【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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劇場版Heaven's Feel第3章、公開おめでとうございます。


26.影の器

 ――また、夢を見ている。

 

 もう何度目になるだろうか。これはアーチャーの記憶なのだろうが、今までとは比較にならないほど、見ている風景に交じるノイズが酷い。まるで砂嵐か竜巻の中にいるように、灰色と茶色の塵と煙が視界の大半を埋め尽くしている。

 記憶が欠損しているのかと思ったが……違う。これは霊的なものが原因ではない。あまりにスケールが大きすぎて理解するまで時間がかかったが、実際に、俺の見ている風景ではとんでもない規模の天変地異が起こっていたのだ。

 

「なんだ、あれは……! 兵を集めろ、緊急時の対応は訓練通り――」

 

「――様のお怒りだ、これでは我々は……」

 

 軍人の怒鳴り声、民衆の悲鳴、通路を走っていく人々の足音、巻き込まれた物が壊れる音。ここは今までの夢でも出てきた街だろう。異常現象を目の当たりにした住人たちは、眼前に迫る命の危機に右往左往していた。

 だが。街がパニック状態に陥る中でも、揺るがないものがある。一際高い建物の中で、巨木の如き存在感と共に、混乱を睥睨する黄金の影があった。

 玉座から続くテラス。町全体だけでなく、高くそびえる城壁の外までをも見渡せるその場所で、アーチャーは腕を組んで立っている。彼の視点に近付いたことで、ようやく混沌の全容を把握することができた。

 

「ふん――駄女神め。事もあろうに、天の牡牛(グガランナ)を持ち出したか。甘やかされた女は、これだから始末に終えん」

 

 砂嵐か竜巻だと思った巨大なそれは……信じがたい事に、一つの生き物だった。

 全長は下手をすれば何キロという単位だろう。今見ている場所からはまだ遠く離れている筈だが、あまりに巨大すぎて距離感が失われる。雷雲の間から角や蹄らしきものも見えるが、それも当然のように規格外の大きさ。分厚い雲越しに炯々と輝く眼光は悪鬼どころか邪神のそれだ。

 途方途轍もなく巨大な怪物が、竜巻と台風を纏って大地を闊歩して来る。あんなものが到来すれば、城壁に守られたこの街とて、文明の片鱗すら残さず塵に帰ろう。俺は今まで何騎ものサーヴァントを見てきたが、アレはもう存在の階梯が違う。人間など、あれに比べれば芥子粒のようなものだろう。

 

 ……だというのに。

 

「驚いたね。神々でさえ、アレを御することは出来なかったのに。あの神獣は、力だけなら神々と比べてさえ群を抜いている。どうやって躾けたのかな?」

 

「ハッ。癇癪持ち同士、大方気が合うのだろうよ」

 

 明日の天気でも語るかのように、淡々と言葉を交わす王と人形。人知を超越した魔物が迫っているにも関わらず、二人の冷静さは揺るがない。

 数え切れぬ程の冒険を繰り広げ、幾多数多の難敵と戦ってきた英雄たち。夢を通じてしか彼らの足跡を追えてはいない俺だが、地響きと共に破壊を撒き散らす暴虐の化身は、間違いなく最上級の難敵だと断言できる。

 

「もしかすると、■■■以上かもしれないね。今回は神々の加護もない。この街の人間たちも戦力にはならないだろう。正真正銘、僕と君だけで、アレと戦うことになるけど――それでもいいのかい?」

 

「■■■を守る為だ、是非もあるまい。駄女神や狂牛ごときに、我が庭を荒らす許しを与えた覚えはないからな。

 神どもの加護なぞ、王たる我には不要だ。そもそも――我とお前が組んで、出来なかった事などあるか?」

 

 王の表情が纏うのは、絶大な自信と信頼を滲ませた不敵な笑み。歩くだけで大地を蹂躙する災厄が相手だろうと、この男は一片の不安も抱いてはいない。獣であろうと神であろうと、彼が下す裁断には狂いはないのだろう。

 まだ遠くにいるはずなのに、神獣が歩むごとに、街に小さな地震が起こる。怪物が通り越した川は蒸発し、近寄るだけで大地は捲れ上がり、天は雲に覆われて雷と風を撒き散らす。だが、背筋の凍る風景を目の当たりにした人形は、王と同質の愉しげな笑みを浮かべてみせる。横に並んだ二人は、同時に一歩を踏み出した。

 

「行くぞ、■■■■■。馬鹿者どもに、灸を据えてやる時だ。宝物庫を完成させる前に、我が財の使い心地を奴ら相手に検分するとしよう」

 

「そうだね、■■。僕も遠慮なく行くとするよ――僕の性能と君の財宝、どちらが有効か久々に競い合ってみるかい?」

 

 涼やかな挑発に、王の笑みに獰猛さが宿る。それは不敬者への怒りではなく、友との競争に対する、童心のような高揚感の具現だった。絶望的な危機すらも、この男たちは楽しんでいる。

 王の無言の肯定を見て取った人形は、とん、と軽く大地から跳ねると――音すら置き去りにする速度で、怪獣に向けて疾走した。ほぼ瞬時に視界の端まで消えるヒトガタの隼に、石造りの建物が悲鳴を上げる。もし人が残されていれば、ソニックブームで吹き飛ばされていたことだろう。例外であるのは、この黄金の王ぐらいか。

 肩を竦めて友を見送ったアーチャーだが、彼とて後れを取るつもりは毛頭ないのだろう。仰々しく手を上げ、パチンと指を鳴らすと……空間に波紋のようなものが沸き立ち、彼が立つテラスからまるで生え出るようにして、黄金の巨大な物体が姿を現した。

 帆船に翠の羽が備わったような外見の異物は、如何なる法則によってか、僅かな揺らぎもなく空中に停止していた。さながら空飛ぶ船とも言うべき幻想的な外観だが、この場でそれを召喚したということは、その用途はただ一つ。俺の知る現代のそれとは形状が異なるが……あれは戦闘機だ。

 軽やかに王が飛び乗った刹那、黄金帆船(ヴィマーナ)は空間ごと転移したのかと見紛う速度で飛翔し、先に疾駆した友に苦もなく追いついた。夢の中だからこうして見ていられるが、これが現実であれば到底目には捉えられなかったに違いない。

 

「■■■■■■■■■■――――!!!」

 

 尋常ならざる速度で迫る二人を認識したのか、巨獣が人外の咆哮をあげる。ただ吠えただけだというのに、音が衝撃波となって空間を軋ませ、それ自体が既に凶悪な攻撃と化していた。同時、雲に覆われた天が震撼し、大気が渦を巻いて何十という竜巻を新たに生み出す。一つでも小国を滅ぼしうる災害を無数に従える、神罰に等しい天変地異の暴虐の具現に、しかし二人の超越者は微塵も臆した様子を見せない。

 黄金の覇者が指を鳴らすと、空間にまたしても波紋が生まれ出た。先ほど輝舟を召喚した“門”は、王を中心に二十、四十、八十――百を超え、千を超えても尚()()()()()。その一つ一つから怖気が走るほどの魔力を内包した武具が顕現し、射撃命令を待って空間に浮遊している。剣に槍に斧に矛に槌、炎に氷に雷に風に光、あらゆる形状と属性と効力を有した凶器群は最早脅威と形容できる領域さえ超えていた。

 天を翔る王に対し、地を馳せるヒトガタの兵器はすっと腕を横に薙いだ。途端、彼が踏みしめる果てしない大地が、自らの形を忘失したかのように液状化した。泥のように変質した大地は、やがてそれ自体が一つの生き物であるように無数の触手を生やし始める。それが更に剣や槍、斧や弓といった形状に変質し、それぞれが異なる属性を纏い……遂には王と鏡合わせのように、無数の武器が立ち並んだ。王が人の叡智たる無限の宝具を召喚するなら、人形は星の一部を無尽の武具に作り替えたのだ。

 天空と大地を埋め尽くす、数えるのも馬鹿らしいほどの宝具群。世界そのものを怯えさせる、激甚災害の集合体。僅かな睨み合いの後、神獣の絶叫を皮切りに宝具が放たれ――神話の激突に、星が啼いた。

 

 

***

 

 

「――それで。一体アレは何なのかしら」

 

