魚雷のほうが高速だ。

 

「蛇行の効果なし。敵魚雷との距離が縮まっています!」

 

 電話連絡員がはっきりとした声音で叫ぶ。どんなときでも明瞭に発音するよう訓練するものだが、恐怖心が露わになると声が上擦ってくる。電話連絡員は、任務に集中することで恐怖が決壊するのを抑えていた。

 ボイルは峡谷内を直進するよう操舵手に指示を出す。

 

「操舵! 右に一五度舵をきれ(面舵一五)、方位三一五。全速前進」

「艦長、マイナス浮力にして速度をあげることを提案します」

「そうだな。少しでも時間を稼ごう。当直士官、マイナス浮力にしてくれ」

 

 機関制御室から命令受領が通知され、当直士官がバラストタンクに海水を注入する。艦内の重量を増やすことでわずかに速力が上昇した。さらに船体が右に傾いて旋回が始まる。

 

「艦長」

 

 操舵手がボイルを呼んだとき、船体の傾きが回復した。

 

「方位三一五です」

 

 針路変更が完了したことを報告する。船体は垂直になり、機関制御室がバッテリーの残量を気にしながらもプロペラシャフトの回転を最高速に切り替える。

 

「接近中の敵魚雷! 雷速四〇ノット(時速七四キロメートル)!」

 

 カーンという硬質な音が船体をたたく。銀鈴の美しい音色ではなく、もはや鋭い金属音としか思えなかった。

 

「艦長。そろそろ西へ伸びるL字カーブ(突き当たり)にさしかかります。減速してください」

「操舵。左に舵をきれ(取り舵)。方位二六〇。速力一二ノット(時速二二キロメートル)

「機関制御室が命令を受領通知しています」

「取り舵。方位二六〇」

 

 副長の報告から間をおかずして操舵手が声をあげる。まず船体が左に傾く。刹那、急旋回によって激しい慣性が生じる。座席ベルトで固定した体が船体の外側へ引っ張られた。

 

「三〇五……二九五」

「敵魚雷さらに加速しています! 雷速五〇ノット(時速九二キロメートル)!」

 

 敵魚雷は限界まで加速しながら設定されたプログラムに従い、いったん上昇することで運動エネルギーを位置エネルギーに変換した。深度一〇〇まで上ったところで先端を下に倒し、体を左に傾ける。そしてねじり込むように螺旋を描きながらコリンズ級の後を追いすがる。

 

「敵魚雷なおも追尾中!」

 

 ボイルは顔をしかめ、心の中で舌打ちする。L字カーブ直前で旋回し、減速しきれなかった魚雷を山肌に突っ込ませる魂胆だった。

 ――もっと早く曲がってくれ。もっと早く。

 ボイルは、操舵手が一〇度ごとに針路を読み上げる声が終わるのを今かと待っていた。

 再びカーンと探信音が突き刺さる。先ほどよりも大きく激しい音だ。恐怖に負けて耳を覆ってしまいたい。だが、それは許されない。指揮官たるもの、決して狼狽するような失態を犯してはならなかった。

 

「敵魚雷、雷速五五ノット(時速一〇一キロメートル)です! なおも接近中!」

 

 敵の魚雷は最高速度に達していた。燃料をすべて使い切るつもりなのだろう。

 

「方位二六〇です」

 

 操舵手が旋回が終わったことを報告した。

 

「操舵! 左へ(取り舵)! 方位二四五。山の陰に隠れるんだ!」

 

 ボイルは声を荒げた。命令受領を知らせた操舵手はすぐさま船体を左へ傾ける。深度一〇〇メートル付近まで高々とそびえる山肌を迂回するように急速旋回した。

 

「機関停止!」

「機関制御室は命令を受領通知しています」

 

 副長が報告するのを聞き、ボイルは未だ船体の運動エネルギーが衰えていないことを肌で感じ取った。ボイルは深度を下げるため、当直海曹に向かって船体をさらに重くするよう指示を出す。

 

「当直海曹。バラストタンク注水」

「敵魚雷やってきます!」

 

 電話連絡員の声は喉が張り裂けそうなほど高ぶっていた。ボイルは最後の仕上げと言わんばかりに操舵手へ舵を切るように命令を飛ばす。

 

