【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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38.黎明の星

「──『全て遠き理想郷(アヴァロン)』?」

 

「然り。貴様の奇妙な再生能力の理由、それは星の鞘が貴様に埋め込まれている故だ。聖剣と対になる、不老不死と再生能力を与える究極の宝具。そればかりは我の蔵にも収められておらぬ」

 

 家を発ち、柳洞寺に乗り込む直前。武器や装備の確認をしている最中、ふと気になってギルガメッシュに訊ねたことがあった。

 これから挑むのは、驚異的なマスターにサーヴァントたち。手札は何枚あっても足りないだろう。そこでこの聖杯戦争中、何度も俺を助けてくれた異様な再生能力のことを思い出したのだ。もしこの力が使えるのならば、これ以上ない武器になる。

 

「聖剣、ってことはセイバーの? なんだってそんなもんが俺の体の中に入ってるんだ」

 

「十年前、貴様の養父は騎士王のマスターだった。そして貴様は、十年前に死の淵を彷徨ったのだろう? 簡単な話だ。衛宮切嗣という男は、貴様の命を繋ぐために騎士王の宝具を用いたのだ」

 

「親父が……そうだったのか。十年前も、バーサーカーに斬られた時も、なんで生きてるんだろうって不思議だったんだけど、セイバーの宝具のおかげだったのか……。

 でも、それなら心強いな。ギルガメッシュ、そんなにすごい武器が隠れてたんならもっと早く言ってくれれば──」

 

「たわけ」

 

 緑茶を飲んでいたギルガメッシュが鼻で笑う。二週間も過ごしていれば、この男の言動の意味もだいたい分かってくる。これは、俺が何か見当違いなことを言っているパターンと見た。

 

「我が口にしなかったのは、その鞘は()()使()()()からだ。それは持ち主であるアーサー王がいてこそ真価を発揮する。

 ヘラクレスに斬られた時に貴様が蘇ったのは、セイバーが近くにいたからだ。セイバーが敵陣についた以上、その宝具は何の効力も持たぬ。貴様の頼りにはならぬと知れ」

 

「ってことは、あてにはできないのか……参ったな。これから決戦なんだから、切り札の一枚ぐらい持っておきたかったんだけど」

 

「ふん、凡俗らしい考え方よ。古今東西、秘密兵器で一発逆転などという考えが通用した例はほとんどない。戦というのは事前におおよその勝敗がついているものだ。不確かな希望などに縋らず、地道に足元を固めるのが正道よ」

 

 ぐうの音も出ない正論である。

 希望を砕かれた俺は、肩を落としておとなしく銃器の手入れに戻ることにした。なんだかとんでもない兵器が自分の中に眠っている、というちょっと憧れるシチュエーションだったのだが、現実はそう甘くはなかったらしい。

 そんな俺のことを、愚か者に向ける目で見ている英雄王。ややしばらくして、湯呑みの緑茶を飲み終えたギルガメッシュは、呆れたように溜息を吐いてみせた。

 

「雑種よ。忘れているようだが、そもそも貴様、切り札なら()()()()()()()()()だろう」

 

「え?」

 

 予想だにしない言葉に動揺する。顔を上げると、ギルガメッシュが俺の左手を指差している。そこにはサーヴァントへの絶対命令権である令呪が、赤い三画の輝きを放っていた。

 

 

***

 

 

「──状況を覆す手立てが、おまえには残っているのかな」

 

 言峰が笑う。こちらの不利を見越した笑みは、腹が立つほどの余裕に満ちている。あるいはそれは、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の誕生が近いことへの喜悦か。

 実を言えば、手札はある。不利な盤面をひっくり返す一手も、ヤツの防弾装備を突破するための武器も、まだこちらには残っている。しかし、今使ったところで何の意味もない、というか使えない。

 黒鍵が突き刺さったままの左手を──いや、左手に輝いている三つの印を見る。今まで一度たりとも使わなかった、マスターだけが所有する三画の切り札。これさえ使えれば、チェックメイトに持っていくことはできるが……。

 

「令呪は使わぬのかね、衛宮士郎。……いや、サーヴァントを呼び出しても無意味だと判断するだけの能力は持っているか」

 

 俺の視線から、何を考えているか見抜いたのだろう。言峰の皮肉めいた言葉は、こちらの逡巡を把握しているようだった。

 そうだ。令呪を使ってギルガメッシュを呼び出そうにも、言峰はアーチャーのマスターだ。おそらくヤツも令呪を保有しており、こちらが令呪を使ったタイミングに合わせて令呪を使われれば、無為にリソースを消耗するだけで終わってしまう。

 今、サーヴァントには頼れない。令呪で戦局を変えるタイミングがあるとすれば、ギルガメッシュが確実にアーチャーを撃破したという確証が得られるか──あるいは言峰に、カウンターの令呪を使う暇を与えないか。

 

「もっとも──使えたとしても、ギルガメッシュが令呪に応えるとは思えんが」

 

「……なに?」

 

「これでも、おまえよりやつとの付き合いは長い。英雄王という英霊は、我が師の令呪を以てしても制御が叶わなかった男だ。未だおまえをマスターとしているだけでも驚きだが、令呪に付き従うほど従順な性質ではあるまい」

 

 断言する言峰。そこには、ギルガメッシュという人物へのある種の信頼が感じられた。

 第四次聖杯戦争の折より、十年間ギルガメッシュのマスターを務めた男。当然、あの傲慢な気性など知り尽くしていることだろう。言峰が口にする分析は、付き合いの短い俺自身でさえ何度か抱いた危惧だった。

 自分のみを絶対と見なす英雄王が、唯唯諾諾と他者に従うなど、天地がひっくり返ってもありえない。サーヴァントへの絶対命令権である令呪でさえ、果たして頼みを聞くかどうか。だが、戦いの直前、ギルガメッシュは──。

 

「ああ。悩むのは構わんが──その前に、足元の()に溺れぬことだな」

 

 ハッとして横を見る。すると、空中の孔から溢れ出した黒泥が、濁流のようにこちらへ押し寄せてくるところだった。

 見るからに禍々しい色の泥からは、まるで亡者の腕めいた触手がうねうねと伸びている。まずい、あんなものに捕まったら一巻の終わりだ!

 

「くっ……!」

 

 思考を切り捨て、回避を優先。近くの高台に駆け上がり、間一髪で死の川から逃げ延びる。

 いよいよもって余裕がなくなってきた。あの泥が洞窟中を埋め尽くせば、悠長に大聖杯を吹き飛ばすどころか、戦っている暇さえなくなる。位置関係的に、あの流れは言峰がいた場所にも届いたはずだが……。

 

「あいつは……!?」

 

 いない。

 直前までそこに立っていたはずなのに、回避のために顔を背けた一瞬で、言峰の姿が消えていた。

 背筋に走る寒気。見上げると、空中に高く跳ぶ影があった。そしてそれより先んじて、襲い来る六本の剣の雨!

 

「っ──! 投影(トレース)開始(オン)!」

 

 左手の痛みを無視し、黄金の双剣を即時投影。右方に跳躍して大半から逃れつつ、直撃コースだった二本を弾いて迎撃。だが、その間に着地していた言峰は、こちら目掛けて人外の速度で疾走していた。あいつ、二十メートルは離れていたのにここまでジャンプして来たのか……!

 拳銃も手榴弾もない。迎撃の手がないこちらを嘲笑うかのように、言峰の左手が煌めく。稲妻めいて迫る黒鍵を弾いた時には、もうヤツは目の前まで迫っている。一足に間合いを詰めるのは、八極拳の秘門たる活歩の歩法。

 振りかざされる左肘。右手が破壊され、視界の半分が失われているのに、代行者の踏み込みは一切の負傷を感じさせない。絶技を極めた外門頂肘を、英雄王の技量を再現した双剣で受けるが、尋常ならざる剛力に足が地面にめり込んでいく。近接戦では勝機がないというのに、一瞬でヤツの間合いに持ち込まれた……!

 

「野郎……!」

 

 右手で肘を受け流し、痛む左手に握った剣で斬りかかるが、跳ね上がった膝が刀身を叩いて軌道を逸らす。この男は全身が凶器、右手一本奪った程度ではまったく脅威が減じていない。

 攻防は刹那。伸びた膝が更に一段跳ね、怒涛の二連撃が左手の剣を弾き飛ばす。直後、右手の剣に接した肘から強烈な衝撃が叩き込まれ、堪えきれずに武器を手放してしまう。相手が敵でなければ絶賛していたであろう、お手本のような寸勁。

 武装が落とされた。焦りでパニックになりそうになるが、言峰は思考の間隙を縫うように、僅かに退いて態勢を立て直していた。直後、地面が割れるほどの震脚を以て放たれる掌底。咄嗟に後ろに飛ぶが、胸をハンマーで殴られたような衝撃に息ができなくなる──!

 

「ガ、ァッ……!」

 

 受け身を取ることすらできず、大地を削るようにして転がる。苦痛を示す信号が脳をガンガンと揺らし、視界には星が舞っている。必死で酸素を取り入れるが、その度に胸に響く痛み──肋骨の二、三本は、今ので折れたか罅が入ったに違いない。

 

「く、そ──」

 

 胃腸の何処かを傷つけたのか、逆流してきた鮮血を吐き捨てる。これでも、攻撃が炸裂する寸前に跳んでダメージを減らしたから()()だ。まともに受けていれば、内臓が全て破裂して即死だっただろう。

 よろめきながら、無様に立ち上がる。この状態ではもう、機敏な回避など望めないだろう。同じ一撃を放たれたら、今度こそ逃れる術はない。絶体絶命──その言葉が、頭に焼き付いて離れなかった。

 

「ほう、まだ立ち上がる気概があるか。十年前ならば、今ので確実に仕留めていたのだが──私も年を取った。人間、老いの衰えには逆らえぬらしい」

 

 追撃を放つこともなく、掌底を繰り出したままの言峰は自嘲するように苦笑を浮かべていた。何故かという疑問は、よろめいた拍子に()()に転げ落ちそうになったことで氷解する。

 俺が殴り飛ばされた場所は高台の端だった。すぐ下では呪いの泥が川となって流れ、瘴気めいた湯気を立てている。人間を殺戮することに特化した、可視化された毒の塊。あの中に入るのは、溶鉱炉に落ちるのと同義だろう。

 つまり、もう逃げ場もない。袋の鼠とはまさにこのことで、言峰は決着を急ぐ必要さえないのだ。

 

「ここまでだ、衛宮。遺言があるのなら聞いておくが」

 

「……ふざけるな。生憎、俺は諦めが悪いんだ」

 

 頭痛を堪えて、すっかり馴染んだ黄金の双剣を投影する。頭も胸も腹も腕も足も、体中で痛くない場所を探すほうが難しい。投影魔術の連発で魔力にも余裕がなく、本能は今すぐ休んで眠ってしまいたいと訴えている。

 だが、あの薄ら笑い。人が苦しむのが愉しいと、人が死ぬのが楽しいと、地獄を賛美するあの瞳。あんなやつに降参するなど、死んだほうがマシだった。ここで負けるなら、俺はこの十年、なんのために正義の味方を目指してきたのか。倒すべき悪に、人類の敵に立ち向かえないのなら、何が正義の味方だというのか……!

