【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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5.英雄たちの戦い

 

 教会の外へ出た途端、居心地の悪さは嘘のように消え去った。

 やはり──勘違いではない。この教会は、間違いなく魔窟の類だ。踏み込んだが最後、戻って来ることなど望めはしまい。

 それでも、今俺がここに立っていられるのは……存外の幸運か、或いは付き添ってくれた遠坂のおかげか。余りにも感じの悪かった教会のせいか、外に出られた今は、あの偉そうなアーチャーの顔すら救いに見えた。

 

「──ほう、戻ったか雑種」

 

 俺の視線に気付いたのか、アーチャーがこちらに向き直る。その傲慢な態度は、俺が教会に入る前と何ら変わらない。

 教会の中で何があったのか、俺がどんな決断をしたのか……この男は、それを気にする素振りすら見せない。俺の方を見てこそいるが……このサーヴァントの興味は、俺ではなく他の物へ向いている。

 そこまで考えたところで、俺はようやくセイバーの異変に気が付いた。

 凛と佇み、アーチャーに警戒心と敵意を向けていたはずの剣の騎士。しかし、その少女は──表情を覆い隠すように、暗く俯いていた。

 何一つ変わらないアーチャーに対して、その変貌振りは一目瞭然だ。あれほど覇気に溢れていたセイバーは、今や敵愾心の欠片もなく立ち尽くしている。その打ちひしがれた様子から察するに……アーチャーが、またセイバーに何か言ったのだろうか。

 いくらサーヴァントとは言っても、セイバーは女の子だ。それを、こんなに落ち込ませるようなことをするなんて、この男は一体何を考えているんだ。

 俺の咎めるような目に何を感じたのか、アーチャーがふん、と鼻で笑った。

 

「なんだ、そこな小娘に同情したか? 敵対するサーヴァントに肩入れするとは、つくづく愚かしい男よ」

 

「な──!」

 

 一目で俺の考えを見抜いたアーチャー。俺を嘲るようなその口調に、むっと腹が立った。

 何か言い返してやろうと、反射的に口を開くが……俺の口から出てきたのは、意味を持たない無音だけだった。

 腹の立つことに……このサーヴァントの言葉は、何も間違っていない。今は剣を交えていないとはいえ、セイバーはいずれ倒すべきサーヴァントだ。俺が戦う道を選んだ以上、遅かれ早かれ彼女と戦うことになるのは目に見えている。

 だけど──それでも。女の子にあんな顔をさせるなんて、そんなのは間違っている。

 

「はいはい、ケンカはそこまで。町に戻るまでは一緒だし、とっとと行くわよ」

 

 向かい合う俺たちに呆れたのか、遠坂は一人でさっさと歩きだしてしまう。

 それに一瞬遅れて、落ち込んでいたセイバーが気を取り直し、主を守るように付き従う。残されたのは、数メートルの距離を置いて睨み合う俺とアーチャーだけだった。

 このまま睨み合っているわけにもいかず、遠坂の背を追って俺も歩き出す。その後ろからアーチャーも、渋々といった感じで着いてきた。

 教会の敷地を出る前に、最後に一度だけ後ろを振り向く。

 夜の丘に聳える、豪奢な教会。しかし──教会というものが、何処もこの場所のように、見掛けとは裏腹な陰湿で邪悪な雰囲気を持っているのなら。俺はおそらく、二度と教会に足を運ぶことはないだろう。

 歪な建物を一瞥して。俺は、今度こそ教会を立ち去った。

 

 

***

 

 

 遠坂とセイバーが、軽やかに坂を下っていく。明らかにそれに遅れる形で、俺とアーチャーが後に続く。

 俺たちと彼女たちの間にある、見えずとも明確に分けられた境目。それが一体何なのか、今では俺も理解していた。

 教会での宣言。あれは、衛宮士郎が魔術師として踏み出すという誓いであると同時に……敵対する魔術師やサーヴァントと戦うと、そう告げたことに他ならない。

 そして遠坂とセイバーは、聖杯戦争のマスターとサーヴァント。俺とアーチャーもまた同種の存在である以上、もう俺たちの間に馴れ合う理由はない。

 

 だが──頭で理解はしていても。やっぱり、こんなのは嫌だった。

 

 第一、俺と遠坂たちが敵同士だと言っても……俺は、彼女たちを傷付けたくはない。こんな事を言うと、またアーチャーに侮蔑の目を向けられると思うが、それでもこれは俺の本心だった。

 そもそも俺は、十年前のような出来事を起こさないために、聖杯戦争に加わると決めた。だけど、遠坂やセイバーがあんな非道を行うような人間とは到底思えない。

 

「──ふん。下らぬ事で一々悩むな、雑種」

 

 いつの間に、俺の隣に来ていたのか。歩調を合わせていたアーチャーが、俺を見もせずに吐き捨てた。先ほどの確執もあり、自然と敵意の籠った目で睨み付けてしまう。

 

「下らない、ってなんだよ。おまえにとってはそうかもしれないけど、俺にとっては大事なことなんだ」

 

「たわけ、それが下らぬと言っているのだ。貴様は自分の進むべき道を見定めたのであろう。ならば、それ以外の道など考えるに能わぬ」

 

 ……む。

 一々言い回しが難しいが……つまりこの男は、戦うと決めたのなら余計なことは考えるな、と言っているのだろうか。

 それは即ち──遠坂たちと戦う覚悟を決めろ、という意味なのか。

 

「──―」

 

 駄目だ。イメージできない。

 初めから遠坂たちが問答無用で攻撃してきたなら、まだ踏ん切りがついたのかもしれない。当然俺は倒されていただろうけど、それでも彼女たちを『敵』と認識することぐらいはできたはずだ。

 だけど……遠坂は、右も左も分からない俺に、最低限の説明をしてくれた。

 それは義務感でも責任感でもなく、何も知らない俺の立場を変えようという善意によるもの。他人から善意を向けられてあっさり手の平を返せるほど、俺は薄情な人間じゃない。

 

 肩入れしてくれた人間と、戦う。

 同級生だった少女と、殺し合う。

 

 魔術師であれば、持って然るべき当然の決意。だがその認識を、俺は未だに持てていない──。

 

 ──そうして、来た道を戻っていく。

 

 まるで、非日常の世界から在るべき日常へと引き戻されるように。今日この夜から、俺の日常は殺し合いへと切り替わる。平穏な生活こそが、マスターにとっては非日常なのだ。

 見慣れたはずの冬木市の街並みが、遠い光景の夜に感じられる。聖杯戦争を知った今となっては、この街の明かりすらも、得難い奇跡のように思えてしまう。

 そんな中を、アーチャーと共に歩いていく。恐らくはこの先も、俺はこうしてこのサーヴァントと進むことになるのだろう。

 半人前の魔術師と、記憶を持たないサーヴァント。

 遠坂の言う通り、確かに似合いの組み合わせだ。他のマスターやサーヴァントからすれば、俺たちの陣営はさぞひ弱に見えるに違いない。

 

 けれど──だからといって、諦めてやるつもりはない。

 

 俺の道は。

 進むべき未来は。

 

 十年前から、決まっているのだから──。

 

「──じゃ、ここでお別れね、衛宮くん」

 