「操舵。右に舵をきれ(面舵)。方位〇五〇。深度一八〇」

「アイ、サー」

 

 艦尾を山の陰に隠すためだ。左に傾いていた船体が今度は右側へ傾く。急激な動作のため、当直士官がバラストタンクの注水量を調整している。

 

「敵魚雷が必殺領域に入りました」

「魚雷爆発の衝撃に備える」

 

 失速により旋回時の慣性が弱まる。山肌に船底をこすりつけたのか、こもったような震動が伝わる。

 

「方位〇〇〇……〇一〇……〇二〇」

「着弾まであとわずか」

 

 電話連絡員の声音から力が消えていた。

 

「〇四〇」

 

 操舵手の声が聞こえたとき、船のすぐそばから大きな音が聞こえた。

 ボイルの体を構成するありとあらゆる骨が強烈な衝撃で貫かれ、歯がガチガチと震える。頭が前後左右に揺れ、座席ベルトで固定したボイルの体が投げ出される。ベルトが肉に食い込み引き絞るような痛みが走った。一瞬蛍光灯が明滅したがすぐ元に戻る。振動に強いモニターだけは動じた様子がなかった。

 

 

 敵の魚雷はごつごつとした岩場の頂に命中して信管を作動させた。コリンズ級は巨岩が積み重ねられた斜面に横たわっていた。高性能火薬による最初の爆発、そして圧力波の衝撃による致命傷を免れたものの、無傷というわけにはいかなかった。船体が左に傾いて着底し、艦首と艦尾を覆った装甲がところどころへこみ、ひしゃげて亀裂が入っている。

 峡谷の斜面に当たった音波が反射しながら乱れ飛んだことから、あたりに複雑な音の響きが生じている。水を伝わってきた音により耳が痛んだ。ボイルは一時的に聞こえにくくなった耳を澄ませる。かき乱された海流の影響で一時的に能力を喪失したソナーは復活しているだろうか。

 ボイルは頭を振った。

 ――何とか死なずに済んだ。

 バッテリーが無事だったことを示しているのか、発令所の蛍光灯は青白く点灯し、空調も利いている。九死に一生を得たことを喜ぶ前に被害報告を聞かなければ。ボイルは自分を叱咤する。

 そしてあたりを見回す。発令所内は、死の恐怖に駆られて泣きそうな顔が見える。ボイルの力強い表情を目にしており、かろうじてパニックには至っていない。

 巨大なガスの泡が破裂しては収縮する。運動エネルギーと位置エネルギーを交換したとき再び衝撃波が襲いかかる。

 リノリウムの床に散らばっていたマグカップや作図道具がカタカタと音を立てて踊る。かき乱された海水の中で激しく揺さぶられながら、ボイルは深度計を見やった。

 ――深度二〇〇付近で止まっている。

 ボイルは赤い受話器をつかんだ。艦後部に位置する被害対策班との連絡を取るためだ。受話器を耳に当てるなり切迫した声が聞こえてきた。

 

「機関室で火災発生」

 

 モーターの火花が飛んでゴムや潤滑油に燃え移ったのだろうか。天井の蛍光灯が明滅している。しばらくしてソナーが復活してから徐々に被害の全容が明らかになる。

 

「前部で浸水音を感知」

 

 ボイルはすぐさま電話連絡員に状況を報告させるように指示する。彼は何度か問い合わせの言葉を発してからボイルを呼んだ。

 

「艦長。水雷室から応答がありません」

 

 異変を察した副長がモニターに目を走らせる。すぐに魚雷に関する項目を見つめ、データ入力がないことを知らせた。

 ――まずいな。

 そう思ったとき、伝令の若い兵士が発令所に駆け込んできた。彼は兵装士官の言葉を副長に伝える。

 

「副長。兵装士官が水雷室の漏水を報告しています。浸水量が多く、中に入れません」

 

 すぐそばで伝令の言葉を耳にした当直海曹が、プラスチックの保護カバーを開けて緊急高圧空気注入(エマージェンシー・ブロー)のハンドルに手をかけていた。

 すぐに意味を悟ったボイルは深くうなずきかけ、あわてて首を振りなおした。

 

「当直海曹。水雷室に高圧空気を注入しろ」

 

