更新日 2013/5/1
心臓を直接手で鷲掴みにされたかのような、凄まじい程に衝撃的でおどろおどろしい感覚が俺を襲う。
息が出来ない。少しでも気を弛めれば圧倒的なまでの強烈なプレッシャーに押し潰されてしまいそうになる。先程感じた圧迫感とは違う、明確にこちらをターゲットに据えた純然足る視線。彼女が敵意かそれに準じる感情を俺に向けている事は最早明らかだった。
不味い、もしかして……違った、もしかしなくても俺は彼女の事を怒らせてしまったのだろうか。男が怒るよりも女が怒る方が数倍怖いというのは良く耳にするが、はて。俺は彼女に対して何か失礼な事でも……いや、したに決まっているだろう常識的に考えて。何処の馬とも鹿とも知れない凡骨に、脳内でだけとは言えいきなり恋人扱いとかされたら誰だって怒るに決まっている。
脳内で考えただけなのにどうしてその事が知られているのかという事については、まあ……アレだ。もうこの際考えないようにしておこう、うん。
俺は目を逸らさなかった。
彼女は俺に何かを隠している。何を隠しているのか、どうして隠しているのかは分からない。しかし彼女が何かを隠している事、この様子を見ても分かるようにそれだけは凡そ間違いは無い筈だった。
さっきから分からない事ばかり。それでも、分からないなら分からないなりにやれる事だって有る。
だから……そんなに強く睨んだって駄目だ。そうやって俺の気を逸らそうとしたって無駄だ。俺は……俺は誤魔化されない。
平時の俺ならば絶対にこんな尖った思考はしなかっただろう。グライダー型の日本人宜しく明確な格差の前に萎縮し、そしてそのまますごすごと引き下がっていたに違いない。別にそれについてとやかく言うつもりは無いが、それでもそうやって立ち回っていた方が相当に生き易いのは確かなのだから。
俺は十六年間、正しくこの国で生きてきたのだ。その性分はちょっとやそっとの出来事では揺らぐ事が無い。
そして今、俺は死に掛けている。
ならば、いくらでも。際限無く。たとえ何処までであろうとも。俺は強くなってみせようではないか。
俺は、無敵だ。負けが存在していないならば、俺はどんな勝負にだって確実に勝てる。勝ってみせる。
更に数分が経過する。
身体の感覚が少しずつ手元から離れていくのを感じる。いや、感じない。感じないという事を感じる。思考もまるで熱に浮かされたように続かない。聞こえてくる音は小さくなり、雑音だけが大きくなっていく。視界もゆらゆらと揺れるばかりであまり安定しなくなってきた。気紛れに辺りをたゆたっているだけだった死神が、戯れはここらで終わりにしておいた方が良さそうだと再び俺の元へずるずると這い寄ってきているような、そんな状況。
しかし、それでも。それでも俺は彼女から目を逸らさない。意地でも逸らさない。突き刺さるように鋭い目で睨んでくる彼女の視線を真っ向から受け止めてやる。
元々あと一分かそこらでくたばると思っていたこの身体。惜しくはない……とまでは流石にいかないものの、だとしても忘れてしまった「何か」を思い出せないまま死んでしまうのはもっと嫌だと、極自然に俺はそう思う事が出来た。
――勝てない、な。
ふと、彼女の唇がそんな風に動いたようにも見えた。
それと同時に、物理的な重ささえ持っていたように思える程の強大な圧力は一瞬で掻き消える。刃物のようだった目付きがゆるりと和らぎ、口元には何処か少し困ったような苦笑の色が小さく浮かぶ。
俺はそこに彼女の本質を見た気がした。
彼女のその様子をしっかりと確認してから、漸く俺は心の中で一つ大きく息を吐く。張り詰めていた緊張の糸がバブルのように一気に崩壊し、動かなくなっている筈だった身体の方も心なし弛緩したような、何となくそんな感じがする……ような。
もし身体が無事だったとしたらそれはもう相当に多量の汗を掻いてしまっていたに違いない。精神的な疲労が何と言うか大分物凄い事になっている。
肩の荷が下りるとはまさにこの事だろうか。出来るならば、そう、もう二度とやりたくはない。いや、今から死ぬというのに二度目も何も無いとは思うが。
俺は彼女からほんの一瞬、目を離してちらと夜空を見上げた。
欠けて小さくなった月が、何処までも広がる黒のキャンパスにひっそりとその身を置いている。どうやら天気が良くないのか、普段は強く光り輝いている筈の星々の姿はそこには写っていない。
夜空に月一つ。たったそれだけの事なのに、その光景を目にするだけでどうしようもない程の物悲しさを感じてしまうのは俺の心が脆いせいなのだろうか。