 一晩明けて。俺たちは、衛宮邸の居間に集まっていた。

 口火を切ったのは遠坂。彼女の視線は、昨日命からがら連れ帰ってきた雪の少女……イリヤスフィール・フォン・アインツベルンに向けられていた。

 奇跡的な連携でアサシンを倒し、死地と化した森から脱出した後、俺たちはボロボロの体を引きずってなんとかこの家まで戻ってくることに成功した。途中で遠坂がタクシーを捕まえていなければ、おそらく行き倒れるか通報されるかしていたことだろう。タクシーが通りがかった幸運と、暗示で運転手の不都合な記憶を消去できる遠坂には感謝するしかない。

 辛うじて帰宅したは良いが、俺たちの状態はひどいものだった。遠坂は肋骨が折れて一部の臓器から出血していたし、俺もよく調べてみれば腕と背中の骨にヒビが入っていた。即入院ものの状態だった俺たちが今平然としていられるのは、イリヤの治療技術がずば抜けていたおかげだろう。本人は『これは魔術じゃなくて、ちょっとしたズル』と口にしていたが、何にせよ俺たちが助かったことに変わりはない。

 傷は治療してもらったといえ、俺と遠坂はボロボロ。イリヤも心身の消耗が激しく、アーチャーすらも謎のサーヴァントとの交戦で大分手傷を負ったようで、詳しい話は一晩休んでからということになった。そういうわけで朝になると同時、こうして会議を開くこととなったのだが。

 

「ゾウケンが使っていた、あの『影』のことでしょう。前にシロウと会った時に、話には聞いていたけれど……直に見て、やっと正体が分かったわ。アレはね――たぶんわたしと同じモノ」

 

「は……? イリヤと同じだって? あの化け物が?」

 

 突拍子がなさ過ぎる発言に、目が点になる。黙って茶を飲んでいるアーチャーはさておき、遠坂も怪訝な表情を浮かべているが……イリヤは明らかな確信を持って、その言葉を口にしていた。遠坂家とアインツベルン家は、共に聖杯戦争の基礎を作り上げた家系だというが、システムそのものを編み上げたという後者はやはり持ちうる情報も違うのだろうか。

 

「シロウはともかく……どうしてリンまでそんな顔をしているの? トオサカの家なら、今ので解ると思ったのだけど」

 

「……父さんは、前の聖杯戦争の時に死んじゃってね。生憎、いろいろ伝わってない部分も多いのよ」

 

 言うべきかどうか逡巡していた遠坂だったが、遂には苦々しげにそう認めた。敵であるならまだしも、現状ではイリヤに弱みとなる情報を見せてもマイナスにはならないと判断したのだろう。それにしても……俺の実の両親だけでなく、遠坂の親まで十年前に亡くなっていたのか。聖杯戦争は、いったいどれだけの人間の命を奪ってきたのだろう。

 

「そう。それじゃ、最初から説明しなくちゃダメか……。

 シロウ。聖杯戦争って、何のために行われているものかしら」

 

 教師役に落ち着いたイリヤが、突然俺に話を振ってくる。不意を突かれて驚いたが……質問の内容はそう突拍子のないものでもない。その答えも、ある程度想像はついている。

 最初の夜にははぐらかされたが、共同戦線を張るうち、遠坂からはいくつかの情報を教えてもらった。聖杯とは自然発生したものではなく、三つの魔術師の家系が共同で作り上げたもの。となれば、聖杯戦争も同じだろう。手を組むこと自体は珍しくもないとはいえ、秘密主義の強い魔術師がこれほどのレベルで惜しみなく資本や技術を提供し合う理由などただ一つしか思いつかない。全ての魔術師の目標であり、僅か数名しか達成者がいないとされる原初の一への到達――即ち。

 

「根源だろ。聖杯戦争が魔術師が仕掛けたものだっていうなら、最終的な目的はそこしかない」

 

「正解。それじゃ、次の問題ね。根源へは、どうやって到達すればいいのかしら」

 

 どうやって、って……それが判れば苦労はしない。数千年の時をかけて、おそらく何十万という数の魔術師が挑戦して、未だ成功例が片手の指で数えられるほどだという最終目標。どういう経緯でそこに繋がるのか、魔術師もどきである俺にはさっぱり見当がつかないが、今の流れからすれば聖杯戦争もそのための実験かなにかの……。

 ……実験? いや、それにしてはイリヤの口ぶりがおかしい。あの落ち着き払った様子は、どう見ても正解を知っているとしか思えない。聖杯戦争の話から繋がるということは……まさか、これは研究や実験といったアプローチではなく、根源に到達する手段そのもの――!?

 

「……ちょっと待って。まさか、サーヴァントっていうのは──」

 

 愕然とする遠坂。一歩先に答えに至った様子の彼女に対し、イリヤは小さく頷いてみせた。

 

「そういうこと。じゃあ、必要なのはマスターじゃなくて……」

 

「サーヴァントの方。その様子だと、本当に知らなかったみたいだけど……薄々気づいてはいたのかしら」

 

「抑止の輪……サーヴァントは元々英霊の座から呼んだものだし……英霊の座はあっち側にあるから……そっか、そういう……!」

 

何やら二人してわけのわからないことを言い始めた。何かに気づいた遠坂は、猛烈な勢いで思考を整理しているようだが、俺の方はなにがなんだかさっぱりだ。アーチャーは話を聞いているのかいないのか、茶を飲んでいるばかりでアテになりそうにないし、諦めて二人に説明を求めるしかなさそうだ……。

 

「あの、お取り込み中のとこ悪いんだけど、俺にも解るように説明してもらえないかな?」

 

 おずおずと右手を挙げて要求すると、遠坂が『なんでわかんないのよアンタ』とでも言いたげな目で俺を睨んできた。いや、今の単語の応酬で理解できる方がおかしいと思うんだが、天才たちと同じ基準を求めないで欲しい。

 

「そういえばこいつ、へっぽこ魔術師だったっけ……英霊の成り立ちとか、そのあたりから説明しなきゃダメか。そのくせ投影魔術はインチキみたいなレベルだし」

 

「ふーん……。シロウ、投影ぐらいしか使えないって言ってたけど、昨日使ってたのは本当に……あ、話がそれちゃった。そっちは後回し。それじゃ、シロウにも解るように、順番に話しましょうか」

 

 肩を竦めたイリヤが、茶の間の隅に置いてあったチラシとペンを持ってきた。机に広げられたチラシの裏に、何か川のようなものと聖杯らしき絵が描かれる。

 説明の準備をしているイリヤの姿は中々堂に入っていて、外観にそぐわぬ貫禄が窺える。こと魔術や聖杯において、俺など足下にも及ばない知識を有しているのだから当然と言えば当然だが……イリヤスフィール先生の講義に、生徒である俺は自然と居住まいを正した。

 

「ホントはこんなこと、喋っちゃいけないんだけど……今はそういう状況じゃないみたいだし、特別。

 冬木の聖杯はどういうものなのかって、シロウはどれくらい知ってるの?」

 

「……正直、遠坂と言峰に聞いたことぐらいしか知らない。聖杯は御三家が作ったとか、サーヴァントを召喚したりマスターを選んだりするとか、マスターが最後の一人にならないと真の姿を現さないとかなんとか」

 

「うん、どれも正解といえば正解ね。薄々シロウも気づいてると思うけど、この聖杯戦争にはいろいろ裏があって……聖杯って、そもそも一つじゃないの」

 

「――は?」

 

 いきなりとんでもない爆弾をぶち込まれて、間抜けな声が出てしまった。混乱する俺の理解を助けるためか、イリヤは言葉だけではなく紙とペンを使って聖杯戦争の仕組みを図示してくれた。

 

 ――曰く。冬木には、二つの聖杯が存在する。

 

 一つ目が、大聖杯と呼ばれる存在。これこそが聖杯戦争の運営母体のようなもので、約六十年をかけて地脈から魔力を蓄え、冬木市を聖杯戦争を執り行うために適した霊地に調整する。機が熟した際には、マスターに相応しいとされる人物を選抜する権限を持ち、サーヴァントの召喚及び現界維持、現代に即した知識のインストールなど各種のサポートを行う。……どれを取ってみても、俺の理解が及ぶとは思えない途方途轍もない機能で、これを作り出したのはとんでもない天才なんだろうとぼんやりと感じられるぐらいだ。

 そして、「大」聖杯とつくからには、対となる「小」聖杯も存在する。俗に聖杯と呼ばれるのはこちらの方で、聖杯戦争の過程を通じて完成に近づき、六騎のサーヴァントが倒されることで願望機としての機能を有するようになるのだという。

 

「それで、その『聖杯の器』……わかりやすいから、小聖杯でいいか。小聖杯っていうのがわたしなの」

 

「……は?」

 

 なんだかさっきからこれしか口にしていない気がするが……イリヤの言っていることは、悉く俺の理解を超えている。 話を聞く限り、聖杯というのは「モノ」だ。それがイリヤだとはいったいどういう……?