 交差点まで辿り着くと、遠坂は唐突に喋り出した。その隣には、彼女を守るようにセイバーが付き添っている。

 ……そうか。ここから先は、それぞれの家へ続く道。衛宮士郎と遠坂凛は、ここで別れなければならない。

 本来、聖杯戦争のマスターは互いの命を狙い合うもの。親身に付き合ってくれた遠坂と、何も知らなかった俺こそが、この舞台では異端なのだ。

 

 だが、それもここまで。

 

 実感が湧かなかったとしても、現実はそんなものを待ってはくれない。ランサーのように、俺を狙いに来る敵は必ず現れる。今目の前に立っている遠坂も、マスターの一人。戦うと決めた以上、いつ俺やアーチャーに攻撃を仕掛けてきたとしてもおかしくはない。

 だけど──損得勘定を考えもせずに、ただ善意だけで、未熟な俺の面倒を見てくれた。そんな女の子に敵意を持てっていう方がどうかしている。

 セイバーだってそうだ。遠坂の命令を無視して、俺やアーチャーを斬り伏せることだってできたはずなのに、結局彼女はそうしなかった。

 ……うん。なんだかんだで、悪い人間じゃなかったんだ。それで、少し安心した。

 

「ああ。でも、できれば敵同士にはなりたくない。おまえ、やっぱりいいヤツだからな」

 

「な──っ」

 

 何故かぎょっとしたように目を見開くと、そのまま遠坂は黙ってしまった。……俺をじっと見つめてくるセイバーの視線が痛い。仕方がないので、そのまま遠坂の顔を見つめているとぱっちり目が合った。

 途端に、怒りの表情を浮かべる遠坂。何が気に食わなかったのか、つんと横を向かれる。

 

「ふ、ふん。おだてたって手は抜かないんだからね。もう貴方とは敵同士なんだから、精々気を付けなさい」

 

 そう言うと、背を向けて歩き出す遠坂。だが数歩歩いたところで、何かを思い出したようにその足取りが止まった。

 

「──あ、忘れてた。サーヴァントがやられたら、さっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば、命だけは助かるんだから」

 

「……ほう、この我が倒されると抜かしたか。つくづく身の程を弁えぬ小娘よ」

 

 今まで腕を組んで突っ立っていたアーチャーが、遠坂の言葉を聞いた瞬間不穏な言葉を漏らした。が、それとは裏腹に、青年の顔には苦笑が浮かんでいる。……怒ったのかと思ったが、どうも違ったようだ。

 姿を見られただけで怒ったと思えば、自分を殺そうとした相手を見逃す。ひたすらにプライドが高いのかと思えば、そう簡単にも怒らない。

 今はまだ、何も知らないアーチャーという男。このサーヴァントの性格は、どうもちょっとやそっとじゃ理解できないものらしい。

 

「──。ま、いいわ。帰るわよ、セイバー」

 

 アーチャーに何か言おうとする素振りを見せた遠坂だが、諦めたように首を振る。それきりこちらには振り返りもせず、待っていたセイバーを伴うと、再び背を向けて歩き出──

 

 

「──ねえ、お話は終わり?」

 

 

 その声に、全員の動きが止まった。

 今の声は、誰が発したものでもない。今この場に立つ人間の中に、幼い少女など誰一人いない。ならば、その声の持ち主は──。

 

 今、下って来たばかりの坂。確信に近い直感と共に、迷わずその上を仰ぎ見る。

 あれ程空を覆っていた雲は、不吉な直感に怯えるかのように消え失せている。残されたのは、爛々と丘に降り注ぐ月の光。

 

 ──そこに。在ってはならない存在が、立っていた。

 

 どこまでも巨大な筋肉。全身から迸る力の躍動と、狂気すら感じさせる淀んだ瞳。そこから感じ取れるのは、死の直感に他ならない。

 一目で判る。アレこそ、四人目のサーヴァント。英霊が具現化した、災害にも匹敵する脅威。

 

 アレは……化け物だ。

 

 アーチャーの人を超越した威圧感とも、セイバーの凛然と張り詰めた存在感とも違う。ただそこに存在するだけで、鳥肌の立つような恐怖の具現。

 最早この空間に、日常の残滓など欠片もない。あるのはただ、濃密なまでの死の気配だけ。

 

「こんばんは、お兄ちゃん。こうして会うのは初めてかな? もう、待ちくたびれちゃったよ」

 

 黒く聳えるような、鋼の巨人。その異形の傍らで、可憐な少女が佇んでいた。

 白い雪を連想させる、年端も行かぬ女の子。どこまでも無邪気に微笑むその姿は──だからこそ、何よりも不気味だった。

 異形と少女。余りにも不釣り合いなその組み合わせは、今この瞬間、地獄とも呼べる恐怖を撒き散らしていた。

 殺される。

 少しでも動けば、一歩でも下がれば、この首は飛んでいる。理屈など抜きにして、そう納得できてしまった。

 だが……あまりにも絶望的なモノを前にしているせいか、不思議と恐怖感はない。もう何をしても無駄なのだという、諦めの境地。

 しかし、その異常のせいか。俺の頭は、一週回って冷静になっていた。そのおかげで……少女の放った言葉への違和感にも、すぐに気付くことができた。

 

「……おまえ、一体誰だ?」

 

 緊張で上ずる声を抑えながら、こちらに微笑んでくる少女の瞳を見返す。

 あの少女は、俺を見て「待ちくたびれた」と言った。ということは、彼女は俺を知っているのだろうが……俺の方は、あの少女にも、横に聳える異形にも全く見覚えがない。

 

 ──だが、氷のような無表情を浮かべたその顔を見て。この返答が、致命的な間違いだったのだと悟った。

 

 虎の尾を踏んだような、竜の巣に飛び込んだような、そんな危険な感覚が、じりじりと背筋を焦がす。

 気付けば、ごくりと生唾を飲み込んでいた。この場に張り詰めた緊張感は、それだけで気分が悪くなる。

 

「──やっばい。セイバー以上の能力値って、どんな怪物よアイツ」

 

 俺より少し先で立ち竦んでいる遠坂が、呆然とそう声を漏らす。既に身構えているだけ、俺よりは幾分かマシなようだが、それがどれほどの助けになるか。

 これだけの距離が離れていても、彼女が感じている絶望が窺える。それも当然だろう──あんなモノは、人が相対していい存在ではない。

 

「……バーサーカー」

 

 聞きなれない言葉を口にするセイバー。

 遠坂を庇うように立つ彼女は、既に臨戦態勢を整えている。透明な剣は油断なく、巌の巨人に向けられていた。

 白銀と紺碧に彩られた、輝く甲冑。圧倒的なまでの絶望の中、その姿はどこまでも力強く煌く。

 その小柄な体が放つ闘気は、アーチャーに向けられていたものを尚上回る。あの敵がどれほどの脅威なのかは、その背に宿る緊迫感だけで十二分に計り知れた。

 

 ──そして、この場に立つもう一人のサーヴァント。

 

 迸る魔力を感じて横を見ると、アーチャーの表情が変わっていた。

 自信と余裕を併せ持つその雰囲気に違いはないが、紅蓮の瞳は鋭く細められている。いつの間にか、ライダースーツから魔力で編まれた黄金の鎧へと服装が変わっていた。

 ランサーに破壊された鎧は、その胸部が大きく凹んでいる。先ほど見た時よりも修復は進んでいるようだが、損傷具合は見ただけで判る。

 だが、この鎧を纏ったということは……このサーヴァントもまた、あの巨人に脅威を感じているに違いない。事実、その両手には既に黄金の双剣が握られている。

 アーチャーの鋭い目は、あの巨人を冷静に観察している。人知を超えたその観察眼は、絶望以外の何を見据えているのだろうか。

 

