【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

26 / 41
24.ヘラの栄光

 タクシーを降りると、鬱蒼と茂った森が見えてきた。木々が数限りなく立ち並ぶ光景は、自然の勇壮さというよりは、どこか不気味さと物寂しさを感じさせる。葉に遮られ、陽の光があまり差し込まないことに加えて、鳥の(さえず)りすら聞こえないほどの奇妙な静けさは、生物の存在を拒絶しているようでさえある。

 今いる道から外れれば、ここから先はアインツベルンの領地。どのような罠や攻性魔術が敷かれているかわかったものではない。軍事要塞に正面から踏み入るのは無謀に等しいが──。

 

「そんなに警戒しなくても大丈夫よ、士郎。わたしたちは、戦いに来たわけじゃないんだから」

 

 あっけらかんと、そう言い放ってのける遠坂女史。確かにそのとおりではあるのだが、魔術師の領地という、四方八方から銃口を向けられるような場所に赴くのだから、どうにも心穏やかではいられない。

 平然と森の中に入っていく彼女に続き、俺もおそるおそる一歩を踏み出すと……ピリリ、と少し痺れるような感覚。事前に遠坂に言い含められていたが、これはアインツベルンが敷設した感知結界だろう。俺たちが来訪したことは、これでイリヤにも知れたはずだ。

 

「まあ、士郎はバーサーカーに一度殺されかけてるし、無理もないか」

 

 イリヤと会ったらどう話そうかと考えていたのだが、その言葉で一気に気が重くなった。

 漆黒の巨人──大英雄ヘラクレス。他と隔絶したパワーとスピードに、極めつけの蘇生能力。あれはもう英霊というより天災だろう。何をどうやったら勝てるのか、全く想像がつかない。

 今の時点でこれなのに、ギリシャ神話を紐解けば、ヘラクレスの業績に関するエピソードには事欠かない。それらに由来する宝具をあと幾つ持っているかと考えるだけで憂鬱になりそうだ。

 あれにまともに対抗できるサーヴァントであり、不可解な防御力にも通用する宝具だという約束された勝利の剣(エクスカリバー)を有していたセイバーは、今はいない。記憶が戻らず、本来の性能を発揮できないアーチャーでは、あの大英雄には遠く及ばない。

 万一イリヤが敵意を向けてくれば、俺たちに抗する術はない。あの少女に限って、そんなことはしないと信じているが……。

 

「それにしても士郎。あの時、よく死なずに済んだわね」

 

 風で落ちてきた木の葉を払いのけながら、遠坂が不思議そうな顔をする。色々なことがありすぎて、すっかり棚上げ状態になっていたが、確かにそれは気になる点だ。

 俺は半人前の魔術師で、高度な治癒魔術なんかには全く心得がない。だというのに、俺はバーサーカーに体をほとんど真っ二つにされた時、何故か勝手に再生したというのだ。いつから俺はヒトデの親類になったのか。

 

「私ね、最初はサーヴァントの方に再生能力があって、それが何らかの拍子で士郎まで流れてきたんじゃないかと思ったの。セイバーはそういう能力を持ってたし、バーサーカーなんかは特に顕著でしょ?」

 

「でも、アーチャーにはそんな能力はないぞ」

 

「そうなのよね。記憶がないから発動していない、っていう可能性もあるけど、それだと術者の意思が必要ってことじゃない? でも、士郎は勝手に生き返ってる。どうも引っかかるのよね……聖杯戦争絡みが原因だとは思うんだけど、アーチャーとは別のところに原因があるのかも」

 

 真ん中から真っ二つにしたら二人に増えるのかしら、などと恐ろしいことを言い始める遠坂。それじゃヒトデどころかプラナリアだ。さすがに自分が生物実験に使われる光景は想像したくない。

 不気味な未来予想図を振り払い、話題に出たアーチャーの方に目を向ける。気に入っているのか、外に出る時によく着る黒地のライダースーツ姿のアーチャーは、森の悪路を気にした様子もなく闊歩している。陽も差さない暗い森林だというのに、存在そのものが煌めいているような英霊が歩いていると、まるでそこが王族の往く公道であるかのような錯覚を抱く。木々の方が避けて、この英雄に道を作っているような……。何度見ても、とんでもない威圧感の男だ。

 

「なんだ、雑種。自らの異変の責を、よもや我に問おうとは言うまいな?」

 

「いや、そこまでは言わないけど……俺の回復力がおかしくなったのは、聖杯戦争が始まってからだし。ひょっとしたら、アーチャーは何か知らないかと思って」

 

 知らん、とあしらわれると思ったのだが、アーチャーは予想外にも面白がるような表情を見せた。観察者の紅い瞳が、俺の体をじっと検分していく。

 レントゲンで体の中身を映しているような、或いは俺という人体の解剖図を詳らかにしているような、そんな奇妙な感覚。足が自然と止まり、数歩先を歩いていた遠坂も何事かとこちらに振り返る。

 観察自体は三十秒ほどで済んだようで。ふむ、と頷いたサーヴァントは、腕を組むと俺の瞳を見つめてきた。データの採取というよりは、こちらの意思や記憶を確認するような眼差しだ。

 

「雑種。貴様、体の中に何を仕込んでいる?」

 

「……は?」

 

「物理的――いや、今まで気づかぬとすれば魔術によるものか。貴様自身に心当たりはないようだが、貴様の肉体には後天的に()()が仕込まれている。なんだ、知らなかったのか」

 

 いや、知らなかったのかって……なんだそりゃ。俺の体に何が入ってるって?

 そんなヘンテコなものがくっついているのなら、それこそ健康診断や病院の検査の時に気付いたはずだ。だが、魔術による仕込みとなると話は変わってくる。記憶を遡ってみるが、当然ながら俺自身にそんな人体改造めいたことをした記憶はない。

 となると第三者だ。魔術に心当たりのある人間となると切嗣が出てくるが、親父にどうこうされた思い出はない。そもそも親父は、俺を魔術から遠ざけたがっていた節がある。本当は魔術について教えたくもなかったようだし、わざわざ妙な仕込みをする理由がない。それ以外の可能性は……まさかとは思うが、キャスターや他のマスターに何かされたのでは……!?

 

「アーチャー……アンタ、それ最初から知ってたの?」

 

 遠坂の問いに首肯する青年。こちらが承知していると早合点していたのか、訊かれなかったから答えなかっただけなのか、それとも意図的に黙っていたのか……。いずれにしても、そういう情報はもっと早く教えて欲しかった。

 他のマスターやサーヴァントに何かされたのではないかと思い至り、青くなって遠坂の方に助けを求めるが、彼女は音がするような勢いで俺から距離を取る。この場で自爆するのではないかという疑念の籠った目線を向けられるが、否定しようにも、俺も俺自身が信用できなくなってきた。

 だが、アーチャーが今まで口にしなかったということは、少なくとも害のあるものではない気がする。まがりなりにもサーヴァントであるこの男が、そこまで重篤な情報を秘匿しているとは思えない。事実ヤツの顔を見てみれば、警戒する遠坂に胡乱げな目線を向けている。

 

「案ずるな雑種ども。我にもさすがに正体までは掴めぬが、それがこやつに仕込まれたのは昨日今日のことではあるまい。おそらくは、何年も前のことだろうよ。あまりに溶け込み過ぎているが故、我ですら初見では見落としたようなモノだからな」

 

 その言葉で、俺と遠坂が顔を見合わせる。何年も前となると、今回の聖杯戦争には関係がなさそうだが……。

 困り果てた俺たちを余所に、アーチャーが再び観察者の瞳になる。この男の分析能力、判断能力は桁が外れており、こういった時には大層頼りになる。仕込まれたという本人でさえ未知のことで、一流の魔術師である遠坂ですら全く気付かなかったものなのだから、今はアーチャーの頭脳と能力だけが謎を解く鍵になる。

 改めて思うが、このサーヴァントは頭脳労働を得意としている。前線で戦う姿も似合っていないというわけではないのだが、本来は後方で指揮を執っている方が似合うような気がするのだ。この男は魔術を使えないと言うが、案外、アーチャーではなくキャスターとしても違和感がなかったかもしれない。

 

「小僧に悪影響を及ぼすものではないな。細分化されていて読み取りにくいが、この時代のモノではないな……もっと古い時代のモノだ。何らかの加護を与えているようだが、ともすればそれが貴様の回復能力に繋がっているのやもしれん。

 単なる魔術道具にしては度が過ぎているな。事によると、何らかの宝具という線もあるか。悪しき呪物ではないようだが、ここまでの品となれば貴様も何らかの影響を受けていよう」

 

「宝具!?」

 

 話が予想外の方向に飛んできた。自分の腕をおそるおそる眺めるが……体の中に宝具が入っているなど信じられない。しかも、何年も前から……?