 

「わたしは衛宮切嗣と、お母様――アイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に産まれた娘。でも、わたしは人間じゃなくて、『小聖杯』として機能するよう産まれる前から調整されているの。

 過去の聖杯戦争で、アインツベルンは一度も勝てなかった。小聖杯が壊されて、儀式そのものが失敗してしまったこともある。そこで、アインツベルンは考えたの。聖杯そのものに、自分を守る機能を持たせればいいって」

 

 ぞっとした。

 魔術師は、根源に辿り着くためならなんでもやる。その事実を、俺はこの聖杯戦争で散々見てきたはずだった。しかし、非人道的というのを通り越して、アインツベルンの思考は異常だった。それでは連中は、小聖杯とやらに防衛機能を施すためだけに、人間を()()()したってのか――!?

 イリヤが切嗣の娘ではないかというのは、俺もなんとなくわかっていた。それにしては年齢と外見が一致していないから、確証が得られなかったのだが……おそらくそれは、小聖杯として改造された副作用だろう。アインツベルンの異常さに背筋が凍ると同時、怒りの感情が湧いてくる。

 

「それで作られたのがわたし。最後に必要な小聖杯を最初から持っていて、バーサーカーを使いこなせるだけの性能を持つ、人間でもホムンクルスでもないマスター。ここまで有利な条件を揃えれば、聖杯戦争で負けはない……はずだったんだけど」

 

「あの影に全部ぶち壊されたっていうわけね」 

 

 遠坂の合いの手に、肩を竦めてみせるイリヤ。確かに、ルールを根底からひっくり返す影の存在がなければ、アインツベルンの戦略は実を結んだことだろう。

 俺でも知っているような大英雄のアーサー王……その彼女ですら勝てないと言わしめた、神話の超戦士。真っ当に聖杯戦争が進んでいれば、ヘラクレスが負けることなどほぼあり得まい。

 

「んん……? でも、あの影がいくら強いっていっても……イリヤと同じ存在っていうのはどういうことだ?」

 

「うん。そっちも順番に説明するから、ちょっと待っててね。

 さっき、わたしが『小聖杯』だっていう話は聞いたよね。小聖杯にはいくつか機能があるんだけど、そのうちの一つが、脱落したサーヴァントの回収。英霊たちの魂を集めて、大聖杯への孔を開く――つまり。聖杯戦争におけるサーヴァントっていうのは、大聖杯を動かすための燃料なの」

 

 とんでもない内容に、開いた口が塞がらない。英霊たちは聖杯に託す願いがあるからこそ召喚に応じるというのに、彼らは単なる燃料に過ぎないだって――?

 

「脱落したサーヴァントは、世界の外側にある『英霊の座』へ戻ろうとする。その時にできる通り道を固定するのが大聖杯の役割。そして、世界の外側は根源に通じる――聖杯戦争は、そこへ至るための魔術儀式。

 願いを叶えるっていうのは、あくまでも副産物。サーヴァントの魂がこれだけ集まれば、その魔力でできないことなんてほとんどないもの」

 

 普段の無邪気さはどこへ行ったのか。淡々と語るイリヤの姿は、紛れもなくアインツベルンの魔術師のもので、まるで()()()()が乗り移っているかのようにも見える。その冷厳な雰囲気に気圧されてしまい、話の意味を咀嚼するのに時間がかかる。

 とどのつまり。これは願いを叶えるという謳い文句を釣り餌に、サーヴァントを召喚し、魔術師を集め、大勢の犠牲を重ねて――その果てにただ一人だけが根源への可能性を得る、途方もなく大それた詐欺なのだ。裏側を知っている者からすれば、何も知らずに戦っている参加者は、さぞ滑稽に見えたことだろう。

 

「――フン。願望機など所詮は絵空事、大方そんなものであろうと思ってはいたが……此度の宴、つくづく下らぬ茶番であったか」

 

 あまりの衝撃でうっかり失念していたが、裏事情を聞いて一番怒り狂いそうなヤツは、意外なことに平然としていた。事もあろうに燃料扱いをされて、この気位の高い英霊の勘気に触れないはずがないと思ったのだが。

 

「驚いた。怒らないんだな、アンタ」

 

「綺麗な薔薇には棘がある、というのはこの国の格言であろう。大凡の絡繰りは読めていた、聖杯などという謳い文句に釣られる者は余程の愚者か善人だろうよ。

 しかし――不愉快であるのには違いない。もし仮に貴様が、全て承知の上で我を呼び、面従腹背を由としていたのであれば――その愚行のツケを、身を以て知らしめてやったところだ。敵が後ろに迫っていようが、守ってやる気にはなるまいよ」

 

 知らぬが仏、というヤツだな――と。そう嘯く弓兵の目が少しも笑っていないことに気づき、背筋に冷たいものが走った。

 さすがに、今の今まで裏事情を知らなかった人間をどうこうしようと思ってはいないようだが……そうでなければ、俺の首が繋がっていることなどあり得なかった。この男の冷酷さは、もう十二分に知っている。

  

「だが、着眼点は悪くない。我は根源なぞに興味はないが――よくぞここまでの仕組みを敷いたものよ。これを練り上げた者は、希に見る才の持ち主であろうな」

 

「……。アンタでも人を褒めることがあるのね」

 

「たわけ。褒めるべきは褒め、罰すべきは罰す。裁定が均衡を欠くのであらば世が乱れよう」

 

 相変わらず偉そうだが、よく聞くと真っ当なことを言っている。何を言おうとした遠坂だったが、俺と同じことを思ったのか、それもそうねと一言言うだけに留めた。

 

「話を戻すけど……。そういうわけで、小聖杯であるわたしには、サーヴァントたちの魂を回収する機能がある。それなのに、今回の聖杯戦争でわたしが回収できたのは、昨日のアサシン一体だけ。残りは全部、あの影に持っていかれたわ」

 

「じゃああの影も、小聖杯とかってやつなのか……?」

 

「器そのものじゃなくて、端末か何かだとは思うんだけど……根っこは同じ。信じられないけど、ゾウケンが連れていたのを見たでしょう? 聖杯の鋳造はアインツベルンの専門だから、マキリが真似できるはずないのに……。

 昨日見た感じだと、あの影は人もサーヴァントも見境なく襲うわ。回収対象を選ぶ機能が壊れてる……ううん、汚染されてるのね。とにかく、もう真っ当なモノじゃなくなってる」

 

「――であろうな。アレは人の世に害なす悪性だ。兵器としてならともかく、道具としては下の下と言えよう。

 アレを相手取るのは中々に手間だぞ。そも、あれが聖杯に連なる存在というなら、それに喚ばれたサーヴァントでは相手になるまい」

 

 アーチャーの言葉で、遠坂の顔から血の気が引く。俺もその意味を理解して、じっとりと嫌な汗が腋を濡らし始めた。

 つまり、こういうことか。間桐臓硯は、聖杯戦争に必要な小聖杯を握っている。しかもそいつは街の人間を見境なく襲っていて、サーヴァントを以て対抗しようにも、そもそもサーヴァントが聖杯によって召喚・維持されている存在である以上は勝ち目がない――こんなもの、飛車角落ちどころかもう王手までかけられている状態だ。

 

「ふん。更に言うなら、貴様らもあのセイバーを見たであろう。アレはサーヴァントを呑み込むだけではない――小聖杯とやら、出来損ないの器にしては力がありすぎる。

 汚染と言ったな、小娘。我の見立てでは、あの影は聖杯の本体から流れたものだ。違うか」

 

