魔法少女リリカルなのは―流水の魔導師―   作:竜華零

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ハーメルンにスマホで入れなくなった件について……ど、どうすれば。
というわけで、2個目の士官学校編です。
シリアスばかりなのもアレなので、少しシリアスから離れようとしてみました。
では、どうぞ。


士官学校編②:「新暦60年8月13日」

 

 ――――新暦60年8月13日、第1世界「ミッドチルダ」南部ブリセント地方。

 都会的なミッドチルダ中央区画と牧歌的なアルトセイム地方の間に位置する地域であり、近代的な部分と牧歌的な部分が混ざり合った独特の風情を持つ地域である。

 人口密度は比較的低く、都会の喧騒から距離を置きかつ交通の便が良く暮らしやすいため、ミッドチルダの高所得者が好んで住居を設ける地方でもある。

 

 

「あー……相変わらず遠いな、家」

「そうか?」

「北から南に公共交通機関オンリーで行けば、そりゃ遠く感じるよ……あー、腰痛い!」

 

 

 そしてその日、ブリセント地方の区画の一つに、3人の少年少女が降り立った。

 水と微量の化学触媒で作られる燃料で動く自動車(モーターモービル)のバスから最後尾の少女が飛び下りるように地面に着地すると、バスは鈍い音を立てて次の停留所へ向けて発進した。

 

 

 バスから降りたのは3人、しかし3人共が深い紺色の局員服に似た制服を着ていた。

 男子は詰襟、女子はタイトスカートである。

 10歳前後の黒髪の男の子と、同い年くらいの水色の髪の男の子、そして彼らよりは若干年上のようだが、しかしまだ「女の子」の面影を残す癖っ毛の少女。

 

 

「まぁ、とにかく行くぞ」

「えー、まだ歩くのぉ?」

「こっから10分くらいかねぇ……何しろ、家と家の間隔が広い上に敷地がデカいからな」

 

 

 水色の髪の男の子、イオス・ティティアが周囲を見渡すと、確かに家と家の感覚は広い。

 クラナガンの住宅街の密度を思えば、家々の間が100メートル単位で開いているここは田舎と言って良いかもしれない。

 幹線道路が整っているが、しかし自然と溶け合ってもいる。

 ここは、そう言う地域だった。

 

 

「まぁ、家とは言ってもそれ程の愛着があるわけじゃない。僕達が訓練校に入ってから引っ越したから、日数的には士官学校の寮の方がよほど思い入れがあるな」

「自分から行きたいって言っておいてアレだけどさ……それってどうなの?」

 

 

 そしてニコリともせずにそんなことを言うのは、黒髪の男の子クロノ・ハラオウン。

 その様子を苦笑とも呆れとも取れる表情で見つめるのは、彼の後をついて歩く少女エイミィ・リミエッタ。

 この3人は共に士官養成学校ミッドチルダ本校の同期であり、比較的行動を共にすることが多かった。

 

 

 ただ今は、3人共が――中でもエイミィが――大き目の鞄を抱えていて、雲ひとつない青空と太陽の下を歩いている。

 若干の斜面なのは、ここが山岳地帯に近いからだろうか。

 まぁ、行動を共にするとは言っても……今日に関しては、少し様相が違うようだが。

 

 

「けど、本当に私も行って大丈夫なの? 迷惑じゃ無い?」

「それこそ、自分で行きたいと言った人間の台詞じゃ無いな……」

「まぁ、女友達連れてった方がリンディさんも喜ぶだろ」

「……どうしてだ?」

「ちょ、イオス君。変なこと言うのやめてくれるかなー」

 

 

 そうこうする内に、白い清楚な作りの家が見えて来た。

 坪数などはわからないが、一般の住宅に比べてかなり大きいと言うことだけは言える。

 何しろ、良く手入れされている庭には……小さいながらも、白い石造りと青のタイル状の石で作られたプライベートプールがあるくらいなのだから。

 

 

「でか……」

「そうか?」

「お前、その何でも無感動な所、マジでどうにかした方が良いぞ?」

 

 

 朝から晩まできっちりと全てのスケジュールが定まっている士官学校にも、長期休暇と言う物は存在する。

 つまり何が言いたいのかと言うと、今がまさにその時であり……。

 

 

「母さん、ただいま――――」

 

 

