IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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 大変長らくお待たせ致しました。今回から新章「GOLEM」が始まります。「水域」は新章のプロローグ的扱いです。にわか知識で書いた内容なので拙いと感じる部分が多々あるかもしれません。それでも楽しんで頂けたら幸いです。

・潜航時、機関切り換えのタイミングに明らかな誤りがあったため、関連する文章を修正しました。


GOLEM
GOLEM(一) 水域・上


 五月上旬。南半球では秋が訪れていた。

 イーサン・ボイル中佐は、ロットネスト島西方の水域を航行するオーストラリア海軍コリンズ級潜水艦のブリッジ上にいた。艦尾方向から近づく航空機の姿が大きくなるにつれ、騒がしさが増している。ボイルは騒音が気になるあまり、ロットネスト島の島影を見やるつもりで振り返った。鋼鉄の鳥が翼を広げ、その先端から細い白線を空に描き出す。そして低空をわがもの顔で踊っていた。

 複座型のスーパーホーネット(F/A-18F)が耳をふさがずにはいられないほどの爆音をとどろかせている。国旗をはためかせた潜水艦の脇を通り過ぎながら、あいさつ代わりのバレルロールをしてみせた。

 ボイルは口笛を吹き、歯を見せて笑う。二基のターボファンエンジン(F414-GE-400)が奏でる騒々しい音を追って顧みる。スーパーホーネット(F/A-18F)が機首を上げて上昇機動に移った。アフターバーナーが日光に負けじと強く瞬いて、雲の波間に消えていった。

 ブリッジから眺める久方ぶりの青空だった。冬が近いからだろうか。ボイルはがっしりした体に日の光を浴びながら潮風の中にわずかに漂う冷気を感じとった。

 海面にうろこのようなさざ波が立っている。波が艦首にぶつかって縁が白くにごる。コリンズ級は全長約八〇メートルの通常型動力潜水艦で、オーストラリア海軍にはこの艦を含めて六隻所属する。

 甲板士官を兼任する副長が名残惜しそうな顔をしている。ボイルは胸をそらして潮風を思い切り吸い込んだ。

 ボイルは副長がそんな顔をする理由を知っている。 

 ――この艦は来年になれば退役だ。

 ドックには日本から輸入したそうりゅう型潜水艦が待っている。通常動力型としては最大級の潜水艦だ。

 そうりゅう型の導入するにあたって日本政府と一悶着があった。日本政府は武器輸出三原則という建前を気にして輸出を渋っていた。一時は誰もが購入は無理だと考えた。コリンズ級を改修するため、技術を輸入しようとする動きもあった。だが白騎士事件の後、再度交渉の席に着いた日本政府の意見が一気に輸出へ傾いたのだ。

 ――不謹慎だが、白騎士には感謝している。

 ボイルはそうりゅう型潜水艦の艦長として内定している。オーストラリア海軍において潜水艦乗組員は人員不足が続いていた。ボイルのような艦長経験者が少ないのだ。薄給がもとで転職した仲間も多い。そんな雰囲気の中で彼が海軍を辞めなかったのは潜水艦という艦種が好きだからだ。

 ――ただし、給料の手取りを据え置きにされた恨みは深い。

 白騎士事件はすべての兵科において予算面で大きな影響をもたらした。事故だったとはいえオーストラリアも日本に向けてミサイルを発射している。ボイルを含めた多くの人々が北へ向かって飛翔するミサイルの噴煙を目にしている。目撃者によってインターネットの動画投稿サイトにその光景がアップロードされた。そして政府は日本に多額の寄付金を支払う羽目になった。もちろん寄付金の内訳は軍事費を削り、公共事業を削減し、公務員の給料から一定比率の金額を天引きしたものだ。日本国民に多数の死傷者を出してしまっては、文句を言える立場ではなかった。

 白騎士事件が全世界に認識された発端は、白騎士に取り付けられたカメラのライブ映像がインターネットの動画投稿サイトにアップロードされたことである。

 そして世界中から耳を(ろう)するような爆音とミサイルの航跡が続々と投稿された。東京湾上空に激しい花火があがったことを契機に徐々に視聴者が増えていった。白騎士の機動にあわせて画面が激しく揺れた。ミサイルを次々と撃ち落とす。轟音が鳴り止まない。映画のワンシーンと見紛うばかりの迫力に呆然とする。当時のボイルには事実と認識しがたいものがあった。あわてて家でくつろいでいるだろうMSDF(海上自衛隊)の知り合いに国際電話をかけてみたがつながらなかった。

 白騎士の戦いはCGではなかった。迫り来るミサイル群を東京湾に面したライブカメラがとらえていた。航空、海上自衛隊が迎撃ミサイルを射出する。やや遅れて陸上自衛隊も対応する。来襲したミサイルが次々と撃ち落とされていく光景が配信された。

 動画投稿サイトのライブ映像は白騎士の被弾によって終わりを告げる。おそらくカメラが吹き飛ばされたのだろう。映像が終わる直前、狭い空間を肩を寄せ合うように飛ぶミサイルの姿が撮影されていた。