 その問いかけに、黙って頷いたイリヤ。俺はそろそろついていけなくなってきたのだが、青くなっていた遠坂はそうではないらしい。ただでさえ顔色が悪かったところが、もはや白くなってしまっている。

 

「ちょっと待って……あれが本体の力ってことは、もう何もかもメチャクチャじゃない! それじゃあ、大聖杯っていうのは……ううん。この聖杯戦争はとっくに――」

 

「然り。事の始めから、柱の根元が腐っていたのだろうよ」

 

 不愉快そうなアーチャーと、蒼白になった遠坂と、何故か疲れたような顔をするイリヤ。三者の間ではどうやら共通認識ができたらしいが……すぐに解らないからといって、全部遠坂に頼るのも良くない。今の会話を、自分なりに噛み砕いてみよう。

 臓硯が従えていた謎の影――小聖杯。アインツベルンが用意したものとは違う贋作である以上、その機能はどうしても劣化する。だというのにあれは本家を差し置いて脱落サーヴァントの魂を回収するどころか、セイバーやバーサーカーを打倒し、前者に至ってはどうやったのか再度サーヴァントとして使役している。

 そんなことが可能なら、本家のアインツベルンが最初からやっているだろう。ということは、それは小聖杯自体の能力ではない。大聖杯の方に備わっている機能なり能力なりを悪用していると考えるのが筋だが、アーチャーが口にしたとおり、背筋が凍るほどの悪性を感じるのはおかしい。これほどの魔術儀式を作り上げた魔術師たちが、そんな不確定な危険要素を残しておくだろうか。

 となると、可能性は一つだ。聖杯戦争の根幹を成す大聖杯は、重大な欠陥なり不具合なりを抱えていて――臓硯が作った偽物の小聖杯は、その歪みを悪用している……?

 

「それって、もう聖杯戦争どころの話じゃないだろ……!」

 

「マキリが余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったんだけど……そうね。ここまで話したんだし、あなたたちには聞く権利がある。

 今から、少し長い話をします。アインツベルンが呼び出した、あるサーヴァント──悪であれと願われた、一人の英霊のお話」

 

 謳うような声音で、遠くを仰ぎ見ながら……どこか老成した雰囲気を纏ったイリヤは、朗々とある話を始めた。

 

 ──その英霊の名は、この世全ての悪(アンリ・マユ)という。

 

 ゾロアスター教において、善なる神と戦い続けると記される悪の権化。あらゆる邪悪を司るとして畏れられ、崇められるその存在は、紛うことなき神霊だ。

 アインツベルン、マキリ、遠坂の敷いた聖杯戦争の仕組みは、あくまでも英霊を招聘するもの。存在の尺度(スケール)が違う神霊を召喚するような設計はなされていない。しかし、二度の聖杯戦争が有耶無耶のままに終わり、百年以上の時間を無為にしたアインツベルンは焦っていた。

 そして彼らは、確実に聖杯を得るための力を求め、この世全ての悪(アンリ・マユ)の召喚に挑み……ルールを違反したツケか、現れたサーヴァントは神霊からは程遠い、何の力も持たない存在だった。

 ただ「この世全ての悪であって欲しい」と願われ、小さな村で生贄とされただけの一般人。そんなものが聖杯戦争で勝ち抜けるはずもなく、復讐者(アヴェンジャー)のクラスで召喚されたサーヴァントは当然のように敗北した。

 

「でもね、そのサーヴァントは特別だった。人々の願いだけで生み出された英霊は、願いそのものと言ってもいい。そして、聖杯とは願いを叶えるもの」

 

 アインツベルンが犯したルール違反に、そのサーヴァントが持ち合わせた特異性。そこに聖杯が有する願望機としての機能が合わさり……幾つもの偶然の結果、聖杯戦争の成否を待たずして、聖杯はその願いを叶えた。即ち──この世全ての悪(アンリ・マユ)であれという願いを。

 

「なによそれ。ちょっと見ただけで、あの影はとんでもなくやばいヤツだっていうのはわかった。あれがこの世全ての悪(アンリ・マユ)ですって……!? あんなのが本体に入ってる聖杯なんて、真っ当に動くわけないでしょう!」

 

「願望機としての機能なら、リンの言うとおり。でも、わたしたちが想定していた、聖杯の正しい使い方──門を開く上では、それは関係ないとアインツベルンは判断したの。必要なのは、聖杯の機能と力だけだから」

 

「……ああそう。自分たちは関係ないから知ったこっちゃないっていうワケね。馬鹿にされたもんだわ」

 

 にっこりと、いっそ見惚れてしまいそうなほど綺麗に微笑んだ遠坂だったが──背筋に鳥肌が立った。どう見ても遠坂は、最大級に怒り狂っていた。

 当たり前の話だ。勝手にルールを破り、このとんでもない惨状の原因を作り出した挙句、自分たちの目的には関係ないからと悪びれもせずに黙っていたのだ。これで怒らない人間がいるわけがない。

 あの影に感じたおぞましいほどの悪性は、聖杯に取り込まれたこの世全ての悪(アンリ・マユ)だったのだ。間桐臓硯がどうやってそんなものを使役しているのかは分からないが、もし奴が勝ち残り、汚染された聖杯を使おうとすれば、何が起きるかわかったものではない。その端末に過ぎない影だけですら、既に多くの人命を奪っているというのに。

 

「イリヤスフィール。アインツベルンがしでかしてくれたことのツケは、きっちり利子をつけて返してもらう。首を洗って待ってなさい。

 でも今は、あんたたちの責任を追求してる場合じゃない。もうこれは聖杯戦争の枠を超えてる──遠坂の当主として、アインツベルンに聖杯戦争の停戦及び共同調査を要求します。士郎もそれでいいわよね?」

 

 怒り狂っているようで、遠坂は冷静だった。あの影の根本は判明したが、いるはずのない八騎目のサーヴァントにアーチャーの記憶が戻らぬ理由、臓硯の目的や手段など、おかしなことがあまりに多すぎる。手を拱けばどれだけの被害が出るかさえ想像がつかない以上、遠坂の提案を拒否する理由などない。

 イリヤも、遠坂がそう言い出すことを予想していたのだろう。既にアインツベルンが目的を果たせる可能性はなく、彼女に残された選択肢は多くない。幼い外見には似つかわしくない、魔術師としての重々しさで、イリヤはゆっくりと頷いた。

 

「アインツベルンとして、トオサカの申し出を受諾します。……と言ってもバーサーカーはやられちゃったし、リンだってセイバーを取られちゃってるでしょ? マキリは好き放題やってるし、どうしたらいいかな」

 

「それが頭の痛いところなのよねえ。今の私たちに打てる手って、もうかなり限られてくる。七騎のうち、セイバーはあっち側だし……バーサーカー、キャスター、ライダー、アサシンはもう倒れてる。残ってるのはランサーと、最後に出てきたよくわからないヤツ。最後の方はあっち側っぽい動きをしてたし、協力を仰げるとすればランサーだけど……その前にアーチャーが倒されたら、完全に詰みよ」

 

 よく考えてみれば、聖杯戦争に謎の八騎目が存在する時点で、そもそもルールが狂っていた。だが、聖杯そのものに異常があるならば納得できなくはない。

 俺たちを襲ってきた以上、謎のサーヴァントが友好的とは考えづらい。あれもまた間桐臓硯に与する存在だったなら、状況は最悪だ。さらに言えば、あちらは影という反則技を使ってくる。ここまで絶望的な状況で勝ち筋があるとすれば、それは前回の聖杯戦争で最強を誇ったという、このアーチャーの宝具だけなのだが――。

  

「それにしても、イリヤスフィール。アンタ、よくアーチャーがいるのにあんな話する気になったわね……。要するにサーヴァントって、騙されて召喚されてるワケでしょう? そんなの、普通は怒り狂うわよ」

 

「――ほう」

 

 ぞっとするような鬼気が、静かに放たれた。

 部屋の一角に座るアーチャーは、別段荒れている様子はない。いつもの余裕たっぷりな表情で、むしろ口元などは愉快そうに釣り上がっているが――その紅蓮の瞳だけは、恐ろしい冷たさを宿していて。人のものとは思えぬ双眸が、イリヤの小さな体を睨め据える。

 

「我は何も知らぬ者に責を問うほど愚かではない。故に小僧とその娘、貴様ら二人を罰そうとは思わぬ。

 だが――貴様は別だ、人形の小娘。ヘラクレスの嘆願に免じ、一度は貴様の命を拾い上げてやったが……我を謀りこの世に呼びつけた大罪、我を聖杯ごときの供物にせんと企んだ不敬。何を以て償わんとする?」

 

 アーチャーを召喚したのは俺のはずだが……いや、システムに騙されて召喚されたというのであれば、それを組んだ側に責任があるというのは間違いない。その挙句に燃料扱いされて狙われていたとあれば、プライドが天より高いこの男が素直に見過ごすはずもなかった。

 無礼を働いた者、逆らった者、裁くべきと断じた者――それがどれほど気に入った相手であれ、この英霊は必ず殺す。それがアーチャーの本質だ。

 絶対者の向ける殺意に、イリヤが怯えたように立ち上がり、何歩か後ろに退く。酷薄な瞳でそれを見据えるアーチャーは、ますますその殺気を強め――ダメだ、止めないとこのままイリヤが……!