涙が出た。
涙が止まらなかった。
自分でもどうにも出来なかった。何故か悲しくて、何故か悔しくて。視界に入る彼女の姿に、彼女に対する負い目に……そして何も出来ない自分の無力さに。俺は溢れ出す感情の波を抑える事が出来なかった。
俺は役立たずだった。
仄かな光が彼女の顏をぼんやりと照らす。次々と立ち昇っては消えていく光の粒子のようなモノは先程からまるで収まる気配が無い。星が見えなくなっているのも凡そこの光によるものなのだろう。明かりというモノは得てして、より強い明かりによって掻き消されてしまう宿命にあるのだから。
だとしたら、俺の明かりはどれ程儚いモノだったというのだろう。或いは、それにすら掻き消されてしまいつつある彼女の明かりは……。
彼女は、この世から確実に消え掛けていた。身体は外側の方から光となって宙に溶け、その分だけ彼女という存在はその密度を徐々に減らしていっている。真っ白な肌は薄く透け、夜の背景と混ざり合い見る見る内にその色を青白く不健康なモノに変えていく。
しかし、それでも。それでも彼女は先程と変わらない、歪で妙に迫力の有る笑みをずっと顏に浮かべていた。
胸に当てられた手の平が一際強く輝く。立ち昇る光の量に比例して強くなっていくその輝きを呆然と眺めながら、俺は……俺は、何も出来なかった。
――知っている。
何処かで見た事が有る。この光景を、俺は何処かで見た事が有る。
既視感。それは初めて目にした筈の光景だというのにも関わらず、然も一度見た事が有るかのように錯覚してしまうという不思議な現象。現代の科学でも、未だにその細かい仕組みは明らかにはされていない。
俺も昔は良く経験した事が有る。まだ小さかった頃等は一週間に一度は既視感を味わっていたものだった。
しかし、コレは……そうではない。見たような気がする、ではない。コレはそんな抽象的ではっきりしない、おぼろげで不確かで曖昧なモノではない。
俺はこの光景を間違い無く「知って」いる。
何が起こっているのか、だとか。どうして今までその事に全く気付かなかったのか、だとか。そういう下らない疑問は一瞬で頭の中から弾き出された。
彼女が消え掛けている。
しかも、今までの流れから判断するなら恐らくは他ならぬ俺のせいで。
光の出所が目の前のヴィーナスで、しかもその光は彼女自身が変化したモノだったと気付いた瞬間。完全に止まっていた状態であった俺の思考は鈍っている程度にまで回復し、それによって脳は普段よりも多少時間を掛けて現状の把握に動き始めた。
或いはその逆。思考が元に戻ったから、彼女が何かを隠すのを止めたから。俺はそれに気付く事が出来たのかも知れない。
彼女が何をしようとしているのかは分からない。しかしそれは何らかの犠牲を払わなければ成し得ないような事で、俺は死に掛けていて、その俺に対して彼女は明らかに知人以上の反応を見せていて……そして、彼女は今まさに消えて無くなろうとしている。
それだけ分かれば、十分だ。俺が涙を流すには、そう、それは俺にとってあまりにも十分過ぎる程残酷な理由だった。
何故だ?
俺は彼女を知らない。この日この時この場所で、正真正銘初めて彼女と出会った筈なのに。
なのに涙が止まらない。もう身体には垂れ流す水分なんて残っていない筈なのに、なのに涙が止まらない。俺は彼女を知らない筈なのに……なのに、どうしても涙が止まらない。止まってくれない。
俺は彼女を知らない筈なのに、なのに彼女は俺に命を懸けようとしている。
何故? どうして? どうして彼女は俺なんかに命を懸けようとしている? くたばりぞこないのノーマルオブノーマルタイプでしかないジャパニーズ男子高校生がそんなに大事なのか?
教えてくれ。どうして貴女は俺に命を懸けている? 貴女は俺を知っているのか? 貴女にとって俺は自分の命を投げ打ってでも助けたいと思えるような存在なのか?
俺は……本当に、貴女を知らないのか?
分からない。分からない、分からない。
分からない。
何も分からない。何も、分からない。
俺は急に自分が分からなくなった。俺の知っている十六年分の日本人としての記憶が、急にあやふやなモノへと取って変わってしまったような気がした。
「…………」
止めろ。
『――――を――――に――』
『――い――待――――止――』
止めてくれ。
『八――――殺――――』
『――不――――逃――』
――止めてくれ!
『――な――庇――――』
『――死――――絶――』
止めろ! 止めろ! 止めろ! 止めろ!