 巨人の脅威の前に動けぬ四人を見て取り、余裕を感じたのか。それまで冷たい表情を浮かべていた雪の少女は、それが嘘のように相好を崩した。

 んー、と年相応の可憐さで、口元に指を当てている。けれど、殺意が渦巻くこの状況の中、それは悪夢のような光景だった。

 

「うーん……最初なんだから、ご挨拶をしなくちゃいけないよね。

 はじめまして。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えば分かるでしょ?」

 

 そんな俺たちを見て、何を考えたのか。巨人の傍らに立つ少女は、行儀良くスカートを持ち上げて、丁寧に挨拶をしてみせた。

 少女の名前を聞いて、遠坂とセイバーの体が微かに動く。あの二人は、その名に聞き覚えがあったのだろうか。

 答えずとも反応だけで伝わったのか、言葉すらない俺たちを、少女は嬉しそうに見下ろし──

 

「──じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」

 

 歌うように、死刑判決を突き付けた。

 

 ──瞬間。黒い巨影が、夜の路地を埋め尽くした。

 

 一瞬遅れて、認識する。あの丘、あの頂点から、僅か一足であの巨人は跳躍してみせたのだ──!

 

「セイバー、お願い!」

 

 遠坂が叫ぶと同時、セイバーが迅雷となって疾駆した。

 空を塗り潰すように、異形の戦士が迫る。断罪の大剣が振り下ろされる刹那、白銀の騎士が渾身の力で迎え撃つ──!

 

 轟音、閃光。

 

 バーサーカーが持つ暴力の塊は強烈な音を、セイバーの握る不可視の剣は魔力の光を迸らせ、束の間の拮抗を作り上げていた。

 だが、巨人の筋力は桁が違う。その猛威を受け止めたセイバーもまた驚愕すべき膂力の持ち主だが、大剣の直撃によって僅かに体勢を崩していた。その一瞬は、この敵の前では度し難い隙となる。

 当然、敵サーヴァントがそれを見逃すはずもなく。獰猛なまでの凶悪さを以て、岩塊の如き刃が少女の体を薙ぎ払うべく迫り、

 

「はァ──ッ!」

 

 それと同位の剣閃が、敗北の運命を塗り替えた。

 倒れ伏すかに思われたセイバーは、爆発的な魔力の奔流によって体勢を立て直し、その勢いのままバーサーカーの剣を打ち返してみせたのだ。

 剣を弾かれた狂戦士。そのがら空きの胴体を両断すべく、セイバーが透明な剣を袈裟懸けに振るう。

 しかし……巨体の戦士は、その逆撃をも捻じ伏せる。巨躯からは想像し難い俊敏さを以て、跳ね上げられた剣を切り返すように、バーサーカーは大剣を叩き付けた。

 

「く……!」

 

 再び、脅威を剣で受け止めるセイバー。

 あれだけの打撃をまともに防ぎ、斬り返すセイバーの力は、あの巨人に劣ってはいない。驚くべきことに、小柄な少女はバーサーカーと互角に打ち合っていた。

 その理由は、傍目にも判るほどの絶大な魔力。セイバーの体から迸る魔力は、そのまま彼女の筋力や速力に上乗せされる。ただ筋力のみで絶大な破壊を生み出すバーサーカーに対し、セイバーは魔力を噴射する事で対抗していた。

 つまり、セイバーはその一挙手一投足に至るまで、魔力による後押しによって運動能力を向上させている。いわばそれは、魔力を用いたブースター。

 

 だが──その力を以てして尚、この巨人は強大だった。

 

 セイバーのように魔力の恩恵があるわけでもなく、己の肉体性能のみで圧倒的な力と速度を見せつけるバーサーカー。

 理性など欠片も感じられぬにも関わらず、鋼の巨人はただ本能のみで空間ごとセイバーを蹂躙しようと暴れ狂う。その腕から繰り出される大剣は、死神の鎌に他ならない。

 僅かずつ押され、後退していくセイバー。灰色の異形は破竹の勢いで爆進し、次々と大剣を叩き付ける。

 ただの余波でアスファルトが割れ、ブロック塀が舞い、電柱が砕ける。紙屑の如く、周囲の全てが崩壊し散乱していく。破壊の衝撃で、空気すら悲鳴を上げていた。

 それは、さながら台風の如く。ただの打ち合いに過ぎぬはずのこの一戦は、地を穿ち鉄を刻み空を割り、瞬く間に街路を蹂躙していく。

 

「──ッ!」

 

 鬼気迫る気合を以て、少女と巨人が切り結ぶ。

 力と速度に於いて、あの巨獣はセイバーをも上回る。その攻撃に技巧などあるはずもないが、そんな物はバーサーカーにとって必要ない。そもそも技とは、弱者と強者の差を埋めるために編み出されたもの。それを凌駕する圧倒的な差の前では、小手先の技など何の意味を為そうか。

 莫大な魔力放出によって、瞬間的な出力ではバーサーカーに拮抗、或いは上回って見せるセイバー。しかし基本性能で劣っている以上、セイバーはどうしても攻勢に転じえない。

 勝機を見据えるべく剣を交えるセイバーだが、このままでは埒が開かぬことなど彼女とて理解していよう。時間を掛ければ掛けるほど、総合力で劣るセイバーは不利になっていく。

 だが、嵐のようなバーサーカーの猛攻に、隙など欠片も見当たらない。一撃一撃の全てが必殺というその規格外を前にして、受けに回る以外の選択肢など存在しない。

 

 故に──あと一手。

 

 この状況を変える為には、あと一手が必要だった。

 ならば──あの死闘に一石を投じることができるのは、同じサーヴァント以外に有り得ない。

 

「────」

 

 傲然と聳える、黄金のサーヴァント。

 鎧を纏い、双剣を手にしてこそいるが、この青年は戦闘が始まった後、一歩たりとも動いていない。

 あの巨人とセイバーは今のところ互角に戦っているが、このままではセイバーが追い詰められていく一方なのは目に見えている。セイバーが屈してしまったら、灰色の異形の次の標的はこのアーチャーに違いない。にも関わらずこの英霊は、戦うでもなく、逃げるでもなく、ただ悠然と佇むまま。

 その間にも、セイバーは戦い続ける。しかし、機先を制され、続く剣戟にも活路を見出せぬ彼女は、今や誰がどう見ても劣勢だった。

 まずい。

 既にあれは戦いではなく、一秒後の死を引き延ばすだけの抵抗に過ぎない。必死に生きようと足掻く、延命行為。

 一撃剣を振るうごとに、一度身を躱すごとに、セイバーは少しずつ後退していく。やがては追い詰められ、あの岩塊に押し潰される未来は素人目にも明白。

 

 ……そんな、小さな女の子に戦わせて。俺は、一体何をやっている。

 

 戦うと、覚悟を決めた。その闘志を向けるべき相手は──あの巨人のような、天災の如き猛威ではないのか。

 けれど俺には、あの怪物と戦う術はない。凡百の人間に過ぎない俺には、超絶的な権能も、反則的な剛力も、何一つとして存在しない。

 故に、俺にできることはただ一つ。

 戦う手段がないのなら、それを余所から持ってくる。魔術師の基本にして教訓である、その一点のみ──!