 とどのつまり、彼らはクロノの実家に帰省しているのであった。

 エイミィにとっては、遊びに来たということになるが。

 要するに、休日である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「はいはい、ごめんなさいね。大した物は無いんだけど」

「い、いえ……ありがとう、ございます」

 

 

 ――――ハラオウン家のリビングに、穏やかな女性の声が響く。

 バスの都合で少し遅くなってしまったが、それでも十分に温かな昼食が広いテーブルの上に並べられている。

 季節の野菜のサラダや地鶏のロースト、温かな野菜スープと自家製の丸パンなど。

 

 

 ささやかだが、愛情が深く込められた料理の数々だとエイミィは思う。

 たぶん、いや絶対に久しぶりに帰って来る息子達のために用意したのだろうとわかる物だ。

 はたして自分が食べて良いのだろうかと、そんな遠慮を覚えてしまうのである。

 ……予想以上に、クロノの実家が「良い家」だったのも影響しているのかもしれないが。

 

 

「エイミィさん、パンは食べるかしら?」

「は、はい……頂きます」

「……どうしたエイミィ、そんなに緊張して」

「ば、ばかっ、話しかけないでよ!」

 

 

 不思議そうに首を傾げながらスープをつついているクロノに適当に返しつつ、本物だぁ……と、エイミィは優雅に大きな丸パンを専用ナイフで切り分けている緑髪の女性を見る。

 長い緑の髪を頭の後ろでまとめて背中に流し、10歳の息子がいるとは思えない程に張りのある肌。

 袖のやや短い膝丈のクロッシュ編みのチュニックに、淡い色合いのパンツ。

 ……一言で言って「優雅な昼下がりの貴婦人」、美人である。

 

 

 この女性がクロノの実母でイオスの養母、そして……士官学校生であるエイミィから見れば雲の上の階級の人間である。

 クロノ達がどうかは知らないが、エイミィは割と雑誌なども読む方だ。

 なので目の前で自分のためのパンを切り分けてくれているこの女性が、「管理局で活躍する女性士官100選」などの特集で必ず上位にランクする程の辣腕を振るっていることも知っているのだった。

 

 

(これで緊張しない方がおかしいよ……!)

 

 

 エイミィは思う、仕事と子育てを両立している大人の女性だと。

 しかも柔和な微笑みで自分にパンを乗せたお皿を渡してくれる、そんなことをされたら。

 ……憧れざるを、得ないと。

 

 

「私もいつか、あんな風になりたいなぁ……」

「無理だと思うぞ。お前、リンディさんがどんだけ出来た人か知ってんのかよ」

「うるさいなぁ……」

 

 

 昼食後、リンディへの憧れを口にしたエイミィにイオスが呆れる。

 実際、イオスから見てもリンディは「出来た人」だった。

 いろいろな都合で養って貰っている身だ、頭が上がるはずも無い。

 例えそうでなくても、イオスとしても尊敬の念を抱かざるを得ない。

 今も、自分達の帰省に合わせて忙しい中で休暇を取ってくれているのである。

 

 

「正直、あのレベルになろうと思ったら……はぁ」

「良いなぁ……クロノ君、あんな素敵なお母さんがいて」

「……」

 

 

 溜息を吐きながらリンディを褒め千切る2人に対して、クロノは無言だった。

 表情は動いていないが、単純に照れているのだろうと2人にはわかる。

 クロノが母親のことを慕っているだろうことは、良く知っているから。

 

 

「はーい、食後のお茶ですよ」

「ひゅ――ぅっ、待ってました!」

「…………はぁ」

 

 

 食後のお茶、まぁ、普通だ。

 しかしそれを聞いたイオスははしゃぎ、逆にクロノがテンションを落とす。

 初めてのエイミィにはわからない、何がここまで明暗を分けるのか。

 

 

 そして、エイミィは見た。

 

 

 奇妙な形をしたカップ……だろうか、細長くて厚みのあるカップだ。

 その中に緑色をしたお茶が注がれて――ポッドも奇妙な形――そこまでは、まぁエイミィにも理解できた。

 しかし、そこからだ。

 ミルクと、砂糖……そう、ミルクと砂糖、だ。

 

 

「はい、どうぞ召し上げれ」

 

 

 そして、目の前に置かれる。

 まさかリンディ・ハラオウンの茶が飲めないとは言えない……言えない、が。

 

 

「うめぇ――……! 寮で自分で作ってみてもこの味が出せないんだよな……!」

「あらあら、ゆっくり飲んでね?」

「うっス!」

 

 

 美味い、のだろうか。

 グビグビ飲むイオスをリンディは頬に手を当てて嬉しそうに見ているが、本当に美味しいのだろうか。

 エイミィには判断がつかないが、しかしクロノは手をつけようとはしない。

 それを、リンディが寂しそうに見つめているのが印象的だった。

 さらにその視線が、今度はエイミィに向けられる。

 

 

(こ、これは……!)