 

「刺し違えてでもお前は倒す。覚悟しろ、言峰」

 

 血まみれの手で双剣を握る。令呪も、切嗣が残してくれた切り札も使う隙がない。最後に残された手段は──ヤツを()()()()()()()()()()ことだけ。

 

「そうか。ならばその足掻きごと、主の身許に導いてやるとしよう。十年前の精算は終わりだ、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の誕生を見届けなければならぬのでな──!」

 

 神父が迫る。宙を穿つ拳は、銃弾にさえ迫る速さ。元より尋常ならざる身体能力の持ち主ではあったが、これはあまりにも異常だった。極限まで研ぎ澄まされた拳打は、大木どころかコンクリートさえ粉微塵に打ち砕こう。

 

 ──これは死んだ。

 

 奇妙に遅く感じられる感覚の中、三秒後の死を確信する。どういう魔術を使ったのか、代行者の速度はここに来てサーヴァントにすら比肩していた。目測を狂わされた俺は、宝具を自爆させるのが間に合わない。それよりも早く、剛拳がこの頭を消し飛ばすだろう。

 

「言峰──!」

 

「さらばだ、衛宮。親子ともども、正義を抱いて朽ちるがいい」

 

 死を覚悟する。最期まで目だけは逸らすまい、と怨敵を睨みつけた、その瞬間。

 

 

「──いいえ。死ぬのはアンタの方よ、クソ神父!」

 

 

 突如として、鋼の怪鳥が言峰に襲いかかった!

 

「なに──!?」

 

 俺を仕留めようとしていた拳が急制動。常軌を逸した反応速度で、言峰が襲い来る飛燕を弾き飛ばす。確実に胴体を穿つ奇襲にさえ対応するとは、代行者の戦闘能力は人外のそれだ。

 だが、言峰は唯一使える左手を繰り出した。がら空きになった胴体めがけて、地を這うように迫った魔女が、強烈な蹴りを炸裂させる──!

 

「ガッ……!」

 

 流れるような連環腿。一撃目に呻きつつ、膝を掲げて追撃を防御した言峰だったが、その顔には明らかな困惑があった。それもそのはず、この局面での闖入者には俺も度肝を抜かれたのだから。

 

「凛……!? おまえ、なぜここに──?」

 

「決まってるでしょ。アンタをぶちのめすために、地獄から舞い戻ってきたのよ!」

 

 聖杯の泥に囲まれ、死地と化したこの場所。俺の窮地を助け、堂々とそう宣言したのは、誰あろう遠坂凛だった。

 血の海に倒れ、瀕死の重傷だった姿は既にない。ギルガメッシュの霊薬が効いたのか、毅然と胸を張るその姿は、自信と活力に溢れていた。首の皮一枚で死を免れた事実と、遠坂が駆けつけてくれたことの喜びで、安堵のため息を吐いてしまう。

 

「遠坂……! 無事だったのか?」

 

「ええ、士郎が助けてくれたおかげよ。遅くなって悪かったわね」

 

 微笑んだ遠坂は、俺を庇うように言峰の前に立ち塞がる。その構えは、明らかに熟練した拳法使いのもの。あの代行者にダメージを与えたことといい、遠坂は魔術だけでなく、体術にも長けているようだ。

 

「正直、助かった。遠坂が来てくれなきゃ、俺はあいつにやられてた。おまえの借りを返すはずだったのに、この体たらくじゃ情けないよな」

 

「ま、しょうがないわよ。あのクソ神父、悔しいけど強さは本物だから。でも、私が来たからにはもう大丈夫。

 ……そうそう。ここに来る前に、桜とイリヤスフィールは助けてきたから。今はセイバーがついててくれるから、そっちは安心して」

 

 遠坂の言葉を肯定するように、鋼の鳥が小さく嘶く。どこかで見覚えがあると思ったら、それはアインツベルンの森でイリヤが用いた使い魔だった。

 何がどうなったのかはわからないが、セイバーが再び俺たちの味方になってくれたというなら心強い。騎士王が二人を守ってくれているのなら、後顧の憂いなく目の前の戦いに専念できる。

 

「そっか……安心した。桜もイリヤも、助け出す前に言峰とぶつかっちまったから、大丈夫か心配だったんだ。何から何まで、遠坂には助けてもらってばかりだな」

 

「ここまでの分は、士郎に助けてもらった恩返し。ここからの分は後できっちり取り立ててあげるから、覚悟しておきなさい」

 

 何日も聞いていなかったように感じる、力強い遠坂の声。呪いの泥が渦巻く地獄のような場所に飛び込んで、躊躇いなく手を貸してくれる──まったく。俺は本当に、いい仲間に恵まれたらしい。

 と。言峰と相対しつつ、傍から見ていなければ分からないほど、遠坂がほんの僅かに後ろに下がった。同時に、俺だけに聞こえるような小声が囁かれる。

 

「あとは任せろ──って言いたいところだけど、ごめん。今のわたしじゃ、綺礼を抑えておくのが精一杯。ここに来るまで、溜めてた宝石はほとんど使い切っちゃったし」

 

「……!」

 

 よく見れば。自信ありげな笑みを浮かべている遠坂の頬には、痛みを堪えるような脂汗が浮かんでいた。神代の霊薬はとんでもない効果を発揮したようだが、ギルガメッシュの見立てでは、本来遠坂が動けるようになるのは今日の昼間だった。今の遠坂は傷が癒えきっておらず、かなり無理をしている状態なのだろう。

 

「だから、最後は士郎に任せる。その顔だと、まだ手は残ってるんでしょう? わたしが綺礼を抑え込むから、その間にあいつを倒して」

 

 そう言うと、一度こちらに振り返った遠坂は。

 

「──頼んだわよ」

 

 笑顔を残して、一目散に戦地へと踏み込んでいった。

 

「ふん。舞台は既に終局だ。おまえの出る幕など残ってはいない。あの傷で生きていたのは驚きだが、兄弟子としての慈悲だ。迷わぬよう、今度こそ時臣師の許へ送ってやろう──!」

 

「ハッ。士郎にそれだけやられてるくせによく言うわ。裏切り者のクソ野郎、死んでから天国でも地獄でも受取拒否されて、粗大ゴミ扱いで行き場に迷いなさいっての──!」

 

 突貫からの双撞掌。左手首の纏で跳ね除けた言峰が、同時に足払いをかけて遠坂の体勢を崩しにかかる。熟練の鎖歩は、しかしそれを読んでいたのか、バックステップした遠坂に躱される。次いで放たれた冲捶をも回避し、懐に飛び込んだ遠坂は投げ技に推移しようとしたが、今度は言峰が蹴りを繰り出して牽制する。

 一進一退の攻防。本調子ではない体で代行者とせめぎ合う遠坂が凄いのか、それとも左手一本と片目だけで遠坂とやり合う言峰が並外れているのか。数合の格闘の後、言峰の右目が見えていないことに気づいたらしい遠坂は、ヤツから見て右側──つまり、視界が奪われている側から猛攻をかけたのだが。

 

「あれはまさか、聴勁──!?」

 

 聞いたことがある。拳法使いも達人の領域となれば、視界を奪われていようと音だけで相手の行動を予期することができると。完全に見えていない方向から、しかもそちらの腕は死んでいるにも関わらず遠坂の打撃を捌き切る言峰は、あまりにも力量が隔絶している。

 このままではまずい。言峰の化け物めいた技量を以てすれば、どこかで遠坂の攻撃が差し返される。その前に遠坂を掩護し、ヤツを打倒しなければいけないのだが。

 

「ダメだ、距離が近すぎる……今撃てば遠坂にも当たっちまう」

 

 細かく立ち位置を変えながら繰り広げられる、クロスレンジでのインファイト。遠距離攻撃手段として残された()()()()()では、遠坂ごと巻き込んでしまう。どちらかだけを正確に射抜くなど、どんな狙撃手でも不可能だろう。

 かといって、あの近接戦闘に介入することは不可能だ。俺には格闘戦の心得がないし、各部を損傷しすぎた体は、そもそも歩くだけでやっとの有様。

 血だらけの左手で、それでもなお淡く輝く紋章を見つめる。戦いの最中に抜け飛んだのか、黒鍵が刺さっていた場所からは、今も鮮血が溢れ続けていた。このままでは遠坂だけでなく俺も遠からず倒れるだろう。頼りになる手札(カード)は、たった一枚だけ。

 ならばここが切り時だ。遠坂と拳を交える言峰には、カウンターの令呪を使う隙などない。ボロ布のようになっていたコートを引きちぎり、高らかに左手を掲げる。

 

「令呪を以て命じる──」

 

 流れる血を吹き飛ばすように煌めく、紅の令呪。遠坂の冲捶を仰け反って躱した言峰が、一瞬こちらを見て皮肉げに笑う。

 その余裕は何なのか。釈然としないものを感じつつも、聖杯戦争の始まりから、一度たりとも使わなかった切り札に念を込める。今ここで、黄金のサーヴァントを召喚する!

 

「来てくれ、ギルガメッシュ──!」

 

 直後。手の甲に刻まれた一画が、覚醒と共に光を放ち──。

 

「──言っただろう。あの男が、令呪の命令に応えるはずがないと」

 

 何が起きることもなく。空間に溶けて、消えていった。

 

「……え?」

 

「ウソでしょ、令呪が効かない……!?」

 

 愕然とする。

 令呪とは、サーヴァントに対する絶対命令権。空間転移程度は造作もないと、俺は何度も聞いていた。事実、イリヤがこれを使い、バーサーカーに理性を取り戻させるというとんでもない掟破りを実行した場面さえ目撃している。

 発動と同時に膨大な魔力が開放され、何か途方もない魔術が起動したような気配はあった。令呪自体は、間違いなく発動していた。だというのに何故、ギルガメッシュがここに現れないのか……!?