 宝具とは物質化した奇跡であり、そこらに転がっているようなものではない。聖杯戦争でサーヴァントを見ていると忘れてしまいそうになるが、魔術師といえど普通は一生に一度見られるかどうかという超級の逸品なのだ。現存しているものは数少なく、魔術の世界に於いても秘中の秘であったり、中には国宝指定されて国家によって庇護されているものまであるという。まあ、これは遠坂の受け売りなのだが。

 とすれば、考えられる要因は一つ。宝具が大盤振る舞いされるような魔術儀式は、聖杯戦争を除いて他にない。それも何年も前のものとなると――あの大災害を引き起こした、第四次聖杯戦争。被災するだけでなく、魔術的にも俺はそこで何らかの関わりを持っていたのだろうか。

 あの頃の記憶はあやふやで、ほとんど残っていないと言ってもいい。切嗣に助け出された直後は、さすがにもう少しいろいろ覚えていた気もするのだが、十年も経つとほぼ忘れてしまう。思い出したくても思い出すことが出来ないが、そこに原因があるとなると無性に気になってくる。

 

「そういえば士郎って、魔術特性も極端に変わってるのよね……消えない投影魔術なんて聞いたこともないし。ひょっとすると、その宝具が原因なのかも」

 

「宝具か……そいつの正体が割れれば、何かに使えるかな」

 

 そう言うと。遠坂が、おかしなものを見る目で俺を睨んできた。俺は何か変なことを言っただろうか。

 

「アンタってつくづく……なんて言うか、魔術師らしくないわよね。宝具よ、宝具! それも体の中に入ってるなんて信じられないわよ。他の魔術師が聞いたら羨ましさで暴れるかもしれないわね……魔術的にどんな価値があるのか、アンタ知ってて言ってるの? ちょっとは研究してみようとか思わないわけ?」

 

「いや、それも大事かもしれないけど、今は聖杯戦争だろ。その宝具のおかげで俺に治癒能力が備わってるなら、他の人も助けられるかもしれないし、そうでなくても何かの役に立つかもしれないだろ」

 

 研究対象としての興味がないわけではないし、人並みの好奇心だって持っているつもりだが、今はそちらの方が重要だ。バーサーカーに真っ二つにされた、ほぼ即死と言ってもいい傷からも再生できたのなら、他の人に応用できればひょっとすると助かる命があるかもしれない。

 が、遠坂の気には召さなかったようで、天を仰ぐとぶつぶつと何かを呟き始めた。「他のヤツに聞かれたら即ホルマリン漬けよ……」とか、「わたしが一から心構えをしつけ直さないとダメか……」とか、「一段落したら覚悟しておきなさいよ」とか、何やら不穏な言葉が漏れ聞こえてきて背筋が冷たくなる。

 とにかく、俺の体にあるらしいモノについては一度精査してみる必要があるのは間違いない。幸い、俺の数少ない特技の一つに物質の解析があるし、体に溶け込んでいるという宝具の形だけでもどうにか具体化出来れば見えてくるものもあるだろう。今日の一件が片付いたら、早めに調べてみなければ。

 

 ――そんなやり取りをしながら、森の奥へと踏み入っていく。

 

 この段になると、先導するのはイリヤから道筋を聞いていた俺の役割だ。しかし、魔術で流し込まれた映像では一瞬でも、実際の道のりは果てしない。あの時見た記憶も、いざ現地に立ってみると朧げな部分が多く、曖昧なポイントは遠坂の魔術探査やアーチャーの洞察力で正解と思われるルートを見つけ出す。

 そうして二時間。どうにかこうにか、見覚えのある地形を選びつつ、もう少しで城が見えるというところまでやってきた。あと三十分も歩けば、目的地に到着すると思うのだが……。

 

「──む」

 

 何もない場所だというのに、突然アーチャーの足が止まる。疲れを感じ始めてきた俺たちと違って、サーヴァントに疲労感はない。この英霊が立ち止まったのは別の理由からだ。

 秀麗な容貌に浮かぶのは、警戒。俺たちには判らぬ何かを察知しているのか、それまで無造作だった足運びが変わる。自然と俺と遠坂も警戒態勢に入り、一体何事かと息を殺して視覚と聴覚に神経を集中させると──

 

 ──ド、という地響き。

 

 よく注意していなければ聞こえないが、確かに聞こえた。地震かとも思うが、違う。

 もう一度……今度はもっと近くだ。更に一度、もう一度と、次第に音が大きくなってきている。爆発音……いや、打撃音か。何か物凄い力で地面を殴りつけているような……。

 

「ふん──この野卑な音はバーサーカーか。彼奴め、既にどこぞの雑種と戦端を開いていると見える」

 

 アーチャーの独白に、遠坂の顔が険しくなる。バーサーカーが交戦状態ということは、俺たちは一歩出遅れた。

 残っているサーヴァントは四体。ここにいるアーチャーを除けば、バーサーカーと戦っているサーヴァントは二体に絞られる。ランサーかアサシン、或いはその両方だ。

 この二体については、背後に潜んでいるであろうマスターの情報が全く見えてこない。しかし、聖杯戦争に参加している以上、他のサーヴァントやマスターを攻撃するのは自然な流れ。まさかこのタイミングでバーサーカーと戦っているとは、話し合いに来た俺としては嬉しくないのだが……。

 

「……音が妙だな。バーサーカーめ、一人と戦っているのではないらしい。

 どうする、雑種ども。今ならば連中に気取られてはいまい、退く手もあるぞ」

 

 弓兵が消極的とも取れる提案をするが、撤退は理に適っている。敵が一体だというのなら、バーサーカーに加勢して恩を売る手もあるだろうだが、複数体となると話が変わってくる。

 ランサーとアサシンの二体だけならまだ良い。問題は、あの得体の知れない影がいた場合だ。遠坂は幾つか策を用意したと言っていたが、セイバーすら倒したあの影の正体も知れぬうちに事を構えるのは賢明とは言えない。

 しかし、今回はイリヤに話をしに来たのだ。おめおめと逃げ去るわけにはいかないし──何より、あの影はバーサーカーを以てしても厳しいだろう。サーヴァントとしての強弱とは関係なく、あの化け物は違う理で動いている予感がする。となると、イリヤの命が危ない。

 それは見過ごせない。桜の助けになるかもしれない魔術師と、味方として見ればこれ以上ないほど頼もしい大英雄を失うのは戦略的に悪手だろうし……それ以上に。あの雪の少女を見捨てることなんて、俺には絶対にできない。

 

「……行こう。俺たちは、そのために来たんだからな」

 

「そうね。ここで逃げ帰っても、桜の寿命が縮むだけ。それに、万一イリヤスフィールとバーサーカーが倒されでもしたら洒落にならないわ。

 アーチャー、弓使いにこう言うのも悪いけど、前衛頼める? わたしが掩護するから」

 

 俺たちが同じ結論を出すと、アーチャーは鷹揚に頷いた。この英霊は選択肢を提示はするが、基本的には俺たちがどの道を選ぼうとも構わないというスタンスだ。気付いていない道を示してくれたり、意図的に他の道のことを口にして本来進もうとしていた道の後押しに繋げたりと、そういう点では得難い助言者だろう。……途方もなく傲慢な性格のせいで、イマイチ真意に気付きにくいのが大きな難点だが。

 ともあれ、どうするかは決まった。ライダースーツの上に黄金の鱗粉が煌めいたかと思うと、アーチャーがいつもの鎧と双剣を装備する。予定にない事態である以上、出たとこ勝負になってしまうが、イリヤとバーサーカーを手助けするという目標は変わらない。

 黄金の英霊を先頭に、道なき道を駆けていく。俺たちに速度を合わせてくれるアーチャーが、双剣で木や草を跳ね飛ばしてくれるおかげで、後続の俺たちは随分進みやすい。あれよあれよと言う間に震源地に近付き、開けた空間が見えてきたと思った途端……アーチャーが急に立ち止まり、俺たちを手で制した。

 もう音の発生源はすぐそこだ。爆音、唸り声、剣戟が耳朶を強く叩いてくる。が、まずは状況を確認しないと動くこともできない。大きな木の後ろに隠れたアーチャーの横、茂みの合間から木々のない広場を覗いてみると──

 

「──嘘」

 

 隣の遠坂が絶句する。俺も、自分の目がおかしくなったのかと疑うところだった。おかしい。あってはならない。おまえは、そこにいるはずがない存在だ。

 

 ──広場で戦う存在は、三体。

 

 一体は斧剣を振り回すバーサーカー。背後にはマスターであるイリヤスフィールがいるが、戦闘に参加する様子はない。何かに怯えた様子で、荒れ狂う従者を見守っている。

 一体は絶え間なく短剣を投げ続けるアサシン。そこから距離を置いたところに、どこかで見覚えのある老人がいる。杖を突いて佇むその姿は一見非力に見えるが……直感する。アレこそが、間桐臓硯だ。あの存在から漂う腐臭は尋常ではない。

 そして、もう一体。そのサーヴァントは、残っているはずのランサーではない。見たことのないヤツだ。そのはずだ。なのに、なのに。

 

「なんでセイバーがここにいるのよっ……!」

 

 遠坂の苦鳴が、現実を叩き付ける。もう否定は出来ない。あれは……あの少女は、つい数日前まで、俺たちの仲間だったはずのサーヴァントだ。

 

 眩い金髪はくすんでいても。

 仮面で容貌を隠していても。

 鎧が漆黒に染まっていても。

 黒ずんだ泥を纏っていても。

 聖剣が悪に変質していても。

 

 それでも、分かってしまう。ああも変わり果てていても──あのサーヴァントは、セイバーだった。

 

