【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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20.失くしたもの

 

 ──彗星が舞う。

 

 瞬きの間に天空へと駆け上がり、そして落ちていく白銀の光。月すら霞むほどに輝くあれは、ライダーが従える天馬に違いない。本堂を挟んだ反対側にいるため、ライダーと対峙しているセイバーの姿は見えないが、あの騎兵は戦いに終止符を打つべく宝具を持ち出したのだろう。それはすなわち、未だセイバーが無事だという証左。

 天より落ちる落雷の如く、垂直に大地へと疾走する天馬。次の刹那には、敵のみならずこの寺すらも吹き飛ばしたであろう流星は──炸裂する直前、黄金の光によって呑み込まれた。

 

「え──!?」

 

 宙に浮くキャスターが、驚きに硬直する。いや、固まっているのは彼女だけではない。拳を撃ち放った葛木も、それを防いだ俺も、弓を構えたアーチャーも、全員が魅入られたように光の激突を見上げていた。

 永遠にも感じられた時間は、その実一秒にすら満たなかったのだろう。眩い黄金の刃は、天を裂く彗星を一刀の下に消滅させ、遥か彼方の雲さえ断ち割り、そしてそのまま、宙を舞うキャスターへと振り下ろされた。

 

「っ……!?!?」

 

 葛木を救おうと慌てていたのか、先ほどまでより数段高い位置を浮いていたキャスター。本堂より更に上に浮遊するサーヴァントの姿は、反対側にいるセイバーたちからも丸見えだったに違いない。それまで絶妙に位置を調整し、寺や林を遮蔽物としてセイバーたちから姿が見えないようにしていたキャスターだったが、一瞬の狼狽が、宝具の射線上に身を晒すという失態に繋がった。剣の英霊が、それを見逃すはずがない。

 だがまだ間に合う。光刃が直撃する寸前、キャスターが何かを口走る。恐らくは空間転移の呪文だったのだろう、魔女の背後にある空間が大きく裂け──

 

 

「──"妄想心音(ザバーニーヤ)"──」

 

 

 その瞬間。有り得ぬはずの()()が、キャスターの心臓を抉り出した。

 

「ご…………っ、え、な、……?」

 

 苦鳴と困惑。胸から鮮血を飛び散らせながら、キャスターの動きが停止する。生命活動そのものを破壊する一撃は、呪文を唱え終える猶予すら与えず、魔女の心臓を砕け散らせた。この予想外の奇襲は、アーチャーのものでもセイバーのものでもない。あたかもそこにいるのが自然であるかのように、影の奥で、髑髏の面が嗤っていた。

 一体いつからそこにいたのか。林の中、闇と同化したその存在。今この瞬間まで、誰にも気取られずに姿を隠し続けていたサーヴァント。全身を黒衣に包んだ異体に、不気味に浮かぶ白面。死神を思わせるその姿、あれこそは最後のサーヴァント、アサシンとして呼ばれた英霊に違いない。

 闇から伸ばされたのは、血のように赤い右腕。人ではありえぬ長さを有するそれは、さながら悪魔の呪いなのか。腕の先、握り締められた拳からは、砕かれた心臓の破片が覗いていた。

 

「──ぁ」

 

 胸に穴の開いたキャスターがよろめく。転移魔術は失敗し、纏っていた浮遊魔術すら解けたのか、ゆっくりと魔女が倒れていく。だが、重力に引かれるより先に、その体を黄金の刃が切り裂いた。

 霊核の宿る心臓を壊された上に、セイバーの宝具の直撃。如何なる英霊とて、これを受けて耐え切れる道理がない。俺たちを苦しめた魔術師(キャスター)のサーヴァントは──今宵、消滅を余儀なくされた。

 

「ふん、此処に来て暗殺者(アサシン)か──!」

 

 アーチャーが動く。弓の狙いはアサシンへ。遂に限界を迎えたのか、膝を付いた葛木を無視し、真紅の慧眼が暗殺者を見据える。

 キャスターを暗殺せしめたサーヴァント。その脅威を払わんと、黄金の矢が空を奔る。が、一瞬にして姿を消したアサシンには届かず、魔力の矢は虚しく木の枝を穿つに留まった。消えた暗殺者に、弓兵が舌打ちする。

 

「気配遮断か。死にたくなければ動くなよ、雑種」

 

 大弓を構えたまま、そう低く呟くアーチャー。次々と変化する局面に戸惑う俺は、それに頷くのが精一杯だった。

 今の今まで姿を隠し続けていた最後のサーヴァント、アサシン。自らの気配を完全に消す、気配遮断の能力を持つサーヴァントは、その力を最大限に活かし、絶好のタイミングでキャスターを殺害した。

 常ならば、結界と罠に覆われたキャスターの陣地にアサシンが踏み入るなど不可能。しかし、正門の罠はことごとくセイバーが破壊した。壁が取り払われたなら、暗殺者にとっては忍び込むことなど造作もない。こうなることを事前に想定しておくべきだった。

 間近で見たアサシンの宝具、妄想心音(ザバーニーヤ)。あれは呪いの塊だ。あの右手は物理的に心臓を抉り出すのではなく、仮初の心臓を作り出し、それを握り潰すことで対象の本物の心臓を共鳴させ、破壊する。要するに、悪質な藁人形のようなものだろう。そうでなければ、キャスターの胸から飛び出した心臓と右手で握り潰された心臓、二つが存在した事が説明できない。

 つまり、あれに近付かれれば、触れられれば即死。呪いによる攻撃は、物理障壁では防げない。あれはランサーの槍と同じく、発動させてはいけないモノだ。

 

「ぐ──キャス、ター」

 

 膝を付いた葛木が低く呻く。死に体にも関わらず、無理に打撃を繰り出し続けたせいか、傍目に見ても葛木の肉体は限界を超えていた。戦う余力どころか、明日の朝日を拝む力さえ既に残ってはいまい。

 アーチャーの奇策を受けてなお葛木が動き続けられたのは、キャスターの魔術のおかげだろう。だがそれもキャスターの死と共に消え、結果として葛木は完全に無力化された。これならば、もう倒す必要は──

 

「ち、避けろ雑種……!」

 

 ぐん、と乱暴に引き寄せられる。それがアーチャーによるものだと気付くより先、鼻先を何か鋭利な物が掠めていった。弾丸じみたそれは、直前まで俺の頭があった場所を通り過ぎる。直線ではなく弧を描くようにして飛来した凶器は、そのまま下に流れていき、

 

「──ぐ」

 

