ハイブリッド流浪記(凍結中)   作:安木ポン酢

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 試験的に話を分割してみました。……やり方が汚いと言われても否定出来ない。



 更新日 2013/5/1


第二話 ダイヤ

 ……でも、どうしてなんだろう。

 

 再び、何かが顏に跳ねる。先程は見逃してしまったが、しっかりと目を開けていた今の俺に死角は存在しない。顏にぶつかり、弾けて消えたそれを俺の目は確実に捉えた。

 ポタポタ、という音がするのを肌で感じる。どうやら雨が降り始めたようだ。

 

 通り雨には、見えない。

 

 泣いている。歯を食い縛りながら、口の端をふるふるとわななかせながら。彼女は静かに泣いている。悲しいような、悔しいような、そんな感情を強く面に出しながら。彼女は静かに、只、静かに涙を流していた。

 雨が降っている。ブラックパールのように美しい瞳からはぽろぽろと大粒の涙が止め処無く溢れ続け、雪のように白い頬を伝い、最後には俺の顏へと落ちる。

 

 俺は見ている事しか出来なかった。

 

 何かが俺の頬にそっと触れる。ほんわかと、何処か懐かしいような、それでいて何となく物悲しくも思えるような、そんな不思議な温もりを感じた。

 見れば彼女の腕が顏の側面に向かって伸びている。どうやら先程俺が感じた柔らかい感触は、彼女の手の平が頬へ触れた事によるモノであるらしかった。

 

 やった。

 俺、今日から少なくとも一週間は顏を洗わない。

 

 …………。

 不謹慎だと思ったので、止めた。理由は分からないが、目の前の彼女は涙を流す程の悲しみを負っている。だというのに、そんな下らない事を考えてしまっている自分がどうしようもなく情けなく思えた。

 ああ。

 

 そうだ、理由。

 理由だ、理由。理由が分からない。俺は理由が分からない。僅かとは言え身体の感覚が戻った理由が分からない。ヴィーナスが俺の元に降臨した理由が分からない。そして、そのヴィーナスが泣いている理由が分からない。

 一体、何故? どういう事だ? 分からない事、ばっかりだ。

 

 分からない、けど……。

 でも、それでも。彼女が泣いているのは、それはとても悲しい事なのだと、理由も無く俺はそう思った。それだけは分かった。そこに理由は無かった。無意識の内に、半ば本能的に俺はそう思っていた。

 ……泣いている姿も美しいと、そう思ってしまった俺は存外業の深い人間だったに違いない。もしかしたら、俺はもう天国には行けなくなってしまっているのかも知れない。アレだ、無間地獄行きとか何とか。

 

 意識が、朦朧としてきた。

 辛うじて見えている状態だった世界が再び距離を取り始める。思考は長続きしなくなり、身体に意思を伝達する事が難しくなっていく。耳は音を拾わなくなり、固く閉ざされた目蓋は一向に開こうともしない。

 どうやら、今度こそ終わりの時間であるらしい。出会って数分でもうお別れとは……ちょっと残念だ。せめて名前だけでも知りたかったと一瞬思ったが、すぐにそれは贅沢が過ぎるだろうと考え直した。

 

 彼女は、俺の幻覚なのだろうか? 死ぬ間際の俺が苦し紛れに生み出した、空虚で空しい見せ掛けの存在に過ぎないのだろうか?

 ……彼女は、幻想なのだろうか?

 

 違う。

 

 認めたくはないが、目の前の光景は俺の妄想に近いモノなのだと思う。確かにあの時は誰かに看取って欲しいと願ったとは言え、それでもこんな時間にこんな場所を都合良く人が通るとはちょっと考えにくいし、ましてこんな美少女がふらふらしているとなると……残念ながら、その確率は限りなくゼロに近くなってしまうだろう。

 と言うか、そもそもこんなモノが実在しているとも思えない。美しいとか美しくないとか以前に、彼女には何処か浮世離れした雰囲気、と言うか何と言うか。それとも人外のカリスマ、とでも言えば良いのか。まあ、一体どう表現すれば良いのかは分からないが、兎に角そんな感じの風格を彼女は漂わせている訳である。