 

 

 クロノが視線で訴える、無理はするなと。

 されどしかしと、エイミィは視線で「否や」と応じた。

 憧れのリンディに淹れて貰ったお茶、飲めないとは天地が引っ繰り返っても言えない。

 

 

 意を決して、カップを手に取るエイミィ。

 その中に何が放り込まれたのか、自分の目で見ている。

 味が想像できない、しかし飲む。

 ――――女は度胸、エイミィ・リミエッタ、行きます!

 

 

「………………」

「え、エイミィ?」

 

 

 固まったエイミィに、クロノが初めて心配そうな顔をした。

 一気に飲み干したエイミィは、笑顔で――しかしぎこちない動きで――クロノを見た。

 そして、右手の親指を上げた後。

 ……椅子ごと、横倒しに倒れた。

 

 

「え、エイミィ――――ッ!?」

「あ、あら? お砂糖が多かったのかしら……?」

「いやリンディさん、きっとエイミィはミルクの方が好きだったんですよ」

「まぁ」

「違う!!」

 

 

 倒れながら、エイミィは思った。

 ……角砂糖10個とミルク6杯は、無理……。

 

 

 ――ピンポーン――

 

 

 リビングが阿鼻叫喚の地獄絵図(ただし、一部のみ)に変わっている時、呼び鈴がなった。

 誰かお客様が来たのだろうか、リンディの意識がそちらへ向いた。

 それを僥倖として、エイミィはクロノに洗面所へと連れて行って貰うのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 エイミィが何とか回復してリビングに戻った時、彼女は再び固まることになる。

 何故ならそこには、リンディ以上に雲の上の存在がいたからだ。

 紳士然とした立ち居振る舞いに、ラフな服装をしかし優雅に着こなす初老の男性。

 

 

「ああ、エイミィ。こちらギル・グレアム提督。近くに来たとかで、わざわざ寄ってくれたそうだ」

「はは、クロノ君やイオス君の顔も見たかったからね。初めましてかな、お嬢さん」

「あ…え、えと、はい! 士官候補生、エイミィ・リミエッタであります!」

 

 

 クロノの紹介の言葉の後、リンディと同じような柔和な微笑みを浮かべるその男性にエイミィは慌ててその場で敬礼した。

 それはほとんど反射のような動きで、テーブルで向かい合って座るリンディなどは苦笑を浮かべている。

 しかし、エイミィがそうしてしまうのは仕方が無いことだった。

 

 

 ギル・グレアム提督――――艦隊司令官を始めとする管理局の要職を歴任した重鎮中の重鎮である。

 現在も顧問官として局に対して影響力を持ち、その発言力はかの最高評議会や伝説の三提督も無視できないものだとも言われている。

 経験・実績・人望、どれをとっても管理局の偉人列伝に乗ってもおかしくない、エイミィ達士官学校の生徒にとっては大先輩中の大先輩である。

 

 

(そ、そんな人と知り合いとか、聞いて無いよクロノ君――――!)

 

 

 興味本位でついて来たのだが、やはりやめておけばよかったかとエイミィは後悔する。

 もう、彼女の精神は今日一日でガリガリと削られていた。

 緊張と気疲れで、胃に穴が開いてしまいそうだ。

 

 

「ふーん、貴女がエイミィ?」

「ふぇ!? え、あ、はい!」

 

 

 不意に、横から声をかけられてエイミィは飛び上がった。

 気配に気付かなかった、と言うより存在感が無かったと言うべきか。

 いきなり横に現れた女性に、エイミィは驚きとともに冷静に観察もしていた。

 

 

(あ、この人……使い魔?)