 高圧空気を注入することで浸水量を抑えるのだ。ボイルは口元にマイクをつけた連絡員に水漏れの程度を聞く。

 連絡員が分厚いヘッドホンから聞こえてきた内容を中継した。

 

「毎分二〇センチの割合で浸水しています」

「わかった」

 

 状況はよくなかった。

 コリンズ級を修理するため港に帰らなければ、という思いがボイルの頭をよぎった。今度は操舵手に舵の状態を問い合わせる。

 

「艦後部の横舵、縦舵ともに異状は認められません。ただし修理中の前部潜舵が破損して展開できなくなりました。乾ドックでの修理が必要です」

 

 これで水中での機動性が大きく損なわれた。特に深度調整に影響を及ぼす。ボイルはこれ以上の戦闘継続は危険だと感じる。

 

「艦長。浸水の勢いを和らげるために浮上しますか? この深度では船体にかかる水圧が高いため、修理が難航するものと推測します」

 

 二一気圧だ。副長の申し出に、ボイルは首を振った。

 

「いや浮上はだめだ。アンノウン1はいきなり魚雷を発射してくるようなやつだ。まだ何か仕掛けてくる可能性がある。しばらくは死んだふりを続ける。今は被害対策班に奮闘してもらうしかない」

 

 ずっと死んだふりを続けることにより、敵が戦闘終了を判断してくれたらよいのでは、とボイルの心に希望的観測が浮かぶ。今は身を潜めて待つことしかできない。だが、ソナー室からの連絡が再びボイルたちを激しい緊張を強いる。

 

「ソナー室より連絡。アンノウン1がこちらに接近しています。速力四〇ノット(時速七四キロメートル)! 接敵まで残り二分です」

 

 ――今攻撃されたら反撃ができない。

 ボイルの背筋に冷や汗が伝う。魚雷発射管は浸水のため区画ごと電力が遮断されており、機関室は消火作業の真っ最中だ。

 

「アンノウン1の空洞現象(キャビテーション)音を感知。本艦直上を通過。速力六〇ノット(時速一一一キロメートル)……いえ七〇ノット(時速一二九キロメートル)です」

 

 魚雷並の速度だ。ソナー長が発令所でも聞こえるようにスピーカーをつないだ。海水が泡立ち、破裂する音が聞こえてくる。

 ――新型か?

 ボイルは、ソナー長が似ているとしたヴァージニア級原潜の推進装置(ポンプジェット・プロパルサー)の概要図を思い浮かべる。

 消音タイルによって内部の音が漏れにくくなっているとはいえ、アンノウン1が通過する間、誰もが息を潜めていた。

 

「アンノウン1が遠ざかっています。速力に変化なし」

「発令所よりソナー。アンノウン1の音紋を記録したか」

「はい。艦長」

 

 ボイルは戦闘に見合う対価を得た、と片頬をつり上げて不敵な表情をつくった。

 ――戦闘記録を提出しなければ。

 そのためには無事に浮上して直接通信するか、もしくは通信ブイを用意するしかない。ボイルは情報共有を心に留め置きながらソナー長からの逐次報告を聞いていた。

 

 

 艦内の巡回を終えた副長が発令所に戻ってきた。金髪に(すす)と油が付着し、頬に玉のような汗がいくつも浮かんでいる。ボイルが発令所の片隅で資料を広げていると、副長が声をかけてきた。

 

「艦長。戦闘後被害状況の概況報告にまいりました」

 

 そのときボイルは机に海底測量データが広げ、薄い色をしたコーヒーをすすっていた。マグカップを置いてすぐに振り返った。

 

「報告してくれ」

 

 副長の口から死者一名という言葉が出た。水雷室で作業していた水雷員のひとりが、隔壁を突き破って勢いよく噴きだした水を浴びて頭を打ち、死亡したのだ。浸水については破口を塞ぎ、ビルジ・ポンプをフル稼働させて排水している。機関室の火災は鎮火。負傷者が出たものの軽傷で済んでいる。主系統のモーターが破損したため、現在は予備のモーターを稼働させている。前部潜舵が作動不能となり、高速での深度制御が困難になった。

 

「それから水雷室ですが……自動装填装置が壊れました。現在修理を進めていますが、現状では手動装填となります。一番から三番まで爆発の影響で外部扉がひしゃげています」

「外部扉が開かないのか?」

「そのとおりです。乾ドックで修理しないと……」

 