 

「隙ができたな、凛──!」

 

「え──きゃっ!?」

 

 動揺した遠坂が、言峰の後蹴腿をもろに喰らう。両手をクロスさせてガードするが、身長190cmを超える男の全力の蹴りを、体格で劣る側が受けきれるはずがない。

 電柱さえへし折るのではないかという苛烈極まる威力。軽々と吹き飛んだ遠坂は、一度大地に叩きつけられたが、反動を利用して四つん這いになると地を削って踏みとどまった。しかし、やはりダメージは甚大だったのか、唇の端から血が溢れている。

 

「遠坂っ!」

 

「年長者の言葉は聞いておくものだぞ、衛宮。あの男は災害のようなものだ。他のサーヴァントであれば首輪となる令呪も、英雄王には届くまい。

 半人前の魔術師の令呪であればなおさらだ。この聖杯戦争で、おまえはあの男の何を見てきたのかね」

 

 駆け寄ろうとする俺を、嘲り混じりの声が制する。令呪による召喚が効かない──動揺する俺に、言峰の嘲弄は深く突き刺さった。

 

「なんでだ、ギルガメッシュ……」

 

 欠けた令呪を見る。これが切り札だと示唆していたのは、他ならぬあのサーヴァント自身ではなかったのか。あれは嘘で、俺の命令になど応える気はなかったのだろうか。

 元マスターである言峰は、ギルガメッシュという男をよく知っている。あれほどの宝具を持つサーヴァントであれば、令呪を無効化する能力を有していても何の不思議もない。あの気位の高い英霊が、令呪などという「命令」に従うはずがないと、言峰は最初から確信していたのだ。たかだか二週間しか付き合いのない俺よりも、あの神父の方が、遥かにあの男を理解していたというのか。

 事実として、ギルガメッシュは俺の声に応えてくれなかった。俺とあいつとの関係は、その程度のものだったのか……?

 

「──いや」

 

 本当に、そうだろうか。

 

『此奴は、不遜にも我の光輝に縋らんとする魔術師(マスター)だ。我に命を張る無礼(バカ)者を、これ以上野放しにしておけるものか』

 

 ほんの二週間ほど、それでも十年の長きに亘ったようにも思える、濃厚な時間を思い出す。

 ギルガメッシュは傲慢で厳しく、仮借のない人物だったが、肝心な時にはいつも手を貸してくれた。あの叱咤激励に、道を示してくれる慧眼に、いったい何度救われてきたことだろう。マスターとしての義理立てはあったのかもしれないが、あのサーヴァントは俺に対して、一人の人間として接してくれて──最後には、認めてくれていたように思う。

 

『──ここは任せた、ギルガメッシュ。後から追いついてきてくれ』

 

『フン──良かろう。あの見苦しい偽物は、我が引き受けた。我が贋作者(フェイカー)を仕留める前に、虫程度は片付けておくがいい』

 

 ここに来る直前の、最後の会話。

 ギルガメッシュは、確かに()()()()()()()と言ったのだ。あの男が、自分で口にしたことを守らないはずがない。

 来ると言ったならば必ず来る。あの広間で別れてからこれだけ時間が経っているのに、未だここに現れていないことがそもそもおかしい。アーチャーとの戦闘がまだ続いているのか? ……いや、英雄王ほどのサーヴァントならとっくに勝利を収めているはずだ。

 それに。

 

「あいつは、俺の声を無視するようなやつじゃない」

 

 聖杯戦争の最初から、そうだった。

 ギルガメッシュは俺の言葉を否定することはあった。罵倒することもあった。いつでもあの誇り高い英霊は厳しく、言い返しようのない正論を突きつけてきた。しかしながら、どんな状況にあっても、()()()()()()()()()ことは一度たりともなかったのだ。

 サーヴァントとの契約は切れていない。令呪を通じて、俺の声は届いていたはずだ。にも関わらず何のリアクションも返ってこないということは、ギルガメッシュの身には令呪の呼び出しにも応じられないような異常事態が起こっている。そうとしか考えられない。

 

『人として生まれ落ちながら、その領分を超えた願いを持ち、己が欲のために憚りなく我を求め、真作への道を登らんとする。その稀有な愚かしさを、恥知らずな欲望を良しとするのが我の愉しみだ。これほど浅ましい人間を、我が救わずして誰が救う!』

 

 何度も俺を助け、導き、救ってくれた偉大な英霊。俺にとってギルガメッシュとは、いつの間にかそういう人物になっていた。

 だから。

 

「──俺は、ギルガメッシュを信じる!」

 

 傷ついた左手をもう一度掲げる。そうだ、一画で駄目ならばもう一画分使ってやる──!

 

「愚かな。ギルガメッシュに令呪など──いや、二画分とあれば万一もあるか。

 手は打たせん。その腕、置いていくがいい……!」

 

 言峰の左手から繰り出される三閃。一呼吸の間に、腕、腹、頭を狙った黒鍵が放たれる。急所を確実に射抜く剣の雨は、一つ一つが狙撃の精度。

 射線は見えた。双剣で防御しようと構えるが、蓄積されたダメージのせいか、体の動きがいやに遅い。まずい、これでは防ぎきれない……!

 

「させるもんですか!」

 

 爆裂。

 手榴弾のごとく弾けた宝石が、溢れる魔力を解き放った。黒鍵の二つは衝撃に耐えられずへし折れ、残った一つは鋼の怪鳥が自分の身を犠牲にして叩き落とす。危なかった……迎撃してもらわなければ、どれか一発は確実に被弾しただろう。

 攻撃を撃ち落とされた言峰が振り返る。その時には気合一閃、渾身のサポートをしてくれた遠坂がヤツの巨躯へ突撃していた。強烈なストレートが繰り出されたかと思えば弾かれ、再び激烈な死闘が展開される。

 

「ほう。骨は砕いたはずだが、まだ動けるとはな。復讐心とは存外、大きな力を与えるものだ」

 

「それだけじゃないっての……! これはマスターとしての分、これはイリヤの分、これは士郎の分! 腐れ神父、アンタには山ほど()()があるんだから!」

 

 肘打ちを回避してからの、目にも留まらぬ三連撃。蟀谷(こめかみ)、目元、腹部を打ち抜く拳が、まともに言峰にヒットした。八極拳が誇る奥義、八大招・三迎不門顧。

 いかに鍛え抜かれた筋肉の鎧とはいえ、このダメージは通ったのか、言峰が小さく呻く。即座に蹴りを繰り出すが、そこには僅かに精細さが欠けていた。

 ほとんど千切れかかっている右手。頭部と右手から続く出血。全身を覆う裂傷、銃撃によるダメージ。言峰は怪物めいた代行者だが、サーヴァントではない。ここまでの戦いで、ヤツは確実に消耗し、疲弊している。

 だが、消耗の度合いで言えばこちらの方がより深刻だった。俺は立っているのがやっとで、遠坂は文字通り血を吐きながら殴り合っている。治癒魔術は不得手だと言っていたから、あれは強化魔術と気合で無理やり動いているのだろう。後先考えない猛攻が途切れれば、その時が最後となる。

 

「今よ、士郎!」

 

 遠坂の叫び。もうこれが、言峰を抑えておける最後のチャンスだった。千金にも勝る一瞬の間に、左手を掲げ、残った令呪を発動させる!

 

「令呪を以て希う!」

 

 高らかな宣言。発動を阻止しようとしてか、言峰が黒鍵を投擲しようとしたが、遠坂の浸透勁がヤツの左手を打ち据えた。即座に投擲からカウンターに切り替え、遠坂の腕を掴むと足払い(白馬翻)で体勢を崩させた言峰。まさしく攻防一体の套路、八極拳が理想とする妙技だったが、その時にはもう遅い。

 頼みの綱は彼の王だけだ。足りない最後のピースを、最古にして最強の剣を、今!

 

「来てくれ、ギルガメッシュ──!」

 

 赫と輝く令呪。莫大な魔力が手から迸り、全ての紋様が消えていく。聖杯戦争のマスターたる資格、二画目の令呪の喪失。決死の懇願に──(そび)える大聖杯の中で、()()が動いた。

 

「……っ」

 

 肌で感じられるほどの変化。言峰も遠坂も、俺の動きも一斉に止まる。サーヴァントは現れない。しかしその代わりに、悪意に満ちていた洞窟全体の雰囲気が、明らかに異質なものになっていた。

 困惑しているうちに、聖杯の孔から無秩序に溢れ、広がり続けていた呪いの泥が、突然ぴたりと動きを止める。明らかに超自然的な力が加わったその変化は、まるで何かに怯えているようでもあった。

 次いで、四方八方に無秩序に伸ばされていた泥の触手が、一斉にその向きを変える。統一した意志の下に動いた触手たちが見ているのは、未だ泥を吐き出し続ける孔の下。その、呪詛と怨念の吹き溜まりの中から。

 

 

「──フン。この我を呼びつけるとは、手の焼ける契約者(マスター)よな!」

 

 

 黄金の英雄王が、泥を吹き飛ばして現れた。

 逆立っていた髪は下ろされ、鎧の半分は損壊したまま。剥き出しになった肉体は傷だらけで、溶けかかっている部分さえある。

 されど。その圧倒的な王気(オーラ)は、無尽の呪詛すら寄せ付けず。途方もなく眩い煌めきに、泥を統べる『この世全ての悪(アンリ・マユ)』さえ怯んだようだった。

 

「この世全ての悪だと? 生温い! その程度の呪いで、この英雄王を砕けるとでも思ったか! たかが悪神ごとき、我の足元にも及ばぬと知れ──!」

 

 洞窟を埋め尽くしていた泥が、泥から伸びた触手群が、一斉にギルガメッシュを急襲する。しかし、指が鳴る音が響いた刹那、現れた無数の宝具が呪いを紙切れのように吹き飛ばした。

 剣が、槍が、矛が、槌が、英雄王に傅く数え切れぬ宝具たちが、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の汚染を駆逐していく。聖杯の泥が器物を吸収する属性を持っていようと、爆裂が、火炎が、雷撃が、氷槍が、その前に泥ごと滅却する。破壊という嵐が吹き荒れ、泥の河だけでなく、洞窟そのものが軋みを上げる。

 人類全てを殺し尽くして余りある暴力を、それ以上の暴力が蹂躙する光景。それはさながら、神話の一節めいていた。

 

「馬鹿な──ギルガメッシュが、()()()()()()だと……!?」

 

 降り注ぐ瓦礫の中、言峰が絶句する。今の今まで薄ら笑いを崩さなかった神父は、驚愕を顔に張り付かせ、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 これだけの手傷を負ってなお揺らがなかった敵が、初めて晒した明確な隙。対峙していた遠坂が、それを見逃すはずもない。残されたありったけの魔力を脚部に回し、赤い魔女は流星のように疾駆した。

 

「綺礼ぃぃぃ──!!!」

 

「──っ!」

 

 言峰が黒鍵を振るうが、遅い。俺にギルガメッシュを呼び出せるはずがないと慢心していた者と、俺を信じて背を預けてくれていた者。その心構えの差が、絶望的なまでの一秒となって二人を隔てていた。

 振り上げられる渾身の拳。もはや拳法の型などあったものではない。あらゆる運動エネルギーを、積年の恨みを、全霊の力を乗せて放たれた一撃は、言峰の腹をしたたかに穿ち──

 

「──ガ、ッ……!」

 

 その長身を、真っ向から打ちのめす!