「そうだよ、詳しいね」

「は、はぁ……あれ? 私いま口に出してましたか!?」

「ロッテ、あまりからかうと可哀想」

「あはは、ごめんごめん、アリア。でも気になっちゃってさぁ」

 

 

 ロッテ、アリア……ショートヘアとロングヘアの、そっくりな女性が2人いた。

 使い魔だと判断したのは魔力の感覚と、後は彼女達に猫の耳と尻尾があったからだった。

 ちなみに、ショートヘアの――ロッテの足元では、少年が1人倒れて踏まれている。

 

 

「こ、この2人はグレアムの爺さんの使い魔だエイミィ……素体は猫、ちなみに双子だ」

「グ、グレ……ッ、爺さん!? ちょ、イオス君……!?」

「はは、構わないよお嬢さん。イオス君達とは赤ん坊の頃からの付き合いだからね、キミも固くならなくて良いよ」

 

 

 地位と階級を弁えないイオスの言動に驚くエイミィ、しかし当のグレアムはニコニコと笑っている。

 まるで、元気のいい孫を見るかのようだ。

 正直、エイミィはもう一杯一杯だった。

 それはそれとして、何故イオスはロッテに踏まれているのだろうか。

 

 

「だって、私達を見た瞬間に逃げようとするから」

「そ、それは誤解だぜお師匠、俺は単純にお師匠に会えた嬉しさを走りで表現しようとしただけで」

「お、お師匠?」

「ああ、その2人は僕とイオスの魔法の師なんだ」

 

 

 さらなる衝撃の事実、クロノとイオスには使い魔の師匠がいた。

 しかもその使い魔はグレアム提督の使い魔で、クロノ達の士官学校での成績を考えるとかなり優秀な使い魔であることが伝わってくる。

 事実、今もイオスを立たせずにポイントを押さえた踏み方をしている。

 

 

「ふぅん……」

 

 

 そんなロッテにジロジロと見られて、何だかエイミィは無駄に緊張してしまっていた。

 無意味に直立不動になり、表情が固くなる。

 そんなエイミィを見てどう思ったのか、ロッテはにやりと笑って。

 

 

「……で、この娘はどっちの彼女なの?」

「ふぇ!? か……かの!?」

「クロノです、お師匠」

「まぁ♪」

「違う! 母さんも目を輝かせないでくれ!!」

 

 

 そこまで否定しなくとも……と若干複雑な気持ちになったエイミィではあるが、それよりも先に踏まれながら親指を立てているイオスを睨む。

 彼はヘラヘラと笑いながらこちらを見上げているが、そんな彼に対して。

 

 

「イオス? そんなに私達のスカートの中が気になるの?」

 

 

 ――――ガツンッ!

 アリアの言葉に、イオスは自ら勢い良く床に額を打ち付けた。

 そしてそのまま動かない、もう全身で「違う」とアピールしていた。

 ……確かに2人が着ている黒の制服のスカート丈は、太腿までで極めてミニだが。

 

 

「ふぅん、クロノには彼女がいて「違う!」、イオスは私達のスカートが気になって「違うからな!」、士官学校に行って随分と成長したんじゃない?」

「そうかも。最後に稽古つけたげたのって、何年前だっけ」

 

 

 ビクリ、イオスはロッテの足の下で震えた。

 この流れは不味い、非常に不味い。

 

 

「うん、せっかくだし。久しぶりに稽古つけてあげるよ。クロノ、イオス」

 

 

 快活に笑いながらそう言うロッテ、クロノとイオスは「やっぱり……」と項垂れていた。

 ……エイミィは、相変わらず事態の変化についていけていなかったが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「5歳くらいの時だったかな……あの2人がうちに来てね、魔法を教えてほしいって言って来たの」

「は、はぁ」

「その時はロッテがボコボコにして家に帰したんだけど、しつこくて。追い返す内に修行みたいになっちゃって、そのまま……って形かな」

 

 

 プライベートプール付きの広い庭、そこで2人の男の子と猫耳の少女が組み手を行っていた。

 エイミィは庭先の椅子に座って――リゾート地にあるような立派な物だ――リーゼアリアから、リンディお手製では無い普通のお茶を頂いていた。

 茶飲み話は、2人の幼少期の話だ。

 

 

 ……2人の父親が、かつてロストロギア事件で殉職したことは良く知られている話だ。

 特にリンディなどは局内でも有名なので、嫌でもそう言う話題が出て来る。

 あの2人も、特に隠そうとしていないからだ。

 ただ、詳細についてはエイミィも知らない。

 話題にするにしては、どうしても重い物だからだ。

 