 寸分違わず。葛木の胸を貫いていた。

 ごぷ、と幽鬼の口から血が零れる。闇色の短剣(ダガー)は、葛木の心臓を正確に射抜き、背中まで貫通していた。あれではもう、どうあっても助からない。キャスターのマスターは、己が従者と同じく此処に倒れた。それに憤る余裕さえなく、次の短剣が襲い来る。

 先ほどのセイバーと同じだ。直線状に複数の標的を捉えることで、アサシンは一石二鳥を狙ったのだ。あの速度ならば、俺の頭を貫いてもなお葛木を殺すには事足りただろう。呆気なく命が失われていく光景は、悪い夢でも見ているかのようだ。

 だが、これは夢などでは断じてなく、今目の前にある現実。二人目の標的を殺害し、なおもアサシンの手は止まらない。何処から放たれているのかすら分からないが、風を切りながら次弾が飛んでくる。

 

「小癪な──!」

 

 煌く黄金に、金属音。新たに飛来した短剣を、大弓を振り回したアーチャーが迎撃したのだ。そのまま矢を撃ち放ったアーチャーだが、またもアサシンは闇の中へと溶けて行く。キャスターに支配されていた空間は、今やアサシンの狩場と化していた。

 

「くそっ……」

 

 悪態が漏れる。両手に握る投影武器が、棒切れほどの役にも立たない。いかに優れた武器を持っていても、使い手にそれだけの技量がなければ何の意味もない。ボロボロになった肉体では、飛来する短剣に対して、予測も回避も迎撃さえも困難だ。加えて、アサシンは攻撃するその瞬間まで自らの気配を覆い隠している。アーチャーの驚異的な先読みが無ければ、とうに討ち取られていただろう。

 目が霞む。気合いだけで持ちこたえているが、感覚器官は既に限界だ。構えた双剣の感触も虚ろ。身を酷使して投影した剣は、原典(オリジナル)の半分にも届いていない。未熟な衛宮士郎では、武器を完全に投影し切れず、十全にそれを振るうことさえ叶わない──。

 

「…………あ」

 

 そう思った途端。泡沫のように、黄金の双剣は溶けて消えた。術者が想像(イメージ)を維持できなかった投影品は、その綻びに耐え切れなかったのだ。それに伴って、痛みさえ朧げになった足がぐらりと揺れる。

 

「軟弱者が! 膝に力を入れろ、倒れるのは早いぞ!」

 

 そのまま倒れそうになる直前、アーチャーの叱咤が耳を駆け抜けた。頭を振り、飛び始めた意識を無理矢理覚醒させる。……そうだ。アーチャーが戦っているというのに、マスターである俺が倒れるわけにはいかない。アサシンとの決着は、まだ付いていないのだから。

 手を緩めず、執拗なまでに短剣を放ち続けるアサシン。暗殺者は気付かれずに対象を暗殺するのが正道だろうが、存在を察知されているにも関わらず場の支配権を握り続けるとは、流石はサーヴァントと言うべきか。徹底してマスターである俺を狙い続けることで、アサシンはアーチャーの行動を縛っている。

 無論アーチャーも何度も矢を撃ち返してはいるのだが、視えぬ対象を捉え、狙いを定め、矢を放つという手順を踏まなければいけないアーチャーに対して、アサシンはただ短剣を投げるだけでいい。その二手の差で、アサシンは易々と姿を晦ましてしまう。倒せもしないが倒されもしない、完全な膠着状態。

 

 ……が。ここにはまだ、もう一人サーヴァントが残っている。

 

「士郎、大丈夫!?」

 

 遠坂の声。セイバーを従え、赤いコートが風に靡く。ライダーを倒したことで自由に動けるようになり、こちらの掩護に駆けつけてくれたのだろう。だが、今迂闊に走るのは危険すぎる……!

 

「気を付けろ、アサシンがいる!」

 

「な──」

 

 瞬間。好機と見たのか、暗剣が闇を薙ぐ。しかし、一直線に遠坂を狙った凶器は、猛進したセイバーによって一刀の下に叩き落とされた。誇り高き剣士の護りは、短剣如きでは破れない。

 

「ぬ──」

 

 アサシンが止まる。暗殺者は時間をかけ過ぎたのだ。セイバーが来た時点で、アサシンの優位は潰えている。二人のサーヴァントを相手取りながらマスターを狙うのは不可能に近い。

 そして、どうするべきかというその迷いこそが命取り。既にセイバーは、アサシンの首を刈り取るべく全速で疾走していた。

 逃げようと言うのか、白面がすっと下がっていく。が、セイバーの位置は目と鼻の先。これほど距離を詰めていれば、気配遮断など意味を為さない。牽制に短剣を放つアサシンだったが、セイバーはそれを物ともせずに猛追していく。一瞬にして、二騎のサーヴァントは林の奥へと消えていった。

 

「アサシン……!? 士郎、アンタは無事なの?」

 

「ちょっと無茶したけど、アーチャーのおかげで何とか大丈夫だ。それより、セイバーに伝えてくれ。あのアサシン、近付くとまずい宝具を持ってる」

 

 視界が半分ぐらついているが、それを気力で捻じ伏せる。まだ、まだ倒れるわけにはいかない。

 セイバーとアサシン、直接の戦闘能力では勝負にもならないだろうが、アサシンにはキャスターをも屠ってみせた必殺の宝具がある。その存在を知らないセイバーにとって、あれは危険すぎる。

 手短に『妄想心音(ザバーニーヤ)』の存在を伝えると、遠坂の表情が深刻さを増した。近付くと無条件で相手を呪殺する宝具など、厄介にも程がある。ランサーの『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』と同じで、単純な防御能力では防ぎ切れないのだ。

 

「分かったわ。セイバー、聞こえる? ……セイバー? おかしいわね。セイバーとのパスが乱れてる……ひょっとすると、キャスターが何か仕掛けてたのかも」

 

 俺にも状況を把握できるようにするためか、口に出しながら念話を繋ごうとする遠坂。が、普段は問題なく伝わるはずのそれが、今に限って上手くいかない。

 セイバーに倒されたとはいえ、ここはキャスターの陣地。仕掛けの一つや二つはあってもおかしくない。倒されてもなお俺たちを妨げる魔女の手に、遠坂が焦りと怒りを同時に見せる。

 

「仕方ない……わたしがセイバーの後を追うわ。士郎はここでアーチャーと待機してて」

 

「でも気を付けろよ、遠坂。あのアサシン、しつこくマスターを狙ってくる。下手をすると、セイバーの──」

 