 血反吐が舞う。あまりにも鮮烈な攻撃は、輝いて見えるようだった。

 今のは決まったと、間違いなく確信する。それほどの重み、それほどの直撃。鋼のような肉体といえど、これを受けてはたまるまい。

 しかしながら、遠坂も今の一撃で限界だった。言峰を殴りつけた一撃のまま、脚をもつれさせた遠坂がその場に倒れ込む。一方の言峰は、絶大なインパクトに大きくふらついたものの、未だ以て倒れない──聖堂教会代行者という人形(ひとがた)の修羅は、どこまで凄まじい耐久力をしているのか。

 左足で衝撃を流し切ると同時、振り上げられる右足。鉄槌に等しい踏みつけが、遠坂の体を砕こうと動く。が、その致命の報復に先んじて、倒れたままの遠坂がこちらを向いた。

 

「士郎っ!」

 

 見開かれた翠の瞳。一秒後の死が待っているにも関わらず──遠坂の目は、()()()()()と言っていた。

 

「────」

 

 世界が凍る。奇妙に遅くなった時間の中、目の前の光景を俯瞰する。

 全体重を乗せた蹴撃は、間違いなく遠坂を殺すだろう。しかし、遠坂に意識を持っていかれた言峰は、俺に背中を向けており──今この瞬間、衛宮士郎という存在を完全に失念していた。

 先ほどまで、言峰は遠坂と戦いながら、常に俺や周囲の奇襲を警戒していた。だから遠坂ごと射抜く覚悟を固めたとしても切り札は抜けなかったし、令呪とて軽率には使えなかった。

 だが、ギルガメッシュの召喚という精神的動揺と、遠坂が炸裂させた全力の一撃。俺の仲間たちが積み上げてくれた二つの光が、ほんの一瞬、代行者の余裕を奪い去ったのだ。あの男は今、俺への警戒を解いている!

 

「うおおおおおおおお────!」

 

 瞬間、痛みを忘れた。

 十メートルの距離を駆け抜ける。投影した剣は投げ捨てた。剣では間に合わないと即断、ホルスターに収めていた、最後の一挺に右手を伸ばす。この時、この瞬間まで温存していた切嗣の忘れ形見は、あたかも最初からそうであったかのようにぴたりと掌に収まった。

 トンプソンセンター・コンテンダー。ただ一発の弾丸を装填することしかできない単発式拳銃。再装填にも時間を要する、およそ実戦的ではない、射撃競技に用いられる装備。されど──この銃は、幾多の魔術師を葬り去った、衛宮切嗣(魔術師殺し)の最強の切り札。

 

「衛宮、士郎──!」

 

 言峰が振り向く。見開かれた瞳。浮かぶのは、不意を突かれた動揺か、動けぬはずの敵が走り出したことへの驚愕か。

 遠坂を屠ろうとしていた足が急制動。震脚となって地を踏み鳴らし、連動した左手が跳ね上がる。八大招・立地通天炮。極め抜いた絶招は、殺意を凝縮した破壊兵器。しかし。

 

 ──今は、俺が(はや)い!

 

「言峰、綺礼──!」

 

 拳銃を構える。絞られた銃爪は、怨敵の拳に遥か先んじ──過たず、死の魔弾を解き放った。

 

「ごっ──」

 

 咆哮する炸薬。大型猛獣すら屠る.30-06スプリングフィールド弾を前に、防弾装備が如何ほどの効果を持とうか。狙撃用銃弾にさえ比肩する過剰極まりない火力は、装衣の護りを薄皮のように貫通して。

 

 ──言峰綺礼の心臓を、完膚なきまでに破砕した。

 

 

***

 

 

 決着は、ついた。

 衛宮切嗣が残した最後の遺産。コンテンダーが発射可能な.30-06スプリングフィールド弾は、個人用の防具では防御不可能、場合によっては非装甲戦闘車両さえ穿つほどの破滅的な威力を誇るが、この武器の真骨頂はそこではない。

 起源弾──『切断』と『結合』、切嗣が有する魔術的な"起源"をカタチにした魔弾。この弾丸は、直撃した魔術師に対して致命的なダメージを与える効果を持つ。この弾丸を魔術で防御しようとした場合、弾丸が有する"起源"が魔術回路にまで干渉を及ぼすのだ。

 切断され、めちゃくちゃに繋ぎ合わされる魔術回路。回路に流していた魔力が多ければ多いほど──つまり、より強大な魔術を使おうとすればするほど、魔術回路が破壊された時のダメージは甚大になる。魔術的防御に拠らなければ.30-06スプリングフィールド弾を防ぐことはできず、そして魔術的防御に頼れば魔弾の効果で致命傷を負う。魔術師に死の二択を強いるところに、この魔弾の悪辣さがあった。

 

「────」

 

 本来ならば上半身ごと砕け散ってもおかしくはない威力だったのだが、何かしら魔術的防御を敷いていたのか、弾丸は言峰の胸に穴を穿つだけに留まっている。しかし、もう神父に戦う力はおろか、生命活動の余地すら残されていないことは明白だった。

 奇妙なまでの静寂の中、拳を繰り出そうとした姿勢のまま、凍りついたように止まっている言峰。不思議そうに、胸に空いた穴を見下ろした後。

 

「──なぜ、おまえがその銃を持っている」

 

 静かな声で、仇敵はそう訊ねてきた。

 

「これは、切嗣(おやじ)が俺に遺してくれたものだ。いつか魔術師殺しとして戦う時、きっと必要になるだろうって」

 

「──なるほど」

 

 その一言に、どんな感情が籠められていたのだろうか。苦笑を漏らした言峰は、一度小さく息を吐いて。

 

「ならばこそ、私が敗れるのは必然だったか。衛宮切嗣、つくづくおまえは私の癇に障る。

 ──おまえの勝ちだ、衛宮士郎。第五次聖杯戦争、最後のマスターよ。聖杯を前にし、その責務(のぞみ)を果たすがいい」

 

 自らの敗北と、願望(ねがい)が潰える瞬間を前にして。神父の声は、なお変わらず平然としていた。

 あの教会で初めて会った時と同じように。いや、それ以前からずっとそうだったのだろう。最期の最期まで、言峰綺礼という男は揺らがない。死の淵にあっても、この神父は自分を貫き続けた。

 

「ああ──俺の勝ちだ、言峰綺礼。おまえの願いは叶わない。俺は正義の味方として、この手で聖杯を破壊する」

 

「────」

 

 どさり、と。

 そこが限界だったのか。神父の痩躯が、力なく崩れ落ちる。大地に流れる生命の残滓は、どこか黒い泥めいていて──それが、言峰綺礼という男の最期だった。

 

 

***

 

 

 空間が揺れる。それは、さながら悲鳴のようだった。

 最後の庇護者が倒れたことを、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』も把握しているのか。悪足掻きとばかりに、洞窟を埋め尽くした呪いの泥が津波のように隆起し、そこから生えた無数の触手が自らの脅威を排除しようと暴れまわる。何百何千という呪詛の塊は、一つ一つに執念めいた悪意を宿し、高台の上にいる俺たちへ急速に魔手を伸ばし始めた。

 体は壊れ、武器も喪失し、最後の一発をも撃ち尽くした俺に、脅威から逃れる術はない。されど──

 

「勝利を掴んだようだな、雑種」

 

 ──今ここに、最強の剣が戻ってきた。

 

 豪雨のように降りしきる弾丸。宝具から放たれる魔術や攻撃が、無限の敵を一蹴する。『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』という人類の叡智は、人類そのものを滅ぼさんという脅威に容赦なく牙を剥いていた。

 破壊の嵐を従え、黄金のサーヴァントが隣へ着地する。暗黒の泥の中から、派手にこちらまで跳んできたギルガメッシュは、いつものように腕を組んでみせた。その絶大な安心感に、思わず苦笑いしてしまう。

 

「首の皮一枚だったけどな。俺だけの力じゃあいつには敵わなかった。遠坂とイリヤと──アンタのおかげだ、ギルガメッシュ」

 

 ちらりと横を見る。言峰にボディーブローを叩き込んだ遠坂は、それで力を使い果たしたのか、うつ伏せになって気を失っている。怪我はしているようだが、どうやら命に別状はなさそうだ。

 イリヤが送ってくれたのであろう使い魔は、黒鍵が突き刺さったまま地面に転がっている。あの鳥が体当たりで黒鍵を撃ち落としてくれなければ、今頃俺は死体になっていた。イリヤにも、後でお礼を言わなければならない。

 一人だけではダメだった。みんなを助けられたから、みんなの手助けがあったから、俺は今ここに立っている。言峰と俺を分けるものがあったとすれば、きっとそこだろう──あいつは最後の最後まで誰の味方にもならず、誰を味方につけることもなく、自分だけで戦っていた。

 

「──そうか。言峰は死んだか」

 

 それは、ギルガメッシュにしては珍しく、やや静かな声だった。

 胸を撃ち抜かれ、物言わぬ躯となった神父。第四次聖杯戦争を共に戦い、十年という日々を過ごした元契約者に、英雄王は何を思ったのだろう。数秒ほど遺体を眺めていたギルガメッシュは、やがて小さく息を吐いた。

 

「貴様の歩みを見届けるのも一興ではあったが──神すら問い殺す貴様の求道は、人の前に敗れ去ったか。この星にはまだ、滅びるには惜しい宝が残っていたということだ。

 ではな、綺礼よ。──いや、中々に愉しかったぞ」

 

 この戦いが始まってから、一度も言葉を交わさず、道が分かたれていた元主従。死ねばそれまでと言い捨てるギルガメッシュが、それでも声をかけたのは、彼なりの慈悲だったのだろうか。

 もしかしたら本来、最後に立ちはだかることになった主従は、言峰とギルガメッシュだったのかもしれない。最大の敵になったかもしれない男は、今や心強い味方となって、隣で皮肉げな笑みを浮かべていた。

 

「──さて。全てのマスターとサーヴァントは倒れた。セイバーは例外として、残った者は貴様だけ。この意味が分かるか、雑種」

 

「ああ。今回の聖杯戦争──勝ったのは、俺たちだ」

 

 勝利。

 喜ばしい、胸が踊るような気持ちとともに語られるべき言葉だが──そのフレーズの、なんと虚しいことだろう。

 酷使しすぎて悲鳴を上げる足を動かし、周囲をゆっくりと見渡す。どこを見ても、視界に映るのは悪夢のような光景だった。

 悪意に染まった大聖杯。空中に開いた暗黒の孔。垂れ流される呪いの泥。無秩序に暴れる殺意の触手。この世の終わりのような凄惨さが、勝者に与えられる報酬だとするならば……聖杯戦争というシステムは、やはり最初から狂っていたのだ。