 

「……わ、わたしを殺しても、状況は変わらないもの」

 

が。俺の焦りをよそに、辛うじて踏み止まったイリヤは、きっと眦を上げてアーチャーを睨み付けた。

 黄金の殺気をまともに直視し、少女としての怯えを顕にしたイリヤ。しかし、彼女はやはり俺などとはレベルの違う魔術師なのだろう。恐怖の色を残しつつも、確信を孕んで放たれた言葉に、アーチャーが無言で続きを促す。

 

「あなたはもう、サーヴァントとして召喚されてしまっている。聖杯戦争の裏事情を知っていても、サーヴァントである以上、負ければ魂を回収される――それが嫌なら、戦って勝ち残るしかないもの。ほら、結局のところ、何をするかは同じでしょう?

 それに今回の聖杯戦争は、マキリのせいでめちゃくちゃになってる。あのセイバーみたいに、あっちの器に回収されたらどうなるかわからない。そしてこの状況で、聖杯に一番詳しいのはわたし。バーサーカーもいなくなっちゃったし、再契約できるようなサーヴァントも残っていない今、わたしを殺してもあなたにはメリットがないわ」

 

 確かにその通りだ。聖杯戦争の裏側を知った今ならわかるが、このシステムは使役される者(サーヴァント)にとっては極めて不利にできている。令呪というシステム、魔力というエネルギー源、マスターという要石――生殺与奪権を三重に握られることで、召喚された英霊は魔術師に縛られる。一旦召喚されてしまった以上、後で何を知ろうが、サーヴァントの選択肢はほとんど限られるのだ。

 だが、このプライドの高い英霊が、他者からの押しつけに唯々諾々と従うだろうか。黙って聞いているアーチャーだが、その瞳の色は既に絶対零度に近い。空間ごと押し潰すような殺気に、イリヤの顔色が青を通り越して白くなるが――それでも、小さな魔術師はこれ以上後に退かず。そればかりか、そのか細い指を、ぴっとアーチャーに突きつけた。

 

「あなたに殺されてなんかやらない。わたしが死んじゃったら、バーサーカーのカタキが討てないもの。

 バーサーカーを奪っていったやつを、わたしは許さない。絶対絶対、やっつけてやるんだから――!」

 

 ――それは、悲壮なまでの叫びだった。

 

 少女の体から出たとは思えない、血の滲むような気迫に、アーチャーではなく横から見ている俺の方が驚いてしまう。大声を出しすぎたのか、肩で息をするイリヤだが、もうその瞳に怯えはない。黄金の英霊とは似て非なる、赤い眼差しに宿っているのは、明確な怒りと決意だった。

 遠坂が、セイバーと気の置けない仲だったように。俺がこの傲岸な男を、なんだかんだで大した英霊なのだと思い始めているように――イリヤもまた、バーサーカーとの間に絆を結んでいたのだろう。

 

『イリヤを頼んだぞ』

 

 あの男の言葉を思い出す。勇名に偽りないあの高潔な武人も、ただマスターだからという理由以上のものがあって、死地に赴いてくれたに違いない。

 

「――フ」

 

 当然と言うべきか。イリヤの怒声を正面から受けても、この青年には微塵も響いていない。だが、彼女の言葉に何か思うところがあったのか、アーチャーは楽しげに口の端を上げていた。

 

「その意気や良し。利害のみを語るのであればそれこそ木偶人形と変わらぬ、この場で手ずから誅していたところだ。

 ――小娘。貴様の論には、実行戦力が欠けている。復讐も戦争も、力なくしては意味をなさぬ。そのために我を使おうという魂胆、もはや呆れるほどの愚かしさだが――貴様はヘラクレスに報いんとした。それは人形ではなく人間の決断だ。斯様な愚かしさは我の好むところよ。

 よかろう。その気炎に免じて、首は落とさずにおいてやろう。精々励むがいい、小娘」

 

 薄く笑ったアーチャーが、獰猛な殺意を引っ込める。この男と綱渡りのような会話をするのは、聞いているだけでも寿命が縮まる――イリヤが気にくわない言葉を口にすれば、こいつは間違いなく剣を抜いていた。

 そうなればイリヤを守るために、俺は令呪を行使しなければならなかっただろう。どうやら遠坂も同じようなことを考えていたようで、胸元まで掲げられた拳――おそらく宝石が握られている――を静かに膝まで戻していた。

 

「……そろそろ、わたしも質問してもいいかな。シロウたちは、どうしてわたしを助けてくれたの?」

 

 さすがに肝が冷えたのか、弓兵の殺気から解放されたイリヤは顔に疲れを浮かべていた。お茶を飲んで呼吸を整えながら、やっと本題が提示される――昨日のとんでもない激戦とそのダメージ。それに、情報の整理が最優先という戦略面の判断がなければ、昨晩のうちに話しておくべき内容だ。

 

「昨日もちらっと話したけど、この家にはもう一人マスターがいるんだ。桜っていう女の子なんだけど、それが――」

 

 バタン、と廊下で何かが倒れる音。

 一番音に近かった遠坂が、すわ何事かと障子を開ける。木張りの廊下には、紫がかった髪を乱した女性が倒れていて――それは誰あろう、今まさに俺が話そうとしていた桜その人で。

 

「桜!? 寝てなさいって言ったのになんで……っ! ごめんイリヤスフィール、話は後! 士郎、運ぶの手伝って!」

 

 慌てて立ち上がり、倒れた桜に駆け寄って抱き起こす。高熱のせいか、べっとりとした汗で髪が貼り付き、顔色は真っ赤……朝方にスポーツドリンクとおかゆを持っていった時はもう少し元気そうだったのだが、無理をして起き上がったのだろう。原因が魔術絡みでさえなければ、迷わず救急車を呼んでいる状態だ。

 

「くそっ、また症状が悪化してるのか? このままだとほんとにまずい……とりあえず、客間で横にさせて――」

 

「――ふうん。こんなに近くにいたのね、マキリの器」

 

 唐突に、よくわからないことを口にするイリヤ。俺と遠坂が右往左往する中で、その声は不思議とよく響いた。

 呆気にとられる俺たちを余所に、近づいてきたイリヤが桜を見下ろす。初対面のはずなのに、まるで怨敵を目にしたかのような酷薄さは、背筋が凍るような冷気を纏っていた。

 

「わたしを助けてくれた理由がわかったわ。この子がその原因――そうでしょう、シロウ?」

 

「あ、ああ。この子は間桐桜。前に公園で話したの、覚えてるよな? 実はライダーのマスターだったみたいで……あーその、なんて言うか……」

 

「いいわ、見て大体わかったもの。――リン、あなたはこの子のこと、気づいてなかったの?」

 

 タオルを持ってきた遠坂が、突然話を振られて困惑する。どういうわけか、ただ近くで見ただけで、イリヤは何かに思い当たったようだが……。

 

「気づいてなかったって……桜がマスターだったってこと? それなら、臓硯の仕込みだと思うんだけど、この子『偽臣の書』で兄貴にマスター権を委譲してたのよ。

 そういえば、慎二のやつすっかり見なくなったわね。ライダーはキャスターと組んでたみたいだし、魔術で大人しくさせられたのかしら」

 