 

 そんなの、実在する筈が無い。常識的に考えるなら、要するに彼女は俺が見ているまやかし、或いはそう見えているだけに過ぎないという事なのだろう。

 それか、そうでないならエイリアン風の何某かが何らかの理由で地球へようこそ状態に陥ってしまっている、とか。泣いているのは宇宙船が大破したから。俺を見ているのは、まあ……何と言うか、偶然? ちょっと良く分からないけどなんかそんな感じだろう、多分。

 色々と有り得ない。

 

 しかし、だからどうした。そんなつまらない事を気にしてどうする。たとえ幻覚であったとしても、エイリアンだったとしても、他ならぬ俺に見えているならばそれは一つの現実と言っても良い筈だ……多分きっと恐らくは。いや、絶対に。

 もしくは、それで納得出来ないなら理屈抜きに信じてしまえば良い。複雑に考えるから訳が分からなくなってしまうのだ。どうせ理解の外に有るのだとしたら、そんな余計なモノは全部捨てて身軽になった方がどれ程プラスになる事か。

 

 ――ありがとう。

 

 ここへ来てくれてありがとう。看取ってくれてありがとう。俺の声を聞いてくれてありがとう。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。貴女のお陰で良い死に目を見られそうだ。この恩はきっと忘れない。忘れるまで忘れない。死ぬまで忘れない。

 

 心に決め、そのついでにと根性で目を開ける。死ぬ前にもう一度、彼女の姿を見ておきたいと思ったから。そうして視界に写ったヴィーナスは心なし目を見開いていたような、何となくそんな気がした。

 或いは、彼女には本当に俺の声が届いていたのかも知れない。もしそうだったら、まあ、ちょっと恥ずかしいが。

 ……いや、ちょっとじゃない。大分、と言うか実は物凄く恥ずかしいんじゃないだろうか。場合によっては割りととんでもない事にもなりかねないような……まあ良い。多分、気のせいだろう。気のせいに違いない。

 

 解れ掛けの意識を自分から手放してやる。コレは、今の今まで周りの状況に振り回されっぱなしだった事に対するささやかな意趣返し、のつもり。幼稚だとか、子供っぽいだとか思うかも知れないが、高校生なんてのは得てしてそんなモノなのだろう。同級生は皆大人びた奴ばっかりで、俺みたいなのはクラスに七、八人くらいしか居なかったが。

 いや、七、八人って結構多いような気もする。擬態分を除くと大体五人くらいだろうか。どうでも良い。至極。

 

 まあ、兎に角。そんな訳で、今から死にゆくのだとは到底思えない程に俺の心は晴れやかだった。

 先程までの切羽詰まった心理状態とは違う。無理の無い、どころかちょっとした遊び心さえ有る奥行き深い精神。お休みなさい……心の中でそう言い、肩の力を抜き、そしてゆっくりと目を閉じ……。

 

 ようとして、俺は限界一杯まで目を見開いた。

 

 だってそうだろう。だって、だって……アレだアレ。何と言うか、ああ、上手く言えないが、何? 一言で表すなら、こう……。

 

 ――ゑ!?

 

 確か、そう。俺の記憶が正しければ、何だろう、何と言うか、ああくそ、一体どう言い表せば良いというのか。まあアレだ、簡単に言うと、いや違う、まずはきちんと順を追って話そう。

 そう、アレは今朝の出来事だったか。普段とは違い凡そ二〇分程早くに目が覚めた俺は相当に落ち着いており、かなり珍しい事になんとテレビを見ながら食事を採る余裕すら有った。ついでに言えば半覚醒状態の脳を無理に酷使する必要だって無かった。はきはきと喋るニュースキャスターの声を聞きながら、俺はその日のんびりと朝食を貪っていたのだ。

 ……で、その時に今日は今年最高の猛暑になると聞いた、という訳である。また日差しが非常に強くなる恐れが有る、とも。ちょっと何を言っているのか分からないような気もするが、大丈夫、実は俺も良く分かっていないから。

 要するに、まあ……何を言いたいのかというと、アレだ。

 

 良いんじゃないかな、脱いでも。

 

 ……どうやら、驚きも一周回ると大分おかしな事になってしまうらしい。思考が変な風になっているのが自分でもはっきりと分かる。そして質の悪い事に、そうと自覚していても自力ではどうにも出来そうにない。いやはや、中々どうして不思議な事も有るものよ。

 しかしそれも仕方の無い事だろう。なんたって、あー……うん、まあ、アレだアレ。何と言うか、えーっと、ちょっと表現に困ると言うか。まあ、一言で言うなら、半裸?