「──足手まといになる? ふん、そんなヘマはやらないわよ。それより、わたしがここに戻るまで士郎は動かないこと。いいわね?」

 

 有無を言わせず詰め寄る遠坂に押され、たじろぎながら頷く。俺が動ける状態でないというのは、遠坂にはお見通しだったようだ。

 石畳を蹴り、宝石を握り締めた遠坂が林の奥へと消える。その姿を見送ると同時、限界を迎えた体が、遂に力を失って地面に崩れ落ちた。

 半人前に過ぎない魔術師の俺が、英霊の武器を投影する。自分の領分を超え、無茶をしでかした結果がこれだ。格上の神秘に挑もうとした代償は、ハンマーのように俺の全身を打ち据えていた。

 

「──身の程知らずめが」

 

 俺を見下ろしているのか、アーチャーの声が上から降り注ぐ。氷のような冷たさには、等分に不快感と怒りが混じっていた。

 

「貴様の如き雑種が、我の剣を真似ようだと? ──無礼者。薄汚い贋作なぞが真作に届くものか」

 

 倒れ込んでいる今、アーチャーの表情を窺い知ることはできない。しかし、その不機嫌さだけは、声を聞かずとも十分に理解できた。

 自らが愛用する剣を、目の前で魔術師見習いに模倣されたのだ。傲慢さの塊とも言えるこの男にとって、そんな侮辱が見過ごせるはずもない。ともすれば首を刎ねられるのではないかと思うほど、アーチャーは怒気を漲らせていた。

 

「──だが」

 

 ざり、と石を踏む音。向きを変えたのか、アーチャーの声が遠ざかる。それと同時、何の気紛れか、男が放つ怒りの気配が鎮まっていった。

 

「僭越も甚だしいが、貴様は確かに我の命を救った。その功に免じ、此度の不敬は不問とする」

 

 次はないぞ、と言外に滲ませつつ、アーチャーは尊大にそう言い切った。この英霊らしからぬ寛容さに、驚きの感情が生まれる。愛剣の複製という無礼はアーチャーにとって憤怒の対象だが、結果的に助けられたという事実がその怒りを上回ったらしい。

 ……だが。白状すれば、次同じことをしてまだ生きていられる自信はない。今度こそアーチャーの逆鱗に触れるだろうという懸念もあるが、それ以上に、投影魔術は俺の身には過ぎたモノだ。ただ一度、本物の半分にも届かない性能(スペック)を再現しただけで、体が悲鳴を上げている。何度も同じことを繰り返せば、確実に俺は廃人となるだろう。

 衛宮士郎の本質は、投影。それが本当だというのなら、真に迫る偽物を生み出すことができるだろうに──。

 

「生きているならば立て、雑種。幕切れにはまだ早かろう」

 

 飛びそうだった意識を、黄金の声が引き戻す。ああ、確かに。まだセイバーたちは戦っている。こんなところで寝ているわけにはいかない。

 痛みを無視し、腕で上体を起こすと、ふら付きながらもそのまま立ち上がる。アーチャーは既に興味を失ったのか、立ち上がった俺には目をくれることもなく、セイバーたちが消えて行った林の奥を見つめていた。

 

「しかし、腑に落ちぬな。あの暗殺者(アサシン)、何故退かなかった──?」

 

 大弓を携えたまま、アーチャーが低く呟く。確かにそれは、疑問と言えば疑問だった。

 アサシンの役割は暗殺。サーヴァントやマスターと正面切って戦うクラスではない。闇に潜み、裏をかき、隙を突いて対象を暗殺せしめるのが本来の役目。その点で言えば、先ほどキャスターを仕留めたアサシンは、まさにその名に相応しい動きぶりだった。

 だが、その後はどうか。既に居場所は露見したというのに、それでも執拗に攻撃を仕掛けてくる不可解さ。あれほどの腕前なら、アーチャーには勝てないことも、時間が経てばセイバーが駆けつけることもとうに知っていたはず。にも関わらず、セイバーが間近に迫る瞬間まで、アサシンはこの場に留まり続けた。本来の役割からしてみれば、それは明らかな下策。

 英霊となったほどの暗殺者が、意味のない愚行に及ぶはずがない。だとすれば、一見して理解できぬその行動さえも、アサシンにとっては計略の内。偶然ではなく、この状況を作り出すことこそが、そもそもの狙いだとすれば──?

 

「──ふん、そうか。端から()()()()()()()か。そうでなければ釣り合いが取れん。偶然と捉えるには、この展開は都合が良すぎる」

 

 そう言うと、黄金の英霊が忌々しげに舌打ちする。今の口ぶりからするに、この男は俺が気付いた事実だけではなく、何か深いものに思い当たったようだが……。

 

「とはいえ、所詮は遊戯。盤上の動きなど我の知ったことではないが──虫如きに踊らされるのは腹立たしい」

 

 アサシンが消えた林の奥。セイバーと遠坂が後を追い、今は誰もおらぬその方向へと、真紅の瞳が向けられる。不快感も露に、誰も居ないはずの空間を、アーチャーが冷たく睨み据えていた。まるでその先に潜む何かが、気に食わぬとでも言うように。

 遠く、刃がぶつかる金属音が聞こえる。それは未だ、セイバーとアサシンが健在である証。今はまだ良い。しかし、アサシンがどのような手を使うか判らぬ以上、次の瞬間もセイバーが無事であるとは限らない。暗殺者が誘う罠は、如何なる敵であれ屠り去る必殺の牙に相違ないのだから。

 

「追うぞ雑種。セイバーは今ここで失うには惜しい女だ」

 

 背を向けたまま、アーチャーが一言そう告げる。返す言葉などなく、俺の結論は既に決まっていた。

 

 

 

***

 

 

 

 暗剣が奔る。

 人中、咽喉、水月。牽制などなく、悉くが急所狙いの短剣。闇に紛れた投擲、それも影すら見えぬ黒塗りとあっては、知覚さえも出来るかどうか。狙われた者は、無残に屍を晒すが結末。

 

「チ──」

 

 しかし、死の遣いを放った髑髏は舌打ち。同時に放った剣は三条。針の穴を射抜くほどの精度で放たれたそれは、アサシンの名に相応しくどれもが必殺足りえる鋭さを誇っていたが……この相手には、石礫ほどの効果もなかった。

 

「ハ──!」

 

