今回の話はお試し版というか、改訂版を書くとしたらこんな感じになりますよ、という告知。
わりと別物になっているので、ご注意を。
鉄が錆びたような不快な臭いが辺り一面に漂っている。
死が蔓延っている。
絶望が蔓延している。
苦悶と嘆きの声が溢れている。
そこは端的に言ってしまえば地獄という一言に集約される。現世で存在するありとあらゆる苦痛を凝縮してそれを具現化したような、奈落の果て。
そんな場所に一人の少女が歩いていた。散歩するような軽い足取りに嫋やかな微笑を浮かべている、シャギーカットの10代後半ほどの少女。名前をナディア・ハーヴェイという。
その光景は正しく異常だった。
血に彩られた庭園をゆっくり歩いていく様はまるで日溜りの中にある日常を過ごしているだけのようで、どこまでもその場の雰囲気とかけ離れている。
整った顔立ちに陶磁器のような白い肌は角度によっては精緻な人形のようにも見え、童話の絵本の1ページを子供が戯れに赤の絵の具で塗りつぶしたようだった。
血生臭い戦場に反するように、そのナディアはどこまでも透明だった。
触れてしまえば消えてしまうような、触れようとするとその手が突き抜けてしまうような。
無個性というわけでもなく、幽霊のように儚いというわけでもなく。
確かにそこに存在するのだと断言することはできても、まるでナディアだけ位相をずらした別の世界に肉体が存在するかのように。
見えているが手が届かず、憧れるだけで自分には手に入れることができないもの。
そういった意味で言うのであればナディアは間違いなく高嶺の花と言えるものだった。
手に届かないこそ、美しいのかもしれない。
けれどその実、ナディアはもはや修復が不可能なほど壊れていた。
人が死ぬ。
人が死んでいく。
意味のある死ではない。価値のある死でもない。
無意味に死に、無価値に死ぬ。
先ほどまで生きていた人間は、今ではただの肉塊だ。
ナディアは今更そんなものを見てもなんの感慨も湧かなかった。生きている人間は恐ろしいが、死んでいる人間は恐ろしくない。結局それはもう動くことのない生肉の塊だからだ。
泣いた。叫んだ。慟哭した。吼えた。絶叫した。
それはもう数え切れないほどに。けれど人間というものは繊細なようで酷く大雑把、何度も経験することで慣れてくる。けれど、助ける声になにも思わなかったというわけではない。外見を取り繕うことが上手くなったとしても感情がなくなったというわけではないのだから。
助けてと懇願する声を無視した。
足を掴む手を蹴り飛ばした。
怨嗟の声に耳を塞いだ。
どうしようもないことなのだと、自分に言い聞かせながら。
ナディアは年齢の割に達観しており、同年代よりは精神年齢が上だったかもしれないがそれでもこの仕打ちはナディアの精神を確実に蝕んでいった。
心が摩耗し、精神崩壊寸前までいった時、自己防衛のために脳は一つの考えをナディアにもたらした。
『死は日常の延長である』
死というものは誰にも等しく訪れる。人間の行き着く先は須らく死であり、絶対不可避なものだ。
日常とは誰もが経験することであり、ありふれた事柄を指す。
だから、死というものも日常とそう変わりはない。
そして人が死ぬという結果には原因が必要だ。つまり人が死ぬに至った原因も日常とそう変わりない。
――――つまり死亡率が非常に高い巨人との戦闘も日常とそう変わりはない。
ナディアは一種の認識障害を患っている。それは最早欠落といってもいい。
日常と非日常の認識不可。日常と非日常の区別がつかなくなっている。
巨人との戦闘と自宅での読書。助けを求める声と大通りの客引きの声。
どちらもあまり大差ないのだ。
故に彼女は『透明』になった。
悲愴も憤怒もありとあらゆる激情は存在しない。
無論感情そのものが消失してしまったわけではない。
けれど感情の揺らぎ、幅は間違いなく狭まっていた。
「アジド、被害の方は?」
血だまりの中、ナディアが傍らの補佐官に問う。辺りに生きているのか死体かわからないものが転がっているが、こちらはどうみても手遅れだ。
「さっきの戦闘で4人の死亡が確認されてやす。ここに転がっているのが6人で、碌に治療もできませんからねぇ、諦めた方がいいっす。後確認できないのが3人。こっちも無理っすね」
アジドと呼ばれた男の方は20代後半ほどの長髪の優男。見た目は軽薄そうな男だが、ナディアの補佐を担当している。
「分かりました。偵察部隊の方は?」
「一応出しときましたぜ。この時間帯ですからねぇ、大丈夫とは思いやすけど」
時刻は夕時、巨人は夜には行動しないというのは周知の事実だ。
「隊長も死んでしまいましたね。いてもいなくても大して変わりませんからどうでもいいんですけど」