 今度はテレビが映像を配信した。白騎士が低空に降りたときの姿をテレビカメラの望遠レンズがとらえた。ミサイルが音速をはるかに超えた速度で突っ込んでくる。一〇〇発以上被弾したことにより、白騎士の姿が変わり果てていた。それでもなお動き続ける白騎士は現実離れした存在に思えてならなかった。

 ボイルは中継映像を今でも鮮明に覚えている。煙の中から現れた白騎士は、左肩から先が消し飛び、両膝がちぎれていた。右手だけで剣を振る。白騎士のパイロットは死にかけていた。命を燃やし尽くすように光線を撃ちだしては迎撃を続ける姿は悲壮感に満ちあふれたものだ。

 奮闘むなしく、東京湾横断橋に一発のミサイルが飛び込んだ。通行中の車両もろとも崩落する。巡航ミサイルに近づいた航空自衛隊のイーグル(F-15J)が自機の渦流を用いてはたき落とそうとした。そして判断を誤ってミサイルとともに海面に激突する瞬間が全世界に配信された。幸いパラシュートが開いたのでパイロットは無事だったらしい。だが、別のイーグル(F-15J)バイパーゼロ(F-2)がミサイルにわざとぶつかって大爆発を起こした映像もある。浦賀水道や湾内にミサイルが落下し、数十メートルにおよぶ水柱が無数に立ちのぼる。羽田空港では、拡張工事を終えたばかりの真新しい滑走路にもミサイルが着弾した。点検車両に乗っていた職員をこの世から消し去る。駐機中の旅客機が至近弾によって横転する。爆風が周辺の住宅やオフィスビルの窓ガラスを割る。ミサイルの破片が東京湾沿岸にまき散らされた。港湾施設や商業施設、住宅街と分け隔てなかった。ヒドラジンなどのミサイル燃料も降り注いだ。コンテナ船の大爆発。海上保安庁の巡視船や漁船にミサイルが突入し、炎上。巡視船がくの字に折れて着底する。漁船にいたっては船体を貫通し、乗組員の体が粉々に砕けて魚の餌に変わった。硝酸などの有害物質との接触や吸入による人々の健康被害。世界中が日本の首都圏の惨状に目が釘付けとなったのだ。そして誰もが第三次世界大戦の始まり(この世の終わり)を想起した。

 ――あの事件において迎撃に成功したミサイルは約八割。一九〇〇発と少し。それでも、ISが脅威であることには違いない。

 白騎士事件の第二段階を思い出す。失った手足を再生した白騎士と水上戦力の間で偶発戦闘が生起した。海底に引きずり込まれた艨艟(もうどう)たち。白騎士に立ち向かった戦闘機は鋼鉄の翼をもがれて火球に変わった。白騎士来襲に備えてボイルにも召集がかかった。

 ――結局、戦争にはならなかった。

 日本は報復戦よりもむしろ復興を優先させたため、痛み分けという形で第三次世界大戦を回避した。どの国も戦争遂行のための資金がなかった。そして日本でミサイル・ショックと呼ばれた一連の騒動が発生する。大きな動きとして、日本の世論が自衛隊の戦闘行動容認へと一気に傾いたことだろう。そうりゅう型のオーストラリア、ベトナムへの輸出はそのどさくさにまぎれて決まった。アラスカ条約に関連してIS学園設立と運用にかかわる多額の資金を寄付金という名目でミサイル発射国に背負わせることで片をつけた。その後さまざまな問題が表面化したことで頭が冷えたのか、現在の穏便な形に落ち着いている。

 ――順調にいけば、現国会でようやく自衛隊法およびその関連法改正案が審議を通過するはずだ。

 ボイルは再び視線を海面に向ける。

 顔の真正面から受けていた風が右頬に当たっている。相対風の向きが変わったのだ。海の状態が変化する。潮が艦首から見て右から左へ流れていた。浅い海が少しずつ深くなっていく。ボイルは腕時計に目を移し、もう一度空を見上げた。

 ――この青空としばらくお別れだ。

 

発令所(コントロール)。こちらブリッジ。潜航準備」

 

 ボイルは艦内通話装置(インターコム)を通して指示を出す。ブリッジのジャイロコンパスに目をやり、針路に変化がないことを確かめる。水深を測定するための機械のボタンを押す。結果は水深八〇メートルだ。コリンズ級の最大潜航深度は約三〇〇メートルとされている。もう少し西へ進めばさらに深くなる。最大潜航深度よりも深い海底に沈没していったとしよう。圧縮された空気によって艦内が炎に包まれるか、艦の圧壊が先か競うことになるだろう。

 見張りが国旗を取り外し、ブリッジを降りていく。ボイルが東を向くと、ロットネスト島が見える。島を背景にして彼らを見守るうちにブリッジの人影はボイルだけとなった。

 最後にボイルが司令塔へ降りた。ハッチに手をかけ、固定する。はしごを降りてふたつ目のハッチの点検を終え、すぐそばにいた兵士が密閉した。

 

 

 コリンズ級潜水艦は艦長のボイルが操艦指揮を行い、副長が潜航士官を務める。

 発令所にはボイルと副長のほかに当直海曹や操舵手、連絡員などの姿がある。当直海曹が眉間にしわを寄せてバラストやトリムの調整にかかりきりになっていた。

 バラストとは船体の安定を保つために使用する重量物のことだ。潜水艦の場合、タンクに海水を注水することでおもりとして機能させる。トリムとは船の前後傾斜を指す。

 全区画から報告が入ってくる。水漏れや火災、装備の損傷といった事故に直結するような状態がないことを確かめる。チェックリストを使って潜航の条件が整っているかどうかを照合する。