 

「イオス、そっちに回りこめ!」

「良し来た! 任せろ相棒!」

 

 

 エイミィが見ている前で、2対1の組み手が激しさを増していく。

 ただ多数の側が必死なのに対し、少数の側はどこか余裕を残している風だ。

 無論、余裕を見せているのはリーゼロッテで、余裕が無いのはクロノとイオスだ。

 

 

 エイミィも、クロノとイオスが様々な形で模擬戦をしたり組み手をしたりするのを見ている。

 実技や教練の講義においては、2人はかなり上位の方に入る。

 クロノなどは学科と合わせて首席だ、だから士官学校で2人が敗北したり苦戦したりと言うのはあまり見ない……のだが。

 

 

「でええぇぇぇいっ……って、だ!?」

 

 

 側面から摺り足のような踏み込みで拳を繰り出したイオス、しかしその拳は空を切るのみ。

 残像でも残りそうな速度での移動、ロッテはと言えば地面に手をついてイオスの足を払っていた。

 イオスが手をついて地面との衝突を避けると、イオスがその動作をする間にロッテは体勢を変えて。

 

 

「はい、一回死んだー」

「え、ちょ、お師……うおおおおおっ!?」

 

 

 ぽーいっ、まさにそんな擬音でもつきそうな勢いでプールに放り投げられるイオス。

 彼自身の重みで水柱が立つと同時、身を低くしつつクロノが突貫する。

 元よりイオスは囮、訓練ではトドメを適当にするというロッテの隙を突くのだ。

 

 

 ……突ければ、だが。

 そして突けない、そう言う物だ。

 確かにロッテには隙がある、だがそれはロッテがそうしようとしているだけであって。

 クロノが気付いた時には、目の前にいたはずのロッテの背中が消えた。

 

 

「な――――!?」

 

 

 驚き、プールの縁に踏み止まる形で止まる。

 そして、制動をかけたそんな彼を。

 

 

「はい、死んだー」

 

 

 蹴り落とした。

 再び上がる水柱、ロッテはプールの縁に上がって来たイオスの頭を踏んで。

 

 

「ちょっとどう言うこと? 魔法無しだからって、コレは無いでしょ」

「いや、あのお師匠? ちょちょ、危ない危ない……落ちる落ちる」

「今この状態で、イオス死んだの何回目? ちょっと言ってみてくれる?」

 

 

 ……クロノとイオスが、手も足も出ない。

 そんな状況を、エイミィは初めて見たかもしれない。

 士官学校の教官相手の組み手でも、2人はもう少し形に出来ているのに。

 

 

「ロッテったら、あんなにはしゃいで」

「え、いやあの、放っておいて良いんですか?」

「うん、いつものことだから」

「いつも……」

 

 

 ――――あー! ちょ、お師匠ヤバい! それ死ぬ、マジで死ぬからーっ!

 ――――おいロッテ! それは組み手の範疇を超えて無いか!?

 ――――はい死んだの10回目ー。

 

 

「……いつも?」

「いつも」

 

 

 ふんふん、と頷いて来るアリアに、エイミィは苦笑いしか返せない。

 それをおかしそうに見つめながら、アリアはロッテ達の方を見て。

 

 

「……クロノ、良く表情が変わるようになった。きっと、良い子達に出会えたんだろうね」

 

 

 アリアのその言葉を聞いて、エイミィは、ああ、と思った。

 この人達は、本当に昔から彼らのことを知っているんだ、と。

 実際、エイミィは入学当初のクロノのことを覚えているが……イオスの前以外では、まるで表情の動かない子供だったことを知っている。

 

 

 今では、自分や同期生の前で表情を変えてくれるようになっている。

 もしかしたら、ロッテが「はしゃいで」いるのはそのあたりのこともあるのかもしれない。

 それにしても、はしゃぎ過ぎだと思うが。

 

 

「仲良くしてあげてね、あの子達と」

「……はい」

「何なら本当にクロノの彼女に」

「いや、それはちょっと……」

 

 

 まだ、という言葉を飲み込んで。

 エイミィは、優しく微笑するアリアに頷いて見せた。

 ……BGMが、2人の男の子の悲鳴と言うのはアレだったが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あー……湯がしみるぜ」