「自分を見失って錯乱した指揮官なんて巨人よりも厄介ですからねぇ。ま、あの人も俺達を生かすために死んでくれたんですから、本望じゃないっすか?」
「あの人がいなかったらそもそも巨人に襲われるなんてなかったと思いますが。どのみち隙を見計らって首を削ごうと思っていたので、手間が省けたと思っておきましょう」
アジドは辛辣な口調で足元の元隊長だった物体Xをげしげし蹴りつける。
指揮官のくせに指揮をほっぽりだして巨人を見て先走りし、あっさり殺されたというなんとも間抜けな最期だった。おそらく極度の緊張とストレスで情緒不安定になっていたのだろうが。
ナディアに殺人に対する忌避感はない。死ぬべき人間と死んではならない人間は存在する。彼女にとって死は日常だが、それを甘んじて受け入れるというわけでもない。
だから死んでも問題ない馬鹿を巨人の囮にする程度の非情さは持ち合わせていた。
「やれやれ、調査兵団の兵士は私だけになってしまいましたね」
今回の任務は少数の調査兵団団員と短期の訓練を行った錬度の低い元一般人の混合部隊で行われている。ついに一番下っ端だったナディアにそのお鉢が回ってきた。
「姉御もついに部隊長に昇進っすね」
冷やかすようにアジドが言った。
「今にも瓦解しそうな部隊の部隊長なんてしたくはないんですけどね。タダで貰えるものは全て貰っておく主義ですが、面倒事はご免です」
「こんな戦場に放り込まれた時点で面倒事も何もない気がするんですけどねぇ・・・」
ぼやくようなアジドの言葉はまったくの正論だった。渡されたチケットは地獄の片道切符。遠回しに死んで来いと言われたのだから、その時点で面倒事どうのこうのという次元でない気がする。
「そうですね、実にウィットに富んだ斬新な自殺方法だと思います。傍から見る分でしたら他人事で済んだのですが」
肩を竦め、ナディアはそう言った。
「現状、残っているのが45人。ガスと刃の都合、怪我でまともに戦闘できるのが23人で馬は17頭。ここが巨大樹の森であることを差し引いても、複数の巨人と戦闘になったら全滅の危険性は十分にありますね―――おや?」
軽い発砲音。見上げると赤い軌跡を描く信号弾。巨人発見の合図だ。
「やれやれ、言ったそばから・・・。アジド、他の方を連れて木の上に避難してください。戦える見込みのある怪我人を優先。半死人の方は後回しで」
通常時であれば木の上に避難してやり過ごすのがセオリーだが、立体機動装置の数の不足、10名を超える怪我人の存在ですぐさま木にも登れない。もう予備のガスなんてものは無くなってしまったため、できるだけガスの消費を抑えたいという思いもあった。
故に、取るべき行動は避難完了までの時間稼ぎか、巨人の討伐である。
立体機動装置を最大限に生かせるこの巨大樹の森がバトルフィールドなら、勝算の薄い勝負というわけではない。
「いやぁ、そんな時間はないみたいっすよ」
ほら、とアジドが指を向けると数百メートルほど後方に内股走りの巨人が一体。その巨人が追っているのは4名からなる偵察部隊だ。
『ハーヴェイさん!巨人でs・・・」
言葉を言い終わる前に巨人の腕が派遣した偵察部隊の隊長の足を掴み、口に運ぶ。数回の粗食音の後、絶叫は止まった。よくある風景である。
「こんな時に言うのもあれですが、部隊を分散して陽動するなりできなかったんでしょうか」
「そりゃ無茶ぶりってやつですよ。そこそこ経験積みましたが、素人の付け焼刃ですからねぇ、俺達」
巨人が人を喰らう時に足は止まる。数を9人に減らした偵察部隊は何とか逃げ切ることに成功した。
「ハ、ハーヴェイさん!巨人です!巨人が!」
「見ればわかりますよ。私にも目ぐらい付いてますから」
パニック気味の偵察部隊の報告を笑顔のまま面倒くさそうに聞く。
「とりあえず偵察部隊の方々は避難の誘導を。アジドはカシムを連れてきてください。私と3人で時間稼ぎです。可能なら討伐も視野にいれます。では散開」
ワイヤを射出。木に深々と突き刺さったことをしっかり確認すると、後方、巨人の方へ飛んだ。
巨人のサイズは6メートルほど。巨人の大きさとしてはそれほど大きなものではない。また一番最後列の人間を捕まえ、足を止めて捕食したという行動から奇行種というわけでもないだろう。
つまり、とるに足らない相手だ。
一般の巨人には知能と呼べるものはない。ただひたすら人を喰らうだけの怪物だ。そんな巨人に人類がなぜこんなにも苦戦しているのかというと、それはその巨躯と腕力に起因する。
ただ大きいというのはそれだけで脅威だ。知能はないが、こちらを捕食しようと伸ばした手が偶然ワイヤを引っ張っただけで死んだと思った方がいい。機動力を失った人間などただの餌だ。
だから最も重要なことは機動力と制空権の確保だ。