「そのシンジっていうのは知らないけど、わたしが言ってるのはそんなことじゃないわ。リン、あなたなら気づいていてもおかしくないはずだけど、うっかり見落としでもしたのかしら。

 魂を集める黒い杯、門へ通じる魔の器――マキリが作った聖杯は、マトウサクラそのものよ」

 

「なんですって――」

 

 絶句する。あまりの衝撃からか、口元を押さえた遠坂の顔から血の気が引いていく。その青ざめ方は、アーチャーに睨まれた先のイリヤにも匹敵しよう。そして俺もまた、ハンマーでぶん殴られたようなショックで頭が揺れていた。

 桜が魔術師だという話は、驚いたがまだ理解できた。マスターだったという話も、家のことを考えれば納得はできる。だが、彼女が小聖杯なんてものにされているなど、到底看過できる内容ではなかった。

 アインツベルンは錬金術の大家であり、中でもホムンクルスの鋳造に長けているという。その彼らの技術を以てすら、小聖杯であるイリヤを作り上げるには、胎児の頃からの調整と、おそらくは成長しないという副作用を受容する必要があったのだ。

 専門家ですらないマキリが、後天的に作り上げた偽物の小聖杯――それが何のリスクも副作用もないなど、素人ですら信じまい。桜のこの異常な体調不良について、診察した言峰は体内にいる虫だけが原因ではないと仄めかしていたが、その意味がようやく分かった。むしろ桜がこうして生きていることが、ある種の奇跡と言ってもいいだろう。

 

「紛い物なのに、まだ人の形を保ててるなんて、正直驚きね。よほど才能があるのか、我慢強いのか……いえ、その両方かしら」

 

「それじゃあ、この子の体調がおかしいのって――」

 

「キャスター、ライダー、バーサーカー……もう一騎はランサーかな。それだけの英霊の魂を集めて、人間としての機能が無事なわけがない。わたしだって、それ以上収めれば容量を超えるわ」

 

 遠坂とイリヤが何かを言い合っている。だが、音の羅列を脳が意味あるものとして解釈できない。抱き上げた桜の熱さと、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す姿が、俺の思考を凍えさせていく。

 こんなのはおかしい、と怒り狂う自分。どうすれば良いんだ、と道を探す自分。頭の中かぐちゃぐちゃになって、冷たいものが広がっていく。混乱と恐怖と絶望がない交ぜになって、考えを纏めることができない。なんで、なんでこんなことを――。

 

「――せん、ぱい?」

 

 小さく、今にも消えてしまいそうな声。はっとして視線を落とすと、少し意識が戻ったのか、不安げに揺れる瞳と目が合った。

 

「心配かけてしまって、ごめんなさい。でも、大丈夫ですから――」

 

 いつものように、そうして笑おうとしてみせる桜。その力のない微笑みを見て、冷え切っていた心が、反転したように熱を帯びた。こんな状態にされて、大丈夫なわけあるもんか……!

 

「桜を部屋まで連れていく。話は後で聞かせてくれ」

 

 遠坂とイリヤ。そして静観しているアーチャーに言い放ち、桜の体を抱え上げる。少し時間を置かないと、混乱した頭の中身を整理できそうにない。

 

「あ、ちょっと待って士郎! タオルと飲み物、今持っていくから!」

 

 慌てた遠坂の声に、どう答えたのかは覚えていない。桜をベッドへ運びながら、俺は折れそうなほど歯を食いしばっていた――。

 

 

***

 

 

「よし、こんなもんか。何か足りないものとかあったら、遠慮しないで言ってくれ」

 

「……はい。ありがとうございます、先輩」

 

 桜をベッドに寝かせて、飲み物や冷却シートを手の届く範囲に設置したところで、やっと一息吐けるようになった。スポーツドリンクを飲ませたのが良かったのか、桜も会話を交わせるぐらいには容態が安定したようで、少し安心だ。

 とはいえ、根本的な解決には何一つ繋がっていない。気を遣ったのか、遠坂はイリヤと少し話し合うと言って居間に引っ込んでしまったが、あの様子からすると望み薄だろう。イリヤのおかげで、桜の不調の原因究明はできたが、事態の打開策に結びつくまでにはいかなかったのが口惜しい。刻印虫の影響どころか、肉体そのものを小聖杯に加工されている弊害など、どうやって解決すれば良いのか――。

 

「……先輩?」

 

「あ、ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。具合悪いってのに、俺がいたままじゃまずいよな。今出ていくから」

 

「いえ! その……もうちょっとだけ、ここにいてもらえませんか?」

 

 椅子から立ち上がろうとしたところで、思いがけずそんなことを言われてしまった。布団を顔まで引っ張り上げて、目だけをこちらに向ける桜は心なしか恥ずかしそうだ。

 俺はかなり頑丈な方だが、それでも今まで病気になったことが皆無というわけではない。具合が悪い時に一人だと心細くなる気持ちはよくわかる。

 

「そっか。それじゃ、俺は座ってるから。眠くなったら、そのまま寝ちゃっていいぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 浮かしかけた腰を戻すと、桜がほっと安心した顔になる。こういう様子を見ると、少し風邪を引いた程度にしか感じられないが……今この瞬間も、桜は想像を絶する苦痛を堪えているのだろうか。この後輩が、もってあと数日の命などとは信じられないし、信じたくもない。

 桜本人は、現状をどの程度把握しているのだろう。魔術師、それも聖杯戦争の御三家に属する者であるなら、俺や遠坂がマスターであり、アーチャーやセイバーがサーヴァントであることも分かっていたに違いない。にも関わらず、桜本人は聖杯戦争に挑むどころか、姿を見せない兄の慎二と連携を取っていた様子もない。俺たちに害を与えようという意志が、彼女にはまったくないのだ。

 当たり前と言えば当たり前の話だ。桜がそんな子でないことぐらい、とっくに分かっている。しかし冷静に考えてみると、御三家の魔術師であり、ライダーのマスターであり、聖杯の器でもある桜――そんな聖杯戦争のキーパーソンが、今ここにいる意味が分からない。アサシンに黒い影、更にはセイバーまで従えて暗躍する間桐臓硯が、桜のことを敵地に放っておくものだろうか。そして当の桜本人は、何を思っているのだろうか――。

 

「桜も、魔術師だったんだってな」

 

 悩んだ末そう口にすると、桜の肩が怯えたように震えた。

 

「あ、いや、別にそれが悪いとかいうわけじゃないぞ? 魔術師なのはお互い様だし、言ってなかったのは俺だって同じだからさ」

 

「えっと……怒って、ないんですか……?」

 

「なんでさ。だって桜は、別に悪いことしたわけじゃないだろ?」

 

「でも、私……先輩が魔術師だってこと、前から知ってたのに黙ってて……。それにライダーだって、先輩たちのことを……」

 

 体調に引きずられて気持ちまで後ろ向きになっているのか、暗い顔になって目を逸らす桜。聖杯戦争が始まって以降、桜とはゆっくり話す機会が持てず、彼女がマスターだと気づいた時にはもう体調不良で話せるような状態ではなかった。その間、桜はずっとこうして気に病んでいたのだろうか。もしそうだとするなら、何も気づけなかった俺は先輩失格だ。

 

「前からっていうと、ひょっとして土蔵の訓練でも見られてたか……? まあそれにしたって、別に言わなきゃいけないっていうルールなんかない。

 ライダーとは確かに戦ったけど、あれは慎二の命令だろ? どっちにしたって、桜が気に病むことじゃないさ」

 

「違うんです!」

 

 突然口調を荒げた桜に、度肝を抜かれてしまう。体調のせいで感情的になっているのか、それとも聖杯戦争という異常な状況下だからなのか、桜は今まで見たことがないほど強く感情を露にしていた。眦に涙を浮かべ、長い髪を乱した彼女に、二の句が告げずに気圧される。

  

「私……私、先輩の訓練が危ないってこと、知ってたのに……自分勝手な理由で、言わなかったんです! 言ってしまったら、もうここにはいられないかもしれないって……!