()()()()()()()()。ふん、騎士王ともあろう女が下らぬ雑種に靡くとは──生き延びたことは褒めてやるが、これでは評を改める必要があるな」

 

 アーチャーが何か言っているが、よく聞こえない。衝撃で頭がぐらついている。どうして死んだはずの少女があそこにいるのか、全く理解できない。

 俺たちが混乱している間にも、激戦は続く。縦横無尽に暴れ回るバーサーカーは英霊というより古の巨人のようで、前に見た時より更に身体能力が上がっているように見える。セイバーとの初戦の時は制限していた『狂化』を全力発動させているのだろう。

 しかし、驚くべきは狂戦士ではなく、それと打ち合う黒い甲冑の剣士の方だった。体躯やリーチでは遥かに及ばないものの、バーサーカーの猛攻に打ち負けることもなく、正面からまともに斬り合っている。見た目だけでなく能力にも何らかの異変があったのか、速度と技量を活かした美麗な立ち回りから力に重点を置いたスタイルに変わっているが、以前とは桁が違う莫大な魔力放出と膂力であのヘラクレスの怪力に拮抗しているのだ。二人の戦闘は一太刀ごとに地形を変えるほどで、性能で大きく劣るアサシンはまともに介入することすらできない。

 

「■■■■■■■■■■────!」

 

 狂戦士の咆哮。セイバーと戦いながら、アサシンを牽制してイリヤを狙わせないようにするあの英雄は凄まじい。今のセイバーすら、バーサーカーにマスターを守らなければならないという縛りと、アサシンの掩護がなければ勝ち得まい。

 

 ──だが。

 

「……!?」

 

 斧剣を叩き付けてセイバーを数歩後退させたバーサーカーが、突然横に跳躍する。するとその直後、つい今までヤツが立っていた平地が、黒い沼のようなものに変貌した。よく見ればその沼は、徐々にこの空間を侵食している。それは見紛えるはずもない、あの黒い影の一部だった。

 あれに囚われた瞬間終わる。そう本能で察知しているのか、バーサーカーは沼に近付かない。アサシンもまた同様だったが、どういうわけなのかセイバーだけはその汚泥の中でも平然としている。回避のために態勢を崩したバーサーカーの懐に入った剣士は、不完全な状態で放たれた斧剣を弾き飛ばすと、黒い聖剣を一閃させた。

 バーサーカーの首が飛ぶ。即死の一撃に膝を突き、そのまま倒れ伏すかと思われた大英雄は──十二の試練(ゴッド・ハンド)という名の宝具で蘇生し、首が再生しきらぬまま剛腕で正拳突きを撃ち放った。剣で防御したセイバーだが、さすがに衝撃は殺し切れずに大きく跳ね飛ばされる。その隙に再生し、大剣を握るヘラクレスの威容は殺される前と全く変わらないが、命のストックは確実に一度減らされた。

 

「だめだよバーサーカー、戻って! そのままだと……!」

 

 イリヤが悲鳴じみた声を上げる。おそらく今の攻防は、何度か繰り返されているのだろう。

 いかにヘラクレスが桁外れのサーヴァントといえど、この戦況は余りに不利だった。力では自分に匹敵するセイバーと戦いながら、マスター殺しに特化したアサシンに手出しをさせぬよう立ち回り、捕まれば即死という黒い影から逃げ回る。三対一の状況に加えて、碌に遮蔽物もない地形で主を守らなければならないという枷、更に一秒ごとに減っていく足場。刻一刻と、天秤はセイバーたちの方に傾いていく。

 

「バーサーカーはこのままじゃ持たない。何とかしないと――!」

 

「けど、あっちはサーヴァント二体に化け物が一匹。おまけに臓硯までいるわ。わたしたち三人が飛び出していったとしても、分が悪すぎる」

 

 確かに遠坂の言う通りだが……このまま放置していて、バーサーカーが倒されてしまっては、もう戦うどころの話ではなくなる。数百年を生きる魔術師という間桐臓硯に、騎士王と暗殺者、おまけに得体の知れない黒い影。俺たちだけでは、逆立ちしたって勝てるわけがない。

 どうする、どうする。セイバーのことも気になるが後回しだ。イリヤとバーサーカーを助けなければ、俺たちは完全に詰む。かといって無謀に飛び出せば死体が増えるだけ。冷静になれ。

 アーチャーが指していた、将棋の盤面を思い出す。大事なのは駒ではなく、操作するプレイヤーの視点だ。この場合の勝利条件は……相手の駒を倒すことではない。味方を助けることだ。自爆覚悟で無理に駒を取りに行くのではなく、最低限こちらの駒を奪われないように立ち回ればいい。となると、俺たちに採れる戦法は──

 

「士郎。あの黒い影と臓硯は、少しならわたしがなんとかできると思う」

 

 俺が結論を出そうとするのと同時、遠坂が懐から宝石を準備しながら囁く。彼女もこの状況をどう打開するか、考えていたのだろう。

 少しでいい。サーヴァントではないイレギュラーたちを足止めできれば、残るのはセイバーとアサシン。そして、サーヴァントにはサーヴァントをぶつければ……!

 

「アーチャー。アサシンの相手を頼めるか?」

 

 そう訊ねると、無言で大弓を構えるアーチャー。しかし、数度狙いをつけようとしたところで、不愉快そうに首を横に振った。

 

「狙撃は難しいな。あの汚泥が周囲の魔力を乱している影響で、彼奴らには我の存在は気取られておらぬが、その反面狙い撃つにはあの泥が邪魔だ。我の矢は魔力故、近付けばアレに喰われる。となれば直接斬り捨てる他あるまい」

 

 話している間にも、バーサーカーが剣で胸を貫かれて致命傷を負う。即座に回復し、斧剣を地面に叩き付けて土塊を四方に跳ね飛ばすバーサーカーだが、もう命のストックは幾つ残っているのか判らない。イリヤの悲痛な表情からすれば、あまり余裕はないはずだ。時間は残されていないが、良いタイミングを待たなければ。

 

「わかった。遠坂は臓硯と影の足止め、アーチャーはアサシンと戦ってくれ。その隙に、俺はイリヤを助けてくる。問題はその後だけど……」

 

「逃げ道か。ヘラクレスがいれば問題あるまい。高々四人程度、アレなら苦もなく運べよう。……狂犬ごときに乗るのは癪だが、背に腹は代えられん」

 

 さすがと言うか、アーチャーの中ではもう撤退までの戦略が練られていたようだ。バーサーカーに頼るというのがプライドに障るのか、目は不機嫌そうに細められているが、アーチャーの速度はサーヴァントの中では並程度で、俊敏なアサシンやロケット噴射のように飛んでくるセイバーには対抗できない。パワーだけでなくスピードも桁外れのバーサーカーが、この中では一番足が速いのだ。

 とにかく、結論は出た。アーチャーは大弓の形状を双刃の剣に変え、遠坂は幾つかの宝石を取り出して呪文を唱える。俺もアーチャーの双剣の設計図を思い描き、すぐに投影できるように準備する。張り詰めるような緊張感の中、一秒が一時間のように過ぎていく。

 手がじっとりと汗ばむ。バーサーカーが強引に守りを打ち崩され、またセイバーに致命傷を負わされた。このままではいけないと、焦りばかりが募るが、この作戦はタイミングが肝心。まだか、まだかと逸る気持ちのまま、じっと隙を見計らい──ついに、その瞬間がやってきた。

 

「今だッ!」

 

 閃光のようにアーチャーが飛び出す。アサシンは完全に後ろを向いていて、こちらに気付くのが遅れた。髑髏の面の上からでも判る驚愕を纏わせ、振り向いたアサシンが迎撃しようとするが。

 

「地を這う虫ケラ風情が、我の道を阻む事を誰が許した──!」

 

 一刀。

 伸ばされた魔腕を、黄金の刃が斬り飛ばす。ぐるん、と双刃を回転させたアーチャーは、その勢いのままアサシンの胸板を斬り裂き、強烈な回転蹴りを喰らわせた。

 吹き飛んだアサシンが、血を撒き散らしながら大木に激突する。致命傷かどうかまでは判らないが、あれは深手だ。正面きっての戦闘、それも不意を突いた奇襲とあっては、性能で大きく劣るアサシンに勝ち目はなかったのだ。

 一瞬にして、サーヴァントが一体脱落する。後方で悠然と構えていた臓硯は、突然の事態に驚いた気配を見せるが、俺たちは一人ではない。その老体には既に宝石が投げつけられていた。

 

「喰らいなさい! Neun(九番),Acht(八番),Sieben(七番)──Stil,sciest,BeschiesenErscieSsung(全財投入、敵影、一片、一塵も残さず)──!」

 

 爆炎が上がる。何か蟲のようなものを放った臓硯だったが、遠坂の魔術は地盤ごと吹き飛ばすのではないかという火力で、矮小な障害も老魔術師もまとめて焼き尽くした。秘蔵の宝石を使ったのか、あれではサーヴァントにさえ通用しよう。