 縦に一閃。セイバーが剣を振るうだけで、短剣はあらぬ方向に弾かれる。剣士の持つ驚異的な直感は、見えぬはずの攻撃さえも容易く防ぎ切っていた。

 アサシンが投げ、セイバーが防ぐ。既に四度繰り返された攻撃は、一度たりともセイバーには直撃せず、アサシンの手札を意味なく浪費するだけに終わっていた。それに意味があったとすれば、アサシンの余命を幾許か延ばしたという点のみ。近付かれては、暗殺者には勝ち目などないのだから。

 魔力を噴射し、木々を薙ぎ倒して走るセイバー。アサシンとの距離は縮まったが、しかし必殺の間合いにまでは至らない。人体の構造上、後退りながら疾走するという行ためは不可能であるはずなのに、それを易々と成し遂げるアサシンの奇怪さ故だった。

 

 元より、アサシンとは正面戦闘を得意とするクラスではない。知名度で劣り、能力で劣り、英霊としての格でも劣る彼らは、あらゆる策を練り、闇に紛れて"暗殺"に及ぶ他戦いようがない。アサシンが、サーヴァント中最優と謳われるセイバーと一騎打ちをするなぞ、下策中の下策。今の展開は、アサシンにとっては不利と言うほかない。

 だが。それを理解していながら、セイバーに油断はない。確かに能力では圧倒していようが、それが勝利に繋がるとは限らない。彼女が戦場の王者ならば、アサシンこそは人殺しの英雄。前回の聖杯戦争にて、数十にも及ぶ分身を生み出したアサシンを覚えている彼女は、非正規戦闘における暗殺者の強さを十分に理解していた。もしも以前のマスター、衛宮切嗣がアサシンを使役していたならば、聖杯戦争は数日と経たずして決着を見ただろう。

 

 ──故に、ここで倒す。

 

 ぎり、と握り締めた剣に力が籠る。間合いは遠く、アサシンを斬り伏せるには今数歩分の距離が足らぬ。それを承知しているが故に、アサシンは必死でセイバーから遠ざかり──そしてそれは、セイバーの望むところでもあった。

 約束された勝利の剣(エクスカリバー)。ライダーを乗騎ごと葬り去った一刀は、数ある聖剣の中でも頂点に位置し、攻性宝具としては破格の性能を誇る。威力、射程、範囲のいずれも絶大なそれは、軍勢を相手取る域にすら留まらず、要塞攻略戦さえもを可能とする対城宝具に分類される。その一撃を以てすれば、アサシン風情では逃げることさえ叶うまい。

 しかし、圧倒的な性能を誇る反面、セイバーの宝具は燃費が悪い。莫大な魔力消費を伴う宝具を、既にライダーへと使用している以上、無暗と乱用すれば現界にまで支障を来そう。アサシンはそう判断しており、客観的に見てもそれは正しい考察だったが……この場に至っては、それは致命的な誤りだった。確かに、マスターが並の魔術師であれば、対城宝具の真名解放など一晩に一度できれば上々と言えただろう。

 だが……アサシンにとって不幸なことに、此度のセイバーのマスター、遠坂凛という魔術師は、並という域を遥かに上回っていた。彼女のバックアップがある限り、セイバーは切り札である約束された勝利の剣(エクスカリバー)を連射することさえ可能だ。聖杯の補助がなくともサーヴァントを現界せしめることが可能なほどに、凛の魔力保有量は並外れている。

 

「────」

 

 宝具を解放すれば勝てる。セイバーの戦術的思考は、そう結論を出していたが……一方で、彼女の鋭い直感は、それは悪手であると警鐘を鳴らしていた。

 アサシンの能力は把握した。宝具こそ未だ不明だが、この距離なら発動する隙すら与えまい。この場に陣取っていたライダーとキャスターは、共に消滅を確認した。恐れるものと言えば、まだ見ぬアサシンのマスターのみ。……けれど、違う。それ以外に、まだ何かある。あのアサシンは、何か()()()を持っている──。

 

「ぬ──」

 

 唐突に、セイバーの視界が開ける。林を走り抜けたのか、今彼女がいる場所は、柳洞寺の裏手に広がる池だった。その畔に立つ髑髏の面を認め、セイバーもまた足を止める。

 

「どうしたアサシン。手品の種はそれで終わりか」

 

 油断なく剣を構え、そう訊ねるセイバー。常の彼女ならば、挑発など用いずとも、一刀の下に追い詰めた敵を斬り捨てただろう。だが今は、理性と直感、その双方がこの現状には裏があると告げていた。

 アサシンの背後には池。それなりの深さがあるそこは、霊体化をせぬ限りは渡れまい。だが今霊体に移ろうとすれば、立ちどころに討ち取られる。セイバーに攻撃が利かず、逃げ場もなく、気配遮断さえ通用せぬ距離とあっては、アサシンに勝ち目はない。暗殺者の命は風前の灯であるはずなのに──それでもセイバーは、踏み込むことができなかった。

 

「…………」

 

 対するアサシンは、無言。一拍の間を置き、射出の瞬間さえ見えぬ投剣が、返礼として放たれた。

 

「悪足掻きを……!」

 

 火花が散る。聖剣の一薙ぎが、短剣を防ぐどころか砕け散らす。いかに見えぬ投擲といえど、開けた空間ならば脅威にもならない。アーサー王に、そのような小細工は通じない。

 これと同種の攻撃を、セイバーは既に経験している。前回の聖杯戦争に於いて、黄金のアーチャーが見せた投擲攻撃。一つ一つが宝具に匹敵する神秘……否、宝具そのものである武具を、次々に射出するその異様。目にも留まらぬ速度で、概念を孕んだ弾丸を機関銃の如く撒き散らす脅威に比べれば、アサシンの投剣など万分の一以下の効力であろう。

 幾度繰り返そうと、アサシンの攻撃は無意味。それは当の本人も理解していたのか、僅かに稼いだ一瞬の間で、アサシンは撤退行動に移った。背面に目が付いているかのような動きで、池の上を滑っていく暗殺者。如何様にして水上を馳せるのかは不明だが、確かにそれは道理に適った動きだった。勝てぬ相手ならば、撤退するのが戦術の基本。

 

 ──もっとも。セイバーに、遠距離攻撃の手段がなければだが。

 

 ごう、と聖剣に魔力が注がれる。遮る物のない水上の敵など、この剣の前では的にしかならない。神造宝具の威光を以てすれば、池ごと蒸発させて余りある。アサシンが池を渡りきり、山中へ逃げ果せたとしても、対城宝具ならば山ごと切り裂くことすら可能だ。宝具で対抗しようにも、暗殺者風情の神秘では聖剣には抗えない。