それだけを保守できれば、少なくとも死ぬことはない。逆に言えばそれを失えば殉職まっしぐらだが。
「なんともまあ、いかにも頭が足りていなさそうな顔ですね」
距離にして50メートルほど。そこまで来ると大よその顔の造形は見てとれる。
「6メートル級美少女巨人なら俺もヤル気が出るってもんですがねぇ」
ナディアの言葉はぼやくようなもので、誰に言ったわけでもなかったが、追いついたアジドは軽口を返してきた。
「6メートルの美少女が全裸でこちらを食い殺そうと向かってくるってのも随分猟奇的な話ですけどね」
アジドの言葉に反応したのはアジドの隣に立っている20代前半ほどの若い男。なよなよとした外見だが今現存する部隊の中で、ナディア、アジドに次ぐ実力者だ。
元々猟師だけあって目は非常に良く、冷静沈着。状況判断にも優れている。
「目の保養になる1.5メートル級美少女なら目の前にいるでしょう?やる気出してください」
「胸のサイズが足りてませんねぇ、それはそれで一定の層にゃ受けるんですが―――ってうおぉぉい!!」
ヘラヘラと笑っていたアジドの顔面にナディアが無造作に振るった刃が迫る。アジドはそれを仰け反るようにしてなんとか躱した。
「なにするんですかねぇ、姉御ぉ!」
「知らないんですか?馬鹿は死ななければ治らないんですよ?貴方の馬鹿さを治してあげようと思って殺そうとしたんです。なのに貴方はなにを避けてるんですか?感涙して頭を地面に擦りつけるくらいやるのが筋ってものでしょう」
「アグレッシブすぎやしませんかねぇ!?」
「いやアジドさん、あんたもいい加減学習しなよ・・・」
戦いの空気はそこにはない。あるのは街の喫茶店でのんべんだらりとした空気。
彼らの肝っ玉が常軌を逸脱して太い、というのもある。けれどそれだけではない。
援軍もない。補給も僅か。部隊は素人の寄せ集めで、碌な連携も取れない。装備品は破棄寸前の廃棄品だ。
そんな絶望下に置かれた人間はどうなるのか。
簡単に言えば、目の前に広がる現実を受け入れることができず、たやすく精神は変調をきたすというケースが多い。。
当たり前だ。今回の作戦に参加した多くは調査兵団でも、正規の訓練を積んだ兵士でもないのだから。
巨人という人間の死を具現化した怪物に対して恐怖を抱くのは人間として当然のことだ。
巨人と交戦する機会のある調査兵団団員も恐怖と常に戦っている。
巨人と相対して恐怖を抱かない人間など、人類を超越した実力者か、精神疾患を抱えた病人だけだ。
ナディア達の場合は後者の方に該当する。
要するに、ナディアを始めとして、アジドもカシムも最早普通の精神状態ではないのだ。
どこかしら人間として欠落してしまっている、欠陥人間。
「さて、ふざけるのもそろそろお終いにしましょう。まだ避難も済んでませんし、殺しておきましょう」
とりあえずいつもの布陣で、とナディア。ブレードを構え迫りくる巨人に一直線に飛ぶ。
その一瞬遅れ、アジドとカシムが左右に道を僅かに外れるように展開する。
ナディアと巨人との距離はおよそ10メートル。
普通種の『目のついた人間を喰らう』という本能に従い、飛翔するナディアに向かって右手が伸びる。
捕まる一瞬前に後方にワイヤを張り、後方に方向転換を行う。巨人の腕はなにも掴むことなく空を切った。
手を伸ばし何かを掴むという動作をするためには一度足を止め、踏ん張る必要がある。身体の構造が人間に似ている巨人もそれは同様だ。
「カシム!」
「了解です!」
右方向から地面を縫うような低い軌道で現れたカシムが向かったのは巨人の急所であるうなじではなく、動くための重要な場所のアキレス健。踏ん張っていた左足のアキレス健を削ぎ、次いで右足。一瞬の早業を披露したのち、素早く上空に逃れる。その一瞬後、巨人は緩慢な動作で地面に倒れ伏した。
巨人は再生能力を有している。弱点となるうなじ以外を攻撃しても、すぐに復活するのだ。
けれど、一瞬の隙ができればそれで十分。
うなじの丁度上にはアジドが待機している。
機動力に優れるナディアが囮役。攻撃力に優れたアジドとカシムが左右に展開し、動きの止まった足に近い方がアキレス健を切り飛ばす。お役御免となった方はすぐさま上空へ移動し、巨人が倒れた瞬間を見計らって落下スピードをプラスした一撃をうなじに叩き込むというのが、いつもの布陣。
「死になデカブツ!」
アジドがそう叫ぶと同時、遠心力を加えた回転切りが巨人のうなじを切り飛ばした。
時間にして僅か10秒ほどの攻防だった。
その1週間後、ナディア率いる現存部隊はウォール・ローゼの帰還を果たした。
846年、領土奪還作戦が行われて1か月後の出来事である。
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