「……や、め……ろ……」
『――待ってろ。すぐに、きっとすぐに逢いに行くから……』
ノイズが走る。脳裏に自分の知らない筈の光景が次々とフラッシュバックしていくのを感じる。頭にはキリキリとした不快な痛みが停滞し、思考はごちゃごちゃと入り乱れてしまってまるで安定する気配が無い。
光の柱。崩れゆく建造物。白の衝撃。赤の衝撃。そして――
「この世にはハムラビ法典というモノが有ってだな……」
初めて聞いた彼女の声は、何となく男とも女とも取れないような。男にしては高く、女にしては低いような。中性的で中途半端に低く、また高いモノであった。その声色は彼女の……こんな状況だというのに風雲の如くふらふらと、そこはかとなく軽快さの漂う言動と上手い具合に噛み合っているような気がした。
視界に写るヴィーナスが小さく微笑んだのが見えた。その様子は先程脳裏を過った光景の中の彼女の姿と一瞬重なり、しかしすぐに消える。ポリゴンが消えるようにしてじわじわと身体の体積を減らしていく彼女は酷く苦しそうで、しかし何処か安らかで。
幾星霜の重圧から解放されたような、ずっと一人で抱え込んでいた「何か」に漸く片を付ける事が出来たような、それでいてそこには隠し切れない自嘲の色が浮かんでいるような。彼女は、凡そそんな顏をしていたように思う。
――違う。
そう言いたくても、俺は声を出す事が出来なかった。
違う。違う。そうじゃない。俺は何もやっていない。俺は貴女に対して何もやれていない。
こんなのは違う。絶対に違う。
こんなのは……こんなのは、分不相応だ。分不相応の報復だ。こんな沢山は受け取れない。受け取って良い筈が無い。
俺は、何一つやってはいないというのに。
ふと、光の粒子の発生が収まった。
嵐の前の静けさのような気味の悪い空白がこの場に降りる。幽霊のように半透明になってしまった彼女は一度目を閉じると数秒沈黙し、それからゆっくりと両目を開けるとこちらに目を向ける。最早殆ど平坦と言っても良い状態の手の平を、彼女はそっと触れるようにして俺の胸へと添えた。
重さは感じなかった。質量の有る物体とはとても思えない、まるで儚く消えていく泡のように軽い感触はこれ以上無いというくらいに重い。考えれば考える程、俺はその重さによってアルミ缶の如く押し潰されてしまいそうになる。
彼女と視線が合う。しかし、彼女は相も変わらず笑顔のまま。強がりのようにも見えたその表情は未だに崩れる事は無い。
動揺しているのは俺だけ。彼女は、もう……とうの昔に覚悟を決めていた。
涙が止まる。
何度か瞬きを繰り返し、ゆらゆらと歪んでしまった視界を安定させる。
俺は彼女の視線を真正面から受け止めた。
もう泣かない。
もう、泣けない。彼女が笑っているというのなら、今から消えて無くなってしまう筈の彼女が笑っているというのなら、だったら俺はもうみっともなくうじうじと泣いてばかりいる訳にはいかない。
笑う。笑う。俺だって笑ってやる。声を上げて笑ってやる。笑い過ぎで呼吸が苦しくなるくらい笑ってやる。彼女に負けないくらい盛大に笑ってやる。
感覚の鈍くなった顏の筋肉を釣り上げる。上手く笑えているかどうかは分からなかったが、どんなに歪な笑いでも笑えているならばそれで良い。
彼女の笑いは歪でも、一度も見た事が無いくらいに美しいと思えるモノだったから。
何か、形容し難いエネルギーのようなモノが勢い良く身体に流れ込んでくる。視線を下げれば、胸に当てられた彼女の手の平から徐々にその輝きが失われていっているのが見えた。
それに反比例するようにして、身体に感じるありとあらゆる圧力がほんの僅かずつ消えていく。重力は無くなり、まるで水中に居るかのような錯覚すら覚える。方向感覚等は上下左右が逆さまになったようにも思え、今自分が立っているのか座っているのか寝ているのか止まっているのか回転しているのか落ちているのか浮いているのか生きているのか死んでいるのかもまるで分からないような、そんな不可思議な状況に置かれているようだった。
その様子に一片の不安すら抱かないかと言われれば、まあ、答えは否だ。しかしその状況を引き起こしているのが目の前で必死に何か良く分からない事をやっている彼女なのだと思えば、そんなどうでも良い感情なんか一瞬で何処か遠いところへと吹き飛んでしまった。
今俺が考えている……否、考えても良いのは彼女への感謝の意のみ。それ以外の事を考えるのは命を懸けている彼女に対してあまりにも失礼だろう。
俺には、彼女の意志に応える義務が有る。例えば、誰かに申し訳ないと思うくらいなら、だったらその分だけ多く感謝した方がどちらにとっても間違い無くプラスであるのだから。