 

「どうだ、雑種。感想は?」

 

「ひどいもんだよ、まったく。胸糞が悪くなる。こんなもののために、どれだけの人が犠牲になったんだ」

 

 俺が把握しているだけでも、十年前の大火災に、今回行方不明になった大勢の人。結界に巻き込まれた学校の生徒たち、キャスターに生命力を吸われた人たち、操られていたであろう柳洞寺の人たち。他にもいったい、どれだけの人が、どれだけの物が被害を受けたことだろう。

 それだけの犠牲を重ねた上で、手に入るものがこの地獄だ。こんなに悪趣味で、救いがないものもないだろう。もしかしたら切嗣も、十年前同じものを目にしたのかもしれない──これを見て気分が良くなる者がいるとすれば、そいつは人の道を外れている。

 

「──クク、なるほどな。貴様はそれでよい。これだけの戦いを経てなおその感性を貫けるなら、それはそれで一つの本物だろうさ。言峰(ヤツ)とは違うが、おまえもまた我を飽きさせることはなさそうだ」

 

 ギルガメッシュが不敵に笑う。俺同様にボロボロの体だというのに、英雄王の余裕には些かの陰りもない。最初から最後まで、言峰以上に自分を曲げることがないこの男は、やはりとんでもない人物だった。

 

「……っと、あんまりのんびりもしてられないか」

 

 目の前まで伸びてきた呪いの触手を、三挺の宝具が消し飛ばす。孔から溢れ続ける泥は、いつの間にか洞窟のほとんどに充満していた。

 死者の手のような呪いの触手が、俺たちがいる高台目指して下から殺到する。その尽くを放たれた宝具がねじ伏せるが、無尽蔵に追加され続ける黒泥を前にしてはいたちごっこに過ぎない。泥の大元にして、諸悪の根源──最大の敵を打ち砕く仕事が、まだ俺たちには残っている。

 

「ギルガメッシュ」

 

 話しかけると、黄金のサーヴァントがこちらを測るように見た。紅い瞳は、()()()()()()()と言っている。弾丸(宝具)を撃ち続けているものの、飛んでくる火の粉を払うだけで、根本である孔や聖杯に見向きもしていないのはそういうことだろう。

 そうだ。この戦いは俺のもの、勝利も敗北も俺が受け取るものだと、アーチャー(ギルガメッシュ)は最初に言っていた。自分は衛宮士郎という人間の戦いを愉しむのみだ、と。本気で手を貸してくれるようにはなったものの、彼の役割はサーヴァントとしての補助(サポート)。決断は、マスターである俺が下さなければならない。

 

「マスターとして、最後の頼みがある」

 

 左手に残された、ただ一つ輝く紋章。聖杯戦争の勝者たる証を高々と掲げる。

 この戦いを終わらせるというのなら、令呪もここに置いていくべきだ。刻まれていた烙印、ギルガメッシュと俺を結ぶ始まりの(よすが)。そこに全ての想いを込め──マスターとして、決着の言葉を口にする。

 

「聖杯を壊し、聖杯戦争を終わらせてくれ」

 

「──承知した。下がっていろ、マスター」

 

 消えていく令呪。紅い輝きが、儚く溶けて散っていく。

 頼みを聞き届けたギルガメッシュは、一度だけ大きく頷くと、どこからか黄金の鍵剣を取り出した。何か門が開くような音が、一帯へ高らかに響き渡る。

 

「見事敵を討ち果たし、勝利を掴み取った褒美だ。この英雄王の真の力、秘蔵秘匿の宝物を見せてやろう──!」

 

 鍵を中心に溢れ出す黄金の光。空中投影された、複雑な大樹のようなそれは、宝物庫の形を示す地図だったのか。その頂点で紅い光が煌めいたかと思うと、眩い映像は幻のように消えており──代わって、ギルガメッシュの手には一振りの剣が握られていた。

 見ただけで背筋が震える。他の武器とは次元が違う、あの剣は投影どころか解析することさえ不可能だ。いつか見た黄金の夢、その中で燦然と輝いていた紅の剣。あれこそがギルガメッシュの本当の切り札、あらゆる宝具の中の頂点。

 

「──終幕だ。起きよ、エア」

 

 王の命に従い、紅い剣が唸る。乖離剣(エア)と呼ばれたそれの、三つの円柱が互い違いに回転を始める。収束する膨大なエネルギーは、いつか見た星の聖剣さえ凌駕しよう。

 いつの間にか、吹き荒れていた宝具の嵐は止んでいた。好機と見たか、おぞましい触手の群れが呪いを撒き散らしながら迫ってくるが、エアが巻き起こす暴風が仇なす敵を切り裂いていく。

 

 旋転する。

 廻転する。

 

 星すら揺るがすのではないかという重みを以て、円柱の回転が加速していく。泥の大波も、触手の大群も、崩落してくる岩盤さえ、その風の前には近づけない。

 最古にして最強の英霊。なぜギルガメッシュが、あらゆる英雄たちの王と呼ばれているのか。世界の総てを統べる頂点、絶対王者たる証がこれだった。

 右手を掲げる英雄王。握られた最強の剣が、赤い魔力を放出させる。吹き荒れる暴風は、竜巻のそれと何が違おう。かつて自然現象が神と畏れられていたならば、これこそが神罰の具現に違いない。

 『この世全ての悪(アンリ・マユ)』。人類全てを呪い殺し、星の全てを覆い侵す悪の具現。多くの英霊を染め上げた悪神を前に、神の剣を構えた英雄王は──

 

「"天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)"────!!!!」

 

 ──天地創造を司る、裁定の一撃を振り下ろした。

 

 具現化した虚無の"刃"が、時空を切り裂いて一直線に走る。海のような呪いの泥も、邪神めいた無数の触手も、瞬時にして蒸発した。存在そのものを世界ごと消滅させる斬撃に、いったい誰が抗えようか。

 泥を垂れ流す孔すら滅却した一撃は、そのまま大聖杯を直撃する。天地を分かつほどの破壊の刃に、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』はぞっとするような悲鳴を上げ──星の渦の中に、何もかもが飲み込まれた後。

 

「──衛宮士郎。これが、勝利の光景というものだ」

 

 砕けた空から差し込む、清らかな朝の日差し。その輝きを見た時、ようやく──長い聖杯戦争は、終わりを告げたのだった。

 

 

***

 

 

 ──欠けた夢を、見ていたようだ。

 

「先輩、起きてますか?」

 

 土蔵に光が差し込んでくる。その明かりで、意識が覚醒した。

 聞き慣れた優しい声に、うっすらと瞼を開ける。薄っすらと紫がかった髪に、整った柔和な顔。いつもと変わらない、起こしに来てくれる後輩の姿がそこにはあった。

 

「ああ。おはよう、桜。体調は大丈夫なのか」

 

「もう。先輩ったら、毎朝同じことを聞くんですから。姉さんやイリヤさんたちのおかげで、すっかり元気になってますよ」

 

 このとおりです、と力こぶを作る素振りをする桜。その明るさいっぱいの姿に、自然と笑顔が浮かんでくる。

 

「そっか、それはよかった。

 ……あれ。なんかいい匂いするけど、桜、もしかしてもう朝飯作ってくれてたりしたのか?」

 

「いえ、今日はアルトリアさんが。慣れてきたことですし、一人で挑戦したいと仰られたので、そろそろいいかなと思ってお任せしちゃいました」

 

「桜なりのテストってわけか。セイバー……じゃなかった。アルトリアも、最初はフライパンの使い方も知らなかったのに、ずいぶん成長したもんだ」

 

「ギルガメッシュさんに煽られたのが、相当悔しかったみたいですからね……」

 

 その時の光景を思い出し、桜と顔を見合わせて苦笑いする。

 

『ふはははは、見よ! これがデキる男の料理というものだ! 

 んん? そしてこの黒く捻くれたモノはなんだセイバー? よもや貴様の国ではこれが料理というのではあるまいな? 聖杯の泥かと見違えたぞ、ふははは! これでは王としての格の差は明白よな!』

 

『~~~~~っ! 離してください、凛、シロウ! 今すぐこの不愉快な男をスープの海に沈めてやります! あ、こら、今日という今日は逃がすものですか、英雄王──!』

 

 何がどうしてそうなったのか、料理対決などをすることになったサーヴァントたち。

 しかし、生前臣下に任せきりだったアルトリアと、現世で十年間腕を磨いた──本人曰く、言峰の作る麻婆料理から逃れるために致し方なく──ギルガメッシュでは比べ物にならなかった。結果、涙目で震えるアルトリアをドヤ顔のギルガメッシュが煽りまくるという展開になり、激怒して宝具を抜こうとするアルトリアを抑えるのには大層苦労した。

 歴史の教科書に載っている英傑たちだというのに、やっているのは小学生レベルの争いである。魔術協会の偉い人や、歴史の専門家が見れば泡を吹いて卒倒しそうな一幕だった。

 

「ま、これも平和の象徴ってことで。あれ、そういえば、イリヤはどうしてるんだ?」

 

「えっと、イリヤさんでしたら──」

 

 桜の声を遮るようにして、とたとたと駆けてくる足音。えいっ、と可愛らしく土蔵の扉を開けたのは、誰あろう白い少女だった。紫のワンピースに白いスカートという出で立ちで、にこにこと笑顔を覗かせたイリヤは。

 

「おはよう、シロウ! 今日は──って、あれ、どうしてサクラがここにいるの?」

 

「どうして、と言われましても……先輩を起こしに来るのは、わたしの楽しみですし」

 

「もう、シロウはわたしが起こしにいくって決めたでしょ! サクラばっかりずるいんだから!」

 

 むがー! と抗議の構えを見せるイリヤを、苦笑いしていなす桜。このままでは話が進まないので、居間に行くように促したが、移動している間も二人はずっとじゃれている。年の離れた姉妹のような光景も、今ではそう珍しくなくなっていた。

 連れ立って先に行く二人に続き、庭を歩いていると、ふと明るさに目が眩む。目を細めて見上げると、ちょうど太陽が雲の合間から姿を表したところで。青く暖かな大空は、すっかり春の陽気に染まっていた。

 燦々と降り注ぐ日光。ぽかぽかと心地よい気温。流れる風は花の匂いを運んでおり、鳥の声が遠くで響く。それはあまりにもありふれた、尊い日常の風景で──あの戦いの爪痕など、何も感じさせないものだった。

 

 ──戦いの後始末は、思いのほか大事(おおごと)になった。

 