 

「艦長」

 

 緊張した顔つきのボイルに向かって、隣席の副長が続けた。

 

「潜航準備が整いました」

「よし」

 

 ボイルは手順に従い速力を決定する。

 

速力二ノット(時速三キロメートル)

 

 副長はボイルの指示を機関制御室へ伝えるべく、マイクを手に取る。何度も行ってきた手順なので手慣れたものだ。

 

「機関制御室。こちらコントロール。速力二ノット(時速三キロメートル)

 

 副長が機関制御室が命令を受領をボイルに伝える。

 ――いよいよ潜航だ。

 ボイルは全身が水に埋もれていく感覚を思い浮かべて心が躍る。

 ――ほかの水上艦艇では決して味わえない。だから俺は転職のすすめを断ってきたんだ。

 潜航する、と前置いてからボイルが目標深度を決めた。

 

「潜航士官。潜航開始。深度二〇メートル」

「潜航します……深度二〇メートル」

 

 深度二〇メートル、つまり潜望鏡深度までゆっくりと船体を沈めるつもりだ。当直海曹はずっとモニターを見つめてトリムの状態を見守っている。

 警笛音が鳴った。とにかくやかましい。副長を一瞥したところ妙ににっこりとしている。彼は潜航警報ボタンを押していた。

 続いて当直海曹が全艦放送で潜航開始を知らせる。

 この放送の後、バラストタンクへの注水状況を見なければならない。

 ――怖い顔をしているだろうな。

 当直海曹の強面が集中するあまり迫力を増していた。腹の中に大量の海水を蓄えて沈むための準備が整っていく。

 操舵手が操舵輪を動かして艦首を下げる。もし床に立っていれば、どこかにつかまっていたくなる角度だ。コリンズ級潜水艦の丸っこい鼻先が沈む。そして鼻の頭から突き出た円筒が波の下に沈んだ。

 副長がモニターに表示された値をにらみつける。

 

「艦首は水中。深度二〇メートル」

 

 司令塔が沈み、ブリッジ上のアンテナやECMマスト、シュノーケル、排気口など水上に顔を出している。

 

「操舵、艦尾横舵五度」

「艦尾横舵五度にします」

 

 操舵手は艦尾横舵で深度を調整する。コリンズ級は横舵や縦舵もすべてひとりで操縦できるようになっていた。

 潜望鏡深度に達したので号令が飛び、操舵手が前部潜舵や横舵を水平に保つ。

 その間、当直海曹は忙しなくモニターを見つめ、船体が水平を維持できるようにトリムを調整した。左右の傾きを抑えるため船内のタンクからバラスト水(海水)を排出する。

 ――手慣れたものだ。

 ボイルは当直海曹らの真剣な顔つきを一瞥する。

 副長が再びチェックシートを照合していき、異常がないことを確かめる。

 

「機関停止。バッテリー航走に切り換える」

 

 一拍おいて操舵手が答える。

 

「機関停止。アイ」

 

 続けて機関制御室が命令を受領したことを通知する。しばらくしてやかましいディーゼル機関が停止した。動力源が蓄電池に切り替わったことを副長が報告する。水上航行中、常時艦内を覆っていた振動と低周波音が減少したせいか、発令所内の声の通りがよくなった。

 副長がチェックシートの項目を埋め、蓄電池を動力源とした潜航の準備が整ったことを告げる。

 ボイルは副長や当直海曹らの手腕に対して素直に賛辞を送った。

 特に当直海曹はボイルよりも長くこの艦に乗っている。同じ四〇代と年齢は対して変わらないこともあり、陸に上がればよい友人だ。ボイルと当直海曹、そして副長を巻き込み、ある航空機シミュレーターの潜水艦MODの開発に携わったこともある。白騎士事件後、ボイルは中佐になったことで書類上においては昇給している。だが、昇給によって生じた差額を天引きされている。公務員すべてを対象とした天引き金はすべてIS学園への寄付(賠償金)として支払われていた。

 海軍は休暇を取るように積極的に推進していた。稼働時間を減らして、業務の民間委託を増やした。国庫への負担を少しでも減らそうとしていたのだ。

 数年前、ボイルは安価な潜水艦シミュレーターの研究に携わっている。軍用シミュレーターでもよいのだが、ノート型端末が一台あれば雰囲気を味わえるようなものを作ろうとした。雀の涙ほどの予算しかおりなかったので、最初からオープンソースで開発するつもりでいた。かといって機密に抵触する内容にすることはできない。そこで誰かが「沈黙の狩猟者」なるゲームのクローンを作ろうと提案した。ある航空機シミュレーターのMODとして作れば誰も軍が関与しているなど疑わないだろう、というものだ。研究の相談事は勤務時間外にしろ、という命令が下っている。仕方なく海軍御用達のバーで酒を飲みながら仕様をとりまとめた。