 遠坂が放った宝石は一つだけではない。同時に他に二つの宝石が戦場に放たれ、黒い影に呑みこまれると思った瞬間手榴弾のように炸裂した。爆裂は地面も汚泥もまとめて四散させ、俺とイリヤの間を覆っていた障害物を一掃する。道が開いたのを確認するや否や、俺は全力で空間を駆け抜け、呆然とした表情のイリヤを抱え上げた。

 

「え──シロウ、なんで……?」

 

「また会おうって、公園で約束しただろ? 積もる話は後だ、一旦逃げるぞイリヤ!」

 

 一気に捲し立てると、返事を待たずに背後を振り返る。

 臓硯はまだ炎の中で、アサシンは復帰する気配を見せない。黒い沼はその面積を半減させ、遠坂が安全地帯を通ってこちらに走ってくる。ここに来て、異変を悟った剣士がバーサーカーから飛び退くが、その背後からはアーチャーの狙い澄ました一撃が──

 

「──ッ!」

 

 回避行動。掃射された三本の矢を、サーヴァントが紙一重で躱す。驚愕の声は誰のものか、今の矢はアーチャーが放ったものではなく……()()()()()()()()()()放たれたものだった。

 瞬時に対応したアーチャーは、矢が飛んできた方角に向かってレーザービームめいた一撃を放つ。しかし、さすがの弓兵をしても反射だけの攻撃では敵を捉えられず、再び飛来した群れを大弓で打ち払って凌ぐ羽目になる。

 ……おかしい。今の矢は、どう考えてもサーヴァント級の攻撃だ。しかし、今残っているサーヴァント──いや、今回召喚された全てのサーヴァントの中で、アーチャー以外にあのような攻撃手段を取る英霊は存在しない。今弓兵を攻撃しているのは、誰だ……!?

 

「衛宮くん、ぼーっとしてないで隠れる!」

 

 思考を巡らせている間に、走ってきた遠坂が近くの木陰に俺とイリヤを引きずり込んだ。混戦状況の戦場を確認すると、ますます状況がわからないという顔のイリヤに鋭い顔になって向き直る。

 

「イリヤスフィール。細かい話は後にして、今はとりあえず休戦。いいわね?」

 

「……う、うん」

 

 混乱していたが、それでも頷くイリヤ。やっと状況が掴めてきたのか、驚きの感情よりも理性の占める割合が大きくなってきたその表情は、明るさと暗さが半々の割合だ。絶望的な窮地に手を差し伸べられたのは嬉しいが、完全に状況が好転したわけではないと悟っているのだろう。

 臓硯は未だ炎の中だが、数百年も生きる魔術師があれで死んだとは思えない。そのサーヴァントと思われるアサシンはもう戻ってこれないだろうが、黒い影は遠坂の爆撃も一時凌ぎにしかならなかったようで、着々とまた汚染範囲を広げていた。バーサーカーとセイバーは正面から強烈な剣戟を交えているが、不利な状況から膠着状態に移っただけ。そしてアーチャーは、謎の長距離狙撃を辛うじて防いでいるが、到底バーサーカーの掩護に回れるような状況ではない。いつまでも凌げる攻撃でもないだろう。

 つまり、時間が経てば経つほど俺たちは不利になる。遠坂と目を見合わせると、互いの認識が同じであることを確信する。

 

「とりあえずここから逃げるわよ。イリヤスフィール、バーサーカーを呼び戻せる? 余計な邪魔が入ったけど、みんなで合流すればチャンスはある。今アーチャーを狙ってるヤツとセイバーは、仲間ってわけじゃないみたいだし」

 

 この混戦状態で、それは数少ない吉報だった。もしセイバーと謎の存在が共闘していたら、連携を取れないアーチャーとバーサーカーでは確実に負ける。しかし、アーチャーに矢を撃ち放っている見えない敵は、時折バーサーカーたちにまで攻撃しているのだ。セイバーは狙撃を明らかに警戒しており、お陰でバーサーカーに集中しきることが出来ずにいる。

 黒い影とセイバーと謎の敵。連携していれば三対二で圧倒されただろうが、今はそれぞれが個の力でしかない。ならば、有利とは言わずとも対抗することは可能だろう。

 

「大丈夫だけど……タイミングを掴まないとダメ。今のバーサーカーを制御しきるのは、私でも難しいから」

 

「それでいいわ。合図をしたら私が宝石で掩護するから、その隙にバーサーカーを呼び戻して。後はみんなを抱えてもらって、そのままここから──」

 

 ──悪寒。

 

 強烈な寒気に、全員がそちらを振り向く。絶望の源は、剣士が握る聖剣から。下段からの一撃でバーサーカーの体勢を崩すと、セイバーは大きく後ろに退き──黒い長剣に、莫大な魔力を叩き込んだのだ。

 怖気なのか、それとも何かが反応したのか、アレを見た瞬間から体の奥に熱を感じる。あれこそが、約束された勝利の剣(エクスカリバー)。ライダーを宝具ごと斬り裂き、そのままキャスターをも沈めた対城宝具。本来大軍勢や城塞を殲滅するような超宝具が放たれれば、周囲一帯が灰燼と化すだろう。俺たちなどひとたまりもない。

 しかし、俺を惹き付けたのはその性能ではなく、もっと根底にあるものだった。あの剣以上の火力を持つ宝具はあるだろうし、より外観が美しい剣、より精緻な技術で作り上げられた武器もあろう。だがあれは、そういうモノとは次元が違うのだ。人の純真な想いの結晶、希望を練って編まれた宝剣──俺の夢に出てきた、世界そのものさえ捻じ伏せるような、絶対の理を体現した紅い剣とは対極に位置する一振り。俺は束の間、その尊さに見惚れていた。

 

「人形の小娘ッ!」

 

 アーチャーの叱咤が、俺を現実に引き戻す。アイツの声は俺や遠坂ではなく、隣にいるイリヤに対して向けられていた。発動寸前の聖剣を前にして、さすがのアーチャーからも余裕が消え失せ、飛来する矢を捻じ伏せながら鬼気迫る表情になる。

 

「──ヘラクレスの()()()()()()()!」

 

 その言葉に、イリヤが理解不能といった顔をする。だが、もう詮議している時間はない。本能で窮地を察したのか、バーサーカーがセイバーに凄まじい猛攻をかけているが、聖剣に籠められた魔力は一秒ごとに増大している。狂戦士の攻撃は時間稼ぎにしかならず、数十秒と経たずに真名が解放されることだろう。

 アーチャーの意図は読み取れない。そもそも、バーサーカーとして召喚された英霊に理性を戻すことなど可能なのか。ヘラクレスと性能で真っ向勝負できるセイバーに、狂化の恩恵を捨てて戦うことは出来るのか──瞬間的に幾つもの疑問が湧き立つが、答えに至るまでの時間が足りない。

 だが、このままでは死ぬ。他にもう手立てはない。迷いを振り払ったイリヤから膨大な魔力が湧きあがり、小さな体躯に赤い刺青のような令呪が浮かび上がる。全身に施されたそれは、俺たちの持つものとは余りに違っていたが、それがバーサーカーを制御する令呪であることは本能的に察知出来た。

 

「バーサーカー!」

 

 主の悲痛な叫び。咆哮を上げたヘラクレスは、イリヤの声に呼応するようにフルスイングで斧剣を叩き付け、剣士の小柄な体を彼方へと弾き飛ばした。痛烈な一撃に、二人の距離は大きく開くが──遠距離宝具を持つセイバーに対して、それは致命的な過ちとなる。

 黒い聖剣が唸る。臨界まで魔力を叩き込まれた宝具は、極光を伴って振り下ろされる。バーサーカーが突貫姿勢を取るが、彼が駆け出すよりも、セイバーが剣を振り下ろす方が早い。

 

「──"約束された(エクスカリバー……)"」

 

 初めて聞く少女の声。以前の清廉さはどこに消えたのか、絶望が形となったような低音。死神の鎌に等しいその言葉は、真名解放の合図。一秒にも満たないであろう刹那の時間が引き延ばされ、死期が眼前であることを静かに知覚する。

 ここまで絶望的なものを見せられれば、パニック状態に陥ることすらない。遠坂は悔しさからか唇を噛み、アーチャーは何か怒声を放っている。俺は冷静に死を受け止め、バーサーカーは自滅覚悟で特攻しようとする。押し寄せようとする黒い暴力に、誰もが圧倒される中、イリヤスフィールの懇願が響く。

 

「令呪を以て命じるわ──狂える鎖を解き放って、私を守って!」

 

 途端。複数の令呪を使ったのか、怖気がするほどの莫大な魔力が迸る。瞬間、赤く染まっていたヘラクレスの双眸に異なる光が宿るが……。

 

「"勝利の剣(モルガン)"────!」

 

 無情にも剣が振るわれる。魔力量の違いか、ライダーを倒した時すら上回るほどの絶大な光量が放たれた。美しさと気高さに満ちた黄金の光輝がそのまま反転したような、暴力と絶望の象徴。尾を曳く黒い光は、回避や防御など粉微塵にして立ちはだかるものを蒸発させるだろう。

 アーチャーの弓や遠坂の宝石など比べ物にならない。その津波の如き一閃から、身を盾にして主を守ろうというのか、バーサーカーが前に出る。光が到来する瞬間、その腕には何かが握られており──

 

 

「────"射殺す百頭(ナインライブズ)"」

 