 大聖杯を吹き飛ばし、命からがら地下から脱出した後、あの洞窟はすっかり崩壊してしまった。聖杯にまつわる物はことごとくが消し飛ばされるか地面の下で、もう二度と日の目を見ることはないだろう。

 あの晩の戦いを乗り越えた皆は、例外なくボロボロだった。俺も遠坂も骨や内臓が何箇所も損傷しており、ギルガメッシュの霊薬がなければ数ヶ月は療養生活を余儀なくされたことだろう。

 

 重症だったのは桜だった。大聖杯の崩壊に伴って小聖杯としての機能も停止し、身を蝕んでいたサーヴァントの魂や『この世全ての悪(アンリ・マユ)』との繋がりは消え去ったが、体のダメージが消えるわけではない。長年刻印虫に犯されていたこともあって酷い状態ではあったが、神代の霊薬と優秀な魔術師である遠坂、そして小聖杯に詳しいイリヤの助力でどうにか日常生活を送れる程度には回復してくれた。心の傷も含めて継続的なケアは必要だが、ひとまず心配はなくなったと言っていい。

 不思議だったのは、心臓付近にあった特殊な虫の痕跡だった。間桐臓硯の本体だったと思われるそれは、なぜか心臓には物理的な傷が一切ない状態で、剣で貫かれたように死んでいた。言峰の手によるものとしてはおかしく、桜は俺が助けてくれたと言うのだが、俺が桜と会えたのはセイバーが助け出してくれた後だったので辻褄が合わない。この謎だけは結局解けなかったが、聖杯がまともな奇跡の一つでも起こしていたのだろうか。

 いずれにせよ、臓硯の呪縛は解けた。しかし、臓硯は死亡して行方不明扱い、義父である慎二の父も行方不明、慎二自体にもトラブルがあり、桜の身内は一気にいなくなってしまった。虐待を受けていた彼女にとってはむしろよかったのかもしれないが、未成年にとって保護者が全員いなくなるというのは一大事だ。関係者一同と役所で複雑な話し合いが持たれた結果、とりあえず藤ねえが後見人になるということで一旦は落ち着いた。

 

 そして、より深刻だったのはイリヤだった。彼女の体はそもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしい。驚くことに俺よりも年上だという彼女が、小学生程度の容姿でしかないのもその影響だ。

 最悪なことに、責任を取るべきアインツベルンは、最高傑作であるイリヤが敗退したと聞いて一族ごと自殺するというとんでもない暴挙に出た。後にはごく僅かなホムンクルスと膨大な資産だけが残され、紆余曲折の末、彼女はその資産で()()()()()()()に人間とまったく変わらない人形を作ってもらい、そちらに体を()()()()()ことにした。イリヤが生きていけることを知った俺たちは安堵し、本人は『見てなさい! これでセイバーと同じぐらいむっちむちのないすばでぃーになるんだから!』と息巻いているのは、今だから言える笑い話だろう。藤ねえにはイリヤが切嗣の娘であることを伝え、当面居候としてうちで過ごす許可を取っている。

 

 ギルガメッシュとセイバーは、サーヴァントなだけあってなんともなかった。前者は宝物庫の薬を飲んで勝手に復活していたし、セイバーは自己再生能力で傷を癒やしていた。

 いったいなにがあったのか、再会したセイバーはとんでもなくスタイルの良いお姉さんになっていて、最初見た時は誰だかわからないほどだった。臓硯の下にいた事情を明かされ、何度も謝られたが、成長した姿に慣れるまでにはしばらく時間がかかった。

 聖杯の影響で受肉したセイバーは、大聖杯が無くなった後でも消えることはない。わたしのサーヴァントなんだからわたしが面倒見るわよ、と言う遠坂のところにとりあえずは身を預け、いつの間にか戸籍やら何やらも用意されていた彼女は、ゆっくり身の振り方を考えるらしい。本名であるアルトリアと名乗り始めたのは、何か心境の変化があったからなのか。

 

 心境の変化といえば、ギルガメッシュとセイバーの関係も変わっていた。聖杯戦争の最中は同じ陣営に属しつつも不倶戴天の敵、相性が最悪といった感じだったが、戦いの中で何かがあったのだろうか。ギルガメッシュはセイバーを嘲ったり弄んだりすることはなくなり、セイバーもギルガメッシュを嫌ったり避けたりする様子はなくなった。親しく話すことも増え、この間など二人きりで夜まで映画を見に行っていたものだから、俺と遠坂は心底首を傾げたものだ。

 大人同士いい雰囲気なのかと思えば、料理対決のような小学生と変わらないやり取りはするわ、ゲームで競って一喜一憂するわで、この二人の関係は結局よくわからない。少なくとも、十年越しの因縁だけはすっきり片付いたようだった。

 

 あまりいい結末を迎えなかった者もいた。聖杯戦争の途中から行方不明になっていたライダーの仮マスター、間桐慎二は、隣町で錯乱状態になっているところを発見された。

 どうやらライダーがキャスター陣営についた時に、何かキャスターの腹に据えかねることをしでかしたのか、かなり強力に洗脳魔術のようなものを受けていたらしい。

 キャスターが消滅した後でもその影響は強く残り、脳にかなりのダメージが及んだようだ。後遺症や障害が残る可能性も大きく、桜は心配していたが、遠坂は因果応報ねと一言つぶやいたのみ。しでかしたことの報いを受けたと言えばそれまでだが、どうにも複雑な心情だ。

 

 慎二より、もっと酷い状態の被害者もいた。聖堂教会の監督役という立場を裏切るばかりか、世界を滅ぼそうとした大罪人の家宅捜索を行うべく、遠坂が言峰教会へ踏み込んだのだが。そこの地下に、まるで苗床のようになった何人もの少年少女がいるのを発見したのだ。

 調べによると、言峰は契約していたギルガメッシュに魔力を供給する目的で、教会で引き取った孤児を生きたまま()()()()()にしていたのだという。しかし、ギルガメッシュは十年前に受肉しており、外部からの魔力供給を必要としていない。つまりこれは、魔力供給を名目にした言峰の()()であり、あの男がどれほど異常な精神をしていたのかを伺わせる。

 あの神父の悪行はそれだけではなかった。言峰は魔術協会から派遣されたマスターを襲ってランサーの令呪を奪っており、そのマスターは左手を失った瀕死の状態で発見された。一歩間違えれば魔術協会との戦争待ったなし、児童虐待の事実が浮上すれば表社会でも行政介入待ったなしという大スキャンダルに、聖堂教会は上から下まで大騒ぎになったらしい。

 俺には分からない複雑な交渉の末、聖堂教会は魔術協会に大変な貸しを作り、今回の聖杯戦争の後始末のほとんどを担う羽目となった。犠牲者たちも教会に保護され、治療と支援も得られるらしい。それらの旗振り役として、言峰の後任に銀髪の修道女(シスター)がスタッフを引き連れて着任したと聞いたが、前任者のような異常な人間でないことを願うばかりだ。

 

 それ以外にも、聖杯戦争は大きな被害を残した。大聖杯が安置されていた空洞が崩落する際の山崩れは、人的被害が出なかったとはいえかなりの騒動になり、戦闘で崩壊した柳洞寺と併せてニュースでも話題になった。また、あの夜の戦闘による光を目撃していた市民もおり、巷ではUFOの仕業だという噂が実しやかに囁かれている。

 キャスターによるガス漏れを装った生命力の搾取、慎二が起こした穂群原学園での結界事件も大事だった。前者はキャスターの偽装が功を制し、そのままガス漏れということで話が片付いたが、後者は聖堂教会のスタッフが総出で教職員や生徒の治療や記憶操作を行う羽目になった。幸い犠牲者や後遺症が残る人間はおらず、あれは有毒ガスの発生というカバーストーリーがでっち上げられている。

 黒い影の犠牲者──行方不明者とされる数十人の人々は、戻らなかった。あれは桜という器を通じて現れた聖杯の中身が、魔力を取り込むために無差別に人間を襲っていたのが真相だった。これを知った桜は、強い罪悪感で鬱病半歩手前まで追い詰められたが、遠坂やイリヤや皆の慰めでやっと最近笑ってくれるようになった。黒い影は桜の体を媒介に勝手に現れていただけで、元はと言えば桜をそんな体にした臓硯が悪い。桜に責任はなく、自分を責める必要はないのだが、優しい彼女には心の傷になってしまったようだ。

 

 諸悪の根源である大聖杯。それが汚染されていた経緯、破壊され消滅した事実は、魔術協会の方で問題になったらしい。あげく、二人も受肉した英霊が存在するという知らせに、時計塔の降霊科(ユリフィス)伝承科(ブリシサン)などは数世紀ぶりのお祭り騒ぎになったとか。協会側も聖堂教会に負けず劣らず大量のスタッフを送ってくるかと思われたものの、管理者(セカンドオーナー)である遠坂が目に隈を作るほど何度も折衝を行った末、どうにか控えめな調査で済むことになった。聖杯戦争の方が楽だった、と死んだ目で呟く遠坂に、俺はかける言葉を失ったものだ。

 時計塔のお偉方は残念だろうが、大勢のスタッフを派遣して根掘り葉掘り嗅ぎ回ろうなら、怒った大英雄二人にロンドンが更地にされかねない。遠坂は魔術協会の交渉担当に、遠回しにそんな恫喝をしていたが、あれは半分本気でセイバーに命令する気でいたと思う。

 

「しーろーうー! なにぼーっとしてるの、早くしないと朝ごはん冷めちゃうわよー!」

 

 と。我に返ると、居間から藤ねえが首を伸ばして手招きしているところだった。相変わらず朝から騒がしい人だと苦笑いしながら、そちらへ向けて歩いていく。

 

 学園の結界事件が起きる直前、慎二が数名の女子生徒を襲う別の事件があった。それに巻き込まれたクラスメイトの美綴綾子の見舞いのため、病院を訪れていた藤ねえは、運良く結界の被害を逃れることができた。

 しかし、それで安泰だったかと言われるとそんなことはない。なまじ無事だった数少ない教職員だったために、生徒たちの見舞いから事後処理、保護者対応、休校になった影響による授業スケジュールの見直しなど、あらゆる仕事が降り掛かってきた。役所と学園と病院を駆け回っていた藤ねえはろくに帰ってくることもできず疲労困憊だったようで、雷画爺さん曰くこんなことは藤ねえが生まれてこの方初めてだそうだ。

 うちに顔を出す余裕ができたのもつい最近のことで、過労でげっそりと痩せた藤ねえを見た時は仰天したものだった。遠坂も桜もたいそう心配したのだが、そこはさすがのタイガー。連日もりもりと山のようにご飯を食べ、あっという間に復活してしまった。やはり元気な藤ねえがいないと日常が帰ってきた気がせず、すっかり元通りになってくれてほっと一安心だ。