 なんか、うん。露出、と言うか。見えている、と言うか。モロっている、と言うか……開放的って言うの? 何と言うか、こう……母なる恵み、アースの……すごく、大自然的な。大丈夫大丈夫恥ずかしくない恥ずかしくない。暑いもんね、仕方ないよね。俺は寒いけど。

 

 ふと、頬に感じていた温もりが消えた。

 

 何事かと視線を向けると俺の予想通り、いや、半分予想通りに、彼女は俺の顏に寄せていた手の平を自分の方に引き寄せているところだった。

 予想外だったのは、その行き先が、まあ何と言うか。平たく言えば、いや見た感じでは平たくはないようだが――間違った。つまり行き先が彼女の胸元……ああ。成る程、貴女は着痩せするタイプだったのか。ローブっぽい服を着ていたせいで分からなかった。

 

 と言うかアレか。スッパなのか。ノーブラなのか。全裸にローブ一枚とか……と言うか良く見たら大分変なデザインのローブだなコレ。白なのか黒なのか。無罪なのか有罪なのか。

 

 ――ギルティ!

 

 間違った、天国(ヘヴン)だった。もしくは浪漫(ロマン)だった。

 

『画像を保存しますか?』

 

  はい

 →いいえ

 

『それをすてるなんてとんでもない!』

 

 →はい

  いいえ

 

『すごいがぞうをてにいれた!』

 

 ……直接的な言葉を用いて現状を説明出来ない小心な自分が恨めしい。全く、こんなにピュアな心を果たして俺は持っていただろうか。確か……持っていなかった、ような気がする。たかが異性の胸を目にしたくらいの事で揺らいでしまうような、俺はそんな柔な、或いは綺麗な精神属性ではなかった筈だ。

 なら、どうして俺はこんなに動揺してしまっているのだろうか。

 

 胸元……丁度心臓の上辺りに向かって伸びていた彼女の腕がぴたりと止まる。必然、俺の視界には二つの霜降り肉と、それによって生成された渓谷状のナニカ、更には気まぐれ程度で見えてしまっては絶対にならない筈の桜的な存在までもがばっちり写ってしまっている訳だが、直視すると良い感じに目を焼かれそうだったので端に留めるだけで済ませておいた。

 まあ、そう言いつつも二秒に一回はそちらへ目線をやってしまうと見せ掛けて途中で引き戻しているのだが、アレだ。それはきっと不可抗力とか不可抗力とか、なんか知らんけど不可抗力とか大体そんな感じだろう、多分。いや、絶対に。

 

 数秒程、止まっていた彼女の手が再び動き出す。心なしか彼女の指先が小さく震えているような、何となくそんな気がした。もしかしてアレか、さっきから邪な事ばっかり考えていたせいで彼女を怒らせてしまったのだろうか。

 そんな筈が無いと思いつつも内心戦々恐々といった感じで視線を上に向ける。目の前に写っている別世界の存在には俺の思考等全て見透かされている、俺には根拠も無くそう思えてしまったから。

 

 彼女はもう、泣いてはいなかった。

 

 目を赤く充血させ、頬に色濃く涙の痕を残しながらも、彼女の目には強い光が宿っていた。何か大切なモノに自ら見切りを付けたような、もしくは不退転の覚悟を決めたような、それでいて何処か憂いの感情を含んでいるような、そんな影の有る決意に満ちた顏を彼女はしていた。

 一体、何をする気だと言うのか。それは俺には分からなかったが、何故だか彼女を止めなければ大変な事が、取り返しの付かない事が起こってしまうような予感がした。

 

 止めなければ。

 理屈ではなくそう思った。

 