 沈黙の狩猟者は主にUボートを題材にしたゲームである。クローンMODではT型潜水艦を最初から使えるようにした。海軍の記録庫を漁ればいくらでも詳細な資料を入手できたためだ。さらにボイルはこの手の話をたしなむMSDFの知り合いに「伊号から晴嵐(せいらん)を飛ばそう」と話を持ちかけた。その結果、最初からT型潜水艦と伊四〇〇型を使うことができた。

 さらに近代戦MODとの連携を考慮して通常型動力艦や原潜を追加できるようにしている。門外不出のつもりでコリンズ級のデータを試作し、世に送り出したときはオベロン級として手直しもした。

 細部まで作り込んだ結果、非力な端末ではローポリを使わなければ動作不可能となってしまった。ボイルの手を離れた頃になると有志が軽量化MODを開発するなどの動きがあった。彼らが研究開発したMODはとても完成度が高かった。今では定番MODとしてときどきゲーム雑誌に紹介されるまでになっている。

 ボイルは二年ほど前にこの沈黙の狩猟者クローンを使って当直海曹と同じ立場を体験してみたことがある。ちょうど姪の端末がMOD動作の推奨条件を満たしていた。

 ――三回出撃して、三回とも同じやつに撃沈されたんだ。

 その三回目はバーで飲んだ帰りに当直海曹と副長を誘って復讐戦のつもりだった。T型潜水艦に乗り日本商船の狩り場に向かう。そして水偵に乗った「SAKURA1921」と遭遇してしまった。日本商船を狩るつもりが、逆におびき出された事実に驚いた。後でリプレイ動画を見る機会があった。桜吹雪の塗装をした水偵が姿を見せた瞬間、阿鼻叫喚の地獄絵図が始まったことを今でもよく覚えている。

 ボイルは敵性反応の有無について副長に確かめた。

 

「ソナーから探知(コンタクト)に関する連絡は?」

 

 副長がソナー長から送付されたデータを見て不審な点がないことを確かめる。

 

連絡ありません(ネガティブ)

「よし。予定通り真西に進もう。方位二七〇」

 

 ボイルは大陸棚に沿って西へ艦首を向ける。方位は真北をゼロ度とし時計回りに指定したものを使っている。

 副長が彼の命令を操舵手に伝達する。

 

「方位二七〇」

「方位二七〇にします」

 

 操舵手が操舵輪を右手で扱い、ジョイスティックに左手を添えて艦首の向きを変えた。

 

「方位二七〇です」

 

 さらに副長がボイルに向かって同じことを復唱した。

 水上は静かなものだ。荒れても良さそうな時期だが、とてもおだやかな海だった。

 

「副長。曳航(えいこう)式アレイを出してくれ。修理してから調子が戻っているか確かめたい」

 

 ボイルからの命令を聞いた副長が当直海曹に向かって命令を伝達する。当直海曹はすぐさま命令の受領を伝え、スイッチを入れた。

 船体から曳航式アレイが放出される。曳航式アレイはパッシブソナーの一種で多数の水中マイクを並べたケーブルを潜水艦で引っ張って使用する。潜水艦で使用するものは全体の長さが数十メートルにおよぶ。

 曳航式アレイは前回の航海のとき、艦内に収納するための巻き上げ機の不具合により、水中マイクの一部を損傷していた。修理によって以前と同等の性能が出るかどうかソナー長に確かめさせようとする。

 ボイルは曳航式アレイを出し終わったのを確認した後、ゆっくりした声を出した。

 

「深度五〇メートルへ潜航」

「深度五〇メートル。了解」

 

 副長が命令を受領したことを伝える。ボイルは角度をつけて潜るように指示を出す。

 

「艦尾横舵五度下へ」

 

 水平を保っていた足元が傾き、額が前に倒れていく。勾配がついたのがわかり、そろそろブリッジから剣山のように生えるアンテナやマスト類が海に沈む頃合いだ。

 ボイルは頭の中で計算し、本当の意味ですべての船体が海中に沈んだと予測する。副長の声が響く頃合いだと思った。案の定、アンテナやマストが水没したことを告げる副長の声がする。

 

「全アンテナを下げろ」

「全アンテナ、下げます」

 

 ボイルの指示に当直海曹が答える。しばらくして三〇メートル通過、と操舵手の声が響き、副長の声が後を追った。

 

 

 深度五〇メートルで船体が水平になって安定する。

 ボイルは発令所にいた全員に向けて「よくやった」と言った。

 おだやかな海のせいか、コリンズ級が発する音が最も騒々しいものだった。利かん坊でかしましく、燃費の悪いお転婆娘が蓄電池を使うことで多少は静かになる。それでもなお、同条件ではそうりゅう型のほうが静粛性で勝っていた。より高性能な潜水艦を求めた結果、システムを総入れ替えせざるをえなかった。それでも、そうりゅう型を長期間運用することを前提にすればコリンズ級を使い続けるよりもむしろ安くついた。日本製の特徴なのか燃費がよいのだ。