 副長は言いにくそうな顔をしている。ボイルはこの船が来年には退役することを思い出す。

 ――おそらく名誉の負傷のまま退役することになる。

 もとより最後の航海だった。コリンズ級としては最初の実戦を経験した艦となり、少なくともオーストラリア海軍史に名前が残る。

 

「司令部に今回の戦闘について報告しなければならない」

 

 副長に帰還の意思を示したとき、ボイルはソナー長からの報告を聞いた。

 

「ソナー室より発令所」

 

 アンノウン1に変化があったのだろうか。

 

「距離四万メートルでアンノウン1の流体雑音(フローノイズ)が消えました」

「減速したか機関を止めたのか」

「そこまではわかりません」

「付近に魚雷は」

ありません(ネガティブ)。艦長」

 

 ――気味が悪いな。

 ボイルは敵が何もしなかったことを気にかけていた。敵のソナーが浸水に気づいてわざと見逃したと考えるべきだ。新型ならば情報を外に漏らすべきではないと考えるのではないか。こちらは流体雑音(フローノイズ)空洞現象(キャビテーション)音を入手している。隠密(ステルス)性を高めるためにデータの流出に対して敏感になっていることが考えられた。

 

「艦長」

 

 口を真一文字に引き結んでいたボイルは副長に視線を移した。

 

「アンノウン1はわれわれの位置を把握しています。魚雷の探知範囲ぎりぎりからのアウトレンジ攻撃をしてこないとも限りません。魚雷の装填を提案いたします」

 

 副長も同じことを考えていた。ボイルは、アンノウン1の艦長が戦いの雰囲気に慣れてきていると感じていた。

 

「よし。念のため四番と五番に起爆装置付き魚雷(Mk48 ADCAP)を装填。六番発射管に囮魚雷を装填」

「艦長。アイ」

 

 副長が命令を中継する。魚雷を手動で装填するため、今までよりも時間がかかる。だが、アンノウン1が水域を離れていないとも限らない。距離が離れているので魚雷の装填音に気づかれる可能性が低いとはいえ、念入りに作業を行わなければならなかった。

 ボイルたちは魚雷装填が終わるまで艦を動かしたくなかった。水雷室では乗組員が二つのグループに分かれていた。自動装填装置を修理するグループと、手動装填用の滑車装置を大急ぎで設置するグループだ。死亡したひとりは手動装填の訓練を積んだ精鋭である。今、彼は死体袋の中で永遠の眠りについていた。

 

「艦長。兵装士官より連絡。四番、五番、六番発射管の魚雷装填が完了しました」

「よろしい。ただちに注水してくれ」

 

 しばらくして副長が注水完了を告げた。

 

「よし。四番から六番発射管は圧力調整も含めて、あらゆる点で準備せよ」

 

 副長が命令を中継する。今度は操舵手に向けて指示を出した。

 

「バッテリー航走で速力四ノット。右に舵をきれ(面舵)、方位〇八〇。深度一五〇まで浮上する」

「面舵。方位〇八〇。アイ」

「機関制御室は命令受領を通知しています」

 

 船体が振動し、スクリュー・プロペラが回り始めた。海水をかきまぜ、砂を巻き上げて周囲の水が濁っていく。

 

「戻ろう。スターリングに帰るぞ」

 

 ボイルは発令所にいる全員に向けて言い放った。発令所に詰めていた兵士の顔が明るくなっていく。みんな、もう戦闘はこりごりだった。

 当直士官がバラストタンクに空気を注入する。艦首の角度が上向き、スクリュー・プロペラによって生じた運動エネルギーを使って船体をゆっくりと持ちあげる。

 深度計を見つめるうちに、ようやく船体の角度が前後左右に水平になるよう調整されていた。ボイルは当直士官の手際を素直にほめ称える。そして速力四ノット(時速七キロメートル)になったとの知らせがあった。

 

「水雷室より発令所。四番から六番まで発射準備完了」

 

 ――お守り代わりだ。

 いつでも発射できる武器を手に入れたことで不安を拭い払った。コリンズ級(彼女)が傷だらけの体を引きずりながら右に傾き、旋回を始めた。

 操舵手が一〇度ずつ艦首の向きを知らせる。

 