 それでも、アサシンは侮れぬ。確実にここで打倒しきるためには、もう数歩踏み込まねばなるまい。池の中に入ることになるが、数多の精霊の加護を受けたセイバーならば、アサシンと同様水の上を滑るなど自在。故に、セイバーは池の上に踏み入り──

 

「──フ。一手誤ったな、セイバー」

 

 そこが蜘蛛の巣と気付いた時には、何もかもが遅かった。

 

「────あ」

 

 一体、何時から変わっていたのか。池を埋め尽くすのは水ではなく、海より尚深い"影"だった。

 泥のように。毒のように。水のように。闇の化身とも言うべき魔性が、セイバーの身体を蝕んでいく。ソレに自ら飛び込んだ時点で、彼女はもう囚われていたのだ。

 

「警戒するべきだったのは私ではなく、この池の方だったのだ。……惜しいな。端から宝具を使っていれば、こうはならなかったものを」

 

 意識が薄れる。池の向こう、髑髏の面を見せて笑う敵。無防備なアサシンに対して、セイバーは何もできない。自らを侵そうとする影に抵抗するため、彼女は全ての力を振り絞っていた。

 英雄としての強さ。英霊としての神秘。そんなものと関係なく、この影はサーヴァントを侵食する。否、サーヴァントだけではない。この影は欲望のままに、あらゆるモノを求め、屠り、喰らう悪夢。一度出会った時点で、セイバーは気付くべきだったのだ──こんなモノが在る時点で、聖杯戦争は破綻していたのだと。

 一瞬ごとに、セイバーの存在感が薄れていく。数多の英霊たちの中でも最上級、世界に名だたる騎士王が、抵抗すらできずに呑まれていく。一流の魔術師の下、生前に近い力を得たセイバーが、貯蔵魔力の総てを注ぎ込んでなお数十秒さえ耐えられない。この敵は、明らかに異常過ぎた。

 苦しみ悶えるセイバー。この瞬間、戦局は完全に逆転していた。遥か対岸にて、アサシンが面を鳴らして薄く笑う。ここに来て暗殺者は、初めて人間らしい感情を露にしていた。

 

暗殺者(アサシン)とは、元より戦う者ではない。闇に潜み、闇に誘い、闇へと敵を惹きこむ者。故に私は、おまえと戦うのではなく、ただここへ導けば良かった。この真夜(アルヤル)に踏み込んだ時点で、おまえの敗北は決まっていたのだ。

 ──さらばだ、セイバー。悪魔(シャイターン)に呑まれて果てるがいい」

 

 アサシンの姿が掻き消える。霊体化したのだろうが、今はそちらに構っている余裕はない。このままでは消える。その前に、この両足を斬り落としてでも、今すぐ脱出しなければ──!

 

「セイバー、大丈夫!?」

 

 ……が。この時ばかりは、天運が彼女に味方しなかった。

 林から現れたのは、セイバーの主たる遠坂凛。一目で場の異常を悟り、従者の窮地までもを把握したのは、彼女が持つ聡明なる頭脳故だろう。思考は一秒、刹那の間に下された判断に従い、凛は躊躇わず切り札を切った。

 

「──令呪を以て命じるわ。セイバー、今すぐその場を…………ッ!?」

 

 右手を掲げ、二度目の令呪を使おうとした凛。だがその瞬間、己が悪手に気付いた彼女は、血相を変えて硬直した。

 眼前に広がる影の特性。魔力を狙うというその性質を、凛は他ならぬセイバーから聞いていたはずではなかったか。セイバーの窮地に気を取られ、僅かに鈍った判断力。凛が失態に気付く、そのコンマ数秒の間で、知性を持たぬ影たちは、おぞましく動き出していた。

 池の中から、泥の触手が瞬時に伸びる。サーヴァントすら捕える異形の蔓、人が触れればその途端に正気を失おう。それ自体が大魔術であり、膨大な魔力を秘めた令呪の発動は、この状況では致命的な誤りだった。

 

「──っ」

 

 時間が凍る。

 飛び退こうとする凛。だがそれよりも、明らかに影の方が速い。毒沼に囚われ、薄れていく意識の中で、セイバーは主が呑み込まれる未来を確かに見ていた。

 

 ──許せない。

 

 この身は何のために召喚に応じたのか。勝利を齎すどころか、主の身さえ満足に守れないのか。そんな愚行を、この身は何度繰り返すつもりか。

 ブリテンでは、民も友も臣下も失い、己が子さえもをこの手に掛けて。十年前は、仮とはいえ主であったアイリスフィールを守れず、かつての臣下であったランスロットの命を奪い。その果てに、真の主である衛宮切嗣には、最後の最後で裏切られた。

 何一つ結果を出せなかった。自らの過ちで、裏切り、裏切られ、残った物は涙だけ。異なる時代、異なる世界に召喚されても、辿る末路は同じなのか。その結末を変えるべく、自分は聖杯を求めたのではないか。

 

「…………ぐ」

 

 彼女を捕えた影が蠢く。昏い沼へ誘おうとするそれは、死者の怨念にも似ている。かつて自分が切り捨てたモノ、それが形となったのか。ならば、この身が逃げ出せぬのも道理だろう。時間を超え、空間を渡っても、罪という呪いは消えないのだから。

 だが、だからこそ許せない。そんな結末は認めない。業を担うべきは自分一人。あの可憐な主を、この影に呑ませるわけにはいかない──!

 

「は──あ、ああああああああ──っ!」

 

 残余魔力を顧みず、全身から魔力を放出する。無駄な抵抗であろうとも、一秒、ほんの一秒稼げればそれで良い。

 ぶちぶちと、足から聞こえる嫌な音。既に染まりきったのか、感触さえ虚ろな足が、身体から千切れていく。構わない、そんなものはどうでも良い。剣を握る腕さえ残るのならば、この足などくれてやろう。

 残された、全ての魔力を宝具に込める。輝ける刀身が見え隠れするが、風の結界が解ける暇さえ遅すぎる。轟と唸る風は、さながら竜の咆哮の如く。ならばその一閃は、怒れる竜の息吹そのもの。

 

「──"約束された(エクス)"」

 

 振り上げられる聖剣。侵食されたその身は、既に視界さえ危うく、動くことすらままならない。されどもその翠の瞳は──己がためすべき道を、毅然と見据えていた。

 

「"勝利の剣(カリバー)"──!!!」

 