 

 九つの矢が、地を裂くように放たれた。九頭の竜の如き光の奔流は、絡まり合って聖剣の暴虐と激突する。かつて猛獣ヒュドラを仕留めたという究極の一撃、大英雄の象徴たる最強の弓矢は、対城宝具とさえ互角の鬩ぎ合いを見せていた。

 光と影、極大のエネルギーが鍔競り合う。ギ、と空間が軋むような音を立て、激突点の付近にあるものは、木も土も黒い影もまとめて蒸発した。一進一退の攻防を続ける宝具同士だったが、正面切っての力比べに耐えられなくなったのか、岩が抉れるような擦過音と共にそれぞれあらぬ方向へと弾け飛んだ。聖剣の一閃は斜め四十五度に逸らされて森を焼き払い、空を穿つように駆け登っていった光の竜は雲を微塵に吹き飛ばす。両者とも相手を仕留めきれぬまま、クレーターのように変貌した大地を挟んで相対する。

 衝撃が霞めたのか、セイバーの顔を覆い隠していたバイザーが壊れ、翠ではなく歪んだ黄金に染まった瞳が露になる。到底信じられない、という驚愕に満ちた眼差しは、自らの一撃に拮抗して見せた狂戦士に向けられていた。

 

 ──それは、有り得ぬはずの奇跡だった。

 

 聖杯戦争のシステムについて詳しくはない、俺でさえ分かる。今起きたことは、通常到底起こりえないものだ。英霊を召喚しやすいようにクラスという枠に当てはめたものがサーヴァント。狂戦士として呼び出された英雄から狂気を取り払うとは、クラスという概念をひっくり返すような横紙破りだ。俺が聖杯戦争を運営する側なら、そんなルール違反はそもそもできないようにしているだろう。

 しかし、今見たところ、イリヤに施された令呪は俺たちのものとは規格が違う。聖杯戦争という仕組みを作り上げた、いわばシステム側の立場であるアインツベルンなら、令呪やイリヤの体に特殊な能力を付与していたとしてもおかしくはない。加えて、ヘラクレスが理性を奪われていて尚、行動のところどころに知性の残滓が伺えるほどの桁外れの英雄だったこともプラスに作用したのだろう。

 

「我はゼウスの仔にして(ヘラ)の栄光──()()()()()。いざお相手願おうぞ、騎士王よ」

 

 場の全員の驚愕を受け止め、堂々とそう宣言する大英雄。荒れ狂っていた眼光、狂犬のごとき気配は消え失せ、代わってその声からは深い知性と経験が伺えた。暴力の体現者だったバーサーカーとは対極の、高潔ささえ感じさせる。それでいて、巌の如き威圧感は揺るがぬどころか、尚一層凄みを増していた。

 

「驚いた……まさか、貴公の理性を取り戻すとは。だが──その程度で、私の剣捌きは鈍らんぞ」

 

 ここに来て。俺たちの誰をも眼中に入れていなかったセイバーが、ようやく会話を始めた。人格が変貌したのか、それとも記憶が消えてしまったのかと思ったが、どうやら後者ではないらしい。どうして彼女が敵対しているのかは分からないが、再び剣士が聖剣を構える。敵がどう変わろうと、目的は変わらないというように。

 セイバーが聖杯戦争に参加したサーヴァントである以上、背景に何があろうとも、バーサーカーと戦うのはおかしいことではない。殺気を纏わせるセイバーと向かい合うヘラクレスは……ちらり、とこちらを振り向いた。

 彼が見ているのは、マスターであるイリヤ。その瞳には、我が子を見守るような温かな光が宿っていた。しばらく彼女と見つめ合った後で、ヘラクレスの眼差しがこちらにも向けられる。イリヤを守ってくれて感謝すると……言葉にせずとも伝わる大英雄の感謝の念は、思わずこちらが襟を正さねばならないと思うほどだった。命を奪い合ったこともある相手、それも格下の存在に敬意を払うとは、この英霊は高潔な武人なのだとその挙措だけで理解できる。

 そして最後に、大英雄はアーチャーを見つめた。理性を取り戻したヘラクレスに伍する、ともすれば上回っているであろう存在感を放つ英霊に、武人は僅かに笑みらしきものを零した。

 

「イリヤを頼んだぞ……黄金の王よ」

 

「業腹だが、貴様ほどの男の命を賭した嘆願となれば聞き届けぬわけにもいくまい、大英雄。ふん──今の貴様であれば、我が裁定する価値があるやもしれん」

 

「貴公と力を競うのは吝かではないが、今は騎士王という先客が控えている。それに、今の貴公は万全ではない。それでは私と戦うには不足だろう」

 

 さすがというべきか、ヘラクレスはアーチャーが力を使えないことを一目で見抜いた。暗に、まともな状態になってから出直せという言葉に忌々しげな表情になる弓兵だったが、事実なだけに肩を竦めてみせる他はない。これ以上の会話に意味はないと思って打ち切ったのかもしれないが、アーチャーが誰かにやり込められる場面など初めて見た。

 

「さて──待たせたな、セイバー。名高き騎士王と剣技を競えるとは、これに優る喜びはない」

 

 大弓は自在に出現させられるのか、握っていたそれを消すと今度は元々持っていた岩塊の如き大剣を構えるヘラクレス。見る見るうちに膨れ上がる闘気に、この距離でもセイバーの全身に緊張が走るのが見て取れる。

 狂戦士(バーサーカー)でなくなったヘラクレスは、今は如何なるクラスに属しているのか。弓矢を使ったあたり、アーチャーなのかもしれないが、ひょっとすれば何のクラスでもないのかもしれない。想定されていない掟破りを行った分、彼とて万全な状態ではないだろう。

 狂化によって極端に跳ねあげられていたステータスは、元に戻るどころか、おそらくそれ以下まで落ちている。彼が纏っていた、神気とも言うべき固有の気配もほとんど薄れているため、恐るべき防御と再生能力を付与していた十二の試練(ゴッド・ハンド)も残りのストックごと消えているに違いない。今のセイバー相手に、能力面では明らかに劣っていた。

 しかし……ヘラクレスはそもそも、武芸百般で名を馳せた偉大な戦士である。他の宝具は判らないが、約束された勝利の剣(エクスカリバー)にすら食らいついた弓矢もある。新たに備わったこの二つは決して失ったものに劣る能力ではなく、事実セイバーが向ける敵意は先ほどまでとは段違いに跳ね上がっていた。

 

「……行け」

 

 ここは引き受ける、という大英雄の言葉。当初の予定とは異なるが、セイバーの相手をヘラクレスに引き受けてもらえるなら、こちらは安全地帯に撤退できる。あの黒い影と間桐臓硯が不確定要素だが、この英霊ならば早々後れは取るまい。時間稼ぎには何の労苦もないはずだ。後は程ほどのところで撤退するなり、令呪で呼び戻すなりすれば良い。

 謎の狙撃手もヘラクレスの変化を警戒したのか、先ほどまで雨霰と射かけられていた矢の次射が来ない。逆撃をかけるにはさすがに手が足りないし、ここは退くのが最善手だった。

 

「バーサーカー」

 

 既に狂化は解かれているが、イリヤにとってはあくまで彼はバーサーカーなのだろう。大きな背中を、震える瞳で見上げる彼女は。

 

「……勝ってね」

 

 祈るように、小さく呟いた。

 

 

***

 

 

 アーチャーに守られながら、イリヤスフィールと二人の魔術師が撤退して行ったのを見届けると……ヘラクレスは、凄絶な笑みを伴って黒の剣士に斬りかかった。

 速力は明らかに落ちているはずなのに、その踏み込みは稲妻の如く。下からの切り上げで、辛うじて先手を凌いだセイバーだったが、その脅威に肌が粟立つのを抑えられなかった。

 

 ──強い。

 

 身体能力が落ちているはずなのに斬り込みの速度は寧ろ上回っている。これは、能力を技量で補っていることを意味する。極東の武術には、俗に縮地と称される間合いの詰め方があるが、ヘラクレスが今用いたのはそれに近いものなのだろう。返す刀で流れを変えるつもりが、あまりの速度にタイミングを見誤ったセイバーは、防戦一方に追い込まれた。

 セイバーは熟練の、そして際立った能力と技量を有する英雄だ。彼女ほどの力量になると、剣を交えれば相手の能力がある程度理解できる。名高き大英雄と剣戟を交えるうちに、彼女は一つの結論に至らざるを得なかった。

 

 ──この戦士は、自分より格上だ。

 

 英霊としての格で劣っているわけではない。純粋に武術の技量において、ヘラクレスの方が上を行く。これは騎士王が弱いのではなく、大英雄があまりに強すぎるのだ。彼女のみならず、全英霊中を見渡したところでこの男に比肩する技量を持つ者など片手の指ほどもいるまい。むしろ対等に戦えていることが、セイバーの優秀さを物語っている。

 円卓の騎士たちを思い出すセイバー。彼らの中にも、剣技で王を上回る者はいた。最強と謳われた湖の騎士など、その典型例だろう。しかし、今相対しているヘラクレスは、ともすればその上を行きかねない。同じ土俵で戦えば負けると悟った彼女は、莫大な魔力放出に物を言わせ、力任せに大英雄を打ち払った。