 隣室ではソナー長がこの船の流体雑音(フローノイズ)蓄電池(バッテリー)が発する低周波音などの音をより分けている。

 ボイルは哨戒任務中に、何度か不審な潜水艦のスクリュー音を聞いたことがある。インドネシアの近海で聞き覚えのないディーゼルエンジンの音が響いていることに気づいたのだ。お互いエンジンを動かしていたのでやかましかったに違いない。コリンズ級がうるさいのは有名だから、相手のほうが先に気づいていただろう。しかも水域は漁船がひっきりなしに行き交っており、海洋雑音だらけだった。ボイルは頭の中で交戦規則を暗唱しながら、何事もなく素通りした。

 原潜の通過にも遭遇したことがある。そのときは蓄電池で航行していた。頭上を通り過ぎる原潜に気づかれないよう静止した。息を潜めて音紋を収集することに徹した。

 ボイルは当直伝令に声をかけ、愛用のプラスチック製マグカップにコーヒーを入れさせる。自席のコンソールにマグカップを置き、補給したばかりのコーヒーを煎った匂いが漂う。ブレンドしたインスタントコーヒーだが、気分を味わうには申し分ない。

 ――少し薄いかな。

 マグカップに口をつける。基地で同じものを飲んだときはもっと濃かったはずだ。

 ソナー室に向かう。大人ひとりがやっと入れるような狭い部屋に、さまざまな機械が所狭しと置かれている。

 ボイルに気づいたソナー長が分厚いヘッドホンを当てたまま、チラと目配せした。

 

「前回、この水域にいた不審船のスクリュー音はありませんね。静かなものです。このあたりよりもロットネスト島のビーチのほうが雑音だらけですよ」

「あの島はいつもこんなものだろう。ほかに何か気づいたことは?」

「クジラの群がいます。少し気が立っているのかな? 警戒エコーがひっきりなしですよ。近くにサメでもいるのでしょうか」

「このあたりはタイガーシャークが多い。生身で泳ぎたくない水域だ。引き続き任務に当たってくれ」

「了解」

 

 ボイルは(きびす)を返して発令室に戻った。

 ――何もなければそれで構わない。

 自分を含めて乗員を無事連れ帰るのがボイルの仕事だ。哨戒任務で他国の潜水艦と遭遇したり、ときどき環太平洋合同演習に参加するよう辞令が下ったこともある。

 ――無事に航海を終えたら退役式と新型(そうりゅう型)のお披露目式のメッセージを考えなければ。

 ボイルは自席に戻るまでの間、ふと(めい)への誕生日プレゼントについて思い出す。

 ボイルが三二才のとき、三つ下の妹が生んだ子供だ。姪は今年で一三才になる。義弟に似て美人だった。妹や自分に似なくてよかったと神に感謝するほど美しく育ち、しかも賢い。彼女はダリル・ケイシーのファンだ。ISに乗りたい、とよく口にしていた。

 だが、ボイルは年頃の少女が喜びそうなプレゼントが思いつかなかった。

 ――去年はうかつにもヘル・ハウンドの模型をプレゼントしてしまった。本人は気を使ってくれたようだが……。

 妹の突き刺すような視線を思い出して身震いする。そして記憶を巡らせ、姪が「ちょっとほしいかも」と興味を示した模型のコマーシャル映像を思い出す。

 ――確かMSDF(海上自衛隊)所属のISだ。名前は……思い出したぞ。その名も()()()()()()

 ボイルは去年の失敗を反省することなく、不評なら自分のものにしてしまえばよいとほくそ笑む。すぐに他愛もない思考を打ち切る。艦長の顔に戻った彼は航法モニターへと視線を移す。

 そのとき隣室で、ソナー長が異常な音に気づいた。ゴツンという音だ。彼は発令室にそのことを報告し、その後も注意を払い続けた。

 

「ソナー室より発令所」

 

 副長が即座に艦内通話装置のマイクをつかむ。

 

「どうした」

 

 副長はおだやかな声で聞き返す。ソナー長がひどくあわてながら怒りをぶつけるような声で叫んだ。

 

ハイドロフォン(水中聴音器)に感あり!」

 

 艦首部分に設置されたパッシブソナーは、その表面に多数のハイドロフォン素子を並べている。三六〇度全周囲、三次元的に音を拾うことができる。真後ろについては自艦が発する雑音が大きい。だが、二〇年以上におよんだ運用の結果、フィルタの精度も向上している。

 悲鳴じみた叫び声を耳にした瞬間、男たちの目が点になった。彼らはすぐさま立ち直って艦のために動く。しかし、誰もが次の報告に聞き耳を立てていた。

 

「水中に魚雷! 本艦のすぐそば! 距離が近すぎて計算できません!」

 

 ソナー長の声に覆い被さるように海がうなった。爆発の衝撃で船体が沈みこむ。艦にいた全員が前後左右に揺さぶられる。マグカップがひっくり返って飲みかけのコーヒーをぶちまけた。書類がリノリウムの床に落ち、一部はコーヒーの上に落ちて染みとなる。続いて船体が右に倒れる。衝撃に流され、当直海曹が中性浮力と水平トリムを維持しようと必死に指をおどらせる。操舵手が眼前の計器をにらみ、必死に操舵輪を握る。ボイルたちは座席ベルトのおかげで大事はなかった。

 

「操舵、ただちに全速前進!」

 

 ボイルが大声で命じた。一刻も早くこの場から逃げ出すためだ。

 誰かに胃を思い切りつかまれた気分がして、胸がぎゅっとしめつけられる。心臓の音がどんどん大きくなる。息苦しさを感じて初めて激しく緊張していると気づいた。それでいて現実感が希薄だった。かつてボイルがSFや架空戦記を読んで胸を躍らせた潜水艦乗り同士の戦いに身を置いている。だが、ワクワクドキドキはどこにもなかった。自分自身を含めた四五名の命がボイルの判断、そして乗組員たちの働きにかかっている。ボイルは緊張のあまり吐きたくなった。

 

「ただちに全速前進、アイ!」

「機関制御室は、ただちに全速前進を受領通知しています」

 

 操舵手と副長が立て続けに報告する。

 ――ソナー長の報告から爆発までが速すぎる! 接近に気づかなかったのか!