 

「アーチャー……!」

 

 焦りを抑えきれず、横に立つ青年へと視線を向ける。

 

「このままだと、セイバーが──」

 

「──下がっていろ、雑種。不本意ではあるが、あのような肉達磨にこれ以上騒がれては暑苦しい」

 

 忌々しげにそう言うと、アーチャーは右手に握る黄金の剣を逆手に持ち替えた。左手の剣は順手、右手の剣は逆手に握るという、奇妙な構え。だがその謎は、アーチャーが双剣の柄を連結した瞬間に解けた。

 出来上がったモノは、双刃の剣。長い柄の両端から刃が伸びるという、通常の刀剣では有り得ぬ異端だった。

 あんな特殊な武器は、使っている本人にこそ危険が及ぼう。だがそんな常道は知らぬとばかりに、アーチャーは易々とその剣を片手で持ち上げる。あの男は、まさかアレを片手で振るおうという心算なのだろうか。

 ……いや、待て。

 あの形状には見覚えがある。結合された柄の部分が僅かに変形し、やがて現れた見慣れた形は──。

 

「弓、か……?」

 

 驚くべきことに。あの双剣は、身の丈ほどもある大弓へと変貌を遂げていた。何時の間に現れたのか、魔力で編まれたらしき弦すら見える。

 その光景を見て、このサーヴァントのクラスを思い出した。

 今までは双剣で戦っていたが、この黄金の青年は剣士ではない。剣士(セイバー)のサーヴァントは、今バーサーカーと戦っている彼女だ。

 つまり──この長弓こそが、この男の本来の武器。狙った心臓を必ず穿つ、あのランサーの魔槍にも匹敵する武具に違いない。

 

 ──しかし、何故だろう。理屈とはまた違う部分で、これはこの男の本当の武器ではないと、そう何かが告げていた。

 

 そんな俺の困惑をよそに、アーチャーは大弓を構える。空気を軋ませる魔力と共に、顕現するのは眩い鏃。アレもまた、魔力で形作られたモノなのだろう。

 それで理解した。この男の戦場は、あそこではない。

 ランサーとの一戦で、この英霊は双剣を用いて戦った。その第一印象から、それこそがアーチャーの戦法だと錯覚していたが、それは大きな間違いだった。このサーヴァントにとって、あの一戦は召喚直後の戦い。戦略で盤面を制したものの、その盤面自体を選ぶ余地はアーチャーにはなかった。

 だが、今は違う。セイバーがバーサーカーと打ち合っている今なら、あの時とは違って余裕がある。そう──盤面を選び、必勝の策を紡ぐまでの余裕が。

 アーチャーに有利な盤面こそが、この位置、この距離。弓を引く者にとっての戦場とは、敵の牙が届かぬ地にこそ他ならない。

 

 きりきりと、静かに引き絞られていく弓。しかし、その矢は未だ放たれる気配を見せない。

 必殺の一撃とは、易々と放って良い物ではない。如何な魔力の矢といえど、好機を捉えなければあの狂戦士には届かない。

 故に、アーチャーは待つ。

 絶好の機会を、必滅の瞬間を。その刹那の間に向けて、極限まで意識を張り巡らせる。紅蓮の慧眼は、巨人の一挙一動全てを見据える。

 極限まで魔力の充填された箆。今にも張り裂けそうなほどに、力の込められた弦。巨躯の英霊を穿つべく、魔弓が空気すら軋ませて唸りを上げる。戦場を鋭く睨むアーチャーの集中力に、息をすることさえ憚られる。

 

「■■■■■■■■■■──────!!!」

 

 己を狙う脅威を感じ取ったのか、灰色の巨人が吼える。

 だがあのサーヴァントは、こちらに意識を割くことなどできない。優位に立っているとはいえ、セイバーの力量は侮れるものではない。一瞬の油断ですら、あの少女を相手にしては命取りとなる。

 他の敵にまで注意を向ければ、傾いた天秤は容易に戻る。次の瞬間、斬り飛ばされているのは巨人の首に違いない。

 ならばこそ、バーサーカーは猛る。最早容赦せぬとばかりに、暴風が世界を凌辱する。ただ馳せるだけで鉄すら崩す攻撃力は、竜巻にすら等しかろう。

 あれだけの破壊、あれだけの暴力。あんな物を受けて、耐えられる者など存在しない。人間を超越したサーヴァントであろうとも、あの斧剣を受けては塵屑のように砕け散るが宿命。

 

 攻撃を防いでいたセイバーが、やがて捌き切れずに後退していく。逆撃の隙すら存在せず、殺しきれぬ衝撃は彼女の体を僅かずつ削っていく。

 絶え間なく振るわれる岩塊の前に、セイバーの体が微かに傾く。魔力の後押しを受けてすら、バーサーカーの斬撃は防ぎきれなかったのだ。

 その一瞬を好機と見たのか、狂える巨人が前へ出る。大きく振り上げられた大剣は、紛れもなく終幕の一撃。この戦闘に終止符を打つ、絶対の終焉に他ならない。

 よろめいたセイバーは、間に合わない。あの攻撃範囲から逃れることなど叶わず、バランスを崩した今の彼女はあの斧剣を受けきれない。

 故に、これで終わり。

 セイバーというサーヴァントは、バーサーカーという鬼神の前に斬り伏せられ──

 

「死にたくなければ伏せろ、セイバー」

 

 ──瞬間。アーチャーの玲瓏な声が、どこまでも冷たく響き渡った。

 

 思考する間すらなく、セイバーが傾いた勢いのままに横に倒れ込む。それは、自ら隙を生み出す愚策にして下策。無防備なそのコンマ数秒は、あの巨人の前では致命的なまでの誤り。

 だがそれは、この場にいる者が二人きりであった場合。アーチャーという第三要素が加わった今、その判断は英断へと変わる……!

 

「な……!?」

 

 その驚きは、誰が漏らしたものだったのか。

 

 ──止まった時間の中。迸る流星が、夜の闇を貫いた。

 

 埒外と呼ぶに相応しい、絶大な魔力の奔流。否、事実魔力そのものであるその一撃は、掃滅の鏃となって飛来した。

 限界まで研ぎ澄ませた意識を以て、ようやく感じ取れるほどの速度。あの死神に狙われた者は、自らが撃たれた事実すら気づかずにその身を四散させるが結末。

 弓の英霊(アーチャー)の、渾身の一撃。剣の英霊(セイバー)が剣によって勝利を掴み取ると言うのなら、弓兵は狙い澄ました一撃を以て敵の命を刈り取る──!

 

「■■■■■■■■■■──────!!!」

 

 再び絶叫する、鋼の巨人。

 だが悲しいかな、彼は狂戦士の英霊(バーサーカー)。知性が、理性が残っていれば、或いはその一撃を予期し、対策を講じることなど容易かっただろう。

 しかしそれは、仮定(IF)の話。今在り得ぬ事柄であるが故に、仮定は現実に届かない。

 自らに迫る死期を本能で感じ取ったのか、セイバーに向けて振り下ろされた大剣が向きを変える。その剛腕を以て無理矢理軌道を変えられた斧剣だが、それは所詮その場凌ぎの悪手。アーチャーの慧眼と計算の前に、そんなものが何の意味を為そうか。

 結末は変えられない。あの一撃は、どうあっても巨人に中る。それを察してか、迎撃態勢を取ろうとするバーサーカーだが──

 

「──やらせないわ。Gewicht(重圧、),umzu(束縛、)Verdoppelung(両極硝)──!」

 

 その間隙に、黒い刃が差し込まれた。

 遠坂が投げ込んだ宝石が、狂戦士の周囲で爆裂する。須臾の後、漆黒の帯のようなものが広がったかと思うと、バーサーカーの全身が巻き取られた。魔力の縛鎖が英霊を封じ、回避の道すら取らせない──! 