 並び立つ者のないヘラクレスの膂力は、伝承によれば山脈を築き、天空を支えるほどだったという。しかし、サーヴァントとして召喚され、諸々の条件によって能力の落ちている彼は、絶大な魔力供給量を誇るセイバーに力負けするレベルになっていた。

 

「ふむ……この力、尋常ではないな。貴公の主はただの魔術師ではあるまい。察するに、聖杯そのものと繋がっているな」

 

 黄金の英霊のような、神業めいた眼力ではない。生前の十二の難行で培われた経験、英雄としての武の技術、剣を交えた時の相手の動き──そういった諸々の要素から、彼は早々に結論に至った。アーチャーの鑑識眼が王としてのそれなら、ヘラクレスのそれは積み重ねられた戦士としての力量によるものだろう。

 黙して語らず、膂力差を活かした暴力的な剣技に切り替えて大英雄と戦うセイバーだったが、その沈黙が回答を雄弁に語っていた。今の彼女は、正しくサーヴァントと言える体ではない。

 柳洞寺において、彼女は黒い影に呑みこまれた。しかし、他の英霊たちと違って、彼女は致命傷を負っておらず霊格も無傷のまま。結果、分解されて吸収されるはずだった彼女は汚染物質を逆に取り込むような形で、確たる肉体を持って現世に帰還したのだ。それは奇しくも、第四次聖杯戦争で彼女の仇敵だった黄金の英雄王と同じ道筋だったが……その時とは、あまりに状況が異なっている。

 

「フ──ッ!」

 

「甘い……!」

 

 大上段に剣を叩き付けるセイバー。超人的な見切りで一撃を躱すヘラクレスだったが、剣士の隙に切り込むことは出来ない。彼女の凄まじすぎる一撃が、固い地面を砕いて岩塊を周囲に飛び散らせたからだ。バーサーカー時のお株を奪われたような攻撃に、たまらず彼は距離を取る。追撃するセイバーだったが、そのくすんだ瞳には強い執念のようなものが宿っていた。

 現世に戻ってこれたのは、彼女の強靭な意思だけではない。セイバーを飲み込んだ黒い泥の主が、手駒が欲しいと望んだためでもある。聖杯戦争の大本である大聖杯と直結しているマスター──正確には、マスターを操っている者──は、遠坂凛のマスター契約を強引に簒奪する形で、セイバーを隷属させたのだ。

 今のセイバーは、受肉こそしているが、アーチャーとは異なりマスターによる強い影響を受けている。加えて、彼女では聖杯が含有する()()に耐え切れず、汚染されたせいで人格や在り方は全て真逆の方向に捻じ曲げられてしまった。十年前、かの弓兵はその絶対汚染領域を平然と跳ね除けたのだが、あんな真似が出来る英霊……いや人類は、その歴史の原初から終焉に至るまで、あの英雄王ただ一人であろう。

 しかし、性質が汚染されていても、セイバーの力量は変わらない。むしろ、その脅威の度合いは数段跳ね上がっていた。半霊体であった時は不十分だった竜の心臓という魔力炉心は全力稼働しており、身体能力は桁違い。悪に転向したことで発生した凶暴性を抑えるため、一部の能力や敏捷値は犠牲になっているが、増大した攻撃力や防御力はそれを補って余りある。更には、彼女自身が生み出す膨大な魔力だけでなく、直結した大聖杯による後方支援。今のセイバーは、対城宝具である聖剣を何度も連射することさえ可能だ。

 

「──"約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)"……!」

 

 二射目。制御された一閃ではなく、無秩序な暴力で薙ぎ払うような一撃は、光の剣というより闇の竜だ。大地そのものを呑み込んで迫る暴虐の波に、しかしヘラクレスは臆さない。

 握っていた斧剣を躊躇なく投げ捨て、新たな武装を顕現させる。その剛腕に握られたのは大弓。バーサーカーのクラスから解放された彼は、どのクラスともつかぬ不安定な状態ではあったが、数ある武具の中でも代名詞たるこの武器だけは備わっていた。彼にとって最も相性が良い、アーチャークラスに引き寄せられているのかもしれない。

 巨躯である彼の身の丈ほどもある大弓を引き絞るヘラクレス。師であるケイローンより学んだ弓術が、彼の剛力と偉業と相まって、一つの宝具を形作る。神獣すら絶殺するほどの、英霊ヘラクレスの武芸の体現。其は即ち──

 

「"射殺す百頭(ナインライブズ)"──!」

 

 爆裂。解放された宝具、同時に撃たれた九連射は、一本一本が竜種もかくやという絶大な魔力を孕んでいる。聖剣の一撃に正面から激突した九条の矢は、光の奔流を喰らい、同時に喰われていく。星が造り上げた究極の宝具の一つを相殺してみせるヘラクレスの奥義は、強いなどという表現では生温い力を有していたが──光群が対消滅のように互いを打ち消し合って無に帰す姿に、彼は己の不利を悟った。

 

 ──このままでは負ける。

 

 聖剣と弓矢はほぼ互角、武具の性能差でヘラクレスの方がやや劣るかもしれないが、それも埋め合わせが利く範疇だ。問題は武具や個人の性能ではなく、彼らを支えるバックアップにある。

 ヘラクレスのマスターは、アインツベルンが特別に鋳造したイリヤスフィールである。多大な魔力を消費する大英雄の全力戦闘も、一会戦分程度であれば問題なく支え得るであろう。

 しかし、セイバーの背後にいる存在は桁が違う。聖杯そのものの支援を受けた彼女は、個人レベルの魔術師などとは比較にならない魔力を常に、ほぼ限りなく供給されている。宝具の撃ち合いを全力で続ければ、確実にヘラクレスの息が続かない。となれば、戦術を変える必要がある。

 対城宝具が相殺されたと見るや、魔力放出を活かして全力で突貫してきたセイバー。流麗な体捌きでその力をいなし、腕を掴むと背負い投げのように大地に叩き付けるヘラクレスだが、繰り出された蹴撃に胸板を叩かれ、トドメの一撃を刺すことに失敗する。無理な体勢で放った蹴りにも関わらず、剣士の力は大英雄の巨躯を弾き飛ばすほど。

 衝撃に逆らわず、距離を取るヘラクレス。騎士王が再度、聖剣の真名解放をしようとするが……それより早く、大弓から矢が放たれた。一手遅れたセイバーが、攻撃を断念して回避行動に移るも、放たれたのはあのレーザーめいた九連射ではなかった。

 

「これは……かつてヘラクレスに倒されたという、ステュムパリデスの鳥(西の戦神の使い魔)──!」

 

 上空から分裂して襲いくる矢群は、黄金の弓兵も用いた攻撃だが、ヘラクレスのそれは桁が違う。数十本に分裂した矢は、その一つ一つが猛禽類に姿を変え、全身を青銅で覆った怪鳥となって押し寄せてくる。

 ヘラクレスの難行の一つに数えられる、怪鳥討伐。ヒュドラの毒矢で射落とし、あるいは一羽ずつ剛腕で絞殺したと謳われる恐るべき怪物を、サーヴァントとなった彼は宝具として使役していた。本来はライダークラスで用いられる宝具なのかもしれないが、彼のクラスがアーチャーに寄っているが不確定なこと、この宝具が弓矢から放たれるものであることが発動を可能にしている。

 舌打ちしたセイバーは、中途半端に魔力を籠めていた聖剣を、解放するのではなく質量を伴った斬撃として使用した。魔力の刃に斬り裂かれていく怪鳥たちだが、生き残った一部が猛烈な勢いで騎士王の全身を啄もうとする。それらを叩き落とし、弾き飛ばし、鎧と魔力で凌ぐセイバーは、傷こそ負わなかったものの確かに隙を晒していて。

 

「受けよ──!」

 

 気付いた時には、ヘラクレスの斧剣が迫っていた。鋭い直感で気付いた剣士が、反射的に武器を振り上げて一撃を防ぐが……今までは無理な体勢からでも膂力差で打ち返せていたそれが、何故か今度は押し切られる。狂化していた時のような不可解な筋力値の増加に、危機感を抱いたセイバーは両足から魔力を放出させ、体勢を立て直すと同時に回転して蹴りを叩き込んだのだが。

 

「……硬い!?」

 

 弾き飛ばせるはずの一撃は、しかし手応えが薄い。全力の蹴りを、僅かに体が揺れた程度で受けきったヘラクレスは、ダメージを受けた様子もなく斧剣を振りかざし、セイバーはそのまま体を半回転させて魔力放出で軌道を操作することで、紙一重でその攻撃を避けきった。

 回避行動に連動した反撃。怪鳥を薙ぎ払った魔力の斬撃が下から放たれる。これにはヘラクレスも後退して距離を取り、その時間でセイバーは彼の体に帯のようなものが巻かれていることに気が付いた。

 

 ──宝具『戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)』。

 

 使用者の神性、及び筋力・耐久・敏捷・魔力をそれぞれ向上させる軍神の宝具は、かつて彼が十二の試練を乗り越える過程で、ヒッポリュテというアマゾネスの女王から簒奪した逸品である。これによって、ヘラクレスは減衰した身体能力をある程度補っていた。本来なら、補うどころか狂化していた時に匹敵する能力値まで向上させられるのだが、神秘が薄い現代という制約と、魔力消費量が多すぎることが足枷となっている。