 爆発の衝撃で海中に音が散乱している。海底エコーだろうか。今度は足元が小さく揺れた。

 ――流体雑音も空洞現象音も感知できなかった。原潜か? シーウルフ級、ヴァージニア級……ありえない。

 ボイルは吐き気をこらえながら、すぐさま確認する。曳航式アレイにより探知範囲が向上しているはずだ。

 

「発令所よりソナー。探知(コンタクト)はないか?」

 

 副長がソナー長に確認する。

 

ありません(ネガティブ)

 

 ボイルは心の中で舌打ちした。

 ――キャプター機雷に待ち伏せされた? そうであればソナー長がもっと早く気づくはずだ。おそらく背後から忍び寄って至近距離での速射(スナップショット)

 そのとき若い電話連絡員が声をあげた。

 

「発令所よりソナー室。右舷、前部潜舵付近から異音ありとの報告です。流体雑音(フローノイズ)が増大しています」

「他には」

ありません(ネガティブ)

 

 ボイルは操舵手に舵に違和感がないか聞いた。

 

「確かに舵の利きが一瞬遅くなっています。普段なら特に問題はないと思いますが、現状では艦尾横舵を主に使えば何とか……」

「わかった」

 

 その後電話連絡があり、前部潜舵は修理中との報告があった。

 ――運が良かった。

 ボイルはひとりごちる。

 だが、安堵のため息をつくには早すぎる。続けざまに艦内通話装置のブザーが鳴る。ボイルは思わず息をのんでいた。受話器を耳に当てた副長の口からどんな最悪の知らせが飛び出すのか。発令所にいる全員がおそれおののく。

 

「ソナー室より連絡。曳航式アレイに一過性の機械音あり。方位一五〇です」

 

 本土の周囲の大陸棚が広がっている。南南東の水域では最も深い場所で約六〇メートルだ。

 

「ソナー長。距離やどんな音か、わからないか」

「敵は移動しているため正確な距離がわかりません。ですがゴツンという音がしました。さきほどの魚雷を探知する前にも同じ音がしました」

「引き続き警戒してくれ。もしかしたらより詳細なデータが取れるかもしれない」

 

 おそらく魚雷を装填したときの音だ。音響ミスも考えられた。だが、先ほど本物の魚雷に襲われたことからミスの可能性は低い。

 ボイルは頭の中で交戦規則(ROE)を満たしているかどうか検討する。状況としてはすでに攻撃を受けていて自衛戦闘の条件を満足している。水上艦ならば攻撃を加えた者を目視可能ならば警告を加える。だが、ここは海中だ。姿なき敵は探知音(ピン)を打つことなく、いきなり引き金を引いた。

 ――俺たちはこういう事態のために訓練してきたんだ。

 まだ吐き気がする。口の中は胃酸とコーヒーが混ざり合っている。コーヒー豆を浅煎りしたような酸味が広がっていく。

 ――初めての実戦だ。正確には二回目。しかし、白騎士(インフィニット・ストラトス)の戦場は遠すぎた。

 冷えたコーヒーが飲みたい。ボイルは乾ききった口の中を潤したかった。

 ――逃げるのが一番だが、こちらは相手の正確な位置がわからない。機関を止めて着底した状態で撃ってきたのか。静粛性の高いポンプジェット・プロパルサーを装備しているのだろうか。

 推測しようにも情報がなかった。それでも、なぶり殺されるわけにはいかない。

 

「副長。敵は次も撃ってくるぞ」

「はい。おそらく。いいえ……間違いないでしょう。この水域には航行中の船舶がいません。水上の風速もおだやかです。さきほどまでわれわれがノイズメーカーの役割を果たしていましたから、相手はこちらの位置を知っているものと推測します」

 

 ボイルはすぐさま腹をくくった。実際に口にする場面は一生ないだろう思っていた交戦規則の一文を暗唱する。

 

「交戦規則は自領域内での自衛戦闘に適合し、海中での兵器使用を認可したものと断言する」

 

 副長はためらうことなく力強く言い放つ。

 

「同意します。艦長」

「よろしい。では航海日誌に記録してくれ。すべてのMk48高性能魚雷(ADCAP)に起爆装置を取り付けてくれ。目標動静解析(TMA)の数値を入手しだい一番発射管に装填しろ。二番、三番発射管に囮魚雷を装填せよ」

 