 渾身の力を腕に込める。動け、動いてくれ。そう強く念じながら、俺は渾身の力を腕に込める。しかし俺の腕は憎らしいくらいに無反応だった。

 肺に空気を送り込み、声を出そうと必死の思いで喉を震わせる。出ろ、出てくれ。そう強く念じながら、俺は必死の思いで喉を震わせる。しかし俺の喉は悲しいくらいに無反応だった。

 半分無我夢中になって、ありったけの意思を目線に乗せる。届け、届いてくれ。そう強く念じながら、俺はありったけの意思を目線に乗せる。

 

 自分でも分からなかった。どうしてこんなに必死になっているのか、自分は一体何を考えてこんな行動に出ているのか、俺はそれが自分でもさっぱり良く分からなかった。

 取り敢えず言えるのは、平時の俺ならば恐らくこんな事はしないだろう、という事。そして、心の片隅でそうと知りながらも、今の自分がそれを止める事は恐らく、いや、絶対に無いだろう、という事。

 邪になったり必死になったり。分かってはいたが、今日の俺はやはり相当にまともでないらしい。人間の精神状態は肉体に大きく左右されるというから、まあ、つまりはそういう事なのだろう。

 

 数瞬。視線が交差し、しかしそれはすぐに外される。

 いや、違う。俺は目を逸らさなかった。逸らしたのは、彼女の方だ。俺と見つめ合うのはそんなに不快な事だったのだろうか。もしかしたら男嫌いなのかも知れない。……男嫌いでなくても駄目だとか言われたら、泣いちゃう。

 

 やや有って、下を向いていた彼女の視線が再び俺のそれと重なる。

 今度は目を逸らさなかった。まあ、自分から合わせておいて逸らすも何も無いとは思うが、そう思ってしまうのも凡そ仕方が無い。先程見えた彼女は何処か……何か、形容し難い弱弱しさを背負っているような気がしたから。

 

 しかしそれは俺の勘違いだったのだろう。じっとこちらを見つめてくる彼女の目を見返していると、不思議とそう思えた。いや、或いはそう思わされていただけなのかも知れない。

 今度は逆だ。今度は先程とは正反対。

 

 一体どういう訳なのか。今度は先程とは反対に、気を抜くとこちら側から視線を逸らしてしまいそうになるような。吸い込まれるように深い色をした彼女の瞳を見ていると、ああ、一体どう言えば良いのだろうか。

 何と言うか、彼女が持つ強固な意志に心を押し潰されると言うか、圧倒的な格の違いのようなモノを感じて思わず萎縮してしまうと言うか……そんな感じ。外見不相応だとも思ったが、何せ先程から立て続けに非日常体験をしているのだ。俺は最早その程度の事では全く驚かなくなってしまっていた。

 そしてそうなるくらいには、少なくとも年相応に俺は弾力的だったと言える。

 

 しかし、駄目だ。

 

 コレは駄目だ。

 俺に耐えられるのはそこまで。理解を捨てる事は出来ても、今までに積み上げてきた常識を、価値観を捨て去る事までは俺には出来なかった。

 ああうん。コレはちょっと……駄目だ。多分。

 

 胸に当てられた彼女の手の平が妖しげに光を放つ。同時に、彼女の持つ存在感が急激に膨れ上がったのが俺にははっきりと分かった。

 何と言えば良いのだろうか。発光の瞬間に彼女から強い風が吹いたような気がした。とは言え押さえ付けるような圧迫感を感じたからそう表しただけで、風という表現も何処まで正しいモノなのかは分からない。今はもう感じないが、そう……感覚的にはそよ風のようなイメージだろうか。

 存在感の方も強い事は強いが、別に常識を大きく外れているという程でもなくなっている。いや、存在感に強い弱いが有るのは常識なのかと言われたら、まあ、どうしようもないのだが。少なくとも俺は、存在感だけで突風を起こせるような凄い人は見た事も聞いた事も無い。

 

 等とのんびり考えていたのも束の間。彼女の放つ光が徐々に強くなっている事に気付いた瞬間、そんな思考は半分くらい吹き飛んでいた。

 