 ヘラクレスはその功績と知名度に相応しく、多種多様な武具や能力を持ち合わせており、それらはサーヴァントとして召喚された状況に応じて宝具『十二の栄光(キングス・オーダー)』として顕現することがある。今披露したものはその一端だが、現在のヘラクレスに行使できるのはこの二つが限界だった。弓兵(アーチャー)のクラスに寄っていること、現在正規のサーヴァントとは呼べない状況であること、そしてルール破りをした反動が、他の十個以上の宝具や『十二の試練(ゴッド・ハンド)』を使用不能にしている。

 

 ……だが。

 

「今の私にはこれで十分だ」

 

 大剣と聖剣が、今度は互角の力でぶつかり合う。軍帯の加護があっても、膂力ではセイバーに劣るヘラクレスだが、岩塊の質量と体格差、そして技量によってその穴を埋めていた。

 豪放にして精確な剣撃を繰り出すヘラクレスと、暴力的なまでの魔力量に任せて力押しを図るセイバー。後者のそれは、奇しくもかつてその手にかけた円卓の騎士、子でもあるモードレッド卿の戦い方に相違していた。純粋な技術では及ばぬ以上、彼女がそのスタイルを採るのは必然だったのだが。

 総合点で見れば、全くの五分。魔力の斬撃や怪鳥の猛襲を交え、戦い続ける両者は千日手の状況に陥っていたが、敗北の流れを感じ取っていたのはヘラクレスだった。バックアップの差も大きかったが……宝具の応酬の余波で散逸していたはずの黒い影が、じわじわとその汚染範囲を増やしつつあるのだ。戦闘能力が互角である以上、片側に増援が加われば、拮抗した天秤は徐々に傾いていく。

 

「はぁ──ッ!」

 

 セイバーの突きが顔を掠めた時、ヘラクレスは決断した。この敵は短期決戦で仕留める。剣技を、武芸を競い合えないのは口惜しいが、今は主であるあの幼子の安否が気にかかる。自分の採りうる選択肢を、地形を、敵の動きを考慮し、瞬時に戦術を練り上げる。数秒の内に結論が導かれ、後は好機を伺うのみ。

 その判断は、セイバーも同様だった。彼女が命じられているのは、聖杯の器の奪取。今この場でイリヤスフィールを見逃せば、元マスターたちは必ず対策を立ててくる。殊にあの黄金の弓兵は厄介であり、もし記憶が戻ったとすればこのヘラクレスさえ上回る難敵となる。今すぐに敵を打ち倒して、追いつかなければならない。

 一際長い鍔迫り合いの後、二者が同時に距離を取る。騎士王は両手で聖剣を構え、大英雄の手には再びの大弓。最大宝具の激突が、三度行われようとして。

 

「"約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)"────!!!」

 

「"射殺す百頭(ナインライブズ)"──」

 

 同時に放たれた光の渦は、またしても互いを削り合うが、その違和感に気付いたのはセイバーだった。手応えが、あまりにもなさ過ぎる。

 九頭の竜は、一瞬ごとにその頭数をすり減らし、身を代償にして聖剣のエネルギーを削っていくが、その速度が今までとは違う。ほぼ同速度で消えていったはずの互いの魔力は、此度はセイバーの一撃に軍配が上がった。もしや魔力切れで十分な火力を出せなかったのかと思うが、直感がそれは否だと警鐘を鳴らす。

 暴虐の闇が竜たちを呑み込み、そのままの勢いで大地を焼き払う。威力が減衰したとはいえ、本来城塞攻略に用いられるほどの宝具は、遥か森の遠くまで木々と大地を一瞬にして溶鉱炉に変え、余波で火炎地獄を作り出した。これでは如何な生命体も生き延びられまいが──ぞっとするような悪寒に、反射的にセイバーが剣を翳すと。

 

「ふん──!」

 

 上空から、降下と同時に重い斬撃が振り下ろされた。体重だけでなく重力も加わったその一撃を、直感の読みもあって防御し切ったセイバーだったが、さすがにこれには力負けし、大きく態勢を崩す。その隙を見逃さず、大英雄は凄まじい速度で肉薄する。

 

 ──今の宝具は、布石だった。

 

 宝具同士の正面対決に持ち込むと見せかけ、それを煙幕代わりにする。今の弓矢は、意図的に威力を落としたものだった。それ故、放った直後の硬直時間が短く、光の激突に紛れて動くことが出来た。回避しきれなかった余波によって、皮膚のあちこちが焼け爛れ融解しているが、軍帯の加護と戦闘続行の技能が彼を後押しする。

 火力勝負で決着をつけるつもりだったのだろう、反動を度外視してまで宝具に魔力を叩き込んだセイバーは、骨や神経系に加わった負荷から回復し切っていない。それでも強引に魔力を流し、下段から反撃を繰り出そうとしていた騎士王だったが──それに先んじて、ヘラクレスが終幕の斬撃を繰り出した。

 

「──"射殺す百頭(ナインライブズ)"」

 

 光の束を放つ遠距離攻撃と同様の真名。故に、セイバーが束の間戸惑ったのも無理はないだろう。弓矢ではなく斧剣で、この間合いで使う宝具……?

 困惑は即座に驚愕に変わる。ヘラクレスが放ったのは、矢の九連射ではなく……ほとんど同時に繰り出される、剣による九連撃だった。脳天、眼球、首筋、心臓、肺腑、肝臓、上腕、腰椎、太腿──悉く人体の急所を狙った必殺の一撃が、九重になって迫りくる。反射的に聖剣を振り上げながら、頭部と内臓を守ろうとしたセイバーだったが、彼女は死神が首元まで迫るのを感じていた。

 ヘラクレスの宝具、『射殺す百頭(ナインライブズ)』。それは弓矢の名称ではなく、彼が極めた一つの武芸そのものを示す。凄まじい速度で放たれた複数の攻撃を一つに重ねることを本質とし、状況に応じてカタチを変える奥義。弓ならば弓、剣ならば剣、果ては槍や盾に至るまで、およそあらゆる武具において彼はこの技術を使うことが出来る。武器そのものではなく、戦闘技能が宝具となった例外。卓越した戦技を誇るヘラクレスだけが身に着けた、最強の戦術である。

 

「が、ぁ──ッ」

 

 近接戦、対人戦に於ける究極の絶技。それをまともに叩き込まれたセイバーは、鋼鉄が砕ける音と共に血を撒き散らして跳ね飛ばされていった。一つでも必殺足り得る斬撃が、九つ。霊核の宿る頭部と心臓を守り抜いた騎士王はさすがだったが、鎧もろとも四肢は完全に砕け、肋骨や一部の臓器も損傷している。即死していないのが不思議なほどの、到底戦えるはずがない深手だった。

 今のセイバーなら、ナイフを持っただけの子供であっても殺せるだろう。しかし──斬撃を放った状態のまま、大英雄はその場から動かない。回避不能と悟ったセイバーが自滅覚悟で放った一撃が、その胸板を深々と斬り裂いていたのだ。無料で命をくれてやるわけにはいかない、然るべき代償を払えと言わんばかりの一閃に、好敵手への敬意を籠めた笑みを漏らすヘラクレスだが、ダメージと出血量に耐えられずに膝をつきかけてしまう。騎士王の刃は、心臓の寸前まで届いていたのだ。

 両者共に、致命傷の半歩手前の状態。それでも、持ち前の頑健さの分だけヘラクレスが有利だった。まだ動ける彼は、得難い難敵と戦えたことに感謝の念を抱きつつ、介錯の剣を振り下ろそうとするが──

 

「────ぬ」

 

 動けない。気付けば、彼の両足には黒い鎖のようなものが絡みついていた。見渡せば、足元はおぞましさすら漂う黒い沼。一体いつからそこにいたのか──十メートルほど先。今まで姿を見せなかった、影の本体らしきもの。水風船に触手が生えた、軟体動物めいた異形が、ヒタヒタと嗤うように揺らめいていた。

 

「おのれ、小癪な……!」

 

 誇りある戦いに水を差す奸物の奇襲に、ヘラクレスが初めて憤怒の表情を見せる。奇襲や不意打ちは考えられる事態ではあったし、他の魔術師やサーヴァント……結局手出しをしてこなかったが、謎の狙撃手の介入も彼は十分考慮していた。隙を突かれたといえばそれまでではあるが、人間でも英霊でもない、意思があるのかさえ判然としない妖魔に取り込まれるのだけは誇り高い彼には許容できなかった。

 不可能と思われた十二の試練を潜り抜け、神の座に列せられた彼が、この程度の怪物に屈するわけにはいかない。かつて倒した、ネメアの獅子やヒュドラといった数々の獣に比すればなんということはない──!