 囮魚雷にはコリンズ級のディーゼルエンジンが奏でる騒音や蓄電池航走時のスクリュー音が記録されている。音紋に向かって航走する魚雷や敵潜水艦のソナーを欺くためだ。

 ボイルはひと呼吸置いてから付け加えた。

 

「総員配置警報を出す。対潜水艦戦闘配置。急げ」

 

 

「ソナー室より発令所。ハイドロフォン(水中聴音器)に反応あり!」

 

 副長が艦内通話装置をつかみとっていた。

 ボイルは魚雷が発射されたと直感し、目標動静解析に必要なパラメータを数え上げていく。自艦の攻撃準備が間に合うかどうかやきもきした。

 ――来たか。反撃できるまで持ちこたえられるのか。

 現在、水雷室では搭載魚雷に対して起爆装置取り付けを行っている。魚雷の搭載数は一二基。残り一〇基はハープーン対艦ミサイル(UGM-84)だ。

 

「方位一五〇から魚雷! 雷速三〇ノット(時速五五キロメートル)! 本艦との距離が離れていきます!」

 

 ボイルは不思議に思った。この付近にはクジラがいる。もしや潜水艦と誤認したのだろうか。

 

「魚雷の種類はわかるか?」

 

 ひと呼吸遅れて副長がソナー長が導き出した答えを伝える。

 

流体雑音(フローノイズ)の特徴からMk48高性能魚雷(Mk48 ADCAP)と判定します」

 

 有線誘導中のMk48はソナーを母艦の耳代わりに利用できる。アクティブ・ソナーで相手の位置情報を入手し、かつ自艦の位置を知らせずに運用することが可能だ。

 

「発射位置は五五〇〇メートルの距離と推測します」

「近いな……わかった。その位置から発射したものとして考えよう。目標動静解析(TMA)を始めてくれ」

 

 目標動静解析は方位率やドップラーによる射程率などの数値をもとに計算を行い、海中を移動する目標の運動を推測できる。魚雷に目標のデータを入力する際にこの目標動静解析によって得られた値を利用する。

 ボイルは敵がこの艦の位置を把握している前提で、今回の魚雷発射について考えを巡らせる。

 ――敵はわざと一本ずつ撃っているのか? 一発目は本艦よりも浅深度で爆発した。感知されることなく速射(スナップショット)してきた相手にしては……ずさんすぎる対応だ。

 電話連絡員がボイルを呼ぶ声がした。

 

「艦長。水雷室より連絡。起爆装置の取り付けが完了しました」

「わかった」

 

 ボイルは腕時計に目を落とす。全速のままバッテリーを使い切れば潜望鏡深度まで上がって、大食らいでやかましいディーゼルエンジンを始動させなければならない。つまり通常動力型潜水艦において最大の弱点を晒すことになる。

 ――良い的になるだけだ。

 

「操舵。魚雷発射管を敵に向ける。左へ舵をきれ(取り舵)、方位一四〇。速力四ノット(時速七キロメートル)に変更」

「機関制御室は命令を受領通知しています」

 

 副長がモニターを見ながら報告する。

 

「取り舵、方位一四〇。アイ」

 

 操舵手が指示を復唱する。ほどなくして船体が左へ傾く。急速に旋回が始まり、慣性がかかる。

 操舵手が計器を見ながら一〇度ずつ声で知らせる。その最中にソナー長が先ほどの魚雷が遠ざかっていると告げた。

 船体の傾斜がなくなり、操舵手が旋回完了を報告する。

 

「方位一四〇です」

「よし。発令所よりソナー。さっきの魚雷はどうなっている」

 

 ボイルは軽く首を振り、すぐに副長を介してソナー長に確認する。

 

「ソナー室。魚雷の針路は変わっていません。方位二四五、距離一二〇〇〇メートル。どんどん離れていく……爆発、今!」

 

 海中の音速は地上の五倍だ。そして海水は硬質なため、地上とくらべて爆発の破壊力ははるかに大きい。衝撃波が到達して船体が揺れる。今度は机上のコーヒーカップや筆記具が床に落ちるようなことはなかった。ソナー長が爆発地点の周囲にクジラのエコーがあったと報告する。

 ――クジラが身代わりになってくれたか。

 さらにもう一度やや弱い揺れが来た。今度は衝撃波が海底を反射して生じた震動だ。

 

「こちらソナー。水中の敵性探知物(コンタクト)を捕捉。曳航式アレイで方位一五五。艦首ソナーで方位一五二。以後、アンノウン(未確認)1と指定します!」

 

 アンノウン1は南南東付近にいると推測された。ソナーが入手した数値がコンピューターに反映され、目標動静解析の結果が補正される。この値を利用して起爆装置付きの魚雷(Mk48 ADCAP)にプログラミングする。

 

「兵装士官。二番発射管注水」

 

 ボイルの命令を副長が中継する。

 わずかに時間を経て注水が完了したことを報告した。その直後、ソナー室直通艦内通話装置のブザーが鳴る。受話器をつかみとった副長がすぐさま声をあげた。

 

「ソナー。曳航式アレイがゴツンという音……続いて流体雑音(フローノイズ)を感知!」

 

 副長はひと呼吸置いて、ソナー長の追加情報を中継する。

 

「方位一六〇! アンノウン1の一過性音と判定します」

 