 なんだ、まだ有るというのか。もう好い加減大人しくしていてくれ、頼むから。折角良い感じの雰囲気で安らかに逝けると思ったのに……いや、まあ、看取って貰う相手にその態度は無いだろうとは思うけど、それとこれとはまた別問題であるような気が……。

 気が、しないな、うん。コレは俺の方が間違っていたような気がする。恐らく好意で駆けつけてきてくれたであろう人に静かにしろと言うのは流石に無遠慮が過ぎるだろう。命の恩人に命を差し出す必要は無いとは思うが、かと言って感謝のポーズ一つで済ませるのは何かが違うと思うし。

 

 今一人じゃないから、俺はこうして馬鹿な事を考えていられるのだ。

 

 ……と言うか、俺は何時になったらくたばるんだろうか。最初に死ぬと思ってから軽く一〇分は経っていると思うんだが。もう一分も持たないとか言った奴誰だよ。俺だよ。

 凄いな俺。一〇倍だよ一〇倍。余命あと三年ですって言われて三〇年生きるようなモンだよコレ。往生際悪過ぎだろ俺。医学の常識をひっくり返したよ俺。ギネス載っちゃうよ俺。

 

 雪山で遭難した人達が極限環境下で互いに互いを励まし合い、無事全員で生還してみせるように。一人ではないというたったそれだけの事実が、時に誰もが驚く程の奇跡を見せてくれる事だって有る。

 俺が未だ生きている事も、もしかしなくてもそういう理由からなのだろう。そういう意味でも、彼女は間違いなく俺の恩人であると言えた。そしておっぱい。

 

 ……あ。

 

 あ、あーあ。ああ、あー……あーあ。

 やばいやばい口が滑った。いや口は滑ってない脳が滑った。と言うか心が滑った。寧ろ魂が滑った。だから直視すると目を焼かれるってあれ程言ったのに……遂にやってしまったよ、うん。

 あーあ、見ちゃったよ俺。不意打ちじゃなくて自分の意思でしっかり見ちゃったよ俺。もう完全に天国行けなくなっちゃったよ俺。どうするんだよ俺。そこに胸が有るからとかなんかそんな感じで見ちゃったよ俺。もうおしまいだ。

 

 いや、しかし……或いは、小心でなくなった事を喜ぶべきなのかも知れない。そもそも俺は本来こんなではなかった筈なのだが、まあ、それは何某かの補正やら何やらが掛かっているという事にしておいて。兎に角、過程はどうあれ俺は間違い無く状態異常・小心から脱した訳である。

 要するに、アレだ。何と言うか、頭の回転が今一つ鈍いせいで複雑な事は良く分からないが、少なくともおっぱいが極めて理に適っているという事実は疑う余地も無い……つまりはそういう事なのだろう。

 

 …………。

 

 俺の思考が目の前のヴィーナスに流れているかも知れない、という事を思い出したら自然と混乱が治まった。代わりに、得も言われぬ寒気を背筋に感じた。勿論、良い意味では決してない。

 良し、誓おう。俺はもう邪な事を考えないという事を、ここに誓おう。そうでなくとも取り敢えずこの場では自重する方向で。どうでも良い。

 俺は胸から目を逸らしたかった。

 

 しかし、胸で思い出したが先程の光が大分凄い事になっているような気もする。夜だというのに彼女の周囲だけ昼間のように……とまでは流石にいかないが、それでも早朝くらいの明るさにはなっているように思える。

 いや、微妙に違う。昼間だとか早朝だとか、この光の持つ明るさはそういった広域的なモノではない。何と言うかこう、非常識に局地的であると言うか、コンパクトに纏まっていると言うか、光がそこに集められていると言うか……収束している、と言うか。手の平に光が集まっているというよりは光の方が手の平の形を成しているといった方が納得し易いような気がする。

 

 現実から目を逸らすのも好い加減鬱陶しいと思ったので、若干後ろ髪を引かれつつも視線を胸元から光の方へとずらす。明度の違いから目を焼かれてしまう危険性を考慮して細目で様子を窺っていたが、どうやらそれは杞憂だったようで俺の目に負担が掛かる事は殆ど無かった。