「方位〇八〇です」

「よろしい」

 

 ボイルは今のところ自艦の問題だけを処理できていると感じていた。このままアンノウン1の妨害なければ無事にスターリング港へ帰ることができる。ウォーラー(SSG 75)シーアン(SSG 77)、そしてそうりゅう型と海兵たちが待っている。

 ボイルが首を横向けたとき、艦内通話装置の受話器をつかんだ電話連絡員の顔が目に映る。ボイルの心に悪い予感が生じる。電話連絡員が若い声を思い切り張り上げた。

 

「ソナー室より発令所。ハイドロフォン(水中聴音器)に反応あり! 方位二〇〇から魚雷が接近しています!」

 

 一呼吸置いて、さらなる状況悪化を告げる。

 

「左舷方向に推進音! 方位三五九から二発目の魚雷がやってきます!」

「それぞれの距離はどれくらいだ」

「一発目は距離一〇〇〇〇メートル、二発目は距離一二〇〇〇メートル。ともに雷速五五ノット(時速一〇一キロメートル)です!」

 

 ボイルは聞き終えるや否や胸を大きく膨らませて空気を思い切り吸い込む。

 

「ただちに全速前進! 潜舵上げ最大角度!」

「全速前進、アイ」

 

 副長と当直士官が同時に答える。

 

「機関制御室は命令を受領通知しています」

 

 副長が機関制御室からの報告を中継すると、ボイルはスクリュー・プロペラによる振動を感じとることができた。振動が徐々に大きくなるにつれボイルも焦燥感を募らせた。

 ――まずいな。敵は俺たちを沈める気だ。

 船体を高さが異なる鋭い音が続けて二回当たって反響する。死神のベルだ。ボイルの顔が強張る。

 ――くそっ!

 

「ソナー室より発令所。魚雷が二発ともアクティブ・サーチを開始しました」

 

 スピーカーに二つの音が響いているのは、二本の魚雷がそれぞれの探信音を誤認しないように区別するためだ。一方は鈴を勢いよく振り鳴らしている。もう一方は口ごもるように控えめな音だった。

 

「向かってくる魚雷に方位を合わせ、有線誘導にて速射する。四番、五番発射!」

「四番発射管から魚雷発射。続けて五番発射管、魚雷発射」

 

 四番発射管は一発目の魚雷に向けて有線誘導を行い、五番発射管は二発目に対して誘導されていく。

 各ユニットが正常に航走している、と報告があった。ボイルはアンノウン1を腹の中で呪い、当直海曹が深度を読み上げるのを聞いていた。

 

「ソナー室より発令所。方位二〇〇の魚雷、距離五〇〇〇メートル。方位三五九の魚雷、距離七〇〇〇メートル」

 

 音の高さが異なる探信音が船体に当たって反響する。今回は誘導中の魚雷にも同じ探信音が当たっている。敵の魚雷は水中に目標が増えた事実に反応を示すはずだ。

 

「四番発射管のユニットが起爆しました! 敵魚雷爆発!」

 

 船体に高性能火薬の爆発による衝撃波が届く。遅れて圧力波が襲いかかった。

 

「五番発射管のユニットが起爆! 敵魚雷誘爆!」

 

 ボイルは震動に耐えつつ歯を食いしばったまま目を見開く。乗組員から歓声があがった。だが、それもぬか喜びでしかなかった。電話連絡員がソナー長の悲鳴じみた声を聞くや、彼も同様の声を発していた。

 

「水中に推進音あり。方位〇〇四から三発目……四発目の魚雷音も確認! この音は……」

 

 電話連絡員が生唾を飲み込み、顔を真っ青にして叫ぶ。

 

ロシア製水中ミサイル(VA-111 shkval)です!」

「ただちに六番発射管の囮魚雷発射! 四番と五番発射管の魚雷装填を急げ。速射する!」

 

 そしてボイルは鬼気迫った表情で当直士官を呼んだ。

 

緊急高圧空気注入(エマージェンシーブロー)だ。急げ!」

「六番発射管から囮魚雷発射。スイムアウト」

 

 当直士官がすぐさまプラスチック製のカバーを開いてハンドルを回す。深度を読み上げる声の間隔が早くなった。

 爆発による衝撃波から船体を守るべく、コリンズ級は緊急浮上を選択していた。

 ――間に合ってくれ!