 

 ──炸裂する衝撃。

 

 爆発に等しい光と熱の奔流は、それを見る者の目と耳を一時的に麻痺させる。矢の激突は余波となり、斧剣の暴虐をも上回る神撃となって、その周囲にあった物の全てを木端微塵に吹き飛ばした。

 冗談のような破壊力。アーチャーの狙撃は、文字通りの必殺だ。ただの余波ですら、強烈な波動となって空間そのものを震わせ揺るがす。

 

「────」

 

 あれほどの力を乗せた一撃。避けることも、防ぐことも能わぬとあれば、異形の英霊といえど死を免れまい。

 攻撃の残滓か、破壊された街路の欠片が煙となって空を舞う。視界は不明瞭になっているが、それでも何一つ動くものが存在しないことは明らかだった。

 あの攻撃を受け、巌の巨人は沈黙した。恐らくは、跡形もなく消し飛ばされたに違いない。

 

 ──だが。

 

「あははははは! やるじゃない、わたしのバーサーカーに傷をつけるなんて!」

 

 一体、何がおかしいのか。

 闇の中、軽やかな笑い声が響き渡る。その声は、巨人の隣に立っていた白い少女から発せられたものだろう。

 年端も行かぬあの少女が……おそらくは、バーサーカーのマスターに違いない。その事実も異常に過ぎたが、今この場ではそれ以上に奇怪なものがある。

 イリヤと名乗った、小さな少女。己の従者が滅ぼされたにも関わらず、あの少女は何故楽しそうに笑っているのか。

 

「でも、そこまでよ。ちょっと驚いたけど、あなたたち程度じゃ──」

 

 ぞくり。 

 

 冷たい視線が、俺の体を確かに射抜いた。

 溢れる殺意は風となり、極寒の殺気と灼熱の闘気とを伴って宙を舞う粉塵を吹き飛ばしていく。

 

「──わたしのバーサーカーには勝てないわ」

 

 煙が晴れる。

 街路を覆っていた障害物は、暴風の前に遥かな空へと逃げていく。そうしなければ、自らが塵すら残されないと悟っているかのように。

 その、骨の髄まで凍らせるような殺意の風を生み出しているのは──胸に大きな傷を持った、鉛色の巨人だった。

 暴力を体現したような瞳が、俺とアーチャーを冷たく見据える。あの英霊は……今この瞬間、俺たちを倒すべき標的と認識した。

 

「嘘でしょ、どんな体してるのよアイツ……!」

 

 遠坂が驚愕に固まる。その驚きは、後退して体勢を立て直したセイバーも同様だった。 

 アーチャーの魔力の矢。紛れもない必殺の一撃は、確かにバーサーカーに直撃していた。それは、あの胸の傷からも確信できる。

 だがそれは、あれだけの攻撃力を見せた矢には似つかわしくない、僅かな傷。確かに大きな傷ではあるが、あの程度、巨人の体躯からすれば然程の問題にはなるまい。

 ……計算が合わない。余波ですらあれだけの衝撃を撒き散らしたというのだから、放たれた矢の攻撃力は生半可なものではなかったはずだ。あれを急所に受けて、()()()()()()()()()()()()

 歯車が噛み合わない。理屈が通らない。法則に反している。あのバーサーカーは、剥き出しの筋肉の他に防具を持たぬはず────待て。何故あの傷は、先見た時より小さくなっているのか……!?

 

「──それが貴様の宝具か、狂犬。なるほど、これは我も分が悪いか」

 

 矢を放った直後、残心のままに立っていたアーチャーが、苦虫を噛み潰したような顔でそう漏らす。

 攻撃を凌がれたことで、激昂するかと思ったアーチャーだったが、この男は不可思議な現状のカラクリを見抜いたらしい。掲げられたままの大弓に、次の矢を番える素振りすら見せずにただバーサーカーを睨み付けている。

 アーチャーが何を言っているのか、その意味は俺には解らない。確かなのは、あのバーサーカーの何かをアーチャーが見抜いたということだけ。

 

「……アーチャー。宝具ってなんだ?」

 

 理解出来なかった、不可解な単語を問う。だが俺の質問に口を開いたのは、セイバーの背後に立つ遠坂だった。

 

「簡単に言えば、サーヴァントの必殺技よ。

 ……あ、そういうことか。なんてデタラメなのよ、あの怪物──!」

 

 こちらを見もせずに答える遠坂。だが、彼女もまた何かに気付いたのか、歯軋りすら見せて聳える巨人を睨み付けた。

 そうしているうちにも、あの狂戦士の傷は徐々に塞がっていき──あろうことか、完全に治癒してしまった。どういう理屈かは判らないが、あいつの持つ宝具とやらが、反則的な再生能力を付与しているらしい。

 コンクリートを易々と砕く怪力に、小柄なセイバーをも凌駕する敏捷性。加えて、アーチャーの矢ですら殺しきれない再生能力。そんなバケモノ、一体どうやったら倒せるのか。

 硬直する俺を、丘の上に立つ少女が陶然と見下ろした。その小さな瞳には、隠しきれない愉悦の色が浮かんでいる。

 アレは……見覚えがある。子供が虫を潰すように、抵抗できない命を刈り取る嗜虐の笑み。あの少女は確かに、硬直する俺たちを眺めて楽しんでいた。

 

「うふふ、わかった? わたしのバーサーカーは最強なんだから。傷は付けられても、あなたたち程度が使役できる英雄じゃ、()()()()()は倒せないわ」

 

「な──!? かの半神の大英雄が、このサーヴァントだと言うのですか……!」

 

 少女が放った言葉に、今まで冷静だったセイバーが初めて戦慄の表情を浮かべた。……無理もない。可憐に微笑む少女は、俺たちに残酷な現実を突き付けてきたのだから。

 

 大英雄ヘラクレス。

 その名前は、日本人の俺ですらよく知っている。

 ギリシャ神話における最大の英雄で、十二の試練を乗り越え、幾多の神々や魔物と戦い抜いたと謳われる半神半人の豪傑。山脈を砕いた、海峡を作り上げたと、その途方もない偉業はこの現代に於いても様々な物語や映画となって語り継がれている。

 その本人が、あそこに立っている巨人だというのか。それが真実なら──狂戦士と化している今、アレは正真正銘の怪物だ。

 あれだけの力を持っているセイバーが、打ち勝てないのも頷ける。神話が本当なら、あの英雄は神や怪物にすら何度も勝利している。だとすれば、人に過ぎない俺たちがアレに敵う道理などない。

 