 明るいのに眩しくない。優しい光、まさかそんな不可思議なモノが本当に有るとは思っていなかった。……今更だとは思うが。

 

 この光は彼女の優しさなのだろうか。

 

 まるで意味が分からない。今の自分の心理状態を表すのに、これ程適切な言葉も他に無いと思う。確かに今までも相応におかしな事は起こっていたとは言え、それ等の持つ違和感は冷静に考えれば不自然に見える、という程度の極々小規模なモノでしかなかった。

 しかしコレは違う。明らかに、誰の目から見てもコレは明らかに異常な状況であると分かる筈だ。分からない奴は恐らくそいつもちょっとかなりおかしいと思う、多分。

 いや、現代の科学から多少力を借りればこの状況を再現する事自体は然程難しくないのかも知れないが、それにしたって依然不自然ではあるだろう。単独でその準備を整えられるとは到底思えないし、そこに俺が巻き込まれているのもおかしいし、そもそもそんな事をしようとする理由が分からない。

 

 理由……そうだった、理由だった。

 そう言えば俺、理由は考えない事にしたんだったか。分からない事は分からない。そうやって単純に捉える方が正しい事だって有るのだから。……問題は、今の状況を単純に捉えるのは果たして本当に正しい事なのか、という事なのだが、まあ、その辺りはなあなあで済ませても良いだろう、多分きっと恐らくは。

 

 光が強くなる。それに比例して、彼女の持つ存在感が再び重さを帯びてくる。セミロングの黒髪が重力から解き放たれるようにしてふわりと宙に舞い上がり、腰の少し上辺りに引っ掛かっていたローブの裾がはたはたと音を立てて揺れる。それによって服の形が少し乱れ、へそが露出してしまっているのが見えた。

 ……うん、そこまででお願いします。そこで止まって下さい。それ以上はいけない。そこから先はアウトゾーンです。Uターンでお願いします。いや本当にマジで。これ以上はいけない。主に俺の精神衛生的な理由から。

 

 何と言っても、一応秘匿されているとは言えブラックボックスの中では比較的オープンな筈の上半身でさえアレだったのだ。どうしてそんな過剰に反応してしまったのかは分からないが、何にせよそこを下半身なんてモノが見えてしまったら……ウワァーッ!! だったら見なければ良いだろうとか思うかも知れないが、見えないのと見ないのは全くの別物なのである。

 机に漫画を置いたら途端に勉強が捗らなくなってしまうのと同じ。何時だって人類の敵は人類自身だった。即ち自分の種族が敵で、自分は人間で、だから自分の敵も自分、と。人間は自分、が真だったらまさに完璧な論理と言って良かった。

 つまり俺もおっぱいの魔力に踊らされた犠牲者の一人だったという訳だ。もしかしたらそう、人類が一丸となって立ち向かうべき本当の敵はそんなところに潜んでいるのかも知れない。

 

 しかし、彼女は一体何をしようというのだろうか。いくら考えるのを止めるとは言っても、当たり前だが本当に何も考えなくなってしまうという訳では流石にない。そういう事が出来る人が居ないという事は無いのだろうが、取り敢えず今の俺にはひっくり返っても出来ないと思う。

 それとも、死んだら出来るようになるのだろうか。人が死んだらどうなるかという事……彼女ならば、それも知っているのだろうか。

 

 光から目を離し、視線を上向きに調整する。

 彼女が何をしようとしているのか。たとえそれが分からなくても、彼女が今どんな顏をしているのかを見れば一先ず感情だけは読み取れるだろうと思ったから。

 

 しかし。上向きに調整しようとして、情けない事に俺の視線はそのまま空の方へと伸びていった。

 

 結果的に。彼女の感情を読み取れる……俺のその予想は間違ってはいなかった。かと言って正しくなかったという訳でも、まあ、無いとは思う。

 一つ言えるのは俺は間違っていた訳でもなく。そして、また正しい訳でもなかったという事。何か間違いが有ったとしたら、それは彼女によるモノか、そうでなければ彼女にもどうにも出来ないような、そんな何か。