 ボイルは生唾を飲み込む。先ほどと同じくクジラをねらうのか、それともこの船なのか。声が震えないよう注意して副長に向けて口を開く。

 

「今度はこちらかな?」

「水中に魚雷あり! 流体雑音(フローノイズ)空洞現象(キャビテーション)音の特徴からMk48高性能魚雷(Mk48 ADCAP)と判定します! 方位一六〇から本艦に向けて襲来!」

 

 ボイルの言葉を遮って、副長がソナー長の報告を伝える。

 ――速射してきたか。

 だが、ボイルは動じることなく魚雷への対処を行う。

 

囮魚雷(デコイ)を使う。二番発射管の外部扉を開けろ。発射手順開始」

「艦内準備よし。兵装準備よし」

 

 じわりとボイルの背筋に汗が伝う。副長の報告を聞いてすかさず囮魚雷(デコイ)の射出を命じる。

 

「二番発射管の魚雷(ユニット)は電気的に発射されました」

「兵装。続けて三番発射管に囮魚雷(デコイ)装填。浅深度の大陸棚に沿って泳ぐようにプログラミングしろ」

 

 副長が命令を伝達。ボイルは矢継ぎ早に命令を下す。

 

「音響妨害装置を右舷に向けろ」

 

 音響妨害装置はソナー探知の妨害音や艦艇の疑似反射音を作り出すための器材だ。残念ながら効果はなかった。魚雷から放たれたカーンと激しい金属音が船体を揺らす。こちらに向かってくると思ったが、ソナー室の艦内通話装置をつかんだ電話連絡員が声を張り上げる。

 

「敵魚雷が蛇行をやめてアクティブ・モードに入りました! 囮魚雷(デコイ)に向けて直進! スクリュー数とドップラー効果から雷速四〇ノット(時速七四キロメートル)!」

 

 ――うまくいきすぎているな。

 ボイルは冷や汗を垂らしながら兜の緒を引き締める。敵艦の性能がわからない状態で慢心すればあっという間に状況が悪化するものだ。空調が効いているにもかかわらず額から汗が流れ落ちた。手の甲で拭いながらモニターをにらみつける。

 囮魚雷は浅深度を這うように航走を続けている。その背後には魚雷が猛然と迫り、役目を果たそうとしていた。

 ――いよいよだ。

 ボイルはひどく淡々とした声を発した。囮魚雷ではない。本物の武器を使うときが来たのだ。

 

「一番発射管に注水」

 

 発射管に装填された魚雷は発射前に周囲を海水で満たす。魚雷を潜水艦の外に出すためには、外部扉を開けてやらなければならない。水中と発射管の圧力が不均一だと、水圧が扉の開放を邪魔する。そこで海水を注ぎ入れることにより、内外の圧力を均一にして初めて外部扉を開けることが可能になる。

 ボイルは毅然とした表情で言い放った。

 

「内外の圧力均一化も含めて一番発射管をあらゆる点で準備せよ」

 

 ボイルは緊張で口の中が渇いていた。噛みやしないかと思ったが、自分の声が意外と落ち着いていることに驚く。今ごろ水雷室は緊張した面もちで命令を待っているに違いない。

 

「敵魚雷、さらに加速! 囮魚雷を追い越しました! クジラのエコーに向かってばく進!」

 

 モニターに副長の唾が飛ぶ。

 ――クジラだと? まさか、敵も()()()なのか。

 ボイルは片頬をつり上げて目を細める。半分は平静を装い、もう半分は緊張でひきつっている。両肩にのしかかる責任を決して悟られまいと歯を食いしばる。そして心の中で秒数を数え上げながら兵装の準備が整うのを待った。

 

「一番発射管、注水完了。発射手順開始。船体準備よし。兵装準備よし」

 

 副長が訓練通りの声をあげる。すでに囮魚雷を発射したとはいえ、やはり表情が硬い。緊張が露わになり、声が震えている。

 ボイルは一音ずつゆっくりと発言した。これは演習ではない。一番発射管に本物のMk48高性能魚雷が装填されている。彼は手順に従った。

 

「一番発射管の外部扉を開けて()()

「一番発射管の魚雷(ユニット)は電気的に発射されました」

 

 スイムアウト、とすかさず副長が付け足す。スイムアウトとは発射管内であらかじめ魚雷の推進装置を作動させ、魚雷自体の推進力で撃ち出す方式だ。

 

「一番発射管の魚雷(ユニット)は正常に航走しています」

 

 ボイルはかっと目を見開いた。手のひらが汗だらけだ。本当に魚雷を撃ってしまった。仮想目標ではない本物の敵に向けて一番発射管のユニット(Mk48 ADCAP)が炸裂すれば敵艦を沈められるかもしれない。もしくは攻撃の意志をくじくことができるかもしれない。

 胸がしめつけられ、口の中に広がった酸味をむりやり飲み込む。ボイルは神でもなく、組織のためでもなく、自分自身に向かって念じた。

 ――これは自衛戦闘だ。

 

 

 




「水域・下」につづく


【補足】
・速度
ノットと時速を併記しました。ノットを時速に換算する際、以下の式を使いました。
1ノット=1.85km/h
※計算結果は小数点以下を切り捨てています

・方位
360度式を使用しました。

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