 

「ぬぅ──ぉぉぉぉぉおおおおおおおッッッ!」

 

 裂帛の気合い。半ば自らの脚を引きちぎりながら、ヘラクレスが泥の沼から抜け出そうとする。じわじわと足の感覚がなくなり、何かに汚染されているのが分かるが、ならば足ごと置いていくまで。霊体のこの身であれば、いずれ再生も可能だろう。

 並の英霊であれば、囚われただけで死が確定する悪性の泥。だというのに、ヘラクレスは抗ってみせる。汚染など知ったことではない。英雄としての能力、武人としての誇りが、汚染速度を凌駕して彼を窮地から救い上げ──

 

 

「────"妄想心音(ザバーニーヤ)"」

 

 

 激痛。気が遠くなるほどの痛みの中、横を振り向いたヘラクレスは、髑髏の面が揺れているのを目撃した。この期に及んでようやく復帰したらしいアサシンは、彼と同様、胴体を大きく斬り裂かれていた。喘鳴を漏らしながらも、半ば千切れかけた魔腕はヘラクレスの胸の前まで伸ばされ、そこには砕けた偽の心臓が見えている。呪詛宝具の一種であると、彼の知性は判断した。

 しかし、壊れかけた肉体を薬物で誤魔化しながらの不完全な宝具解放。更には、『戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)』でただでさえ高い能力が軒並み強化されているヘラクレスには通用せず、呪いの共鳴は彼の心臓を破るに至らない。しかし、セイバーの斬撃によって傷ついている大英雄にはまともに衝撃が通り──この場においては、それだけで十分だった。

 膝をついたヘラクレス。その誇り高き巨躯を、黒い泥が覆い尽くしていく。アサシンの一撃は、脱出しかけていた彼の目算を挫き、汚染物質へと叩き伏せたのだ。激昂と苦痛を露にしたヘラクレスは、あっという間に底なし沼に沈んでいき……狂戦士として召喚された英霊の、それが最期の姿となった。

 

「……一矢報いたか。(シャー)に敗れた失点は取り戻せたな」

 

 荒い息を吐くアサシン。ヘラクレスという最大最強の英雄の一人を打ち果たしたはいいが、アーチャーにまともに斬り裂かれた体は既にボロボロだった。今転がっているセイバーや、消えたバーサーカーよりは多少マシというだけで、彼もまた致命傷の一歩手前の状態。麻薬で痛覚を誤魔化してはいるが、もう宝具など撃てる状態ではない。これ以上戦うためには、早急な治癒が必要だった。

 しかし途方もない敵だったと、アサシンは敬意すら籠めて大英雄の残滓に目を向ける。『十二の試練(ゴッド・ハンド)』という蘇生宝具を失い、能力を大幅に下げ、他の宝具にも制限が課せられた状態だというのに──ほとんど自らの技量のみで、あの英霊は騎士王と渡り合い、判定勝ちに持ち込んだのだ。自分の不意打ちと、黒い影という反則技がなければ、ヘラクレスは敵を打倒したばかりかそのまま帰還してしまっただろう。つくづく英雄とは恐ろしいものだと実感する。

 絶大な戦闘能力を誇るヘラクレスに、このアサシン……呪腕のハサンではまともな戦いを演じられなかった。あれと勝負ができるとすれば、全ての山の翁(ハサン・サッバーハ)の中でも、伝説とされる()()以外には有り得まい。

 

「いや……初代様ならアレより先に、不甲斐ないこの首を落としに来るか」

 

 暗殺教団の頭領であるハサン・サッバーハ。彼らは、今も生きているとされる初代の山の翁によって、首を断たれることで最期を迎えたという共通項を持つ。呪腕のハサンも例外ではなく、人生の最期にその姿を目撃し、同時に首を刎ねられた記憶を思い出すとなんとも形容しがたい感情に包まれる。

 どこからか鳴り響いていた晩鐘の音は、英霊となった今でも耳に残っているのだ。いかにかのヘラクレスが相手だったとはいえ、斯様な醜態を晒したとあってはもう一度首を断たれかねない。なんとか汚名を雪いだアサシンは、少なからず安堵を覚えていた。

 

「呵──呆けている暇はないぞ、アサシンよ」

 

「魔術師殿」

 

 そこに。焼き尽くされたはずの間桐臓硯が、湧き出るように現れた。遠坂凛の秘蔵の一撃を受けたというのに、まるで傷を受けた様子はない。

 それもそのはずであり、臓硯は人間ではなく蟲の集合体へと変じている。今この場にいる臓硯を如何に殺そうと、別の場所にいる予備の虫がまた体を再構築するのみ。純正の戦闘能力を大幅に削いだ代わりに、この魔術師は際立った生存能力を備えていた。

 

「ここで器を奪っておかねば、対策を取られかねん。儂の計画に感づくやもしれぬしな。念には念を入れるのが儂の手よ──アサシン、お主は早々にあの小僧どもを仕留め、器を持ち帰ってくるがよい」

 

 お前は人間の魔術師程度にも手こずるのかと、そう言外に滲ませた臓硯の命令。ボロボロの半死人に随分と無茶を言うとは思うが、幾度か醜態を晒している以上、アサシンに口答えする考えはない。誇りなどという概念からは遠く離れた身だが、暗殺者としての名に懸けてその程度はこなしてみせよう。

 だが、それはあくまで人間が相手の場合。あちらにはまだアーチャーが残っているし、戦闘に介入して来た謎の存在もある。これではさすがに難しいと言うアサシンだったが、臓硯は問題ではないと言いたげに杖を振ってみせた。

 

「ああ──先刻のアレは()()()()()よ。少なくとも、儂らの敵にはならん。今頃、あやつは衛宮の小倅のサーヴァントと戦っているだろうて」

 

 二人目のアーチャー……? それはアサシンにとって初耳だった。言峰綺礼に臓硯が悪巧みを吹き込んだ時、彼はその場にいなかったのだ。そして臓硯は、必要があるまでサーヴァントに真実を伝える必要を感じていなかった。魔術師である臓硯にとっては、アサシンはあくまで有用な駒に過ぎない。用心深い彼は、なるべく外に不要な情報を渡さないよう心掛けている。

 聖杯戦争の規則を覆すような存在には驚いたハサンだったが、それならば今見た理性を戻したバーサーカーなどという存在も同列だ。とうに正しい在り方から離れている今回の聖杯戦争においてはそういうこともあるのだろうと、生前暗殺者としての稼業に伴って権謀術数の世界に触れてきた彼は、ひとまずは納得することにした。そのイレギュラーが黄金の英霊を食い止めてくれているのであれば、残っているのは未熟な魔術師が三人。宝具を使えず、半ば死に体であろうとも、仕留めるには十分だろう。

 

「セイバーの復帰までは今しばらく時を要しよう。──行け、アサシンよ。これ以上儂に無様を見せるでない」

 

 臓硯の叱咤に小さく頷いたアサシンは、霊体化するとその場を去った。敵魔術師を追って森を疾駆する従者を見送り、臓硯は戦場跡に目を向ける。

 

「まったく、随分と手こずらせたものじゃ」

 

 自然豊かだった森は、もはや原型を留めていなかった。地面には隕石が衝突したかと見違えるようなクレーターが穿たれ、木や草の残滓さえ残っていない。数十メートル離れたところからはまた森が復活しているが、騎士王と大英雄が撃ち放った大火力宝具が幾本もの道を作り、その途上は溶鉱炉と化すか炎上している。ミサイルの雨でも降り注いだような滅茶苦茶な大地に残っている生命体は、臓硯を除けば倒れた騎士王と、まだうぞうぞと蠢く黒い影しかいない。

 セイバーには高い再生能力が備わっており、本体だけでなく聖杯による魔力供給もあるが、あそこまで傷を負わされては完全回復まで数時間──下手をすれば一日以上は要しよう。()()()()()()()()が深まっていれば再生能力を高められただろうが、今の時点ではこれが限界だった。

 その間、臓硯は武力による攻撃を控えざるを得ない。黒い影の方は、ある特殊な魔術と、媒介となる()()()()()()を用いることである程度制御しているが、それとて完全ではないし、細かく指示を出せるものでもないからだ。

 だが、多少番狂わせがあったとはいえ、事態は概ね彼の思う通りに進んでいる。聖杯の器はまだ手に入らないが、そちらはそもそも保険としての目的なのだ。難敵であったヘラクレスを打倒するという大きな壁は既に乗り越えた。町中に張り巡らせた蟲の情報網によれば、ランサーは既に倒されており、残っている敵サーヴァントはアーチャーが二体だけ。言峰の配下である一体は少なくとも敵ではなく、最終的には交渉でも解決できる問題だろう。つまり、残された壁は──黄金の弓兵と、三人の未熟な魔術師。それさえ倒せば、老人の悲願は叶う。

 

「呵々々々々──此度の聖杯は儂が手に入れる。肉が腐れ落ちる苦しみから、儂は解き放たれるのじゃ……!」

 

 真なる不老不死──数百年の時を生きた老魔術師の、唯一の願望がそれだ。蟲によって体を構成し、桁外れの寿命と生存能力を手に入れた臓硯だったが、それとて完全ではない。定期的に新しい遺伝情報、即ち生贄となる人間を取り込まねば体を維持できず、魂が腐り溶けていく苦痛からは逃れられない。そもそも何のために不死を目指したのか、そんなことも忘れ、老人はひたすらその妄執を胸に這いずっていく。

 焼き尽くされた森に、蟲の哄笑が響き渡る。戦局はいよいよ、最終局面に遷移しようとしていた──。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。