 ライダーだって……お爺様から聞きました。学校のみんなを、たくさん傷つけたんですよね……? ライダーがあんなことをしたのは私のためなんです! 私を助けようとして、あんなことを……私が、やめてって言わなかったから……! 私が、もっと話を聞いていたら……っ」

 

 どれほど鬱屈した感情を抱え込んでいたのか。堰を切ったように溢れ出す感情の吐露は、ほとんど悲鳴じみていた。激情とも呼ぶべき奔流を前にして、俺は椅子に縛り付けられたように動けなくなる――桜の後悔は、それほどまでに衝撃的だった。

 俺が行っていた魔術の鍛錬……魔力回路の形成は、無意味なばかりでなく甚だ危険であると遠坂が呆れていた。それに以前から気づいていたというなら、桜はどれほど忸怩たる思いでいたのか。一般論として、下手に口出しをして相手に自分が魔術師だと露見した場合、平穏無事に済むとは考えにくい。例え先輩後輩の関係でも、いや、そういう関係だからこそ言い出せないのは当然だろう。

 そして、ライダーの行動にも得心がいった。戦略的には完全な悪手である、一般人への無差別攻撃を狙った理由。慎二は慎二で別の思惑を口にしていたが、桜の言葉を信じるならば、ライダーは桜に負担をかけまいとしていたに違いない。『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を使い、エネルギー源である魔力を他者から奪えば、本来のマスターである桜の負担は軽くなる。手段こそ許されざるものとはいえ、英霊メドゥーサは存外優しい性格だったのかもしれない。今となっては、最早実情を聞くことも叶わないが。

 サーヴァントは、マスターに近い性格の人物が召喚されることもあると聞く。ああ、そうか――それで、やっと気がついた。

 

「桜は優しいから……戦いたくなんかなかったんだよな」

 

 紫水晶の瞳が見開かれる。どうして分かったんですか、とその目は語っているが、あまりにも当然の事実だったから、逆に気づくのが遅くなったぐらいだ。

 俺に魔術の話を言い出さなかったのも、ライダーのマスター権を慎二に譲っていたのも、聖杯戦争が始まってから話す機会が減ったように感じていたのも、体がこんなになってまで誰にも事情を打ち明けなかったのも……争いや戦いを嫌ったからだとすれば筋が通る。俺が桜のことを知るようになったのは、この一年半ほどのことでしかないが、彼女の優しい気質はわかっている。聖杯戦争に関わりたくなどなかったろうし、それが普通なのだ。俺だって、好き好んでこんなものに参加しているわけではないのだから。

 

「それでいいんだ。同じことを何度も言うようだけど、桜は何も悪くなんかない。怖いのも、戦いが嫌いなのも、それは普通のことなんだから。魔術だの聖杯戦争だの、そんなのはやりたいやつだけでやってればいいんだ」

 

「っ……でも、私、普通の子なんかじゃないんです! もう知ってますよね。体は虫にめちゃくちゃにされて、綺麗なとこなんかどこにも……今だって、何か悪いものが中にいて、いつ抑えられなくなるかわからないんです。だから、私……!」

 

 桜が悲痛に叫んだ刹那、つけっぱなしにしておいた電灯が、突然光を失った。

 それだけじゃない。夜まではまだ時間があるはずなのに、いつの間にか部屋が真っ暗になっている。ぞくり、と全身に震えが走り、椅子から立ち上がって後ろに下がると。

 

「……ほら、見てください。私、優しくなんかないんですよ」

 

 ベッドから上体を起こした桜。闇に濡れた世界の中で、そこだけが切り取られたように明るく映る。……いや、闇の中心こそが彼女だったのか。

 自嘲的に嗤う桜の姿が、ノイズが混ざったようにブレる。見知った後輩の姿が、水母めいた黒い影に被る。それは幾度も戦場に現れた、あの全てを飲み込む異界の猛威で。

 

「私、とっくにおかしくなっちゃってるんです。先輩も、姉さんも、このままだとみんなを傷つけちゃう……すっごく悪い子なんです。

 だからもう……私に構うのはやめて、逃げてください。先輩、また怪我しちゃう……っ」

 

 いて欲しい、と言ったそばから逃げてくれと。支離滅裂ながらも、事態を悪化させたくないと必死に訴えてくる桜。彼女自身にもどうしたらいいのかわからなくなるほど、いっぱいいっぱいの状態なのだろう。あの影が、ここで抑えられなくなってしまったら──おそらく、死ぬより悲惨な目に遭うだろう。

 あらゆる邪悪の具現、この世全ての悪(アンリ・マユ)。イリヤの話を聞いてから、薄々はわかっていた。聖杯の中に潜むモノが外に出てくるためには、同じ聖杯を使って干渉するしかない。桜は小聖杯であると同時に、全悪の媒体のようなものにされている。それが断片的に現れたのが、あの影に違いない。

 いつの間にか、べっとりと汗をかいていた。目と鼻の先に、死より深い闇が見える。大切な後輩が、よくわからない化け物と重なる。本能的な恐怖で、その場から逃げようとして──。

 

「────っ」

 

 そこで。苦しさと笑みが混ざった顔の、壊れかけた桜に気がついた。

 

「……ばか。そんなに辛そうにしてるのに、ほっとけるわけあるか!」

 

 後ろに下げかけた足を、逆方向に捻じ曲げる。ここで俺が退いてしまったら──それこそ、桜は助からなくなる。

 前に踏み出す。死への恐怖など知らない。あんな影に飲み込まれるより、桜がいなくなってしまうことの方がよっぽど怖い。

 ほんの数歩の距離しかないはずなのに、同じ部屋の中にいるはずなのに、桜への距離は遠かった。一歩進むたびに、今まで桜と過ごした思い出が蘇る。こんな瀬戸際になるまで、俺は彼女を失うことの本当の意味を理解していなかったのか。

 

 俺が腕を折った時に、家事の手伝いをすると言って引かなかったこと。

 俺や藤ねえの説得にも頑として応じず、根負けして受け入れたこと。

 最初は、料理も掃除も洗濯もてんでダメで、一から教えていったこと。

 腕が治ってからもうちに来てくれて、一緒にいる時間が増えていったこと。

 学園に入ってから、美綴の強引な勧誘で弓道部に入部させられていたこと。

 けれど、なんだかんだで楽しそうに、よく笑うようになっていったこと。

 

 それはまるで、しんしんと降り積もる雪のような記憶。気づけば、桜がいるのが当たり前だった。けれどそれは、とても貴重なものだったんだ。きっと俺は、自分でも気づかないうちに、桜にたくさん助けられてきた。

 だから退かない。誰が何と言おうと、何が敵だろうと、俺は桜を助けてみせる──!

 

「あ──せん、ぱい……?」

 

 手を握る。闇に沈んでしまわないように、桜の手をしっかりと掴む。その瞬間、はっと我に返ったように目を見開いた桜が。

 

「ダメです、先輩……! 悪いのは私なんですから、もういいんです! 我慢できなくなる前に、一人でちゃんと──っ」

 

 部屋中を覆い尽くしていた闇が、少しずつ薄れていく。それは浄化というよりかは、桜が無理矢理に抑え込んだ結果だろう。どれほどの意志力があれば、これだけ悪意に満ちた存在に抵抗できるのか。

 だが、それは一時凌ぎに過ぎない。俺は桜を責める意図なんか最初からないのに、どうしてこんなになるまで我慢して、独りで……そう疑問を抱いたところで、アーチャーの言葉を思い出す。

 この聖杯戦争中に、散々言われたことだ。よく考えろ、先を読め、俯瞰して見ろ――桜は一体、何を考えているのか。この経験がなければ、俺はただショックを受けっぱなしなだけで、恐怖で動けもしなかっただろう。

 俺は悪くないと諭しているのに、桜は自分に非があると痛切に叫んでいる。それはまるで、罰せられたがっているようだ。自分が罰を受けるということは、つまり自分に非があるのだから、苦しいのも嫌われるのも仕方がないという諦め。

 刻印虫を仕込まれていたことや、本家のアインツベルンでさえ多大なリスクを伴う聖杯の器への改造が行われていたことから、桜が間桐家でまともな扱いを受けて育ってきたとは考えにくい。思い返せば、この家に来たばかりの桜は暗くて笑わない子だった。養子という扱いを鑑みれば、尚更逃げ道はなかっただろう……そういう環境下に置かれると、自己防衛本能の一種として、責任を自己に転嫁する諦めの心理が働くのだと虐待を取り扱う特集で聞いたことがある。