 騎士王の振るう最強の聖剣。その真名解放の前に、影如きではどうして抗えようか。本来の威力からはほど遠くとも、込められた魔力が足りずとも、それでも黄金は色褪せない。放たれた光刃は、凛へと襲い掛かる無数の影、その悉くを消滅させた。

 

「────あ」

 

 しかし、奇跡には代償が伴うもの。この場で凛を救う奇跡を引き起こすためには──自らの身を、影へと差し出すほかなかった。

 力なく落ちた右手から、黄金の聖剣が零れ落ちる。ぼこりと音を立てたそれは、光の残滓を纏わせながら、影の中へと沈んで行った。消えた愛剣を見て、己が末路を悟った剣士は、残された力で僅かに唇を噛む。

 今のが、最後の力だった。影に囚われたといえど、圧倒的な魔力量を誇るセイバーならば、それでも離脱できただろう。だがそのための魔力は、たった今使い果たしてしまった。ライダーとの戦闘、影に奪われた魔力、二度に亘る神造宝具の真名解放。如何に騎士王であろうとも、既に限界を超えていた。

 ずぷり、と体が埋もれていく。足ばかりか、既に胸までを覆い尽くした黒い影。不吉な気配は、彼女の身体ばかりか、その内面までもを汚染し始めている。

 ……ならばもう。力の残らぬ剣の騎士に、逃れる術などありはしなかった。

 

「──申し訳ありません、凛」

 

 そう静かに言い残すと。最後に、何か叫んでいる凛の姿を一目見て……セイバーの意識は、そこで途絶えた。

 

 

 

***

 

 

 

 そこに辿り着いた時。一目見て、もう終わってしまったのだと理解した。

 

「………………っ」

 

 境内の裏手に広がる池。その畔で、こちらに背を向けている遠坂。この場にいる人影は彼女一人で……アサシンも、そしてセイバーの姿も、影も形も見当たらなかった。

 気味が悪くなるような静けさ。濃密で甘く、例えようもなく不快な臭い。そして、生物無生物を問わず、周囲の全てから奪い去られた魔力。まるで、土地そのものが死に絶えてしまったかのように、何一つ動く物はない。

 この異常さ。本能的な恐怖を感じさせるそれを、この空間に現れていたであろう死神を、俺は確かに知っている。そして、あれに捕らわれた者がどうなるのかも。

 

「……遠坂。セイバーは」

 

 と。恐ろしい想像を拭おうと、遠坂に話しかけようとしたところで……気付いた。気付いてしまった。

 握り締められ、細かく震えるその右手。マスターである証、サーヴァントとの契約そのものを示す令呪。遠坂の右手に輝いていたはずのそれが、死んだように薄れている。あれだけ存在感を放っていた令呪が、今や見る影もなく、その力を失っていた。

 令呪が失われる条件は限られている。三画全ての令呪を使い切るか、他人へ譲渡、或いは剥奪されるか、令呪を宿したマスターが死亡するか。それとも……契約を交わした対象である、サーヴァントが失われたか。

 

「────」

 

 答えは、一つしかない。剣士(セイバー)のサーヴァント。小柄な少女でありながら、並みいる英雄たちに一歩も劣らなかった英霊。誰よりも誇り高かった彼女は──ここで、あの影に敗れたのだ。

 

「…………ふざけんじゃないわよ」

 

 軋むような音。背を震わせ、歯を噛み締めながら、遠坂が怒りを露にする。

 それはセイバーを救えなかった自分自身への怒りか。セイバーを打倒した、未知なる敵への憤りか。それとも、理不尽な現状への悔しさか。烈火の如く燃え盛る怒気は、今までに見た事もないほど激しいものだった。

 ぽたり、と僅かに水の音。見れば、砕けるのではないかというほど握られた遠坂の拳から、赤い液体が滴っていた。余りに力を込めすぎて、爪が皮膚を食い破っているのだろう。

 

「戦いの結果ならいい。ちゃんとした敵と戦って、全力で向き合って、その結果負けたのなら、まだしょうがないって言える。諦めもつく」

 

 でもね、と続ける遠坂。その、今にも壊れそうなか細い声だけで……彼女が今どんな顔をしているのか、ありありと分かってしまった。

 

「おい、遠坂」

 

「あんなヤツに……サーヴァントでもない、あんなふざけたヤツにセイバーがやられるなんて、そんな話があっていいわけないでしょう!?

 あの子、最後に何て言ったと思う? 『申し訳ありません』って……わたしのせいで捕まったのに、わたしが謝らなきゃいけないのに、セイバーは……!」

 

 俺の言葉を遮り、絞り出すように遠坂が言葉を漏らす。支離滅裂で、途切れ途切れの内容ではあったが……それでも、おおよその状況は分かってしまった。

 アサシンと戦っていたセイバー。いくらアサシンが強力な宝具を持っているとはいえ、あのバーサーカーとさえ真っ向からやり合えるセイバーが、早々後れを取るはずがない。

 あの黒い影も同じだ。魔術師でもサーヴァントでもない、全く未知の脅威だが、セイバーは一度あの怪物と相対している。一度見た敵に、こんなに短い時間で倒されるとは考えにくい。

 であれば、結論は一つ。アサシンと黒い影は、最初から連携していたのだ。キャスターを倒し、派手に動いてからセイバーを誘い込み、あの影に飲み込ませる。サーヴァントさえ飲み込むような怪物を、アサシンが、或いはそのマスターがどうやって使役しているのかは分からないが……アサシンを追った時点で、俺たちは敵の術中に陥っていたのだ。

 

「くそっ……」

 

 堪えきれない感情に、近くにあった木を殴りつける。先ほどまでの、今にも倒れそうな気持ち悪さなど、この現実の前には吹き飛んでしまっていた。

 こんなに……こんなにもあっさりと、一人の少女がいなくなってしまう。セイバーは確かにサーヴァントだったが……それ以上に、この数日間を一緒に過ごした、大切な仲間でもあったのだ。これが命の奪い合いだということも、こんな結末がありえるということも、最初から分かっていたはずなのに──この現状に、どうしようもなく吐き気がした。

 ライダーを倒した。キャスターも倒した。キャスターのマスターだった、葛木宗一郎も死んだ。だが、その勝利の代償に……俺たちは、取り戻せない物を失くしたのだ。

 

 俺の頼みで、剣技を教えてくれたセイバー。

 アーチャーといがみ合いながら、将棋を指していたセイバー。

 嬉しそうに、次々と料理を口にしていたセイバー。

 