 がしゃり、と甲冑の音を立てて。セイバーが、一歩前へと踏み出した。

 それは死線に飛び込むのと同義。絶望的な事実を明かされて尚、セイバーはバーサーカーに打ち勝つ覚悟でいる。

 敵うはずのない怪物。神話伝承に謳われる大英雄。そんな魔物を前にして、彼女は逃げるどころか立ち向かう決意を固めた。その闘志は、離れたこの場所からでも伝わってくる。

 勝ち目などない。戦えば負ける。

 けれども──セイバーは、前へと進んだ。どうしても、命を賭してでもアレを倒さねばならない目的があるとでも言うように。

 

 だが、どうすれば勝てるのか。否、そもそもどうすれば対抗出来るのか。

 今まで出会った三人のサーヴァントと、あのバーサーカーは桁が違う。ただアレが馳せるだけで、人の街が崩壊していくのだ。あの存在は、いわば災害そのもの。

 

「アーチャー。その宝具ってヤツ、アンタは使えないのか?」

 

 先程、この黄金のサーヴァントが見せた弓。

 双剣の柄を連結させるという規格外の動きを見せたあの武器が、弓兵(アーチャー)の宝具に違いない。あれをもう一度使えば、或いはあの怪物を打倒することもできるのではないか。

 

 ……けれど、この胸に感じる違和感は何だ。

 

 アーチャーというクラスである以上、この英雄の武器は弓に相違ない。だが何故か、心のどこかに違和感があった。

 理屈を無視した、本能の領域で燻る異物。それが、確かに吼えるのだ……この青年の宝具は、そんなモノではないと。

 黄金のサーヴァントに相応しい武器。そう、それは例えば。あの夢の中で見た、紅い剣のような──。

 俺の困惑を、アーチャーはどう感じ取ったのか。普段の余裕は何処へやら、黄金の英雄は深刻な瞳で俺を見つめた。

 

「──判らん」

 

「……え?」

 

「判らん、と言ったのだ。今の我は、自らの名前すら思い出せぬ状態だ。宝具など、そもそも使える道理がなかろう」

 

 憤然と言い捨てるアーチャー。

 遠坂は、宝具はサーヴァントの必殺技だと言った。でもこの男は…………宝具が、使えない──!?

 

「え、じゃあさっきの剣とか弓は何なんだよ」

 

「知らぬ。アレは知識ではなく、本能を以て引き抜いた物に過ぎん。今の我には、アレ以上の物は使えぬ。

 ──ふむ、まぁ弱者の境地とやらを味わうのも一興か。喜べ雑種、この身は貴様に似合いのサーヴァントのようだぞ?」

 

 クク、と笑みすら浮かべて見せる黄金の英霊。

 怒り出すのかと思えば……このサーヴァントは、自分の状態の異常さすらも愉しんでいるようだ。

 わけがわからない。挙句の果てには、「喜べ」と来た。傲岸不遜なこの青年には、今の窮地すら愉悦の糧でしかないとでも言うのか。

 明白なのは、アーチャーにさっきの弓以上の武器はない──つまり、あのバーサーカーを打倒する手段は持ち合わせていないという、冷酷な現実。

 

 果敢にも、勝てぬと判った巨人に透明な剣を向けるセイバー。

 手の内に何かを握り締め、敵意と共にバーサーカーを睨み付ける遠坂。

 そして……呆然と立ち尽くす、何も出来ない俺。

 

 その三人を、笑みを深めながら順番に見回したところで……白い少女の顔が、不意に凍り付いた。

 少女の視線の先にあるのは、大弓を構えたまま、不敵な笑みを浮かべるアーチャー。その姿を見咎めた少女は、信じられぬ物を見たという表情で固まった。

 現実を否定するように、青ざめたまま首を横に振る少女。蒼白なその顔は、今や髪の色と同じ雪色と化していた。

 余裕の笑みは、一体どこに消えたのか。真っ直ぐにアーチャーだけを見下ろして、小さな少女は震えすら見せていた。

 

「──貴方、一体何者なの」

 

 怯えすら混じる声で、アーチャーに問いかける少女。

 一体、アーチャーの何が気にかかったのか。幽霊でも見たような瞳で、少女は黄金のサーヴァントを見つめる。

 

「答えなさい。わたしの知らないサーヴァントなんか、いちゃいけないんだから!」

 

 悠然と佇み、笑みを見せるアーチャーに苛立ったのか、癇癪を起こしたように少女が叫ぶ。

 だが……その言葉を聞き届けた青年は、不愉快そうに眉を吊り上げた。それ以外には興味すら持たなかったのか、今までバーサーカーだけを睨んでいた紅蓮の瞳が、殺意を宿して少女を貫いた。

 その威圧感に、空間が軋む。狂える戦士すら凌ぐ膨大な殺気が、立ち竦む少女に叩き付けられた。

 存在そのものが気に食わぬとでも言うように。間に立ちはだかるバーサーカーすら意に介さず、アーチャーは燃えるような怒りを少女に向ける。

 

「小娘が──身の程を弁えろ。雑種の分際で我を見下ろすばかりか、命ずるとは何事か!」

 

 響き渡るアーチャーの怒声。

 その迫力に気圧されたのか、これだけの距離が離れているにも関わらず、少女は一歩退いた。その顔には、紛れもない恐怖が浮かんでいる。

 ……それも当然だろう。このサーヴァントの放つ殺気は、常軌を逸している。バーサーカーのように敵と見做すのではなく、羽虫や汚物にでも向けるような、人を人とも思わぬ殺意。

 意志の弱い者が近寄れば、ただそれだけで心臓が止まりそうな威圧感。絶体絶命の窮地にあって尚、アーチャーの存在感は変わらず絶大だった。

 

「っ────!」

 

 しかし、少女の忘我は一瞬。

 恐怖を怒りで塗り替えると小さな指をアーチャーに突き付け、佇む己がサーヴァントを強い瞳で見下ろした。

 

「もういいわ、みんなやっつけちゃえ──狂いなさい、バーサーカー!」

 

 そう、少女が叫んだ瞬間。それまでに倍増する殺意が、鉛色の巨人から放たれた。

 触れるどころか、その姿を視界に収めるだけで消し飛ばされそうな暴力。先程までの圧力など、これに比べればまだマシだった。今のバーサーカーに溢れる殺気は、それだけで人を殺せる武器となる。

 

 殺される。

 砕かれる。

 刻まれる。

 

 そんな脅迫観念染みた確信すら、胸の奥底に湧いている。勝てる、勝てないという問題ではない。あの巨人の前では、存在自体が許されまい。

 アレこそは正に、暴虐の化身。十年前の死地を、遥かに上回る脅威。怒れる半神の恐怖が、今宵此処に顕現していた。

 

「■■■■■■■■■■──────!!!」

 

 三度、バーサーカーが吼える。

 それと同時に、弾丸の如く巨人が奔った。その勢いは、戦車砲すら凌駕しよう。

 異形の狙いは、中途に立ちはだかるセイバー。コンマ一秒の間に十数メートルもの距離を詰め、音より尚迅く大剣を振り下ろす──!