 つまり俺は役立たずだった。そしてそんな些細な事なんかどうでも良くなってしまう程度には、その間違いは大きかったのだ。

 

 光の粒子が立ち昇る。その小さな明かりは先程のそれとは違い、周囲を仄かに、しかし確かに照らし出していた。

 どの光も凡そ数メートルばかり進んだ辺りで蒸気のように掻き消え、その命を儚く散らしている。その光景は酷く幻想的で、言葉ではとても言い表せない程に美しく……それでいてどうしようもなく心を掻き毟られてしまうような、そんな言いようの無い不安定さを孕んでいた。

 何故か。心の何処かで見てはならないと、何故か理由も無くそう思いながら、次々と現れては消えていくそれの大元を俺はゆっくりと辿っていく。それは視線をちょっと下に向けるだけで終わる、単純で簡単な作業。だというのに、俺は自分でもいらいらするくらいの速さでしか目を動かす事が出来なかった。

 

 彼女は、端的に言うと変な顏をしていた。

 

 或いは、無理にでも笑おうとしていたのかも知れない。無理に笑おうとしたせいで表情が歪になり、それで変な顏に見えてしまっていたのかも知れない。いや、それでも彼女の美しさが全くと言って良い程崩れていないのは逆に凄いと思うが。

 一体どういう意図が有ってそんな行動に出ているのかは分からない。自分の感情を上手く誤魔化す為にやっているのかも知れないし、俺に何かを伝えたいのかも知れないし、もしかしたら単純に何か面白い事でも有ったのかも知れない。

 何にせよ、今の彼女が何らかの理由で無理にでも笑う必要に駆られている、という事には概ね誤りが無いと言えた。

 

 ふと、彼女と視線が合う。

 表情が崩れる。引き攣った笑みのようなモノは更に歪み、なまじ美しさが損なわれていないせいでより一層その様子が際立ってしまっている。そんな彼女を見ているとどうにも底知れない迫力を感じると言うか、心理的にのしかかってくるような感じがすると言うか、何となくそんな気がするように思えた。

 

 暫し、互いに見つめ合う。彼女は目を逸らさない。そして俺もまた、彼女から目を逸らす事は無かった。

 気付いている。俺は気付いている。

 今の自分が正常でないという事に、俺は気付いてしまっている。

 

 何かがおかしい。具体的な事は分からずとも、何かがおかしいという事には暫く前から気付いていた。

 いや、違う。たった今気付いた。おかしいのは俺の心だと。

 

 もしくは俺の脳。先程からずっと、まるで思考にフタでもされてしまっているかのような気味の悪い閉塞感に俺は煩わされている。

 何かが有った。何か、少し前までは感じていた強い「何か」の気持ちが有った。しかしそれが何だったのか、俺はそれが思い出せない。思い出そうとすると思考が乱れる。思い出そうとすると、どうしてかその途端におつむの方が弱くなってしまう。

 それを偶然と割り切るのは俺には難し過ぎる。たとえ深く考えないと決めていたとしても、これだけは決して譲ってはならないように思えた。

 

 今すぐ彼女から目を逸らしたい。目を逸らして、目蓋も閉じて殻に閉じこもってしまいたい。心の片隅で俺がそう考えてしまうのも恐らくそこが関係しているのだろう。

 だから逸らさない。ここで目を逸らしたらその「何か」も一緒に終わってしまうような、根拠も理由も無くそんな気がしたから。

 

 人気の無い夜の裏通りで二人の男女が熱い視線をぶつけ合う……何だが良く分からないが、状況が状況ならばそこはかとなく禁断っぽいかほりのする恋人同士の逢瀬に見えなくもないような。不思議と、絶対に似合わない筈なのに、この場には何処かそんな雰囲気が漂っているように感じられた。

 あーあ、本当にそうだったら良かったのに。無情だなあ。

 ……等と、こんな時になっても馬鹿な事を考えていたのがいけなかったのか。或いは、そんな事は全く関係が無かったのか。

 

 突然。彼女の視線がこちらを睨み付けるような剣呑な色を孕んだモノに変化した。




 中途半端なところで切れていますが仕様です。仕様という名の小細工です。



 次回更新予定日 一時間後

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