 彼女の垣間見せた感情が、次々と頭を過っていく。けれど、それがどんなにかけがえのないものだったとしても。あの美しい少女は……もういないのだ。

 

「……アーチャー」

 

 そこで。微かに響く足音に、横に立つ黄金の青年を仰ぎ見る。この男は、セイバーをやけに気に入っていた。いくら傲岸不遜な男でも、この現状に一言ぐらいはあって然るべきだろう。

 だが。

 

「────」

 

 無表情。冷笑。或いは怒り。

 常に一歩引いた態度で、どこか見下ろすような、観察者としての立場を崩さずにいたこのサーヴァントが……そのどれでもなく、今までに初めて見せる感情を浮かべて立ち尽くしていた。

 あの始まりの夜に、教会で見せた顔にも似通っているが、違う。疑問、困惑、そして戸惑い。既視感(デジャヴ)のように──今目の前の光景に見覚えがあるが、それをどこで見たのか思い出せない。そういう、どこか腑に落ちぬという感情が浮かんでいた。

 王者の風格を常に崩さないアーチャー。いつも漂わせている、周囲を支配するほどの威圧感が、今この時だけ僅かに揺らいでいる。ただ死の空間が広がるこの場所に、アーチャーは一体何を感じたのか。

 

「アーチャー?」

 

「……ん? なんだ。我に用か雑種」

 

 もう一度声を掛けると、そこで初めて俺に気付いたようにアーチャーが反応した。いや、事実、今の今まで俺はこの男の視界には入っていなかったのだろう。

 常に万象を俯瞰しているような男が、声をかけられるまで気付かない。それだけのことに過ぎないが、それだけの事だからこそ、逆に気になる。他の人間ならともかく、この英雄が放心するなど、俄かには考えにくい事態だ。

 

「ぼーっとしてたけど、何かあったのか? アンタらしくもない」

 

「なに、少しばかり違和感がな。この澱んだ空気、邪念に塗れた残り香には覚えがあるが……それが何であるのかは思い出せぬ。恐らくは、失われた記憶のどこぞに混じっていたのだろうよ」

 

 珍しく、歯切れの悪い口調でそう話すアーチャー。だが、その言葉には聞き流せない内容があった。

 アーチャーは、今まで直接あの影と相対したことはない。にも関わらず、影の爪痕を見ただけで、アーチャーは覚えがあると言っている。あんな異形の存在が、この世に二つとあるとは思えないし……アーチャーは生前、あの影と関わりがあったのだろうか。

 だとすれば、あの影はイレギュラーではなく、アーチャーがかつて生きていた時代にも現れていたことになる。使役された怪物の話は枚挙に暇がないし、あの黒い影も同様に、何者かに召喚され、操られた存在なのだろうか。せめてアーチャーの記憶が戻れば、その正体に迫ることもできるだろうに──。

 

「所詮は些末事だ。気にするほどのことでもあるまい」

 

 自分の記憶に繋がることだというのに、まるで気にした風もなく、アーチャーは周囲を一瞥した。一通り辺りに視線を投げかけたところで、特に警戒すべき物はないと断じたのか、アーチャーが装備していた双剣が、霞のように消え去っていく。

 

「ふん……この有り様では、セイバーは消えたのだろう? ならばもう用はない。戻るぞ雑種」

 

 興味を惹くものは、もう何一つないと言うように。心底つまらなそうに、冷たくそう吐き捨てると、アーチャーはくるりと踵を返した。未知の敵への恐怖も、仲間を失ったという悲哀も、その相貌には欠片も浮かんでいない。

 ……否。事実、この男は何の痛痒も感じていないのだろう。アーチャーは本気で、この戦闘の結末に関心を持ってはいなかった。冷酷だとか非情だとか、そういう次元の話ではない。どこか()()()()()()かのような、恐ろしくなるほどの無感情さだった。

 

「……ちょっと待ちなさいよ」

 

 が。去ろうとしたその背中を、呼び止める声がある。

 ようやく池に背を向け、こちらを振り向いた遠坂。涙の痕もそのままに、射抜くような激情が、視線と共に叩き付けられる。それに気付いたのか、アーチャーは動き出した足を止めた。

 面倒だとでも言いたげに、アーチャーがゆっくりと向き直る。冷たい紅蓮の双眸と、怒りを宿した碧玉が、火花を散らして衝突した。

 感情を抑えようと、遠坂は大きく肩で息をする。その気持ちは俺にだって分かる。肩を並べて戦った仲間の死に対し、この男はどうでもいいという態度を取ったのだ。到底考えられない異質さに気圧されていなければ、先に口を開いていたのは俺の方だっただろう。

 

「用はないって、どういうこと? あんなわけのわかんないヤツに、セイバーはやられたのよ!? アンタ、それがどうでもいいっていうの!?」

 

「当然であろう。斯様な小事、一々気にしていられるものか」

 

 何を言っているのだ? とばかりに、アーチャーが首を傾げる。その反応に、憤るより先に背筋が凍った。

 

 ──この英霊の見ているモノは、俺たち(ニンゲン)とは違う。

 

 今までも、アーチャーの視野の広さ、観察眼の鋭さには何度も驚かされてきた。人より一段高い、王としての視点を持っているからこそ、この男はあれだけの情報を見て取ることができるのだと。だが、その感覚は正解ではなかったのだ。

 それが無関係な他人であろうと、同じ釜の飯を食った仲間であろうと、人の死という重大な出来事が、アーチャーにとっては毛ほどの価値さえ持っていない。いや、そもそも、仲間という概念すらこの男の裡には存在しない。持っている価値観が、根底から違い過ぎる。

 死者への郷愁も、弔意すらも持たない。哀悼という考えさえないに違いない。その対象が死んでしまった時点で、それが如何に気に入っていた者だったとしても、この男の興味はなくなる。遥かな高みから、等しく総てを見下ろす視点など、最早人の領域の物ではない。どちらかといえば、それは神に近いモノだ。

 

「アンタ……それ、本気で言ってるワケ? 確かに、サーヴァントは敵同士かもしれないけど……それでも、セイバーは仲間だったのよ? アンタ、あの子のこと気に入ってたじゃない!」

 

「ああ、確かにセイバーは得難い宝であった。その価値は、他ならぬ我が認めてやろう。この星を巡ったところで、あれほどの女はそうはおるまい。

 が……いかに価値ある宝であれ、壊れてしまえばそれまでのこと。失った物は戻らぬし、死んだ者は蘇らぬ。変わらぬ過去に思い煩うなど、これ以上の無益さはあるまい」

 