 

 俺が居間に着くまでのわずか数歩の間に、イリヤとおかずの取り合い合戦でも始まったのか、ぎゃー! だのうびゃー! だの謎の奇声が聞こえてくる。また始まったか、と思いつつひょいと居間を覗くと。

 

「あれ? なんだ遠坂、おまえもいたのか」

 

「おはよう、衛宮くん。なんだとはご挨拶ですこと」

 

 猫かぶりモードのあかいあくまが、にっこりと鎮座ましましていた。藤ねえの前なので上品そうに振る舞っているが、目は笑っていない。いい加減遠坂の本性と仮面にも慣れてきたが、まったくいい性格をしていると思う。

 

 聖杯戦争の後始末に大わらわだった遠坂も、処理が一段落したおかげで最近ちょこちょこ家に顔を出すようになった。遠坂が話したのか桜が話したのか、二人が姉妹であることをいつの間にか藤ねえが知っており、何がどうしてそうなったのか『そうだ! 遠坂さんもうちで桜ちゃんと一緒にご飯を食べればいいのよ!』などと宣ったのが全ての始まり。そもそもここは藤ねえじゃなく俺の家なのだが、家主を置き去りにして進んだ話し合いの結果、いつの間にかセイバーともども結構な頻度でうちで食卓を囲むこととなっていた。

 おかげで、うちの台所の競争率は大変なことになっている。俺と桜はもちろん、遠坂も料理ができるし、たまにギルガメッシュも腕を振るうし、セイバーも練習したがるし、それを見てイリヤまで料理をしたがるものだからもうめちゃくちゃだ。藤ねえは賑やかなのを喜んで座っているが、料理を作ろうという努力を少しは見せたらどうなのだろうか。

 

「おはようございます、シロウ」

 

 藤ねえとイリヤがおかずの皿を競ってぎゃーぎゃーと言い合い、それを見て桜が困ったように笑い、遠坂は我関せずとテレビのニュースを眺める不思議な光景。空いている場所に座ると、台所からお盆を持った金髪の美女が姿を見せた。

 

「おはよう、セイ……じゃなかった、アルトリア。今日の朝ごはん、作ってくれたんだってな」

 

「はい。まだまだシロウたちには及びませんが、誠心誠意作らせていただきました。今日の献立ならば、ギルガメッシュにつけいる隙は与えないかと」

 

 長い髪をポニーテールにまとめ、ライオンが描かれたエプロンを纏ったセイバーは、慣れた仕草でお盆を持ってくる。その上にあるのは卵焼きときんぴらごぼうだが、以前の目も当てられない黒焦げの魔物と違って、猛特訓の末にかなり美味しそうな出来に仕上がっている。弟子の上達の速さに、師匠の一人として鼻が高い限りだ。

 

 実は、地味に困ったのがセイバーの我が家での立ち位置だ。藤ねえは以前のセイバーを知っているのだが、まさかいきなり十年分成長しましたなどと言えるわけがない。

 結局セイバーは本国に帰り、それとは無関係に遠坂の家を訪ねてきた知り合いがアルトリア……という建前を藤ねえには説明している。切嗣とも昔の知り合いだという話をすると、『がーん……切嗣さん、美人のお知り合いばっかりいるのね……。イリヤちゃんっていう娘さんまでいるし……』と何故だか一人でショックを受けていたのだが、まあ話は信じてくれたようで何よりだ。

 

「うんうん、これで全員揃ったわねー。というわけで、今日も元気にー!」

 

 おかずの配膳が終わったところで、藤ねえの音頭でいただきますと挨拶を唱和。こうして、今日も平和な一日が始まった。

 

「ねえ士郎、ギルガメッシュさんってまだ帰ってこないの?」

 

 激しいおかず争奪バトルを繰り広げる片手間、藤ねえがそんなことを訊ねてくる。そういえばクラス名(アーチャー)ではなく本名を伝えていたんだなと思い出しつつ、俺は首を横に振る。

 

「いや、まだ連絡は入ってないな。しばらく旅に出るって言ってたから、そのうち珍しい土産でも持って帰ってくるんじゃないか」

 

「では、彼が戻るまでに、さらに修練を積んでおかなければ。以前のような屈辱、二度は甘受できません」

 

 サーヴァントの反応速度で、肉団子を奪取したセイバーがぐっと拳を握る。料理対決で敗北を喫して以来、セイバーのやる気と向上心は見事なもので、これは俺もうかうかしていられないかもしれない。ただでさえ和食は桜、中華は遠坂に優勢を奪われつつあるのだし、そろそろ家主の力を知らしめてやらねばなるまいと決意。

 

「冒険家って大変よねー。すごい山の中とか海の底とかに行くんでしょう? でもでも、一度ぐらい私も冒険してみたいなー」

 

「ボウケンかあ……ねえねえタイガ、この前テレビでやってたところ、オーストラリアって面白そうじゃない? お休みの日に行ってみたいなー」

 

「う、うーん、海外はちょーっちハードル高いかなあ……」

 

 ギルガメッシュは表向き冒険家ということになっているので、藤ねえとイリヤが楽しそうに騒いでいる。実際、生前は冥界にまで行った冒険のスペシャリストなので嘘はついていないはずだ。うん。

 

「…………冒険なら一生分したから、しばらくはいいかしらね」

 

 ぼそっと死んだ目でつぶやいたのは遠坂。確かにあの聖杯戦争で、森の中から空の上、洞窟の底に至るまでさんざん冒険はしたと思う。大怪我をしたり死にかけたりした記憶を思い出すと、乾いた笑いしか出てこない。

 それでも、全部が全部酷いマイナスの体験だったかというと、決してそうではないように思う。その戦いという名の冒険の中、ずっと頼りになり続けたサーヴァントに目を向けるが──そこにはあの偉そうな男の姿はなく、一人分の空席が残るだけ。

 一度だけため息を吐く。見上げると、飛び込んでくるのは我が家の天井。その更に上、遥か空の彼方を思って。

 

「ギルガメッシュ、今頃どこにいるんだろうな」

 

 

***

 

 

 月の綺麗な夜だった。

 

「雑種よ。此度の戦は決着を見た。貴様は生き残り、そして仲間も生き残った。並の魔術師にも満たぬマスターが、あらゆる魔術師と英霊を退け、悪神をも滅ぼした──これは比類ない大戦果と言えよう。

 だが、貴様という人間の戦いは今からが本番だ。これより先の長い旅路(みちのり)を、貴様はどう歩む」

 

 しばらく前。

 いつかの夜のように、縁側で星を見上げていると、ギルガメッシュがそんなことを訊ねてきた。

 どういう心境なのか、人ひとり分を隔てた距離で、俺と同じように夜空を見上げている英雄王。少し悩んだ末に、俺はうっすらと考えていたことを口に乗せた。

 

「そうだな……正直、聖杯戦争が始まるまで、俺はあんまり先のことを考えちゃいなかった。正義の味方になりたいってぼんやり思ってはいたけど、それが何なのか、どうすればなれるのか、何も分かってなかったんだ。ただ俺がなんとかしないとって、それだけを考えてた」

 

 だからこそ、悩み続けた。

 その在り方は歪だと、何かがおかしいのだと、ギルガメッシュにも遠坂にもセイバーにも叱責された。俺自身にも道が見えていなかったのだから、今にして思えばおかしいのも当然だった。

 しかし、この聖杯戦争でそれは変わった。俺は自分が許せなかったことが何だったのか気づき、正義の味方というカタチに一つの答えを見つけた。一人で走り続けたらどうなるかという末路と、仲間を頼ることの意味も学んだ。

 

「だからここからは、ちゃんと先を見て進むことにする。臓硯や言峰のような魔術師と戦うためには、ただ突っ走るだけでもダメだし、自分一人でもダメなんだ。

 そのために、まずは──そうだな。学園を卒業したら、大学に行こうと思うんだ」

 

「ほう?」

 

 俺の答えが意外だったのか、ギルガメッシュが興味深そうに片眉を上げた。

 

「魔術師どもの学び舎、時計塔とやらを目指すのではないのか。あの娘は、その道を志しているようだが」

 

「遠坂はそうだろうな。けど、時計塔は()()()のための組織だ。俺は()()使()()であって、魔術を極めたいわけじゃない」

 

 魔術師とは一般に、魔導の探究を通じて根源への到達を目指す研究者だ。だが俺は、根源なんかには毛ほどの興味もない。もちろん時計塔に行くことで得られるものは多いだろうが、本質的に、俺がなりたいものは魔術師ではない。

 

「俺の目標は、民間人を魔術師から守ること──守るための()()()()()()()ことだ。それが俺にとっての、正義の味方の一つの答えだ。

 ……実は、聖杯戦争の後始末で大騒ぎになってた時、ちょっとした話を聞く機会があったんだけど」

 

 一歩間違えれば冬木市どころか、世界中が壊滅していたという聖杯戦争。裏の世界は大騒動になり、魔術協会も聖堂教会も未だに後始末に奔走しているが、何もその二つの機関だけが魔道に関わる組織というだけではない。

 

「どうやら日本にも昔から、この手の問題をどうにかしようっていう機関はあったらしい。けど小規模な組織がバラバラになってるだけで、有機的に動けてはいないようなんだ。そのせいで今回も、海外の組織でしかない魔術協会と聖堂教会に主導権を奪われた。

 それで国の方で、新しく魔術的な問題に対処する専門機関を立ち上げようって話が出てきてさ。それに興味はないかって声をかけられたんだ」

 

 国の顔にも表と裏がある。あわや国家の滅亡という事態に、裏側の組織がようやく重い腰を上げたらしい。事情を説明してくれたのは、魔術協会の面々に混じって事情聴取に来た一人の日本人だった。

 旧来の組織の統廃合、表側の組織との連携、人員の確保など、実働体勢が整うまでの問題は山積み。新機関の名称すらまだ決まっておらず、禍特対だの退魔機関だのと仮の候補が上がっている段階で、ちゃんとした組織になるのは何年も先のことだそうだ。

 だけど。

 

「民間人を魔術師から守る、正義の味方。そのための組織作りができて、その中で戦えるなら、きっとやりがいがあると思う。そういうものがあれば、十年前の大火災も、今回の聖杯戦争だって、きっと被害を抑えられたはずだ」

 

「なるほど。そのために、時計塔ではなくこの国の学び舎を選んだわけか」

 

「一応、表向きは公務員ってことになるらしいし、今から関わりを持つなら日本にいた方がいいからな。遠坂ほど勉強はできないから、これから頑張らないといけないけど」

 

 そうか、と小さく頷くギルガメッシュ。否定することも、肯定することもない。紅の瞳は静かに、じっと俺を裁定していた。

 