「まったくだ」

 

 

 声が反響して、広い浴室に響く。

 大人が何人も入るには多少の手狭さを感じるだろうが、10歳の子供が2人や3人入るくらいは十分な広さ。

 そんな中に、イオスとクロノはいた。

 

 

 ロッテとの組み手の後、汗やら泥やらを流すために早い入浴をすることになったのである。

 グレアムが来ている中で恐縮する気持ちもあったが、当のグレアムが泥だらけで戻って来た2人を見て入浴を勧めてくれたのだ。

 なので、その言葉に甘えることにした。

 

 

「やー……少しは打ち合えるかと思ったんだけど、全然だったな」

「仕方無い、基礎体力からリーチの長さまで差があり過ぎる。もう少し身体が育たないと、どうしようも無いな」

「はは、成長が今で止まったりしてな」

「まさか」

「だよなー」

 

 

 湯船の中で苦笑するクロノ、シャワーで身体を洗っているイオスも笑う。

 しかし実際、彼らはまだまだ師には及ばないと言うことがわかった。

 及ばない所か、相手にもされない。

 それがわかっただけでも、僥倖と言う物だった。

 

 

「……お師匠に勝てないようじゃ、次元犯罪者やらロストロギアやらに勝てるわけねーもんな」

「……ああ」

 

 

 キュッ……とシャワーのノズルを締めて、イオスが言う。

 勝てるわけが無い、そう、及ぶはずも無い。

 彼らの目的を遂げるには、まだまだ何もかもが足りないのだ。

 実力も実績も、技術も経験も、何もかもが。

 

 

 濡れた髪をかきあげて、イオスが湯船の中で目を閉じているクロノを見る。

 「まぁ、何とかやってこーぜ」と、そう言おうとしたのだ。

 しかしその瞬間、予想だにしない展開が彼らを襲うことになった。

 

 

「おーい、クロノ、イオス。ちゃんと耳の裏とか洗ってる?」

「どぅおぉあああぁ――――!?」

「わぷっ!?」

 

 

 浴室の扉が開いた瞬間、イオスはクロノのいる湯船に飛び込んだ。

 いかに広いとはいえそこは湯船、クロノは頭から湯をかぶるハメになった。

 しかし、今はそんなことを言っている場合では無かった。

 

 

「……湯船で素っ裸で絡まり合って、何してんのアンタら」

「昔からべったりだと思ってたけど、まさかそんな趣味だとは……」

「違う!」

「つーか、お師匠達なにしに来たんだよ!?」

「何しにって……見ればわかるでしょ」

 

 

 わからない、何故ならイオスは浴室の扉とは反対側の壁をひたすらに睨んでいるからだった。

 なので見れない、よってわからない。

 そうしていると、顔の両側からにゅっと細く白い女の腕が伸びて来た。

 そしてそのまま、濡れた髪に何か温かな感触。

 

 

「すんすん……あー、やっぱりリンス適当にやったな? 昔っから髪洗い適当なんだから」

「ひ――――っ!?」

「あ、こら暴れるな。昔は良く一緒に入ったじゃん、恥ずかしがるなよー」

 

 

 タオルの感触はある、良かったと思う最悪だとも思う。

 向こうからこちらがどう見えているかはわからないが、イオス達もすでに10歳。

 微妙なお年頃、いかに姉貴分の師と言えども恥ずかしさを覚えてしまうのである。

 

 

 そしてこの時、クロノは戦略的撤退の判断を下した。

 バスタオル一枚のリーゼロッテがイオスの方に意識を向けている間に、自分は離脱するのだ。

 卑怯では無い、これは知略だ。

 そうと決まればと、クロノは勢い良く湯船を出ようとして――――柔らかな物にぶつかった。

 タオル越しではあるが、張りのある豊かな感触。

 

 

「あら、クロノ。おませさんだな」

「……ッ!?」

 

 

 もはや言葉にならない、そこにいたリーゼアリアから離れる。

 まぁ、湯船の端から端などそれほどの距離では無いが。

 

 

「な、なななな……!」

「まぁロッテがどうしてもってね、我慢してやって。あ、私のことは気にしなくて良いから」

「気にするわ!」

 

 