 有線誘導された囮魚雷は水中ミサイルめがけて突進する。

 

「四番発射管、五番発射管。魚雷装填完了」

 

 水雷員たちは持ちうる能力の限界を発揮して魚雷の手動装填を終える。注水開始を告げる連絡がボイルの耳に入った。

 

「水中ミサイルのブースターロケットが点火しました!」

 

 スピーカーを通じてゴロゴロと雷のような音が聞こえてくる。当直士官が深度を読み上げる声が響き、ソナー長が報告を続ける。

 

「水中ミサイルが超空洞現象(スーパーキャビテーション)速度に移行。雷速一〇〇ノット(時速一八五キロメートル)! さらに加速中!」

 

 兵装士官から注水が完了し、四番と五番発射管の発射準備が整ったとの知らせがあった。ボイルは間髪入れず指示を下した。

 

「四番、五番、速射(スナップショット)

 

 副長が魚雷発射成功を報告する。魚雷が轟音を奏でながら北へ向かう。

 ――間に合ったのか?

 ボイルは希望的観測にすがろうとする思いを否定した。

 

「衝突警報を出せ、()()()

「水中ミサイルが雷速一五〇ノット(時速二七七キロメートル)に達しました!」

 

 艦内に衝突に備えよ、という意味の警報が流れる。

 

「四番発射管のユニットが爆発! 水中ミサイル一基を巻き込んだ模様!」

 

 衝撃波が二、三回続いた。船体の揺れが激しく、発令所のなかは書類やマグカップなどが飛びかった。艦内通話装置のマイクがフックから転げ落ちる。コイルケーブルが伸び縮みしながら激しく暴れた。

 

「もう一基はどうなった!」

 

 ボイルが声を張り上げる。声が裏返っていたと感じたのも束の間、鼓膜が破裂しそうな轟音が全身を貫く。船体がこれまでにないほど激しく揺さぶられる。思い切り杭を打ち込まれたような感触だ。首が折れるのではないかと思うほど前後に振られた。おそらくヘッドレストがなければ死んでいただろう。

 足下から突き上げられ、エレベーターが突如制御を失って急降下をはじめたような浮遊感が生じる。続いてバリバリという何かがめくれる音がした。

 配管が左から右へ折れ曲がり、亀裂から高圧空気が噴き出す。コリンズ級の船体を気泡が包み込み、圧力波がせいぜい全長八〇メートル程度の金属をねじ曲げる。

 黒い外殻が圧力波に耐えきれずに割れる。無数の亀裂が生じて水が流れ込む間も、船体を激しく揺さぶり続けた。

 

「……艦長。……艦長!」

 

 操舵手の声が漏水音に紛れて聞こえてきた。

 ――気を失っていたのか?

 ボイルは弾かれたように声に向かって振り向いたとき、発令室の中は赤い非常灯(バトルランプ)に切り替わっていた。

 水が赤く染まって見える。腰まで浸水していたため水の中で慎重に座席ベルトを外す。操舵手の元に向かおうと振り返ったとき、眼前に何かが浮かんでいることに気がついた。

 目にした瞬間は何かわからなかった。だが、血なまぐさい臭いをかいでようやく肉片だと気付く。副長や若い連絡員の姿は消えており、死体を見るまでもなく彼らの死を悟った。

 ボイルは操縦席の前まで泳いでいき、無事だった操舵手に声をかける。そして計器を見やった。

 

「先ほど深度一五〇を超えました」

 

 操舵手は舵が効かないとボイルに告げた。

 もう一度ボイルが計器を見たとき、深度が一六〇を超えた。漏水音を船体のいたるところから聞き取ることができた。

 コリンズ級潜水艦は自然法則にしたがって海底へ沈降していった。深度三〇〇を超えたら圧壊が始まるだろう。

 ――窒息死か圧死するか、それとも焼け死ぬのか。

 ボイルは一瞬だけ目を閉じた。

 

 

 




 これにて「水域」は終わりです。
 次回からいつも通りIS学園が舞台になります。

【補足】
・海水の静水圧
水深9.75m=1気圧
※結果は小数点以下を切り捨てました

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