 

「俺は馬鹿だ。何が正義の味方だ……無駄な知識を持ってたくせに、こんな身近な女の子一人の状態にだって気づかなかったのか」

 

 小声で自嘲する。そうでもしなければ、今すぐ柱にこの役立たずな頭を叩き付けてしまうところだった。そんな真似をすれば桜が怖がるだけだと、辛うじて心を引き締める。今はそんなことより大事なことがある。

 もういいと、自分は放っておけと、悲痛に訴え続ける桜。俺に呼びかけるその瞬間だけ、桜の瞳には切実なまでの色が宿っていて。いったい彼女は、本当は何を望んでいるのか──。

 

「そんなの、一つしかないだろ……!」

 

 何故も何もあるか。こんな酷い目に遭って、聖杯戦争なんてものに関わらされて、明日をも知れぬ体になってしまって。思い出せ、十年前のあの日──街が焼き尽くされたあの日、同じように絶望と死に直面していたみんなは、なんと言っていた。きっと桜は、そんなことさえ言えなくなってしまうほど、ずっと苦しみに耐えてきたんだ。

 

「──今まで助けられなくてごめん、桜」

 

 謝って許されることではないが、それでも頭を下げる。え、と戸惑うような桜の声が聞こえたが、重ねるように言葉を続ける。

 

「気持ちが分かるなんて、口が裂けても言えない。許してもらおうなんて思ってない。遅すぎるって、怒ったっていい。

 今更になって虫のいいこと言い出すなんて、先輩失格だろうけどさ。それでも――俺は、桜を放っておけない。苦しんでる後輩がいたら、助けたいんだ」

 

「っ――そんな、いまさら……っ! さっき、あのイリヤさんって人から聞きましたよね。私、聖杯なんてものにされてて……もう、長くないんですよ? いまさら、間に合わない。助かるわけなんて――」

 

「――俺さ。召喚した……っていうか、召喚しちゃったサーヴァントがあのアーチャーなんだけど。あいつを見てて、一つすごいと思ったことがあるんだ」

 

 怒りと諦めと絶望と、そして微かな希望。それらが入り交じって、痛々しさすら滲むような表情になった桜だが、突然違う話を始めた俺を見て毒気を抜かれたように固まった。何を言い出すのかという視線を浴びながら、考えを纏めて言葉に代えていく。

 

「あいつ、あんなに偉そうにしてるけど……実は記憶がなくて、宝具だって使えないんだ。今まであいつと何回も戦ってきたけど、相手のサーヴァントはみんな記憶も宝具も持ってるわけだから、もう無理だって思ったこともある。

 ――でもあいつ、見えてるものが違うんだ。どんなにピンチだと思っても、もう道はないと思っても、絶対に新しい選択肢を見つけてくる。それで俺に、よく見て考えろって言ってくるんだ。とんでもないやつだよな。……あ、本人には内緒だぞ?」

 

 黄金のサーヴァントの冷酷さ、酷薄さは、俺が受け入れられるものではない。それが効率のいい手段であると、必要なことであると断じれば、あの男は容赦なく人間を切り捨てる。もしあいつが他の誰かのサーヴァントで、俺と戦うことになっていたら、決してわかり合えることはなかっただろう。

 だが、あいつのマスターは俺だ。敵と味方では見るものも変わってくる。それに、敵だからといって全てを否定することも、味方だからといって全てを許容する必要もない。確かにあの男とは相容れない部分がある――しかし見習うべきところも、すごいと思った姿も、俺は今まで幾つも見てきているのだ。白状すれば、尊敬してしまっている部分さえある。

 

「だから俺も、間に合わないとか、もう手段がないなんて諦めない。聖杯の本体をぶっ壊すとか、臓硯をぶっ飛ばすとか、上手く聖杯を使うとか、本当の器だっていうイリヤに助けてもらうとか……もしかしたらアーチャーの本当の宝具の中に何か使えるものがあるかもしれない。とにかく、俺は桜を諦めるのは嫌なんだ。俺は諦めが悪いの、桜だってよく知ってるだろ?」

 

 そう訊ねると。それまで、ぽかんと口を開けて聞き入っていた桜が、ぱちぱちと目を瞬かせた。何かを思い出すかのように、どこか遠くに視線を向ける彼女につられたのか、どうしてか唐突に昔の記憶が蘇る。

 あれは中学の頃だっただろうか、それとも学園に入ってからだったろうか。授業か何かだったような気がするが、走り高跳びで、ハードルを越えることができなかったのだ。それがどうしてか納得いかず、日が暮れるまで、俺はずっとハードルに挑み続けた。最終的に、あれは越えられたのか越えられなかったのか……まああの時からずっと、俺の根っこは変わっていなかったらしい。

 

「俺はいつも世話になりっぱなしだったから、そろそろ世話を焼いたって罰は当たらないだろ? 先輩が後輩を助けるのは当たり前だし……まあ、そういうわけで。桜が嫌だって言ったって、俺は助けるからな」

 

「そうでしたね。先輩は、そういう人でした」

 

 思いつくままに喋っただけだが、そのどれかが桜の琴線に触れたのか。くすりと笑みを零してくれた様子に、少しだけ安心する。

 

「兄さんが、前に言ってました。『衛宮と我慢比べはしたくないな』って」

 

「……そうか。あいつ、そんなことを」

 

 学校裏での戦いを最後に、行方の知れない慎二。サーヴァントであるライダーは撃破したが、その舞台になった柳洞寺であいつは姿を現さなかった。あいつの性格からして、キャスターの言いなりになるとは思えないから、遠坂の見立て通り魔術で黙らされたのだろうか。最悪殺されている可能性もあるが……。

 

「勝手なことばかり言ってどっかに行っちまって……慎二も引っ張ってこないとな。妹をほっといて何やってるんだって、見つけたら叱りつけてやらないと」

 

 冗談めかして明るく言うと、桜が少し困ったように微笑む。それは怯えでも苦しさでもなく、無茶を言う先輩に呆れるいつもの後輩のもので。ああ、桜はこうして穏やかな顔をしている方がいいと、改めて実感する。

 たとえどんな過去を背負っていようと、桜は大切な後輩だ。聖杯戦争なんてものに巻き込まれて、やりたくもない戦いを強いられて、自責の念と苦痛に押し潰されて……そんなのは、絶対に間違っている。彼女がまた笑って過ごせるように――正義の味方が戦う理由は、それだけで十分だろう。

 

「じゃ、俺はそろそろ行くよ。桜はゆっくり休んでてくれ。いろいろ話して、疲れちゃっただろ」

 

 このあたりが潮時だと、腰を上げて扉へ向かう。思ったより長い時間話し込んでいたせいか、少し体が硬くなっていた。

 遠坂やイリヤは、なにかいい案を思いついてくれただろうか。彼女たちと話して、どうしたら桜を助けられるか、道筋を固めなければ――そう考えを巡らせながら、扉に手をかけると。

 

「先輩。もし、このままどうしようもなくなって……私が、もっと悪い子になってしまったら――私を、殺して(叱って)くれますか?」

 

 その静かな問いに、足が止まる。叱ってくれ、と言ったのか。殺してくれ、と言ったのか。あるいは、その両方だったのか……どちらにしてもその言葉は、俺の胸を抉るものだった。

 苦しいんじゃないのか。助けて欲しいんじゃないのか。十年前の災禍に巻き込まれた人の声が蘇る――確かにあの時、苦しみの余り殺してくれと叫んでいた人がいた。だけど彼らだって、本当は助かりたかったはずだ。俺だって、最後にはもうそういう感情さえ消えかけていたけれど……切嗣が助けてくれたから、こうして命を繋ぐことができたのだ。

 桜も、自分から手を伸ばせないほどの状態なのか。だったら、たとえ振り払われることになったって、こっちから手を伸ばしてやらないと――あの日、切嗣が俺に差し伸べてくれたように。

 

「――ばか。そういう時はな、桜。『助けて』って言うんだぞ」




ほぼまる三年お待たせしてしまい、申し開きのしようもございません。
本話を含めて約8万文字、3話分の執筆ストックを作成いたしましたので、順次更新させていただきます。
次話の更新は8月26日(水)、その次は8月28日(金)を予定しております。筆が追いつけばもう1話増えるかもしれません。

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