「個人ではなく仲間を、組織を作った上で戦うか。それがおまえの道か、衛宮士郎」

 

「ああ。俺はアーチャーのようにはならないし、ギルガメッシュのようにはなれない。俺の人生の答えは、結局俺にしか出せないんだ。

 だから──この道が、間違ってないって信じてる」

 

 そう、胸を張って答えると。ギルガメッシュは、ふっと唇を緩めて微笑んだ。

 いつもの嘲笑でも、高笑いでも、皮肉めいた笑みでもない。穏やかな笑いは、まるで俺の道行きを、そこから生まれるものを愉しみにしているかのようだった。

 

「長い旅路になるぞ、雑種。人を束ね、戦うというのは、生半な道ではない。一人で戦った英雄は数知れぬが、貴様の道は尚険しいものとなろう。(ゆめ)、その魂を損なうな」

 

「──ああ!」

 

 いつか、切嗣に誓った夜のように。偉大な王の激励に、しっかりと前を向いて頷く。握った拳は、理想(ゆめ)を貫く覚悟の証だった。

 それを見たギルガメッシュは、愉しそうに目を細めると、再び満天の夜空へ向き直る。小さく吹いた風が、黄金の髪をすっと浮かせた。

 

「──さて。実が成るのは暫し時を待たねばならぬか。それまでの娯楽を求め、我も少し旅に出るとしよう」

 

「旅って、どっかに行っちゃうのか?」

 

 驚きに目を見開く。どうやら俺にとって、ギルガメッシュがすぐ近くにいることはいつの間にか当たり前になってしまっていたらしい。訊ねる声は、自分でも驚くほど動揺が混じっていた。

 

「うむ。あの聖杯の居心地は最悪であったが、その中で一つ、面白いものを見てな」

 

 そんな俺に、悪戯っぽい笑みで返すギルガメッシュ。彼の王らしくない、邪気のない好奇心に満ちた笑顔は、まるで少年のようにも見える。

 

「貴様が我を呼び出す直前、我は『この世全ての悪(アンリ・マユ)』めに囚われていた。その中でヤツは、並行世界の光景を見せてきたが──聞いて驚け。そこに映っていたのは、数百光年の彼方にある別天体、別の文明だった」

 

「えっ……ちょっと待て、それって宇宙人ってことか!?」

 

「然り。その()の我は、月の聖杯戦争に喚ばれていてな。そこを勝ち抜いた後、宇宙旅行へと出向いたらしい」

 

 いきなりとんでもない話になってきた。

 SF小説か何かの世界に、思考がついていかない。ぽかんと口を開けていると、ギルガメッシュはフハハハと楽しげに笑う。

 

「いやなに、さしもの我も目を疑ったものだ。いずれ遠い未来の果て、雑種どもが星の海に漕ぎ出す日々は()()()()が、よもや一足先にその愉しみを味わう我がいるとはな! まったく我としたことが、自身を羨む日が来るとは思いもよらなんだわ。腐れた聖杯も、一つぐらいは味な真似をする」

 

「えーっと……それで、自分も宇宙に行きたくなった感じか?」

 

「いかにも。我の責務(しごと)が意味を持つのは遥か彼方の話。その(とき)が来るまで、言ってしまえば我は暇でな。

 我の治世で、呼び出されてからの十年で、この星のほとんどは見て回った。ならば一つ、この星を飛び出し、心躍る余暇に繰り出すのも一興であろう」

 

 信じられないスケールの話である。

 いや、そんなに気軽に宇宙旅行に出かけるって……まあ確かに、ギルガメッシュの宝物庫なら宇宙船の一つや二つ入っていそうではあるけれど。

 星空を見上げる。何万、何億光年の彼方から降り注ぐ光の欠片。俺はこの冬木だけでも精一杯なのに、ギルガメッシュはそんな遠くの宝に手を伸ばそうとしているのか。あまりにも実感が湧かなすぎて、まるで言葉が出てこない。

 

「なに、たまにはここにも顔を出そう。土産程度は持ってきてやる故、王の帰還を心待ちにしているがいい。

 ──ふむ、そうだな。この愉しみを味わうのが我一人というのも味気ない。どうだ雑種。貴様も一つ、星の舟に乗ってみるか」

 

「……え!?」

 

 今度こそ度肝を抜かれた。

 いや、驚きすぎてさっきからずっと同じリアクションしかしていない気がする。宇宙旅行、というか冒険に同行しないかって、そんなトンデモスケールの提案を本気でしてきているのか──?

 

「ふははは、そう本気にするな、AUOジョークだ。貴様にはまだ、この星でやるべきことが残っていよう」

 

 俺がフリーズしていると、ギルガメッシュは豪快にそう笑い飛ばした。冗談なら良かったが……いや、冗談なのは最後の誘いだけか。宇宙旅行に行く件は本気らしく、それはそれでどう反応していいのかわからない。

 しかし、さっきから驚かされっぱなしで、驚いた様子を面白がられているというのもなんだか癪だ。たまには一つ、反撃をしてもいいだろう。

 

「ギルガメッシュ。たまには、うちに戻ってきてくれるんだよな」

 

「うむ、そう言ったが」

 

「俺はこの先大学を目指すって言ったし、やらなくちゃいけないこともたくさんあるけど……時間を取れるタイミングも、きっとあるはずだ。

 だからその時になったら──俺も、一緒に連れて行ってくれないか」

 

 これを聞いたギルガメッシュの顔といったら見ものだった。

 大抵は笑うか、無表情か、怒るかの三択のギルガメッシュが──心の底から、本気で驚いた顔を浮かべていたのだ。この男の表情はだいぶ見てきたつもりだったが、こんな顔はこれが初めてだったように思う。

 

「確かアンタは、俺に一つ宿題を出してくれてたよな」

 

 言峰との戦いの前、あの大空洞の地下で交わした言葉。そこで言われたことを、俺ははっきりと覚えている。

 

『雑種よ。貴様に一つ宿()()だ。

 この下らぬ茶番(聖杯戦争)に幕を下ろし、本題となる大戦(魔術師との抗争)に挑むまで。それまでの間に、『楽しみ』を見出だせるようになっておけ。

 そうさな──この教師役は、王たる我より()()()()()()の方が適していよう』

 

 戦いが終わってから、俺は周りをよく見るようになった。すると、今まではまるで見落としていた、皆の「楽しみ」が少しずつ見えてきた。

 

 桜は、あれで甘いものが大好きだ。コンビニスイーツの新作が出るとどれを買うかこっそり悩んでいるし、新都にスイーツ屋ができたと聞けば行きたそうにそわそわしている。それで体重計を見て時々凹んでいるのは、見なかったことにしてあげよう。

 セイバーは、いろいろなことにチャレンジするようになった。騎士王ではなくアルトリアとして生きることにした、という彼女は、目下のところ料理作りに熱中している。どうも彼女は食いしん坊らしく、自分で美味しいものを作ると好きなものを食べられると気づいたからか、そのあたりもモチベーションになっているようだ。

 イリヤは、見るもの全てが新鮮らしい。ずっとアインツベルンの本拠地に閉じ込められていた彼女には、外の世界のあらゆるものが娯楽だった。散歩一つ取っても、食べ物一つ取っても、いつも嬉しそうに目を輝かせている。制作中だという人形に体を移し終えたら、彼女はどんな道を歩むのだろう。

 

 遠坂の実態は実はまだ掴めていないため、今のところのサンプルは三者三様だが、どれも共通していることがある。それは、未知なるものへの期待というものだ。

 新しいことを知る、知らなかったことを学ぶ、できなかったことができる。その達成感は、喜びは、きっとかけがえのないものだろう。今までは見る余裕すらなかったことだが、彼女たちを見ているうちに、それが少しずつわかってきた。

 

「誰も知らない世界を見ることができたら、それはきっと、一生残る楽しみになると思う。正直に言うと、今の話を聞いて、ちょっとワクワクしてるんだ。

 だから、いつか。俺に、(ユメ)を見せて欲しい」

 

 そう、はっきり言い切ると。ふいに、弾けるような笑いが響いた。

 

「ク──はは、ふはは、ふははははは! 我としたことが、これは一本取られたか! この我を笑い殺そうとは、まったく小癪な雑種よ!」

 

 何がツボに入ったのか、腹を抑えて笑い転げているギルガメッシュ。自分の膝を何度も叩き、近所中に響き渡る勢いで大爆笑した男は、笑いすぎるあまり息も絶え絶えにこちらを向いた。

 

「我を水先案内人代わりに使おうとは、雑種の分際で恐れを知らぬ奴よ! 自らの愉悦のために我に乞おうなど、そんな莫迦者はさしもの我も初めて目にしたわ。だが、乗るかと訊ねたのは確かに我だ。

 よかろう! 宿題に満点を出した褒美だ、我が旅路への同行を許す! その時が訪れるまで、誰より先に星の海を行く愉しみを心待ちにしておくが良い!」

 

 ──それは、どれほどの栄誉だろう。

 

 この星の外は、未だ人類が知らぬ未明の地だ。そんなところに踏み出そうというのだから、その道程は英雄王をしても生半なものではないだろう。誰かを連れて行くなど、足手まといを抱えるようなものだ。

 だというのにギルガメッシュは、俺の同行を許すと言ってくれた。楽しみを見たいという俺の欲望を、誰より先に宇宙(そら)の果てを目にしたいという我儘を、ギルガメッシュは是としたのだ。

 誰よりも冷酷な、唯一にして絶対の王者。人の世を外側から見守り、人を罰しながら人の欲を認める裁定者。誰よりも先へ行き、人の世界を切り開いた英雄。そんなギルガメッシュが──その新たなる叙事詩に、自分の席を用意しておいてくれるという。

 自然と、口の端に笑みが溢れてしまう。まったく──こんな報酬を貰ってしまったら。この先の長い戦いを、誰よりも頑張るしかなくなるじゃないか。

 

「最後に王として、貴様に一つ命じることがある」

 

 気がつくと。ギルガメッシュは、黄金の鎧を纏っていた。

 出会った時と何も変わらない、圧倒的な存在感。サーヴァントとして、英霊として、英雄王としての正装。その姿で、俺を見下ろしたギルガメッシュは。

 

「先に進むがいい、衛宮士郎。その無様な生涯を全うし、退屈な世に花を咲かせよ。その儀の完了を以て、我との契約を断ち切るものとする。

 おまえの旅ならば、それは見応えのある物語となるであろう」

 

「ああ──約束するよ、ギルガメッシュ。俺はこれからも、正義の味方(俺の夢)を張り続ける──」

 

 月が綺麗な、夜空の下。

 夜明け(黎明)を迎えようとする星に、俺は新たな理想を誓う。いつかの夜を思わせる輝きは、衛宮士郎という人間に、新たなる灯火を宿したのだった──。


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