 確かに幼少の頃は訓練の後にお風呂に放り込まれたこともあるが、流石にこれは違うだろう。

 横ではすでに湯船から引き摺りだされた(比喩でなく)イオスが、ロッテの手によって髪を洗い直させられている。

 次は自分かと思うと憂鬱になるが、まぁ多少の我慢は……。

 

 

「クロノ君、イオス君、何かおば様がタオル切れて無いかって……あ」

「「「「あ」」」」

 

 

 その時になって気が付いたが、浴室の扉がまだ開いたままだった。

 なので、本来ならば視界に入らない物がタオルを抱えて持ってきたエイミィの目にも入って来た。

 彼女はまずクロノとイオスの姿を見て悲鳴を上げかけるが、しかしリーゼ姉妹の姿を認めると。

 

 

「な、ななな、何してんの――――――――っ!?」

「「誤解だ――――っ!?」」

 

 

 阿鼻叫喚。

 そんな四文字が当て嵌まるような状況の中で、いくつかの悲鳴と怒声、それから笑い声が響いた。

 これが、ハラオウン家の日常。

 クロノとイオスの、今の現実なのだった。

 

 

 ――――本人達にとっては、やや不本意な点もあるようだが。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 家中に響き渡る賑やかさの中に、女の淑やかな笑い声があった。

 そろそろ世間の主婦が夕飯の献立について悩む様な時間、ハラオウン家のリビングに広がる微かな笑い声に、ギル・グレアムは目を細めた。

 

 

「ああ、申し訳ありません……見苦しい所を」

「いや、構わないとも。……賑やかなことだ」

「本当に」

 

 

 クスクスと笑い続けながら、声を押し殺しておかしそうに笑うリンディをグレアムは見つめる。

 そしてその翳りの無い笑みを見て、心の奥でほっと息を吐く。

 もうすでに6年以上の時間が経っているとは言っても、忘れるには聊か短い時間だ。

 そして、彼女は忘れると言う行為とは程遠い生き方をしているのだから。

 

 

 だから、こうして自然な笑みを見ると安心するのだ。

 もちろん、それが自分の罪悪感故のつまらない勘ぐりだとはわかっている。

 しかしそれでも、グレアムは気にすることを半ば己の義務と思っているのだった。

 

 

「ああ、はい。それで、お話の続きと言うのは……」

「……うむ。レティ君から近く話があるとは思うが、キミの次元航行艦艦長への就任が正式に内定した。提督としての研修期間を経て、正式に辞令が出るだろう」

「そうですか……」

 

 

 コト、とお茶の入ったカップを置いて、リンディは瞑目した。

 いろいろと思うことがあるのだろう、とグレアムは思う。

 まだ手を付けていない自分の茶の色を見つめながら、グレアムはリンディの胸中を推し測っていた。

 

 

 やっと、と言う感慨か、それとも、まだ、と言う意欲か。

 いずれにしても、彼女は6年以上をかけて追いついたのである。

 かつて、夫が持っていた位階にまで。

 彼女の夫は、すなわち彼の部下だった。

 

 

「……いろいろとお力添え頂き、ありがとうございます」

「いや、私は何もしていない」

 

 

 事実だった。

 事実として、グレアムは彼女の人事に対して何ら手助けをしていない。

 だから今回の昇進は彼女の実力と実績と、そして努力によるものだ。

 お礼を言われるようなことは自分は何もしていない、グレアムはそう思っている。

 

 

 一方でリンディも、彼が他の分野ではいろいろと気を遣ってくれていることを知っていた。

 自分のことはともかく、息子達に関わることではとてもお世話になったと思っている。

 そして、グレアムが礼など求めていないことも知っている。

 だから、それ以上のことは何も言わずに。

 

 

「……お茶のおかわりは、いかがですか?」

「む……まぁ、うむ、では……頂こう」

「はい」

 

 

 ふわりと微笑むリンディに、グレアムは若干の苦笑いを返す。

 彼女が手ずからお茶を淹れる相手は少ない、その意味では光栄に思うのだが。

 しかし、そんな彼をしても……と、言う物はあるのだった。

 

 

 ―――――時は新暦60年8月13日、まだ何も始まっていなかった時代。

 白の魔導師も黒の魔導師もおらず、魔導の騎士も存在しなかった時代。

 いずれ自分達の運命と向き合うことになる少年達は、未だ雌伏の時を過ごしていた――――。

 

 


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