 

「馬鹿な、今までは完全な『狂化』すらしていなかったとでも言うのですか……!」

 

 歯噛みするセイバー。今のバーサーカーは、セイバーの力を確実に上回っている。

 迎え撃とうとする透明な剣を、爆弾染みた破壊力で打ち落とすバーサーカー。拮抗すら叶わずに、セイバーの剣は弾き飛ばされた。

 際限など知らぬとばかり、更なる速度で大剣が叩き付けられる。一撃ごとに防御を破られ、体勢を崩しながらも、セイバーは無理矢理攻撃を凌ぎ続ける。

 あれ程の暴力の前には、回避行動など意味を為さない。掠めただけでも、アレは人体を肉片に変えるだろう。それを解っているが故に、セイバーは防御に回り続けるしかない。

 だが、それは一秒後の死を二秒後に引き延ばすだけの行為。いずれ終わりが来ることなど、当人が誰よりも知っていよう。

 

 巨人の衝撃に、セイバーの小柄な体が震える。

 莫大な魔力を放出することで、セイバーは絶大な筋力と敏捷性を獲得している。それでもバーサーカーの衝撃は受け止めきれず、一瞬ごとに彼女は後退する。

 セイバーの必死な顔には、悲愴感すら漂っている。このままでは──背後に守る遠坂(マスター)すら、あの斬撃に打ち砕かれてしまうのだから。

 彼女の体は、既に傷だらけだ。斧剣の直撃を受けずとも、その衝撃と風圧のみでセイバーの体は傷ついていく。どこかを斬り裂かれたのか、宙に舞う鮮血すら視界に飛び込んできた。

 

 ──それを見て。自分の無力さに、反吐が出るほど腹が立った。

 

「逃げろ遠坂、セイバー……!」

 

 腹に力を込めて叫ぶ。

 あの巨人には勝てない。アーチャーにバーサーカーを倒す武器はなく、セイバーもまた圧倒されている。二対一でも勝てぬ以上、残された結末は敗北のみ。

 ……ならば。あれから逃げることは、至極当然の判断だ。

 そもそも、天災に立ち向かおうとするのが間違っている。途方もない災害を前にして人が採れる決断は、あらゆる手段を以てしての回避のみ。

 

 ──けれど。俺の声が聞こえぬはずもないだろうに、セイバーは巨人に挑み続ける。

 

 セイバーのみならず、遠坂もまた同様に、一歩も退かずバーサーカーを睨み続けるまま。

 その足は小刻みに震え、何かを握りしめた拳には汗すら流れている。緊張感と恐怖を漂わせて……それでも尚、彼女も戦いから目を離さない。

 己の従者の勝利を信じるように。その視線は、どこまでも前を見据えている。

 

「──引き時だな。業腹だが、撤退するぞ雑種」

 

 一つ舌打ちして、アーチャーがこちらに向き直る。その言葉にむっとして、反射的に口を開いた。

 

「な……遠坂とセイバーを見捨てろって言うのか!?」

 

「フン。あの女どもは、そもそも貴様の敵であろう。セイバーを喪うのは我とて惜しいが、敵に情けを掛けるなど愚の骨頂。労せずして敵の一角を屠れるのだ、寧ろ僥倖と言うべきだろうよ」

 

「おまえ──―」

 

 何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこない。

 腹が立つ。こいつの言葉は、なんでいつも正しいんだ。それが正しいと解っているからこそ、尚更腹が立ってしょうがない。

 

 理屈だけを、効率だけを考えれば、確かにアーチャーの言う通りだ。遠坂は自分たちを「敵」と言った。聖杯戦争がバトルロイヤルである以上、遠坂とセイバーはいずれ立ちはだかる壁になる。

 視点を変えてみれば、今の状況は好機かもしれない。バーサーカーとセイバーが戦っている今、俺とアーチャーがこの場を抜け出すことは簡単だ。そして、そうなれば……セイバーは確実に、あの巨人に討ち取られるだろう。自分の手を汚さずに、俺たちはサーヴァントの一人を打倒できる。

 残ったバーサーカーは確かに強敵だが、何も俺たちがアレと戦わなければならない理由はない。アーチャー以外のサーヴァントが、アレを打倒する可能性だってあるのだ。

 

 ──けれど、それは。正義の味方の道では有り得ない。

 

 遠坂とセイバーは、何も知らない俺を攻撃しなかった。親切に事情を説明し、教会への案内までしてくれたのだ。ここで彼女たちを見捨てることは、その好意への裏切りに他ならない。

 今の戦いだってそうだ。逆に俺たちを見捨てることだってできただろうに、遠坂たちはそうしなかった。死力を振り絞ってまで、今もセイバーは戦い続けている。

 アーチャーの狙撃の瞬間にも、遠坂は掩護をしてくれた。敵だ何だと言いながらも、彼女たちは俺たちを味方として見てくれていた。

 

 それに第一──女の子を見捨てて自分だけ逃げるなんて、そんな卑怯な真似が出来るものか。

 

 俺は、苦しんでいる誰かを放っておくなんてできない。正義の味方は、困っていて、苦しんでいる人を助ける為の存在だ。

 五年前の、あの日。あの夜、俺はそうなると決めたはずではなかったか。

 

「──しぶといわね。いいわよバーサーカー。そいつ再生するみたいだから、首を刎ねてから犯しなさい」

 

 笑いながら放たれた声に、背筋が凍った。今──あの少女は、一体何と言った。

 アーチャーに向けていた目を、戦場へと引き戻す。

 

 ──その瞬間。闇に散る鮮血が、俺の視界を紅く染め上げた。

 

 地に倒れ伏したセイバー。動きを止めたバーサーカー。

 その光景の示す意味は、ただ一つ。即ち……セイバーは、バーサーカーに斬り伏せられたのだ。愉快そうに細められた少女の瞳が、ボロボロになったサーヴァントを冷たく見つめる。

 セイバーはまだ、死んではいない。傷だらけになりながらも、彼女はまだ立ち上がろうとしている。

 ……けれど。その小さな体に、もう戦う力など残ってはいまい。血の滲むほど握りしめられた遠坂の拳が、何よりもそれを語っていた。

 そんな。そんなになってまで戦おうとする少女に。バーサーカーのマスターは、一体何をしろと命じた。

 

 首を刎ねろと。

 犯せと。

 

 幼い子供には思いつきもせぬはずの残酷さで、あの少女は、信じ難い残忍な命令を下していた。

 その命令を実行するべく、バーサーカーが再び動き出す。一際高く振り上げられたのは、少女の身の丈ほどもある岩剣。

 逃れようもない死の刃。あんな物を受けては、人の形すら残るまい。一瞬後には、セイバーはただの肉片へと成り果てる。懸命に戦っていた少女が、無残にも殺される幻視を見て、俺は──―

 

「愚か者、血迷ったか雑種!」

 

 考えるよりも先に、全力で走り出していた。

 アーチャーが何か怒鳴っている。だが、そんな声など知らない。そんな些事よりも、今はあの少女の命が大事だ。

 俺には、怪物染みた英雄をどうにかすることなんてできない。だから、問題はそこではなく。あの化け物を倒すより先に、セイバーをあの刃から救わなければ──

 

「──―え」

 

 ざくり、という衝撃。

 

 それが背中を駆け抜けた瞬間、足の力が抜けた。

 目の前には、呆然と俺を見つめる綺麗な瞳。よかった、セイバーを助けられたみたいだ。後はただ、ここから全速力で逃げるだけ。

 そうだ、逃げなければならない。

 逃げなければ、俺がバーサーカーに殺される。セイバーを助けられたというのに、それでは何の意味もない。

 けれど。

 けれど、なんで。

 動くべき足が、俺の体にはついていないんだ──?