「────っ」

 

 その言葉に。遠坂だけでなく、俺までもが言葉を失った。

 確かに……確かに、アーチャーの言うことはある意味では正しい。時間は不可逆であり、どうあっても取り戻せないものは、確かに存在するのだ。

 

 十年前の、五百余名のように。

 五年前の、衛宮切嗣のように。

 五分前の、セイバーのように。

 

 だけど、それが。その死が、死者への想いが無意味だとするのなら。切嗣が死ぬ間際、正義の味方になると誓った俺は、一体何だったのだろうか。ここまで走り続けた道そのものが、無価値だったとでも言うのだろうか。

 ……それは、違うだろう。失くしたものが、そこで終わってしまったとしても。その後に続くものに、意味がないなんてことはない。失くしたものへの想いがあるからこそ、俺はここまでやって来れたのだ。アーチャーの言葉を全て認めてしまっては、俺が正しいと信じて歩いてきた道が、嘘だということになってしまう。

 

「アーチャー。アンタの言ってる事は、確かに正しいのかもしれない。けど、亡くなった人を悼むことまでが、無益だとは思えない」

 

「たわけ」

 

 だが。超然たる傲慢さで、アーチャーは俺の言葉を一蹴した。

 理解の及ばぬ子供を見るような、そんな見下した目線を、アーチャーは俺と遠坂に交互に向ける。真紅の瞳には、やはり何の感情も浮かんではいなかった。

 

「真に人の死に報いようと思うならば、過去ではなく未来に目を向けよ。いくら惜しんだところで過去は変わらぬ。ならば、変えられるものこそを見るがいい」

 

 変えられる、もの……。

 確かに、過去は変えられない。けれど、俺たちが動けば、未来は変わる可能性がある。……ここでうじうじして留まっているよりも、前に進めと、アーチャーはそう発破をかけたかったのだろうか。

 俺が歩いてきた道は、どうなのだろう。確かに始まりは、取り返せない過去からだった。全てを失った大災害、有り得ないはずの生存者──その俺を救ってくれた、切嗣が本当に嬉しそうだったから。だから、その笑顔に憧れた。

 あの大災害のような悲劇はもう繰り返したくないと、確かにそういう思いもあった。だけど、思い返せば俺は、ずっと過去を振り返っていたままで……これからの未来について、目を向けていたと言えるだろうか。正義の味方という目標すら、未だあやふやなままだというのに。過去ではなく未来をこそ、考えるべきではなかったろうか。

 アーチャーの言葉は鋭く、激怒していた遠坂さえ、黙らせるほどの重みがあった。俺と同様、暫く考え込んでいた遠坂だったが……やがて結論が出たのか、再び静かに口を開いた。

 

「……そうね。ムカつくけど、アンタの言う事にも一理あるわ、アーチャー。ここで悲しんでたって、セイバーは戻ってこないもの。

 なら──わたしは、あの影を倒す方法を考える。わたしの大事なサーヴァントを奪ったヤツには、一発くれてやらなきゃ気が済まないわよ」

 

「それで良い。ここで立ち止まっているならば、所詮はそれだけの器に過ぎん。小娘、貴様にはそれなりに見るべき点があるようだな」

 

 だが、と続けるアーチャー。

 

「貴様は既にマスターではない。サーヴァントを持たぬ、ただの魔術師に過ぎん。願望器に託す願いもなかろう。──それでも、貴様は戦うと言うのか?」

 

「当然よ。わたしは最初から、勝つために戦ってるんだから。セイバーがいなくなっても、やることは変わらないわ」

 

 いずれは敵対するかもしれないサーヴァントの前で、傲然と宣言する遠坂。一瞬前までの曇りは、綺麗に取り払われていた。

 ……ああ、間違いない。遠坂凛は、全ての敵を打ち倒すだろう。そう思わせるほどの自信が、今の彼女には宿っている。

 いや、そうではない。元々あったものが、戻ってきただけのことだ。自分が憧れた少女は、最初からこういう人間だった。この輝きがあるからこそ、彼女は遠坂凛たりえるのだろう。マスターでなくなったとしても、彼女が進む道には微塵の迷いもない。

 

「だそうだ。それで良いか、小僧?」

 

「ああ。これからも遠坂が一緒に戦ってくれるのなら、心強い」

 

 遠坂と視線を合わせ、頷き合う。あの影を許せないという一点で、遠坂と俺は同じだった。

 冷静さを取り戻した俺たち二人を、アーチャーは変わらず冷ややかな瞳で見つめている。今は訊かれたから答えを返しただけで、やはりこの男は、観察者としての立場を崩すことはないのだろう。

 

「さて──夜明けも近い。戻るぞ、雑種ども。盤面が大きく動いた以上、他の有象無象も動き出す頃合いだ」

 

 この一晩で、聖杯戦争の勢力図は大きく塗り替えられた。

 三騎のサーヴァントが集い、町中から魔力を吸い上げ、目下最大戦力であったキャスター陣営は、ランサーを残して壊滅。

 そして、セイバーとアーチャーという二騎のサーヴァントを擁していた俺たちも、戦力の要であったセイバーを失った。

 バーサーカーの消息は不明だが、最後のサーヴァント、アサシンの姿は確認できた。しかし、この陣営は、あの謎の影と明らかな協力関係にある。アサシン自体は弱いサーヴァントだが、あの影の存在がある以上決して油断は出来ない。

 セイバー、キャスター、ライダーが倒れ、残るサーヴァントは四人。

 

 過去の聖杯戦争に於いて最強を誇ったが、記憶と宝具を失くしたアーチャー。

 必中必殺という凄まじい効力を持つ宝具に加え、多彩な能力を持つランサー。

 他と隔絶した絶大な力を持ち、間違いなく最強の英霊と言えるバーサーカー。

 黒い影と協力関係にあり、気配遮断と即死宝具を併せ持つ恐るべきアサシン。

 

 残されたサーヴァントは、いずれ劣らぬ英霊揃いだ。最終的に誰が勝ち残るかなど、想像さえできない。

 しかし、今は聖杯戦争の帰着よりも優先するべきものがある。──アサシンと共にある、あの黒い影。町中の人間を襲い、サーヴァントすら屠った怪物。あれだけは、何としても排除しなければならない。人を見境なく襲う影は、異論の余地なく倒されるべき"悪"だ。

 歩き出したアーチャーの後を遠坂と追いながら、心に誓う。正義の味方として、あの影の存在を許すわけにはいかない──。


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