だから俺は笑うのだ。誰にも負けないくらいに……彼女にも、負けないくらいに。
胸から手の平を離した彼女はまるで抜け殻のようだった。
燃え尽きてしまったかのように放心する事暫し。やがて彼女は崩れ落ちるようにして前屈みに倒れ込むと、しかし寸前のところで持ち堪えてすぐ横の地面へと突っ伏した。
衝撃で埃が舞うようにして光の残滓が儚く散った。
ああ、残念。もしこっちに倒れてくれていれば合法的に美少女と抱き合えるところだったのに……世の中は、無情だ。
俺は死ぬ筈だったのに、なのにどういう訳か命を助けられてしまっている。そして、その代わりに彼女は……見知らぬダイヤは消えてしまう事になっている。
――俺は、一体どうすれば良いのだろうか。
今から眠りに着くかのような、しかし死ぬと思っていた時のモノとは明らかに違う、そう、例えるならまるでテストを終えた日の夜にそれまで溜め込んでいた漫画を思う存分読んで、ついつい夜更かしをしてしまった事をほんの少し後悔しつつもそれ以上の満足感に浸りながらゆるゆると床に就いていくような、そんな安らぎ。段々と薄くなっていく身体の感覚と、それと同様にして少しずつ遠退いていく意識を感じながら。俺はふと、そう思ったのだ。
……本当に、本当に情けない事に。俺はそう、思ってしまったのだ。
時間が止まっている。
音は止み、視界に入ってくる情報は変化を見せる事が無くなる。傍らで地面に転がっている彼女からは生命力がまるで感じられない。身体から溢れるようにして立ち昇っていた光の粒子は僅かにその名残を残すだけになり、時折ピクリと身動ぎを繰り返す事だけが彼女がまだ生きている事の唯一の証左であると言えた。
感謝するというのは勿論分かっている。申し訳ないとぐだぐだ言うよりは感謝しろというのも、無論分かっている。分かっては、いる。
しかし、それでも。それでもこうして満身創痍の彼女の姿を見ていると、どうしても、どうしても俺は……。
俺には無理だ。そうやって全部割り切って、笑って彼女を送り出す事なんて、そんな器用でスマートな真似は俺には出来ない。
虫の息の彼女の姿を見る度に、彼女の事を考える度に。知らない筈の光景が、知らない筈の誰かの記憶が俺の脳裏を断続的に過っては消えていく。そしてそれを見る度に、俺は心の内より湧き上がってくる名状し難い感情を抑えられなくなる。
今ここで泣いたら、泣いて彼女に赦しを乞うたとしたら。一体どれ程楽になるというのだろう。
何故俺に命を懸けようと思ったのかは分からない。しかし分からなくても、彼女が俺に命を懸けたというその事実にだけは誤りが無いという事。そこだけは決して間違っていないのだと分かる。
だから俺は、一体どうすれば良いというのか。どうすれば良いのか。
どうすれば、どうすれば、どうすれば――
突然、頭部に衝撃を感じたような気がした。
ゆらゆらと不安定に揺れているだけだった意識が、凡そ水面から浮き上がるようにして一気に覚醒へと向かう。その事に一抹の不自然さを覚えながらも俺は顏を動かす事で衝撃を受けた方へと視線を移し。
「ぁ……」
目が合った。
もしかしたら、実は俺は自分でも気付かない内に泣いてしまっていたのかも知れない。
視界に写った彼女は何処か呆れを含んだような目でじっとこちらを見ていた気がして。
――少しは、申し訳ないと思えこのアホ。
不思議と、彼女の目からはそんな意思がひしひしと伝わってきていたように思えた。目は口程とは良く言うが、まさかこんなにはっきり喋るとは流石に予想が付かなかった。
ああ、そうだ。俺はもう驚かない。彼女は……彼女には絶対に敵いそうにない。
俺は笑った。見せ掛けで苦し紛れの笑みでもなく、只自然に頬を弛めた。弛める事が出来た。俺は、笑った。
それに釣られてかどうかは分からないが、彼女もふっと顏を綻ばせる。無理に表情を動かしたせいなのか心なし崩壊の速度が速まったようにも見えた。思わずくしゃりと顏を歪めてしまいそうになったが、持ち堪える。
ごめん。それと、ありがとう。
緩やかに拡散していく意識の中、完全に光が消える最後の瞬間。大分朦朧としていたせいで断言する事は出来ないが、それでも。
それでも、俺は殆ど確実にそう言ったように思う。最期に消えるその時まで、ずっと微笑んだままだった彼女へと向けて。
コレで終了です。……意図的に話を分割するのはモラルに引っ掛かると言うか何と言うか。
形容し難いもやもやも胸に残りますが、やはり一話で二五〇〇〇文字は少々重かったのかな、と。
次回更新予定日 ――