 

「!?」

 

 息を飲む音。それが誰の口から漏れたものなのか、今の俺には判らない。

 俺を見つめるセイバーか。

 愕然と立ち尽くす遠坂か。

 それとも──目を丸くして俺を見下ろす、イリヤという少女か。

 

 おかしいな。なんでみんな、そんなに俺を見ているんだ。

 

「ちょっと士郎、アンタ、お腹が……!」

 

 震える遠坂。口元を覆った両手は、一体何を意味するものなのか。

 自分の体を見下ろす。そこに広がっているのは、目を閉ざしたくなるような地獄。

 

 散乱する内臓。

 溢れ出す鮮血。

 突き出た肋骨。

 

 ぐちゃぐちゃに、ミキサーにでも突っ込んだようになっているソレらは、一瞬前まで、俺の体についていた物だった。

 

「マジ、かよ……」

 

 はは、と笑みが漏れる。

 なんて間抜けな。セイバーを助けておいて、俺は自分だけ逃げ損ねたらしい。これじゃ、俺が馬鹿みたいじゃないか。

 恐ろしいことに、これだけの傷を負って尚、不思議と痛みは感じられない。それはもう──痛みを感じる器官すら、壊れてしまったということか。

 でもまあ、それでもいいかもしれない。

 馬鹿一人と引き換えに、セイバーを助けられた。小さな体で巨人に立ち向かってくれた、綺麗な女の子。この子を殺させずに済んだのだから、良くやったと言うべきなのかもしれない。

 ……あ、まずい。視界が歪み始めた。

 

「──何よ、これ」

 

 トドメを刺すでもなく、ぼんやりと少女が呟いた。何が気に食わなかったのか、少女はぷうと頬を膨らませる。

 

「……つまんない。もういい、帰る。来なさい、バーサーカー」

 

 それだけを言い残して。冗談のように、少女は背を向けた。

 命令に付き従い、攻撃もせぬままに引き返していく巨人。忠実な従者を伴って、小さな少女はあっさりと立ち去って行った。

 それを確認した直後……血の赤に染まっていた俺の視界は、一転して黒に染まった。

 視力もなくしたのか、と実感するより先に、意識の方が消えていく。腹から下が消し飛んだのだから、それも当然の帰結だろう。

 遠坂とセイバーが、必死に何かを叫んでいる。怒っているようなその声に、悪いコトをしたかな、と微かな罪悪感が浮かんだ。

 困った。死んでしまうのは仕方ないとしても、彼女たちを怒らせてしまったのはまずかったかもしれない。この口が開けば、謝ることもできたかもしれないけれど。

 

 ──ごめんな。

 

 消えていく意識。薄れていく自我の中、最後に残ったのは……どこまでも冷たい烈火の瞳と、どこからかキチキチと響く虫の音だけだった。

 

 

***

 

 

 今宵開かれた戦端。

 正に激闘と呼べるそれを、何処からか見ていた姿があった。

 サーヴァントの死闘を俯瞰する以上、それもまた聖杯戦争に関わる何者かに他ならない。

 

 セイバー、アーチャー、ランサー、バーサーカー。

 此度の聖杯戦争では、既に四騎のサーヴァントが表へ姿を晒している。前回の戦いほどではないとはいえ、序盤から四騎もの英霊が駆け巡るこの展開は、予測も付かないと言って良い。

 しかし、未だに三騎のサーヴァントが現れぬ今。淀み廻る盤面が、更なる展開へと進むのは必至。

 残るサーヴァントは、いずれも権謀術数を得意とするクラス。強豪ばかりが揃う戦場へ如何なる一石を投じるのか、神でもなければ見通せまい。

 

 ──それを。人の身でありながら、見通そうとする影が此処にあった。

 

「──呵々々々々。ようやく、この老骨にも運気が巡って来おったわ」

 

 いや……それを、人と呼んで良いものか。

 外見は、何処にでもいる老人に過ぎない。腰が曲がり杖に寄り掛かるその姿は、誰が見てもひ弱な存在だ。その年齢は、とうに還暦を過ぎていよう。

 だが真実、この男がただの老人ならば──これほどの妖気、これ程の腐臭は有り得まい。

 人でありながら、どこまでも人ではない異端。英霊の具現たるサーヴァントとはまた別の形で、この存在もまた人間からは程遠かった。

 

「六十年後を待つつもりであったのじゃがのぅ……中々どうして、番狂わせというものは起きるものよ」

 

 暗黒に支配された室内。老人の声が、闇を妖しく染めていく。

 キチキチ、キイキイ。

 蝶番の軋むような無数の音が、矮躯の老人の声に答える。それを雑音の如く無視し、老人は皺の寄る手で顎を掴んだ。

 

「さて、どう出たものかのぅ?」

 

 老人は思案する。彼の頭に過るのは、今し方行われた英霊たちの死闘。

 何某かの方法で、この老人はあの戦場を見通していた。それは即ち、用いられたサーヴァントの武具や、明かされた真名すらも手に入れているということ。

 聖杯戦争に於いて最強の武器とも呼べる、情報収集能力。恐るべきその力を、この翁は保有している。

 戦争で最も重要なのは、物量でも兵站でも武器でもない。敵の正体、敵の弱点、敵の拠点。それらが明らかになっていれば、敵を屠るなど造作もない。

 

 ──故に。情報こそが、戦場全体を左右する鍵を握る。

 

 先程の戦闘。街路を破壊しつくした一戦の、余すところなくその全てがこの老人によって分析されていく。 

 

 セイバーの能力。

 アーチャーの武器。

 バーサーカーの真名。

 

 幾つか不確定要素はあるものの、最小限の力で想定以上の情報を手に入れることができた。この戦果は、謀略に秀でる翁にとって大きな優位をもたらすだろう。

 今手に入れた情報と、既に手に入れている情報。手持ちの駒と、今動いている駒。それらを統合し、最適な戦略を編み出していく。

 

 今宵現れたサーヴァントは、何れも強敵。誰一人として、弱兵などは存在しない。

 ならば、どうやって敵を打倒するか。

 如何にして、牙城を突き崩すか。

 最強の駒とて、条件次第では最弱の駒にも討ち取られる。ならば重要なのは、どの駒をどのタイミングで動かすか。あらゆる条件、あらゆる布石。全ての要素を視野に入れ、老人は盤面を構築していく。

 厄介な敵は複数。可能なら、互いに潰し合うのが望ましい。

 だが自分の手を汚さずに、物事が思い通りになると思う程この老人は耄碌していない。どこでどの手を、どのように打つか。その頭脳はどこまでも、冷たく鋭く冴え渡る。

 誰も知らぬ闇の中、独り黙考する老いた男。全てはただ、己の悲願を遂げるために。

 

 どれ程の時間が経ったのか。時すら判然とせぬ暗室で、老人は唐突に面を上げた。その表情には、隠しようもない邪悪な笑み。

 

「この辺りで、手を打つことにしようかのう──お主の出番じゃぞ、■■■■」

 

 誰も居らぬはずの闇に向けて、喜色を含んだ声が掛けられる。

 影の中、確かに何かが頷いた気配を感じて。聖杯を待ち望む老人は、満足げに笑みを深めた。

 

 

***

 

 

 ──こうして、最初の夜が更ける。

 

 魔術師たちの思惑。英雄たちの戦意。様々な物を覆い隠して、時間はゆっくりと進んでいく。

 やがて彼らが辿り着くのは、望んだ栄光か望まぬ破滅か。煌々と輝く月光だけが、静かに闇を照らしていた。


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